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マルチカルチュラリズムと現代日本

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Academic year: 2022

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(1)184 社学研論集 Vol. 7 2006年3月 研究ノート. マルチカルチュラリズムと現代日本 チャールズ・テイラーの『マルチカルチュラリズム』を中心に. 森 田 明 彦* ズムが現代日本に対して持つ意義を検討する。 第1章課題の設定と方法論の提示. マルチカルチュラリズムは「カナダ,オース. 「マルチカルチュラリズム(多文化主義)は. トラリア,アメリカ合衆国,そしてヨーロッパ. 『近代』というプロジェクトの危機を示す有力. を中心に,移民のシティズンシップの平等な認. な指標である」(A.. センブリ一二,2003:9)0. 知,先住民族や少数民族の民族的・集団的自治. センブリ一二によれば,マルチカルチュラ. あるいは集合的権利の承認,(大学)教育におけ. A.. リズムは「近代」というプロジェクトが持つ平. るカリキュラムや『聖典.. 等性(普遍性)‑の志向性に対して,「差異」. るいは多文化化,公的機関での多言語政策,と. 西欧における「近代」. の概念を通じて挑戦する。. canon;』の多様化あ. いった様々な領域において,従来の『国民国家. は中世キリスト教社会の身分制・階層性秩序を. (nation‑state)』における一元的な文化,言語,. 拒絶することから始まった。. シティズンシップ,国家の在り方を批判・変革. 個人の尊厳に基づ. く平等性が近代社会の基礎となったのである。 個人は私的領域において他者を害さない限り,. してゆこうとする思想・運動」(中野,1998)で ある。. それぞれが持つ人生の目標を自由に追求する権. 一方,日本では,そもそも正統的文化・教養. 利を持ち,社会ないし政治はそのような私的領. の内容に関する国民的合意がないために,欧米. 域に対して中立性を保つ必要があるとされたの. 社会におけるマルチカルチュラリズムのような. だ。. 形での主流派文化に対する異議申し立てが顕在. マルチカルチュラリズムは,この手続き的自. 化していない。 しかし,この事実は日本社会が. 由主義の中立性要求が実は一つの特殊な文化の. 「差異」ないし「異端」に対して寛容であること. 反映であると批判する。. を意味しない。. すなわち,個人の平等. な尊厳に基づく手続き的自由主義は個人の差異. 戦後日本では文化を巡る無節操な雑食主義. を考慮しない同質な個人を想定しているのでは. (唐木順三)が按雇したが,その根底には生活保. ないかという批判である。. 守主義とでも呼ぶべき広範な国民的合意が存在. 本研究ノートでは,このマルチカルチュラリ. していた。この生活保守主義は経済成長至上主. *早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程4年(指導教員 古賀勝次郎).

(2) マルチカルチュラリズムと現代日本. 185. 義と一国繁栄主義(一国平和主義)を中核とす. 正当化する口実として使われる危険性を秘めて. る生活信条であり,その範囲内での国際協調を. いる。. 志向するものであったった。したがって,冷戦. したがって,マルチカルチュラリズムを現代. の終結により日本国内の左派勢力が退潮し,米. 日本において生かすた捌二は,欧米,特に英米. 国が日本に対して軍事力を含む応分の国際貢献. 圏の思想的文脈におけるマルチカルチュラリズ. を求める圧力を強め始めた途端に,その脆弱な. ムの位置付けを明らかにした上で,現代日本に. コスモポリタニズムは姿を消し,排外的かつ偏. おける「普遍」と「差異」の問題と取り組む際. 狭なナショナリズムに取って代わられるように このことは現在の日本が外国人受け入 なった。 れについてきわめて消極的である事実と整合的. にマルチカルチュラリズムをどのように使うべ きか,を慎重に検討することが必要なのであ m本研究ノートでは,テイラーの『マルチカル. すなわち,外国人または外国生まれの である。 労働力がその国の総労働力に占める割合はオー ストラリア24.6%(外国生まれ),米国14.8%外 国生まれ),ドイツ9.0%(外国人),フランス 5.2%(外国人),イギリス5.1%外国人)に対 して,冒本はわずか0.3%(外国人)に過ぎない。 ちなみに同じ北東アジアに位置する韓国でもそ の比率は0.6%外国人)と,日本の2倍に達し. チュラリズム』に拠りつつ,欧米においてマル チカルチュラリズムが台頭した文化的背景とマ ルチカルチュラリズムの思想的含意を明らかに し,その上で,H本が普遍的理念としての自由 民主主義を受容するためには何が必要かを考え ることとしたい。 第2章チャ‑ルズ・ティラ‑『マルチ. ている(OECD,2004)。 