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道徳教育と教育課程

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道徳教育と教育課程

小 松

道徳とは何であろうか。それを道と徳との二つに分けてみると,道とは人の履み行わねばな らない天の道であり,徳とはその道を人心が身につけたものであると言うことができるであろ う。しかし,人の履み行わなけれぼならない天の道には,自然界に関するものと人間界に関す るものとの性格を異にする二つの道があるということができよう。道徳に於ける道とは,人間 界に関する天の道であるのは勿論のことである。天とは人事を越えた,人聞の我儘勝手にでき ない客観的法則であることを意味するもので,道徳の道は人間存在の客襯的法則である。人間 は間柄的存在である故,それは叉倫理即ちともがらの理法とも言われるわけである。ところが 問題となるのは天の道であり,客観的法則である道が,実際には時と所によって異っているの は何故であるかということである○所謂道徳の不易と変易の二面が何故生するかということで

ある。

 人聞存在の理法としての道は,人間性に基盤をもったものである故,人間が人間である限り その人照性にねざす点よりみればその道は不易であると言えよう。しかし,人聞性は複雑多様 であり,かつその自覚に於て深淺のあったことはやむ得ないことで,そこに変易の面が生じた のである。というのは,複雑多様な人聞性のうちで,如何なものをその本質的なものとするか に差異が生じ,従って,その本質的なものを中心としてその多様性の統一のし方がちがってく るからである。人間性にねざす道は具体的には種々雑多であるが,常にそれらはある中心的な ものから統一されて立体的な構造の申に位置づけられている。孝という道に対して,今日,そ れは射建的なもので,も早我々の時代の道徳ではないという言辞をしばしば耳にするが,自分 を生み育ててくれた親を大切にするということが,人間性に根ざしているものである限り,親 を大切にするということは人の道である。親子という人間関係のある限り孝という道は不易な ものである。しかし,「どのようにすることが親を大切にすることか。」ということは,何を 人間性の本質とするかによって異なる。その限り,戦前と戦後に於て,孝の内容に変易のある のは当然である。しかし孝というものが人の道からなくなったのてはない。今日,我々の道徳 を民主的なものとし,かってのものを封建的なものとし.て区別する。しかし,民主的な道徳と は如何なる人間性の本質を中心としたものであるかは充分明かでない。

 現代二つの世界が問題になクている。ソ聯の世界と西欧の世界とであるが,両者ともに戻主 女義を唱えている。したがって,ソ聯圏の社会の道徳は民主的なものであろうし,西欧圏の社 会の道徳も民主的なものであろう。所が,ともに民主的な道徳といっても,その内容はちがっ

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たものである。それは一つは人間性の本質を平等に,他は自由に求める所に生する差異であ る。人問性の何を中心として,人の道を組み立て るかにより,個々の倫理がその内容を異にす るものである以上,民主的な道徳とは何を中心にしたものであるかを明かにしなければ,我々 の現.実の行為は混乱し矛盾したものになる。我々が道徳教育を行わんとする場合,このことが 先づ基本的な問題となる。

 民主々義は「人格の尊厳」をその本質とするものであって(註1)従って,民主的道徳とは 人間性の中心点を「人格の尊厳」に於て組み立てられた道徳であると言うことができよう。ソ 聯圏も西欧圏も民主々義であるためには,先づ現在のそれぞれの道徳を「人格の尊厳」を急心 として組み立てなおすべきである。或は,西欧圏の国々は,「我々の社会の人間関係の理法は その中心を「人格の尊厳」に置いているものだ。」と,云うかもしれなV・が,実際,具体的に 検討すれば,そうでないことのあまりにも明白なのに気がつくであろう。現在,我が国の道徳 教育は「人格の尊厳」を中心として組立てられた道を教えることである。その道は戦前の道の もっていた構造とはちがった構造をもつ故,個々の倫理も戦前と異なった内容をもっている。

かくて,個々の倫理(ゆわゆる徳目を指す)の内容を,新旧の立場から厳重に区別しなければ 我が国の道徳教育は徒らに道徳的混乱に拍車をかけるか,叉は,反道徳の教育になるであろ

