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徽州方言の言語地理的研究

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Academic year: 2022

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(1)徽州方言の言語地理的研究 著者 著者別表示 雑誌名 学位授与番号 学位名 学位授与年月日 URL. 胡 貴躍 Hu Guiyue 博士論文本文Full 13304甲第4714号 博士(文学) 2018‑03‑22 http://hdl.handle.net/2297/00051242. Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja.

(2) 徽州方言の言語地理的研究. 胡貴躍 平成 30 年 4 月. I.

(3) 博士論文. 徽州方言の言語地理的研究. 金沢大学大学院人間社会環境研究科 人間社会環境学専攻. 学 氏. 籍. 番 号: 名:. 主任指導教員名:. 1421082014 胡 岩田. 貴躍 礼. II.

(4) 目次 0.はじめに.................................................................. 1 第 1 章 徽州の概況........................................................... 1 1.1 徽州の地理的位置と行政区画............................................ 1 1.2 徽州の略史と人口変遷.................................................. 2 1.3 徽州の地理的情況と交通状況............................................ 3 1.3.1 水路交通 ......................................................... 3 1.3.2 徽州古道 ......................................................... 4 1.3.3 徽州公路と鉄道 ................................................... 5 第 2 章 徽州方言の概況....................................................... 7 2.1 研究対象 ............................................................. 7 2.2 先行研究 ............................................................. 7 2.3 歙県方言の音韻体系................................................... 10 第 3 章 研究目的と研究方法,及び研究資料 .................................... 12 3.1 研究目的 ............................................................ 12 3.2 研究方法 ............................................................ 12 3.3 研究資料と方言調査................................................... 12 第 4 章 徽州方言の地理的分布 ................................................ 16 4.1. AB 型分布 ............................................................ 16. 4.1.1 [「扶胡」の声母] ................................................ 16 4.1.2 [「猴」の音声] .................................................. 18 4.1.3 [月] ............................................................ 19 4.1.4 [ソラマメ] ...................................................... 21 4.1.5 [昨日] .......................................................... 22 4.2. ABA 型分布 ........................................................... 24. 4.2.1 [拾う] ......................................................... 24 4.2.2 [寝る] ......................................................... 26 4.2.3 [見る] ......................................................... 27 III.

(5) 4.2.4 [母屋] ......................................................... 29 4.2.5 [トンボ] ....................................................... 30 4.2.6 [「宝飽」の韻母] ................................................ 32 4.3. ABAB 型分布 .......................................................... 36. 4.3.1 [なす] .......................................................... 36 4.4. ABAC 型分布 .......................................................... 38. 4.4.1 [鼻] ............................................................ 38 4.4.2 [ミミズ] ....................................................... 39 4.4.3 [台所] .......................................................... 42 4.5. ABCA 型分布 .......................................................... 43. 4.5.1 [ジャガイモ] ................................................... 43 4.5.2 [サツマイモ] ................................................... 45 4.6 多系分布 ............................................................ 47 4.6.1 [父の妻の対面呼称(vocative)] .................................... 47 4.6.2 [父の兄の妻の対面呼称(vocative)]................................. 48 4.6.3 [古全濁声母] .................................................... 50 4.6.4 [そり舌音] ...................................................... 53 4.6.5 [父の姉妹の対面呼称] ........................................... 55 4.6.6 [単音節声調] ................................................... 57 第 5 章 徽州方言の形成...................................................... 65 5.1 分布パターンとそれらの成因........................................... 65 5.2 徽州方言の等語線の束................................................. 69 5.3 言語伝播の方式 ...................................................... 71 第 6 章 結論と余論.......................................................... 73 参考文献.................................................................... 74 付録 ....................................................................... 76. IV.

