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奈良三彩の性格についての再考

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2018

年度 修士論文

奈良三彩の性格についての再考

三重大学大学院人文社会科学研究科 地域文化論専攻 地域社会文化論専修

117M205 西山 綾乃

(2)

目次

1

章 奈良三彩をめぐる研究史

1

節 奈良三彩の概要と名称・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

2

節 年代別に見た先行研究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4

3

節 問題の所在と本稿の構成・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5

2

章 器形の由来と用途

1

節 金属器由来の器種・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7

2

節 須恵器由来の器種・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

3

章 奈良三彩短頸壺の年代

1

節 奈良三彩短頸壺の概要と祖型・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10

2

節 火葬骨蔵器・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11

3

節 奈良三彩短頸壺の年代観再考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12

4

章 奈良三彩小壺と信仰

1

節 小壺の概要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15

2

節 小壺と地鎮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17

3

節 三彩小壺と陰陽思想・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19

5

章 奈良三彩の技術の由来

1

節 鉛ガラスの製造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21

2

節 唐三彩・新羅三彩と奈良三彩の関係・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24

3

節 獣脚付短頸壺と韓国の唐三彩鍑(骨蔵器)・・・・・・・・・・・・・・・・・25

4

節 釉薬技術の導入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26 結語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28 謝辞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28 註・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29 引用・参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31 図表出典・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33 図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34 表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38

(3)

1

第 1 章 奈良三彩をめぐる研究史

1

節 奈良三彩の概要と名称

本章では、奈良三彩の概要とこれまでの研究を整理・確認し、本稿で指摘したい点や構成 について述べる。まず、奈良三彩について概観しよう。

奈良三彩の概要

奈良三彩とは、奈良時代から平安時代前期に製作された鉛釉陶器(1)であり、緑釉と褐(黄)

釉と透明釉(白釉)で塗り分けられた三彩、緑釉と透明釉で塗り分けられた二彩、緑釉、褐 釉、透明釉のそれぞれ一色で塗られた単彩の

5

種類からなる。三彩、二彩を多彩釉陶器と呼 ぶが、奈良三彩は単彩も含めた総称として使われることもある。意味としては彩釉陶器と同 義である。奈良三彩の中の緑釉、褐釉、白釉陶器は多彩釉陶器に比べ出土量が少ない。施釉 されたものには、陶器のほか、瓦や須弥山などもある。日本列島における「人工的に釉薬を 塗った陶器」としては、奈良三彩が最初と考えてよい。

奈良三彩を説明するときの名称としては、「彩釉陶器」「施釉陶器」「三彩釉陶器」「鉛釉陶 器」「多彩釉陶器」など、研究者によってさまざまな用語が使われている。本稿では、奈良 三彩を「前代(7世紀後半)の鉛釉陶器の技術を引き継ぎつつ、新たに唐三彩の施釉技術を 取り入れた鉛釉陶器」と定義する。「施釉陶器」と呼ぶことも考えられるが、奈良時代には 植物灰を原料にした灰釉陶器も存在することから、鉛釉陶器という呼称のほうがふさわし い。なお、正倉院に納められている奈良三彩を正倉院三彩と呼ぶ。

奈良三彩は、一般には中国唐代に作られた「唐三彩」の影響下で生まれた、唐三彩を模し た陶器と考えられている(今井・神野・降幡 2017ほか)。唐三彩を模した陶器と述べたが、

模倣した部分は

3

色の色調のみであり、器形は異なる。水簸(不純物を取り除く作業)した 素地 を乾燥、素焼きした後、釉薬を塗り分け、再度窯入れして仕上げるという二度焼き焼成 で作られる。釉薬は珪酸(長石・石英)を媒熔剤(融点を下げる目的で素地や釉薬に入れる もの)とし、酸化鉛を加えて作った鉛釉(透明釉)を基礎に、着色剤として酸化銅(緑釉) 酸化鉄(褐釉)を加える。750~800度ほどの低火度で焼成した素地に塗って、再度低火度 で酸化炎焼成する。

生産工房

奈良三彩は、須恵器や土師器などの当時一般にあったやきものに比べ、手間がかかるため か、生産量が非常に少ない。生産地についても、窯跡が全く発見されていないため、どこで

(4)

2

作られたのか定かではない。

奈良三彩の生産は、土師器や須恵器とは異なり、奈良の東大寺近辺の官営工房で閉鎖的に 行われたと考えられている(田中 1974)。また、平城京北郊の官営瓦窯や平城京などの官 寺付属窯などで生産されたとみる説もあり(高橋 2006)、施釉瓦が作られていたことや、

製作技術や窯構造が類似することから、こうした見解は妥当であると考える。当時の鉛釉陶 器の生産の実態は『造仏ぞうぶつしょさくもつちょう所作物帳(興福寺西金堂の造営に係る文書)から復元的な研究が なされている(福山 1943)。

色調と表面の状態

奈良三彩の主調となる色は、緑と考えられている(田中 1972、田中

1984)

。二彩には緑 と褐、緑と白はあっても、黄と白の組み合わせはない。緑と褐色の組み合わせは御殿・二之 宮遺跡(2)(静岡県磐田市)や井戸向遺跡(3)(千葉県八千代市)などの遺跡で出土例があるけ れども、量は極めて少ない。

釉薬の表面には細かい貫入(胎土と釉の収縮率の違いで生じるひび)が入る。貫入は使い 込むことでも発生する。また、長年土中にあることで鉛が変化し、白い被膜となる銀化現象 がしばしばみられる。多くの奈良三彩は水簸した白い素地を低火度で焼成することで、白い 胎土を保っていると考えてよい。しかし、中には高温焼成してしまったと思われる須恵質の ような灰色のものもある。

器種と用途

奈良三彩の器種は、碗や皿といった供膳具から塔、鼓胴といった特殊品まで幅広くある。

奈良時代に存在した土師器、須恵器、金属器、木器からかたちを写し取り、種類が実に豊富 である。器種によって用途が異なり、仏会や祭祀、地鎮などに使用されたと考えられている。