う。しかも,我々の道は全く心しいものであって,米国やソ聯のそれを越えた,真の意昧の民 主々義の道徳を目指しているものであるべきだと思う。今日,我々の最も苗画しなければなら ないことは,我々の道徳教育が,回顧的な旧道徳の復活にならないことと,同時に外国の道の 模倣になってはならないということとである。

 我が国の現在の道徳教育の基本目標は人格の尊厳という点からあらゆる人間関係の理法が構 造づけられる正しい意味の民主的道徳の1函養ということである。

 次に,「道はどのような過程を通じて徳となるか。」という問題について考察してみよう。

 道が徳となる過程に於て,道は特異な性格を示すものである。天野貞砧氏は価値の系列を一 感覚的(有用,快楽等)二,生命的(活動的,健康的等)三,精神的(知識的,美的,法的)

四,人格的(道徳的)という順序に於てあげ,道徳的価値と他の価値と区別し,後者を対象的 性格のものであり,前者を作用的性格のものであるとしている。そうして,道徳的価値は感覚 的,生命的,精神的価値を目的とし,それを質料とする行為の中に現われて来るものであって,

道徳的価値は直接に目的として追求され,それによって実現されるものではないとしてい る。道徳的価値は直接の目的となることなくして実現されるとするのである。(註2)従って 道はこれを取り出し,これを対象として学習さすことによって徳とすることは困難である。若

しも,かっての修身科のように,これをあえてするならば,偽善という道に反したものを身に つけさす危険がある。

 第二の特異な性格についてのべてみよう。ブルバッハー(John S. Brロbacher)は学ばれた

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道がある徳として人間の中に存在する姿を三つの側面から把えてこれを徳の三分相と呼び,概 念的,知的相・欲求的,能動的相・及び肉体的行為相をあげて,それぞれの側面から徳の成立 過程について興味ある研究を示している。(註3)我々が道を身につけるというごとは,道の この三つの分相,即ち,その道に対する概念,態度,及び習慣とができあがっているととであ る。そうして,その何れの分相を歓いでも徳ということはできない。もともと徳の三分相は分 つべからざる一なるものを分けてみたものであるからである。しかし,その三者を一応区別す ることは理論的にも実践的にも可能であり,道を学ぶ過程は何れかの分相を中心として展開さ れうるであろう。

 さて,何れかの分相を中心として道を学ぶ過程につV・て考えてみるに,その概念的,知的理 解を中心とする学習過程に於て,或は,ある道についての習慣形成を中心とする学習 過程に於 て,我々教師はそれを助けることができると思うが,ある道を感じ欲し実現せんと意志するこ とを教えることには途方にくれると思う。しかも困ったことには,道は先づ欲求的,態度相と してその姿を人聞の中にあらわすものであって,この根元的なものなくしては他の相は徳とし ての意味を失うのである。何故ならば,この根元的ものなくして、他の二相をもつことは徳の 型だけを行う偽善に堕するからである。特にこの相に於て注目すべきは道を感じとり,しみじ みとした情感を起すということである。ミレーの晩鐘の絵をみせてその美しさを教えようとし ても,それを美しいと感じなV・ものにはどうすることもできないと同じく,ある事態に於て慈 悲心を起させようとしても,慈悲を感じなv・ものにはどうすることもできない。勿論,慈悲の 外的行為は強いることはできても,それはも早慈悲とは言うことはできない。道は先づ感ずる

ことから始まり,それを意志しかつ知らんとし,行わんとする。感ますます深くして,意志ま すます強くなり,知ますます明かになり,いよいよ行われるものであろう。天野貞瀦氏は徳に 於ける「道徳的感覚」の重要さを説いているのは当然といわなければならない。(註4)フル バッハーも精神的価値の学習に於ける「承認」の重要性を説いているが,欲求、能動相の伽こ 於ける根元的な意味を明かにしたものである。(註5)

この道徳的感覚は学習を超えたものであり,先天的に人間にそなわっているとみるか,後天 的に学習によって得られるものとみるかは,古来,性善説,性悪説の論議の分れるところであ

るが,外に光あれども,内に眼なければこれを捉えることができなV・とすれば,善一般に対す る道徳的感覚は先天的なものと考えてよいであろう。そうして,それの分化発達は後天的学習 によるとみるべきであろう。問題は如何なる学習過程を通じてその分化発達を助けるかという ことである。天野氏は直接的な道徳内容の学習は、新鮮な道徳感覚を鈍ら1ノ,却って,道徳感 覚を鋭敏にすることに失敗すると論じられている。(註6)ブルバッハーは成長の各段階にふ

