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第 2 章 文化資源・文化遺産概念による資産の把握

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エコ ミュージアム ガイネン ニ モトヅイタ  ブンカ シゲン マネジメント ニ カンスル ケ ンキュウ

村上, 佳代

北海道大学観光学高等研究センター研究員

https://doi.org/10.15017/19757

出版情報:Kyushu University, 2010, 博士(芸術工学), 課程博士 バージョン:

権利関係:

(2)

第 2 章 文化資源・文化遺産概念による資産の把握

 本章では、第 1 章の 1.1 で述べてきた文化資源・文化遺産概念による資産の把握が、

実際山口県萩市とヨルダンハシミテ王国サルト市ではどのように実践されているの か事例研究を行う。

2.1 萩市におけるおたから・都市遺産概念による資産の把握 2.1.1 萩市の事例選定理由

 山口県萩市は、城下町、萩焼、明治維新の志士達を送り出した地として有名な観 光都市である。特に大きな工場があるわけでもなく、主な収入源は観光産業からと なっている。その観光資源となるのは、萩の歴史や文化であり、萩市は日本国内の 中でも早くから、文化財の保護に努め、特に歴史的な景観の保護においては先進的 な取り組みをおこない、国をリードしてきたという沿革をもつ。近年では、おたか ら(本研究における文化資源)・都市遺産(本研究における文化遺産)概念による資 産把握の必要性をいち早く世に問う事例であり、第 5 回文化庁文化審議会分科会企 画調査会 (2007 年 4 月 11 日 ) で委員により「文化財保護の地方分権とは」で報告 されたことをきっかけに、文化庁が全国の同様な調査事例を調べ、文化庁及び国交 省が共に萩市へ 2007 年 9 月 18 日視察へ行き、ヒアリングを行った。文化審議会 文化財分科会企画調査会(第 5 回)議事概要(案)によると、この萩の取り組みが、

後に答申される企画調査会報告書の「歴史文化基本構想」の概念に大きく影響を与 えている。よって本節では、山口県萩市を文化資源・文化遺産概念を国に初めて例 示した事例として位置づけ、選定した。

(3)

2.1.2 事例地の概要

 山口県萩市は、山口県の日本海側に位置し、北は海、南は山に囲まれている(図 1)。

2005 年 3 月に旧萩市と旧阿武郡 6 町村(= 旭村、川上村、福栄村、むつみ村、須佐町、

田万川町)が合併をしたことで、日本海側だけでなく、内陸部にも広がり、広大な 面積を持つようになった。一般的に萩と呼ばれるのは、萩市中心部の旧萩市である、

日本海にそそぐ阿武川下流域の川内注 1)と呼ばれるデルタ地域を指す(図 2)。

 古代、川内と呼ばれる三角州はまだ存在しておらず、周辺の大井地区(図 2 の福 栄辺り)を中心に栄えていた。大井地区周辺には古墳の分布がみられ、金銅製環太 刀柄頭が発見された円光寺古墳や巨大な横穴式の石室をもつ、穴観音古墳等が確認 されており、阿武国を治めていた国造級の政治権力の拠点であった。川内は、古墳 時代以降に形成されたといわれている。

 中世に入ると、阿武川河口にデルタの沖積が進み、国守氏によって川内の土地が 開発され、牛牧(牧場)として発達していくが、やがて大内氏・益田氏・吉見氏の 勢力がおよび、大内氏滅亡後は吉見氏の支配をうけることとなる。

 近世初頭に関ヶ原の戦いに敗れ、毛利氏の入封が決まった後、城下は徐々に整備 され、繁栄しはじめる。以後 1863(文久 3)年に山口に藩庁を移転するまでの約 260 年間、萩は、周防・長門の中心として栄えることとなった。

 幕末期には明治維新の志士達を育てた吉田松陰をはじめ、高杉晋作、桂小五郎(木 戸孝允)等の人材を輩出し、明治維新の胎動地となったが、藩庁の移転に伴ってし だいに衰退し、それ以降は地方都市として歩んでいる1),2),3)

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日本海

瀬戸内海

萩市 山口県

福岡県

島根県

広島県

山口市 防府市

0 5 10km

須佐(旧須佐町)

福栄(旧福栄村)

川上(旧川上村)

(旧田万川町)田万川

旭(旧旭村)

むつみ(旧むつみ村)

川内(旧萩市)

萩市(2010年10月現在)

日本海

( )内は旧市町村名

図 1 山口県萩市の位置

図 2 萩市内地図

(5)

2.1.3 文化財保護、景観保全行政、市民活動の沿革

 萩市における文化財の指定は、1902 年が最初で、建造物に関する指定としては、

旧萩藩所有の施設や、明治維新にゆかりのある建造物等が、萩の歴史に重要な建造 物として保存されてきた。1960 年に萩市文化財保護条例が公布されると、萩市の文 化財に対する関心は急激な高まりを見せ、1960 年から 1965 年にかけてさらに多く の建造物が萩市の文化財に指定され、この期間は、市レベルでの建造物の保存活動 がおこなわれた時期であると言える。1966 年、萩市が国から文化財愛護活動モデル 地区に指定され、同年、「史都萩を愛する会」という市民団体が発足し会報も発行さ れるなど、この頃からは、市民レベルにおける保存活動も行われるようになった1),2),3)

(表 1)。

 景観施策としては、1967 年の呉服町南古萩町の一部が国指定史跡に指定され、さ らに 1972 年「萩市歴史的景観保存条例」を制定し、史跡や建造物とその周囲の自 然環境をも含めた「歴史的景観」を保存・維持管理する補助金の交付を受けた。こ れは、それまで国や県が保存行政の対象としえなかった歴史的な環境の要素を、単 体としてではなく線・面的に捉えていこうとする全国的なうねりの中で、萩市行政 が先進自治体の一つとして取り組んだ新たな施策であった。

 1975 年には文化財保護法の改正により、伝統的建造物群の保護が制度化され、翌 1976 年に萩の堀内と平安古の一部が重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地 区)に選定され、歴史的町並みが広範囲に保護されることとなった。2001 年には港 町の町並みが残る浜崎地区が市で 3 番目の重伝建地区に選定され、武家屋敷のイメー ジの強い萩において、町家の町並みの保存とまちづくりがスタートした1),2),3)。  また 1985 年には、藍場川の街路景観に関わる修景事業を実施し、1990 年には歴 史的景観保存条例を引き継いだ「萩市都市景観条例」を制定、一定規模を超える開 発行為についても届出を義務付けるなど、歴史的景観の保存だけでなく、トータル な都市景観形成 ・ 保全に対象を拡大した。1997 年には、景観形成の目標と施策の体 系を示して景観形成を総合的、計画的に進めることを目的に「萩市都市景観基本計画」

を策定し、2004 年の景観法制定翌年には全国で 10 番目の景観行政団体となり、景 観法に基づく萩市景観条例を制定すると共に景観計画を策定し、地域の特性を生か

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した景観形成を推進している。

萩市は、こうした施策の実現に向けた数次にわたる機構改革にも先進的に取り組ん でいる。まず、1996 年に従来の歴史的景観保全に加え、総合的な都市景観創造に向 け、都市計画課の中に「まちなみ対策係」が設けた。まちなみ対策係では、1998、