戦前の日本が家族国家論に基づいた大東亜共. カルチュラリズム』. 栄圏構想を生み出したことを,小熊は「普遍へ. 本書は,米国のプリンストン大学ヒューマ. の改革がせまられたとき,その社会はまず既存. ン・ヴァリュー・センターの開設を記念して企. の文化の枠内で擬似普遍的なものをつくること. 画されたO同センターの所長であるエイミ‑・. で対処しようとする」と解釈している(小熊英. ガットマンは,その中心的課題として,人間の. 二,2001:392)c 戦後,戦争責任を清算し,自由民主主義をナ ショナルアイデンティティとして確立する試み を先送りしてきた日本は,グロ二バル化による. 多様性に基づき正当に創造され維持され得る共 同体とはどのようなものかという問いを挙げて ガットマンによると,きわめて多様な文 いる。 化,政府,宗教を擁する(米国の)相互依存を 強める社会は,これまでに無い創造と破壊の力. 競争の激化,国内における所得分布の不平等化 による一部国民の不満の蓄積,北東アジア諸国 による戦争責任の追求に直面して,再び戦前と. が与えられるようになっている。 その結果,プ リンストン大学を含む(米国の)大学は,次第 に多元的共同体に変容してきたが,この多元主. 同様な「擬似普遍的」理念の創造に向かう虞が マルチカルチュラリズムは,その際,近. 義はあらゆる道徳的原理ないし見方の擁護可能. ある。 代の正統派文化に対する日本文化の「差異」を. 性に対する懐疑主義を伴っている(C.. Taylor,.

(3) 186. 1992:ix). edge)することが必要なのだ(C. Taylor,1992:. ガットマンによると,本書は特に米国,カナ. 4‑5)。. ダに焦点を当てつつ,民主主義社会が現在直面 するマルチカルチュラリズムの挑戦と承認の政(l)ティラ‑の基調報告一承認の政治 治を検討したものである。. テイラーは,この問いに対して,承認とアイ. ガットマンによれば,マルチカルチュラリズ. デンティティを巡る言説がどのようにして現代. ムの挑戦は,自由民主主義に特有なものであ. の我々にとって身近な,少なくとも理解可能な. なぜなら自由民主主義は全ての個人が平等 ものとなったのかという考察を通じて接近しよ る。 に代表されるという原則にコミットしているかうと試みる。 テイラーによれば,現代社会にお らである(C.Taylor,1992:3)。. いて承認とアイデンティティが最大の関心事と. 多様なアイデンティティを持った市民が公的. なった背景には二つの変化があったとされる。. 機関によってその「差異」を承認されず,より 第一の変化は,それまでは「名誉(honor)」の 普遍的な市民的,政治的自由のみが承認された 基盤であった社会的階層秩序の崩壊である。 こ 場合,市民は平等に扱われていると言えるので の「名誉」の観念に対して近代社会は「尊厳」 あろうか。 この問いに対する一つの合理的な回. 「尊厳」は,人間の固有の の観念を発達させた0. 答は,個人的な「差異」に対する公的機関の中 尊厳,市民の尊厳と言われるように,普遍的で, 立性こそ自由民主主義を維持するために必要な平等主義的な意味の観念であり,その基本的前 ものであるというものである。 つまり,市民と. 提は,全ての人が共有するものであるというこ. しての自由や平等は,人間の共通の性質,普遍. とである(C.Taylor,1992:26‑27)t第二の変化. 的ニードのみを対象とするという考え方であるは18世紀末に発生したもので,個人のアイデン Taylor,1992:4)c (C.. ティティに関する新しい理解によって承認の重. しかし,ガットマンは,人間を自由で平等な. 要性を変容させ,強化した。 この変化は「ほん. 市民として扱うことの意味に関して,人間はそ もの」という理念と密接に結びついている。 18 れぞれの人生における選択に対して意味と指針世紀以降の西欧社会では個人の道徳的源泉は人 を与えるために確実な文化的背景(context)を 間の感情であり,人間の道徳的救済は自分自身 必要とするのではないかという問いを提起す. とのほんものの道徳的関わり(contact)を復活. る。 もし,この確実な文化的背景を持つことも. することによって可能になると考えられるよう. 基本財(ニーズ)であるとすれば,自由民主主. になったのである。 テイラーは,この近代的な. 義は不利益を蒙っている集団が多数派の文化押道徳的源泉の観念を初めて定式化した思想家と し付けに対して,彼らの文化を守る義務がある してルソーを挙げている。 その結果,自己自身, のではないか,とガットマンは問いかけるので 自己の内的自然との関わりに道徳的重要性が賦 つまり,ある特定集団のメンバーを平等 ある。. 与されるようになったのである。 自分に対して. に扱い,承認するために,公的機関は彼らの. 正直であること(true)は,自分の独自性に対. 「差異」を無視するのではなく承認(acknowト して正直であることであり,その独自性は個人.