さわしい能力に応じて、具体的経験の場を通して,(1)諸君はどう感ずるか,(2)客観的 にどんな結果が期待されるか,(3)他人がどう感ずるかということを反省さすことを通じて 実際の態度を作るべきであると論じている。(註7)前者は道徳的感覚の酒養に於ける消極的 な面を,後者はそれの積極的な面を論じていると解すべきであろう。

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 次に乱売,概念的相の学習過程について考察してみよう。この分相はともするとそれの説明 を理解することを通じて行われると考えられがちである。しかし,これは徳について具体的経 験を通じて次第に形成されていくものである。ある徳についての概念がそれについての経験の 集積の申より抽象されて発達するのでなければ,それは徳につV・ての空虚な言語的名称の記憶

に終るであろう。このような経験の背:景をもつもののみ,青年期になって糟神の成熟した時,

理論的に思索し,より充実した徳の概念を発展さしてV・くであろう。最後に肉体的行為的分相 についてであるが,これは徳を経験することなしに成立するものでないことは論ずるまでもな いことである。要するに,徳の学習はいかなる場合に絶ても,その徳についての経験を通して なされるものであると言うことができよう。

 最後に,現今の我が国が革命的な場に置かれていることより来る道学習の特異な性格につい て考察してみよう。始めに考察したように,現在の我が国は,「人格の尊厳」を申心として,

あらゆる徳行が構造づけられてV・なV・。この新しい国民道徳の樹立こそ現下の道徳教育の根本 問題である。故に,我々の道徳教育は,この新しい国民道徳を身につけさすと同時に,そのよ

うな新しい国民道徳を樹立していく能力を育成しなければならなV・。即ち,現にその社会に存 在している道徳を身につけさす道徳教育でなく,薪しい道徳をつくりあげていく能力を養う道 徳教育である所に現今道徳教育の特異な姿がある。道徳は人間関係の理法である故,あらゆる 社会生活が,「人格の尊厳」を基本とした人間関係の理法から分析され検討され,そこで我々 が如何に行動すべきであるかを学びとらねばならなv・。そのためには,社会生活を社会科学的 に分析検討する能力が民主的道徳樹立に必須のものとなる。それについて例をあげて説明して みよう。

 たとえば,我々が赤い羽根運動に協力したとする。そこには,慈悲,同胞愛∫親切等種々の 徳行を示したと言われよう。しかし,孤児,老人,未亡人,失業者などが,生活に困るような 社会のしくみをなくすることこそ,ほんとうにそれらの人々に対する慈悲であり,同胞愛であ り,親切であろう。只,赤い羽根を売るのに協力したとか,或はそれを買ったとかだけで,道 徳的な満足を感ずるならば,まことに徳至らざる人と言わなければならない。この例によって

も明かなように,「人格の尊厳」を基本とした人間関係の理法の樹立のためには,社会を社会 科学的な方法によって批判検討する能力を養わねばならぬ。

 以上の考察を通じて,道徳教育の教育内容はどのように考えられるべきであるかということ が明かになったと思う。それを次のように要約してみた。

 (イ)道徳的価値はその作用的性格よりして,それを教えることを直接の目的とする徳目や  有徳な言行を教育内容とすることはできない。あえてそのようなものを教育内容とすれば,

 道徳の型だけ学ぶことになり,ゆわゆる適法性に堕して道徳性を失う恐れがあり,かつ,道  徳的感覚を鈍らす危険がある。

 (ロ)道徳は,道徳についての経験を通じてのみ学習されるが故に,道徳教育の内容は学ぶ  ものの種々の道徳についての経験として提出されなければならない。

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(ハ)道徳は感覚的,生命的,精神的価値を追求する活動,即ち人聞のあらゆる社会生活の 申に具体的に存在する。そのような現奏の生活を離れて道徳そのものというものはないから 道徳経験を経験さすには彼等の現に営んでいる社会生活の場に於て考えられるべきである。