1999 年に浜崎地区の伝建調査を行い、2001 年に選定を受けた。まちなみ対策係は、

2000 年に「まちなみ対策室」に昇格し、2000 年から 2002 年にかけて萩市の保存 計画を策定した。さらに、2003 年にはまちなみ対策室は「まちなみ対策課」となった。

 2003 年度より、文化財保護部門を建設・都市計画部門と統合する一方で企画部局 に「萩まちじゅう博物館推進課」を設けるなどを進め、2008 年 4 月には、歴史まち づくり新法の施行を契機とし、歴史的風致を生かしたまちづくりを一層推進するた め、文化財保護課、まちなみ対策課、都市計画課、世界遺産推進課、萩まちじゅう 博物館推進課を統合した「歴史まちづくり部」を新設した。これにより、文化財保 護行政と景観行政、都市計画行政、博物館の連携を強化し、都市遺産の保存活用を まちづくりの中心に据え、関連部門を挙げて都市遺産をマネジメントしていくため の体制を確立している。

(7)

2.1.4 おたからの再発見

 萩市では、都市遺産やおたからという概念に基づき、従来の文化財保護の概念に 必ずしもとらわれることなく、絶対評価によってその価値を顕在化させ、データベー スに登録し、市民や国民の生活文化の向上に活用していくという考え方をとってい る。それは、従来の文化財指定の際のように、高度な学術調査に基づく相対評価によっ て優れたものから順に選んでいく優品主義ではなく、誰にも分かる絶対評価でおた からを拾い上げている。具体的に、萩市では、「生まれて 50 年以上経つもので、真 正性が説明できるもの」という一定の基準を満たすもので市民が登録を望むものを 悉皆(しっかい)的に拾い上げるおたからの発掘を目指している4)。こうした絶対評 価によるおたからの発掘の必要性に萩市が気づいたのは、萩市において、次のよう な調査成果が浜崎地区の伝統的建造物群保存対策調査注 2)に関連して実施された修論 研究5)で報告されたことがきっかけであった。それは、梶本による 1998 年度の自 主調査に基づく修士論文研究注 3), 5)であり、川内注 1)に対する歴史的景観要素の悉皆 現地踏査の成果を報告したものであった。この研究における「歴史的景観要素」とは、

景観を構成するあらゆる物的な景観要素(不動産)の中で、ほぼ戦前までにつくり 出され継承されている歴史的な要素を指し、それらが相互に関係し合い、総体とし て歴史的景観を形成していると考えたもので、伝統的建造物群(以下、伝建)保存 地区制度における保存建造物や環境物件の評価方法を援用したものであった。

 この調査では、まず①近世末期の絵図注 4),6),7)をもとに土地利用や道路等を現在の 地図上に復原し、上級武家地や町人地、寺町といったようなまとまりある歴史的景 観が形成されていることが予測される地区を区分し、既往研究6),8),9)を参考に、萩固 有の歴史的な景観要素を把握した。次に②現在の分布状況を現地調査により抽出し、

分析するというものであった。とくに建築物に関しては、既存の調査成果8)を参考 に歴史的な建造物の残存状況を追跡調査し、新たな物件も確認できるものは追加し た。これら現地調査の結果は、地図にプロットして「歴史的景観要素分布図」とし て示し(図 3)、事前に区分した地区の形成過程を踏まえた上で、地区別に景観要素 の定量的把握とその分布範囲について分析をおこなった。

 これら得られた成果は、市の文化財関係者や文化庁の伝建担当者でさえも驚くほ

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第 2 章 文化資源・文化遺産概念による資産の把握

3 歴史的景観要素分布図例 新堀の内地区(一部)

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堀 内

浜崎 萩城跡

指 月 山 萩博物館 ( コ ア 施設) 江向 平安古

土原 川 島 河添

日 本海 橋 本 川

松 本 川 御許町

旧 松 本 藍場川

呉服町 南古萩町

玉垣 石垣 基礎石 生垣煙突

  水場 井戸

土塀(漆喰) 土塀(荒壁) 土塀(その他) 板塀

鳥居 石碑 石橋 石階段

伝統的建造物 墓地 庭園・樹林地・蜜柑畑

レンガ塀 水路石垣 石柱門 水面 樹木

凡例歴史的景観要素分布図

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どの内容となった。すなわち、伝建制度における特定物件に相当する伝統的建築物 1,604 棟、その他の工作物 2,340 件、樹木等 1,485 件が既知のものも含めて新たに 確認され、その 8 割以上は保護等の対象となっていない物件、つまり価値が周知さ れていない物件であった(図 3、 4)。その指定未満の物件数の多さも、地図上に示 されて視認できる密度の高さも、関係者の日頃の認識を大きく上回るものであった。

さらに要素の分布特性についても、地区ごとの歴史的特性を反映した結果が如実に 表れており、明治期に士族授産のために導入された夏みかん栽培が上級武家地の地 割りや土塀棟の境界装置をよく残す要因となっていることや、寺町、町人地、職人 町にそれぞれの特性をよく残す町家等の建築が良好に残されていることが確認され た。

 また調査により、近世から残され動いていない町家やその礎石、武家屋敷の土塀 や板塀、生垣やそれらの礎石が 9 割を超える歴史的街路において確認できたことか ら、江戸時代より現在まで道筋のみならず道幅までの大半がそのまま維持されてい ることが判明した。これにより、もとから「江戸時代の地図で歩けるまち」と言わ れる町並みではあったが、本当に近世の空間を色濃く残しているという事実が皆の 驚き知るところとなった。

 なお、当該調査の 6 年後の 2004 年に実施された追跡調査10),11) では、新たに驚く べき事実が報告されている(表 2)。先行する梶本の研究(1998)5) で示された歴史 的景観要素が 6 年間のうちにどのような変化を遂げているのか、現状確認調査を行っ た。類型別・地区別にみた完全消失・部分消失・残存といった消失の比率や要因の 分析と、伝建制度や史跡等で法的に保護されている文化財とそうでないおたからの 比較分析を行った。このわずか 6 年間のうちに、川内の伝統的建築物が 1,604 棟か ら 1,434 棟(10.6% 減)へ、その他伝統要素(樹木・塀・垣等)が 3,825 件から 3,460 件(10.0% 減)に減少しており、その中でも、法的に保護されていない歴史的景観 要素だけをみると約 15%も滅失していたのである。それらは、大規模な道路開発や 再開発等によるものではなく、重要性が認識されないことによって、老朽化や相続 による維持の困難を理由として、気付かないうちに消失してしまっている例が多数 という結果であった。文化財保護、景観保全の先進自治体である萩市においてでさえ、

こうしたおたからの激減が数字となって示されたことは、萩市の関係者のみならず、

(10)

全国の文化財保護関係者に大きな衝撃を与えることとなった。

表 2 建築類型別でみた伝統的建築物の総数と消失数 ( )内は%10),11)

