• 検索結果がありません。

龍谷大學論集 471 - 014田岡由美子「「食」の人間形成的意味 : 人間の重層的な〈いのち〉との関連において」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "龍谷大學論集 471 - 014田岡由美子「「食」の人間形成的意味 : 人間の重層的な〈いのち〉との関連において」"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

「食」の人間形成的意味

一 一 人 間 の 重 層 的 な く し 、 の ち 〉 と の 関 連 に お い て 一 一

由 美 子

は じ め に 周知の通り,我が国においては戦後の目覚ましい科学技術の発展によって社 会は急激な変貌を遂げ,それに伴し、人々の暮らしも大きく変容してきた。その ことを「食」に焦点づけてみると, 現代では, 人聞が生きて L、く根幹である 「食」のあり方,それに対する人々の考えも変化しており,食卓を囲むといっ た人間の根源的基盤ともいえる営みが崩壊しつつあることからも明らかなよう に,人間や家族のあり様が根本から問われているような状況を迎えている。さ らには,拒食・過食といった摂食障害,人間の欲望のままに展開される豊食や 飽食,そこから欠落していく地球環境への配慮など,近年「食」に関するさま ざまな問題が指摘されている山〉。そもそも, 生きていくために「食」を準備 しそれを分け合って食べることは,人間としてごくごく当たり前の営みであっ た。しかし,上述のように自明なことが自明でなくなっている現状に対して, われわれは単に社会の変化とともに「食」の在りょうが変わったことを仕方な いと看過するのではなく,その背後には,人聞が長い時聞をかけて育んできた 文化を足元から崩壊させる危機が潜んでおり,さらにはそのことによって人間 存在の構造が根本から覆される深刻な状況に至っていることを認識しなければ ならないであろう。 このような現代の「食」における危倶を踏まえて, 2005年 6月に制定された のが「食育基本法」である。きわめて個人的な営みであった「食」を国が規制 する是非はともかくとして,この法律の成立以降,書庖に行けば多数の「食」 に関する本が並べられ,雑誌にも「食」の特集記事がしばしば組まれており, 人々の「食」への関心は次第に高まってきている。 ところで,それらを内容によって大別すると,①健康のために何をどのくら い食べればL、L、のかといった生理学・栄養学の分野をはじめとして,②時代や -136ー 「食」の人間形成的意味(悶岡)

(2)

地域によって異なる「食」の在り方について実地調査や絵画や文献,人々が使 用した道具などを手がかりにして,各地域・時代における「食」の特色をあき らかにしようとする文化人類学や歴史的分野,また③資本主義経済を基盤とし た消費社会に組み込まれ商品化された「食」の現状と問題点を指摘する経済, マーケティングの分野,ならびにそれと相まって④人口増加や食糧危機など地 球規模の問題として取り上げる社会学の分野,さらには⑤狂牛病や鳥インフル エンザ,遺伝子組み換え,添加物などに代表される「食」の安全性を取り扱う 農学の分野,加えて⑥摂食障害など食に起因する疾病を取り扱う医療や心理学 の分野,⑦次世代を担う子どもたちに「食」に関する知識や食を選択する力, 健全な食生活を実践する力を獲得させることを課題とする教育の分野などから のアプローチがみられ,実に多方面から「食」が論じられているかへ 「食」 はまさに人闘が生きることすべてに関連する大きなテーマと言えようo 特に教育においては,各地の保育所や幼稚園,小学校や中学校,あるいは地 域における「食育」の実践が盛んに行われ報告されている。それらを概観する と,何をどれだけ,だれと, どのように食べたらよいのかといった「食」をめ ぐる諸課題を,親や子ども達にどのように教えていくかについて,主に料理を すること・食べることを中心に進められている円 けれども,本稿において問おうとしているのは1"食」の望ましい在り方に ついての言及や1"食」の大切さを子どもにどのように教えるかといった方法 ではなく,人間にとって「食」がどのような意味を持っかということである。 とりわけ, ヒトとして誕生した人聞が次第に人間らしくなってL、く過程におい て1"食」はどのような意味をもっているのかについて考察することである。 もちろん,地球上の生きとし生けるものは何かを自己内に取り入れ,それを 血肉化し自己の生をつないでし、る。その点においては人間も他の動植物と変わ りはない。われわれがどんなに凝った料理を作りどんなに着飾って食べよう と,あるいは道端に落ちている米粒や,他人の食べ残しを食べようとも,生き るために「食」を行なうのはまぎれもない事実である。けれども,一言で「生 きる」と言っても,人間の場合そう単純ではない。というのも,人聞は他の動 物と比較して本能がごくわずかで,特殊化された器官をもっておらず,環境に 適応することによって自らの弱さを補強し人間らしさを獲得してきた特異な存 在だからである。そのため人聞は,生れおちたそれぞれの社会に固有の文化を 継承・創造することによって独自の世界を切り聞き,人間化してきた。したが って自然界における特殊な位置を占める人間にとっての「食」は,動物のよう

(3)

に「食」と生が直結しておらず,そこに人の手や時聞が付与されている。時代 や住む地域によっても「食」の様式は異なる。あるいは食べないと生きていけ ない存在であるにもかかわらず,人聞はあえて食べない物や時を自らに設ける ことがある。さらには自己の生が終わることを承知で,あえて毒杯を飲み干す ことさえある。このように人間の「食」は多様な面を持っている。このことを 翻って考えると,人聞が「生きる」こと 人間のくいのち>10)が多様で重層的 な意味を持っていることを示していると言えよう。したがって,人間の「食」 の在りょうを検討・考察することは,人間らしく生きるとは何かを問うことに 通じる。そこで本稿では,人間の「食」における諸相を取り上げ,その形成的 意味を考察することを通じて,人間らしく在ること・成っていくこと・生きる とはどういうことなのかを問L、直し

r

食」と人間のくし、のち〉の構造関係を 明らかにする。 1 . 人 間 に お け る 「 食 」 の 身 体 的 ・ 精 神 的 意 味 (1) 五感を通じての「食」の享受 人は食べないと生きていけない。生まれてから生ある限り,私たちは常に自 分の体の中に外から栄養を取り込み,それを血肉化して自己の生を生きてい る。この生命維持としての「食」は,人間のみならず生き物として自明の営み である。けれども,同時に人聞にとって「食」という営みは,動物とは異なる 人間ならではの生の在りょうをも映しだす。 そのひとつとして,人聞においては生物として必須の生存条件である「食」 が,五感全体を通して「食」を楽しむとL、う精神性につながっている点を挙げ ることができる。たとえば,点滴をうけることを想像してみよう。点滴は細い 管を人間の血管に差し込み,それを媒介として栄養や薬を体内に取り込むとい う経管摂取である。これは経口摂取に比べると, より直接的で,栄養や薬をよ り早く体全体に巡らせることができる。そのため表弱していた体はすばやく回 復する。けれども,この場合「食べた!Jという喜びゃ満足感,心の底から湧 きあがってくる充実感,体中に

i

張る意気揚々とした活力とは程遠いだろう。他 方, 自の前で揚げてくれる熱々のてんぷら,台所から運ばれてくる出来たての 料理を食べるときはどうであろう。調理場の熱気や作る側の勢いが伝わってき て,それらが食べものと相侯っていっそう食欲をそそる。また,地下室で何年 も寝かせたワインの栓を聞け飲むときには, じっくりと時聞をかけて熟成され た深みやまろやかさ,香りを楽しむのであり,それを私たちは至福の時間と感 -138ー 「食」の人間形成的意味(田岡〉