(6) 0.はじめに 徽州方言は中国の安徽省,江西省,浙江省三省の境界地帯に位置する徽州地域で話され る漢語方言の総称である。徽州は行政区画が,紀元 740 年から 20 世紀中葉まで,千年以 上安定し,徽州方言を始め,徽州料理,徽派建物,徽商などの徽州特有の文化が形成され ている。徽州方言は呉方言(浙江省) ,贛方言(江西省),江淮官話(安徽省中部の長江流 域)という三つの方言に囲まれているため,外部方言からの影響が大きいと言われている。 徽州方言に関する従来の研究は,各地点方言の音系に対する記述に力点が置かれ,通時的 変化に関する研究は少ない。本研究は言語地理学の方法によって徽州方言を観察し,地理 的分布パターンの類型化を通じて,通時的変化の実態と変化の成因を明らかにすることを 目的とする。. 第1章. 徽州の概況. 1.1 徽州の地理的位置と行政区画 一般に,徽州と言えば旧徽州府を指す。旧徽州府は中国東南部の安徽省,江西省,浙江 省三省の境界地帯に位置し,大凡東経 118°,北緯 29°にある(地図 1 を参照) 。徽州府 という名称はすでに廃され,もとの管轄地域は三分されている。中心は黄山市である。次 に黄山市の北側に位置する宣城市の績溪県,そして南側に位置する江西省の上饒(じょう じょう)市の婺源県である。黄山市はさらに歙県,休寧県,黟県,祁門県,屯溪区,徽州 区に分かれる(地図 2 を参照) 。現在の徽州区は黄山市に属する小さい行政単位であり, 旧徽州府とは異なる。本文でいう「徽州」とは,すべて旧徽州府を指す。. 地図 1 中国における旧徽州府の位置. 地図 2 旧徽州府の現在の行政区画. 2009 年に星球地図出版社から出版された『中国分省系列地図集・安徽省地図集』と『中 国分省系列地図集・江西省地図集』によれば,徽州,つまり上述した六県二区の総面積と 総人口は,それぞれ 12,211km2 と 180 万人であり1,各県や区のデータは表 1 のようであ る。屯溪区は徽州の経済中心地として,また黄山市の政府所在地として面積は全体の 2% しかないが,人口は 9.4%ほどある。一方,従来,政治的中心地であった歙県は依然とし て人口が多く,徽州全体の 27%の人口が歙県に集中している。. 1. 『地図集』には面積や人口のデータに関する背景は全く載っていないので,いつのデータかは確認で きない。 1.

(7) 表 1 徽州の面積と人口 績溪県. 歙県. 休寧県. 黟県. 祁門県. 屯溪区. 徽州区. 婺源県. 合計. 面積 (km2). 1126. 2236. 2125. 847. 2257. 249. 424. 2947. 12211. 人口 (万人). 18. 49. 27. 10. 19. 17. 10. 30. 180. 1.2 徽州の略史と人口変遷 1996 年に出版された『徽州地区簡志』によれば,秦代(紀元前 221 年-紀元前 206 年) に黟(黝)県と歙県が設けられた。二県といってもその管轄区域はその後の旧徽州府より 遥かに大きかった。旧徽州府の行政区画は唐代(618 年-907 年)の 740 年頃に定まった が,歙州と呼ばれていた。名称が徽州と改められたのは北宋の 1121 年のことである。そ の後,名称が数回改められ,新安,興安などと呼ばれたこともあるが,徽州と呼ばれた時 代が長く続いた。管轄区域はほとんど変更なく,1934 年に婺源県が離脱するまで千年ほ ど続いた。1983 年に黄山市が成立し,現在の行政区画につながっている。旧徽州府の府 庁は,唐代以来ずっと歙県の徽城鎮に置かれていたが,中華人民共和国が成立した 1949 年に,徽州の解体とともに,屯溪区に移された。 徽州は漢族が移住する以前,山越と呼ばれる民族が居住していた地域である。三国時代 以降,特に晋代の「永嘉の乱」2の後,大量の漢人が南遷し,その一部が徽州に移住した ために,次第に漢化に向かうとともに,山越は消えていった。それ以来,徽州の舞台に漢 族以外の民族が登場することはほとんどない。1,003,664 の徽州人のうち,漢族以外の人 口は 161 人しかいない( 『徽州地区簡志』の 1953 年の人口データに拠る) 。徽州は山岳地 帯に位置し,戦争の影響が少なく,外部からの移民が多かった反面,山岳地帯の食料生産 量が少ないため,外地に移住した人も少なくなかった。そのため徽州の移民史は非常に複 雑と言われている。 徽州地域の人口に関するデータは少ないが,表 2 は『徽州地区簡志』に拠ってまとめた ものである。空白は無データを示す。 「丁」とは成年男性のことである。年代間にギャッ プがあり,人口変化を把握しにくいが,上述の「永嘉の乱」以外では, 「靖康の変」3の前 後に,徽州の人口が増加する傾向が見られる。 『休寧県志』 (1990)にも,晋,唐及び宋代 に,休寧県に移住した北方人が 53 族に達したとの記載がある。しかし,具体的な人数や 北方のどこから移住してきたかについては,言及がない。明清以降,戦争や災害が頻繁で, 安慶を中心とする外地から多くの「棚民」が徽州に移住させられたことについては各県志 に記載がある。 「棚民」とは,徽州の山地の掘っ立て小屋に住んでいた戦争や災害の難民 である。地元の徽州人に受け入れられなかったため,最初は山奥に住んでいたが,数百年 経過したのち,一部は徽州人となった。中華人民共和国成立後,山地資源を開拓するため, 組織的に皖北(安徽省北部)地域から人を移住させる政策があった。例えば, 『休寧県志』 (1990)には,1958 年に含山県の 1698 戸 2671 人を休寧県に移住させたという記載があ る。但し,生活習慣が異なるため,戻った人も多かった。上述の 2671 人のうち,1286 人 2. 紀元 311 年,北方の異民族が当時の中国の首都であった洛陽を攻略したため,中国の北方は混乱に落 ち入り,晋の皇室は南京に逃げ,南京を首都として新王朝を立てた。それとともに,大量の漢人も南方 に移住することになった。これが「永嘉の乱」である。 3 1127 年,北宋は異民族の金に滅ぼされ,中国の北方は戦乱に陥った,杭州を首都として南宋が立てら れるとともに,北方の漢人は多く南遷することになった。これが「靖康の変」であり,「靖康の恥」と も呼ぶ。 2.

