(資料)
中国語研究と認知言語学 その 1*
文献資料翻訳
陸倹明・沈陽≪漢語和漢語研究十五講≫
第十二講
秋 山 淳*
間 ふ さ 子**
甲 斐 勝 二***
翻訳にあたって
現在、筆頭執筆者の秋山は、福岡大学の間ふさ子、甲斐勝二と共に中国語語法論文の 読書会を行なっている。今回そこで取り上げた論文は、北京大学の陸倹明・沈陽氏の手 に成る≪漢語和漢語研究十五講≫(北京大学出版社 2004 年第 2 版)に掲載される<認 知理論と言語認知分析>という一章である。この章はいわゆる「認知言語学」による語 法研究について述べたものだ。「認知言語学」は、中国語の語法研究に関する近年の学 会発表や『中国語学』などの学会誌の掲載論文においても、語法現象を説明するために 盛んに用いられている言語理論である。ではこの「認知言語学」とはどのような言語理 論なのだろうか。おおざっぱにいえば、「認知言語学」とは「生成文法」で探求されな かった 「意味」 に対する研究に踏み込む一派としてジョージ・レイコフ (George Lakoff)らが、意味の生成と理解という問題の取り組みに認知的視点を取り入れて継 承発展させたものである。ここでいう「生成文法」とは「認知言語学」に先行する言語
*福岡大学人文学部非常勤講師
**福岡大学人文学部講師
***福岡大学人文学部教授
理論である。それは次のように定義できる。(1)
(1)その言語を用いる話し手から独立させ、話し手がその言葉を話す目的とは関係 ないものとして言語を研究する。即ち、人間の一般的な認知能力とは切り離して 言語を研究する理論である。
一方、「認知言語学」は次のように定義される。(2)
(2)現代言語学の大きな流派の名称である。言葉は人間の認識の根幹であり、言語 現象の正確な記述は人間の認知能力についての知見に照らして行うべきであると いう見方に基づく。認知言語学は、言語能力、言語習得及び言語使用についての 認知論的に妥当な説明を目指す。
「生成文法」と「認知言語学」の違いは、「生成文法」が人間の一般的な認知能力と切 り離して言語を研究するのに対し、「認知言語学」では言語現象の正確な記述は人間の 認知能力についての知見に照らして行うべきであるという見方である。
具体的な例を比べてみることにしよう。
(3)衣服 了。<服が汚れた>(3)
(3)の形容詞“ ”は非対格動詞であるとされ、V の位置にある。主語の“衣服”
は以下に見る(4)の D 構造(深層)構造では NP3 にあり、“ ”「汚い」は非対格動 詞であるために、NP3“衣服”に対格を付与できない(賓語をとれない)。そのために、
NP3 の“衣服”は NP1 に移動し、I から主格が付与される。その結果、(3)の文が生 成されることになる。
一方、「認知言語学」では、NP“衣服”は自然に、たとえば埃などで、汚れることを 知っているので、(3)の文は問題なく成立すると考えられる。
ところが同じ非対格動詞である“干浄”「清潔である」を用いた(5)の例文は(4)と
(4) IP(=S)(4)
NP1 I' I VP 了
NP2 V' V NP3
衣服
同様に D 構造を持ちつつも、通常このままでは適格な文にならない。
(5)*衣服干 了。
(5)の“干 ”「清潔である」は(4)の“ ”「汚い」と同様に非対格動詞であり、
(4)も(5)も同じ D 構造を持つが、(4)と(5)の文の適格性が異なるのは、いわゆ る生成文法の解くような形式だけからのアプローチでは説明できない。では、「認知言 語学」では(5)の文が適格であると判断されないことをどのように説明するのだろう か。我々は経験上“衣服”は日常自然に、たとえば埃などでやがて汚れることを知って いても、何らかの作用なしには清潔になるとは想像できない。従って(5)を抵抗のな い文にするには、“衣服”が「清潔になる」ための、何らかの環境や動作、たとえば
“洗”「洗う」などを付加しなければならないと考えるのである。
(6)衣服洗干 了。<服は洗って清潔になった>
こう考えることが正しいならば、我々人間の認知活動が何らかの形式で、言語表現に 反映され、その表現方法を制限しているということになる。
また、「認知言語学」では、意味とは、客観的事実のコピーではなく、それをベースに しながら言語主体(話し手)がどのように概念化したかに依存すると考える。たとえば、
(7)私は桂林に行く時間がない。
上記の(7)の日本語を中国語にするとき、次の二つの言い方が考えられる。
(9)我没有 去桂林。<私は桂林に行く時間がない>(6)
(私は時間(その時間に桂林に行く)がない)
(10)我没有去桂林的 。<私は桂林に行く時間がない>(7)
(私は北京や上海に行く時間はあるが桂林に行く時間はない)
(7)の日本語を中国語に訳した例であるが、捉え方が違えば、言語表現が異なって いる。つまり、(8)(9)は意味の重点が異なるのである。
以上、少ない例ではあるが、中国語の例を通し、言語表現には、我々人間の認知活動 が、何らかの形式で反映され、表現を制限することを見てきた。このような認知言語学 の研究は各言語で進んでいるが、では中国語では現在どうなのか、中国語学を志してみ ようという学生や他の言語の研究者に興味があるはずだ。本稿は陸倹明・沈陽著≪漢語 和漢語研究十五講≫第十二講<認知理論と認知分析>の翻訳である。訳者の我々はこの ような翻訳による紹介の作業をしながら認知言語学とは何か、認知言語学の目標とは何 かを再確認し、読者と共に中国語の語法の研究方法の視野を広げていこうと考えている。
翻訳は間と甲斐が下訳を作り三人で検討した後、秋山が再度まとめ注をつけた。翻訳の 掲載を許していただいた陸倹明先生・沈陽先生にお礼を申し上げます。(文責 秋山)