(4)

ずる。あるいはりんごを丸ごとかじるだけでも口の中に拡がる甘酸つばさを美 味しいと感ずる。外部から体内に摂取する点では点滴も経口摂取も同じである が,なぜこうも感じ方が違うのだろうか。私たちは食べる時に, じゅっーとい う香ばしい音,ぼちぼちとはじける音, トントンとリズミカノレにきざむ音,食 材のあざやかな彩り,様々な香り,そして食べ物を口に入れた時のしゃきしや き,つるつるといった歯ごたえや舌触り,炭酸がピチピチと弾けながら通って いくのど越し感,あるいは時を経てこそ生まれてくる滋味等々を楽しむ。私た ちは視覚,聴覚,嘆覚,触覚,味覚といった五感を総動員して体全体で美味し さを感得し,食べたとL、う実感を持つのである。これはまさに「食」を享受し ているということである。したがって,人聞は生物として空腹感を満たし生命 維持のためだけに食べるのではなく

r

食」の質をも味わい楽しんでおり,こ のことが精神的な満足感や充実感の獲得,ひいては生きることへの意欲や喜び につながっているといえよう。ここに五感を含めた身体全体を通じて「食」を 享受する人間ならではの身体的・精神的な生の在りょうが見られる。

(2)

乳児における「呑みこむ」こと 身体的意味のみならず精神的意味をも持つという人間ならではの「食」の在 りょうは,誕生したばかりの乳児にすでに見られる。乳児の晴乳が単なる栄養 摂取にとどまらず, 自己を取り巻く環境すべてを取り込んでいることを主張し たのは, 幼稚園の創設者であり, 乳幼児の発見者とも呼ばれている教育思想 家・実践家のフレーベル

(

F

.F

r

o

b

e

l

1

7

8

2

-

1

8

5

2

)

である。彼は主著『人間の 教育」において,母親から一心不乱に吸乳している乳呑み児について,次のよ うに語っている。 「この段階(乳児期)の人間の営みは,多様な外界のすべてを受けとり,そ れを自己のなかに取り込むことにつきる。この段階の人間は FI呑みこむ』も のなのである。生まれでたばかりの乳児はく乳のみ子> (Saug1ing)と呼ばれ る通り IF呑むJl (saugen) ことだけが,かろうじてできる唯一の活動なので あるが,かれの全存在は,この段階では,外のものを自分のものにしようとす る眼 (Augen)ほかならな L、Jll)と。たしかに生まれて聞もない乳児ができる ことは,睡眠,吸乳,排世,泣くこと等限られている。ごくわずかの本能しか 持たずに生まれてくる人間の子どもは,ボルトマンが指摘するように「不思議 にもおそろしく未熟で, 能なし」問状態で、ある。けれども,フレーベルは乳児 の吸乳とL、う営みに着目し,その行為が持つ意味を人間学的に捉えている。つ -139

(5)

まり彼は,乳児がその小さな体全体をいわば「眼」にして,全身でもって自分 を取り巻く世界のすべてを摂取しつつある様を重視したのである。乳児は,親 が自分のことを本当に大切に考えていてくれるか,自分を取り巻く環境が温か く穏やかで清潔であり,深々と安心できるよきものであるかどうかを,吸乳し ながら体全体を「眼」にして鋭く感じとっていると言うのである。すなわち, 乳児における吸乳とは,乳を呑むだけでなく,同時に母や母のしてくれる一切 のことや, さらには母を取り巻く周囲の印象までをも吸っていると解釈でき る。このことは,母親が単に栄養としての乳を与えているのではなく,母親と しての人格的なかかわり合いすべてを含む,自分のくいのち〉そのものを子ど もに与えていることを意味する。ひたすら母親を見つめ一心不乱に乳児が乳を 呑むことは,身体の健やかな成長を育むと同時に,乳児と母親との基本的信頼 感や精神の啓培をも含んでいる。したがって,人間の乳児期における「呑みこ む」ことは,人間形成における最初のかつ重要な営みと言えよう。 戦争や貧困によって家庭を失った子ども達の教育に生涯を捧げ,子どもと共 に生活するの中で人間らしさの育成を実現させようとしたスイスの教育思想 家・実践家であるベスタロッチ-

0

.

H. Pestalozzi, 1746-1827)も,日常にお けるごく素朴な親子の関わり合いを通して人間としての心情が育まれること を i食」の光景を引き合いに出し,次のように語っている。 i満足している 乳呑み子はこの道において母が彼にとって何であるかを知る。しかも母は幼児 が義務とか感謝とかL、う音声も出せないうちに,感謝の本質である愛を乳呑み 子の心に形作る。そして父親の与えるパンを食べ,父親と共に囲炉裏で身を暖 める息子は,この自然の道で子どもとしての義務のうちにかれの生涯の浄福を みつけるJ18l母親から身体を通して乳をもらう乳児, そして父親の手から直接 にパンを受け取る子どもは,ただ単にお腹を満腹するだけでなく,母の胸に抱 かれたぬくもりや父から貰うパンのあたたかさと共に,父母がどれほど自分の ことを案じ大切に思っているかを,父母に全面的に我が身を任せそこで感じる 安らぎの中で直に感じとるにちがいない。乳幼児期におけるこのような親子の 身体的な交わりの中でこそ,信頼や感謝や従順といった人間ならではの感情も 生まれてくるのであり,けっして言葉で説教することを通じてではないと彼は 説いている。いずれにしても,生物として生きるための栄養摂取という行為の 中に,実は人聞が人間らしくなっていく契機がすでに含まれていることを,ベ スタロッチーもフレーベルも鋭く見抜いていた。 -140ー 「食」の人間形成的意味(田岡〉

(6)