(8) は故鄉に戻ったという。 表 2 徽州の人口変化情況. 年 代. 西晋 太康 初年 281 年. 劉宋大 明八年 464 年. 唐天宝 元年 742 年. 宋崇寧 間 1102 -1106. 元. 明洪武 二十六 年 1396 年. 戸 数. 約 5000. 12058. 38320. 10316. 157410. 125548. 36651. 240109. 167896. 824304. 592364. 人 口. 清康熙 五十年 1711 年. 217489 (丁). 1928 年. 1949 年. 215067. 251853. 984355. 910899. 1.3 徽州の地理的情況と交通状況 徽州は地勢が山岳丘陵を中心としており,黄山をはじめ,白際山,五龍山などの山脈に 囲まれている。 「皖南山区」とも呼ばれる(地図 3 を参照4) 。山が多く,陸路交通は不便 で危険である一方,多くの河川がここに源を発し,四方に流れているため,昔から水路交 通は発達していた。徽州の漁亭鎮は「七省通衢」と呼ばれるが,それは漁亭鎮を中継地点 として,水路交通によって周辺の七つの省がつながっているからである。20 世紀中葉以 来,公路や鉄道交通が普及し,多くのダムが建設されてきた。それに伴い,水路運輸には 価値がなくなり,水路交通は次第に衰えた。. 地図 3 徽州地形図 1.3.1 水路交通 徽州には主に三つの水路が存在している。. 4. ベースマップは中国国家地理測絵信息局の HP からダンロードし,地名などの表示は筆者が加えた。 3.