奈良三彩の造形意匠は唐三彩とは異なり、同時期の須恵器・土師器と同じく金属器の模倣に よるもので、用途も宮殿、寺院における供養具とされる(西 1982)「供養」銘墨書土器や それに関連した墨書土器と共伴することから、供養具として使用したとする指摘もある(玉 田 1994)。さらに、仏前具や仏事(法会)、祭儀、地鎮、井戸鎮めなどの宗教活動の道具と する見方があり(奈良文化財研究所 2004)「仏具」とする考えが一般に浸透している。

分布範囲

2019

年現在、奈良三彩は北海道、沖縄県を除く都道府県から出土が確認されている。出 土の情況は、律令国家の支配領域とほぼ合致する。出土する遺跡数は約

400

遺跡を数える が、須恵器や土師器と比べると微々たる量であり、製作数が限られていたことが予想できる。

7 世紀代の緑釉陶器と技術導入

奈良三彩の技術は

8

世紀に突如として生まれたものではなく、

7

世紀後半に発生した緑釉 の技術を受け継いでいる。奈良三彩以前の緑釉陶器(高橋照彦氏は「白鳳緑釉」と仮称して いる)は、川原寺(4)(奈良県明日香村)の緑釉水波文塼や塚廻つかまり古墳(大阪府南河内郡河南町)

の陶棺が有名である。施釉対象は塼・陶棺であり、造寺、営墓に際して荘厳性を付与する目

(5)

3

的があったと考えられている(巽

1975、高橋 2006)

。7世紀後半に緑釉陶器が誕生し、奈 良時代に唐三彩の影響を受けて、三彩・二彩など多彩釉陶器が作られたという理解(楢崎

1974

ほか)が定説となっている。唐三彩の技術は遣唐使が持ち帰り(高橋 2002ほか)、日 本で奈良三彩が作られたと推定される。

「奈良三彩」の名称

「奈良三彩」という用語は戦前にはなく、1960年代になって生まれた比較的新しい名称 である。イギリスの学者が唐三彩を「tang three colour」と名付けたのを倣った言葉であり、

小山冨士夫氏が命名した(小山 1972)。「奈良三彩」という名称が成立する以前には研究者 がそれぞれ名をつけていた様子が読み取れる(5)

古代の名称「瓷器」

古代、特に奈良時代では陶器を「瓷器」と呼んでいた。『造仏所作物帳』では「瓷坏」「瓷 鉢」と出てくる(6)

この「瓷器」という名称は、『角川日本陶磁大辞典』(7)では「奈良時代・平安時代の施釉 陶器」という意味付けがなされている。無釉の陶器(須恵器)に対する言葉であり、平安時代 の書籍には「青瓷」「白瓷」と出てくる。「青瓷」は緑釉陶器、「白瓷」は灰釉陶器との解釈 が浸透している。中国では日本で言う磁器を「瓷器」と呼ぶが、隋時代の「瓷」は陶器を含 めたやきもの全体を指す言葉であり、中唐時代の

8

世紀後半になると、日本の「磁器」に近 い概念ができ上がるようである(8)

『隋書』(9)何稠伝には「時中国久絶瑠璃之作。匠人無敢厝意。稠以緑瓷為之。」とあり、こ の「緑瓷」を鉛釉ではないかとする見解がある(谷一 1999)。「瓷」に鉛という意味はないた めこの説は通らないけれども、瑠璃(ガラス)と「瓷」は類似すると読み取れ、『造仏所作 物帳』の「瓷器」は、「表面が光沢のある、ガラス質のやきもの」という程度にとどめてお く。

最古の奈良三彩

現在、奈良三彩については、神亀

6(729)年の墓誌を伴う小治田安万侶墓(奈良県奈良

市)出土の三彩小壺が最古と考えられている。しかし、大職冠山(大阪府茨木市)の短頸壺 が型式的に古いものと考える意見が多く(齋藤 1998ほか)、短頸壺が三彩陶器の始まりで ある可能性が高い。

出土遺跡の種類

奈良三彩は、都城跡、官衙・郡衙跡、寺院跡、祭祀跡、墳墓、塚、集落跡など多種多様な 遺跡から出土している。ただし、奈良三彩が出土する遺構の年代と製作年代のずれ(時期差)

が著しい。珍しい陶器、高級品(奈良文化財研究所 2013)であったため、製作した年から 数世紀におよぶ使用例や保管例がある。特に奈良・京都などの近畿地方より東へ行くと、こ

(6)

4

の現象は顕著である。集落で出土する場合は、もともとその遺跡にあったものではなく、近 隣の施設(寺院など)から持ち出したものが長期間大切に使われ、その後廃棄されたケース が大いに考えられる。

色数の変化(減少)

奈良時代には三色の三彩、二色の二彩が製作されたが、平安時代になると廃れ、緑一色の 緑釉単彩陶器が主流となる。多彩釉陶器の下限は栗栖野瓦窯跡(10)(京都府京都市)で出土し た二彩多口瓶から、

9

世紀初めと考えられている。多彩釉陶器は

8

世紀中葉を過ぎると、三 彩から二彩へと変化し、次第に粗悪化するとされる(楢崎 1998)。その理由については、三 彩を製作する技術が廃れ、二彩へと変化したとする見解(小笠原 1976)のほか、生産技術 の衰退はないとする論(山崎 1976)もある。筆者は、三彩から二彩、単彩という変化は、

平安時代の越州窯青磁を模倣して緑釉陶器を製作する流れ、すなわち磁器指向型(西 1982)

の流れで変化したためであり、製作技術は持ち合わせていたと考える。

ちなみに、唐三彩では晩唐三彩(11)と呼ばれる日常什器の役割を持つ三彩陶器が製作され るが、色数の減少はない。奈良三彩は、唐三彩における変化の流れとは異なり、日本独自の 変化を見せる。三彩から二彩への変化は、その中の過渡的な段階で生じた現象と推定する。

2

節 年代別に見た先行研究

奈良三彩に関しては、考古学や科学分析の立場から様々な研究・分析が行われている。以 下、主なものを年代別に、時代の傾向とともに述べる。

1950

年代以前は、正倉院三彩の製作地についての議論が行われていた(梅原 1946ほか) 正倉院三彩を除く三彩陶器は各地でいくつか出土していたが、出土点数はごく少なく、出土 地や遺物の説明、時期の推定などにとどまっていた。緑釉陶器と併せて議論されている。