(二)我が国の道徳教育は旧い社会から新しい社会への革命期のものとして,特に新しい道 徳を樹立するに必要な,「社会生活を社会科学的に分析し批判し検討する能力」を養うため

の教育内容が必要である。

 今までの論述から,道徳教育の計画は児童生徒が営んでいる社会生活の領域に即してなされ るべきであると言うことができる。そこに彼等の営んでいる社会生活の場を分析してみると次 のようになる。

 (ユ)みんなと一緒に学級という場で研究をする生活……研究生活

 (2)みんなと一緒に学校という場で営んでいる自治的な生活……自治的生活

 (3)友達と一緒に部落という場でレエクレーシヨγをもつ生活……遊戯集団的,徒党集団  的生活

 (4)親兄弟と一緒に家庭という場での幸福な生活……家庭生活

 児童生徒達は常にこの何れかの生活の場で生活しているであろう。しかも,これらの生活の 場は青少年に道徳的経験を紅ますために特に設定され:たものでなく,人間として自然な生活の 場である。それらの場はその場その場の独自な目標のもとに活動が行われている場である。そ こに児童生徒の道徳的経験が附随してあらわれて来る。教育課程が道徳教育に貢献するために は,これらの生活の領域がそのま」学習のコースとなるよう構成さるべきである。勿論,教育 課程は単に道徳の立場からのみ教育内容の組織の仕方が決められるものでない。そこで道徳教 育の教育課程が特別に設けられる必要があるであろうかと,いうことが問題となる。との問題 を究明するため現行の:文部省試案教育課程の全体構造について検討してみよう。

 現行の丈部省試案教育課程は子供達のよりよき全人的成長発達を助けるために,教科教育課、

程と教科外教育課程の二つの大きなコースを置いている。さて,子供の成長は全体的な過程で 単なる一知的過程でないから,彼等の営んでいるあらゆる生活経験を指導して,その全入的な 発達を助けなければならなV・。それ故,現行教育課程も子供め営む全生活領:域に於ける重要な 生活経験を教育内容とする立場に立っている。したがって教科教育課程といえども,単に学問 的体系の論理的な分類によるものでなく,生活経験の過程と構造に即して分節された経験の組 織という立場から構成されている。具体的に云えば次の通りである。

 (1)市民的生活経験を主とするもの……社会科  (2)家庭的生活経験を主とするもの……家庭科  (3)数量的生活経験を主とするもの…・・算数科  (4)言語的生活経験を主とするもの……国語科

一5

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  (5)科学的生活経験を主とするもの……理 科   (6)健康的生活経験を主とするもの……体育科

  (7)表現的,技術的生活経験を主とするもの……図工科 音楽科

しかし,これ等のものは実生活そのものの,あるまとまった過程によって分節されたのではな く,種々の実生活の場で経験していることを基礎として,その経験をのばすための研究に都合 のよv・ように分節されたものである。この経験の分節の仕方には種々問題があろうが,経験の 再構成の能率化という点から一応妥当性を認めてよいのでないかと思う。このような研究一教 科学習に於て,児童生徒が,現実に経=験している社会生活は研究を中心とした学級集団の中で の社会生活である。

 次に現行教育課程の教科外課程について考察してみよう。そこで,先づ米国のそれと対比し てみたいと思う。米国に於ける教科外教育課程は二つの理由より生れて来たものであろう。即 ち,それは(イ)民主社会に於ける市民的な徳性や生活技術の潤養。そのためには,学習型六 一研究を中心とする社会生活の仕方が民主社会の生活の仕方と同じものでなければならなV・と

し,学習型態の社会化が強調された。(ロ)現実の生活の中で青少年の抱く種々の悩み,問題 欲求の指導。の二つである(註8)しかし,現在の米国に於ては教科外教育課程は進歩的な学 校の教育課程からその姿を消しているし,教育課程の理論的研究家も又教科外教育課程の存在 意義を認めてV・ないようである。(註9)それでは米国に於ける教科外教育課程はどのような 過程をたどって消滅して行ったのであろうか。