(4) マルチカルチュラリズムと現代日本. 187. が明断化し,発見することが出来るものである. 等性という原則が受容された。 一方,近代的な. から,それは潜在的なほんものの自分を実現す. アイデンティティ観念の発達は差異の政治を生. ることと考えられるようになったのである。 テ. これらの二つの異なった承認への要 み出した。. イラーによれば,これが「くほんもの)という倫. 求はいずれも普遍的な平等性の原則に拠ってい. 理」に関する考え方が発展した背景である(C.. るが,第一のものは全ての個人が同質な権利と. Taylor,1992:26‑31)c. 特権を持つことを求め,第二のものは個人ない. ここで,テイラーはアイデンティティと承認. し集団の独自のアイデンティティが公的に承認. の間の密接な関係を明らかにするために,現代. されることを求める。この二つの承認への要求. の主流派哲学が不可視化している重要な人間の. は互いに対立する(C. Taylor,1992:37‑42)c. 特質を取り上げる0 テイラーによれば,人間の. しかし,テイラーはさらに一見差異に対して. 生の不可欠な特質は,それが基本的に対話的. 中立的な平等な尊厳の政治原理は,実は一つの. (dialogical)性格を持っているということであ. 支配的文化の反映に過ぎないのではないかとい. テイラーによれば,人間が自分自身を理解 る。. う批判を紹介する(C.. し,完全な人間性を実現し,自らのアイデン. ラーは差異を否定するリベラリズム自体が,実. ティティを確立するのは表現手段としての言語. は普遍性を装った特殊主義なのかも知れないと. を通じてである。テイラーは,単なる発語行為. いう批判に対して,西欧文明における平等な尊. だけではなく,アートやジェスチャーも表現手. 厳の政治は二つの形態をとって誕生したことを. 段としての言語に含めた上で,人間はこれらの. 指摘し,それぞれの形態を定式化した思想家と. 言語を通じて他者と関わり合うinteract)こ. してルソーとカントを挙げる。テイラーは,ル. とによって自己のアイデンティティを確立する. ソーが承認を巡る言説の創始者の一人であるこ. のであるとして,人間のアイデンティティは対. と考えている(C. Taylor,1992:44‑45)c. 話的性質を持つことを強調する。 こうして,. テイラーによれば,ルソーは平等の中で自由. 承認を巡る言説は二つのレベルで我々にとって. であり得る条件を,社会の階層性と人間の他者. 身近なものとなる。第一に私的な空間において. 依存性に対立するものとみなす傾向があった。. 我々はアイデンティティと自己の形成を重要な. 社会の階層性と人間の他者依存性は論理的に分. 他者との継続的な対話と争いの中で行なうとい. 離可能であるように思われるのにルソーにおい. う意味がある。 第二に公的な空間において平等. ては不可分のものとみなされていた理由とし. な承認への政治はより重要な役割を果たすよう. て,テイラーはルソーが旧来の階層的社会にお. になる(C. Taylor,1992:32‑37)。. ける他者への依存は社会的地位に基づく評価の. テイラーによれば,公的な空間における承認. 奴隷を生み出すと考えていたからであると解釈. の問題は二つの異なったことを意味する。 名誉. テイラーによると,ルソーは自由と両立 する。. から尊厳の倫理への転換に伴い,全ての市民は. し得る他者の評価への依存は,完全に均衡の.. 権利と権源(entitlement)において平等である. れた互恵関係(balancedreciprocity)において. とする普遍主義の政治が現れ,全ての市民の平. のみ可能となると考えていたとされる。 完全な. Taylor,1992:43)。 テイ. と.