1970

年代は奈良三彩研究が大きく進歩した年代と言ってもよい。五島美術館編集による

『日本の三彩と緑釉』では、各地から出土した奈良三彩や緑釉陶器の地名表と各遺跡の出土 物などが集約された。また、奈良三彩の製作場所の推定に関する研究(田中 1974)や、地 域を分けて奈良三彩の出土を考察する研究(小田 1974)をまとめている。

正倉院三彩については、それまで日本製か中国製かで議論が分かれていたが、小山富士夫 氏や加藤土師萌 氏らが中心となって調査を行い、素地、成形、文様、釉薬の化学分析などの 観点から日本製と判断した(正倉院事務所 1977)。現在の研究もこれに従っている。さら に、緑釉陶器は三彩陶器に先行して製作されたとする説(田中

1974

ほか)が出され、緑釉 陶器と三彩陶器が同時期に発生したとする見方を再考するきっかけとなった。1970年代か

1990

年代にかけては、インフラの整備(高速道路)や土地開発(ニュータウン造成)が 盛んに行われ、三彩陶器が全国から出土して報告書にまとめられた。奈良三彩への関心が高

(7)

5

まり、研究も活発化した時代といえる。

1980

年代は、正倉院三彩の問題が終息したことから、地方出土の三彩に目が向けられる ようになる。そして、奈良三彩全体を検討する研究が多い中、各器種に特化した研究が現れ る。奈良三彩の中では小壺とよばれる器種が最も多く出土しているが、小壺の編年を考察し た研究がなされ(奥村 1987)、1980年代後半から

1990

年代の発掘調査報告書では小壺の 年代推定に活用されている。また、前代に引き続き、化学分析による研究(山崎 1987)が 進展する。

1990

年代は、シンポジウム(古代の土器研究会 1994ほか)が行われる。この段階にお いて、朝鮮半島由来で緑釉技術を導入し、

7

世紀後半に緑釉陶器が作られ、奈良三彩へと続 くという考えが定着する。しかし、藤原京右京二条三坊東南坪から唐三彩の俑の一片が出土 したことから、藤原京時代における三彩陶生産の可能性を指摘する意見も出され(巽 1998) 奈良三彩の出現時期をめぐる議論が複雑化した。

2000

年代に入ると、研究はやや落ち着きをみせるが、『考古学ジャーナル』では地方出土 の三彩・緑釉陶器の特集が組まれ、東国・九州など地域別に三彩を論じている(井上 2001、

山本 2001)。三彩の施釉技術については、遣唐使が関わり、特に遣唐使節の「玉生」が技術 を習得したとする説が生まれた(高橋 2002、高橋

2006)

2010

年代以降の研究はあまり多くないものの、平城宮出土の奈良三彩を分析し、仏器と しての使用の側面が強いとする研究(神野 2017)や、群馬県内の三彩陶器に着目した研究

(神谷 2018)がある。

第 3 節 問題の所在と本稿の構成

以上のように、奈良三彩はさまざまな面から研究が行われ、すでに説明が尽くされている ような印象も受ける。しかしながら、正倉院三彩以外の地方出土の奈良三彩については、各 報告書での検討や考察があるものの、類似する遺跡の検討までには至っていないと考える。

くわえて、奈良県、特に都城での研究が主であり、地方出土の三彩を集計して分析した研究 はあまり見られない。

また、数多くある器種のうち、小壺に関する研究はいくつかなされているが、他の器種を 総合的に検討した研究はほとんどない。とすれば、灰釉陶器や須恵器などの同時期の土器や、

地鎮、火葬などの当時の風習も併せて考えることで、奈良三彩についても、仏教的用途だけ でなく、様々な思想、思惑が入りまじっている状況がうかがえるのではないか。

唐三彩の技術導入についても、遣唐使が持ち帰った唐三彩と奈良三彩の類似点といえる のは、釉薬のみである。製作器種や用途などは全く異なっており、使用方法に関しては、む しろ朝鮮半島との類似性が認められる。ガラス工房で使用された坩堝やガラス小玉製造用

(8)

6

鋳型なども、朝鮮半島との共通点が多い。

7

世紀後半の緑釉技術が朝鮮半島に由来すること を鑑みると、朝鮮半島からの技術伝播の可能性を検討しておくべきであろう。

以下、本稿では、地方出土の奈良三彩、特に壺形器種を研究対象として、次の構成により 検討を進める。

本稿の構成

1

章では、奈良三彩の概要や研究史、問題点等について整理・確認した。

2

章で、奈良三彩の器種の祖型をもう一度整理する。

3

章では、壺形器種のうち、短頸壺に着目する。これまで出土している短頸壺を概観す るとともに、短頸壺とかかわりの深い火葬墓について、類似する埋葬形態、祖型などを整理 し、年代を再考する。また、従来指摘されているように、骨蔵器として製作されたのかにつ いても触れたい。

4

章では、壺形器種のもう一つの代表格である小壺に着目する。小壺の祖型や、東大寺 出土の銀製狩猟文小壺との関係に触れ、小壺が出土した埋納遺構を再考することにより、仏 教的用途に限らない点を強調する。前章とあわせて、新たな意見の提示を目指し、本稿の中 核としたい。

5

章では、補足として、唐三彩の技術導入に朝鮮からの間接的な伝播があったかどう かを、ガラス製造の器具などの考古資料を概観することで再考する。

ちなみに、奈良時代の鉛釉製品には、奈良三彩のほかに施釉瓦や須弥壇なども存在するが、

検討の対象外とし、本稿では奈良三彩の中でも多彩釉陶器を中心に据える。また、奈良三彩 の文様についても本稿では扱わないことをあらかじめ断っておく。

(9)

7

第 2 章 器種の由来と用途

1

節 金属器由来の器種

前章でも少し触れたが、奈良三彩には数多くの器種が存在し、坏・皿・鉢・壺・瓶・多口 瓶・火舎・塔・鼓胴などがある。出土する量は器種によって異なり、塔や鼓胴など、数点し か出土しないものから、小壺のように何百点と出土するものもある。なお、ここで名前を出 さなかったものもあるが、奈良三彩の生産は「金属器志向型」という基調を出ないという見 方(西 1982)が主流である。

各々の器種の祖型をどう捉えるかは、事典などにより若干異なっている。『日本考古学事 典』(12)では、多くは須恵器と金属器を模倣するとある。『歴史考古学大辞典』(13)では、須恵 器と共通するもの(無蓋杯・有蓋杯・広口甕)、金属器と共通するもの(椀、鉄鉢形・大皿・

水瓶・浄瓶・火舎・塔式蓋盒子・薬壺形・小壺)と二つに分けている。また、有蓋器種は須 恵器、無蓋器種は土師器という原則的な規範が存在したともされている(高橋 1998)

筆者は、少数の器種のみ検討したが、結論から言うと、須恵器と金属器を模倣したという

『日本考古学事典』の見解を妥当と考える。そして、金属器を模倣したものに関して、どう いった用途でどういう器種なのかを確認しておく。ただし、全てについては触れられなかっ たので、以下、一般になじみの薄い器種を取り上げることにする。

金属器由来の器種の多くは仏具を写したものである。仏具とは、仏に供養するための道具

(14)のことである。火舎、鉢、浄瓶、托、塔式合子蓋などを挙げることができるが、今回は火 舎、鉢、浄瓶の概要を簡単に述べる。

火舎(火舎香炉)

火舎とは、暖を取る火鉢のことである。炉部は浅く周縁が広く、そこに三足の獣脚を付す ことが多い。火舎には蓋がないが、香炉にしたため宝珠鈕の透蓋を添えるようになった。火 舎の起源はおそらく西域にあり、中国の唐代に特に流行した器種である。貴族の火鉢として 賞用された(15)。正倉院(奈良県奈良市)の中倉に白石火舎と、金銅火舎があり、この火舎を 模したことがわかる(16)

香炉には柄香炉・香印炉・博山炉もあり、香供養の仏具としてもっともふつうに用いられ たものは柄香炉であった。三彩には火舎香炉のみを写した。いずれも焼香の具であるが、当 時は焼香供養の他に、香木をそのまま仏前に供えたこともあったようである(17)

(10)

8

火舎の形態は、毛利光俊彦氏の研究に詳しい(毛利光 2005)。毛利光氏は、鳥坂寺例(大 阪府柏原市)、南滋賀廃寺例(滋賀県大津市)は爐Ⅲ類

C

とする。中国の南北朝の

6

世紀後 半に登場する爐Ⅲ類

A

に類似し、この系統のものは隋を経て盛唐

8

世紀中頃にも存続する としている。また、大津京例(滋賀県大津市)出土、平城京東市例(奈良県奈良市)のものは 爐Ⅲ類

E

とし、体部の圏線文を省略する。興福寺一乗院例(奈良県奈良市)のものは爐Ⅵ 類としている。8世紀末ごろのもので、中国・中唐前期の

8

世紀後半~9世紀前半の爐Ⅳ類

B

に類似するとされる。

鉢は梵語の鉢多羅の訳で、応量器とも呼ばれる。水瓶同様、供養具ではなく、僧侶の護持 すべき食器で、僧具に属する。供養具としての鉢には、鉢支(輪台)を備える(18)。形は底に 高台がなく、肩が張り、口すぼまりである。僧侶は鉄、仏菩薩に供養するのは金銀また石製 と材質が決まっていた。僧侶の鉄鉢は五てつと言って、破れても五度まで修理して用いること が教えられている。鉢に対する作法は厳重であった。その制度を伝える遺品には、鉄鉢のほ か石鉢・金銅鉢・銀鉢・木鉢・乾湿鉢・磁鉢(三彩)などがあり、鉄鉢だけでなく、様々な 種類のものを使っていた (19)

じょう へい

(図

1)

浄瓶は水瓶の一種で、仙箋形水瓶のことである。義浄の『南海寄帰内法伝』は、浄瓶は清 めた手で持てるものであり、清浄処に置き、時間に関係なくいつでも自由に飲める水を入れ ると決めている(20)。頂上に相輪鈕のような注口を立て、胴部に蓋つきの水入れ口を備える。

水瓶は、本来僧が携帯していた僧具であり、供養具として水を貯え、仏前に供えるために用 いたとされる(21)

水瓶には、龍首胡瓶(ペルシャササン朝由来の器種)、王子形水瓶(長い頸を持ち、胴に 膨らみがあり、下に高台をつける。胴部が卵形と蕪形の二種がある。)があるが、奈良三彩 は浄瓶のみを写す。再び毛利光氏の分類(毛利光 2005)によると、浄瓶Ⅱ類の系譜を引く 例が奈良時代末頃まで残るが、蓋柱状部の表現は簡略的であるようだ。なお、浄瓶は須恵器 や灰釉陶器でも製作された。

2

節 須恵器由来の器種

ここでは、瓶と多口瓶についてのみ記す

瓶(図

2)

瓶は、平城宮や正倉院のものが有名であり、金属器を写したと考えられがちである。しか し、金属器にこのような形態は見られず、水瓶や花瓶とみなされていることもあるが、この

(11)

9

時代の花瓶とは異なる。須恵器に本来ある、長頸瓶や広口瓶とも呼ばれるものの系譜を引い ていると考える。『角川日本陶磁大辞典』では、長頸瓶は「肩の張った胴部に長い口頸部を 持つ瓶」をいい、広口瓶は口縁がラッパ状に開き、口縁端部に縁帯がめぐる長胴の瓶とする。

多口瓶(図

3,4)

多口瓶は、広口瓶や長頸瓶の異種で、肩の

4

か所に子壺のような注口部を配した特殊な 器形の瓶(22)を言う。上記の瓶に

4

つの口をつけたような形態であり、瓶の技術を応用して 製作したことが想像できる。浄瓶と同じく、須恵器や灰釉陶器で作られる。用途は清浄水の 容器と考えられている(23)。かつては多嘴瓶とも呼称していたが、中国の多嘴瓶とは異なる ため、多口瓶と呼ぶのが適切だろう。

多口瓶は、時期を経るごとに形態的な変化があったと考えられている(24)。最古の多口瓶 は薬師寺出土のものであり、口縁がラッパ状に開く広口状の台付瓶に、同じくラッパ状口縁 の注口部を持つとされる。

8

世紀末から

9

世紀初めに登場する灰釉多口瓶の注口部には、縁 帯状口縁の長頸瓶の肩部に縁帯部を持つ口縁の注口部を付すものと、奈良時代以来のラッ パ状の注口部のものがあるという。

多口瓶を出土した遺跡としては、薬師寺(25)(奈良県奈良市)、佐保山(26)(同)、北野廃寺

(27)(京都府京都市)、梅ヶ畑祭祀遺跡(28)(同)、南滋賀廃寺(29)(滋賀県大津市)、鹿蔵山遺跡

(30)(島根県出雲市)、上石原遺跡(31)(東京都調布市)がある。寺院跡で出土することが多い ため、仏具と考えられがちであるが、集落からも出土し、仏教用途だけではないことが推測 できる。

上石原遺跡では、2個の多口瓶が被熱した状態で出土した。

8

世紀後半から

9

世紀前半に 同一工人の手で作られたものとされるが、周辺の竪穴建物は

10

世紀のもので、多口瓶とは

1

世紀から

1

世紀半の時期差がある。他に仏具のようなものが存在した可能性がないため、

仏具として使用されたのではなく、律令制の弛緩の中で中央の力を象徴する宝物として東 国に持ち込まれたものと考えられている(紀野 1994)

なお、薬師寺出土の多口瓶以外は、すべて二彩が施されている。灰釉陶器に多口瓶がある ことからも、奈良時代後期に中心となって製作された器種と推測できる。鹿蔵山遺跡のもの は溝跡から出土し、8世紀~9世紀初めとみなされている。

以上、一部の器形について概観したが、確実に須恵器を模倣したものは、瓶と多口瓶の

2

種類にとどまる。これ以外の奈良三彩は、須恵器や土師器を製作する技術を使って製作され たものの、系譜をたどると金属器にたどり着く。それは、金銀器の機能性の高さやあこがれ を反映しているのかもしれない。

(12)

10

第 3 章 奈良三彩短頸壺の年代

1

節 奈良三彩短頸壺の概要と祖型

本章では、数ある器種の中でも、短頸壺に着目する。

短頸壺の出土例として主に挙げられるのは、大職冠山(32)(大阪府茨木市、図

5)、登戸遺

(33)(神奈川県川崎市、図

6)

、高野口出土(34)

(和歌山県橋本市)

、伝津山出土(35)(岡山県津 山市、図

7)

、伝奈良県(図

8)

(36)、四戸遺跡(37)(群馬県吾妻郡あがつまぐんひがしあがつままち東吾妻町)である。

短頸壺の多くは、火葬した骨を収納する「骨蔵器(38)」として用いられた。しかし、骨蔵器 として使用されたことが明確でないものがいくつかある。

本章では短頸壺の年代を考えるが、法量の変化による編年は確立できなかったため、火葬 骨蔵器の出土状態などの観点から年代を推定する。なお、奈良時代の貴族たちの間では金属 器を至上とする意識があり、金属器の代替品にすぎない奈良三彩は人気がなかったとする 見解がある(矢部 2000)が、この点についても触れたい。

共伴遺物

短頸壺の伴出遺物については、次のとおりである。

大職冠山と高野口の事例は、ともに凝灰岩製の石櫃に入っていた。登戸遺跡でも、存在は 確認できないものの、石櫃があったとされ(39)、底の裏に水銀朱を塗っている。いずれも、

中に成人男性の火葬骨が入っていた。

これらの出土例では、骨蔵器として使用された形跡(石櫃に納められていることや、骨が 中に納められていること)などから、骨を納める目的に使われたとみるのが自然である。ま た、蓋を伴うものは骨蔵器としての使用が想定でき、伝津山の例も骨蔵器と考えてよい。骨 蔵器としての使用が明確な蓋付のものと、それが明確でない蓋なしのものに分けるべきで あろう。四戸遺跡では竪穴建物から出土し、他とは様相が異なる。蓋を伴わないものは骨蔵 器以外の用途に用いた可能性が考えられる。

祖 型

奈良三彩短頸壺の祖型については、須恵器の壺

A

(薬壺)を模倣したという説と、金属器 の壺を模倣したという説に分かれる。一方、須恵器の短頸壺に関しても、金属器を模倣した という見解(矢部

2000、小田 2012)と、朝鮮半島の土器の流れに属するとみる見解(藤

(13)

11

澤 1956)に大別できる。

筆者は、短頸壺の蓋は、押しつぶされた宝珠形のつまみなどから、金銅製の合子の蓋を手 本にしたとみてよいと考える。須恵器を模倣しつつ、祖型は金属器であったと推定したい。

2

節 火葬骨蔵器

骨蔵器を考えるためには、本来、火葬墓全体の中での位置づけを行う必要があるが、筆者 の力量不足から、ここでは骨蔵器のみを取り上げ、その概略を整理する。

骨蔵器の材質と埋納方法

骨蔵器とは、火葬に付した遺骨を納める容器である。インドにおける四葬(水葬、火葬、

土葬、林葬)の一つとして、中国・朝鮮を経て日本に伝わったとされている。火葬の一般採 用は、仏教の伝来(6世紀)から半世紀以上遅れる。持統天皇(702年没)、文武天皇(707 年没)、元明天皇(721年没)などの天皇が火葬され、それが貴族や僧侶など上層階級に広 がっていった(40)

骨蔵器の材質は、陶製(須恵器、三彩)のほか、木製、石製、銅製、金銅製、銀製、ガラ ス製など多岐にわたっている。須恵器には、肩に耳をつけたものや獣脚をつけたものがある。

木製・石製のものは箱形が多く、銅製のものは鋺形や合子形、金銅製・陶製のものは有蓋短 頸壺の形が多い。金銅製のものは球形であり、陶製の体部の肩の張った様子とはやや趣を異 にする。石製のものには、家形石棺を小さくした例もある。

また、異なる材質を二重、三重に組み合わせた埋納法をとるものがあり、ガラス製の骨蔵 器を金、銀、銅の外容器に順じ納める方法は、インドの仏舎利の埋納法に倣ったものとされ ている。この方法が最も格式が高い。ただし、主流をなすのは、骨蔵器を石製や木製の櫃に 納めて埋納する例や、骨蔵器のみを土中に埋める例である。陶製の容器に遺骨を納め、土坑 に直接埋葬した例が最も多く、全国的に見られる。

墓誌を伴う火葬墓の年代からみて、

8

世紀前半から中頃が火葬の最盛期とされている(白 石 2006)