(9) 最も重要な水路は徽杭水路である。徽杭水路は新安江と銭塘江を通して徽州と杭州をつ なぐものである。新安江は休寧県と婺源県の境界にある五龍山の擂鼓峰に源を発し,横江, 練江,豊楽河,富資水など多くの支流と合流しながら,浙江省の銭塘江まで通じている。 地図 4 に示したように,祁門県と婺源県を除く地域はすべて新安江及びその支流が広がっ ていることが分かる。そのため,新安江は徽州文化を育んだ川だと言える。昔は,漁亭や 溪口から杭州まで直航できた。また,屯溪から川幅が広くなるため,大きな木船が航行で きた。 徽杭水路に次ぐのは,二つの水源から発する徽鄱水路(閶江と楽安江)である。一つの 水路は祁門県の東北部に発する閶江に沿って,芦溪郷から江西省の景徳鎮市に入り,鄱陽 湖に注ぐ。もう一つは婺源県北部に発する楽安江に沿って,江西省の楽平市を経由して, 鄱陽湖に注ぐ水路である。昔,湖南,湖北,江西からの貨物は徽鄱水路を経由して徽州に 入ったのち,徽杭水路に乗り換え,浙江省にまで運ばれた。一方,浙江や江蘇の名産品は 徽杭水路と徽鄱水路を経由して内陸部に運ばれた。 次は,祁門県北部に発し,長江沿岸に位置する池州に繋がる秋浦河水路と徽池水路であ る。この水路を経由して,長江中下流の池州や安慶などから人が徽州に入った。安慶から の棚民が徽州に移り住んだ際の重要な経路の一つだとも言われている。. 地図 4 徽州水路交通図 1.3.2 徽州古道 発達した水路のほか,政府が建設した官道を通って徽州に入ることもできる。2000 年 前の漢代にはすでに官道が存在したと言われているが,地形の影響で徽州の官道はさほど 多くなく,路線の変化も少なかった。現在の公路は,それら古い官道に基づいて建設され たもので,すべて「古道」と呼ばれる。 『徽州地区交通志』 (1996)によれば,徽州の古道 はほとんど府庁所在地であった徽城鎮を中心として四方に伸びている。このうち,四本の 古道は徽州に入る有名な陸路交通路線である(地図 5 を参照) 。 4.

(10) 歙県の徽城鎮から東に向かって,北岸,蘇村,三陽の順に経由し,昱嶺関を超えて,杭 州市に通じる浙江省の昌化県までの古道は, 「徽昌古道」と呼ばれる。南宋時代(1127 年 -1279 年)に建設されたという。これは徽州から杭州に通じる最も重要な陸路であり, 「杭 徽大道」とも呼ばれる。1933 年に整備されて「杭徽公路」になった。 歙県の徽城鎮から北に向かって,臨溪,績溪県の華陽鎮,陽溪,金沙を経由し,北にあ る寧国県までの古道は, 「徽寧古道」と呼ばれる。寧国から北に向かって,宣城市,蕪湖, 馬鞍山経由し,南京市にまで通じている。これは南京から徽州に南下する最も重要な道で あり,20 世紀 80 年代おおよそこの古道に沿って,皖贛鉄道が建設された。 歙県の徽城鎮から南に向かって,徽州区の岩寺,屯溪,五城,嶺南及び婺源県の江湾を 経由し,婺源県庁所在地である紫陽に至る古道は, 「徽婺古道」と呼ばれる。水路がない ため,この古道は婺源県にとって非常に重要であり,事実上,歙県に通じる唯一の道と言 える。婺源県の名産品であるお茶はこの古道を利用して屯溪に運ばれたという。 屯溪から西に向かって,休寧県を経由し,祁門県の祁山鎮から南西に折れて,閶江沿岸 を下り,景徳鎮市の浮梁県に至る古道は「徽浮古道」と呼ばれる。この古道は徽州の東部 と西部を結ぶだけでなく,徽州と江西省の饒州を結び, 「徽饒大道」とも呼ばれる。安徽, 江西両省を結ぶ経済交通の要道である。 歙県の徽城鎮から西北に向かって,富竭,許村を経由して,箬嶺を超えて,現在の池州 市に属する青陽県に至る古道は「徽青古道」と呼ばれる。これは徽州から池州や安慶に至 る近道である一方,軍事面の価値も高いと言われている。. 地図 5 徽州古道と鉄道交通図 1.3.3 徽州公路と鉄道 『徽州地区交通志』 (1996)によれば,徽州にある公路は 20 世紀 20 年代に建設が始ま ったが,実際に使用されたのは 50 年代後半からである。いずれも既存の古道に基づき建 設されたものである。現在,屯溪を中心とする高速道路を含む陸路交通網が形成されてい 5.

