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教科学習と道徳教育

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(1)

教科学習と道徳教育

小 松

 教科学習の時間は学校時の大部分を占めている。従って,子供たちの学校での社会生活の時 間はこの教科学習のために費やされている。又,教師と子供たちとの人格的な接触の大部分は この教科学習の時間にもたれている。この教科学習の時間に子供たちがどんな社会生活経験を しているか,教師からどんな人格的感化をうけているか。ということは子供達の徳性の発達に 非常な影響をもたらしていることは指摘するまでもない。教科学習を除いた他の僅の学校時 で,子供たちに道徳的な経験をつませるようにしても,学校時の大部分を占める教科学習の時 間が不道徳なものであれば,それは何の効果もないものになってしまう。むしろそのような状 態下にあっては,子供たちは困惑し,ついに二重人格をもつようになる恐れがある。

 教科学習が子供たちの徳性の発達に効果的であるためには,それをどのようにすればよいで あろうか。教科学習と道徳教育というと,ともすると,教科内容にどのようにして道徳的内容 をとりあげるかということをまっさきに考えたがる人達がいるが,それぞれの教科にはそれぞ れの目的があって,その目的達成に必須なものがその内容としてとりあげられるべきである。

その内容に道徳的なものが存在するとしても,それは偶然的なものである。教科学習が道徳教 育とより深い関係をもつのはむしろその教科学習のしかたに於てである。それは児童の側から 言えば学=習方法であり,教師の側から言えば教授方法である。教科学習に於けるその学習方法 が,道徳教育とより深い関係をもつということは次のブルベッカーの文章によっても明かであ

る。

『ある申学校でエマーソソの随筆を読まされ,どれが一番好きかと教師から質問された。返事 がなかった。教師曰く,「だが,君達は何か好きなものがあったに違いない。これは古典であ る。」少しざわめいたが返事がない。「君達がこれを好かなければ,教育ある人品の好みを全 く知らぬことになる。」今度は沢山の生徒が手を挙げ始め,やがて何人かが証言した。 しか し,みたところ,彼等は期待されたことを言い,信じていない事を述べる学習であった。生徒 に本は古典であるから良いとか,専門家(教師叉は他の)が提出しているから意見が正しいと かを承認させることを奨励する独裁的訓練と,生徒に,良書を読んで趨味,判断を改善し,自 分や他人の意見を討論しかくしてよりよい価値基準をつくりあげることを奨励する民主的人格 養成訓練とが全く異っていることは明瞭にされねばならぬ。』(註1)

 このエマーソγの随筆学=習の例をみてもあきらかなように,いかに学ばれる内容が道徳的に すぐれたものであっても,これを学んでいる方法がわるければ,全く道徳的には価値がない。

(2)

まさに「われわれは行うことのみを学ぶ」のであって,「学生は講義や教科書の中のものを学 ぶのでなく,講義や教科書が彼に行動を起させるものを学ぶのである。」 (註2)このエマー

ソγの随筆文の学習に於て実際に生徒に行動を起させているものは,その内容ではなくて,現 に学習しつ鼠ある学習方法である。即ち,権威者の言だから必ず良いものであると信じこませ ようとする風な独裁的教授法が生徒に自分の判断をもつことより,教師の望むものに応じよう とする偽善的な行動をおこさせているのである。

 ジョγ・チセイルズも学習方法のもつ道徳的意義を強調している。彼はヂョγ・ヂューイの 反省的思考の型を基礎とする学習法の道徳的意義についてのべ,「探究の倫理」を提唱してい る。(註3)それについて彼は次のように言うのである。即ち,諸教科の内容である知識は人 類の丈化遺産であって,それは他人が発見し,公式化した知識である。子供がこれを学び自己