注
(1)ジョン・R・テイラー、瀬戸賢一(2008)『認知文法のエッセンス』大修館書店p.7 参照。
(2)ジョン・R・テイラー、瀬戸賢一(2008)『認知文法のエッセンス』大修館書店p.1 参照。
(3)井上優(2005)「事象と言語表現の関係を支えるもの」「中日理論言語学研究会第 3 回研究会発表論文集」参照。
(4)中村捷・金子義明・菊地朗(1989)『生成文法の基礎―原理とパラミターのアプロー チ―』、秋山(1996)「非対格性と動詞分類」『中国語学』第243号、日本中国語学 会参照。
(5)例文は、斎藤匡史・何暁毅・田梅(2005)『中国語スタンダード―文型・表現編』
より引用。
(6)例文は古川裕(2001)『チャイニーズプライマー』より引用。
1<認知理論と言語認知分析>
1.1.“差一点”と“大星期天”より始める
この課では主に「認知理論」と「言語認知分析」を検討する。では、「認知」とはな にか。この概念を難しく述べれば確かにわかりにくい。なぜなら厳密な学術的視覚から
「言語の認知分析」を定義すると、これまで蓄積された心理学領域の理論概念およびそ の操作基準に関係せねばならず、一般の人はもちろん、専門家でも説明が異なるからで ある。しかし、この概念を簡単に述べるならそれはかなりわかりやすいものである(1)。 なぜなら比較的広範な意味において「言語の認知分析」を説明すると、主に人の心理的 知覚の角度から言語現象を分析しようとするものに他ならないからである。もっとはっ きりいえば、話し手が発話するとき、いかなる心理活動が話し手にある言い方をさせ、
それ以外の言い方をさせないか、また聞き手がその話を聞くとき、いかなる心理活動が 聞き手にそのように理解させ、それ以外のようには理解させないかというような角度か ら言語現象を説明しようというのが「言語の認知分析」なのである。この点をはっきり
させるために、まず二つの簡単な例を見てみよう。
一つの例は、中国語の“差一点(怎 /没怎 )”の意味と用法に対する説明で ある。
中国語では“差一点(怎 )”または“差一点(没怎 )”は常用の文の構造形式 だが、その示す意味は決して同じではない。たとえば、“差一点 倒了”は“差一点没 倒”と意味が同じで、何れも転ばなかった事をいう。しかし、“差一点考上了”は
“差一点没考上”と意味が異なり、前者は合格しなかった意味であり、後者は合格した ことをいう。要するに、“差一点 倒了”と“差一点没 倒”は、形式上は一方は肯定
(否定詞がない)で、もう一方は否定(否定詞がある)だが、意味は何れも否定である。
つまりどちらも「転ばなかった」ということである。“差一点考上了”と“差一点没考 上”も、形式では一方が肯定でもう一方が否定であるが、意味は同じではない。肯定の 形式で否定の意味を示し、否定の形式で肯定の意味を示している。実際に使われる言語 資料にはこのような例がまだたくさんある。
(1)a 差一点打破了(没打破)=差一点没打破(没打破)
b 差一点 婚了(没 婚)=差一点没 婚(没 婚)
c 差一点打 了(没打 )=差一点没打 (没打 ) d 差一点淹死了(没淹死)=差一点没淹死(没淹死)
(2)a 差一点及格了(没及格)≠差一点没及格(及格了)
b 差一点中 了(没中 )≠差一点没中 (中 了)
c 差一点赶上了(没赶上)≠差一点没赶上(赶上了)
d 差一点 着了(没 着)≠差一点没 着( 着了)
では、なぜ我々は上の(1)と(2)の“差一点怎 ”および“差一点没怎 ”の 一文を発話するとき、異なる意味を表すことが可能なのだろうか。ここに我々のある種 の心理認知が関係してくる事になる。(1)の“ 倒「転ぶ」、打破「打ち破る」、 婚
「離婚する」、打 「敗れる」、淹死「溺死する」”等のようなものは一般的状況からして 何れも話し手が発生を望まない事柄であるが、(2)の“考上「合格する」、及格「合格 する」、中 「賞品/賞金が当たる」、赶上「追いつく」、 着「買う」”のような場合は、
一般的に何れも話し手が発生を希望する事柄であることがわかる。“差一点怎 ”と
“差一点没怎 ”の二つの文の構造形式が結局いかなる意味を示すのか、それは主に そこで述べられる事柄が話し手の希望するものかそれとも希望しないものかに注意する べきことになる。我々がその発生を希望しない場合は、二つの表現法は意味が同じだが、
我々がその発生を希望するものであれば、二つの表現法は意味を異にするのである。具 体的にいうなら、その肯定の形式と否定の形式の状況もまた同じではない。上に挙げた 二つの表現法の中で肯定形のものの意味は共に否定であるが、否定形の場合は、形式か らだけではその意味がわからず、その場合、我々はその事柄を希望するかという態度を 考慮しなければならないのである。
希望するかしないか、それは固定されて変わらないというものではない。一つの事柄 でも、具体的な条件と環境が異なれば、その実現を希望することもあれば、希望しない こともある。たとえば、日照りが続いていた時には、雨が降るのを望むだろうし、雨が 降りすぎれば、今度はもう降って欲しくなくなる。よって、“差一点下雨了”と“差一 点没下雨”は、時には同じ意味になり、時には異なる意味になる。このほかに、希望す るしないもしばしば人によって違いがある。たとえば、AとBのチームでサッカーの試 合をするとき、Aのゴールにシュートを入れる事はBチームのファンの望みであるが、