9010.8 10.1 74089.1 831100.0

6611.8 00.0 49488.2 560100.0

99.7 33.2 8187.1 93100.0

11.0 00.0 9999.0 100100.0

00.0 00.0 5100.0 5100.0

00.0 00.0 15100.0 15100.0

16610.3 40.3 1,43489.4 1,604100.0

(11)

2.1.5 新たな文化財概念としての「都市遺産」

 萩市では、地域の人々が自らの生活や文化としてアイデンティティを持つと考え るストーリーに名前を与えるという、都市遺産の概念を立ち上げている。これは、

萩市民であれば誰でも訪れた人に説明したい、そして未来に伝えていきたいと考え る地域の歴史や文化、自然や民俗等にまつわるストーリーと、それを証拠づける(そ れを語るうえで欠くことのできない)証拠群(=おたからの集まり)に都市遺産と しての名称をつけ、「都市遺産リスト」に登録することとしている12)

 また、この都市遺産を登録する際には、ストーリーを破綻や過不足が無いように 証拠づける構成資産=おたからが揃っているかどうかを問う「完全性= integrity」

の説明が求められる。この完全性の考え方は、世界遺産条約におけるユネスコの作 業指針12)を参考にしているが、萩市では、世界遺産のように完全性の高さを求める のではなく、できる限り完全性を求めてストーリーを描き、構成資産を拾い集める ことに重点を置く。したがって、都市遺産の完全性を説明するために欠かせない構 成資産は、特別なものでなくとも、後述する絶対評価によっておたからとして登録 する仕組みを採っている。この構成資産については、すでに失われてしまったもの に関する伝聞や跡などの情報も含まれ、現存しているものだけにこだわるのではな く、ストーリーをしっかりと構築することをより重視する考え方である。

 こうしたおたからは、梶本が抽出したような歴史的景観要素はもとより、さらに あらゆる有形・無形、動産・不動産のおたからを含み、これらを、不動産として土 地に根を下ろして動かない「空間遺産」と、その「空間遺産」を舞台として展開す る動産的な「生活遺産」に分類している(図 5)。「空間遺産」はさらに「空間要素」

と「景観要素」に分けられ、「生活遺産」はさらに「有形要素」と「無形要素」に分 けられる。これらを萩市では、継承の主体と意思があることを前提に、誰にでも分 かる一定の基準、すなわち前述の「本物であること」と「一定の時間継承されてき たものであること」の絶対評価に基づいて拾い上げることとしている。例えば、建 築物や樹木のような形として見えるもので、景観を構成しているものは「景観要素」

(不動産・有形)であり、地図上で認識できる歴史的な道すじや地割り(筆界)など 上部構造物等(景観要素)を規定して空間を構成している要素は「空間要素」(不動産・

(12)

無形)となる。萩焼の古い器や古絵図等は「有形要素」(動産・有形)であり、萩で よく見られるリヤカーで魚を売る商習慣や方言、地名などは「無形要素」(動産・無形)

である。

 こうした考え方を導入した背景には、まず、これまでの文化財の既存 6 カテゴリー

(有形・無形・民俗・記念物・文化的景観・伝統的建造物群)にこだわると、拾い上 げることの難しいおたからが生じるということがあった。単体として捉えることが 一般的な有形・無形文化財と、面的広がりや群として捉える性格を持つ記念物・文 化的景観・伝統的建造物群との間に解釈の重複があるなかで、ある物件を有形の建 造物として捉えるか、あるいは伝建群や文化的景観の要素として捉えるかといった 判断は、その単体が国・県・市町村等の指定たり得るかといった相対価値評価抜き には困難なことや、地名や地割り・道筋といった地図上の情報価値を拾い上げるカ テゴリーが無いといったことが、その例である。

図 5 萩の都市遺産・おたからの考え方、筆者一部修正 出典 : 文 4

都市遺産 1

「萩城下町」

都市遺産 2

「明治維新」

都市遺産 n 都市遺産 3

空間要素

景観要素

無形要素 有形要素 空間遺産

生活遺産

【都市遺産リスト】

空間要素 1:おたからの具体名 空間要素 2:おたからの具体名

有形要素 1:おたからの具体名 有形要素 2:おたからの具体名

【おたからデータベース】

【都市遺産カルテ】

都市遺産を構成するおたから

景観要素 1:おたからの具体名 景観要素 2:おたからの具体名

無形要素 1:おたからの具体名 無形要素 2:おたからの具体名

独立したおたから 1 独立したおたから 2 独立したおたから

不動産的な性格をもつ文化資源

動産的な性格をもつ文化資源

道すじ、地割り、航路等

建築物、工作物、樹木等

工芸品、産業、絵図等

祭事、慣習、方言等

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 また一方で、それらカテゴリーの組み合わせでは説明できない、より総合的な把 握の枠組み、言い換えると、新たな文化財概念が必要であると考えるに至った背景 がある。拾い上げたおたからを、保存するだけでなく、市民や民間、あるいは景観 や観光行政等が使いこなしていくには、世界遺産の登録名のような分かりやすいネー ミングが求められ、そのストーリーを証拠づける有形・無形、動産・不動産のおた からがこだわり無く構成要素として結集されていなければならない。そうした必要 性から「都市遺産」の概念が生まれた。

 しかし、これら萩市の考え方は、従来の文化財保護の枠組みを否定するものでは 決して無い。長い歴史の中で積み上げられてきた文化財保護体系としての現在の枠 組みは、「保護の体系(システム)」として優れたものであり、それを今後とも堅持 しつつ、一方で、おたからの価値を拾い上げる(再発見する)ための枠組みとして、

またもれなく拾い上げるために不可欠な誰にでも判別できる枠組みとして、この考 え方を萩市では位置づけている。つまり、市民の手でおたからや都市遺産を拾い上 げ、市民や民間、行政を含む社会全体でそれらをマネジメントしていくことをめざし、

必要なもの、特に重要なものは従来からの文化財保護体系で保護していこうという 考え方である。

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2.2 サルト市における文化資源・文化遺産の抽出法 2.2.1 事例地の概要

(1)ヨルダンハシミテ王国の概要

 ヨルダンハシミテ王国(Hashemite Kingdom of Jordan)(以下、ヨルダン)は、

北側をシリア、南側をサウジアラビア、東側をイラク、西側をイスラエルに囲まれ た国で、面積は 9 万 8,000㎢である(図 6)。国土の 80% 以上が砂漠もしくは荒地 である。7 世紀にイスラム諸王朝の支配を受け、16 世紀にはオスマン・トルコ帝国 の支配下に入った。第 1 次世界大戦後、トルコの支配を脱し、英国の委任統治領と なり、1923 年英国支援の下、シャリーフ・フセイン長子アブドッラーがヨルダン川 東岸にトランスヨルダン首長国を建国した。1950 年には東エルサレムを含むヨルダ ン川西岸地域を占領して自国に編入し、国名をヨルダン・ハシミテ王国と改称した。

1967 年の第 3 次中東戦争でイスラエルに西岸と東エルサレムを占領され、1988 年 には西岸の統治権を放棄した歴史がある。

 ヨルダン国民の大部分はアラブ人で、そのうち約 7 割がパレスチナ系である。人 種は砂漠の遊牧民であるベドウィンを除いて、数千年来この地域に居住していた地 中海人種との混血(ギリシャ人 , エジプト人 , ペルシャ人 , ヨーロッパ人 , 黒人 , サー カシア人 , アルメニア人)が多い。憲法でイスラム教を国教と規定しているが、宗教 の自由も保証されており、国民の 93% がイスラム教徒(スンニ派 90% 以上、ドルー ズやシーア派少数)、7% がキリスト教徒(ギリシア正教 , ローマカトリック , プロテ スタント)といわれている。

(15)

図 6 ヨルダンと周辺国地図

1km 0

Al-Qala 要塞跡

ハンマーム・ストリート

Al-Jadaʼ a Al-Qala

As-Salalem

首都 アンマンへ

×

南北ルート

東西ルート 凡例 サルト旧市街地

図 7 サルト市内地図

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(2)サルト市の概要

 サルト市(Greater Salt Municipality)は、ヨルダンの首都アンマン市の北西 28km に位置するバルカ県(Balqa Governorate)の中心都市である(図 1)。標高 800m の坂の多い町で、三つの丘 (Al-Qala’a〔カラ〕、Al-Jada’a〔ジャダー〕、Al- Salalem〔サラーレム〕) に囲まれ、ヨルダン渓谷へと続くその谷間を、地中海・ヨ ルダン川周辺からイランへと続く東西ルートと、トルコ・シリアからアラビア半島 へ続く南北ルートが走っている(図 7)。これらは中近東地域の貿易の重要な交易道、

巡礼道の一部であり、このためサルトは古くから通商の都市として栄えた。特に 19 世紀後半から 20 世紀前半にかけてはオスマン帝国の政庁舎が置かれ、パレスチナ 西岸地区のナブルスを中心とした都市から多くの商人が移住し、黄金期と呼ばれた。

近郊で採れる山吹色の石灰岩(Yellow Limestone)を用いてその時代に建てられた 歴史的建造物が市中心部や近郊にイスラムの預言者の墓やローマ時代の遺跡などの 名所も多い。

 サルト市の現在の人口は、約 10 万人(県全体の 29%)で、過去 10 年間、年平 均 10%(ヨルダン平均 2.5%)増加している。特に若年層の増加が急であり、人口 の 45% が 19 才以下の若者である。2004 年の国勢調査では、サルト市の世帯数は 17,199(県全体の 45%)であった。サルト市の年平均世帯所得は 8,045JD(約 140 万円)でヨルダン国内でも高い水準にある。貧困率は 1997 年の 10.52% から 4.43%

に低下している。サルトの産業は、従業員 1 〜 2 名の零細な製造業、商業が中心である。

商業の大部分は、食料、 日用品の販売など、大衆レベルのサービス提供が中心であり、

高度な医療、娯楽、高等教育、高級品販売等のサービスは、アンマンに依存している。

観光はサルトの主要産業ではなく、市内に観光客用施設はほとんどない。観光遺跡 省の統計によれば、2005 年のサルト考古学博物館入場者数は 2,735 人(うち外国人 1,033 人)で、集計対象となっているヨルダン国内主要観光地 20 カ所中最低(最高 はペトラで 39 万 3,186 人)であり、全体の 0.1% に過ぎない状況である。

 そのような中、これまで多くの観光開発に基づく文化資源保全活動の取り組みが 行われてきている。

(17)

(3)サルト市の歴史

 サルト市は、紀元前から人が住んでいたと言われており、住居跡も残っているが、

特に目立った政治的な動きはなかった。その後、13 世紀から 15 世紀に、要塞の奪 取を巡る各支配勢力の攻防が頻発し、現在のサルト市の一部がマムルーク統治領に 定められ、人口が増加し、学校も置かれるようになったが、現在のサルト市民を構 成する基盤となった 2 大部族(アクラッド系 , アワームレ系)による社会体制が整っ たのは、16 世紀から 19 世紀半であると言われている。この頃からオスマンの支配 下に置かれ、地中海を含む近東地域の交易拠点の一つとなり、オアシス都市の性格 を有することになった。その後、19 世紀半から 1919 年に、オスマン政府がサルト に政庁を設置し、都市機能が充実されたことで、ナブルスから多数の商人が移住し、

市街地の拡張が進んだ。その結果、2 大部族に加え、第 3 の部族(ナブルシー系)

と第 4 の部族(クテシャート系)が成立したことによって、この時期に、ほぼ現在 のサルト市民を構成する部族が出揃った。クテシャート系部族については、2 大部 族の内のアワームレ系から派生したものである。そのため専門家によっては、サル トは 3 大部族であると主張する者と、4 大部族と主張するものとがいる。

 サルトでは、現在においても部族の繋がりは強く、血縁関係も濃い。出稼ぎのエ ジプト人等を除き、現在サルトに住む住民のほとんどが 13 世紀から 15 世紀に住み 始めた 2 大部族の末裔、もしくは、19 世紀半から 1919 年に住み始めたナブルシー 系部族の末裔である。現在においても行政区とは別に、同じ部族集団で形成された 伝統的な街区が存在しており、サルト市民が関わる事件や事故を発端に部族争いへ と発展することも多い。そのような部族争いの解決時だけでなく、冠婚葬祭におい ても、部族同士の話し合いによって事項が決定する。その為、3 大(もしくは 4 大)

部族系以外の部族がサルトに移り住んでくる状況はほとんどないに等しい。

 その後、1921 年にヨルダンが建国し、翌年にアンマンが首都になるまでの 1 年間 のみサルトが首都機能を担うこととなる。近代国家を目指し、アンマンにヨルダン の首都が成立した 1922 年以降は、サルトの人口は 3 割〜 5 割減少するものの、商 人によって活発な商業(主に農産物取引)が断続的におこなわれる。1948 年以降、

度重なる中東戦争の影響を受け、地中海を含む近東西部からの陸送物流に頼ってい

(18)

たサルト旧来の経済活動は終焉を迎えることとなる。しかし、広域型商業からいわ ゆる地産地消型の経済社会へと転化が進み、地方小都市としての地位は温存するこ ととなった。アンマンやザルカへ流出した有力商人の邸宅建築の多くが廃墟化して いる一方で、テナント型の商店建築が未だに使われ続けていることからもその変化 が知られる。新開地アンマンには都市形成を含む新たな社会基盤が構築された一方、

サルトでは前時代からの伝統的社会と都市空間を踏襲しつつ近代化が図られた。

2.2.2 ヨルダンハシミテ王国サルト市の事例選定理由

 サルト市では、1999 年より、住民を巻き込み、文化資源を用いた都市保全と観 光開発の施策をおこなおうとしており、米国、英国、日本からの援助を受けている。

このように、文化資源を継承していきたいという意思がある地域と位置づけ、本章 の事例選定地とした。

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2.2.3 エリア悉皆型抽出法

(1)調査目的

 エリア悉皆型抽出法により、新たな文化資源概念のモノやコトが抽出できるかを 検証する。既存の文化財概念と異なる文化資源概念の新しい点は、①指定・登録等 の文化財以外をも対象とする、② 50 年以上など、時間的制約を持たない、③既存 の文化財保護法 6 つのカテゴリー(有形・無形・民俗・記念物・伝建・文化的景観)

に収まらないものも対象とする、という 3 点であるが、エリア悉皆型抽出法は、種 別を特定して調査をおこなうため、特に、①指定・登録等の文化財以外を抽出でき るか、② 50 年以上など、時間的制約を持たず抽出できるかに着目し、検証する。③ については、ストーリー志向型抽出法で検証する。

(2)調査対象物

 エリア悉皆型抽出法の調査対象物は、建造物とした。その理由は、サルト市にお いて、実質機能はしていないが保護法が存在し、登録物件として特定されているも のが建造物と史跡関係のみであるからである。もともとサルト市内はヨルダン国内 の他の地域と比べても史跡は少ない。それは歴史的に 20 世紀前半に最も栄えたとい うこともある。そこで、本研究では、建造物を調査対象とすることで、調査目的で 示した、①指定・登録等の文化財以外を抽出できるかを検証できると考え、調査対 象物とした。

(3)調査対象区域と判断基準

 本調査は、サルトの歴史的な範囲を把握することも目的の 1 つであるため、既往 研究の調査範囲にとらわれず、サルト市全域を調査対象とした。また、1.1 でも示し たように、文化資源であるかの判断は、歴史的又は伝統的であるかどうかを基準と した。

(20)

(4)調査手法

① 調査項目決定までの経緯

 サルトでは過去に歴史的建造物の調査がおこなわれており、その中でも最も 古 い も の は、1981 年 に サ ル ト 市 役 所( = The Hashemite Kingdom of Jordan Municipality of Salt)注 5)に よ り 出 版 さ れ た「Salt Master Plan13)」 策 定 の た め の調査である。この調査ではサルト市全域の地域調査や一部の歴史的建造物の調 査がおこなわれた。その後、1990 年に地元の地域団体である Salt Development Cooperation( 以下、SDC) から出版された「Salt Plan for Action(以下、SPFA)」

Volume 1 〜 314),15),16)策定のための調査が実施され、その際、初めて中心部だけで なく広範囲に亘る歴史的建造物の分布調査や等級区分がおこなわれた。この調査に よってサルトでは、659 件注 6)が歴史的建造物として登録された。保護法によって護っ ていくべき登録物件を特定するための調査であったため、これらはサルトの歴史に とっての重要性や建造物自体がどれだけ完全に残っているかといった相対評価で選 定されている(表 2)。本調査では、この SPFA の調査がサルトの歴史的建造物の特 徴をよく捉えているため、SPFA 内容を把握し、さらに詳細を知るため、サルト市行 政(景観整備課)、調査実施者へのヒアリングをおこない、加えて調査実施機関であ る計画省、王立科学協会(= Royal Scientific Society(以下、RSS)内の伝統建築部門)

を訪ね、野帳等の調査資料の把握をおこない、サルト市の歴史的建造物における調 査項目を決定した。

② サルト市の建造物における調査項目

 本調査では、外壁石材、使用石材、外観からの屋根形状、構造、内観からの天井形状、

アーチ形状、バルコニーの有無、オリジナルタイルの有無、Matwa(押し入れ)の有無、

Kuwara(貯蔵庫)や Matban(動物用の貯蔵庫)の有無等から歴史的な文化資源で あるかを判断し、これら全ての項目が 1 つでも確認できる文化資源を保存状態と共 に全て拾い上げることとした(図 8)。さらに、建設年代や創立年代(宗教施設・公 共施設に限る)が石材に彫られている場合はその年代を確認し、もしそれが無い場 合は、所有者もしくは使用者へのヒアリングから得た情報を、判断材料の 1 つとした。

(21)

このような手法で取り上げた文化資源に対し、用途の変化注 7)、使用者・所有者名や 所有・使用期間等、建造物に付属する情報収集もおこなった。

(22)

(5)調査結果

 調査の結果、保護法に登録されている 659 件も含めて 1,017 件注 8)の歴史的建造 物が確認され、その調査エリアも最終的に SPFA 調査より大幅に拡大した(表 3・図 9)。

以下、既存の文化財概念と異なる、文化資源概念の新たな 2 つの視点から検証する。

① 指定・登録等の文化財以外を抽出できるか

 歴史的建造物の種類、状態、分布エリアの 3 点から、登録物件と文化資源の比較 をおこなった。

【種類の比較】

 本調査で抽出された歴史的建造物と登録物件 659 件の種類としては、住居(農家 建築を含む)、Madafa(マダーファ)注 9)(部族の冠婚葬祭に使用される建造物)、宗 教施設(モスク・教会)、公共施設(学校・市役所)、商業施設(店舗兼住居・店舗・

工場・会社)の 5 種類があり(図 9)、特に種類に関して違いは見られなかったが、

割合に関しては、登録物件では数えるほどしかなかった、農家建築タイプの住居が 多かった。

既往調査:SPFA (1990) 本調査(2010)

1866〜1950年に建設 時間的制約を設けない 廃墟化したものは含まない 廃墟化したものも含む サルト市内のOld Salt Area サルト市全域 相対的な評価による5段階評価 絶対的な評価

659* 1,017**

内観調査 ヒアリング製図

写真記録

19 1,017**

659* 全世帯(約4,000件)

歴史的な構造や材料の有無

基準

方法

評価 範囲

調査物件の合計 外観調査

表 3 既往調査(SPFA)と本調査の調査手法の違い

*

注 6) ** 注 8)

(23)

住居 住居(農家建築) マダーファ

図 10 サルト市における歴史的建造物の種類

宗教施設(モスク) 宗教施設(教会) 公共施設(学校)

公共施設(観光・遺跡省) 商業施設(店舗兼住宅) 商業施設(ベーカリー)

(24)

【状態の比較】

 登録物件となっている 659 件と本研究で拾い上げられた文化資源の状態の違いを 分析するため、現存・部分消失・消失の 3 つに分類し、比較した。

 「現存」とは、歴史的建築物の部分だけで人が住むことができるもの、新築タイプ の増築があっても歴史的建築物の部分に人が住むことができるもの、屋根があるも のを指す。「部分消失」とは、屋根が無いなど歴史的建築物の部分だけで人が住むこ とができない状況、崩れているものを指す。この中には履歴が確認出来るものとそ うでないもの両方が含まれる。「消失」とは、歴史的な部材が 1 つも確認できないな ど歴史的建築物の部分が完全になくなっている状態を指す(図 10、11)。