喪葬の場所

『律令』の「喪葬令」(天皇以下、主として官人身分以上のものの死の際の喪葬、陵墓、

服喪その他に関する規定)により、都の周辺や大路の近辺では、墓を作ったり埋めたりする ことは禁じられた(41)。また、五位以上は葬儀できること、身分を越えた葬礼はしてはならな いことが定められている。これらの根底には中国の薄葬思想の影響がある。天皇、皇族、官 人の墓は、都城、寺院、官衙周辺の山麓や山中、あるいは本貫地など、故人ゆかりの土地に 造られた(42)

(14)

12

骨蔵器の年代

わが国における火葬墓の初現期である

8

世紀代には、墓誌を伴う骨蔵器が畿内を中心と して若干知られている。官人層を中心とする被葬者が想定され、年代を明示するものとして 重視されている(池上 1986)

一般的な骨蔵器は、墓誌共伴例ほど複雑な安置法をとるものではなく、製作年代も必ずし も明瞭ではない(黒崎 1980)。奈良時代に認められる火葬の急速な普及という点に関して は、当代の天皇喪葬の変遷に合わせて、必ずしも仏教思想の深い理解を伴わずに、貴族層が 火葬墓を営んだと考えられている。奈良・平安時代の先進地域である近畿地方における骨蔵 器は、8世紀の後半代に集中し、9世紀には減少する(黒崎 1980)

須恵器の骨蔵器(短頸壺)

須恵器の短頸壺は、骨蔵器や胞衣壺といった地鎮具として用いた例がある。けれども、そ れら自体は、上記の用途に用いるために作られたわけではなく、日常的な使用の後、転用さ れるケースが多い。

3

節 奈良三彩短頸壺の年代観再考

ここで、奈良三彩短頸壺の年代を改めて考えてみたい。この点に関する従来の研究が乏し かったのは、このタイプの出土事例の少なさと、年代特定の困難さがあったためと推測され る。ただし、先述のとおり、法量による編年を構築することはできなかったので、今まで述 べてきた骨蔵器の類例から検討する。

従来の年代観

奈良三彩短頸壺の年代について述べた研究は非常に少ないが、以下、齋藤孝正氏(齋藤

1998、齋藤 2001)

、黒崎直氏(黒崎 1980)、矢部良明氏(矢部 2000)の見解を紹介する。

齋藤氏は、丸底で高台を持たず、丸い胴に二重沈線が四段ある大職冠山例を最古とし、奈 良時代初めごろまで遡る可能性があるとしている。次に、丸い胴に二重沈線が四段刻まれ、

高い高台を有する登戸遺跡例、次に丸い胴に二重沈線が回らなくなる高野口例、伝奈良県例、

それに続くのが伝津山例とする。齋藤氏は、大職冠山例と登戸遺跡例について、沈線のある タイプの中でも、高台がないものから高台を付すものに変化したとみているようである。

また、黒崎氏は、石櫃(石製外容器)に入っていることから、大職冠山例と高野口例を、

ともに

8

世紀初頭まで遡る可能性があるとしている。

一方、矢部氏は、伝津山例の形態が正倉院薬壺と酷似することから、天平勝宝

8(756)

歳前後の作とし、登戸遺跡例より下る時期の作だろうとする。

以上、それぞれ従来の年代観を見てきたが、大職冠山例と登戸遺跡例がほかのものより年 代が遡ることは異論がないといってよい。

(15)

13

年代観の再考

従来の見解を踏まえ、筆者の見解を述べることにしよう。

大職冠山例や登戸遺跡例は、ほかの三彩とは異様な雰囲気を与えるため、従来から指摘さ れているように、伝津山例や伝奈良県例より年代が遡る可能性がある。両者はともに器の表 面に沈線がはっきりと刻まれ、合子型の金属器を思わせる。大職冠山例は石櫃に入れられて いることから、火葬墓が営まれる奈良時代前期に埋葬されたと推定する。

注目したいのが登戸遺跡例である。これについては、香水壺(図

9)と見る説があり(奈

良文化財研究所

2013)

、香水壺を壺

A

の祖型とする意見(小田 2012)も踏まえると、この 短頸壺群の中では最古の型式になる可能性がある。筆者が考える年代観は、以下のとおりで ある。

金属器独特の沈線が色濃くあらわされている大職冠山例と登戸遺跡例は、他の短頸壺よ り前の時期に製作された。従来から指摘があるように、大職冠山例は小治田安万侶墓例より も古く、石櫃に入れられていることから、8世紀初頭と考える。登戸遺跡例は、石櫃は発見 されていないものの、石櫃に入っていたとみられることと、香水壺を模倣していることを勘 案すれば、大職冠山例よりも古くなる可能性が出てくる。この両者を

8

世紀初頭と推定し たい。

大職冠山例と登戸遺跡例はどちらが先とすぐには決められないのが現状ではある。火葬 が近畿から始まり(久保 1984)、広まったことを踏まえると、近畿から遠い武蔵の地で骨 蔵器の使用が先行したとは考えにくい。もっとも、製作時期と武蔵へ運ばれた時期に隔たり があった場合は、先行する可能性も否定できない。

この次の段階におかれるのが、伝津山例、伝奈良県例、四戸遺跡例である。特に伝奈良県 例は正倉院薬壺と高台の形態が類似することから、8世紀中頃と考える。

奈良三彩短頸壺の位置づけ

奈良三彩短頸壺は、外容器に入っていたためか、釉薬の遺存状態が良好なものが多く、鮮 やかさがある。当時、それらをどういった人物が所有し、使用していたかは確定しえないが、

財力と権力を持った人間がオーダーメイドした壺と想像できる。

奈良三彩は金属器を模倣した例が多いことから、金属器の代替品や、金属器より劣る存在 とする説がある(矢部

2000)。同様の見解は、

『原色日本の美術

19

陶芸』でも示されている

(田中・中川 1967)。そこでは、骨蔵器には当時きわめて貴重であった金属器が使用され、

製作にはかなりの日数を要するため、早急に入手することは困難であったと推測する。そこ で、比較的短期間で造りうる陶製で、かつ貴重性のある三彩釉の短頸壺が、金属器の代用品 として製作されたとみる。