Aチームのファンの側に立てば、その実現は望ましくない。よって、Aチーム側が“差 一点射 去了”・“差一点没射 去”と言うとき、それは同じ意味で、共にシュートが 入らなかったということである。同じ二つの言葉を、Bチーム側から言えば、意味が異 なり、“差一点射 去了”はシュートが入らなかった意味になり、“差一点没射 去”は 逆にシュートが入った事になる。このほか、現実の生活では希望するかそれとも希望し ないかをはっきり言えない事柄もあろう。たとえば、“結婚”などは、人によって考え 方が違うし、しかも結婚は少なくとも結婚する双方に関わり、その中には、ずっと待ち 続けた人もいれば、しかたなくという人もいるし、どうでもよいという態度の人もいな いとはいえない。そうなると、“差一点 婚了”と“差一点没 婚”が一体どちらの意 味なのかは、事情により異なるし、また人によっても違ってくる。
もう一つの例は、中国語の“大+時間名詞(怎 /没怎 )”の意味と用法に対 する解釈である。
口語では“大 年的(怎 / 怎 )”、“大星期天的(怎 / 怎 )”の形 式もよく使われる。この形式は、主に時間の重要性あるいは特殊性を強調するものであ ると示されたこともあった。たしかに、その時間内では何を行うのかということもかな
り特殊で重要なものであるのかもしれない。それならば、この説明は正しいのだろうか、
またはこの形式が一体どんな意味を表しているのか、我々は一体どんな場面でこういう 言い方をするのだろうか。
まず、中国語ではどの時間名詞が“大+時間名詞(的)”の形式に入るのか見てみよう。
時間名詞(時間副詞と時間量詞は含まない)は概ね四つに下位分類されるが、それぞれ 当該形式に入る状況は異なるのがわかる。
第一に、節句を示す時間名詞がある。その中には中国伝統の節句と祝日、また“元旦”、
“春 ”「旧正月」の“ 年”「正月を迎える」、“ ”「祝祭日を祝う」等が含まれ、
通常この形式に入れることができる。しかし、中国伝統ではない節句あるいは休みにな らない記念日は、このようには言えないかまたはあまり言わない。例えば:
(3)a 大 年的/ 大 的/ 大 日的/ 大中秋( )的/ 大国 ( )的/ 大五一( ) 的
b *大 活 的/ *大感恩 的/ *大七一 / *大 女 的/ ?大 的/ ?大儿 童 的
第二に、年・月・日・曜日を示す時間名詞がある。その中で順序を示すもの、“今年”
“下个月”「来月」“前天”「一昨日」などはこの形式に入れることはできない(大后天 /大前天の“大”は別もの)。基数を示す「月」「日」「曜日」の場合は、この形式に入 れることができる場合もあれば、入れられない場合もある。例えば:
(4)a 大正月的/ 大初一的(限正月)/ 大十五的(限 正月和八月)/ 大星期天的/
大周末的/ 大星期六的(週休二日になった後ならこう言える)
b *大三月的/ *大初七的/ *大十三的/ *大星期三的
第三に、一年の季節、気候を示す時間名詞がある。これも言えるものもあれば言えな いものもある:
(5)a 大夏天的/ 大冬天的/ 大 天的/ 大 天的/ 大 天的/ 大太 天的 b *大春天的/ *大秋天的/ *大暖和天的/ *大凉快天的
第四に、一日の中の「時間点」や「時間帯」を示す時間名詞がある。「時間点」はす べてこの形式には入れられない。例えば“大八点的”とは言えない。「時間帯」だと言 えるものもあれば、言えないものもある。例えば:
(6)a 大清早(早上、早晨)的/ 大中午( 午)的/ 大 上的/ 大半夜的 b *大上午的/*大下午的/ *大傍 (黄昏)的
上に挙げた“大+時間名詞(的)”が成立する形式をみれば、「特殊あるいは重要な 時間」で解釈することができそうだが、しかし、ていねいに見るとそうなってはいない。
例えば“大清早的”は、「一日の計は早朝にあり」というわけで、“清早”「早朝」が割 に特殊または重要だといえるかもしれないが、しかし、なぜまた“大中午的”、“大 上的”、“大半夜的”も言えるのだろうか。また、例えば“大夏天的”“大冬天的”は 言えるのに、「一年の計は春にあり」の“春天”となるとなぜ言えないのだろうか。さ らに“ 年”、“国 ”「国慶節(建国記念日)」のような重要な時間名詞がこの形式 に入れることができるのであれば、なぜ“建 ”「建軍記念日」“七一”「中国共産党 成立記念日」などのような同じように重要な時間名詞は言えないのだろうか。“大”の 後ろの時間には特殊・重要なものが来るということ、それは必ずしも正しいとは言えな いとわかるだろう。
上に挙げたタイプの時間名詞からだけでは、ただちに“大+時間名詞(的)”のフレー ズ形式の用法上の特徴を見いだすことはできない。もし角度を変えて考察すれば、“大
+時間名詞(的)”は、通常それだけで出てくるのではなく、別の文が後に続くものだ ということがわかる。しかも、この後続文が表す内容には一般に2つのタイプがある。
一つは、反対の語、つまりある事柄の行為を否定するものである。それはまた二つの 場合があり、一つは直接の否定、もう一つは反問の否定である:
(7)a1 大 年的, 老忙工作了!
a2 大 上的, 往外 了!
b1 大清早的, 就出 了?
b2 大星期天的, 加班?
もう一つは順接の語、つまりある事柄の行為を肯定するものである。これも二つの場 合がある。一つは直接の肯定、もう一つは反問の肯定である:
(8)a1 大 天的, 就在家呆着 ! a2 大中午的, 找地方迷糊一会儿 ! b1 大半夜的, 不睡?
b2 大星期天的, 不 孩子去公 玩?
注意すべきは、この文の中の意味が行為の否定であれ肯定であれ、しばしば逆のいい 方ではいえないということである。例えば、上の例では同様に“星期天”「日曜日」が 使われるが、もし“大星期天的, 怎 不加班 ?”、“大星期天的, 孩子去公 了!”