 タァート(LN. Thut)等は次のことを明らかにしている。教材の牧得のための学習と,市

.民的能力を啓培せんとする学習とは別々な姿であった。前者は正規のカリキュラムとして,後 者はエキストラ・カリキュラムとして別 々に:行われた。しかし,エキストラ・カリキエラムは 教師や地域社会の人々によって,すでに充分な重荷を背負っている上につけ加えられた何もの かであるとか,生徒を学校にひきつける「砂糖つつみ」のようなものとしか考えられす,この ようななまなかな態度から,充分にその本質を発揮することなく衰えて行った。これに変るも のとして次に現lbれたのがコオカリキユラ(Cocurricula)であり,更にモリソソプラγ

(Morrison Plan)を経てついに教材単元の出現となり,教授法の社会化が完成され,正規のカ リキュラムの申でエキストラ・カリキュラムの一つのねらいは果されるようになったQ(註]0)

 アルバアチイもエキストラ・カリキュラムについて以下のようなことを述べている。旧式の 学校のカリキュラムは生徒の現在の生活に関して意味のないもので,かえって,それは生徒達 が校外生活に於て,あるいは運動場に於て直面するしゅんげんな現実から逃避する手段をあた えている。正規のカリキュラムでは青少年の現実的な欲求に適合することはできない。そこで 生徒のその欲求するものとしてエキストラ・カリキュラムがとりあげられた。そうして,生徒 のこのような欲求に適合することをねらうエキストラ・カリキェラムは個人適応の指導(ゆわ ゆるガイダγス)や個性的欲求に応じた趣味教養の伸長を助けることなどを同時に含むものと された。しかし,タアートの述べている理由や,更にはエキストラ・カリキュラムが上級学校

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の入学試験に不必要であることのため充分行われなかった。その上,個人適応の指導の面につ いては組織的ガイダγス計画を欠いでいたため,ホームルーム・プログラム (Homeroom  Programs)がこれにとって代るものとして出現し,(註11)更:にコア・カリキュラムの出現

は現実生活の申で生徒達の直面している問題解決をはかるものとしてホームルーム・プログラ ムを三二して行った。(註12)又,エキストラ・カリキュラムの個性的欲求にもとつく趨味教 養の伸長の面(例えば写真クラブ,グライダクラブ等)は教科カリキュラムの近代化が進むに つれて,それは各教科の学習の中で充分に可能となり,次第に正規のカリキュラムの申に二二

されて行くようになった。(註13)

 要するに,米国に於ては,近代化された教科カリキュラム,及びコア・カリキュラムをもつ 学校では,ホームルーム,プログラム:やエキストラ,カリキュラムのねらうものは正規のカリ

キュラムの中で充分果すとされているということになる。

 さて,我が国に於て,教科外教育課程として教科外活動乃至は特別活動がとりあげられてV・

るが,米国に於けるエキストラ・カリキェラムの消滅過程をふりかえりみる時,果してその目 標なり内容なりに於て特に教科外教育課程として取り上げるほどの妥当性があるであろうか,

叉,カリキュラムの全体構造上からみてそれの目標なり内容なりが妥当であろうか。それにつ V・て検討してみよう。

 治部省試案の教科外教育課程の内容として,自治活動とクラブ活動とがあげられている。自 治活動は児童会(生徒会)という組織にもとづいて,学校に於ける彼等の自治的社会過程:その

ものが教育課程にとりあげられているものである。民主的な社会生活が充分確立されていない 現在の我が国では,学校協同社会の中で,その現実の社会過程に即して民主的経験をつまし,

民主社会をつくりあげる体験をもたすことはとりわけ重要なことである。このような重要な生 活経験は教科カリキュラムの中で取り上げられていない故,教科外教育課程として取り上げる ことほ妥当である。クラブ活動はその目標を主として個性的趣味教養の伸長に於いているよう である。そうして,これはかっての自由研究に代るものであるとし,自由研究は教科学習と関 聯するものであったがクラブ活動は全く教科学習と離れたものであると言ってV・る。(註14)