(3) 人間形成の始まりとしての味覚 ところで,食べる時,口は内と外をつなぐ身体器官でるり,外部を自己の内 へと取り入れる際にそれがふさわしいものであるかどうかを確かめる場所とな る。たしかに私たちは口の中で食物をかみしめながら,それを受け入れるかど うかについて自己選択・決定を行っている。初めてのものを口にする時,それ が食べられるかどうか検討するために,私たちは慎重に目で見,匂いを嘆ぎ, 恐る恐る口に入れる。そして最後に阻鴨することによって味わい,呑みこむか どうかを決定している。乳児でさえ,何か気に入らないことがあれば,舌でっ き返して「呑むこと」を止めてしまうことがある。霜山徳繭は,五感の中でも とりわけ味覚が人間ならではの感覚であることを強調する。1"真に味わうとい うことは,単なるI啓好的選択をこえて,あるものを吟味しながら味わい,試み つつ享け味わうという,新しい純粋な人間的な行為を前提とするJ 1"舌に示さ れるものはすでに一片の文化であり,味わうことは精神的行動の予兆であり, 味覚における繊細な区別,食べられるものと食べられないもの,味によいもの とそうでないものを区別することは,発達的には,精神的な人間形成の第一歩 で、あるJ14)霜山は単なる「好物」としての曙好的な「選択」と,人間的な「吟 味」をはっきりと区別し 「吟味」をおこなう味覚の育成は,人間の精神性に つながると考えていた。もちろん動物にも感覚レベルの好き嫌いといった曙好 はある。しかし動物には,食べる側を思い遺り心を込めて作った手料理や, 長い年月をかけて醸造したお酒の旨みはわからない。1"吟味」とは,人格的存 在としての人聞が,体中のあらゆる器官を総動員して自らの意志で選び取るこ とであり,そのつど主体として選び取ることを積み重ねる中で他ならぬ自己を 構築していくことが人間形成だと捉えれば1"吟味」はその人らしい生を全う することと深くかかわる営みなのである。霜山によると,味覚の中にこそ人間 らしく在ること・生きることの意味が凝集されており,そこにすでにその人が 選び取った生き方,あるいはその人らしさというものが宿っているというので ある問。 ちなみに,われわれは他者とのかかわり合いの中で,自分の納得のいかない 場合に「口に合わなし、J 1"その提案は呑み込むことができなし、」といった表現 を用いることがある。このような口にまつわる比喰は,実際の食べ物だけでな く,他者の物事や考えを自己の中に取り込む際のことを象徴的に表している。 その意味で, 口は食べる人と食べる物,さらにはその背後にある食べ物に関わ るあらゆる他者との濃密な交流がなされる場所であり,外界と自己とを分ち・

(7)

つなぐ境界の場として重要な役割を果たす器官なので、ある。とりわけ味覚は, 異物を自己の内に取りいれるかどうかについて吟味し,選択決定をつかさどる ため,自己構築の第一歩を担っていると言えよう。

2.

人 間 に お け る 「 食 」 の 文 化 的 ・ 歴 史 的 意 味 (1)

r

喰らう」から「食事」へ 人間も他の動物も「食」を行うが,人間だけがその営みを「食事」と呼ぶ。 なぜだろうか。人聞は,食材を探し,獲得した食材を調理・加工・保存し,安 全で安心できる場所で,一定の作法にしたがって食べる。このように「食」に 関わる一連の行為を総称して「食事」と呼ぶ。食材の獲得と食べる行為が直結 している動物に比べて,人間の「食事」には人の手や時聞が費やされている。 人聞は「食」とL、う行為に,食材の獲得,調理,加工,保存,分配,食べる際 の規範といったさまざまな媒介物を加えることによって

r

喰らう」ことを人 為的な「食事」へと変えてきた。 このような食材選びゃ料理方法, 道具の創 造・使用,食事の作法・遵守は,まさに人聞がヒトから人聞になってL、く過程 で創造してきた文化そのものである。動物としてのヒトが, しだいに人間らし さを身につけてし、く人間化と

r

食」が「喰らう」から「事」として文化化し ていくプロセスはパラレルに進行している。したがって

r

食事」とは,本能 的・生理的な行動が,人類化と L、う過程で人為的な営みになってきた人間特有 の「食」の在りようだと言えよう。このように人間らしく在ること・成ってい くことと「食事」は密接に関わっているのである。 (2) 文化の伝達・創造 ところで,文化が地域において異なるように

r

食」の風景もそれぞれの土 地の風土や暮らしに合わせて特色を持っている。人々は,自分の置かれた環境 の下で食べ物を加工し,風土にあわせた料理法をあみだし料理に必要な道具 を製作し,食事作法を作り上げ,地域や民族特有の食文化を創造してきた。し たがって,人聞にとって食べることは, 自分が根ざしている地域社会の文化を 獲得することでもある。たとえば,食べ物に関して言えば, 日本人であれば, 幼いころから口にしたかっおや見布のだしの香りはなつかしいであろう。ある いはチーズやヨーク。ルトを口にしてほっとする民族もいるであろう16)。また, 食事の仕方やマナーについても地域によって違っている。日本では麺を食べる とき,音を立てて食べる。けれども,西欧で、は音をたてて食べることは厳禁で -142ー 「食」の人間形成的意味(田岡)

(8)

ある。あるいは, 日本では箸で食事をするが,西欧ではナイフやフォークを用 い,インドでは右手の指先で食べ物をたくみにまとめて口に運ぶ。さらに食材 に関しでも,民族や固によってタブーが設けられている。このように食材,料 理方法,道具の使用,食前・食後のあいさつに代表される食事に関するマナー などは,地域,民族,宗教,階層によってさまざまである。したがって,子ど もは食事することを通して, 自分が生まれた社会の中で、育まれた種々の文化を 獲得していくことになる。 ちなみに筆者が本大学において「食」の意味を人間学的に考察するという授 業を行った時に17〉,数人の学生達が「なぜ料理を作ってくれるのか」というイ ンタビューを家族にしている。家族からは〈主に母親からであるが), 1"家族 の健康のためJ 1"家族がおいしいと言ってくれるこの味を大切にしたいから」 「マンネリ化しないように新しい料理に挑戦して家族に食べさせたいから」等 々の答えが返ってきたと報告がなされた。1"みんながおいしいというこの味を 大切にする」というのは,親から子へ,子から孫へとその家庭ならではの味が 世代を超えて伝わることであり,まさに文化の伝承である。また「家族の健康 を考えて,飽きないように常に新しい味を試し料理を工夫する」というのは, 家庭の独自性を伝承しつつ,そこに一層の新しさを求めて工夫を凝らすという 意味で文化の創造といえよう。このように,ささやかな一家庭で営まれる「食」 のなかにも, そこに住む人達の思いが込められた文化の伝承・創造が存在す る。こうした日々の積み重ねが「我が家」の歴史を作り,その集積が地域の, ひいては人類の文化となるのではないか。そうであるならば私たちが日頃口に している料理にも一万年近い人類の歴史が刻まれており,さらにはその歴史を 作ってきた人々の家族への思い,工夫や知恵が込められていると言えよう。そ の意味で人間の「食」は文化であり, 歴史であり, 独自の人間的世界の中で 「食」を通してヒトは次第に人間らしくなっていくのである。

3.

コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を 支 え る 共 食 (1) 社会的・文化的存在としての人間 人間以外の動物にとって「食」の重要な要素は自分と食材であり, 他者と 「食」を共に楽しむことはない。他方, 人間の「食」は,いつ, 誰と, どこ で,何を食べるかといったさまざまな社会的・文化的な事柄が付随しそのこ とが「食」の重要な部分を占めている。1"同じ釜の飯を食うJ 1"一宿一飯の恩 義」といった言葉からもあきらかなように1"共食」によって,人々の聞に食

(9)

ベ物を媒介にした交流が行われ,成員聞に一体感がもたらされる。歓迎会,送 別会,晩餐会,誕生日会など,さまざまな行事において共に食事をすることに よって,人々は共同体の成員として各々の置かれている立場を確かめながら, 所属する集団全体の一員としての白覚を持ち,幹を強めることができる。人間 ならではの「共食」とL、う食事様式は,食事を共にする構成員の人間関係を映 し出す場でもあり,そこで人々は同じ食べ物を体内化すると同時に,そこに集 う人との関係を内在化しているといえる。料理を一緒に作り,それを分配し共 に食べる行為は,社会的存在である人間ならではの在りょうを表している。 (2) L食卓」を囲むことの意味 家族で囲む食卓を考えてみよう。母親からの吸乳に依存していた子どもが, やがて離乳し自力での「食」が可能となる。その際,父,母,兄,姉あるいは 祖父母といった家族同士が,互いに表情が読み取れるくらいの近さで食卓を囲 み,同じ食べ物を食べ,同じ空間と時聞を共有するo家族にとって食卓を囲み 分け合って食べることは,家族の一体感・連帯感を実感させることになり,自 分が家族という共同体の一員であることを了解する機会となる。 さらに食卓は,そこに集う人間関係をも映し出すので,幼な子はたとえ言葉 は話せなくとも,そこに漂う雰囲気が温かいものであるか,冷たいものである か,あるいは自分が受け入れられているかどうかを感じとることができる。食 卓の雰囲気が温かさで包まれていれば,それは子どもにとっても大人にとって も,安心感を抱き心の底から休まる場所となる。反対にとげとげしいものであ れば苦痛を感じる場となるだろう。また,そこで交わされる会話を聞き,料理 に関する知識,食事に際しての道具の使い方,礼儀作法,他者に対する気遣い や配慮,善悪の判断基準などを知らず知らずのうちに学ぶことができる。会話 をする際の間合いの取り方,言葉にはならない表情やちょっとしたしぐさに現 れる感情の機微を読み取る力などを自然、と養なうこともできるだろう。これら はすべてコミュニケーションの│二台となるものであり,その意味で,食卓は家 族聞のコミュニケーションを支える重要な役割を担う場と言えよう。 (3) 他者との交流 絵本の中には,人間同士や動物同士,あるいは人間と動物が共に集って食事 をする場面が数多く登場するo たとえば,多くの子どもたちに親しまれている 「ぐりとぐら」とL寸絵本がある18) 物語りの主人公はぐりとぐらとし寸名前 一 144ー 「食」の人間形成的意味(田岡)

(10)

の二匹ののねずみで,二人が森の中で大きな卵を発見し,大きなフライパンで ホットケーキを焼き,森じゅうの動物たちと一緒に食べるという話である。絵 本の中で,子ども達が最も歓声をあげる場面が,ホットケーキが焼けてフライ パンの蓋を聞けたところである。ふんわりと焼けたホットケーキの黄色が絵本 の画面いっぱいに拡がると, 子ども達は目を輝かす。大人でも「食べたい」 「おいしそう」と見入ってしまう場面である。甘いおやつを食べることは,子 どもにとっては何よりの喜びであり,満足感をもたらす。さらに大勢で食べる のは一層楽しさやわくわくした気持ちが増す。しかも,日常生活において専ら {乍ってもらう側にいる子ども達も,卵を割り,材料を混ぜ,焼くという動作が 順番に描かれているこの絵本を読むと,まるで自分が料理をしているかのよう に感ずるにちがL、ない。そして焼けたホットケーキを分け合って食べる場面 は,大勢の動物達が,それぞれの場所で各々の体の大きさに合わせたホットケ ーキを食べている様子がにぎやかに描かれている。動物の種類は多種多様であ るが,争うことなくみんなで美味しいものを食べることの喜びゃ一体感が溢れ ており,動物達の満足感・充足感が伝わってくる。そのページは思わず顔がほ ころぶような穏やかな幸福感に包まれており,それは平和で調和に満ちた世界 である19)。こうして子ども達は絵本を聞く度に,みんなで食べることの楽しさ や喜びを実感することになり

r

共食」が幸福感のイメージとして,子ども達 の心に根付いていくことになるであろう。 共に食べることに嬉しさを感ずるのは,子どもばかりではない。大学の授業 において「共食」をテーマに考察した際に,多くの下宿生が冬に友人と鍋を囲 んだときの楽しさを語ってくれた。友人と材料を準備・料理し,ひとつの鍋を 囲むことは,物理的な距離としても相互に箸をのばし合う近い関係であるし 同じものを食べることは心理的にも親しい存在と感じられる。心身共にくつろ いだ雰囲気の中で弾む会話では,授業等での付き合いでは見えなかった友人の 意外な一面を知ることもあるだろう。下宿での鍋は,相手がどのようなことを 考え,どのような価値観を持ち, どのような個人史を背負って今ここにいるか といった他者理解を深める機会となる。おそらく,実家を離れ,独りの食事の 寂しさを体験した下宿生だからこそ,一つの鍋を大勢でつつきあう喜びゃ友と の一体感を感ずることができるのであろう。 さらに,大人にとっても仲間と共に食事をし,酒を飲み,語らうことは相互 の交流を深める場となる。プラトンの対話篇「饗宴」はそのことを如実に表し ている203。 「饗宴」は, ソクラテスをはじめとする話題豊かで話術たくみな才

(11)

人たちが, 愛の神エロスについて銘々語り合うことによって, 話が進んでい く。食事に酒をつけ加えることによって,心身ともにくつろぐことができ,場 の雰囲気がよりなごやかになり,会話もより活発になることを昔から人々は知 っていたので、あろう。これは「食」が単に食べものを口にするだけでなく,栄 養には直接結び付かないが精神的満足感を与える曙好品や,その場を共有する 仲間がし、ることによって, 初めて賑やかでト楽しいものになることを示してい る。結婚式や葬式で会食するのは,共に食べることによって,今まで他人であ った人達が一つの家族になった喜び,あるいは大事な人を失った悲しみの共有 をシンボリックに表している。 こうして, 他者と食卓を共にすることによっ て,その場を共にする者同士の感情の共有や一体感や連帯感の感得とL、う濃密 な間柄を作り,価値観や思想をも含めた精神的交流を行う。このようなコミュ ニケーションがはたらく場としての共食は,社会的・文化的存在である人間な らではの食の在りょうを示している。 けれども他方では,共食は,それに参加しない者に対しては疎外感を与え, 排他的であるし,差異化を図る契機ともなりうる。また,共食の参加者内にお いても,席順や食べ物の内容によって差別化がおこなわれ,所属するグループ の一員としての役割を各自に意識化させ,グループ内の地位や権力や階層構造 を顕現する場ともなり得る。たとえば,一昔前の日本では,一家の家長である 父親にだけ料理の品数を多く出すことによって,家族全員の生活が父親のお陰 で執り行われていることを食事のたびに目に見える形で子どもたちに知らせて いた。そのことによって家族の生活を支える父親に対して感謝や尊敬の念,あ るいは羨望を抱かせる装置として食卓の場が働いていた。この場合,父親と子 どもとの聞に信頼感が築かれていれば素直に受け止められるが,そうではない 場合,不平等感を募らせることになる場合もあるだろう。もちろん時代が変わ り現代では,家庭内における「食」は平等である。一体化,差異化のいずれに せよ

r

食」が人間関係を象徴的に表わす場であることは間違いない。 食卓を囲む共食は,同じ食べ物を体内化する点で人々に一体感や連帯感をも たらせると同時に,そこでの会話を通じて,個々人の考え方や価値観を含む人 間の内面的な交流を図る役割を担っている。そのことは,集団内の団結力や一 員であるという自覚を生み出す。とりわけ子どもにとって食卓を囲む共食は, 自分が包み護られ,心身ともに安心できる場所となるため,人間形成上重要な 意味を持つのである。 -146ー 「食」の人間形成的意味〈田岡)

(12)

4

.