と言うとすれば、奇妙な感じを与えるだろう。“大+時間名詞(的)”がいえるかどうか は、実際には後続する文が表すその時間の中でどんなことを行うべきかあるいは行うべ きではないかとも関わることが明らかだ。
実は上記で述べた二つの状況はある簡単な法則を反映しているのである。“大+時間 名詞(的)”自身の構成形式から見れば、その中の時間名詞はとりわけて特別に重要な 日ではなく、しばしば仕事をしないか仕事に適さない(逆から言うと休むべき、あるい は休息に適している)時間のことであり、“ 年”、“冬至”、“星期天”、“ 天”「寒い日」、
“中午”「正午」、“半夜”「深夜」などみなそうである。もしこのような場合でない時間 は、この形式に入れないのである。それに後続する文、即ちある行為を肯定または否定 する表現内容をみても、なにも特別なあるいは重要な事柄を行おうと言うのではない。
要するに、肯定される事柄は、しばしば仕事をしないとか休息と関係があるのだ。これ には“睡 ”「眠る」、“歇着”「休んでいる」、“不出 ”「出かけない」などのグループ を含むばかりでなく、“干家 ”「家事をする」、“去公 ”「公園に行く」、“ 商店”「お 店をぶらつく」、“走 戚”「親戚を訪ねる」といった広義で休息と考えられる事柄も含 まれる。逆に言えば、否定されるものは、しばしば仕事や休息しないという事に関わる。
ここには、“工作”「働く」、“上班”「出勤する」、“干活儿”「労働する」などの事柄が含 まれるだけでなく、“出 ”「出かける」、“往外 ”「外へ駆けだす」、“瞎折 ”「無駄な ことをあれこれやる」、“不睡 ”「眠らない」など、休息すべき時にしないという事柄 が含まれる。もしこのような内容でなければ、後続の文にはなれないのである。“大+
時間名詞(怎 / 怎 )”の用法が、実は社会心理の一種を反映するものである 事がわかるだろう。つまり、概ね中国の伝統上の労働時間と休息時間に対する考え方と 一緒になっていると見なしてよい。中国に伝わる農作業ではいわゆる「日が昇れば仕事 をし、日が落ちれば休む」、「春に種まき秋に収穫、冬はじっとしている」は、ちょうど 先に述べた“大+時間名詞(的)”の形式および後続文が成立するかどうかに対応して いる。あるいは、我々が自分の休息時間の前に“大”の一字を加えるのは、ただこのよ うな時間がかなり貴重であり、十分に楽しむべきだと言いたいがためにすぎないのだと いってもよいかもしれない。“大”の後ろの時間名詞がこのような時間を指すものであ れば、当然その時間の中で「こうすべきだ」「そうすべきではない」といった対立も難 なく説明できてしまう。
これまで二つの例を別々に取り上げて話してきたが、それはすでに一種の認知分析だっ たのである。より深い角度から見るならば、その中の規則に更に概括と抽象を加えるこ とができる。たとえば、さらに推論を進めれば、我々がある種の言語形式を用いるとき には、概ね心理上その形式が触れる事柄に対する好悪の感覚と関係があるかものなのか も知れない。もし、我々が心理上に「希望」と「喜び」という事柄を一つの状況と見な し、「望まない」「不愉快」という事柄をもう一つの状況と見なしていると言えるなら、
“差一点(怎 /没怎 )”と“大+時間名詞(怎 / 怎 )”の形式は共に この心理的感覚の区別を確認するものに他ならない。もしさらに推論を進めるならば、
一歩進んだ結論を得ることもできる。それは“差一点(怎 /没怎 )”と“大+
時間名詞(怎 / 怎 )”の形式はどちらも同じ形式であり、ある種の意味を持 つものもあれば,その意味を持たないものもある、あるいはそういえるものもあるが、
そういえないものもあるというものであり、これは言語のなかの「不対称現象」だといっ てよい。このような例から見いだせるのは、多くの言語の中にある、肯定と否定、言え ると言えないという「不対称」現象は、何れも我々の事物に対する主観認識と関係があ るといえる。あるいは逆に、我々の事物に対する異なった感知と体験こそが言語の中に 各種各様の「不対称現象」構造を生む本当の原因なのだと言いうるだろう。
実際には、多くの言語現象は、統語構造あるいは意味関係などの形式による、あるい は規則の角度から分析や説明することが難しいという印象を、この二つの例の分析から 得ることができよう。その時、言語現象の背後にある心理活動の特徴および社会認識の 基礎を深く掘り起すことが必要なだけでなく、時にはそうすることによってのみ、比較
的合理的で正しい説明が可能になり、またそれでこそ比較的概括的で抽象化された法則 を手に入れることができるのである。言語の認知分析の働きもまたここにあると言うべ きである。
1.2. 認知言語研究の基本仮説と主要目標
もちろん上に挙げた例は一般的意味での言語認知分析にすぎない。言語学研究の重要 な学派あるいは思潮としての「認知言語学」は、言語の認知分析とは何か、あるいは言 語の認知分析をいかに進めるかになどについて比較的明確な理論仮説や研究目標を有し ている。
1.2.1. 認知言語学の基本仮説
現代の言語科学では、人類の言語現象にはおおまかにいえば二つの道筋と二つの理論 前提があると説明する。その一つは形式言語学理論で、これは主に形式化された原則と 規則システムを構築し、言語構造の内部から言語現象についての説明を求めようとする ものである(2)。もう一つが認知言語学理論であり、これは主に心理分析の手段を持ち出 して言語の外側から言語現象の説明を探ろうとするものである。形式言語学理論が、言 語学を物理学に喩え、言語構造の規律は物質の構造規律と同様であって外部から説明を 探す必要はないと考えるとするなら、認知言語学理論のほうは、言語学を生物学により 相似したものと捉えると言うことができるだろう。つまり生物の構造部分と構造方式は、
進化の過程において生存に適応するために形成されたものであって、すべて一定の機能 に対応しており、言語の認知の解釈もまた同様であるからと考えるのである。「認知言 語学」の基本理論の背景は、まさしく「形式言語学」の基本理論と対立するものであり、
それゆえに認知言語学の基本仮説は、主に形式言語学との区別のうえに現れてくる。こ れは以下の数点に概括できる。
第一に、認知言語学では、形式言語学とは異なり、人の言語能力は独立した能力では なく、一般的な認知能力と密接に関係していると考える。
認知言語学では、人の心智は思考と同様、人が外界との相互作用の過程において自ら の身体を通じて得た経験から後天的に生み出されると考える。これがいわゆる「体験構 築」である。人の全体的な概念システムは知覚・身体運動・物質および社会環境におけ る体験構築に根ざしており、言語能力はそもそも一般的認知能力と切り離すことのでき ない部分であって、言語能力と一般的認知能力に本質的な違いはない。例えば赤ちゃん