の実力とするためには,「他人が発見し,公式化した意味の機能的価値を,われわれ自身の経 験に於て自分のもの」としなければならない。これを可能ならしめるものはデュー・イの示した 実験的学習法である。子供はこの実験的学習法を身につけることによって,他人の知識のうけ うりから脱して,自分自身の知識を身につけるのである。「一人前の人間となるには,われわ れは観念を所有すべきであって,観念の奴隷となってはならない。」 (註4)実験的探究の精 神の発達は,人間のように,外的権威に屈従することを拒否する主体性を確立すると同時に,

人間や人間と世界との関係などについてこれまでとちがつた見方を習得さすものである。実験 的学習法は,子供に新しい人間観を体得させるのである。その人間襯とは次のような人間襯で

あるとするのである。

自然界も人間界も人間を援助するものとそれを妨害するもの,或は善と悪などの多数のものか らできている世界である。したがって,人間の生存はつねに不安定であり,人間の幸福はか玉 る多元的世界の中にあって,人間の利益にならないようにそれらのものをコントロールするこ とにか㌧っている。人闇はか玉る責任をもてるこの世界の主人公であるとするのである。この ような人間観をもつ主体的な人間は,必然的に反省的倫理を身につけ,社会の慣行に於て偶然 みとめられている規準を人間の行動の規範として自動的にうけ入れる慣習的倫理,超自然的根 源や,あるいは他の外的権威にたよる権威主義的な倫理,或は,権利のための権利,義務のた めの義務ななどいうような抽象的で絶対的な原理を人々に守らせる形式倫理などを排斥するの

である。

 要するに以上のべたことは,チャイルズの次のことばがそれを端的に要約している。

「実験的な実践に於て育成された精神にとっては,道徳と価値とは別々の領域と教材とつくり あげるものではない。」(註5)それらは同時に学ばれるのである。

 このように,学習法は道徳教育上重要な地位を占めるものである故,タートとガーブリッヒ も,教育方法を次の諸点に照らして反省すべきであるとしている。即ち,それは「(1),その 方法は「自己尊敬」をそだてたか,(2),他の個人の権利と尊敬に対する社会意識を発達さし たか,(3),その方法は知的な方法を使用する能力と信念をつくったか,(4),民主的な生活

(3)

方法を充分に経験さしたか。」(註6)の4つの点である。

 戦後,全国の津々浦々にまで「単元学習」という学習法が喧伝された。そうして,現在も尚 その名残として名称だけは用いられている。しかし,その内実はもはや作業単元法,問題単元 法の名に価せぬ異質の教授法となっている。勿論,それがそのようになったのには,それだけ の理由がある。即ち,それがアメリカの風土から生れた学習法である以上,風土のちがったわ が国に,その型のま自記・植される事に無理があった。60人にちかい学級の人数,貧弱な学校の 諸施設など,作業単元法のそだたないわが国の風土であった。だからといって,戦前の教授法 に逆戻りしてよいであろうか。吉田昇氏が指摘しているように,「教育内容ばかりでなく,学 習指導の方法も,現代社会の構造と深いつながりをもっている。」 (註7)ものである。戦前 の教授法は,戦前のわが国社会構造が必然的に要求したパーソナリティの形成に効果あるもの であったことは云うまでもない。というのは,戦前の教授法を反省してみるに,それは,前近 代人的な,絶対随順の道徳を形成するに適したものであった。戦後の社会は民主的社会とし て,民主的なパーソナリティの形成を,民主的な道徳性の育成を教育に求めている。したがっ て.民主的社会の要求は,教育内容のみならず教育方法の変革をわれわれにつきつけたのであ る。たとえ,教育内容が民主的な観点から改革されたとしても,その学習指導法が旧態依然と したものであれば,前節でも考察したように,子供に民主的なパーソナリティを発達させるこ とは困難であろう。

 そこで,我々は,わが国教雨漏の実情を考慮しつ鼠,わが国に於て実践可能なものであっ て,民主的なパーソナリティを育成するのにも効果ある学習指導法を考案しなければならない。

か鼠る学習指導法の確立こそ,児童生徒の民主的な道徳的形成に重要な意義をもつものである

と思う。

 先づそのために,今日もなお優勢な戦前の学習指導法を,主として道徳教育の立場から検討 してみよう。

我国の学習指導法の特色は,教科書の内容を教師が中心的役割を演じながら一斉的,劃一的に 教授する点である。か玉る特色はアメリカに於ける旧式のthe daily−assignrロent methodの 特色と全く同じである。 (註8)

 アメリカに於ける学習指導法の改善はこのアッサイメγト・メッソードの反省と改善から出 発している。即ち,その教授法は民主的な社会の道徳的観点よりして,人間尊重,教育の機会 均等(個性化)などに欠げるとし,かつ,独裁的なパーソナリティを育成するにふさわしいも のであるとされた。したがって,それは民主的社会人としての諸徳性の酒養に冷淡であるとし ている。このような欠陥を除去し,かつそれぞれの教科内容をも効果的に習得さすための学習 指導法の研究が長年月間続けられ,その努力の結晶として作業単元などの民主的社会にふさわ

しい学習指導法を生み出したのである。 (註9)

(4)

 さて,論述をもとにもどして,わが国に実際優勢な学習指導法と道徳教育の関係について検 討してみよう。

教師中心主義の学習指導法は,どのような子供の道徳性を育成したであろうか。教師中心主義 の学習法に於ては,児童は皆同一の教科書を用い,教師の命令によって,学習を行なったり止 めたりする。そうして許可なしにはものを言ってはいけないし,席を立ってもいけない。教 科書の内容とその教師の説明は最高の権威であって,児童は只これを受容することのみ努力す る。教師は是非善悪の決定者であり,教師は着手の自由と意見の権利を持つ唯一の者である。

このような状態下にあっては,教師は権力の所有者であり,独裁的決定者である。他方児童は 命令の遵奉者であり,その命令に従わなければ叱噴と刑罰を受けるものである。教師は観念や 意見の創作及びその発表を独占するものであり,児童は謹んでこれをうけたまわるだけであ る。 かくて児童は自分でものを考えたり, 自分の生活をコントロールしたりする努力を放棄 し,絶対随順者となり,自動人形となるだけである。これではたとえ教科書の内容が民主々義 に関するものであっても,現に児童が行動しつ鼠あるものは独裁主義の制度下に於ける人間と しての行動である。経験しつ鼠ある,行動しつ鼓ある,生活しつ玉あるものこそ,人間のパー ソナリティを形成する。児童はその学んでいる内容の如何にか&わらず,独鐵主義制度下にふ さわしい人間につくりあげられているのである。このような独裁主義的なやり方に於℃ 「児 童は選ばれ批判された価値を作らなかった。彼等は選択したり,自分の思考を発展させたり,

自分で責任を負うたりすることを学ばなかった。彼等は公益のために理知的に協力する技術を 学ばなかった。その代り命令服従のみを学んだのである。彼等は毎日そうした。何故なら,そ の方が容易であったし,そうせざるを得なかったのである。そうして,多数の者にはこれが彼 等の行為の承認法となった。つまり,彼等は精神道徳を持たない生活を学んだのである。」

(註10)

 学習指導指導法に於ける教科書中心はどのような子供の道徳性を育成しているであろうか。

そのことを考察するために教科書中心の歴史学習をとりあげてみよう。教科書中心の歴史学習 に於ては生徒は日本の歴史は,今自分が学習している一冊の本にか玉れている著書の意見が唯 一なものであるとする。彼は色々の本を見たり,関係ある他の本.から必要な:ことを選び出し たり,反対意見を考えたりする重要な能力を伸ばさない。彼はた父自分の教科書をとり出し,

命ぜられた頁を開き,それについて,ふへんされた説明を聞き,その言葉だけを学ぶのであ る。そうして,渡された観念を受けとり,機械的に暗記する。そこには批判的精神のかけらさ えもない。か玉る人間は活字で書かれたものは,凡て真実であり,権威者の言うことはすべて 真理であるとする。まさにロボットであり,マス・コミュー二ヶーシコーソの好餌となるにふ さわしい人間であり,独裁者のあやつるのに好都合の人間である。民主的な社会に於て,この ような自己の精神をもたない者ほどの悪徳者がいるであろうか。

 学習指導に於ける一斉劃一主義はどのような子供の道徳性を育成しているであろうか。一斉 劃一主義が新しい学習心理学の原則から,かつ,民主的な教育原理から批判されていることは

(5)

今更とりあげて言うまでもないことである。どんな平凡な教師でも,それの教育的に不当であ ることは口にする。けれども,その学級の人数のあまりにも過多であることや,わが国の教師 が雑事の極端な繁忙さに追われていることなどのためか,いまだに一斉劃一主義を放棄できな いでいる。しかし,一斉劃一主義のもとに,子供がどんな行動を起し,どんな事を経験し,ど んな道徳性を身につけているかを少しでも検討してみるならば,か玉る学習指導法から脱脚す ることに真剣にとりくまざるを得なくなるであろう。子供達の間に能力差のあること,例えば 小学校第一学年の学級では読書能力に減て普通三ク 年の差があることが明かにされている。こ のような子供達を一斉劃一的に取扱うことは,子供たちに対する教育の機会均等を奪うばかり でなく,能力の劣る子供には劣等感を抱かせるであろう。かくて,後退性をもつ子供をつくり あげるであろう。後退性ほど悪徳なものはないということは教育心理学者の一致する見解であ る。その理由は後退性は個人を不幸にするばかりでなく,民主々義社会を破壊するものである からである。民主々義は自己の良心に忠実であるという各人の義務の履行の上に成立している ものであり,強者の目顔をみ,強者の前に屈従する者には,この義務の履行を期待できないか

らである。

 更に,一斉劃一主義は子供達から自己の学習計画を立てることを否定する。このことは子供 たちのうちに,「無意義な,希望なき仕事に対するつまづきは,失望,努力の嫌悪,自己の信 念の欠如一道徳的素質をつくらんとするものの反対のもの一をつくる(註11)こととなる。道 徳性の育成に於て,我々は常に意志を問題にする。強い意志は失敗の連続の中から生いたつも のではない。自分の追求する目的を達成することに成功し,その成功に感激する所に次の目的 実現への強い意欲が生じ,困難克服の意志力をそだてる。一斉劃一主義は,すぐれた能力の子 供からは「困難を克服する機会」を奪い,低い能力の子供からは成功感を…奪い困難克服の意欲 を起させないる教師は学校の大部分の時間に於て,児童の意志力を弱めるように努力し,他の 少しの時間で児童の意志力を強めようとするならば,それは矛眉も甚だしいと言わなければな らない。たとえ,子供が教師の命令に従って,辛抱つよくものごとをやりとうすとしても,そ れは屈従心であって,意志の力を示すものではない。た黛,ものごとに忍耐つよいというだけ で,強い意志力があるということはできな:い。子供たちが自ら認めた目標に向って,忍耐つよ

く,自己の種々の雑念を克服し,肉体的労苦にうちかち,その目標を達成してこそ,強い意志 力をもっていると言うことができるのである。盲目的な辛抱つよさは実は最も賎しむべき屈従 心のあらわれである。

 以上のべたことは教師中心,教科書中心,一斉劃一主義の学習指導法が,児童に種々の悪徳 を身につけさしていることを指摘したものであって,なおこれ以外にも詳細に検討してゆけ ば,その悪徳はまだ数多くあげられるであろう。(例えば,この学習指導法は必然的に点取り 競争に子供を追いこみ,極端なエゴイズムを身につけさすであろう。)

(6)

 以上の論述によって,過去,現在に渉って依然優勢な教科書中心,教師中心,一斉劃一主義 の学習法が,はかりしれぬ悪徳を子供たちの身につけさしていることが明らかになった。そこ で教科学習が道徳教育に効果的に寄与しうるためには,学習指導法の改善をはからなければな らないことも明瞭となった。勿論,教科の学習法は独り道徳的見地からのみ考案されるもので もなし・また考案された事実もない。教科の独自の内容の習得に効果的,能率的であり,同時 にそれがそのま鼠道徳性の酒淫にも効果的である学習法をつくりあげなければならない。叉,

学習法は現実的条件を無視しては机上の空論となる故,我が国の学校設備,教師の経験,能力

,担当する学級児童数等々をも考慮しつ鼠,前述の企図をも達成する学習法をつくりあげなけ ればならない。私はこ鼠に一つの試案を提出し,その企図の可能性を強調してみたいと思う。

 我が国の教師達の背負っている現実的条件の主なものとしては,①学級の人数の過多,②図 書館を始めその他教具教材資料の貧弱,③学校の各種設備の貧弱④雑務過多等をあげることが できる。このような現実的条件は,アメリカに於ける作業単元法や経験単元法が如何に勝れて 道徳的でありかつ教科内容の習得に効果的な学習指導法であるとしても,それの採用は現在に 於ては甚だ困難である。その点を先づ考え,かつ,我が国教師の大部分が「教師中心,教科書 申心,一斉劃一的弓習指導法」に慣れ親しんでいることをも考慮して,私はこの教科書中心,

教師中心,一斉劃一的学習指導法を基盤としながら,これの改善案を示してみようと思うので ある。叙述の煩をさけるために,この改善案を薪教科書単元と名づけ,その旧い型のものを単 に教科書単元法と呼ぶことにする。

 教科の内容習得が効果的,能率的であるためには,生活化,個性化, 協同化の条件を適えた 学習法によらなければならないことは今こ玉で詳述するまでもなく,新しい教育心理学の証明 するところである。したがって,薪教科書単元法はこれらの条件をできるだけ具備したもので なければならない。そうして,それと同時に新教科書単元法は前節で指摘した教科書単元法の 道徳教育上の欠陥を除去し,更に,積極的に道徳性の滴養に効果的なものでなければならな い。勿論,新教科書単元法について,その詳細に渉ってこ鼠で論ずることは,紙数の制限上許

されないから,以下その概略について述べることとする。

 教科書単元法の教授段階は一般に,①題材の提示,②問答式による内容展開乃至は命令によ る単元内容の断片的自学自習,③教授内容の復習整理の段階をとる。新教科書単元法もこの三 評点を生かして,①提材の提示,②児童の研究活動,③復習整理の三段階の学習過程をとるも

のとする。1慎を追ってそれを説明してみよう。

(1) 題材の提示の段階

 教科書単元法ではこの段階は頗る簡単に終る。即ち,「今日は,何について勉強します。」

と教師が宣言することがその主なものである。新教科書単元法ではこの段階は,(イ) 児童に 学習内容への関心を起させ,かつ,その単元の目標を明確に認識させること,(ロ)その単元

(7)

の学習計画をたてさすことの二つのことがなされるので,相当な時問を必要とする。それらの ことについて簡単な説明をしてみよう。

 先づ,学習動機の惹起であるが,戦后一時流行したものに教師が時間の始めに,「皆さん・

今日は何について勉勉強しますか。」と,発問することである。何について勉強したらよいか というごとを知っているような子供がいるとすれば,も早やその子供は教育の必要のないもの である。どのような学習内容をどのような順序で学ばすのが最善であるかについて知っている のは教師であって子供でない。「われわれが,学校を設立するのは,子供が自己の発達の原理

と方法をしらないということを認識するからである。」 (註12)その点,教師はどのような内 容を如何に学ばすかを決定する権利と義務をもっているのである。したがって,「子供は何を 学びたいか。」 ということでなく,「学ぶことに対して強い欲求をもたさす」べきである。そ

うすることが,教育上の真の興味説に忠実な所以である。(註13)

 先づこの段階はその初めに,か鼠るモチーベェーシ。γが行われ,次に児童に学習すべき目 標を認識さすのである。そして子供の学習内容を学習せんとする意欲と学習目標の認識とを基 本として,子供はそれぞれ自分の学習計画をたてるのである。勿論,児童が自力だけで,学習 目標を決定したり,学習計画をたてたりする能力を充分もっているものではない。それ故,こ

玉で,教師は「学習案内」を児童達に手渡すのである。私は「学習案内」の内容をタートらの ガイド・シート(註14)を参考にして次のようなものを考えている。

(イ) 児童が意識的に努力すべき目標についての完全なリスト。(ロ) クラス全員が単元の最 少限の目標を達成するに必要な読書その他の資料のリスト。(ハ)疑問や問題の型式での練習 教材のリスト(この練習教材は,単元内容についてのミニマム・エッセγシヤルを示すもので あると同時に,実生活上の事実と関係づけられたものであること。)(二)単元の最少限の目 標を達成した児童に対して補充的な読書,練習教材,叉は,その単元内容と関係をもっている

ものであって個人の興味欲求にあうであろう問題とその計画のリスト。(能力差に応じて利用 できるようA案B案にわけてリ入トすること)(ホ)復習整理についての指示。

 この「学習案内」を中心として話し合い学習がおこなわれ,子供たちがそれぞれ納得したの ち,子供たちはこの「案内書」をもとにして,それぞれ自分の能力にあった自己の学習計画を たてるのである。この学習計画をたてる時に教科書が利用される。教科書は60人に近い1学級 の児童が同一の教科書を持つのでなく,A児はイの発行所のものB児はロの発行所のものとい

う風に,発行所のちがった7,8種類の教科書がその学級にあるようにする。したがって同一発 行所の教科書は,学級の子供のうち7,8名が持つことになる。1学級に同一発行所の教科書が 7,8冊もあれば,学習に不便はない。同一の教科書を60人のこどもがもっことが,「教科書を 教えるのでなく,教科書で教えるのだ。」ということに教師をふみきらさない大きな原因であ る。又,かくすることによって,教科書は参考書の機能をよく発揮することができるのであ

る。

 教科書は学習計画のとき参考とされて利用されるばかりでなく,研究活動の段階に於ても,

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復習整理の段階に於ても,それぞれの目的にしたがって利用されるのである。

 かくて,この段階の終りに於ては,子供達は何を学びたいかということについて強い関心を もち,それに従って,学習目標の認識がなされ,学習計画を樹立するのである。こ玉に更に一 段と学習への意欲を湧きた鼠し,次の段階に突入せんとする子供の姿をみることができるであ

ろう。

(2)柵究活動の段階

 この段階では,せきを切って落された水のように,児童は自発的に自己の計画にもとづいて 研究活動を展開するであろう。教師の指導上,(・f)単元の最少限の目標を達成するもの。

(最も多く教師の助力を必要とするもの)と (ロ) さらにそれに加えるにA案をとるもの,

及び,(ハ) B案をとるものの三つのグループをつくる。必要に応じて,グループ毎に一斉指 導を行う。なおこの段階の詳細については省略する。

(3) 復習整理の段階

 第二段階が終ると,この単元を問題単元としてクラス全員が協議して,その学習計画をたて 計画された仕事の各部分について,グループごとに分担して研究発表をなすのである。所謂社 会化された復習(socialized Recitation)の型をとる。(註1、5)勿論いつでもきまって問題単 元の型をとるとは限らない。その単元内容に応じて,展覧会,劇化などの型とるのである。こ の復習整理の段階の最後に,教師と児童達とは,この単元で何が重要であるかについて話し合 い,テ入トの内容を決定する。そうして,そのテスト内容について児童たちは互に協力しあっ て確めあい,不足のところを勉強する。教師はその内容を基礎としてテ入1・問題をつくりテス

トする。

 以上が薪教科書単元法の学習指導段階の概略である。この方法によれば,単元内容を,生活 事実と関係づけることも,叉,自主的に,或は協同的に学習活動をさすこと,更には個人差に あった学習をさする事も可能である。そうして,教科書単元にみられる道徳教育上の欠陥を除 去し,積極的な道徳教育をなすことができるのである。しかし,新教科書単元法のもつ道徳教 育上の意義についてはまだ充分な論述をしていない故,次にその点にふれてみよう。

 新教科書単元法が民主的社会人としてもたねばならない諸徳性を酒養している点について列 挙してみよう。

 (1) この単元法に於ては,教師はその指導権を正しく行使しつ&,子供の自主性を育てて いる。たとえば,題材提示の段階を分析してみる。教師は子供自らが認め欲したことを,子供 自らがそれを追求する研究計画をたて,それに従って自己の行動を統制するように子供を助け

ている。

 (2) この単元法は強い意志力を養うのに効果的である。個人差にあった学習を展開すると ころに成功感を子供にもたし,子供がそれにもとづき,学習過程に於ける幾多の困難に進んで

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ぶつかり,これを克服することを身につけさしているからである。

 (3) この単元法は子供の計画性合理1生を育てている。この単元法に於ては子供は自己の莫 然と欲求したものに衝動的にとびつくのでなく,それを明瞭な目標にまで分析し,その目標達 成に対して含理的な計画をたてるからである。

 (4) この単元法は教科書や参考書を正しく用い,批判的な精神を育てている。この単元法 に於ては,教科書を大いに利用する。けれども,それを唯一絶対の権威あるものとしてではな

く,児童が自己の学習をなす手段として利用されている。そうして,1教科1種類の教科書で なくて,著者のちがった7, 8種類の教科書が使用される外,できる限りの参考書が利用さ れ,子供はその中から自由にその内容を取捨選択することができる。

 (5) この単元法に於ける社会化された復習は,責任や協同性を育てる。この単元法の復習 の段階では子供たちは協同で計画をたて,計画された仕事のそれぞれの部分を分担して責任を もち,その責任を確実に果すことが奨励される。そうして,共通の目標にむかって,自らの最 善をつくして協力する。自己の最:善のものを皆と分ちあって,手をとりあって一緒に高まろう

とする態度がつくられる。

 (6) この単元法は誠実な徳性をやしなう。誠実とは自己の良心に忠実であることを謂うも のであるが,この徳性は,個人のみならず,民主社会にとって,最:も重要な道徳である。森田 氏は誠実という徳をあらゆる徳の基本として重視している。(註16)子供を常に学習に於ける 失敗の連続の場に追いこんだり,点取り競争においこんだりする場合,誠実とという徳性は失 われるものである。個人差に立つこの学=習法では,成功感を子供にもたす。かつ,教師は絶対 的権威者としてではなく協力者として行動し,或は,成績や点数によって学習を外的に動機づ けることを否定する。これらのことから,子供のうちに,自信と安定感をもたす。この自信と 安定感こそ,誠実な態度をつくりあげるものである。

註(1)Brubacller&Others, The Public Schools and Sphitual Values,1944, pp.150−151.

 (2)Op. cit, P.105.

 (3)John L Childs, Education alld Morals,1950, PP.155−177,

 (4)Op. cit, p.157.

 (5)Op. cit, P.167.

 (6)1.N. Thut and J・Raymond Gerberich, Foundation of Method for Secondary Schools,

   1949,P.41.

 (7)吉田昇 現代社会と学習指導 昭和27年14−15頁

 (8)1.N. Thut and J. Raymond Gerberich, Foundation of Method for Secondary Schools,

   1949,pp.132一】33.

 (9)Op. cit, pp.207−210.

 (10)Brubacher&Others, The public Schools and Spiritual Values,1944, p.141.

 (11)OP. Cit, pp.132−133.

(10)

(12)John L. Childs, Education and Morals,1950, P.15.

(13)Macomber, Guiding Child Development in the Elementary School, p.310.

(14)1.N. Thut and J. Raymond Gerberich, Foundation of Method for Secondary Schools     l949, pp.223−226

(15)Op. cit, pp.157−158.

(16)森 昭 教育の実践性と内面性 昭和30年 188−192頁

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