[""生かされて在る」ことの自覚

(1)

i賜物」から「モノ」へ 見えにくくなったくいのち〉の連関 人間の「食」は, 生物として生命を維持することを基盤としつつ, 人間特 有の文化の獲得によって人間化された世界を創造することと深くかかわってい た。ところが,皮肉なことに,文化化が進めば進むほど「食」が生の実感と離 れてゆき,われわれは自分の日の前に運ばれてきた料理がどのようなプロセス を経てきたのか見えにくくなってきた。かつて日本では,家で飼っているにわ とりや豚を食べること,牛やヤギの乳を搾って呑むことなどはごく当た砂前の 「食」風景であった。 ところが, 急速な経済成長, めざましい科学技術の発 展,流通技術の整備,それにともなう外食産業の進出により,現代では食を取 り巻く状況も一変した。自に見える形で生と直結していた人聞の「食」は,便 利さや効率性を追求するあまり,他者の生をいただいているというリアリティ を失ってきたのである。今では i食」が他者の生をいただく「賜物」である ことをすっかり忘れてしまい,その結果,食材は貨幣と交換さえすれば簡単に 入手できる商品化された「モノ」になってしまっている。 (2) 生きとし生けるもののくいのち〉の連闘を感得する試み 自分の生が多くの支えによって成り立っているというくし、のち〉の連闘を実 感しにくくなっていることへの危倶は,現代において初めて特筆されるべきこ ととして注目されたのではない。というのも, 自然、科学が隆盛し始めた近代初 期に,先述のフレーベルは人々の営みを部分に切り離してみるので、はなく,常 に連闘を持ってひとつの全体として捉えることの重要性を繰り返し訴えてい る。しかもあらゆるくし、のち〉の循環を親と子どもに自に見える形で感得させ ようとさまざまな工夫を凝らしているのである。その一例を,母と子の手遊び 集『母の歌と愛撫の歌」における,第7篇の歌遊び「草刈り」に見ることがで きる2九この遊びは,親と子が手をつなぎ合い互いに押したり引し、たりして, 草を刈る動作を真似する手遊びである。注目したいのはその挿絵である。そこ にはミルクつぼとおかゆの皿が左上部に描かれている。挿絵下部の中央には牧 場で享を刈る人が掛かれ,干し草を運ぶ馬車や,その手伝いをする子ども達, 遠くに家や周囲の山々が描かれていて,絵に奥行きを与えている。その解説で 彼は,自には見えないけれども草を覆い茂らせる日光や露や雨による自然の恵 みのお陰で,あらゆるくいのち〉あるものが生きていることを子どもたちに実 -147

(13)

選ヨ

Ql\r4・mjj~rlt

l伽伽"吋刷刷川川1可f竹れ川制拘川帆biie 皇!J)l肘d崎申恥,'崎f怖nn叫時e凶

el11b凶a叫d<!l岡"加6f戸白F俳ιe司 母rI由In9併e町恥e

Lm!l'a3 sutr~胃1"叫llter ,, 曹urbieJtü~' AU !DlildJ u抽出川,,, 2rn司)enl則的TieJt:il~' aleon('oe I

D3tinll' bieIDli(1時 o~n' m:ufent~,dte;

. 1M

muu !αbl

!J)li(吻uMreid)~1I .3u bem guten~emmdbrtiá)ell , ~ap b,ld.Rinbc,骨nod)red)t 1.&, 引nf'別derl¥JiTI・0阿 国αb

.

甲det!gd}c Guf bief!!liefeI 田1M" fd)ndl bnd由開jJ,bae fufie. S削fe~ir ~nnn filtx)dn町l"qtll, Unbt'oer .ftJlf f)ilt'I!l[ll Ud,~ergeóel1; !Daun bn S!r崎町furTM田111耐n, ぬ尚bem!8a.der fur'se-cmmdd}en, Unb TerIDlnttct fnr ben !BrtiI ヨ~aijfeln!llanl肘rgeffl開 fei. フレーベノレ『母の歌と愛撫の歌』第 7第「草刈り」 -148ー 「食」の人間形成的意味(田岡〉

(14)

感させるよう親に教示している。そのため挿絵には,農夫によって耕された大 地,その大地に太陽や雨という自然の恩恵によって草が育ち,それが刈られて 干し草となり,干し草を食べて牝牛は乳を出し,牝牛の乳を搾乳する人やそれ を撹持してミルクやバターを作る人の様子が順番に描かれており,一周したと ころで,左上部のミルクつぼとおかゅの皿につながるに配置されている。この 絵を見ることによって,私たちは,パンやおかゆ, ミルクやバターをさまざま な他者のはたらきのお陰で口にすることができると了解することができる。第 7篇の歌遊び「草刈り」は,生きとし生けるものは

r

¥,、のちの鎖J (Lebens-ketten) によってつながっており, 自己の生が,さまざまな自然の恵みや多く の他者の生による連なりの中で生かされていることを表している。幼い子ども にとって身近なパンやおかゆやミルクという「食」を通して,宇宙にまで拡が るの、のち〉のつながりを直覚させることを企図して,フレーベルはこのよう な遊び歌と挿絵を載せたと考えられる。 さらに時代を戻して現代に目を向けると,学校教育の現場で「食」を通し て人間の生を考える授業に果敢に挑戦した教師の一人に鳥山敏子が挙げられ る22)。彼女は, 1985年に「父母もいっしょになって,子どもたちに, 自分のい のちゃ,生きるということを考えさせる場を作る試みをやってみよう」と提案 し生徒,その親,兄弟姉妹を対象にして学級PTA活動として,教室でブタ を解体して食べる授業をおこなった。鳥山は事前に保護者との勉強会を重ね, この授業への親と子どもの参加・不参加に関しては,各家庭の意思を尊重して 自由選択にしている。授業当日は肉の解体とソーセージ作りの専門家を要請す る。授業では,まず豚の内臓を人間と比較することによって,人間と動物との 共通性を発見させるといった科学的な観察手法を取り入れ,子どもたちにブタ を対象として距離を置き客観的に見させる工夫をしている。そのうえでブタは 専門家によって解体され, 以前授業中にみんなで読んだ『大きな森の小さな 家』のローラ一家をまね,あらかじめ製作していた慎製箱でブタをソーセージ やベーコンに作りかえる。さらに後日,作ったハム,ベーコンを学校の畑でと れたキャベツと一緒にみんなで会食する。また,数日後に作文を書かせること によって,衝撃的な体験をそのままにせず,子どもたちが自分の行為の意味を 振り返る機会を与えている。以上が授業の大筋であるが,いずれにしても,教 室でブタが解体され, それを慎製にして子ども達は食べるのである。そこで は,普段スーパーに並んでいるパック詰め商品としての豚肉が,実は生き物と しての生をもっている豚であり,食べるとL、う営みは他者の生を自己の内に取