 本来法律で保護されているはずの 659 件であるが、保護法が実質的に機能してい ないこともあり、1990 年の調査から 20 年経過した現在までに、登録物件も現存 85%、部分消失 11.7%、消失 4.1% へと変化していた。20 年前の調査時の記録は完 全には残っておらず、特に優れた 19 件については詳細調査がおこなわれるなどして おり、その記録によると、現存であるが、その他の 640 件に関しては、すべてが図 12 に示すような現存の状況であったかは定かではない 。しかし、本研究で現存とし て確認できた文化資源は 313 件にも及んでおり、登録物件以外にも同等の価値が認 められる文化資源が存在することが明らかとなった(表 4)。

(25)

現存:

歴史的建築物の部分だけで人が住むことができるもの、新築タイプの増築があっても歴史的建築物の部分 に人が住むことができるもの、屋根があるものを指す。

部分消失:

屋根が無いなど歴史的建築物の部分だけで人が住むことができない状況、崩れているものを指す。

消失:

歴史的な部材が 1 つも確認できないなど歴史的建築物の部分が完全になくなっている状態を指す。

図 12 サルト市における歴史的建造物の種類

新築の増築例 空家の例

修理・修復がみられない例

部分的に残っている例 崩壊している例

壁のみが残っている例

更地にした例 コンクリートで新築した例

新築する際、Yellow Limestoneを使用した例

(26)

(歴史的建造物) (%) (歴史的建造物) (%)

切石 97 14.7% 0 0.0%

粗石 0 0.0% 0 0.0%

切石 314 47.6% 5 0.8%

粗石 2 0.3% 0 0.0%

切石 37 5.6% 2 0.3%

粗石 0 0.0% 0 0.0%

コンクリート - 4 0.6% 1 0.2%

切石 9 1.4% 2 0.3%

粗石 4 0.6% 3 0.5%

切石 13 2.0% 3 0.5%

粗石 20 3.0% 7 1.1%

切石 6 0.9% 0 0.0%

粗石 22 3.3% 2 0.3%

コンクリート - 2 0.3% 0 0.0%

- 72 10.9% 5 0.8%

- 27 4.1% 0 0.0%

- 629 95.4% 30 4.6%

切石 61 9.3% 3 0.5%

粗石 0 0.0% 1 0.2%

切石 46 7.0% 6 0.9%

粗石 0 0.0% 0 0.0%

切石 36 5.5% 7 1.1%

粗石 0 0.0% 0 0.0%

コンクリート - 4 0.6% 3 0.5%

切石 28 4.2% 6 0.9%

粗石 20 3.0% 17 2.6%

切石 1 0.2% 0 0.0%

粗石 5 0.8% 8 1.2%

切石 2 0.3% 0 0.0%

粗石 18 2.7% 9 1.4%

コンクリート - 19 2.9% 13 2.0%

- 33 5.0% 12 1.8%

- 273 41.4% 85 12.9%

登録物件659件

部分消失 消失

小計 White Stone部分露出

White Stone被覆

Yellow Limestone被覆

小計 部分消失

本調査で明らかになっ

た文化資源358件 White Stone全露出

White Stone部分露出

White Stone被覆 Yellow Limestone全露出

Yellow Limestone部分露出

合計      1017 現存

現存

 Old Salt Area内 Old Salt Area外 残存状況

Yellow Limestone全露出

Yellow Limestone部分露出

Yellow Limestone被覆

White Stone全露出

表 4 サルトにおける歴史的建造物の残存状況と外壁状況

(27)

【分布エリアの比較】

 SPFA の調査対象区域は、「Old Salt Area」と呼ばれている。SPFA によると、

「Qala ユ a と Jada ユ a の両方からなるメインの丘と Salalem と Wadi-ak の一部から なるサルトの中央の主なエリアで、歴史的に重要もしくは構造上重要なサルトの古 い建築物を全て含むエリア」と定義されている。しかし実際確認してみると、この 線は SPFA で登録物件の 659 件全てを囲う線ではない(図 8)。SPFA は「このエリ ア内の歴史的建築物は、建物のタイプ、状態、景観的な価値、構造的に優れている かに関する調査を受けているが、あまり詳細な調査ではなかった。」と補足している こともあり、不明な点も多い。しかし、これらの文献や関係者へのヒアリングから、

SPFA 調査が行っているグレードの、より高い物件が密集しているエリアと推定出来 るため、本論文ではそのように扱うが、その Old Salt Area 内外にどのように本調 査で発見された文化資源が分布されているのかを分析した。

 登録物件 659 件は、Old Salt Area 内に 629 件、外に 30 件存在するが、本調査で 発見した文化資源は Old Salt Area 内に 273 件、外に 85 件存在した。エリア外に特 段多いとは言えないが、登録物件と比較して約 3 倍の数が存在している。また分布 状況も登録物件と同様広がりというよりはむしろ、新たなエリアを追加する形となっ た(表 4)。

 以上の 3 点から登録物件と本調査の文化資源との比較をおこなったが、抽出され る種別や現状にそれほど差がなかったことから、エリア悉皆型抽出法によって同等 の価値が認められる文化資源を多数発見することができたといえる。

(28)

② 時間的制約を持たず抽出できるか

 これまでサルト市では、Yellow Limestone の建築物=サルトの歴史的建築物でし か語られてこなかった。その Yellow Limestone の外壁石材が使用されていた時期が 1950 年以前までということで、登録物件 659 件も 1950 年までのものが調査対象と なっていた。

 そこで本研究では、まず調査項目である、外壁石材・使用石材・外観からの屋根形状・

構造・内観からの天井形状・アーチ形状・バルコニーの有無・オリジナルタイルの有無・

Matwa(押し入れ)の有無・Kuwara(貯蔵庫)・Matban(動物用の貯蔵庫)の有無 が 1950 年以前しか存在しないのかを分析した。その結果、数は減るが、1950 年以 前にしか存在しないことはなく、1970 年代ころまで確認できるものもあることがわ かった。

 そこで次に、Yellow Limestone のみがサルトの歴史的建造物であるのかを分析し た。Yellow Limestone は、サルトの近郊で採れ、サルトの歴史的建築物の外壁材 として代表的なサルト石とも呼ばれることもあるほど、サルトの歴史的建造物を象 徴するものであるが、登録物件 659 件の中にも、Yellow Limestone でない White Stone と呼ばれる白い石灰石の建築物が存在することが明らかとなった。登録物件 の 659 件中 93 件という約 14% 程度であるが、存在することから、外壁石材の種類 や加工方法を本調査結果、専門家へのヒアリング、文献から時系列でまとめた(図 13)。

 まず White Stone の粗石が使用されてきたが、ファサードに関しては Yellow Limestone を装飾として使用してきた。1866 年頃からは Yellow Limestone の切り 石のみの建築物がみられるようになったことから、1866 年頃から White Stone の 粗石と Yellow Limestone の切り石が使われるようになったと整理できる。その後 は Yellow Limestone の切り石が主流となるが、1927 年にサルトで大地震が起こり、

その後 1930 〜 1940 年代頃から安価で強度のあるコンクリートが導入された。一方 で、同じように強度を強化するために 1935 年〜 1980 年代頃にかけて White Stone の切り石が使われるようになり、この時代はコンクリートと White Stone の両方が 混在していた。その後は White Stone の切り石は使用されなくなり、装飾用として 鉄筋コンクリートの建築物にタイルとして White Stone が使われるようになった。

