十九世紀アメリカ児童文学における
Huckleberりy」F勿ηの研究(二)
小 滝 安 正
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前章において,私は自分の児童文学論を基礎にして,十九世紀を中心としたアメリカ児童文学の流れ と,その流れの中におけるHuck/eberr/Fimiの位置について考察してきた。
次いで,児童文学としてのHucfllerry Ftnn論に入るに先だち,児童文学者としてのMark Twain およびf「 uckleberry Finn研究についての諸説を述べてきた。
いわば,外側から児童文学としてのHblckleberry Finnをみてきたわけであるが,次に,深くその 内側にはいり,先ずこの小説の主題を中心として,この作品を論じなければならない。
この物語りの中心主題については,前章においても述べたごとく,T. S. Eliot, Lionel Trilling, Leo Marx, Vernon Louis Parrington, Richard ChaseおよびHenry Nash Smith等によって,各人 各様に解釈され,論じられているが,しかし.,それらはいつれもおとなの文学としての立場からのみ論
じられており,児童文学の立場からは論じられていない。
しからば,この主題について,児童文学の立場から,どのように解釈すればよいであろうか。
これは言うまでもなく,この作品におとな用と子ども用の二種類のテーマがあるというわけではなく,
一つのテーマを,児童文学の立場から,どのように解釈するかという問題である。
さて,この作品において重要な意味をもつものは,T. S. EliotやLionel Trillingのいうごとく,
河とHuckの関係であり,さらにまた, Huckと黒人奴隷Jimとの精神的父子関係である。
この河についてTrillingが引用しているのは, Mark Twainと同じミズリー生れのT. S. Ehotが,
ゆかりの深いミシシッピ河を偲んで書いた,河は頑強な褐色の神であるという The Dry Salvages と題する詩の最初の二行である。
Ido not know・ much about gods; but I think that the river Is a strong brown god−i)
Eliotのいう褐色の神は,人間に対比される自然として描かれており,それは怒りの神であり,破壊 者であるが,同時にまた愛の神であり,そのリズムは,子どもの寝部屋にも,夕べのつどいにも流れる のである。
さらにTri11ingは次のようにいう。Huckは河のしもべ(the servant of the river−god)であり,
Huck is at odds, on moral and aesthetic grounds, with the only form of Christianity he knows, and his very intense moral life may be said to derive from his love of the river.
He lives in a perpetual adoration of the MississipPi s power and charm. a)であると。
T.S. EliotもTrillingもHuckleberry Finnにおいて河は「一一一一4個の神」であるとしている。
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津山高専紀要(第2巻 第1号)
Bernard DeVoteも河に「神話的要素」を認め, This is in part the river itself, the Missis−
sippi which had dominion over Mark s imagination and here becomes a truly great symbol.
Thus realism, fantasy, satire, mythology, and the tragic knowledge of rnan, all of them a good many layers deep, united in Mark Twain s masterpiece. 3)といっている。
このDe Votoの説をそのまま受け入れてRichard Chaseは The river is a symbol all right, a sy皿bol of nature and of God in nature 4)といって,この河は神の「象徴」であると述 べ,さらに彼は続けて,河が耳uckの心にたっぷりと詩的形体と感情をなげかける,河は詩的象徴で あり,Mo by−Dichの中の鯨に似ている,白鯨のように,河は神がもっている複雑にして矛盾した性質
と同じような,自然のそういった性質をもっていて,おだやかで我慢強く,万物を育て養うのみならず また油断のならない危険なものでもあると言っている。
さて,われわれは児童文学の観点から,まず,この河のテーマを中心にして考察を行なってみよう。
もともと,河は大古から人間生活と密接な関係をもつものであり,西洋文明の曙光が現われはじめたの が,ナイル河の流域であり,チグリス河,ユーフラテス河の下流地方であったように,人間は河のぞぽ に住みついて,歴史を作ってきたのである。昔から河は万物を潤すものであり,河の流域は肥沃な土地 に恵まれていた。そこで人びとは,昔から河に心をひかれ,河に集まり,また河を利用して農耕をした
り,筏を用いて行き来をしたりなどしてきた。
しかし,その同じ河がしばしば大洪水をおこし,家も人も家畜もおし流してしまう驚怖の存在でもあ
った。
古代から,河は人間にとって,神秘的であり,恩恵的であり,そしてまた驚怖的な存在であり,河の もつ意味については人びとによってさまざまに考えられてきたQ
それゆえ大河は,しばし嵌神と結びつけて考えられてきたのである。ナイル河然り,ガンジス河また 然りである。
さて,この物語りでHuckとともに重要な役割をする黒人奴隷のJimは,未開人における思惟の 特徴である原始的心性(mentalit6 primitive)をもち,すべての自然の活動はさまざまな精霊の働き であると信じている。
彼にとっては河もまた精霊の働きであり,神の化身にほかなない。それは明らかに文明人の思惟とは ちがった animism の世界である。
Huckはミシシッピ河を筏で下る過程において,この世界に参入するのであるが,これは河とJim とHuckが一体になったときはじめて彼に可能になった世界だと考えられる。
Hucfele berry Finnにおいて,作者が文明社会から河なる自然へ脱出するという形で文明批判を暗示 しているならば,この作品は primitivism の小説ということができるであろうQ
animismといいprimitivismといい,文明の洗礼を受けた近代人のおとなより,子どもの方がよ り一層直接的に深く入り込むことができる場合が多い。
それは原始的な知識の特徴が,直観的であり感覚的であり,そしてまた,直観的であり感覚的である ことは子どもの特質であるからである。
Mark TwainはHuckleberry Finnと前後して, Life On the MississiPPiを刊行しているが,そ 一46一
小滝 安正 十九世紀アメリカ児童文学におけるHuckleberry Finnの研究(二)
の中で彼がハニバルにいた少年時代,日光にきらめいて流れる雄大なミシシッピ河に,いかに夢と希望 と燃えるような思いを抱いていたかが,鮮やかな写実的記述とともに,少年の心を通して生き生きと描 かれている。
彼はrミシシヅピ河の生活』で水先案内になって河の秘密を学ぶが,水先案内になってからの彼は,
少年時代に河に対して抱いていた夢や,河のもつその妖しい魅力の多くを失ってしまう。