(15)

り込み,体内化することだとL、う事実が, 自に見える形で、身を持って実感され るのである。それは子ども達が書いた作文に生き生きと表れている。小学4年 生の子どもが, より大いなるくし、のち〉の連関の中で人聞が生きていると感得 したことを,この授業は物語っているのである。 また,アメリカでは,植物栽培を通じたの、のち〉の循環を基本軸にして, その栽培から料理まで「食」を通じた教育プロジェクトが報告されている23)。 これは「食べられる校庭」作りと称して,校庭の一画を耕し,そこに野菜や植 物の種を撒き育て,それらを収穫し料理してみんなで食べるとL、う授業実践 である。このプロジェクトの最も注目すべきは,栽培した食材を調理して食べ て終了するのではなく,後片付けの際に出たゴミを肥料として用いて次の畑を 耕し,来年の作業へとくし、のち〉をつなぐことによって,季節の巡りの中で, 子どもたちがくいのち〉の循環を体得している点である。しかも,作業は地域 の人たちの知恵や力を借りて行われるため,学校は教師と生徒だけの閉じられ た空聞から地域の人々に開放される。ここに「食べられる校庭」を中心に据え た,教師,生徒,地域の住民の共同作業が成立する。こうして学校は地域との つながりをも回復し,その結果荒れていた公立中学校が見事に変わっていった と記されている。 「食べられる校庭」作りの教育的意味は,まず第一に,畑仕事を通じて子ど もが自然との結びつきを深めることがあげられる。土地の開墾は忍耐のいる仕 事であり,収穫までには草取り,水やり,その場に応じたこまごまとした世話 など大変な労力を要する。しかし汗水たらして耕すと土地は肥沃になり,植 物はよく育ち,立派な実をつけてくれる。これは人聞の働きかけに対する植物 の応答とも受け取れる。このとき植物はもはや理科の時間に習う観察対象とし てのそれではなく,子ども達が植物の気持ちになり一喜一憂するように,子ど も達と植物が一体化している。ここに子どもと植物とのくいのち〉の行き交い が生まれ,子どもの内に自然への愛着が育まれる。 第二に,子どもたちが, 畑を耕し,種をまき,育て,採集し.料理し,残 ったものを土に還しそれが次の植物の栄養となるーこうしたの、のち〉の連 闘を経験する。現代の私たちの生活は, 食材はスーパーで,料理はキッチン で,食べ残しはゴミ箱へ,その後はゴミ焼却場へといったように部分部分に切 られており i食」をめぐるひと続きの営みとして自覚されることはない。し か し 「食べられる校庭」では,植物の世話, 調理, ごみの処理を通して, 生・死・腐敗・再生のくし、のち〉のサイクルを体得することになる。 -150ー 「食」の人間形成的意味(田岡〉

(16)

第三の教育的意味は,子どもが人聞を超えた力を信じることにある。なぜ、な らば,畑仕事は日照時間や雨の有無など人力の及ばない自然の力に従わざるを 得ない営みであるため,あらゆる注意を払って準備し最善を尽くした後には, ただ祈り待つしかない。そこにはおのずと自然の大いなる力を信じ頼みとする 恨みの感情や謙虚さが生まれるだろう。 第四に,共向性の育成と同時に自分自身を頼りとし信じる力の獲得があげら れる。自分たちが手頃にかけて育てた,謂わばくし、のち〉を吹き込んだ作物を 友達や教師と共に料理し食べることは,それまでの苦労を相互にねぎらい,喜 びを分かち合うこととなる。その作業に関わった者同士は,相互にまるで「ひ とつの家庭のように」一体となることができるしそれはおのずと仲間意識 や,共同体意識を育むことに通じる。さらに,作物の恵みに感謝して一同に会 食することは, 人間同士のみならず, 恵みをもたらしてくれた大きなくし、の ち〉の連関に感謝しつつ食べる,喜び、溢れた祝祭的な場となる。以上のことが らは,すべて子ども自身の充実感や満足感,達成感の獲得につながってし、く。 このように「食」をめぐる作業を通して, 子どもたちは, 他者を思し、やる 心,他者とともに生きている実感, くし、のち〉あるものを信じる力,忍耐力や 自分自身をコントロールする力,なにより,自分は何事かをなしうる力がある という自分自身を信じる力を獲得できるだろう。それは今後の子どもたちの生 を根源から支えることになる。 台所の片隅て‘捨てた大根やニンジンの切れはしから,小さな緑の葉が出てい るのに気づいたとき,思わずくし、のち〉の不思議さや力強さ,ひたむきさに感 嘆の声をあげるように, くし、のち〉への畏敬の念、は,一連の「食」にかかわる 営みに参加することを通じて感得できる。あらゆることが貨幣経済に還元さ れ,生きとし生けるもののくし、のち〉のつながりが見えにくくなった現代だか らこそ,それを可視化し,子どもたちに実感させることは,人間形成上重要な 課題である。 i食べられる校庭」のプロジェクトは i食」を中心に据えた宇 宙的な規模の生きとし生けるもののくし、のち〉の交わりを感得する契機となる 営みといえよう。 (3) í~ 、ただきますJ iごちそうさま」の意味 日本では食事の作法として,手を合わせて食前食後に i¥,、ただきますJ iご ちそうさま」のあいさつをする。まだ言葉を話せない幼な子が,親や周囲の様 子を模倣してあいさつをしようとする姿はどこの家庭でもみられる光景であ

(17)

る。学校教育の現場においても, 昼食時には生徒たちが一斉に声をそろえて 「し、ただきますJ

r

ごちそうさま」を言う。ところで,この言葉が意味してい るのは何であろうか。まず,一番身近な意味としては料理を作ってくれた人, それを配膳してくれた人への感謝であろう。また

r

食」を整えるために,栽 培・収穫・流通・販売を含めた食材提供にかかわったすべての人々への感謝も あるだろう。そもそも,食材が料理として,食卓へあがるまでにはさらに多く の人々の手数がかかっている。しかも,それはただの労力や時間だけで、なく, そこには喜ばれる作物を育てたいとL、う熱意や,美味しい料理に仕上け