(5) 188. 互恵関係において,人は共通のプロジェクトな 社会は自由主義的であり得ると主張する(C. いし「一般意思(generalwill)」に従うから, Taylor,1992:59‑60)c 他者の意見に従うことは自己疎外を意味しないテイラーは,さらに自由主義が文化的に完全 (C.Taylor,1992:48)cテイラーによれば,ル. な中立性を保持できると主張することは出来な. ソーの思想においては自由(非従属),差異化さ いし,すべきではないと考える。 テイラーによ れた役割の不在,きわめて強固な共通の目的と れば,基本的自由,権利の侵害を超えた,その Tay いう3者は不可分のものなのである(C.. 他の自由・権利について実質的な区別を設ける. lor,1992:51)c. ことは政治においては避けられないことであ. 一方,カントの思想に基づく平等な尊厳の政. り,テイラーの支持する非手続き的自由主義は. Taylor, 治をテイラーはドゥウオーキンの定式に基づいこの事実を受け入れる用意がある(C. ドゥウオーキンは二種類の道徳的 て説明する。 全ての人間は人生 コミットメントを提示する。. 1992:62‑63)o テイラーは,次に多様な諸価値の存続を認め. の目的,何が善き生を形作るのかについての考 るだけではなく,その価値を承認すべきかどう えを持ちつつ,お互いを公平かつ平等に扱うこ か,という多様な文化の価値の平等性を巡る承 第一のコミットメント とにコミットしている。. Taylor,1992:64)cこ 認の問題を取り上げる(C.. は実質的(substantial)なものであり,第二の の承認への要求の背景にある前提は,承認がア コミットメントは手続き的(procedural)なも イデンティティを作り出すこと,支配的集団は のであり,ドゥウオーキンは,生の目標に関す 支配下にある人々に自らは劣っているという自 る特定の実質的な考えを支持しないような社会己イメージを植え付けることによって支配を強 Taylor, を自由主義的な社会と考えている(C. テイラーは,この自由主義社会の見 1992:56)。. 化しようとする傾向があることである。 つま り,自由と平等への闘いはこれらの自己イメー. 方は,カントの思想にその起源を有していると ジの修正を経る必要があるのだ(C. Taylor, 主張する。 カントは,人間の尊厳を人間の自律. 1992:66)。. 性,自分にとって善き生とは何かを決定する個 しかし,テイラーは,すべての文化を平等に したがって,自由主義 人の能力に基礎付けた。. 尊重すべきであるという前提には懐疑的であ. 的な社会では,市民の善き生に関する考え方に る。 テイラーは我々が特定の文化に向かい合う ついては中立を保ち,全ての市民を公平かつ平 とき,すべての文化を平等なものと仮定するこ Tay 等に扱うことが求められるのである(C.. とを権利の問題として要求することには賛同す. lor,1992:57)。. るが,我々が特定の文化を優れた価値のあるも. このカントの思想に基づく手続き主義的な自 の,あるいは他の文化と対等なものとみなすこ 由主義に対して,テイラーはある特定の集団が とを権利の問題として要求することには賛同し 強い集団的目標を持つ社会においても,基本的 ない(C.Taylor,1992:68‑69)。 な自由,つまりいかなる場合にも侵害されては テイラーによれば,我々がある文化には価値 ならない自由に対して適切な保護を提供できるがあるという判断を下すためには「融合された.