落日に輝き,雲のかげを宿す河の水面の美しさ優しさ,その下にある暗礁や沈み木の恐ろしさ,そし てそれら河のもつさまざまな意味が,おとなになるに従って次第に消えていってしまう。その間の事 情を彼は Now when I had mastered the language of this water, and had come to know every trifiing feature that bordered the great riv・er as familiarly as 1 knew the letters of the alphabet, 1 had made a valuable acquisition. But 1 had lost somethlng, too. 1 had lost sornething which could never be restored to rne while 1 lived. All the grace, the beauty,
亡he poetry had gone out of the majestic river/Y 5)と述べている。
LiLfe on the A4ississiPPi全60章の中では,前半の青少年時代の回想記がすぐれており,それも第4 章から第17章までのミシシッピ河の魔力に捕えられた少年時代の夢が最もすぐれて,一段と光彩を放 っていることは,ここで注目されなければならない。
Life on the MississiPpi lよ彼が夢多き少年時代のハニバルでの生活をもとにして,その子ども時代 の物語りを書こうとして1875年,アトランティヅク・マンスリー誌に 01d Times on the Mississip−
pi として連載したものを基礎にして8年後の1883年に39章を追加して本にまとめたものであり,
その翌年/884年にUuek/eberry Finnが刊行されており,この,後の作品の原稿が実は1876年の夏エ ルマイラで書きはじめられていたことを思えば,Mark TwainことSamuel Langhome Clemensの 少年時代の河と少年の姿はJどうしてもffar・ck/eberry Finnという小説に書き表わされなげればならな かったのであり,このHuckは, Mark TwainのAUtobiograPhyの中に出てくる町の酔っ払いの息子 で彼の幼な友達のTom Blankenshipがヒントであるという説が真実であろうとなかろうと, Huck は少年Sam(Samue1)の理想像であり,Mark Twain自身の投影であることには間違いない。
さて,子どもの時代が,人生において重要な意味をもつのは,その時代が,おとなになると多くの人 間が失なってしまう無垢(innocence)な魂を持っているからであり,この汚れのない魂の中に人間の 想像力と感情が最も純粋なかたちで存在しているという考えが,イギリス本国においては,Romantic Reviva1時代から文学に現われ始めた。
そしてこの概念はW・Wordsworthが My Heart Leaps up When I Behold の中で The Child is father of the Man とうたつたように,おとなの世界に対する批判者としての意味をもっ てきたのである。
この概念がアメリカ文学においてみごとに花を咲かせたのが伽0ん1伽7拶F勿πであると私は考える。
Huckは慣習に染まらない,そして汚れのない少年の眼で現実世界のすべての対象を見る。彼が河に 対するときもまた量りである。
河に象徴される無気味な精霊一すなわち神の意志一を始めてHuckが感ずるのは,第10章にお いて,彼が蛇の脱けがらを持ってきたとき,それは不幸の前兆だと心配するJimの言葉を嘲笑した結 一47一
津:山高専紀要(第2巻 第1号)
果,それが現実となって実際災難に会ったときのことだ。
その時はじめて彼は次のように思う。
1 made up my mind 1 wouldn t ever take a−holt of a snake−skin again with my hands,
now that 1 see what had come of it. Jim said he reckoned 1 would believe him next time. And he said that handling a snake−skin was such awful bad luck that maybe we hadn t got to the end of it yet. He said he druther see the nexNr moon over his left shoulder as much as a thousand times than take up a snake−skin in his hand. Well, 1[
was getting to feel that way myself, though 1 ve always reckoned that looking at the new moon over your left shoulder is one of the carelessest and fo,olishes t things a
body can do. 6)
しかし,文明社会からやってきた子どもの心には1原始的心性をもつ黒人奴隷の前兆の予言がまだ半 信半疑である。
そしてこの事件はHuck.とJimの河くだりの前途に一・抹の不安を投げかけ,その引しばしば,河は Huckの前にその峻厳な姿を表わす。
すなわち第12章においては,セントルイスを過ぎて五日目の夜に大暴風雨となる。
The fifth night below ・St. Louis we had a big storm after midnight, with a power of tllunder and lightning, and the rain poured down in a solid sheet. NVe stayed in 亡he wigwam and let the raft take care of itself. When the lightning glared out we could
see a big straight river ahead, and high, rocky bluffs on both sides. 7)
さらに第13章におい.ては,今までにない大暴風.雨に見.舞われる。
But that idea was a failure; for pretty soon it begun to storm again, and this time worse than ever. The rain poured down, and nexrer a light showed; every・body in bed, 1 reckon. We boomed aleng down the river, watching for lights and watching for
our raft. 8)
Huckと河との関係とともに, HuckとJimとの関係がこの小説において重要な意味をもってくる のは,第15章の霧の夜の場面あたりからである。
・彼.ら二人が濃霧のため離ればなれにおし流されてしまったあと何時閻か経って,霧は晴れ,星がきら きらと輝く頃,HcukのカヌーがJimをのせた筏を奇跡的に捜しあてる。
Huckをさがしあぐねて, Jimは坐って頭を両膝に埋め眠っている。 Jimを起こした少年は,今ま での出来事は夢だと黒人奴隷をからかう。これは例のTom sawyer流の悪、戯だ。
し.かし,やがてこの悪戯がばれて,Jimは怒り嘆く。それは一・番信頼している者の身を案じている真 心が茶化されたことに対する嘆きである。・
この悪戯心は非常に卑劣な心情であったと.反省したHuckは,友を騙したことを心から恥じ入って
思、う。
It made me feel so mean 1 could almost kissed his foot to get him to take it back.
It was fifteen minutes before 1 could work myself up to go and humble rnyself to a
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小滝安正 十九世紀アメリカ児童文学におけるHucfeleberry Finnの研究(二)
nigger; but 1 done it, and 1 warn t exrer sorry for it afterward, neither. 1 didn t do
him no more mean tricks, . . . 9)
この時はじめて,少年と黒人奴隷の真心と真心がふれ合い,この出来事によって,二人の精神的絆は 周くなり,Huckの心は一段階人称的な成長をとげるのである。
しかし,少年と黒人奴隷の関係が人間関係における最高の情愛で結ばれるまでには,なおいくつかの 不幸な試練を経なけれ.ばならない。それらの出来事が河を中心にして展開してゆく。
1 1
この霧の夜の事件の習臼,彼らの筏がケアローに近づいて,いよいよJimが自由州に逃げだそうと する時になると,Huckは逃亡奴隷を助けることに非常な罪悪感をおぼえる。当時奴隷の逃亡を助ける
ことは,南部の最も強い道徳規範を犯すことであった。
良心の呵責に耐えかねたHuckは,密告しようと決心する。しかし二人が逃亡奴隷狩りの覧たちぢ に会って怪しまれると,HuckはJimを天然痘で寝ている父親だと思いこませて危地を脱する。この 場面はこの物語りのcrisisであるが, HuckがJimを裏切ることができなかったことは,人間的な 美徳の力が彼の育った南部社会の道徳規範の力を超えたことであり,この事件もまた.霧の夜の事件を 境として,二人の間に生まれた人間的な絆を深めてゆくことに役立つ。
このあたりは,少年の心がJimを通じてだんだん開限してゆくところであり,子どもの読者にとっ ても,Huckの心理の変化と,精神の発展段階が充分理解され得るところであろう。児童文学として重 要な点がここにある。
しかし,目に見えぬ精霊の働きは,意地悪く二人に働きかけ,蛇の脱けがらの崇りはまたしても河の 上の災難となって現われる。目指すケアP一は何処かわからなくなってしまう。彼ら二人の乗った筏は 霧の中でケアP一を通り過ぎてしまったらしい。Jimぱ失望して,ガラガラ蛇の脱けがらの灯りはまだ 終らないと言うとHuckもその言葉を信じて, Iwish I d never seen that snake−skin, Jim−I do wish I d nevcr laid eyes on it. 10)と自分を責める。その上に河は,追い討ちをかけるように,
ケァローに潮ってゆくためのカヌーも流してしまう。
ここにおいて,野性的な自然児とはいえ,文明社会からやってきたHuckがそれまで半信半疑であ ったJimのもつ原始信仰を体得し,自然の霊に対して服従状態になる。
第/6章において,その時の状態をHuckは次のように述べている。
We didn t say a word for a good while. There warn t anything to say. We both knowed well enough it was some more uTork of the rattlesnake−skin ; so what was the use to talk about it? lt would only look like we was finding fault, and that would be bound to fetch more bad luck−and keep on fetching it, too, till re knowed enough to
keep still.
Anybody that don t believe yet that it s foolishness to handle a snake−skin, after all
that that snake−skin done for us, will believe it now if they read on and see what more it
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done for us. ii)
このあとで,筏は蒸気船に真向からぶつけられ,二人は水の中に放り出される。その後,グレンジ ャーラh一ド家のごたごたに巻込まれるが,河とJimを通じて精神発達過程を経たHuck少年の心 は,文明社会の虚偽と暴力に対して,従来の徳こは見られない程の嫌悪の情を示して逃げ出す。しかし それは,社会悪と対決する次元までには高められていない。
このあたりの作者の意図は,子どもの読者には読みとることが困難であろう。しかしながら,子ども の読者がHuckとともに河をくだり, Huckの心と一体になったときには,しぜんについてゆける気 持であり,作者の意図が充分理解出来なくても一向に差支えな:いことであろう。
HUckの美徳一文明のもつ社会悪とまだ対決するまでには至らなくても,それへ向う前段階とし ての美徳一が河とJimを通じて修得されたものであると考えるのは■おとなの牙析であるが, Huck になりきった子どもの読者には,このような分析は必要ではなく,丁度ミシシッピ河が流れるままに Huckを運んで行くように,主人公の心情が体得されれぽ充分であろう。
私は子どもの読者には,作者の意図が充分理解でぎなくても差支えないと述べたが,物語りの中で作 者が意図する主題へ子どもがひきつけられてゆき,その主題を哲学的には理解出来なくても,感覚的に
うけとめ,実感することが即ち児童文学におけるテーマの理解と解釈してよいのではなかろうか。
さて,再び河に逃れ帰ったHuckは第18章の最後において,河の上の筏の生活ほどいいところは
ないと考え, 一■.there warn t no home Iike a raft, after a11. Other places do seem so cramped up and smothery, but a raft don t. 」2♪という場面は印象的であり,子どもの読者は Huckとともに安堵する。
このあたりから河はもはや下りを実行する神ではなく,人の心を養う「慈愛あふれる自然」の面を表 わしてくる。もっとも,今まで河がその美しさをHuckに示してきた時も多かった。例えば第12章に おいて,Huckが筏の上であお向きに寝て,輝く星をながめながら,静かな大河を流れ下るときの美し
い荘厳な気持を, It was kind of solemn, drifting down the big, still river,1aying on our
backs looking up at the stars, and we didn t ever feel like talking loud, and it warn t often
that we laughed−only a little kind of a low chuckle. 13)と述べているように。しかし,河がほんとうの美しさ優しさを表わすのは第19章においてである。この章ρ河の描写のす ばらしさはHuckle berry Finn 43章の中の圧巻であり,私はこれ以上のすばらしい河の描写を英米散 文学において知らない○
{ Not a sound anywheres−perfectly still−just like the whole world was asleep, only sometirnes the bullfrogs a−cluttering, maybe. The first thing to see, looking away over the water, was a kind of dull line−that was the woods on t other side; you couldn t make nothing else out; then a pale place in the sky; then more paleness spreading around; then the river softened up away off, and warn t black any more, but graY;
you could see little dark spots drifting along ever so far away−trading−scows, and such things; and long black streaks−rafts; sometimes you could hear a sweep screaking;
or jumb工ed−up voices, it was so still, and sounds come so far;and by and by you could
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see a streak on the water which you know by the look of the streak that there s a snag there in a swift current which breaks on it and makes that streak look that Way;
and you see the mist curl up off of the water, and the east reddens up, and the river,
and you niake out a log cabin in the edge of the woods, away on the bank on t other side of the river, being a wood−yard, likely, and piled by them cheats so you can throw a dog through it anywheres; then the nice breeze springs up, and comes fanning. you from over there, so cool and fresh・and sweet to smell on account of the woods and.
the flowers;...and next you ve got the full day, and everything smiling in the sun,
and the song−birds just going it! i4)
朝がすみの中に,ほのぼのと明けゆくこの大河の光景は,シンフォニーの第一楽章だ。この音楽的な 夜明けで幕があけられた河の一日は,釣った魚を焼く熱い朝食からはじまる。それは生き生きとした第 二楽章のはじまりだ。それから二人はじっと静かな河を眺める。何もすることはない。やがて二人はう つらうつらと眠ってしまう。しばらくして目が覚めるが,.な:ぜ目が覚めたのかと見廻すと,遠くに外輪 蒸気船が咳をして河を棚って行くのが目に入る。それから一時間ほどは物音一つ聞えず,物一つ見えな い。繧寸たるミシシッピの大河だ。この静寂をHuckは just solid lonesomeness 15)だと想、う。
しぼらくすると遙か向うに筏が見えてくる。その筏の上では男が薪を割6ているらしい。斧がキラッと 光って打ち下ろされるが音は全く聞えない。その斧がまた振り上げられて男の頭の上にきた時にぽじめ
てカーン/という音がする。水上を伝わってくるのに,そんなに長い時間がかかるのだ。
二人はこのような静けさの中で一日を送る。濃い霧ががかったときには,そばを通る舟や筏の人びと の笑い声や罵声が聞える。また夜になって筏の上から見ると,対岸の小屋の灯や,同じ水上の筏や舟の 灯が見え,乗っている人たちの歌声やヴァイオリンの音も聞えてくる。二人は筏を流れにまかせ,パイ プに火をつけ,足を水の中に入れる。天を仰げば星が一面にキラキラと光っている。
星空のもとでHuckとJimはいろいろなことを話し合う。
It s lovely to live on a raft. We had the sky up there, all speckled with stars, and we used to lay on our backs and look up at them, and 〈Liscuss about whether they was made or only just happened. Jim he allowed they was made, but 1 allowed they hap−
pened;Ijudged it would have took too long to make so many. Jim said the nユoon could
a laia them; well, that looked kind of. reasonable, so 1 didn t say nothing against it,
because 1 ve seen a frog lay most as many, so of course it could be done. We used to watch the stars that fell, too, and see them streak down. Jim allowed they d got spoiled
and was hove out of the nest. i6)
ここにおいて,Lionel Trillingがいうように,少年と黒人奴隷は一つの家族即ち原始的共同体
(primitive c6mmunity)を形作る。そしてそれは聖者の共同体(community of saints)なのであ
る。
それはJames JQyceのU!yssessの中のStephen DedalusとLeopold Bloomの関係であり,
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津山高専紀要(第2巻第1号)
Herman M¢1villeのBil!y BuddのBillyとVereの関係であり,さらにWilliam Faulknerの短 篇の中の The Bear におけるIke McCaslinとSam Fathersの関係であり,これらの関係は月 並みの友情関係ではなく,人日関係の一つの原型としての精神的な父子関係であり,文学においてしば
しぼ追求される父と子の主題(father−son−theme)である。これは子どもの側からいえば教えられ導か れる関係であり,児童文学においても重要なテーマである。
Hucleleberry Finnにおいて,この精神的父子関係の媒体となったものは河であるが,この河はもは や原始的な神に支配された悪意の河ではない。かつては荒れ狂う怒りの神であり,判りの神であった河 は,ここに野上の二人を抱く慈愛あふれる美しき「自然」へと変容してゆくのだ。
この河はHuckを養う美しき河であり,かつてG. Meredithが大地と人間を結びつける原則を母 なる大地(Mother Earth)と呼んだように,私はここで, Huckに対するこのときの河を母なる河 (Mother River)と呼びたい。悠々として流れる無限の生命を象徴するミシシッピの大河,その母な
る河の懐にはぐくまれ,父なるJimに教えられ育てられてHuckは一層の精神的成長をとげてゆくの である。.この河とHuckとの関係は詩的であり哲学的な関係である。
詩的で美しい河の描写はさらに続く。
Once or twice of a night we would see a steamboat slipping along in the dark, and now and then she would belch a whole world of sparks up out of her chimbleys, and they wou1d rain down in the river and look awful pretty; then she would turn a cor−
ner and her Iights wou正d wink out and her powwow shut off and leave the river still again; and by and by her waves would get to v, s, a lopg time after she was gone, and joggle the raft a bit, and after that you wouldn t hear nothing for you couldn t teli how long, except maybe frogs or something.
After midnight the people on shore went to bed, and then for two or three hours the shores was black−no more sparks in the cabin windows. These sparks was our clock −the first one that showed again meant morning was coming, . . . i7)
かくして,ある朝カヌーを見つけた二人はそれに乗って岸に上陸するが,たまたま二人の男が走って やってくるのを見て自分たちを追っかけてきたのだと感違いする。HuckとJimは常に逃亡者であ り,追っかけられる立場なのだ。そのことが二人置連帯感を一層深めているのは Ithought I was a goner, for whenever anybody was after anybody 1 judged it was me−or maybe Jim. i8)
というHuckの思いによく現われている。だが追っかけてきたのは実は追っかけられている自称王様 と公爵の二人のペテン師であり,結局HuckとJimは彼らを助けて筏に乗せてやることになる。が
くして二人の生活はペテン師たちのためにめちゃめちゃにされながら続いてゆく。
Huckはときどきペテン師たちと一緒に上陸して沿岸の社会に出かけるが,グレンジャーフォード家 で文明社会の悪を知った時のように,上陸するたびにおとなの世界の欺隔性を目撃する。
ここでわれわれが注意しなければならないことは,この作品においては,おとなの性格,おとなの 世界が充分に描かれていないということである。この作品が大抵おとなの星学としてのみ論じられてい
るにもかかわらず,この点を明確に指摘している評者が殆んど見当らないのは皮肉という外はない。
一一 52 一一一
小滝 安正 十九世紀アメリカ児童文学におけるHecckleberrンFinnの研究(二)
Huckleberry Finnに描かれているおとなはHuckという14歳の少年の眼を通じてみたおとなの人間 像であり,おとなの世界が充分に描かれないのは児童文学のもつ宿命であろう。逆説的に言えば,おと なの世界が描かれていないからこそHuckleberry Finnが児童文学として充分成り立つ要素をもってい ると言ってもよいのだ。
また23章のHuckとJimの会話に, Don t it s prise you de way dem kings carries on,
Huck? No, Isays, it don t. Why don t it, Huck? Well, it don t, because it s
in the breed. 1 reckon they re all alike. But, Huck, dese kings o ourn is reglar raps−
callions;dat s jist what dey is;deゾs reglar rapscallions. We11, that s what I m a−saying;
all kings is mostly rapscallions, as fur as I can make out. Is dat so? You read about them once−you 1工see. Look at Henry the Eight;this n s a Sunday−school Superin−
tendent to him. And look at Char工es Second, and Louis Fourteen, and Louis Fifteen, and James Second, and Edward Second, and Richard Third,... 19)というところがあるが, Mark Twainは四三をこめた社会批評として書いたのであろうが,この課刺は勿論,ニセ王様と公爵の批評を 含めて,沿岸社会に対する社会調刺の充分な理解は子どもの読者には無理であろうし,児童文学の立場か
らいえば理解出来なくても差支えないことであろう。しかも,この23章に現われたMark Twainの 国王についての課刺は,彼のAConnecticut Yanleee in King Arthu〆s Coecrtや7「he Prince and lhe Pamperに現われたイギリスの封建制度や王権神授説に対する調刺と帰を一一一iにしたものであり,国 王といえぼ悪者という作者の歴史観は,イギリスに対する偏見がもとになっており,皮相的なものと言 わざるを得ない。
それはともかくとして,Huckは河くだりの過程において体得した一つの開眼一文明社会に生きる おとなた.ちの虚偽と悪に対しての開眼一を深めてゆくのであるが,常に逃亡的であり,常に受動的な 生き方しか出来なかった少年の精神が,やがておとなの悪,文明社会の悪と対決する次元にまで高めら れるのはウイルクス家の事件を契機とする。
それは,Huckがペテン師の悪者たちに騙されて財産をまきあげられようとしているウイルクス家の 娘たち,特に長女のMary Janeの優しさに心を打たれ, Igot to tell the truth, and you want to brace up, Miss Mary・, because it s a bad kind, and going to be hard to take, but there ain t no help for it. These uncles of yourn ain t no uncles at all; they re a couple of frauds−regular dead−beats. There, new we re over the worst of it, you can stand the rest middling easy. o)と勇気をふるい起こして告白するところであるが,これはあくまで契機であり,彼 が真に人間本来の正しき心のために命までもかけるに至るのは,ペテン師たちの好計によってJirnが 売りとばされてしまったときである。
Jimを助けずにはおれないHuckは,自分が犯そうとする罪や今まで犯してきた罪一逃亡奴隷を 助けるという当時の南部社会の道徳では地獄に落ちるほどの罪一の恐ろしさに悩み,苦しみ,思いあま
ったあげく,所有者のMiss WatsonにJimの居所を知らせる手紙を書く。そして Ifelt good
and all washed clean of sin for the first time I had ever felt so in my life, 乙1)の状態にな
るQ
一 53 一一
津山高専紀要(第2巻 第1号)
しかし手紙を置いて考えてみると,河くだりをしてきた二人のことが一昼も夜も一緒だった二人の ことが一一懐しい思い出となって目にちらついてくる。判こは月夜のことが,また時には暴風雨のこと が……。話しながら,歌いながら,笑いながら,流れてゆく二人のことが。優しかったJimの数々の 行為が。Huckが霧の中から戻ってきたときのJimの喜びが。そしてまた,グレンジャーフォード家 の事件から逃げ出しJimも沼地から逃がれることが出来たときどんなに彼が喜んだことか。いつも Huckを可愛がってくれ,彼のためには何でもしてくれたJim。そしてまた,天然痘患者に擬してJim
を救ったとき,自分をこの世でもった一番いい友達であり,今もっているたった一人の友達だと言っ てくれたこと。それらのことが走馬燈のようにHuckの脳裏に浮かんでくる。ふとあたりを見まわす と,自分の書いた手紙が目にとまる。Jimを手離すことはどうしても出来ない。自分はどうなってもよ い,Jimを盗み出し,奴隷を逃亡させるという悪の道を貫こうと彼は決心する。
「よし,それじゃあ,おれは地獄へ行こう」 All right, then,1 11 go to he11 12)一そして彼は 書いた手紙を引き裂いたのである。
このクライマックスにおいてこの小説の主題は要約されており,ここに最もつきつめられた形で社会 道徳に対決する次元の高い少年の精神が示されている。これはHuckの精神発達の段階が次第に高め
られ「一つの勇気」となって最後の段階にまで「成長」したことであり,Hblckleberry Finnが真に,巳 童文学として優れている最も重要な点がここに存すると考えられる。
かくて,Jimを助けだすためにHuckは悲壮な気持でフェルプス家にのりこむが,物語りはこのあ たりから終結に向って徐々に下降線を辿ってゆくのである。
な:お,物語りがクライマックスに至る直接の動機が,焼くだりの過程におけるJimに対するHuck の回想の形で描かれているが,私はHuckの精神発達が最後の段階に「成長」した別の要因として,
次の二つのことを見のがしてはならないと思う。
その一つの要因は,ウィルクス家の事件である。ウィルクス家の叔父たちになりすました王様と公爵 が着たちを騙して同家の奴隷の親子を引き離して売り払ってしまったのであるが,その黒人の母親と息 子たちに対する同情と悲しみに心を痛めて泣いているMary Janeの心のやさしさにふれたHuckは,
はじめて,悪と対決する積極的な精神に目ざめ,それまでは常に身を守ることのみ懸命で消極的であっ た彼が思いきってペテン師たちのことをMary Janeに告白する。彼女の絹のような手がHuckの手 におかれたとき,彼はおそらく生まれてはじめて,女性のやさしさを感じたのであろう。そして彼女が
彼のために祈るという言葉を聞いたとき,このみなしごの少年は Pray for me! z3)といって驚く。
そしてそれ以後,彼女のことと,彼女が自分のために祈ってくれると言ってくれたことを数限りなく思 い出すのだ。
彼女と最後に別れるのは,嵐の中を命の危険にさらされながら逃げる途中であるが,Mary Janeの 家を走り過ぎるとき彼女の家の窓にあかりがっく。それを見てHuckの心は破れそうになるが黙って 別れを告げる。その次には,なにもかも後の暗の中に消えてしまう。もう一生涯二度と会うことはな:い であろう。彼女は自分が今まで知っている中で一番いい娘だった。そしてこの上なく勇気を持っていた
と思う。
さて,この小説に現われる女性についていえぽ,大部分が年輩の女性であり,sexual loveは描かれ 一54一
小滝 安正 十九世紀アメリカ児童文学における砺盈ノθ加77夕Fゴ鯉の研究(二)
ていないが,この場面がこの作品における唯一の恋愛感情に似た場面であり,少年の「愛の原形」とも いうべきものを示しており,これはまたおとなのペーソスの世界でもあると同時に子どもにも充分理解 出来るペーソスの世界でもある。そしてHuckはこの娘から「やさしさ」と「勇気」という美徳を教 えられ,少年が始めて知った「愛」が昇華されて「自己犠牲的な愛」へと導かれていったと考えるのは 言い過ぎであろうか。
さらにもう一つの要因は,このウイルクス事件の前の挿話にさかのぼる。ある晩,筏の上でHuckの 見張りの番になってもJimは起さなかった。 Jimはいつもそうしてくれていたのだ。丁度夜明けに Huckが目を覚ますと, Jimぱ坐って頭を膝の問に入れて嘆き悲しんでいる。彼は残してきた妻や子供 たちのことを考えているのだ。そのときHuckは,白人が自分の家族のことを思うのとまったく同じ 様に,Jimが自分の家族のことを思っていたのだと確信する。そしてその時,黒人奴隷ぱ彼の娘のリ ザベスの話をする。彼女がまだ四つだった頃ひどい狸紅熱にかかって,それがよくなったある口,Jim がドアを閉めるように言っても,彼女ぱ閉めようともしないで何度言ってもただつつ立ったまま笑って いるので,気違いのように腹を立てたJimは,その娘を殴り倒してしまう。娘は入口のところで涙を 流していると丁度その時風が吹いてきてドァがパターンと閉まってしまうが娘は全然よけようともし
ないのでJimは息が止まるほど驚愕する。娘は狸紅熱のため,全く耳も聞えず口もきけなくなってい たのだ。その時のJimの気持は口では言えないほどのものであり,彼はぶるぶる震えながらそっとリ ザベスを試してみるが彼女は何の反応も示さない。Jimはわっと泣きだすと両腕で子供を抱上げて叫 んだ。 Oh, de po Iitt/e thing!De Lord God Amighty fogive po 01e Jim, kaze he never gwyne to fogive hisse!f as long s he live! 一4)そしてHuck 1ご向って嘆く。 Oh, she was plumb def en dumb, Huck, p!umb deef en dumb−en I d ben a−treat n her so! z5)この話を聞いたと
きHuckの心にはJimの愛情と悲しみ一「黒人」も「白人」もない人間そのもののもつ愛情と悲しみ 一が深く心の中に滲みわたって行ったことであろう。それは丁度ウイルクス事件のときMary Jane を通じてHuckの心に目醒めた美徳が,この物語りのクライマックスにおいて「自己犠牲的な愛」へ と導かれてゆく一要因になったと推論されたように,このJimのものがたりもまたこの小説のクライ マックスにつらなる別の要因と考えることができるであろう。
Hucfe/eberrSl Finnはその主題を中心にして考える場合,この小説がおとなの小説として取扱われる のが常識となっている今日,もう一度この小説が子どもの読みものとして取扱われていた初期の時代に かえり,あらためて児童文学として深く研究のメスを入れられる必要があるのは,以上の考察によって
も明らかであろう。
III
次にわれわれは,Huckleberry Finnのもつ児童文学的特性を中心として考察を進めてみたいと思う。
ところが不思議なことに,Huckleberry Finnの児童文学的特性をつきつめて行けば,それは結局,こ の作品のもつ特性そのものということになってしまう。そして私は,この作品がやはりすぐれた児童文 学であるという確信と,すぐれた児童文学作品のもつ文学的価値の高さについてあらためて認識を深め るのである。
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津山高専紀要(第2巻 第1号)
この書が,1884年イギリスにおいて,翌1885年置メリカにおいて,出版されて以来Walter Blair 教授の厳密な推計によれば,すでに一千万部が印刷されたそうであるが,この作品が世界中の読者を 一おとなも子どもも一ひきつけて楽しませる偉大な作品となった秘密は何か。
アメリカの児童文学者Alice M. Jordanは十九世紀アメリカ児童文学について論じたFronz Rollo to Tom Sawyerの中において次のように述べている。
Secure of a perrnanent place in English literature, Mark TvvTain s third book about a boy is claimed by every age. To bar Adventures of Uucfeleberry Finn from a list of child−
ren s classi¢s now is as unthinkable as it would have been to include it in the year of its publication (1885). ln all the range of our fiction, said Joel Chandler Harris, there is no more wholesom book than Hucfeleberry Finu. lt is history, it is romance, it is life. Here we behold human characters tripped of all tiresome details; we see people grow−ing and living; we laugh at their humor, share t.heir griefs and in the midst of St alL behold, we are taught the lesson of honesty, justice and mercy 26)
斯程までにHuckleberry Finnが激賞されている大きな原因の一つは,この作品において,子ども の眼を通して,真実の世界が示されており,子どもの世界が立派に描かれているがらである。
Lionel Trillingはこの小説の偉大さは,まず第一に真実を語る力にあるといって, No one, as he
(Mark Twain註は筆者)well knew, sets a higher value on truth than a boy. Truth is the whole of a boy s conscious demand upon the world of adults. 27)と述べた。
子どもほど真実を尊重する者はないというTrillingの考えは,前章で述べたごとく,子供は無垢
(innocence)な魂をもっているという思想を基盤とするが,この小説の第一の特性もそこにある。即 ちこの作品のすばらしさは,Huckが「徹底した正直さ」と,世のならいに染まってにごることのない
「純粋な:魂」をもっていることであり,この「無垢な眼」で少年が見た文明社会の偽善と醜悪に対し て,彼が愛と正義の美徳に目ざめ,その美徳を具現してゆく過程にあるのであって,この作品の中で Huckは生ぎ生きと生きており,悠々たるミシシッピの大河を背景に,少年の魂がうたう哀歓の詩情が 読者の胸をうつのであり,児童文学としての価値もまたそこにあるのだ。
ここで私はHuckの魂が「無垢」であり,「徹底した正直さ」をもっと述べたが,面白いことに,
世問一般のひとびとから見れば,Huckは乞食のように汚なく,猿のように粗野で,その上天性の嘘つ きと言ってもいいほどよく嘘をつく浮浪児だ。.しかし,その嘘は自分の心を欺くような本質的な嘘では 決してない。彼の嘘の何とユーモアがあり無邪気で明るいことか。そしてまたその嘘は,彼を自然と結 びつける特性のようなものであって,丁度野性の動物が外敵を欺くために体の色を変えるように,天涯 孤独の浮浪児がもつ生きるための知恵であり,その嘘が時にはわが身やJimを救うための必死の防禦
さくとなるのだ。Lionel Trllingが At the same time it often makes them skillful and pro−
found liars in their own defense, yet they do not tell the ultimate lie of adults: they do not lie to themselves. 28)と言ったようにHuckはおとなたちのように本質的な嘘は言わないし,決
して自分を欺くことはない。このことは再度強調しておかなくてはならない程児童文学にとっては重大 な問題である。彼の嘘を一体誰が軽蔑することが出来るであろうか。だからこそ,おとなの嘘を極度に 嫌う子どもたちが,Huckの嘘が成功したときは,まるで自分のことのように喜び,安堵し,快哉を叫 一56一
小滝 安正 十九世紀アメリカ児童文学におけるHuckleberry Finnの研究(二)
ぶのだ。
児童心理学者は,子どもの嘘は追想錯誤,言語遊戯ないしは現実と空想の未分化の状態である混同心 性などから生まれると説くが、第!章から第3章までの,あるいはその後時々現われる子どもらしい嘘 は,子どもの世界を生き生きさせる手段としての遊びにすぎない。子どもにとって「遊び」は生命のよ
うなものであり,HuckがTom Sawyerと同じように魔法をかけるために古いブリキのランプと鉄 の指環を手に入れて一一一一i生懸命になって擦るのも,盗賊団を組織するのQ,、Miss Watsonの奴隷のJim を騙すのも,嘘をつくことも.みなすべて,Huckにとっては,この世に変化を与之生き生きとさせ るための遊びなのである。
ところが,第4章から第7章にかけて,酒乱で手におえない無頼漢である父親の出現があり,生活が おびやかされるようになると,その恐怖から逃れるために,彼は野性の動物が敵を欺く巧妙な本能にも 似たトリヅクをもちいて父親を欺く。このあたりの父親に対するHuckの嘘は,自分の身を守るため の真剣な自己防衛戦なのだ。
その後,ジャクソン島で逃亡奴隷のJinユと一緒になり,河向うに渡って事情をさく・るために冒険に 出かけるが.身元を知られないために女装をして対岸の小屋に入りこんで、…・生懸命出まかせの嘘をな
らべたてる。Huckにとっては,それは敵状偵察のための変装であるが,その家の女に嘘を.見破られて しまう。しかしジャクソン島が捜索される予定だという情報をつかんだHuckは這々の体(てい)で 島に逃げ帰り,Jlmとともに全てのものを筏に積み込んで,脱出の旅に出る一、
この河くだりの過程におけるHttc1〈の嘘についてもわれわれはまた弁護しなければならない。即ち 第13章におけるウォルタースコット号から窮地に陥った人殺しの悪人たちの命を救:うための嘘は,1ヒ むを得ざる問題解決法であり,あるいはまた第16章におけるケアP一に近づいた時,奴隷狩りの男た ちからJimを助げるために,彼を白人だと偽って天然痘患者の状況を設定するとぎの嘘は賢明な災難 回避の方法である。さらにまた,詐欺師の王様と公爵に会ってからの嘘は,身を守るための自己防衛欲 求の充足方法であり,それは生きるための知恵に外ならない。
しかし,このようにして彼の身についた嘘が自分の魂を傷つける出来事をひきおこす。あの霧の夜の 事件である。Huckの身を案じて,心も潰れんばかりに心配していたJimを悲しませることになると はつゆ知らず,彼が遊び心からふざけ半分にJimを騙したとき,彼は悪意のない嘘でも人の心を傷つ けることをはじめて知った。彼の嘘が,Jimのもつ人間の真実に触れたとき,彼は黒人奴隷にひれ伏 してその足に接吻して謝りたいほどの後悔をし,その後生涯を通じて人の心を欺くような嘘はつかなく なったのである。ここに児童文学として見逃がせない大ぎな教えと,少年の心の成長が描かれているの だ。ここにも子どもの純真な魂がある。
さて次に,児童文学として見逃がすことの出来ないもう…つの重要な特性がある。それは冒険である。
しかしこの物語りに現われる冒険は,第二次世界大戦後のSF小説や推理小説に現われるような並はず れた興味性を中心としたものではない,この作品はスケールの雄大なロマンではあるが,実際生活と遊 離した夢物語りではなく,あくまで現実生活と密接に結びついており,近代文学のもつ realism を 失ってはいない。子どもが興味を引かれ,理解し,満足する作品は,リアリティーの世界を通して,真 実の人生の深さ,大きさ,広さを知る作晶である。
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津山高専紀要(第2巻第1号)
Lillian H. SmithはHuckleberrツFinnがいつも子どもの心をとらえてきたことについて次のよう に述べている。
Although Tom Sawyer and Huckleberry Finn, with their setting of the semi−frontier,
semi−nomadic life of Mark Twain s boyhood near. and on, the Mississippi have now a
value as social history, it is not as h3story that these books continue to captivate children.
VL hen children return again and again to Tom Sawyer and Huckleberry Finn they are
drawn by the adventure and fun which they are certain to find in the companionship of Tom. Huck and Jim. These are characters who have a continuing rea工ity for the reader.
so that they go on living in the memory long after the book is read.29)
この作品が子どもの心を魅惑する創作上の秘密は,Lillian Smithの言葉を借りるまでもなく,前号 の「児童文学者としてのMark Twain」の項でも述べたごとく,Mark Twain(Samuel Langhorne Clemens)がハニバルにおける少年時代,ミシシッピ河のほとりで, HuckやTom Sawyerと同じ
ように,雄大な大自然の懐の中で育ち,彼がこの作品の素材を実際の少年時代の経験からとってきてい るζとによるQ
彼の少年時代のハニバルは美しい町ではあったが,フロンティヤのならいとして,喧嘩,強盗,殺人 といったような血生臭い,子どもの心を恐怖に戦かせるような事件には事欠かなかった。巨大なミシシ ッピ河には,未知の土地から流れてきて,いっことも知れぬ未知の土地へとくだってゆく筏や,少年の 夢と冒険をのせて運ぶ外輪蒸気船。その河で子どもたちは泳いだり,暴れたり,そして,海賊ごっこや 探険遊びをする。そんな舞台にはもってこい.O美しい森や丘があり,遠く下流には少年の夢を誘うジャ
クソン島が絵のように霞み,子どもたちの遊びと冒険の夢を育てるには申し分のない天国であった。
少年時代のMark Twainにとって,河はロマンチヅクな憧れとすぼらしい冒険の舞台であった。彼 がLife on the MississiPPiの中で述べているごとく,水先案内になって実際に河を深く知るようにな
ってからは,河はその魅力の多くを失ってゆくが,この子ども時代の彼の体験が文学者としての原体験 となったことは児童文学においては大変重大なことであるQこのすばらしい実際的な児童文学的素材を 彼が作家として発酵させ醸成させたことが,作品に具体性を与えているのであり,リアリティーの中に 息づく夢と冒険が子どもの心をとらえて離さないのだ。元来子どもは,その読みものの中において,危 険の多いはらはらするような冒険を好み,未知未踏の世界につれて行かれることに夢中になり,彼らの 想像力に訴えて夢をえがき心をおどらせる。児童文学の中に子供たちが切に求めているのは,すばらし い冒険とロマンスなのだ。
LSmithは冒険小説について次のように述べている。
In a speech given to the Royal Society of Literature, Kipling said, For fiction js Truth s e工der sister, Obviously !No one in the world knew what truth was till someone had told
astory. ln a story which might happen, when the events are purely imaginary butnevertheless appear plausible and possible, the story is true to some aspect of life. Such adventures provide the vicarious experience Thich widens children s interests, lifts their horizons, and satisfies their need for an imaginative outlet.
In all the range of that class of fiction which, ostensibly at least, deals with stories of real life, those of high adventure are most universal in interest. They are also, as a rule,
simple and straightforward and ]end themselves to analysis.30)
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児童三三で最も大切とされるものはromanticismであるが,それは夢に満ちた冒険小説によってし ばしば表現される。空想や七三力の無限の飛翔,困難な現実に打勝つ勇気,それらは冒険の過程におい て子どもたちに体得される。しかし,子どもたちが冒険の中に求めている生命の高揚感,ストーリーの 主人公と同様の気持になる共鳴感は,何も現実離れのした冒険物語りの中にあるのではなくて,具体的 なリアリティーの世界を通して彼らは感じとるのである。子どもは常に日常的な法則に従っている人物 しか理解しないし,ファンタジックな児童文学の作品においてもリアリティーがなければ子どもたちは 見向きもしない。つまり,児童文学においてはromanticismとrealismは理論的には分けて考えら れても,実際の面でel 一体となるべき運命をもつ。従って,美しくてPマンチックな冒険は,子どもの 生活の周辺に一門にも,前にも,後にも一一ぱいあるのだ。この子どもの夢を満たしてくれるのが Huckleberry Finnであり,Huckの冒険とともに子どもの心は育ってゆく。現代の子どもたちが宇宙 を舞台にした興味本位の小説を読む場合,彼らはそれを絵空事として楽しむだけであり,その文学的価 値はlluckle.berry Finnの冒険に及ぶべくもない。
Huckの冒険は,はじめは遊びであったが,第7章の父親からも未亡人からも逃亡するためにカヌー でジャクソン島にのがれるあたりから次第に真剣な冒険へと移ってゆく。これは丁度彼の嘘が,はじめ のうちは子どもらしい嘘であり遊びであったのが,第4章の父親の出現あたりから真剣な自己防衛の嘘 に移ってゆくのに似ている。斯くして,物語りはすべての面にわたって真剣な様相を帯びてくる。この 小説における冒険は,真の自由と解放を求めて,Huckが社会の掟から真剣に命がけの脱出をするとこ ろから意味をもってくるが,それは子どもの心をスリリングな思いと,わくわくさせるような期待感で 一杯にするのだ。
Huckの冒険の旅は,手に入れた流れカヌーの中に僅かな荷物を入れた状態からはじまる。ジャクソ ン島で逃亡奴隷のJimに会い,筏を手に入れ,また流れ家屋からカンテラ,ナイフ,手斧,釣糸その 他沢山の獲物を手に入れる。また河くだりの途中で難破船からも毛布や着物をはじめ葉巻箱まで手に入 れる。(これらはその後水難のためにまた再び河に時勢されてしまうのだが。)このような状況の設定は
まことにリアルであり,子どもの心を捕えて離さない。
また第12章において,ジャクソン島から脱出した第一B目には,Jimが筏の上に原始的な小屋を作 る。焼けつくような炎天や,雨のHには,その中にはいり込むためだ。その小屋ぱなかなか住み心地が いい。さらに二人は,その小屋の中に五,六インチ程の泥の盛土をし,まわりを枠でかこみ,炉を作 る。寒い日には焚き火をするためだ。オールも一本予備をこしらえた。夜河をくだってくる蒸気船に衝 突されないために,古カンテラをぶらさげる棒も立てた。
このあたりの描写はまことにリアルであり,文明の機械力もなく,原始的な方法で,生きるために考 え,工夫し,何かをつくり出す。これこそ少年の夢をかき立てないではおかない魅力に満ちた冒険なの だ。原文を引用しよう。
Jim took up some of the top planks of the raft and built a snug wigwam to get under in blazing weather and rainy, and to keep the things dry. Jim made a floor for the wigwam, and raised it a foot or more above the level of the raft, so now the blan−
kets and all the traps was out of reach of steamboat waves. Right in the middle of −59一