γ

こし、と いった作る側の食べる側への思いやりや心遣い,配慮、が込められている24)。さ らには, 日光や雨露を降り注がせることによってあらゆるくし、のち〉を支えて いる, より大いなる自然の力への感謝の意味も含まれるであろう。どんなに科 学技術が発展しても人間の力が及ぶ範囲はわずかであり,私たちは自然が運行 する季節に合わせ生きているのである。だからこそ,昔の人は太陽や雨を恵ん でくださった神への祈願や,感謝を込めて,地域で春秋の祭りを執り行ってき たので、あろう。そこには,現代の私たちが失ってしまった

r

食」が本来持っ ている日常性を超えた聖なる世界への通路が聞かれているお〉。 ところで,現代を生きる私たちは,食べ物は元はと言えばすべて生きていた のであり,人聞は他者の生をいただいて自己の生をつないで、いるという事実に ついても忘れがちである。なぜならば

r

食」は経済活動に組み込まれること によってお金との交換物となり,調理・加工・礼儀作法という文化化されるこ とによって

r

食」の生々しさは覆い隠されてしまったからだ。けれども,サ バンナでライオンが口の周りを血だらけにして獲物の肉に食らいついている姿 と,人聞が食卓で道具を用いて料理を食べる姿とは,他者の生を自己の内に取 り込むという点においては,本質的に何ら変わりない。本能のままに自然界に 生きる動物と同様,人聞が生きることは,他者の生の犠牲の上に成立している 営みなのである。 しかも 人聞は他者のために自己の生を差し出すことはな い。にもかかわらずそれでも食べずには生きられない厳然、たる事実に苅して, 人聞にできるせめてものことは何か。それはあらゆるくし、のち〉に感謝して, 他者の生を残さずいただき,それを自己の内に血肉化することであろう。こう して享け与えられた生を,精一杯充実させ生ききることが,犠牲となった他者 の生を自己の内で生かすことといえよう。そうであるならば

r

¥,、ただきます」 「ごちそうさま」の言葉には,あらゆるく L、のち〉を支えているより大いなる 自然、の力への感謝はもちろんのこと,他者の生そのものへの感謝も当然含まれ -152ー 「食」の人間形成的意味(田岡〕

(18)

ているはずだ。子どもの時に食事を残した際に「もったし、ない」と叱責された 経験は,料理が単なる「モノ」ではなく, 自には見えないけれど食材そのもの のくし、のち〉や,作業工程に関わったすべての人々の思いが込められているこ とを暗黙のうちに体得させていたので、ある。 このように,数え切れない他者の生のお陰で自分が生きているという事実一 この「食」の原点を正視することを通じて,人聞を超えたより大いなるくL、の ち〉への感謝や畏敬の念,あるいは生かされているという謙虚さがおのずと湧 きあがってくるのではなかろうか。他の動植物の生をいただくことによって自 己の生が生かされていることを自覚できるのは, くし、のち〉の有限性を識って いる人間だけである。現代の日本において

r

食」は連続する日常の中の何気 ない営みとみなされているが,実は「食」を行うたびに,上述のような宇宙的 な規模のくし、のち〉の連闘を実感する契機が含まれているのである。したがっ て

r

し、ただきますJ

r

ごちそうさま」は,けっして食事開始・終了を告げる 合図のための掛け声ではなく,他者の生をいただくことでしか生きていくこと のできない人間の卑小性を識り,そこから生じる他者への感謝,畏敬の念に満 ちた厳粛な言葉で、あるはずだ。この重みを背負って「いただきますJ

r

ごちそ うさま」を食事の際に発することが,他者のくし、のち〉を想像し,それへと思 いを馳せる機会となる。日常のささやかな繰り返しの中にこそ,他者のくし、の ち〉を尊重し,畏敬の念を抱くことのできる実存的な人間へと聞かれる契機が 潜んでいるのであり,その積み重ねがひいては人間としての生の成就に通じる のではなかろうか。 お わ り に 人間にとっての「食」は,生命維持や栄養摂取といった生物としての生を支 える土台となると同時に,五感を通じて「食」の質を享受する人間ならではの 精神性の形成とも深くかかわっていた。 とりわけ, 乳幼児期の子どもにとっ て,自分の存在が丸ごと受け入れられていることを実感し,心身ともに庇護さ れているという安心感,満足感,充実感を味得することは,人間形成の出発点 として重要な営みである。それゆえ,乳幼児・児童期におけるくし、のち〉の循 環を基盤とした「食」の大切さは,どれだけ強調してもし過ぎることはなかろ う。 ところで自然界における特殊な位置を占める人間の在り方に着目すると,人 聞は他の動物と比較して本能がごくわずかで,特殊化された器官をもっていな

(19)

い。そのため人聞は,生れおちたそれぞれの社会に固有の文化を継承・創造す ることによって独自の世界を切り聞き,人間化してきた。人間における「食」 が

r

喰らう」から調理・加工・礼儀作法をともなう「食事」へと移行してき たことは,社会的・文化的・歴史的くいのち〉を生きる人間独自の在りょうを 端的に表していた。なかでも共食は

r

食事」をともにすることを通じて,そ の場の人間関係までをも内在化している社会的・文化的次元を生きる人間なら ではの「食」の在りようである。 加えて

r

食」には, 自己の生を超え出た, 宇宙的な拡がりをもつれ、の ち〉の連闘を感得する実存的次元へと切り開く契機が含まれていた。それゆえ 「いただきますJ

r

ごちそうさま」の言葉は,あらゆるくいのち〉の連関にお いて生かされている自己の有限な生を自覚した時の,謙虚で厳粛な意味を持っ ていると考えられる。 以上のことから人間の「食」は,生物としての生を基盤としつつ,文化の伝 達と創造に独自の課題を引き受けながら,自然の大いなるくいのち〉の連関の 一角を占める自己の生を自覚しつつ生きるという,重層的なくし、のち〉を丸ご と全体として生きている人間存在の根本構造と密接にかかわった営みであると いえよう。本稿では,主に「食」におけるプラスの面に光を当て,その形成的 意味を述べた。そのため,自らの生が終わることを承知であえて毒杯を飲み干 したソクラテス,摂食障害に陥る青少年といった「食」がもっ危機的状況を契 機とした人間形成的意味については触れることができなかった。この点につい ては今後の課題としたい。 註 1) 鷲田清一編If'<食〉は病んでいるかー揺らぐ生存の条件』ウ.:r:.~ジ選書, 2003年。 2)伏木亨,山極寿一編『いまく食べること〉を問う一本能と文化の視点から」農山漁 村文化協会, 2006年。 3)今回純雄編『食べることの心理学一食べる,食べない,好き,嫌い』有斐閣, 2005 年。 4)岩村暢子『変わる家族変わる一食卓一真実に破壊されるマーケティング常識』勤 草書房, 2003年。 5) 石毛直道監修『講座食の文化第 1~7 巻』農山漁村文化協会, 1998~1999年。 6)パロー・ジャック著山内剥訳「食の文化史一生体一民族学的素描』筑摩書房, 1997 年。 7)竹井恵美子編「食とジzγダー』ドメス出版, 2000年。 8)大村省吾,川端品子編『食教育論一豊かな食を育てる』昭和堂, 2005年。 9)向上書,第