(29)

サルトでは一部の建物(オフィスや公共施設等)で White Stone をタイルとして使 用する例がみられるが、住居に関してはコンクリートが主流となった。

 これまで Yellow Limestone の建築物=サルトの歴史的建築物で語られてきたこ とで、自ずと 1950 年代までが歴史的建造物であるという認識へと繋がっていた。

Yellow Limestone が使用されなくなってから、完全に外壁材にコンクリートが使わ れ始めるまでの 1950 〜 1980 年までにみられる White Stone の建物は、地震によ り崩れたことによって強度を求め、建て替えざるを得なかった住民が、コンクリー トよりも高価でありながら、White Stone を使用し、構法を変えずに対応した歴史は、

これまでサルトの歴史と語られてきたものと我々の現在の文化への架け橋となる資 源として評価できる。登録物件の中には、こうした White Stone の切石を使用した 物件が 33 件あるが、本調査で新たに 37 件発見されている注 10)。この新たに発見さ れた物件の多くは、1950 年代までが歴史的建造物であるという認識や基準によって、

こぼれ落ちたものだといえる。このように、ある一定の基準を設けて調査をしてい くことはもちろん必要であるが、時間的な制約を設けることが必ずしも必要なので はないということが明らかとなった。

図 13 サルト市において使用されてきた外壁石材や加工方法の流れ

1927

1935

大地震が発生、多くの建造物が崩壊した

Yellow Limestone (切石・粗石)

1866

1890

White Stone(粗石)

1950

1980

White Stone (切石)

White Stone

(装飾用のタイルとして使用)

コンクリート導入 Pre1866

登録物件の基準 本調査の基準 

(30)

(6)文化資源(歴史的建造物)抽出から明らかになった新発見

 本研究では、上に述べた登録物件である 659 件と本調査で明らかになった文化資 源との比較から、特に異なる点である、農村建築が多数発見されたことと、分布状 況の 2 点に着目した。それらの情報から、これまで明らかにされていなかった「農 村集落としてのサルト」という新たなサルトのストーリーが発見された(図 16・

18)。

 これまでサルトでは、Salt Master Plan13)や SPFA14),15),16)といった歴史的建造物 の調査がおこなわれてきたが、それらが対象としてきたものは、1866 年にサルトに 知事府が置かれたことを機にナブルスの商人が流入してから発展した「商業都市と してのサルト」であった(図 17・18)。特に SPFA では、初めて中心部だけでなく 広範囲に亘る歴史的建造物の分布調査がおこなわれたが、本悉皆調査は、この SPFA で調査された範囲をさらに拡げる結果となった。SPFA の調査範囲は、SPFA の調査 チーム、行政、専門家等で決定した Old Salt Area と呼ばれる歴史的な範囲である。

SPFA の調査範囲を超えた周辺地域で確認される建造物には、それは Qantara'ah(カ

ンタラ)注 11)と呼ばれるアーチ状の構造による建築という共通した特徴が見られた(図

14)。

(1) カンタラとバレルボールトの組み合わせの場合

(2) バレルボールトのみの場合

(3) カンタラのみの場合

図 14 サルトで見られる農家建築の 3 ケース 図 15 廃墟化の例

(31)

1517年

2010年 1866年 農村集落としてのサルト

商業都市としてのサルト

サルトの町並み景観の更新と成立

地方都市としてのサルト 1935年 1918年

Awamleh系部族

Akrad系部族 Qteshart系部族

Nublsi系部族

1517年

2010年 1866年 農村集落としてのサルト

商業都市としてのサルト

サルトの町並み景観の更新と成立

地方都市としてのサルト 1935年 1918年

Awamleh系部族 Akrad系部族

図 16 1517 年〜 1866 年頃の部族の分布図

図 17 1866 年〜 1918 年頃の部族の分布図

(32)

凡例 Barrel Vault, Qantaraʼah:1866年以前 Cross Vault :1866年〜1890年 I-beam : 1918〜1935年 既往研究調査範囲

0250m 18 内部からみた天井(構造もしくは梁)の状況からみた歴史的建造物の分布図

15 17 年 20 10 年

18 66 年

農村集落としてのサルト 商業都市としてのサルト サルトの町並み景観の更新と成立 地方都市としてのサルト

19 35 年

19 18 年

(33)

 この構造による建築は SPFA によると、1866 年以前の農家建築であり、SPFA で も少数であるが登録物件として取り上げられていた。しかし 1866 年以前に見るべ き文化資源はほとんど残っていないということで、図 19 の赤線部分の研究は進ん でおらず17)、2003 年に提出した UNESCO 世界文化遺産登録申請時の説明において も、1866 年以降のナブルスの商人が流入してから発展した「商業都市としてのサル ト」というストーリーでの申請であった18)。現在、これらの農家建築は、部屋の 1 室として残存しているものが多く、増築され、外観からは分からない状態であった。

特に既往調査は、一部の中心市街地の建物を除いて、古写真を使った外観からの調 査のみで発見されにくかった上、廃墟化したものは拾わないという基準であったた め、数がかなり限られたと考えられる。本調査では、全ての物件に対し、住民への ヒアリングを実施したことで、外観から判断できない場合も発見することができた。

その結果、1866 年以前の農家建築に見られるカンタラ、バレル・ボールト、もしく

1866年以前

1866〜1890年

1890〜1918年

1918〜1935年

1935〜1950年

農村集落としてのサルト

商業都市としてのサルトの始まり

商業都市サルトとしての成長

(宗教施設等の大型施設が建ち始める)

サルトの町並み景観の更新と成立

1921ヨルダン最初の首都となる)

地方都市としてのサルト

図 19 サルトの歴史的建造物の特徴からみる歴史、筆者一部修正 出典 : 文 14

(34)

は両方が確認される建造物が、特に西側の地域により多く見られるが、これまで「商 業都市としてのサルト」として語られてきた場所と同地に散在していることが明ら かとなった(図 18)。さらにそれらは 1866 年にナブルスの商人(ナブルシー系部 族)が移り住んでくる以前からサルトの地に住んでいたアワームレ系、アクラッド 系、クテシャート系部族注 12)らが現在も殆ど所有していることが明らかとなった(図 16)。これまで、1866 年以前に農村集落が存在していたということは言われていた が、それを証拠づける遺産が残っていないということで、忘れ去られようとしていた。

しかし本悉皆調査によって、それらを裏付ける文化資源の在処が発見され、「農村集 落としてのサルト」というストーリーが顕在化した。

 一方で、同様に 1866 年以降に見られるクロス・ボールトの構造による建築の分 布状況についても分析をおこなった結果、これらは完全にカラ丘、ジャダー丘、サラー レム丘の谷間地域に集中しており、それらの所有者は、現在においても 1866 年以降、

ナブルスからサルトへ流入してきた商人の末裔であるナブルシー系の部族が多いこ とが判明した(図 17)。また、それらは既往調査範囲内にしか確認されなかったこ とから、これまでサルトが「商業都市としてのサルト」というストーリーでしか語 られてこなかったことが改めて確認された。