は、呼吸・食事・排泄を通して「うち」と「そと」の概念対立を体験し、おもちゃを取 り上げては置くという身体動作を繰り返すことで「コントロールすること」と「コント ロールされること」の概念対立を体験する。さらに例を挙げるなら、ある女性が美しい 場合、“ 有一个漂 的 蛋”「彼女はきれいな顔をしている」とはよく言うが、“ 有 一双漂 的 膊”「彼女はきれいな腕をしている」、“ 有一个漂 的后背”「彼女はきれ いな背中をしている」とはあまり言わない。また、“回到原来的 位,看到的尽是些新 面孔”「もとの職場に戻ったら、目にしたのはことごとく新しい顔だった」と言ったり するが、ここで“新面孔”「新顔」を用いてることはあっても“新四肢”「新しい四肢」、
“新躯干”「新しい身体」、“新衣服”「新しい服」などを用いて「知らない人」を指すこ とはあまりない。なぜなら人々はふつう他の身体部位や服装などではなく、顔の面相を 観察することで人を評価・識別するからである。このことから、「きれいな顔」・「新 しい顔」といった「換喩」法は、言語の修辞現象、もっと言えば単なる言語現象ではな く、人の一般的認知方法と密接に関連した現象であることがわかる。
認知言語学ではさらに、言語の構造、特に語法構造は人々の客観世界(その人自身も 含む)に対する認識と相当程度の対応あるいは「類像性」(iconicity)の関係を持つと 考える。あるいは、語法構造とは、相当程度において人の経験構造(すなわち人が客観 世界を認識し頭の中に形成する概念構造)の雛型であると考える。こういった「類像性」
には二つの側面が含まれる(3)。一つは「同型性」(isomorphism)、すなわち言語構造の 単位は、実は概念構造の単位と一つ一つ対応しているという側面。例えば、言語中の一 単語はほぼ一つの概念である。もう一つは、「有縁性」(motivation)、すなわち言語構 造の単位同士の関係は、概念構造の単位同士の関係とそれぞれ対応しているという側面 である。例えば、“我的父 ”とも“我父 ”とも言うことはできるが、“我的 ”と はいえても“我 ”とはいえない。それは、“我”「私」と“父 ”「父親」の従属関 係は「譲渡不可」であって両者の関係は比較的密接であり、これが言語構造における
“我”と“父 ”の二語の緊密度にも相応に反映されて“的”は省略可能であるが、
“我”と“ ”「机」では、その従属関係は譲渡可能であり、両者は比較的疎遠であ るため必ず“的”を入れねばならない、という理由による。これは親疎関係の類像であ る。つまり二つの概念のつながりが緊密であればあるほど、その二つの概念を表す語も また緊密になるというわけだ。英語の単数名詞“book”と複数名詞“books”、中国語 の“人”と“人人”、これらの概念の数量の多寡は単語形態素の多寡に対応している。
これは数量関係の類像である。これらのことから、語法構造の類像の原則は、形式と意 味の対応関係および人の「類推」能力を体現したものであり、人は概念構造の構成法を 類比する、あるいは模倣して言語を組み立てているということがわかる。
第二に、認知言語学では、形式言語学とは異なり、統語論は言語構造の一部分として 必ずしも自律したものではなく、言語の語彙部分・語義部分と密接な関係があり、後者 のほうが重要ですらある、と考える。
形式言語学理論が統語論を独立させ、時には核心の自律体系となし、さらに形態論・
統語論・意味論・語用論などの各部門に分けていくのは、全く人為的な、あるいは研究 の便のためだけのものだと認知言語学では考える。実際、形態論・統語論・文章論の間 には絶対的な境界は存在しないし、統語論と意味論、統語論と語彙論の間にも絶対的な 境界はなく、言語の意味を人の知識や信仰体系と切り離すこともできない。純然たる意 味知識と百科辞典的知識をきちんと区別することもできないし、意味と語用の間にも絶 対的な境界はない。したがって、形態論、統語論、意味論、語用論へと至るのは漸次的 変化の連続体であり、実際には大量の言語現象の構成法則を統語論の角度からのみ分析・
説明できるものではないのである。例えば下記の二組の例を見てみよう。
(9)a. 小李打算 上 身。
b. 小李 服小王 上 身。
c. 小李答 小王 上 身。
(10)a1. 我不喜 吃米 。→a2. 米 我不喜 吃。
b1. 我不喜 足球。→b2. *足球我不喜 。
形式言語学の解釈によれば、上の(9a)で“ 身”「出発」するのは“小李”であり、
(9b)で“ 身”するのは“小王”であるというのは、どの成分が動詞“ 身”により 近いかということによって決まり、これを「最短距離の原則」と呼ぶ。だが、このルー ルでは(9c)を説明できない。というのも、ここで“ 身”するのは動詞に近い“小王”
ではなく、遠い“小李”のほうであるからである。よって、認知言語学では、このよう な区別において言語の機能や語句の違いを考慮する必要があると考える。 つまり、
(9a-c)はいずれも話し手が一定の場面において行う「言語行為」であり、その区別は
“打算”「つもりだ」が話し手の「意思・願望」を表すという点にある。この行為の動
作者はもちろん意思願望を表している動作主主語の“小李”である。“ 服”「説得する」
というのは、話し手の「指令」を表し、その前提条件は指令された側にある動作を行う ことを要求することであり、この行為の動作者は当然のことながら指令を受ける側であ る。また“答 ”「承諾する」が表すのは、話し手の「承諾」であり、承諾の前提条件 は、それを承諾する者が自分はその動作を執行できると思うことである。よって、この 行為の動作者は承諾したその人となる。さらに、上記(10a)では変換形式が成立する のに対し、(10b)では成立しない理由について、認知言語学ではその原因を変換ルー ルではなく語義の組み合わせと関係があると考える。つまり、“吃”「食べる」と“米 ”
「ごはん」の組み合わせと“ ”「蹴る」と“足球”「サッカー」の組み合わせでは、語 義上の違いがあるというのである。「ごはん」は食べることのできるものの一つに過ぎ ないが、「蹴る」ことのできる球技は「サッカー」しかない。この語彙の組み合わせの 違いが、(10)において同様の構造変換形式における差異を生み出しているのである。
更に踏み込んで言えば、上記の文の構造の違いは主に語彙と意味によって決まるため、
統語分析は語彙分析や意味分析と関連づけて一つの連続体を構成してこそ効果があるし、
しかも語彙や意味のほうがあきらかに役割が大きい。
第三に、認知言語学では、形式言語学とは異なり、意味は客観的な真理値条件である ばかりか、主観と客観の結合したものであり、意味を研究することはつねに人の主観的 なものの見方あるいは心理的要素に係わってくると考える。
形式言語学では真理値条件に基づいて意味を定義しようとすることがよくある。例え ば“椅子”という語の意味は「四本足」、「背もたれがある」、「座ることのできる平面が ある」といった客観的な意味成分あるいは真理値条件によって境界線が引かれたもので、