確かに、7世紀代では土師器や須恵器で明確な金属器志向があり、8世紀もその流れを汲 むと考えられている(西

1986)

。しかし、代替品とするのであれば、わざわざ釉薬も使った 手間のかかる陶器を作る必要性は認めがたい。鉛害の危険性も顧みず、奈良三彩を製作した

(16)

14

のは、消極的な理由によるのではなく、それを欲する人々の需要が存在したからではなかろ うか。同時に、唐や新羅といった隣接国の技能を吸収し、自国のものへと昇華するためとい った積極的な理由を想定してもよいかもしれない。ともあれ、奈良三彩を単に金属器の代替 品や金属器より劣る存在とみる説は再考すべきであろう。

(17)

15

第 4 章 奈良三彩小壺と信仰

1

節 小壺の概要

本章では、もう一つの壺形器種である奈良三彩小壺(43)について取り上げる。

小壺は、都城、寺院、祭祀、官衙、集落、墳墓など、ほぼすべての種類の遺跡から出土す る。第

1

章でも少し触れたが、小壺は地鎮、祭祀などに使用され、祭祀では多くの小壺が使 用された。祖型については後述するが、一般的には薬壺型短頸壺を小さくしたミニチュア土 器と考えられている。法量のみについて言えば、形状は若干異なるものの、短頸壺を約

4

1

ほどに縮小した程度である。

分 布

小壺は正倉院三彩の中には見られないが、全国から出土する奈良三彩の器種の中では最 も量が多い。また、分布も東は福島県、西は熊本県と広範囲から出土する。地域的な偏りが なく、広範囲に分布する器種といえる。

小壺は一時に規格的に大量に製作されて保管され、使用されるものではなく、必要時に必 要分のみが製作されたとみられる。また、素地の製作技術が多様な点から、官営工房に専任 の工人が常時勤めていたとは考えにくく、時間差を考慮したとしても、製作工人に違いがあ ったと推定される(井上 2001)

分類と編年

小壺に特化した研究としては、代表的なものに奥村清一郎氏の研究(奥村 1987)がある。

奥村氏による小壺の説明は以下のとおりである。

小壺には様々なタイプがあり、体部が球形に近いものや「玉ねぎ」形のもの、脚部は外方 へしっかり踏ん張るもの、断面が三角形状の小さなものがある。法量は全体を通観するに、

器高が

4~9

㎝前後、最大腹径が

5~8

㎝、器高、最大腹径ともに

5~6

㎝前後のものが大多 数である。球形または扁球形の体部に短く立ち上がる口縁部を持ち、底部は貼付輪高台と糸 切底のものがあり、後者は極めて少ない。また、蓋は大型品と同様、平たい天井部から下方 へ折れ曲がる短い縁部を持ち、天井部の中央の扁平なつまみを張り付けた外被せ式である。

法量は径

4~6

㎝前後、器高

2~3

㎝前後に収まる。

奥村氏は、編年試案をまとめており(表

1)

、Ⅰ期からⅣ期に分けているが、この試案に

(18)

16

はいくつか問題点がある。一つは「前後」という言葉である。「前後」は示した数値に極め て近い数を指す。Ⅱ期で例に挙げられている桧峯遺跡例は、胴部最大径が

8

㎝である(44)

Ⅱ期の胴部最大径を

6

㎝前後としながら、これを含めると前後

2

㎝の幅を持つことになる。

1987

年当時には現在ほど三彩小壺が出土していなかったため、限られた事例から検討した ものと想像される。しかし、このタイプに入らないものがある可能性は極めて高く、新たに 細かい編年案を提示する必要があるだろう。

用 途

小壺の用途について考察したものとしては、田中衡氏の研究(田中 2000)がある。田中 氏は、関東の三彩小壺を対象に、従来の見解を踏まえて、基本的に三彩陶器は仏具の性格が 強いが、小壺に限っては仏具として用いられることは少ないとする。そして、地方における 三彩小壺(沖ノ島遺跡など)は祭祀用具であることが多いが、東国で多く見るような集落出 土のものは性格不明とした。一方、上総国分寺や下総国分寺の出土例については、器形から 供膳具とは考えにくく、国分寺における何らかの仏教行事に使用されたとみなす。また、同 一遺跡内で仏教関係の遺物が出土する例が多いことから、集落遺跡出土の三彩小壺につい ても仏具である可能性を示唆している。

田中氏の論は、仏教とのかかわりが強いとする従来からの見解を補強する結果となった が、東日本では、村落内寺院と思われる遺跡からしばしば小壺が出土し、竪穴建物からの出 土例もある。それらについては、「仏具」としての使用を想定し、私度僧の所有物と見る考 えがあり、「仏具」的使用法を想定する見方が多い(奈良文化財研究所 2004)

ただ、仏具としての印象が強いものの、溝や井戸、土坑出土の三彩小壺は仏具の要素が薄 い傾向があり、仏具以外の面も強調する必要があると考える。

祖 型

小壺の祖型に関しては様々な見解があり、「薬壺形蓋付壺」すなわち薬壺形短頸壺を模し たものとする説(楢崎 1967、間壁 1988)や、東大寺金堂出土の銀製狩猟文小壺(以下、

「銀製小壺」と表記)に求める説(楢崎 1998)、朝鮮半島由来とする説(高橋 2002)があ る。ちなみに、この銀製小壺(図

10)は中国製と思われていたが、最近、東大寺の銀壺と

ともに、日本製とみる考えが提示されている(吉澤 2017)。吉澤氏が指摘するとおり、中国 にこうした形態は見られないため、日本製とする方が妥当と筆者も考える。

小壺の祖型について、筆者は当初、薬壺形短頸壺を小さくしたとする見方を支持していた。

銀製小壺と奈良三彩小壺は似ているものの、銀製小壺から奈良三彩小壺が生まれたとする より、奈良三彩から銀製小壺が生まれたとみる方がよいと考えたのである。

その理由として、銀製小壺は東大寺金堂出土の

1

点しか確認されていないこと、この小 壺より時代が下る小壺がいくつかあること、蓋の形が全く違うことが挙げられる。銀製小壺 は蓋が扁平であるのに対し、奈良三彩小壺は薬壺形短頸壺と同様、宝珠つまみを縮小したよ うな形態を見せている。しかし、法量の変化を薬壺形短頸壺と比較しても、因果関係が認め