(6) マルチカルチュラリズムと現代日本. 189. 基準の地平(fusedhorizonofstandards)」が必. あると見なす「個人の生の様式」であり,そこ. 要であり,そのような基準の地平は我々が異. では民族的アイデンティティはその人の第一義. なった文化を学ぶことによって変容することを. 的アイデンティティとはみなさないとする。. 想定してい名(C. Taylor,1992:70)。 テイラーに. ロックフェラーによれば,自由民主主義は,そ. よれば,すべての文化に平等なものとして対す. れらの「差異」を民主主義的な自由と平等とい. るという前提が我々に要求するのは,地平の融. う理想を実現するための個人の潜在能力を十分. 合によって我々の基準の地平を動かすような比. に発達させるかどうかという観点から,それぞ. 較文化研究に対してオープンな態度をとること. れの文化の内在的な価値の相互的尊重という前. なのである(C. Taylor,1992:72‑73)。. 提に基づきつつ検討するものなのである。この 観点から,ロツフフェラーは特定の文化に公的. (2)スーザン・ウルフのコメント. な援助を行うことを容認するテイラーの非手続. ウルフは,テイラーの議論が異なった文化間. き主義的な自由主義は,基本人権の前提を次第. の価値評価に焦点を当てており,同じ共同体の. に掘り崩す倶れがあるのではないかと主張す. なかの異なった文化的アイデンティティをもつ. る0. 個人に対する承認の問題に十分な関心をよせて いないと主張する。ウルフによれば,例えばシ. (4)マイケル・ウオルツァーのコメント. カゴ大学がアフリカ系,アジア系ないし先住民. ウオルツアーは,ほとんどの自由主義な国民. 系のアメリカ文化に基づくアイデンティティを. 国家は多数派民族の言語,歴史,文学等の文化. もつ構成員たちの独特な歴史,芸術,伝統の存. の存続のために公的な承認と援助を与えてお. 在や重要性を尊重し損なうことは,シカゴ大学. り,その上で少数派に彼らの生の様式を再生産. がそれらの構成員を対等な存在として尊敬する. する自由を認めているという事実を指摘し,テ. ことに失敗しているということであるが,これ. イラーの非手続き的自由主義を支持する(C・. は文化間の価値比較の問題ではなく,アフリカ. テイラー,2002:100)。ウオルツアーは,非手続. 系,アジア系ないし先住民系のアメ,リカ文化が. き的な自由主義は手続き的自由主義を選択する. シカゴ大学の文化の一部であることを承認する. ことも出来ると主張し,その例として手続き的. ことに失敗しているということなのである. な自由主義が公式の教義となっている米国を挙. ウルフは,共同体の構成員が自らの文 (80‑81)。. 米国はいくつもの民族からなる国家であ げる。. 化について学ぶ際には,共同体としての我々は. り,そこには特権的な多数派も例外的な少数派. 誰であるのか,を認識しなければならないと主. も存在せず,自由主義的な個人の権利という理. 張する(C. Taylor,1992:85)。. 念によって社会が構成されているのだ(C・テ イラー,2002:10ト102)c. (3)スティーブン・ロックフェラーのコメント ロックフェラーは,民主主義はすべての人間 を普遍的な人間性の担い手として平等な価値が. (5)ユルゲン・バーバ‑マスのコメント ハーバーマスは,集団的アイデンティティの.

(7) 190. 保護は平等な個人的権利と対立するというテイアッピアは,教育がこれらの集団的アイデン ラーの見解に対して,権利の理論は決して文化 ティティ,いわゆる文化を存続させるという集 的差異を無視するものではないと反論する. 団的目標を内包しており,その意味で政治的な. (C・テイラー,2002:160,162)。 ハーバーマス. 領域に属することを指摘した上で,集団的アイ. は「法の宛て先である人々は,自分自身を,彼 デンティティの承認を求める政治は,その変容 らが私的な法的人格として従っている法の起草を求めることがあるという意味で,しばしば強 者でもあると理解することができる程度におい制の政治と化す危険性もあることを明らかにす てのみ,自律性を獲得することができる」(C・ る。 テイラー,2002:163)という事実を指摘し,私. 第3章現代日本の課題:自由民主主義. 的な人格と同時に公的な人格(法的な人格)は とマルチカルチュラリズム つま 等しく基本的なものであると主張する。 り,上記のテイラーの議論は私的自律性と公的 戦後日本の主流派思潮は経済成長至上主義と 自律性は民主的なプロセスによって同時に保護一国繁栄主義(一国平和主義)を中核とする生 されなければならないとハーバーマスが考える活保守主義であり,この基本的信条に反しない である。. 限り,あらゆる外来文化・思想は無批判に受容. ハーバーマスは,したがって「もし市民全体. しかし,この生活保守主義は例えば米 された。. の人口構成に変動があれば,この地平も同様に 国のプラグマティズムのように自由主義や人権 そうれなれば同じ問題につ 変化するであろう。. 尊重の理念と接続された普遍性を持つ思想ない. いての別の対話が交され,別の決定が導かれる し生活信条ではない。 であろう」(C・テイラー,2002:180)と結論す 日本は自国が弱いとき(戦後)には自国内の る。. 平和と安定のために外部から「面倒ごと」が 入ってくることを拒否する単一民族論を標棟. (6)Kアンソニー・アッピアのコメント. し,自国の力が強大であると感じ始める(戦前). アツピアは,個人的アイデンティティには. と混合民族論で外部のものを取り込もうとし. パーソナルな要素と集団的な要素があること, J‑, 個人的アイデンティティは宗教,社会,学校,. しかし,この単一民族論と混合民族論は他者. 国家を通じて個人が入手し得る観念や実践の中との差異をあいまいにし,血統主義から分離し で対話的に構成されることを指摘する(C・テ た国籍や人権概念を成立させない点で同じ機能 アッピアによれ イラー,2002:214‑215,219)。. を果たすものなのである(小熊英二,2001:. ば,集団的アイデンティティとは,個人が自ら 364,373,376)cつまり,単一民族論も混合民族 の人生の計画を形成したり,自らの人生のス. 論も個人主義や合理主義が未成熟な社会でのみ. トーリーを語るときに使うことができるナラ 存続し得る前近代的,擬似普遍的な生活信条に テイブを与えるものなのである(C・テイラー, 過ぎない。 2002:227)。. 一般に後発国の近代化は技術,政治制度,個.