これらの条件を満たすものだけが椅子であり、そうでないものは椅子ではないというこ とになる。だが認知言語学の見方では、三本足の椅子であっても“椅子”である。(雑 技では二本足の椅子も登場するだろう)つまり意味を定義する際にはさまざまな可能な 状況を考慮に入れねばならない。ここには特に主観的認識の違いが含まれる。こういっ た意味の定義は“美”と“醜”の評価に似たところがある。美とは客観的なもので、客 観そのものが美の価値を持つことを「美」というのだという考え方がある。たとえば万 人が認める中国古代の四大美女はいわゆる「傾国傾城の貌、沈魚落雁の容」を持ってお り、彼女たち自身が「美」であった。一方で、「美」は主観によって認定されるもので、
美をめでる主体が美しいと感じることが「美」である、そうでなければ“情人眼里出西
施”「あばたもえくぼ」のような言い方は存在しないという考え方もある。認知言語学 では、言語現象の解釈も客観と主観の結合であるはずであり、これは言語表現そのもの に大量の主観的要素が働いているためであると考える。「美」のような抽象的事物を表 す場合のみならず、具体的事物もまた主観的な認識から離れられない。例えばよく“皮 球 入洞里”「ボールが穴の中に入る」と言うが、客観的に言えば四方がすべて仕切られ ている事物にのみ“里”「内」と“外”の別があるにもかかわらず、人の「ゲシュタルト 心理」が“洞”も四方に仕切りがあるものだと考えようとする(4)。これは実際には非客観 的な現実や真理値条件に符合しない主観的認識などが影響を及ぼしているのである。
認知言語学ではさらに、一つの現象に対する人々の注意点の差や観察の角度が違うた め、脳に異なる「心象」(image)が形成され、それによって異なる意味がありうると 考える。例えば以下の例文を見てみよう(5)。
(11)a.我送一件毛衣 小李。
b.我送 小李一件毛衣。
形式言語学の分析に従えば、(11a/b)は相互に転換しても意味は変わらず、どちら も「私は李さんにセーターを一枚プレゼントする」の意味を表す。これは典型的な客観 的意味論の観点である。だが、認知言語学に於いては、この二つの言葉の意味が違って もかまわない。そしてその違いは、 客観的現実ではなく主観的な認識の上にある。
(11a)が主に表しているのは、セーターが贈られた相手が李さんであるということで あり、(11b)は李さんが入手したのはプレゼントされたセーターである。つまり、人々 の脳の中に形成されるのは二つの異なる「心象」(image)なのである。前者は「セー ター」が「私」から「李さん」へと移動していく過程を際立たせ、後者はセーターが移 動した結果すなわち「李さん」が「セーター」を持つに至ったことを際立たせる。こう いった意味の差異は下記(12)における二つの構造変化の違いをも作り出す。例えばも しそのあとに“ 不收”「彼女は受け取らない」を加えたとする。すると(11a)はス ムーズにつながるが、(11b)はあまり使えない表現となる。それにさらに「完成」を 表す“了”を加える場合、二つの文においてその位置が異なってくる。以下を比較して みよう。
(12)a1. 我 送一件毛衣 小李, 不收。
a2. 我送(了)一件毛衣 (*了)小李。
b1. ?我 送 小李一件毛衣, 不收。
b2. 我送(*了)(了)小李一件毛衣。
まさにこれゆえに、(11a/b)の二つの文において分析し得られる意味成分は同じで あっても、全体が表す意味が異なってくるのである。ここから、認知言語学の言う「心 象」(image)分析は実際には心理上のある種の「ゲシュタルト」であることが理解で きる(4)。これはつまり意味の「総合的」分析であって「分析的」分析ではない。さらに 言えば、全体の総合的分析を重んじ、主観的認識と客観的現実の結合を堅持すれば、分 析の結果が「横から見ると峠だが、斜めから見ると峰になる」ことも充分にありうると 考えることもできる。客観的には同じ一つの山だが、人の観察の角度の変化によって二 つの異なる心理的「心象」(image)、つまり二つの異なる概念構造が形成されるのであ る。そしてある物が「峠」であるか「峰」であるかを判定する場合、人の主観的要素か ら離れることはもとよりあり得ない。
第四に、認知言語学では、形式言語学とは異なり、言語における各単位のカテゴリー は、人が打ち立てた大多数のカテゴリーと同様、非離散的であり境界が不明確だと考え る。
形式言語学、これには伝統的な言語学も含まれるが、これは言語のいかなるもの、例 えば単語の類、統語成分の類、統語関係の類など、いずれも境界がはっきりしており、
A でなければすなわち B であると考える場合が多い。例えば名詞であれば動詞ではあ りえないし、主語であれば賓語(6)ではありえない。主述関係であれば動賓関係であるこ とはない。だが、認知言語学では、一つのカテゴリー内の成員には絶対的な共通の特徴 があるわけではなく、ある点が相似しているだけだと考える。これはあたかも家族のよ うなものであるため、こういった観点を「家族的相似性」(6)と称することができる。つ まりいかなるカテゴリーもいくらかの特徴(A、B、C、D……と仮定)の「交差」なの である。例えば英語の“game”というカテゴリーに属するものは、「おにごっこ」のよ うな単なる遊戯もあれば、「ボールゲーム」のような勝ち負けの結果を伴うものもある し、「さいころ」といった全く運によるもの、「囲碁・将棋」のように知恵や策略を頼り とするもの、「マージャン」のごとく運も知恵も策略も必要となるものなどがあるが、
これらは類似点はあるものの絶対的な共通点は持たない。また「鳥」というカテゴリー は「翼を持つ」、「嘴がある」、「羽毛に覆われている」、「飛ぶことができる」などの特徴 の交差である、あるいはこれらの特徴が集合して「鳥」のカテゴリーを構成していると も言える。この四つの特徴を同時に備えている、例えばスズメなどは最も典型的な鳥で あるが、そうではないもの、例えばダチョウは飛べないし、ペリカンは飛べないうえに 一般の鳥が持つ羽毛もなく、それほど典型的な鳥ではない。よって「鳥」というカテゴ リーの境界はあいまいなものであり、このカテゴリーの四つの特徴すべてに境界を定め ても、「鳥」を定義する十分条件あるいは必要条件とはなりえない。せいぜい典型的な ものとそうでないものとの別があるだけである。こういった状況に類似して、人が打ち 立てるカテゴリーは、語法におけるカテゴリーも含め、いずれもある種の「プロトタイ プカテゴリー」であるのみで、「離散的カテゴリー」ではありえない。そのため、認知 言語学では、ある成分が主語であるとか主語でないとか、名詞であるとか名詞ではない などという結論を簡単には下さない。たいていの場合、典型的な主語のようだ、とか典 型的な名詞のようだと言うのがせいぜいである。また、動詞のうちの他動詞の場合も、