 このように、対象物の状況を記録しておくことで作成できた分布図は、都市とい う単位で歴史的事実を確認する一資料となり、この分布図は、絶対評価による悉皆 調査であるからこそ保存状態に関係なく示すことが可能となったと言える(図 15)。

例えば、既に崩れていてカンタラの構造が成り立ってはいなくても、存在していた と確認できる履歴は、この分布図にとって、とても貴重な情報となった。こうした ことからも、文化資源概念という資産把握の必要性、エリア悉皆型抽出法の実効性 が証明されたといえる。

(35)

2.2.4 ストーリー志向型抽出法

(1)調査目的

 ストーリー志向型抽出法により、文化遺産が抽出できるかを検証する。既存の文 化財概念と異なる文化遺産概念の新しい点は、単体ではないことである。文化遺産は、

ストーリーとそのストーリーを構成する構成資産=文化資源の総体を指す。しかし、

ストーリーを構成する資産は文化資源であり、文化資源概念は、これまでエリア悉 皆型抽出法でも述べてきたように、既存の文化財概念とは異なる新たな点がある。

それは、①指定・登録等の文化財以外をも対象とする、② 50 年以上など、時間的制 約を持たない、③既存の文化財保護法 6 つのカテゴリー(有形・無形・民俗・記念物・

伝建・文化的景観)に収まらないものも対象とする、という 3 点に着目し、検証する。

(2)調査対象物

 ストーリー志向型抽出法は、ストーリーをもとにそのストーリーを構成する文化 資源を特定していくため、どのような種別の文化資源が挙がってくるか特定できな い。よって、有形・無形・動産・不動産全ての文化資源を対象とする。

(3)調査対象区域と判断基準

 本調査は、サルトにまつわるストーリーが展開するエリアが調査対象区域となる ことから、特に既往研究の調査範囲にとらわれず、サルト市全域を調査対象とした。

また、1.1 でも示したように、文化遺産であるかの判断は、ストーリーを破綻や過不 足が無いように証拠づける構成資産=文化資源が揃っていること、そして構成資産

=文化資源は、本物であることの 2 点を基準とした。

(36)

(4)調査手法

① 調査内容決定までの経緯

 調査を実施する前に、まずサルトの学芸員と共に、サルトにまつわるストーリー の項目を整理し、宗教・部族・学校・都市史・生活文化・商業の 6 項目に分け、基 礎知識としてこれらの歴史を把握したうえで調査内容を以下のように決定した。サ ルトは、キリスト教とイスラム教が共存していたり、市町村などの行政区とは別に 部族の区が存在していたり、サルト高校はヨルダンで初めてできた男子校で多くの 官僚を輩出していたりと、宗教・部族・学校に関する話はサルトにとって重要な項 目である。その中でも、エリア悉皆型抽出法の調査中に最も多く情報を得られた宗 教関連の話を調査内容とした。

② 宗教関連のストーリーにおける調査手法

 『サルトではイスラム教徒とキリスト教徒が、住み分けなどをしていないのにもか かわらず、争うことなく共存している環境があった。』というストーリーをもとに、

サルトには宗教が共存している環境があることを、訪れる人々に理解してもらうの を証拠づける場所やモノやコトはないか、またこのストーリーは本当であるかを、

芋づる式に住民へ聞き回った。

 住民から得た情報やエリア悉皆型抽出法のデータベース(図 20)、さらに宗教関 係者へヒアリングといった細かな情報を聞き出したり、洗い出したりという積み重 ねを繰り返し、それらの情報を多方面から総合的に把握していくことで、文化資源 を特定した。

(37)

111 111

No. SPFA No.

ASCD No.

20-56

Common Name

-

Street Name

Sulaiman Al Sukkar

Original Building Type

(Category)

Residence

Original Building Type

(Use)

Residence

Present Building Type

(Category)

Residence

Present Building Type

(Use)

Residence

Change of Uses

1F(? rooms): Residence - Vacant 2F(3 rooms): Residence - Residence

2 2 No

Shape or Features

of Roof (Original) Shape or Features

of Roof (Present)

Flat

Materials

Yellow Limestone

Number of Floors (Original)

Photo

Number of Floors

(Present) Untraditional Addition

The Investigation Situation Points of Architectural Significance Supplementary Information Memo Ceilings

I-beam Ceilings

Openings

Segmental Arches, Pointed Arches

Balconies

I-beam Balcony

Tiles The Others Structures Year of Establishment

-

-

History of Renovation Area No.

SPFA Area

Low-Jadaa

ASCD Area

Lower Jada'a

Year of Construction

Unconfirmed

Integrity

1

Exterior of Buildings

Yellow Limestone(Shaped)

図 20 サルトの歴史的建築物のデータベース

(38)

(5)調査結果

 住民から得た宗教関連のストーリーは、異教徒同士の連携についてが多く、それは、

冠婚葬祭にまつわるものであったり、部族が持つマダーファにまつわるもの等であっ た。その内容は、『1866 〜 1920 年頃は、異教徒間の区別はほとんどなく、外見か らは判断できなかった。商業の取引が発展していくと同時にキリスト教徒の数が増 加していったが、異教徒であっても結婚式や葬式に参加していた。例えば、親しい 隣人が他界した時には、たとえキリスト教徒であっても、イスラム教徒が着る黒い 服を着て、故人の家族とともにイスラム教徒である友人の死を悼んだ。』このように 当時は、冠婚葬祭や慣習は宗教という枠ではなく、隣人同士で共有されていた。ま たキリスト教徒である住民の話によると、『当時、異教徒同士の結婚がかなりの少数 ではあるが実在していた。キリスト教徒である娘が両親から反対されたにもかかわ らず、イスラム教徒の男性と結婚した。両親から許可されなかったので、彼らの結 婚の契約書が完成するまで、娘は部族長の家に滞在していたが、結局そのカップル は彼女の両親に破門されてしまった。』という情報や、さらに別の住民からは、『冠 婚葬祭をおこなったり、問題が発生した際に会議がおこなわれる各部族が所有する マダーファは、昔は 2 〜 3 部族が 1 つの建物を共有している場合もあった。その際、

キリスト教の部族とイスラム教の部族が共有することは珍しくなかった。片方の部 族に問題が生じた時には、共に解決を目指した。』というストーリーを聞くことがで きたことから、こうしたストーリーは事実であろうと特定した 。

 次に本調査では、そうしたストーリーを証拠づける場所、モノやコトを住民・宗 教関係者・専門家へのヒアリング、エリア悉皆型抽出法のデータベースから、図 21 に示すストーリーとそのストーリーを証拠付ける文化資源を特定した。

図 6 ヨルダンと周辺国地図 1km0 Al-Qala 要塞跡 ハンマーム・ストリートAl-Jadaʼ aAl-Qala As-Salalem首都 アンマンへ→×南北ルート東西ルート凡例サルト旧市街地 図 7 サルト市内地図
図 10 サルト市における歴史的建造物の種類
図 20 サルトの歴史的建築物のデータベース

参照

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