しかし,教科学習との関聯という点から云えばその両者は程度の差の問題であって,アルバア チイも指摘してV・るように近代化された教科教育課程の中で可能であると言ってもよいであろ う。(註15)現行の教科教育課程は近代化された性質のものであるからクラブ活動は自由研究 と同じく教科教育課程の中に解消せしめてゆくことができよう。私はクラブ活動のねらv・とし て個性的趣味教養の伸長を否定するものではないが,クラブ活動がカリキュラムの申に取りあ げられるためには,それをも含んでそれ以上のねらいがなければならないとするのである。そ のねらいは,児童生徒が現実に営んでいる部落での彼等仲間との集団生活の教育的再編成にお かれるべきだと思う。青少年が集団をつくる権利は生活する権利と同じ重要さをもっと言れて いるが、学校や家庭から離れた部落で,街頭で,彼等はさまざまな集団を形成し,その中で活 動している。青少年の不良化行為をみるに必ずといってよい位に集団的背景をもっている。教

一7

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育課程は青少年のあらゆる生活を指導することをねらう以上,か\る人間形成に重要な集団生 活の指導を教育課程の申にとりあげるべきである。あるいは,現在のクラブ活動はそれを充分 ねらっていると云うかもしれないが,彼等の部落や街頭での生活それ自体の教育的再編成と密 接に結びつかないクラブ活動は,そうした目標に対してはほとんど効果がなV・であろう。

 要するに現行の教育課程に於けるクラブ活動は,その教育課程の全体的構造から言っても,

青少年が部落で,街頭で営んでいる遊戯集団,徒党集団,連中集団等の集団生活と直接結びつ き,これの指導をねらうものでなければならない。

 さて,この節で私が明かにしようとしていることをふりかえってみると,それは現行の乙部 省試案の教育課程の組織そのましで,道徳教育がなされなV・であろうか。或は,特別にその上 に道徳教育のカリキュラムを附加する必要があるかということであった。道徳教育は現実の社 会生活の過程に即し,そこで道徳的経験を積ますようにすることが何よりも先づ大切なことで あることは前に論究した。今までの論述は,青少年の営んでいる現実の社会生活のうち,研究 生活,自治的生活,遊戯集団的,徒党集団的,連中集団的生活は,現行教育課程の組織を変更 することなく,その課程の申に取り入れられることを明かにした。残された重要な社会生活は 家庭生活であるが,これは現実に行われている社会過程の中に入りこみ,その過程に即して指 導することは困難であって,それは両親乃至は社会教育を通じて行われるべきで,学校は可能 な範囲に於て家庭科の中で指導する計画をたてるに止まることはやむ得ないことであると思 う。道徳教育計画のうちで最:後に残された分野,即ち,我が国社会を社会科学的方法により,

それを批判検討する能力を養うコースは,教科教育課程のう ちの社会科の拡充によって可能で あろうし,更に一歩す」めて,新しくコア・:カリキュラムを設定することは一段と望ましいも のであると思う。

       四

 この節は現行の教育課程の組織に即して,道徳教育を行うためにはどのような考慮が払われ なければならないかを究明してゆくものである。

(一)教科教育課程に於ける道徳教育

 この領域に於ける道徳教育を明かにするためには,先づ第一に,「青少年の学級での研究生 活はどのような形態で営まれているか。」と,いう学習生活の実態の検討から出発すべきであ

ると思う。

 戦後,教科書中心,教師中心の学習形態から自主的,協同的な作業単元学習形態への転換が 強調され:た。しかし,】0年を経過した今日,現実的には依然教師中心,教科書中心の学習形態 が優勢であることは否定できない。教師中心の学習形態に於て,教師は権力者であり,独裁的 決定者である。生徒は命令の遵奉者であり,従わないと叱噴叉は罰をうける者である。ブルバ ッハ・一はそのような状態に於て青少年が学びとるものを次のように言っている。即ち,「児童

『は選ばれ批判された価値をつくらなかった。彼等は自己の運命を統御することを学ぼなかっ

(9)

た。彼等は選択したり,自分の思考を発展させたり,自分で責任を負うたりすることを学ばな かった。彼等は公益のために理知的に協力する技能を学ばなかった。その代り,命令服従のみ 学んだのである。彼等は毎日そうした。何故なら,その方が容易であったし,そうせざるを得 なかったからである。そうして,多数のものにはこれが彼等の行為の承認法となった。つまり 彼等は精神道徳を持たない生活を学んだのである。」と。(註16)

 思うに,我々のパーソナリテ・イをつくりあげているものは毎日の我々の行為である。我々は 行うことのみ学ぶといってもよv・であろう。ブルバッハー・はグ入りーの言を引いて,「学生は 講義や教科書の内容を学ぶのでなく,講義や教科書が彼に行動を起させるものを学ぶのであ る。」と,のべている。(註17)教師申心,教科書中心の学習に於て,その学びつ」ある内容 が如何にすぐれた民主的なことであろうとも,現実に行われている行為は封建的な行為であ

る。そうして,彼がそうした場に於て,ほんとに身につけ,そのパーソナリティをつくりあげ つ㌧あるものは,今,理解し記憶しつ」あることでなく,そこで行われている封建的行為であ

る。青少年の学校で過す大部分の時間は教科学習の時間である。その時がすべて封建的生活形 態の生活であるとすると,青少年は封建的な人間につくられざるを得ないであろう。

 アメリカに於ては,このような過誤についての反省から,民主的な行為聯関の中で研究が行 われるようにと作業単元を生み出したのである。タアート達はその共同研究の中で,「教材の 牧得,個人の欲求,能力に学習を適応させること,及び.民主社会集団の一員としての能力を発 達さすであろうところの経験をあたえることの三つの目標は,日々の学習事項の割当に基礎を おいた旧式の教授法では達成されえない。そこで新教授法が求められ,同時に上の三つの目標

・を達成することを欲した人々の手によって漏しい教授法教材単元法が生れた。」と,のべてい る。(註18)

 要するに,教科学習に於ける道徳教育は,民主的な生活形態に於て毎日の学習が行われるよ うにすることである。各教科の内容に強いて道徳的内容を盛ろうとするのは,却って,牙「正に 陥入ることになる。というのは,各教科にはそれぞれの本質と目標があって,その本質や目標 に即してその内容が選択されるべきであり,その教科のねらう能力は人間生活に必要扇ぐべか

らざるものである。

 この領域に於ける道徳教育は次に社会科学:習乃至はそれを超えたコア・カリキュラムのこと について述べるべきであるが,そのことについては詳しくはこの紀要の「我が国民主化と教育 課程」という私の論文を参照されたV・。

 (二)教科外教育課程に於ける道徳教育   (イ)児童会(生徒会)活動

 現在の我が国は未だ充分民主化されてV・なV・。従って,子供たちは家庭や社会に煮ても民主 的な経験をもつ機会が極めて少ない。学校は民主的な経験を充分あたえるために,子供達自身

の社会をもたし,その社会生活を通じて民主的な徳性を酒養すべきである。従って,児童会の 会は,学校という児童の共同生活,即ち,児童の自治的な社会の会をさすもので,集会,会合

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などの会ではない。児童たち自身の社会が認められ,児童た ちがよって相談して自分たちの生 活をより楽しく,より善くするために責任を負V・権利を行使する社会である。

 児童会が子供た ちの自治的社会である以上,児童会活動の分野は,大人の社会生活分野と同 じ広さをもつべきである。 (イ)生産,(ロ)消費?(ハ)交通,通信,報道,(二)教育娯 楽,(ホ)美化保全,(へ)政治のあらゆる分野の活動が行われるようにしなければならな い。(註19)そのような社会生活の過程を通じて民主人としての諸徳性を身につけていくよう

にすべきである。

 (ロ)クラブ活動

 クラブ活動が学校のカリキュラムにとりあげられる一大理由は,青少年の校外隼活の指導と いうことである。青少年は,夫々の時期に彼等自身の特異な集団生活をもち,校外生活の大部分 をその集団活動のために費す。その集団とは,児童期の遊戯集団,青年期の徒党集団,連中集 団である。(註20)しかも,児童後期から青年期にかけては,この集団のその成員に対する権 威は,教師,両親,社会の権威をはるかに越える力強いものである。したがって,彼等すどの ような集団活動をなすかは実に彼等自身の品性陶治の上にも,校外生活の良否にも重大な影響 をもつものである。(註2])青少年の犯罪は単独に行われる場合は揺れであって,大抵,その 背後には集団があると云われているが,今目叫ぼれている青少年不良化対策もか』る青少年の 集団に対する指導を除外しては何の効果も表わさないであろう。

 従来;校外生活指導のために部落子供会が編成されていた。そうして,多くの場合それは学 校児童会(生徒会)の組織に入れられている。(註22)そうして,それは彼等の遊戯集団的,

徒党集団的活動に対してほとんど役に立っていない。.学校は部落子供会の指導を通して,青少 年の不良化を防止しようとしたのであろう。しかし,彼等の欲求と関係ない彼等に外的な集団 をつくっておしつけても,彼等は別の所で,彼等の本性にねざす集団をつくって活動する。従 って,彼等自身の自然な欲求より結成する集団を基礎にして,それの指導を通じて不良化防止 をはかるべきである。そのためには,部落子供会は,校外生活の中で結成する種々のクラブの 聯合会の性格をもつようにすべきである。かくて彼等の校外生活は種々のクラブ活動にまで高

められるであろう。

 学校に於けるクラブ活動は,先づクラブ聯合会の性格をもつ部落子供会の実体が既に存在す ることを前提とするものでなければならない。かくてこそ学校のクラブ活動は活澱になり,か つ部落子供会を通じて彼等の校外生活を指導することができるのである。勿論,このような性 格の部落こども会は,単に学校だけでっくりあげることはできなV・であろう。というのは,部 落子供会が校外に於ける青少年の遊戯集団的,徒党集団的活動を含むとすれば,そのためには 設備施設が必要であるからである。政府,自治体当局,両親,地域の有志の協力にまたなけれ ばならない。(註23)学校はこのことに対する啓蒙の責任を負うべきである。

(11)

 1・この点について本紀要の私の小論文「私が国民主化と教育課程」を参照されたいQ  2.天野翠黛著 道理の感覚 昭和十二年 二百四十頁一二百四十八頁

 3.Jhon S. Brubacher&Others ;The Public Schools And Spiritual Values l944,

   PP.113−120

 4.天野愚考著 道理の感覚 昭和十二年 二百四十九頁一二百五十頁

 5.Jholl S, Brubacher&Others ;The Public Schools And Spritual Values l944    pp.106一:LO8

 6・天野貞砧著 道理の二三 昭和十二年 二百四十九頁一二百五十頁

 7.Jholl S. Brubacher&Others ;The Publie Schools And Spritual Values 1944 P. U7  8.Harold Alberty ;Reorganizing The High・School Curriculum l950, PP.380−381    1.N. Thut and J. Raymond Gerberich;Foundations of Method For Secondary Schools    lgig, P.207

 9.今手もとにある米国の教育学者の教育課程に関する著書例えばGwynn, Alberty, J. P aul    Leonard, Lee夫妻の共著のもの, Mcnerney,等々のものをみてもこのことが云えると思う。

   なお,この点についてはこの論文に於ても明かにしておいたつもりである◎

 10.J. N. Thut and J. Raymand Gerberich;Fundation of Method For Secondary Schools    l9・19, pp.206−210

 n.Harold Alherty ;Reorgnizing The High・School Curriculum !950 P.381  】2.Op. sit。 P。383

 13. Op. sit. pp.382−383

 14.:文部省 学習指導要領 一般編 昭和二十六年改訂版 二十一頁一ご十二頁  15.これは註13を参照

 16.John S. Brubacher,&Othefs ;The Pub11c Schools And Spiritual Values l9偲, p. Mi  l7. Op snt. P.105

 18.J. N. Thut and J. Raymand Gerberich ;Foundation of Method For Secondary SchGc13    :L949, p.206

 19。国立教育研究所紀:要 第五集(亜) 全国小・中学校教育課程実態調査第二分冊昭和二十八年    四一〇頁一四一七頁 この調査によると,全国的に,小・中学校の部活動は社会生活の全機能から    みる時非常に不完全な状態を示している。

 20.これらの青少年の集団についての研究ぽ次の著書の中に詳しく述べられている。

   Franci s. J. Brown ;Educational Sociology 1947 Chapter lo. Activity Groups of    Childern And Ycuth

 2 L Op. sit. pp.22−L−229

 22.国立教育研究所紀:要第 五隻(皿) 全国小・中学校教育訊程実恵調査第二分冊昭和二十八年    四百十六頁

 23.米国に於ては社会の協力によってThe Settlement House,とかThe Boys Club Federation    of Americaなど勝れた三眠が設けられている。このことはFrancis J. Brown;EducatiGnai    Sociology  l947, PP.229−230

一11一

参照

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