認知言語学では、どれが他動詞で、どれはそうでないかなどと機械的に言わず、その言 語の動詞がおおまかに「他動詞」的な特徴、例えば「動作に参与するものが二つ以上い るか」、「表しているのは状態ではなく動作であるか」、「動作が持続するものではなく瞬 間的に完成するものであるか」、「動作が人為的な意図のあるものであるか」、「動作が虚 構的なものではなく現実的なものか」、「動作のシテがウケテに対して強い支配力を持っ ているか」といったものをどの程度備えているかに基づき、これらの特徴をより多く備 えている動詞が他動詞により近く、逆であれば典型的でない他動詞である、あるいは他 動詞ではない、と決めていく。このような分析に基づけば、一見したところ“撞”「ぶ つかる」、“盖”「建てる」、“住”「住む」という三つの動詞はいずれも一般的には他動詞 と呼ばれ、しかも“撞大楼”「ビルにぶつかる」、“盖大楼”「ビルを建てる」、“住大楼”
「ビルに住む」は何れも動賓構造であると言えるにも拘わらず、中国語における動詞
(構造)の“撞(大楼)”は、他動詞性、あるいは他動詞としての構造の典型性が、“盖
(大楼)”より強く、“住(大楼)”よりさらに強いことになる。
最後に、認知言語学では、形式言語学とは異なり、人類の認知の共通性を認めると同 時に、それぞれの民族の認知の特徴が言語表現に与える影響にも注意を払う。
この点もまた、形式言語学が人類の言語能力の普遍性を強調するのとは異なっている。
認知言語学は、語法構造とは実際は自ずと形成されてきた意味構造あるいは概念構造で あるという基本観点を持つ。それぞれの民族の言語は社会・文化・地理の諸要素の影響 により、意味構造や概念構造の形成のされかたも同じではない。例えば下記の英語と中 国語の似たような意味の文を見てみよう。
(13)a. 嫁 了人。
b. She has married the wrong man.
(直訳:彼女は間違った男に嫁いだ)
上の(13a)の中国語が“ 嫁 了人”というとき、“ ”「間違える」は動補フレー ズの補語であり、 動詞“嫁”「嫁ぐ」 を修飾する。 一方 (13b) の英語が“She has married the wrong man”というとき、“wrong”は定語・中心語フレーズの定語であ り、名詞“the man”を修飾する。認知言語学では、早い時期にアメリカの人類言語 学者ウォルフ(Whorf)やサピア(Sapir)が唱えた「言語相対性仮説」のように英語 と中国語の違いを完全に異なる文化の価値系統に帰してしまうことはないものの、認知 の面からある程度の説明をすることができると考える(8)。例えば中国語を話す人が“
嫁 了人”と言うとき、観念の上では主語が間違って行った行為により強く着目してい るために、「彼女が間違った」というのである。一方、英語を話す人が同じような言葉 を言うとき、観念の上で着目しているのは、主語が結婚したかった人と実際に結婚した 相手との差異であり、そのため「相手が違った」という表現になる。これもまた英語と 中国語の異なる語法構造が体現する「心象」(image)なのである。
訳注
(1)「認知」(cognition)とはいわゆる五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)と運動・
平衡・内臓感覚などをもとに外界にある対象に対し、記憶・学習・判断をする精 神のはたらきまたはその過程のことである。(吉村公宏 2004・辻幸夫 2003・趙艶 芳 2001 など)
(2)形式言語学の代表的なものに「生成文法」(generative grammar)がある。「生成 文法」 はチョムスキーの The Logical Structure of Linguistic Theory (1955/
1975)、Syntactic Structures(1957)などの著作から派生した極めて形式主義的 な見方を示したものである。「生成文法」では、その言語を用いる話し手から独立
させ、話し手がその言葉を話す目的とは関係ないものとして言語を研究する。即 ち、人間の一般的な認知能力とは切り離して言語を研究する理論である(ジョン・
R・テイラー、瀬戸賢一 2008)。生成文法による中国語研究の文献としては中国語 語法全般に関するものに徐烈炯(1988)、湯廷池(1988, 1989, 1992a, 1992b, 1994, 2000)、沈陽・何元建・顧陽(2001)、移動現象に関するものに沈陽(1996, 1997, 1999, 2001)、項構造に関するものに顧陽(1994)などがある。その他に黄正徳氏 の一連の研究は生成文法によるものである。
(3)ソシュールは言語を「意味(概念あるいは内容)」(signifiant)と「音(表現形式)」
(sinifie)が恣意的に結び付いた記号体系と考えている。つまり、「意味(概念/内 容)」と「音(表現形式)」との間には自然な関係はなく、恣意的であり、結び付 けられるのは慣習によってのみであると主張した。構造主義やチョムスキーの生 成文法もこの考え方を受け継いでいる。それに対し 20 世紀 40 年代、アメリカの 哲学者チャールズ・サンダース・パースはソシュールの主張する「意味―表現形 式」 の関係が恣意的であるというのは、 彼が記号を 「類像」(icon)、「指標」
(index)、「象徴」(symbol)の三種類に分類した中の、「象徴」というタイプにす ぎないとした。「類像」(icon)は「意味―表現形式」の関係が何らかの類似性が あるというものである(Ungerer & Schmid, 1996)。「類像性」はその「類像」的 な性質をもつことを言う(辻幸夫 2002)。言語に関して、パースはそれぞれの言語 の統語は“約定俗成”「物事の名称や社会的慣習は人々が長期間行うことにより認 められたり定められること」の規則の助けを借り、論理に適う類像性を備えてい ると指摘する。ここで取り上げる「類像性」は言語の構造に関するものである。
言語における「類像性」は「言語構造」と人の経験(概念)構造の間の自然な関 係を指す。機能主義言語学者の Haiman(1985)は「形式が近ければ意味が近い」
という類像性の規則を語彙のレベルから文構造に拡張し、構造が似れば、意味が 近いと結論付けた。Haiman(1980)は統語構造の類像性を「同型性」(isomor- phism)―統語成分と経験構造の成分が互いに対応する―と「有縁性」(motiva- tion)―統語成分間の関係と経験構造成分間の関係が相対応する―に下位区分し ている(沈家 1993)。「有縁性」は:
①距離的類像性:(英語の例文は趙艶芳 2001 より引用)
“我的父 /我父 ”
“我的 /*我 ”
“Mary doesn't think he'll leave until tomorrow.”
「メアリーは彼が明日まで出発するとは思わない」
“Mary thinks he won't leave until tomorrow.”
「メアリーは彼が明日まで出発しないと思う」
②順序の類像性:(例文は Ungerer & Schmid, 1996 より引用)
“He opened the bottle and poured himself a glass of wine.”
「彼は瓶を開け、自分のためにグラス一杯分のワインを注いだ」
“*He poured himself a glass of wine and opened the bottle.”
「彼は自分のためにグラス一杯分のワインを注ぎ、瓶を開けた」
③数量の類像性:“人”‐“人人”“book”-“books”
中国語の統語構造の類像性は「二つの統語単位の相対的な語順はそれが表す概念 領域の状態の時間順序に決められる」という「時間順序の類像性」に従っている
(戴浩一 1985, 1988, 1989):
“他坐公共汽 到 儿”(“He came by bus.”)
“他到 儿坐公共汽 ”(“He came here to ride in a bus.”)
中国語の文の語順は動作の順序と一致するが、対する英語の文の語順は抽象的な 統語規則を受けている。中国語は大幅に時間順序の類像性に従うのである(沈家 1993)。(中国語の統語構造の類像性については次稿でまた触れることになる)。
“iconicity”は「類像性」の他に「図像性」と訳されることもある(ジョン・R・
テイラー&瀬戸賢一 2008)。
(4)視野にある対象を一つのまとまりのあるものとして知覚する心的作用を体制化
(organization)といい、体制化により形成されるまとまり(構造体)を「ゲシュ タルト」(Gestalt)という(辻幸夫 2003)。このゲシュタルトには主に次の四つの 原理がある(Ungerer & Schmid, 1996)
①「近接の原理」:僅かの間隔でしか隔てられていない個々の要素は、何らかの 形で相互に関連し合っているように知覚される。
②「類同の原理」:互いに類似する個々の要素は、同一の切片として知覚される。
③「閉合の原理」:知覚的な機構化は閉鎖された図形を基本とする。
④「連続の原理」:断絶が殆どないような一連の要素は、纏まった全体として知 覚される。
例えば“走累”「歩き疲れる」は“走”「歩く」という動詞と“累”「疲れる」とい う形容詞が隣接しているにすぎないが、中国語話者はこれを「(長時間)歩いた 結果疲れた」と解釈する。これは“走”という「動作」と“累”という「状態」
が隣接していることにより、全体が「原因+結果」に解釈される。これもゲシュ タルト原理の一つと考えることができる:
Ex.)一次我 女儿上 物 ,走累了,想坐下来歇一歇。
(5)「心像」(image)とは一般に脳内で生成・記憶・想起される表象(representa- tion)のことであり、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・体勢感覚など様々な感覚 などにより構成される言語以外の表象のこと(辻幸夫 2003)。
(6)“賓語”は一般には動作行為が及ぶ事物であり、動作行為の対象である(例文は
≪実用現代漢語語法≫より引用):
1)我学 中文。(私は中国語を学習する/している)
老 教我 。(張先生は私たちを教えている)
しかし、その他に、動作行為の場所や(存現文において)存在・出現・消失する事物、
(気象を表す文において)「雪」や「雨」なども「賓語」とされている。
2)明天我 去 城。(明日我々は万里の長城へ行く)
外 有人。(外に人がいる)
子上放着一套茶具和 个花瓶。(テーブルに茶道具一式と花瓶が二つ置いてある)
北京下雪了。(北京は雪が降ってきた)
2)の下線部の名詞も 1)と同様に動詞の後に置かれているが、日本語では一般に目 的語は「~に」や「~を」で表わされているために、“賓語”は「目的語」の概念と 必ずしも同じとは言えないので、誤解が生じないように「賓語」とした。
(7)あるカテゴリーの成員が相互に類似しているそのあり方が、ある家族のメンバー が相互に類似しているそのあり方と同じ構造を持っていること。(辻幸夫 2003, pp.
100-101)。
袁毓林(1995)は「家族的類似性」が品詞カテゴリーにも見受けられることを主張す る:
朱德熙(1982)は動詞と形容詞を分ける基準として二つの基準を設定した:
1)直前に“很”を付加できるか。
2)後ろに「賓語」を伴えるか。
この基準から、動詞と形容詞をそれぞれ次のように定義できる:
1)“很”の修飾を受け、賓語を伴えないものは形容詞である。
2)“很”の修飾を受けず、賓語を伴えるのは動詞である。
ところがこのような基準でも動詞と形容詞をきちんと分けるのは難しい。というのも、
全ての形容詞が“很”の修飾を受けるわけではない。例えば” 白,冰凉,通 , 香,粉碎,稀 ,精光…”などの状態形容詞は“很”の修飾を受けられない。反対に、
“ ,空,粗, ,瞎, 坏…“などは“很”の修飾を受けるだけでなく、「賓語」を 伴うことができる
(例文は北京大学漢語語言学研究中心の現代漢語語料庫より引用):
Ex.)我……阿英的 很 ,声音也有点 抖。
(私…阿英の顔は赤く、…)
尽管那几个地市 和他都很熟,有的 系 很不 ,他 是当 了 。
(…彼はやはりその場で顔を赤くした)
空气 量很坏。
(空気の質が悪い)
… 了一个 子,坏了一只蹄 …
(…釘を一本なくし、蹄鉄を一つ壊し…)
このように、典型的な形容詞と非典型的な形容詞があり、形容詞と動詞の間の境界 もあいまいであると述べている。
(8)「言語相対性仮説」は「サピア=ウォーフ仮説」(Sapir-Whorf hypothesis)と もいわれる。このサピア=ウォーフ仮説には次の二つがある(大堀寿夫 2002、吉 村公宏 2004):
1)弱いサピア=ウォーフ仮説:母語によりその話し手の思考や概念化の方法が影響
を受ける。つまり、言語が異なれば思考や経験の仕方も異なることがあるという ことである。
2)強いサピア=ウォーフ仮説:言語は、ものの見方に枠をはめ思考を決定する。中 国語には中国語の発想があり、それを母語とする話し手に押し付けられており、
話し手の思考法や概念化の仕方を決定する。
認知言語学では概ね、弱いサピア=ウォーフ仮説を支持する見解をとっている。