N

部。 -154ー 「食」の人間形成的意味(田岡〉

(20)

10)人聞が「生きる」ことは,生物学的な意味での生命体を生きることを意味するのみ ならず,社会生活を生きる次元や,世代を超えて受け継がれる歴史的な生を生きる次 元も包含されている。さらには代替不可能な他ならぬ私が生きるといった人格的次元 での生きることも意味する。加えて,人間の世界のみならず,鉱物や動植物といった 守宙的に拡がる大きな生の連闘の中で生きることをも意味する。本稿では,このよう に重層的な生を丸ごと全体として生きていることを総称してくいのち〉と表わすこと とする。

11) Friedrich Frobel, Ausgewahlte Schrjften, hrsg. v. Erika Hoffmann, Bd.2., “Die Menschenerz:iehung", 1982, S.22. F. フレーベノレ著, 荒川武訳『人聞の教 育』出,岩波文庫, t964年, 38-39頁。

12)アドルフ・ポノレトマン著,高木正孝訳u"人聞はどこまで動物かー新しい人間像の ために』岩波書庖, 1961年。

13) Die Abendstunde eines Einsiedlers: (In: Pestalozzis Samt1iche Werke, hrsg. von Buchenau, Spranger, Stettbacher, Kritische Ausgabe, Ber1in und Leipzig, 1927ff. Bd.1.)S.266. 長田新編u"隠者の夕暮(ペスタロッチー全集第 1巻).11平 凡社, 1960年, 370頁。 14)霜山徳爾「人間の限界』岩波新書, 1975年。 15)同様にフレーベルも味覚を人間学的に解釈している。彼は『母の歌と愛撫の歌』第 5篇の遊び歌「味の歌」において,感覚の発達は人聞の精神性を高め,実行力への意 志を目ざめさせるために重要であると主張しており,とりわけ味覚は道徳性に結びつ くと捉えている。というのも, ドイツ語の“Geschmack"は「味覚J

r

好み・噌好」 「趣味・美的感覚」といった意味を持つ言葉であるため,“Geschmack"を洗練させ ることは,そのものに対する自分の態度を主体的に決めて行動することであり,その 積み重ねが,やがては「繊細で高貴な趣味」を持つことに通じるのであり,ものごと の内面,すなわち本質や精神の把捉を可能にすると考えられていたからである。ちな みに『母の歌と愛撫の歌』は,母子ともどもが,人間ならではの生を生きるための 視点と配慮の下に著された書物である。素朴な手遊びと楽しい歌,美しい絵,そし て示唆に富んだ解説によって構成されている,母と子のための家庭教育書である。 Friedrich Frobels Mutter= und Kose1ieder von Dr. Johannes Prufer 4. Auflage,

Leipzig, 1927, S.13. (以下この書は MuK.と略記する)。邦訳:小原園芳・荘司雅 子監修,

r

母の歌と愛撫の歌Ju"フレーベル全集』第 5巻玉川大学出版部, 1981年, 30頁~31頁。(以下この書は『全集」第 5 巻と略記する〉 16)現代においては「食」のグローバリゼージョン化によって,特産物や郷土料理が消 失し

r

食」の画一化が起こり,伝統的に培ってきた食べ物の本来のおいしさや食文 化が忘れられている状況が問題となっている。これに対抗して,地産地消を推奨し, 一見非効率的に見える食を再評価するスローフード運動が,各地で起こっている。こ れについては島村菜津著「スローフードな人生!.!J (新潮社, 2000年〉を参照。 17)本学短期大学部において

r

社会福祉学特殊講義1J (2007年前期)の授業で「食」 をテーマとして取り上げ,授業をおこなった。また,筆者は2004年から 2006年に,立 命館大学(非常勤)の「教育人間学」の授業において, く日常の営みから人間形成と

(21)

しての教育を考える〉とL、う趣旨でこのテーマを級っている。 18)なかがわりえこ著,おおむらゆり絵『ぐりとぐら』福音館書庖, 1963年。 19)このほかにもIT'ガンピーさんのふなあそびJl1iI4ひきのあさごはん』など,人間 同士のみならず,動物同士,あるいは人間と動物がひとつのテープルを囲み,食事を する場面が描かれている絵本は数多くあり,いずれも調和と幸福を感じさせる。 20)プラトン著,久保勉訳『饗宴』岩波書庖, 1952年。 I饗宴J(Symposion)は,元 々「一緒にお酒を酌み交わし語り合う」という意味であり,現在使われているシンポ ジウムという言葉は,この古代ギリシヤの「饗宴」に由来している。 21) Muk. S.64IT'全集』第 5 巻54~57頁。 22)鳥山敏子著IT'いのちに触れる一生と性と死の授業Jl1985年,太郎次郎社。鳥山は この授業のほかにも I狩りと採集の時代」とL、う題名で「鶏を殺して食べる」とい う授業を行ない I食」における生と死の不可視の部分をあえて可視化する試みをお こなったり I原爆J I戦争J I原発」をテーマとしてその関係者をゲストスピーカ ーとして招き I人間とは何かJ,Iいのちとはなにか」を子どもたちと考えた教師 である。 23)センター・フォー・エコリテラシー著,ベフツレ・スタジオ訳IT'食育菜園 エディ プノレ・スクーノレヤードマーティン・ルーサー・キング Jr.中学校の挑戦』家の光協 会, 2006年。 24)資本主義の発展の結果,経済性や功利性や簡便さの追求が第一目標とされた社会で は,生産者側の「この人の喜ぶ顔がみたL、」とか「この人の健康を願って」といった 消費者側に思いをはせることはすっかり消滅した状況にあるかもしれない。事実,消 費者不在の「売れればいい」とL、った儲け優先の結果引き起こされた食品不祥事は多 々ある。けれども,社会の仕組みがどんなに複雑になろうとも I食」を原点に還っ て考えると,親しみを持ったメンパー内で食べ物を分け合い,共に安全に,安心して 食べることは人間の「食」の基本であろう。 25)IT'食べること生きること』の中で奥田和子は I食べる」という言葉は Iた ぶ = 賜ぶ」という動詞の口語表現であることを指摘し I食べる」はもともと神からの賜 りものをいただくという意味で,この根底には,神と共に食するという素朴な信仰に 共通してみられる神人共食の宗教思考であると述べている。IT'食べること生きるこ と』奥田和子編集工房ノア 2003年。 キ ー ワ ー ド 食 人 間 形 成 い の ち -156ー 「食」の人間形成的意味〈田岡)

参照

関連したドキュメント

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

それから 3

自発的な文の生成の場合には、何らかの方法で numeration formation が 行われて、Lexicon の中の語彙から numeration

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

子どもたちが自由に遊ぶことのでき るエリア。UNOICHIを通して、大人 だけでなく子どもにも宇野港の魅力

夫婦間のこれらの関係の破綻状態とに比例したかたちで分担額

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので