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デューイの道徳理論と道徳教育

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デューイの道徳理論と道徳教育

林 康 廣

はじめに

 1900年に世を去ったニィチェは、『力への意 志』(1)で、ニヒリズムの到来を予言した。彼の説く ニヒリズムは従来の価値体系の崩壊と解してよかろ う。ところで、近代の哲学者たちは、ヨーロッパ文 化の形成原理を理性と呼んできた。とすると、「神 が死んだ」という言い方でニィチェの説くニヒリズ ムとは、理性の崩壊、理性の破産といいなおしても 間違いではなかろう。

 そこで、20世紀初頭の哲学者たちが置かれていた 知的状況、っまり「理性の崩壊」と呼ばれた現象の なかで、マルクス主義、実存主義とならんで、プラ グマティズムが大きな思想的影響力をもっようになっ た。ジェームズは、その著『プラグマティズム』の なかで、次のように言う。「この語は、ギリシャ語 のプラグマから由来する。プラグマは行動(action)

を意味する」。ωプラグマティズムは、プラグマの 哲学であり、行動の哲学である。行動はやがて生活

となり、生活はまた経験となる。言いかえれば、こ れは、日常生活における経験や行動を重視し、それ と結びっいた知識を獲得することにより、よりよい 生活を築いてゆこうとする思想といえよう。ここで

は、善とか真とか呼ばれるものは、われわれがある 具体的条件のもとで実践してみた結果によってきめ

られるものであり、仮説的・相対的なものであると されてしまう。

 周知のごとく、プラグマティズムは、アメリカで 生まれ発達してきた思想であり、パース、ジェーム ズによって唱えられ、デューイによって発展された。

デューイは、とりわけ倫理学の分野を意識的に開拓

した。

 社会的変動が激しく、また新しい社会への変革を 必要としている現代において、従来の慣習的規範や 伝統的観念は大きく転換し、人々は自分の行動を導 く目標を失い、新しい社会創造のための具体的なプ ログラムも、またそれに参加する態度決定の有効な 基準も見いだせないでいる。このような価値の混乱

した状況においてこそ、プラグマティズムは、かえっ てより有効に機能し得るものをもっており、またそ のための思想であるといった方が適切であろう。

以下、このような思想的状況を念頭において、デュー イにおける道徳の基礎理論の本質と性格、その現れ である、道徳教育の意味と方法との問題を考えてみ たいと思う。

1 道徳教育の基礎理論

 1.慣習的道徳とその限界

 デューイは、慣習道徳と反省道徳とを区別して、

道徳を考える。デューイにとって、慣習道徳とは、

行為の基準や規則を先祖伝来の習慣におくものであ る。それにたいして、反省道徳とは、良心、理性、

または思考を要する原則に訴える(1)ものである。

 社会が変化のはなはだしい、流動的なものになっ てくると、慣習的道徳規準は論理的に決定的なジレ ンマに陥る。従来の慣習からはみ出した新しい事態 や、慣習相互が衝突、矛盾する事態は、慣習それ自 身によって、処理が不可能となる。このように行動 を要請するすべての事態は、慣習的基準からはみだ した新しい独自の善を主張するようになり、慣習的 基準を絶対的画一的に適用することを不可能にする。

 しかし、慣習に基づく道徳的な行動は、価値の多 様化した現代にあっても、相変わらず人の道徳的な 行動のよりどころとされている。人が道徳的判断を するとき、慣習から、いかにその行動が逸脱してい るかによって、徳・不徳、善・悪が決定されてしま う。人は、無形の伝統・慣例・常識・法律・制度等 のような既成社会の行動様式にしたがって、行動す るのである。われわれは、日常的な行動を無意識的・

習慣的に行う。それにもかかわらず、このようにあ る程度、慣習の命ずるままに、無意識的に慣習に適 応してしまうという習慣的に反応する特性こそが、

慣習を判断の基準とする道徳の次のような限界を特 色づけるものである。

 まず第一に、習慣的反応が無意識的に既成の基準

(2)

に適合しえるのは、その反応様式がすでに自我の一 部になっているからである。両親をはじめ周囲の大 人たちの、躾、礼儀作法の形を通して、その社会の 慣習や行動規範が、幼少年の反応のなかに定着し習 慣化される。それ以後の意識的思考に基づく諸経験 も、この習慣により意味づけられ再構成されてしま い、しかもそのことが明確に自覚することなく行わ れてしまう。デューイは言う。

 「無意識的に自我の一部になっているところのも のをさぐりあて矯正することは、後の反省にとって は、ほとんど不可能である。歪み振れたものが、自 然のものに見えるだろう」。(Z)習慣が第二の天性と

して機能し、人は、自己の歪みを自ら指摘すること ができないのである。

 第二に、習慣は、その特性として持続作用をもっ ている。(3)つまり、自ら用いる判断方式を変化させ まいとして、慣習的基準を固定化し、絶対化してし まう機能が顕著に現れる。

 このように慣習的基準を固定的・絶対的に機能さ せることこそが、慣習的道徳の限界を示すものであ

り、デューイが問題視するものである。慣習を固定 的・絶対的基準をした場合の人々の思考態度は次の ような弊害を伴う。

 消極的な弊害として、周囲の人々の是認や否認に 敏感となり失敗や非難を恐れる「事なかれ主義」の 消極的態度、自己防衛的、弁護的態度である。ωそ

こには形式主義・律法主義的行動しか見いだせず、

より新たな善を創造しようとする自由で自立的な道 徳精神は萎縮し、偽善や恐怖や名声のために既成の 行動規範に従いそれからはみださないことにのみ専 心する、型にはまったロボットのような人間が形成

される。

 積極的な弊害として、自ら採用した道徳的規準を 金科玉条とし、これにたいして狂信的態度をとるこ

とになり、独断論者や教条主義者が現れる。これは、

それ以外の規準や観念、それを支持する個人や集団 にたいし、病的なまでに排撃的態度を取り、不寛容 と厳罰主義とをのさばらすようになる。(5)

 デューイは、そのような事態の解決法として、自 然科学における諸法則・諸観念が、個々の具体的事 態の処理のためにその探究の知的道具となったと同 じように、道徳判断においても、慣習や既成の道徳 観念に重点を置きそれを絶対視するのではなく、

「個別的事態に終始重点を置き」(6)、慣習や既成道 徳をこの事態の判断のための相対的・仮説的な知的

道具として位置づける、ということをする。このよ うな「重心の移動」は、道徳における「革命的」な ものというべきであろう。(7)このような道徳観をま とめると次のようになろう。

 第一は、「すべての道徳的事態は、かけがえのな いそれ自身の善を持つ独自の事態である」(e)という ことである。

 第二は、「原理・基準・法則は、個別的独自的な 事態を分析する知的道具である」ωということであ

るQ

 2.道徳判断に科学的方法が適用できるか。

 ところで、このように、その原理、法則を個別的 な道徳的事態のための知的道具とすることは、唯一 で独自な事態にたいする道徳判断に科学的方法が適 用できることを前提としてなりたちうることであろ

う。

 しかしながら、科学的判断と道徳的判断とのあい だに、論理として分裂がある、という諸説が多くあ る。デューイは、『道徳性の科学的対処の論理的条 件』 Logical Conditions of a Scientific Treat。

ment of Moralityのなかで、それらの諸説を、次 のような簡単な論理的形式に還元できると考える。

すなわち、「科学的判断は、一般的諸条件や一般的 諸関係に関係する。したがって、これらの完全な客 観的陳述が可能である。だが、価値判断は、個別的 行動に関係する。したがって、その本性からして客 観的陳述を超えている」(1°)ということである。

 そこで、科学的判断と道徳的判断との論理的矛盾 が解消されるためには、科学的判断が、道徳的判断 の論理的特性である次の二っのことが論証されなけ ればならないことになる。

 第一に、個別的ケースに科学的判断は関係するか、

ということである。デューイは、科学的陳述は、具 体的経験に起源を持ち、より多くの具体的経験にこ の陳述を適用し、そのような実験的テストを経て、

成立発展したものである。したがって、科学の一般 的命題あるいは一般的判断は、本来、経験の個別的 ケースをコントロールするための知的道具として操 作される可能性をもっ、というのである。科学的体 系とは、このような一般的命題の大きな独立したス

トックであり、個々の経験にたいして、「われわれ

の反省的処理を規定する方法」を提供するために用

意された(11)ものである。デューイのこのような論

理こそが、科学における一般的判断と道徳における

(3)

個別的判断とのあいだの論理的分裂を解消し結びっ けるものであろう。同時に、個別的ケースを取り扱 う際、道徳的判断は一般的命題を必要とし、これを 知的道徳として用いることができる。実際に、デュー イは、こう言う。

 「われわれが科学と呼ぶものは、経験の個別的ケー スを取り扱うための道具を作りだし整備することに ほかならない。一しかもこの個別的ケースとは、も しそれが個別的であるなら、それは唯一独自のもの であり、道徳生活の個別的ケースとまったく同じで

ある」。(12)

 第二に、科学的判断と行為との関係にっいてであ る。デューイは、すべての判断は、一っの行為とし て考えられなければならないとし、科学的判断と道 徳的判断とのあいだに論理的相違はないと断言する。

判断成立のメカニズムにあらわれる行為の作用を明 らかにして、三段論法の論理から個別的判断が生じ ないように、個別的判断が成立するには、その判断 内容が一般命題の内容をただ単に照応するだけでよ いというわけにはいかないとする。

 「判断の形成作用は、っねに行動を媒介として行 われる。この行動を通して、個別的判断と普遍的命 題とのそれぞれの内容が選択され相互に関係づけら れるのである。どんな一般的公式も個別的判断へ通 ずるための道をもっていない。その道は、判断にた ずさわるその人の習慣や精神的態度を媒介にして通 ずるのである。普遍的なものが存在と同様の論理的 力を得られるのは、行動を通してしかない。っまり 普遍的なものが行動によって発見され道具として構 成され、その後この普遍的なものは再び行動によっ て意図された目的のために使用されるという、その 行動を通してしか、論理的力をえることはな

い」。(13)

 そして、デューイは、このような行為が個別的判 断の成立の3っの局面において現れる(14)、と言う。

 第一の局面として、「これは腸チブスである」と いう形式の判断が成立するには、そのような種類の 概念のストックがなければならず、そのストックに

より「腸チプス」という個別的な選択と適用とが行

われる。

 第二の局面として、このような行動は、純理論的 には、知覚領域内のどんな対象も等しく対象になる 可能性をもっているわけであり、しかもこのような 対象のなから特定の一っを選び出すのであるから、

それは興味・関心に基づく選択行為なしには行われ

得ないのである。

 第三の局面として、行動は、仮説の有効惟が吟味・

実証され、特定主題の意味が決定される方法におい て現れる。論理的過程が完結するためには、実証な いし検証という明白な行為の段階は必要不可欠な過 程だからである。このような各局面で見られるよう に、判断における行為は、論理的操作を行うための 有機的な部分となっているのである。デューイは次 のように言っている。

 「科学の一般的命題ないし普遍的な命題は、判断 者の習慣や衝動的傾向という媒介を通してのみ効力 を生じ得る」。㈲

 ところで、コールバーグは、「デューイによる道 徳的カテゴリーの扱い方は、カントによる道徳判断 のカテゴリーよりも、私たちの目的にとって有効で ある」と言って、デューイの『道徳性の科学的対処 の論理的条件』の一節を引用している。

 「知的判断の場合、一っの事物は、他の類似した 諸事物との関連の下に解釈されるという特徴がある。

そして、知的な判断は、すべての物理科学の基本的 なカテゴリーを供給する、それ自体に固有の構造を 必ずもっている。空間、時間、量、エネルギーなど の単位は、その種の判断が、どのような限定条件の 下に働かされるべきかを、私たちに明確に示してい る。ちょうど物理科学のカテゴリーが、事物を他の 事物との関連の下に解釈するときの判断における、

その適用条件を限定する用語からなっていると同じ ように、倫理科学の対象の特徴的な姿すなわちカテ ゴリーは、道徳判断(活動や内容を相互性という点 から解釈する判断)における、その適用条件を限定 する用語からなっている。この観点からみると、道 徳判断の考察は、「行為の論理」と呼んでもよいだ ろう。倫理的な考察は、そのような用語に満ちてい る一感覚に訴えるものと理念的なもの、基準と権利、

義務と責務、自由と責任は、その例である」。c fi)

3.科学的方法をよりどころとする「反省的道徳」

 以上から、「汝殺すなかれ」といった道徳的判断

における一般的命題は、科学における一一般命題や法

則の機能と論理的にはまったく同じであることがわ

かった。このことが成立するには、さまざまの価値

ある経験のなかで、人間行動の正しいあり方が検証

され累積され、一般化される一連の過程を経ること

が必要である。デューイがいうように、「類似的諸

経験から一般的観念が発展する」(17)のである。その

(4)

ような命題は、類似する経験では役立っが、特殊な 場合の判断にたいしてそのまま利用することができ ないことがあろうが、一般的には、これから行う経 験に役立ちえるし、またその経験の結果の検証を経 てより確かなものに修正され、有効な一般的命題と なるのである。

 デューイは、「原理というものは、経験のコース とっながって発達し、ある一定の種類の結果や価値 が実現される傾向にあるか一般化して述べることで ある」(IS)といって、これらの一般命題を道徳的判断 における機能的観点から原理として一括するのであ る。したがって、それらの命題は、人が個別的判断 をする際に、その事態の類似度に応じてある程度ま で、評価の参考資料とはなるが、いまここでの事態 に何をどうすべきかを明確に前もって指示する絶対 基準ではない。

 デューイ自ら言うように、「道徳的原理の目標は、

個人をして、彼が立っている特殊な状況のなかでの 善悪の諸要素を自分自身で分析することができるよ うにする立場や方法を提供することにある」。( 9)こ のことを、デューイは、「黄金律」の例によって考 察する。

 「「黄金律」は、特別な指令とか命令を発するも のではないが、知的な考慮を要求している状況を明 瞭にし照明するのである。………それは、われわれ の行動がわれわれ自身の利害と同時に他人の利害に

もいかに影響するかを考える必要を示唆する」もの であり、「行動をそこから考えるべき視点」を与え るものなのである。⑳

 このような道徳的原理を知的道具として有効に使 用するために次のような問題点を考慮すべきであろ う。すなわち、まず第一に、道徳的諸原理は、その 成立を支える経験、っまり歴史的・社会的条件およ び主体的条件を反映しているのであるから、その命 題・観念がたとえ同一命題形式・同一観念形態であっ ても、それが意味する実質的内容は、しばしば異な る。たとえば、正義や平和の名のもとに、各集団間 において激しい衝突が行われるのも、それが実践的 意味において正反対の事物を意味するからに他なら

ない。

 第二に、一般的命題・一般的観念が、個別的判断 をコントU一ルする知的道具となり、独自的事態分 析の知的操作にたえるたあには、少なくとも次の二 っの条件が満たされる必要があろう。そのひとっは、

それが含意する経験の意味を分析することができる

ことであり、もうひとっは、現在の条件と必要に関 係させてこれを再組織化することができることであ

る。

 再評価 しかしながら、先行価値を単に、再評価 を行わないで適用することは、「絶対的思考法」な いし「先例と権威に訴える方法」⑳以外のなにもの でもない。デューイは、先例や慣習的既成概念を絶 対的基準として固定的に適用する思考法を攻撃する。

一般化された徳目や先例を有益な知的道具として用 いるとき、そこでは絶えず、その徳目なり先例にた いする再評価、読みかえが行われなければならない。

 「各世代、特に現代のような時代に生活する世代 は、その道徳的原理の世襲財産をよく分解精査して、

現代の事情と要求に関連して考え直す責任を負う者

である」。(22)

 人がなし得る唯一最善の道は、それらを再評価し 組み替えて、より適切な使用に便利な一一一般的道具に 仕上げ、これを使用するときの具体的事態に即して 再評価し、より高い善を実現するたあの行動を決定 することに向かって奉仕せしめることである。この 種の作業は、道徳的判断力形成のための教育にとっ て、是非ともなされなければならない墓礎的作業で あろう。㈱

4.デューイとっての道徳基準

 このように、既成の道徳観念の再評価を行っては じめて具体的行動目的が決定されるとすると、一般 的道徳観念を再評価するたあの基準、あるいは、行 動目的のための基準といった判断基準が必要になり、

このことが論究されるべきであろう。

 知的道具としての一般的道徳観念を、判断の機能 に即して、手段としての基準と呼ぶ。J. S.ミル は、第一次的原理(すべての道徳的事態に適用され る普遍的・究極的性格をもっもの)と、第二次的原 理(適用領域の限定された一般的・手段的性格をも っもの)とを分けて考えた。(2t)デューイは、その両 者が、機能的相違と相互的連関とをたもちながら、

しかも基本的には、前述のように、貝体的判断を知 的に導くという共通の原理的機能を果たしている、

とする。(z5)

 そして、目的設定のための基準は、知的で原理的 な機能の本性からして、何をどうすべきかという具 体的な当為を明確に前もって規定するものではなく、

その最終判断は、行為者の主体的判断に、っまり

「決断」に委ねられているわけである。そして、こ

(5)

の独自な主体的判断のためにこそこの基準が機能す るのである。

 第一に、それは自ら選ぼうとする行為の諸結果を、

広い見通しと公平な思慮をもって、考慮せよ、と呼 びかけ「警告」することである。

 第二に、この行動がもたらす客観的結果の内容を して、一般的福祉、すべての関係者の福祉、共通善 にせよ、ということである。

 「基準の意義は、基準が、採用される諸目的をい かに形成すべきかの方法にっいての概念を含むとこ ろにある。っまり採用される目的は、その目的の遂 行が一般的福祉に導く故に、是認に値するような目 的であるべきだ、とすることである。………この

(欲求の)目的が心のなかに現れた後に、この目的 は、別の観点から、っまりこの目的を達成する行動 はすべての関係者の福祉を助長するかという観点か ら、吟味され検討されるのである」。(26)

 このことは、当然、慣習的道徳的観念を身にっけ ながらもこれに囚らわれることなく、これをまさに 参考資料にして有効に利用しうる再評価のための基 準、つまり「すべての関係者の福祉を助長するよう に」再評価せよ、との観点を与えるものである。(27)

そして、この観点から既成観念が批判され再構成さ れるということは、人々の行動が観念に支配される のではなく、自他の福祉のために観念を奉仕させる ということにほかならない。

 行動目的設定のための基準の内実 まず第一に、

「すべての関係者の福祉」という概念にかんして、

それは、自分自身の身近な家族、友人、自分の所属 する集団、階級、国家のみに通用する主観的愛情や 利害とか、慣習道徳に色どられた福祉ということで はない。出生、性、社会的経済的地位、階級、民族 等によってなんらの差別もっけられてならず、まさ に人間であるが故に平等に考慮されるということで

ある。

 ここで、「関係者」といった場合、そこで考えら れている人は、直接にかかわり合う当事者のみに限 定されるものではない。道徳的には、判断者の生存 を支える社会的諸関係に関連するすべての人が意識 されるべきであり、その意味で、潜在的、純理論的 には、全人類的広がりをもったものでなければなら ない。したがって、デューイのあざす道徳は、この ように全人類的視野のもとですべてのセクトを排し た平等観に裏打ちされたヒューマニズムの思想を中 核とするものであり、きわめて、高度の倫理性を含

意しているものといえる。

 「この基準が教えるのは、われわれが友人関係、

仲間関係、市民関係、科学芸術の追求等々において、

交渉をもっ人々のもまた善をもたらすような対象を 欲求し、そうした事物のなかにわれわれの満足を発 見すべきだ、ということである」。ω

 第二に、行動のもたらす客観的諸結果とは、目先 の利害に関わる単数の結果のみではない。知性によ る遠い見通しのなかに考慮される複数の結果をもよ く含意するものでなければならない。実践的観点に 立てば、行動のもたらす客観的諸結果とは、当然、

意図されていると否とにかかわらず、それが及ぼす 結果のすべてを意味するものとして理解されなけれ ばならないであろう。

 デューイは、このような観点から、同情心のもっ 自発的慣習的機能の限界を指摘し、それは目先のこ とばかり考える皮相的な現実主義である、とする。

「これらの態度が注意を払うのは、短時間のなかに 現れるような助力や傷害という仕方での諸結果であっ て、その後に現れる諸結果にたいしてではない。た とえこの後者の方が実際にははるかに重要であるよ うな諸結果であったとしてでもであるj。㈲

 真の道徳的判断とは、目前の利害のみでなく影響 すると思われるもろもろの諸結果をも広く見通し、

最も自他の福祉に寄与するという総合的観点よりこ れらを公平に推し量り評価した上で、決定されるも のである。したがって、このような基準を採用する 道徳は、目的のためにはどのような犠牲もいとわな いとか、目的は手段を正当化するとかいった目的主 義、精神主義的態度を取らず、また、単なる手段主 義にも陥ることはない。なぜなら、「客観的結果」

こそが判断の価値を究極的に決定するからであり、

それを実現可能にする高度の知的な予測という操作 を伴うものだからである。ここでは当然、自然、社 会、歴史の諸科学の成果が広く採用されることにな

る。

 第三に、「客観的諸結果」の内容をなしている

「社会的福祉」の意味するものは、それは、静的な 結果ではなく、進歩の過程としての動的性格をもっ たものであり、この意味での究極的な基準である。

この社会的福祉は、「他人に物的なものを手渡しえ るように、直接的に他人に幸福を与えることをめざ す」㈹というようなものではない。

 「社会福祉」の意味するものは、自らの努力で自

らの能力を最大限に用いて、現在の事態により善い

(6)

ものを創造していくことを結果するような「福祉」

なのである。

 「他人の福祉は、われわれ自身の福祉と同様に………

教育的成長にある。………『他の人々を幸福にする』

のに、この人々の諸能力を解放し、これを生活の意 味を拡大する諸活動に携わらせること以外の方法を もってするのは、この人を害しまた特別な徳を行う ことに事よせて自己満足に耽ることである。他の人々 が、その人自身のやり方で自分自身の幸福を見っけ ることができるようにするたあ、この人々の視界を 広げまた自己の諸能力を自由にすることのできる諸 条件を促進すること、これこそが「社会的」活動の 方法である」。⑳このような福祉にかんする見解の 基本的視点は、道徳とは成長することと全く同一で あるというデューイの道徳観に立脚するものである といえよう。

 究極目的としての「成長」 したがって、そのよ うな「目的は、もはや、到達さるべき終点とか究極 ではなく、現在の状態を変化してゆくという活動的 過程である。究極目標としての完成が人生の目標で はない。完成していくこと、成熟していくこと、向 上していくこと、これらのことを絶えず持続してゆ

く過程こそが人生の目標である」。 (32)こうして、「成 長そのものが唯一の道徳「目標」である」㈹という

ことになる。だから、デューイは、「悪人とは、彼 がかってどんなに善良であったとしても、今現に悪

くなり始めている、善良さがなくなってゆきっっあ る人のことであり、善良な人とは、その人がかって どんなに道徳的に価値なきものであっても、より良 くなる方向へ動いている人のことである」(34>、と考 える。

 「善であるものを追求していく態度は、人種、階 級、文明状態のいかなる条件のもとでも教養されう

る」。(35)このことこそ「あらゆる社会的環境におい て発現する共通の人間感情、共通の人間衝動」㈹で

ある。

 こうして、デューイの考える究極目的としての

「成長」の概念こそは、すべての人に普遍的に妥当 する法則であるということができよう。

II 道徳教育

 これまでの考察により明きらかにした、デューイ の道徳教育における基礎理論といえる倫理学は、こ こにおいて具体的応用をみる。しかしながら、デュー イは、道徳教育にっいて、きわあて数少ない論文し

か書いてはいない。1897年の『私の教育学的信条』

My pedagogic creedのなかで、道徳教育にっいて Lつ菖つ。

 「道徳教育は、社会生活の一様式としてのこのよ うな学校概念を軸に展開するものであり、最善にし て最深の道徳的訓練は、まさに、仕事と思考とを統 一させながら、他の人々と正しい諸関係を結ぶこと

によって達せられるものである。現在の教育組織は、

この統一を破壊ないしは無視しており、その限りに おいてそれは、いかなる真の系統立った道徳的訓練 に導くことをも困難、あるいは不可能にしてい

る」。(1)

 デューイは、倫理学の実践的応用として道徳教育 に関心をよせるのであるが、世間の常識的な論議の 矛盾にはきわめて敏感である。ところで、『教育に おける道徳原理』は、1909年に書かれたが、1897年 に発表した論文「教育の基礎にある倫理的原理」

Ethical Principle Underlying Educationを推敲 したものである。デューイは、1884年にミシガン大 学で教職にっいて、倫理、道徳の問題にっいてかな

り強い関心をもっていた。デューイは、1891年に、

論文として、「道徳の理論と実践」Moral Theory and Practiceまた、単行本として、『批判的倫理学 理論の概要』Out!ines of a Critical Theory of Ethicsを、次いで1908年にタフツと共著で『倫理学』

Ethicsを出版している。

 『教育における道徳的原理』のなかで、デューイ は、社会的側面と心理的側面から、学校の道徳教育 を考える。そのなかで、学校経営・教授方法・カリ キュラムの三領域の改革により、子どもの道徳力を 育成しようとする。

 そのような意図のもとに道徳教育を考察し、デュー イは、「道徳的観念」がなんらかの意味で、被教育 者の行為に影響力をもっのにたいして、「道徳に関 する観念」は被教育者の行為に何の影響力ももたな い単なる知識である、とする。したがって、特設さ れた道徳授業は、「道徳に関する観念」のみを授け るから、効果に限界があるとするのである。

 「「道徳的観念」と「道徳にっいての観念」との この区別は、学校教師と学校外部の教育の批判者と の間にたえず見られる誤解の原因を、われわれに説

き明かしてくれる。外部の批判者は、学校のプログ ラムや教育課程を一覧しても、そこに倫理の教授、

ないし「道徳の授業」の特設時間を見っけることが

できない。そこで、彼らは、学校は性格陶冶のため

(7)

に何もしていないとか、ほとんど何もしていないと か主張する」。(Z)だから、間接的で生命の通った道 徳教育、っまり学校生活のあらゆる機関・手段・教 材を通して姓格を発展させようとする。

 学校社会によって与えられるべき道徳教育にっい て、道徳的行為が社会的行為を意味するから、学校 経営・教授方法・カリキュラムがいかに社会的精神 によって生気づけられるかにより、学校の道徳教育 ははかられる。

 「倫理の原則に、学校生活のためのものと、学校 外の生活のものといったような二組の倫理的な原則

はあり得ない。行為が一一一一一一っであるように行為の原則

もまた一っである。学校の道徳を、あたかも学校が 社会から遊離した制度ででもあるかのように論議し

ようとする傾向があるが、これは、この意味できわ めて不幸なことである。学校と学校教育にたずさわ る人々とは、社会にたいしてその道徳的責任を負っ ているのである。学校は、根源的には、ある特定の 専門的な仕事をするたあに一生活を維持し社会福祉 を増進することに関するある特定の専門的任務を果 たすために一、社会によって設立された一っの制度

なのである」。(3)

 こうして、デューイは、道徳教育のために、学校 制度の社会化を提案する。子どもは、自らの社会的 関係を知的に認識して、自分ながらにこれらを支え るよう導かれなければならない。社会の変化に適応 するだけでなく、またそれらの変化に適応するだけ でなく、それらの変化をっくり出す自立の精神が自 らのうちに養われなければならない。学校は、社会 的人間を育成するためには、とりわけ現実の社会生 活に参加する必要ある。道徳的意識の意味は、学校 の活動を社会活動という周囲のものと関連させては

じあて明確なものになる。

 デL一イは、道徳教育の方法として、学校倫理と 社会倫理の統一に次いで、教授方法の改革を説く。

 「道徳教育の基礎的要因として学校の社会的性格 の原理が論究されたが、この原理は、いろいろな教 授の方法の問題にも一その細部においてでなく一般 的精神において一、適用することができるであろう。

その場合、強調点は、受容したり単に覚えたりする よりも、むしろ構成したり自分のもっているものを 表現したりすることにおかれることになる。ところ でわれわれは、前者による方法が本質的にはいかに 利己主義的なものであり、またいかにそれと気づか れないうちに確実かっ効果的に子どもの判断と行動

の仕方に働きかけているものであるかを見落として

いる」。(4)

 受動的な学習も遠い将来のためとして強要させら れることがあるが、これは、児童の道徳力を阻害す る。子どもは、もっぱら直接的な現在のうちに生活 するのに、あまり意味のない漠とした未来を口実に 子どもの勉学をすすめるのは、子どものエネルギー や活力を浪費するだけである。デューイは、利己主 義的な受動的な学習から能動的な社会的奉仕のため の学習へ移行するために、子どもの活動力や工作、

生産、創造の諸能力に訴える方法をすべて取り入れ る。それは、教授方法を作業化することでもある。

工作は単に手段的な知的なものではなく、実に社会 的習慣を発展するものである。

 次に、デューイは教育内容の改革を説く。教授方 法を刷新して協同心を促進するには、教科課程の改 革が必要になるからである。教材や教科が学校の雰 囲気や教授法に大きな影響力を及ぼすので、デュー イは、道徳教育の条件として教科の社会的性格を説

く。

 「教科は、子どもに行動の社会的場面を認識させ る手段として考えられなければならない。このよう に考えると、教科は教材選択と価値判断とのための 基準を与える」。(5)教科は、社会的事態を理解する 手段とされる。

 教科は、社会的事態を理解させる手段であるだけ でなく、究極の実在ともいえる人間の経験を取り扱 うものである。教科の名称が異なるのは、入の興味 や社会的目標の相違に基づくからである。それ故、

各教科は、一っの統一された社会生活の諸側面にほ かならない。

 「まず第一に指摘さるべきは、事実そのものの中 には、この事実を別々に科学とか歴史とか地理に属 するものとして分類する区別線は存在しない、とい うことである。今日広く行われている(しかも、生 徒を初めから、さまざまま教科書に分けられた数多

くの別々の諸教科に導入することによりいっそう助 長されている)整理棚式分類は、諸教科相互の関係、

および、諸教科すべてが属している知的全体にたい する諸教科の関係にっいてまったく間違った観念を 与えている。実際、こうした諸教科は、同じ究極的 現実、すなわち、意識的な人間経験を取り扱わなけ ればならないのである」。(S)

 デューイは、教科の本来的性質にたち返ることを

主張して、地理や歴史を社会的に統合することを説

(8)

く。今日の学校の弊害は、教科の社会的性質を忘れ、

教科を固定的存在とみなすとともに、断片的知識の 伝達に専念することである。この傾向は、文化の進 歩と産業の分化にともない、ますます教育課程を複 雑化し、その結果、学校は本来の社会的使命を忘れ て書物中心の学習に没頭してしまう。

 社会的基準は、教科を相互に区別するために必要 であるだけではなく、それぞれ教科の意義を把握す るために必要である。地理や歴史は、いずれも人間 生活と自然との相互作用を扱うものであるから、い わば次第に上昇していく抽象段階をあらわす。歴史 はもともと、社会進歩のもとを起こした発明・発見・

新しい生活様式を明きらかにするものであるから、

児童はこれによって典型的な社会進歩の課程を学び

得る。

 デューイは、学校の道徳教育のために、学校経営・

教授方法・教科課程の改善を提案する。学校が社会 生活の縮図という本来の機能を発揮さえすれば、道 徳教育の目的はおのずから達成せられる。子どもが 絶えず必要とするものは、社会的想像力や社会的概 念の形成であって、正直が重要であるとか、ある種 の愛国的行為が慈愛のこもった結果を生じるといっ たような孤立した道徳訓練ではない。デューイは、

このように考えて、次のように、道徳教育のかなめ として道徳的三位一体論を提起する。

 「私は、以上の論究を要約するに当たり、学校の

道徳的三位・・一一一一一体に読者の注意を求めたい。社会的知

性、社会的能力、および社会的関心に留意していた だきたいのである。その場合のわれわれのよりどこ ろは、第一に、それ自体一っの社会制度としての学 校生活、第二に、学ぶこととなすことに関する諸法 則、第三に、教科、ないしカリキュラム、である。

学校が、学校固有の精神において真の社会生活を代 表している限りにおいて、そしてそこでの学校の訓 練・運営・秩序等々といわれるものすべてが、この 固有の社会的精神の表現であるかぎりにおいて、ま た、使われるいろいろな方法が活動的・構成的諸能 力に訴えて子どもに発表させ、またそのようにして 奉仕させる方法であるかぎりにおいて、さらに子ど もがある役割を演ずべき世界、および、子どもが満 たすべき諸要求、を子どもに自覚させるたbの材料 を提供できるよう、カリキュラムが選択され構成さ れるかぎりにおいて、要するに、こうした諸目的が 満たされているかぎり、学校は倫理的基礎の上に組 織づけられていることになるのである」。(7)

 ところで、行為というものは、社会的結果を手に 入れ、社会的組織を維持する一方、個人の態度や性 向を表現するものである。言いかえれば、社会的側 面とともに心理的側面をもっものである。

 最後に、道徳教育の心理的側面として、その役割 は、結局のところ性格を陶冶することにある。性格 の重要な構成要素は、力、っまり何かをなしとげた りあらわな行動をしたりする実践力であり、個人は、

生活における実践的な葛藤のなかで何かを守り、そ のためになることのできる力をもたねばならない。

またそのほかに、自発性・粘り強さ・持続力・勇気・

勤勉を必要とする。いかなる行為も社会的本能や衝 動から生じるから、児童の発達段階において、これ らの本能なり衝動がいかに現れるか、また児童にとっ てなんであるかを知る必要がある。この点を軽視す れば、道徳教育は、いたずらに機械的な模倣に終わっ てしまう。カリキュラムの教材は、いかに賢明に選 択せられようとも、それが個々人の活動・習慣・願 望という立場からっくり直されないかぎり、重要な 道徳的内容を欠くことになる。人は、誰でも衝動を もっが、これは習慣として組織づけられなければな らない。一般に、生まれたままの粗野な「性格の力」

を社会的に訓練するために、性格の知的面や感情面 のしっけをおろそかにしてはならない。すぐれた判 断力とあわせて鋭敏な適応性、すなわち感情的反応 が、道徳的にはきわめて重要である。

 結論として、道徳的原理の実践可能性に関して、

いっの時代でも、いかなる場合でも、教育が成功す るか否かの鍵は教師の力量、資質にかかっているの である。一般的に言って、教師は、読み・書き・算 についてある程度の効果を確実にあげうると確信す るが、道徳教育にっいてはあまり確固とした自信を もっていない。教師は、時として道徳的法則や規範 の存在を信じることはあっても、それはきわあて観 念的である。しかしながら、真の道徳原理は地上に 引き降ろされて、社会学的言葉や心理学的言葉で翻 訳されなければならないのある。

 「ただ一っの必要なことは、道徳的諸原理が、他 の諸力が現実的であるのと同じ意味において、現実 的なものであるということ、こうした諸原理は、社 会生活、ならびに個人個人の活動体制の本来固有の

ものであるということ、を認識することである。も

しわれわれが、この事実への真の信念をしっかりと

持っことができるなら、われわれは、われわれの教

育組織から、そこに存在するあらゆる有効なものを

(9)

とり出すのに必要な唯一の条件を手にいれたことに なるであろう。この信念に基づいて働く教師は、す べての教科、すべての教授方法、学校生活でおこる すべての出来事が、道徳的可能性に満ちていること に気づくであろう」♂8)

おわりに

 デューイ哲学の原点は、ヘーゲルないしヘーゲル 主義にあった。ヘーゲルの『精神現象学』を「意識 の経験の学」、主体の認識の深化・運動の学ととら えるところから彼は歩み始めた。(1)ヘゲールが具体 的な現実を精神・思想の歴史としてとらえ、その論 理を明らかにしようとしていくなかで「具体的普遍」

の概念を明確にしたのにたいして、デューイは、よ り多く、生物学・心理学および社会問題・社会運動 における具体的事実を手がかりにして、行為する主 体の倫理学的諸問題を全体的・総合的にとらえよう としていくなかで、ヘーゲル主義に導かれながら、

ヘーゲル主義的な「具体的普遍」を明確に自覚する

に至った。(2)

 このような思想的な遍歴を経て、デューイは、近 代の形成原理である「理性」の崩壊という20世紀初 頭の哲学者たちがおかれていた知的状況を十分に自 覚した上で、アメリカ的精神風土を反映させ、「行 為」へと拓かれた独自の「成長」としての道徳理論 をっくり上げたといってもよかろう。

 見てきたように、デューイの考えた道徳理論には、

その実存的・課題的性格の故に、目的を設定すると きの曖昧性がっきまとう。目的を設定するための基 準は、手段として基準と同様に、人々のうちに究極 目的としての「成長」を実現するための原理的機能 を果たすに過ぎず、この「成長」もまた個々の事態 に即して規定されるものであった。決定権は最終的 には、判断者の決断に委ねられ、自由な自主的決断 において初めて行動目的が具体的に決定されるので ある。したがって、道徳判断における行動目的の曖 昧性は、デューイないしプラグマティズムの道徳論 の当然の帰結であるということができる。(3)人々は、

具体的事態の個別的条件に自らを対応させ、それら 客観的諸条件を充分に調査し、また広範な科学的知 識を駆使することによって、目的を自ら形成しなけ ればならないからである。

 そして、そのような道徳理論の反映である、デュー イの道徳教育論は、社会学的側面と心理学的側面か ら考えられ、学校経営、教授方法、カリキュラムの

三領域の改革によって、現代という新しい時代に合 致した、子どもの道徳力を育成しようとしたものと 言ってよかろう。

        「はじめに」の註

(1)「わたしの物語るのは、次の二世紀の歴史で  ある。………すなわちニヒリズムの到来を書きし  るす。………わたしたちの全ヨーロッパ文化は長  いこと既に、十年また十年と加わりゆく緊張の拷  問でもって、一っの破局をめざすごとく、動いて  いる。不安に、荒々しく、あわてふためいて。あ  たかもそれは、終末を意欲し、もはやおのれをか  えりみず、おのれをかえりみることを怖れている  奔流に似ている」。木田元著:『現代哲学』NHK  市民大学叢書9、日本放送出版協会、昭和54年、

 7−14頁

(2) William James:Pragmatism, Hackett

 Pub!ishing Corrlpany,1981, p.26.

         「1」の註

(1)J. Dewey:Ethics,The Later Works, Vo!.7,

 1932,Southern Illinois University Press, p.162,

 コールバーグ:『道徳性の発達と道徳教育』広池  学園出版部、1987年、19頁によると、デL・一 イは、

 道徳性の発達に次の三っのレベルがあることを自  明のことと仮定していた。第一は前道徳もしくは  慣習以前のレベルで、「生物的、社会的衝動に動  機づけられ、その結果が道徳的意味をもっような  行動」のレベルである。第二は慣習的な行動レベ  ルで、「個人は、自己の集団の基準をほとんど批  判的考察を加えることなく受け入れる」。第三は  自律的レベルで、「目的が善であるかどうかを自  分で考えて判断し、無反省的に自己の集団の基準  を受け入れることのない個人によって行為が導か

 れる」。

(2) J,Dewey:Ibid.,p,267.

(3)J.Dewey:Human Nature and Conduct,

 1922,The Middle Works, Vol.14, p,31,

(4) J.Dewey:Ethics, pp.253−4,

(5) Ibid.,pp.267 一 20S.

(6)J.Dewey:Reconstruction in Philosophy,

 1920,The Middle Works, Vo1.12, p.174.

(7) J,Dewey:Ethics, p.162.

(8) J.Dewey:Reconstruction in Philosophy,

 p.173.

(10)

(9)  Ibid.,p.173,

(10) J.Dewey:Logical conditions of a scienti  fic Treatrn ent of Morality , The Middle Works,

 Vo1,3, p,7.

(11)  Ibid.,p.11.

(12) Ibid.,p.10,

(13)  Ibid,,p.12,

(14)  Ibid.,pp. 12−−16.

(15)  Ibid,,p.19.

(16)永野重史編:『道徳性の発達と教育一コール  バーグ理論の展開』 新曜社、1985年、25頁。J.

 Dewey:Logical conditions of a scientific  Treatment of Morality,The Middle Works,

 Vol,3, p,24.コールバーグは、デューイのこの  ような考え方を、道徳教育の具体的な実践へと発  展させた。

(17) J.Dewey:Ethics,p.275.

(18) J.Dewey:Ethics,p.276。

(19) J.Dewey:Ethics,p.280.

(20) J.Dewey:Ethics,pp,280−281.

(21) J.Dewey:Ethics,p.329.

(22) J.Dewey:Ethics,p,283.

(23)遠藤昭彦:「デューイにおける道徳的判断の  基準」、『教育哲学研究』、第7号、昭和37年10月  30日、54頁。

(24)J,S.ミル;『功利主義論』、『世界の名著38  ベンサム、J.S.ミル』所収、中央公論社、昭和  54年、485−503頁。

(25) J.Dewey:Ethics,p,314、

(26)  Ibid.,p.246。

(27) Ibid.,p.247.

(28) J.Dewey:Ethics,p.248.

(29) J.Dewey:Ethics,p.239.

(30)J.Dewey:Reconstruction in Philosophy,

 1920,The Middle Works,Vo1,12, p.174.

(31) J.Dewey:Human Nature and Conduct,

 1922,『人間性と行為』東宮隆訳、春秋社、1960

 年3月31日、231・一・232頁。

(32) J,Dewey:Reconstruction irl Philosophy,

 1920,p.154.

(33) J,Dewey:Reconstruction in Philosophy,

 1920,p.154.

(34) J.Dewey:Reconstruction in Philosophy,

 1920,p.153.

(35) J.Dewey:Ethics,p,282.

(36) J.Dewey:Ethics,p,281.

        「皿」の註

(1)J,Dewey:My Pedagogic Creed,The Early  Works,1882−1898, Vo1.5. Southern Illinois  University Press,P,88,

(2)J,Dewey:Moral Principles in Education,

 The Middle Works,1899−1924, Vo!.4, p,268,

(3) Ibid,,p.269.

(4) Ibid,,p.275.

(5) Ibid.,p,279.

(6) Ibid.,pp.279 一 280,

(7) Ibid。,p.285.

(8) Ibid.,p.291.

       「おわりに」の註

(1)亀尾利夫:『デューイの哲学』勤草書房、

 1975年、340頁。

(2)亀尾利夫:同上、166頁。

(3)遠藤昭彦:「デューイにおける道徳的判断の

 基準」、59−61頁。

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