(8) マルチカルチュラリズムと現代日本. 191. 人の意識の順で進む。遅れて近代化を開始した. 事実である。 そして,テイラーが指摘するよう. 途上国は,先進国が開発した黄新の科学技術を. に,平等な自由と差異化の不在の組み合わせ. 利用できるので,技術的な近代化は最も早く実. は,それが自由主義の政治の形態をとったとし. 政治的(制度的)近代化はその次に実 現する。. ても,市民に均質化を強いるもっともおぞまし. 日本でも1889年2月11日には大日本帝 現する。. い政治体制を生み出す可能性を秘めている(C.. 国憲法が発布され,翌1990年には帝国議会が開. Taylor,1992:51)ということをわれわれは思い. 設された1924年(大正13)より1932年(昭和. 起こす必要があるのだ。. 7)の間には,政友会と憲政会(民政党)によ. 〔投稿受理日2005. ll.25/掲載決定日2005. 12. 1〕. る二大政党制も実現した(南亮進&ウェンラ ン・ジャン,2000)。 しかし,近代社会を支える. 参考文献 アンドレア・センブリ一二,三浦信孝・長谷川秀樹. 個人の集合意識である「近代社会像」は戦間期. 訳『多文化主義とは何か』白水社,2003年. の日本では確立しなかった。大正デモクラシー. 小熊英二『単一民族神話の起源』新曜社,2001年. の崩壊とその後の軍国主義の台頭は,急速な工. 中野剛充「チャールズ・テイラーの政治哲学‑近. 業化に近代的精神の確立が伴わなかった日本の 近代のいびつさによるものであった。 現在の日本は戦前において混合民族論が台頭. 代・多元主義的コミュニタリアニズムの可能性 ‑」『相関社会科学』第8号(1998年) 南亮進&ウェンラン・ジャン論文「所得分布の社会 的・政治的衝撃:日本の経験」南亮進他『所得不. したときのように自国の力を強大なものとして. 平等の政治経済学』東洋経済新報社,2000年. 認識するような状態にはない。しかし,少子高. チャールズ・テイラー他,佐々木毅他訳『マルチカ. 齢化の進展もあって外国人労働者の受入問題は 今後の日本にとって最優先の政策課題となるこ. ルチュラリズム』岩波書店,2002年 CharlesTaylor,Multiculturalismand"ThePoliticsof Recognition,PrincetonUniversityPress,1992. とは明らかである。また,知識はその性質上グ. OECD,TrendsinInternationalMigration2004,. ルーバルなものであり,H本が仮に外国人労働. OECD,2004. 者の受入を引き続き制限したとしても,日本経 済において知識労働が主導的役割を果たすよう になるにつれて日本はグローバル経済の中に否 応無く巻き込まれていく。 このグローバル化に対して日本がなすべきこ とは,小熊が主張するように「国境をこえるべ きものが何で,こえてはならないものが何かを 弁別すること」である(小熊英二,2001:399)。 そのためには,われわれがマルチカルチュラリ ズムから学ぶべき点は,個人の平等を実現しよ うとする「近代」というプロジェクトは,個人, 集団の独自性の承認を必然的に要求するという.

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