(19)

17

られない。薬壺形短頸壺と銀製小壺の両方の要素も持ち合わせており、一概にどちらを祖型 にしたとは断定できなかった。須恵器工人による薬壺形短頸壺の技術は、三彩小壺の工人に も必要だったかもしれないが、忠実な模倣ではなく、両者を結びつけるのは困難をともなう。

2

節 小壺と地鎮

奈良三彩は、宗教と非常に密接に関係し、主に仏教的用途に供されたと考えられている。

骨蔵器として短頸壺が使用されたことも、仏教との結びつきを感じさせる。けれども、本節 では、小壺=仏教的という考え方に対し、地鎮を分析することで、必ずしも仏教との結びつ きだけではないことを強調したい。

地鎮に使用した小壺

三彩小壺を地鎮に使うケースはいくつかある。そのうち、小壺に内容物を含むものは、平 城京左京六条二坊十四坪例(奈良県奈良市)(45)、粟生間 たに遺跡例(大阪府箕面市)(46)、ク ツヌイ遺跡例(三重県多気郡多気町)(47) 、長岡京左京二条三坊十四町例(京都府京都市)

(48)、ツジ遺跡例(広島県府中市)(49) 、谷川たにがわ生田お い たつぼ遺跡例(兵庫県丹波市)(50)が該当する。

各遺跡の内容物等については表

2

に示した。釉薬の色調はみな三彩であった。

また、平城京を除く遺跡では、奈良三彩を単独で埋納している。平城京では奈良三彩のみ を埋納することはないと考えられていることから(森川 2012)、各地で独自に埋納の形態 を作り出したと推定する。

分 布

三彩小壺が出土した遺跡は西日本に集中している。今後の発掘調査により、東日本から出 土する可能性も否定できないが、西日本に多くみられる埋納形態であり、東日本からの出土 が相対的に少ない傾向は動かないと考える。西日本に集中するのは、律令国家の影響の強さ を示すものかもしれないが、東日本で三彩小壺が竪穴建物から出土することが多く、西日本 では見られないことを考えると、東日本では西日本とは異なる独自の使用方法が想定され る。

内容物

小壺の内容物としては、ガラス玉や繊維質、有機物、銭貨等がある。

ガラス玉については、個々で点数にばらつきがあり、決まった様子はないように見えるが、

クツヌイ遺跡例と長岡京左京二条三坊十四町例はともに

10

個ずつであり、ツジ遺跡例と粟 生間谷遺跡例でもガラス玉の数は

1

点しか異なっていない。相互に関わりがあることが読 み取れる。ガラス玉の大きさについては、各遺跡であまり差はないようである。

ガラス玉以外の内包物については、金箔とガラス玉を小壺にそのまま入れていた可能性

(20)

18

もあるが、ツジ遺跡例で繊維質のものが見つかったことから、ガラス玉を紐に通していた可 能性(府中市教育委員会 2007)もある。金箔と銭貨を土器に入れることは地鎮遺構でよくみ られ(森 1976)、入れるものやその方法はある程度決まっていたと思われる。銭貨を三彩 小壺に入れて埋納したものは、生田遺跡例でのみ確認できる。銭貨は、人と神との間での交 換手段、または埋納する地の神に払う地代(51)と考えられている。

時 期

あくまで推定であるが、粟生間谷遺跡例は

8

世紀の前葉とされている(大阪府埋蔵文化 財協会 1995)。平城京左京六条二坊十四坪例は

8

世紀中葉、ツジ遺跡例は

8

世紀後半と推 測した。壺の製作年代から考えると、粟生間谷遺跡例が最古であり、平城京左京六条二坊十 四坪例、ツジ遺跡例、クツヌイ遺跡例と続く。三彩小壺の地鎮は、8世紀の中葉から後半に 集中すると言えそうである。

銀製小壺

奈良三彩小壺の埋納と関連して、東大寺金堂から出土した銀製小壺について触れておこ う。これは東大寺金堂鎮壇具の一つであり、明治

40(1907)年に大仏の正面(南)の須弥

壇上面、地下約

1

5

寸(45㎝)の比較的浅いところから出土した52。銅製蓮華座の脇 に埋納されたものである。埋納時期は、文献から、聖武天皇の一周忌である天平勝宝

9

(757)

歳か、光明皇太后が死去した天平宝字

4

(760)年のどちらかと推測されている(奥村 1976) この小壺は、純度の高い銀を溶かして鋳造し、ロクロ挽きで仕上げられている。騎馬の人 物がシカやイノシシを追う文様が刻まれ、周りを魚々子文(小さな丸い粒を並べた地文様)で 埋めている。奈良三彩小壺や須恵器の薬壺と同形態であることや、魚々子の様子から、日本 製であることは疑いないとされる(吉澤 2017)。この中に、真珠玉を納めた水晶合子が納 められていた。壺は高さ

4.4

㎝、胴径

6.6

㎝で、水晶合子は二つあり、一つは真珠が

4

個、

もう一つは

8

個入っている。

これについては、陰陽思想を演繹して仏教思想を加味し、銀製小壺を舎利容器ととらえた うえで、大小の水晶合子は天皇と皇后の舎利を封納する容器であり、その中の紫水晶・無色 水晶の玉類(真珠の間違いか)は二人の舎利に仮託したものとする見解がある(森本 2013) 一方、鎮壇の儀式具というよりは、東大寺大仏に直接的に捧げられた献納物という性格が強 いとみて、国家の安泰と聖武天皇の先祖の冥福を祈る思いが込められた宝物とし、創建当初 ではなく、後から埋め込まれた七宝の類ではないかとする解釈もある(53)

この小壺は、奥村氏の編年試案ではⅢ期に属し、文献による推定年代とも整合する。銀製 小壺と奈良三彩小壺の間に共通点は必ずしも多くはないが、両者には一定の関係があった と推定する。製作されてから埋納されるまでの時期差もほとんどないと考えてよいと思う。

ガラス玉を埋納した三彩小壺でも、製作から埋納までの期間は短く、小壺の単独埋納におけ る特徴の一つと言えそうである。

図 3  南滋賀廃寺の多口瓶  図 4  上石原遺跡の多口瓶
図 11  ガラス玉製造土製鋳型

参照

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