(11) るが,歴史が短く,古道と重なるものが多い。 2015 年に屯溪を経由する合福高鉄5が開通するまで,徽州を経由する鉄道は皖贛鉄道だ けであった。 『徽州地区交通志』 (1996)によれば,皖贛鉄道は婺源県を除く徽州各県に繋 がっているが,全線が開通したのは 1985 年 5 月である。具体的な路線については,地図 5 に示したように,績溪県の金沙から徽州に入り,練江沿いに南下し,屯溪で横江に入る。 そして,漁亭を経由して,祁山まで閶江を西行する。最後に閶江に沿って安徽省を出て江 西省の景徳鎮市に至る。路線の後半はおおよそ徽浮古道と重なっている。. 5. 安徽省の省都である合肥と福建省の省都である福州を結ぶ高速鉄道のことである。 6.

(12) 第2章. 徽州方言の概況. 2.1 研究対象 本研究は徽州方言,即ち上述した六県二区の方言を対象とする。まず, 「徽州方言」と 「徽語」を区別する必要がある。 「徽州方言」の範囲は旧徽州府で話される方言に限定さ れるが, 「徽語」の範囲はそれより広い。 『中国語言地図集』B10 図「安徽南部的方言分布」 (1988)によれば,徽語は績歙方言,休黟方言,祁徳方言,厳州方言,旌占方言の五つの 下位方言に分類され,本研究が対象とする「徽州方言」は,そのうち績歙方言,休黟方言, 及び祁徳方言の大部分である。 2.2 先行研究 徽州方言を音声学的方法で初めて記録したのは『黟県方音調査録』(魏建功,1935)で ある。これは黟県の県庁所在地である碧陽鎮方言の記述研究である。 徽州方言を対象とした初の大規模な調査は,20 世紀 30 年代に中央研究院歴史語言研究 所によって行われた。数十地点の方言が調査されたが,戦争等のため,発表されたのは『績 溪方音述略』 (羅常培,1936), 『績溪嶺北音系』 (趙元任,1962), 『績溪嶺北方言』(趙元 任,楊時逢,1965)等しかなかった。いずれも音声や音韻特徴に関する記述である。 20 世紀 50 年代後半に入り,全国的な方言調査が行われた。合肥師範学院(現在の安徽 師範大学)によって大規模な調査が進められ, 『安徽方言辨正』 (孟慶恵,1961), 『安徽方 言概況』 (合肥師範学院方言調査工作組,1962)などが発表された。しかし,標準語を普 及することを目的としたため,発表された文章や著書は学術的価値が低い。 その後,調査研究は約 20 年停滞したが,研究が再開されると,徽州方言の帰属が問題 となり,呉方言に属するか,それとも贛方言に属するか議論が起きた。80 年代に至って, 鄭張尚芳が実地調査に基づいて, 『皖南方言的分区(稿)』(1986)及びその改定版『中国 語言地図集』B10 図「安徽南部的方言分布」(1988)を発表し,徽州方言及びその周辺で 話される幾つかの方言をまとめて「徽語」として独立させることを主張し,また上述のよ うに,五つの下位方言に分類した。その後,徽州方言を中核とする徽語は中国十大方言の 一つとして幅広く認められるようになったが,婺源方言を休黟方言から切り離し,祁徳方 言と合併した上で,祁婺方言と改めるという趙日新(2005)の研究などが現れた。鄭張尚 芳,趙日新いずれの研究も音韻特徴に基づいたものである。 1998 年に,平田昌司を代表者とする「新安江流域語言文化調査計劃」の研究成果であ る『徽州方言研究』が出版された。この研究は徽州六県の県庁所在地に屯溪区を加えた七 地点の方言音声を詳細に記述し,さらに 454 の語彙項目と 78 の文法例文も記録した。初 めて徽州方言の全貌を明らかにし,徽州方言に対する研究を大幅に前進させたものである。 それ以降,徽州方言は注目を集め,一地点の方言の音系や音韻特徴,或いは数地点の方 言に共通する音韻特徴を対象とした記述研究も次第に増えつつある。しかし,語彙や文法 についての研究は少ない。これまでの研究は全体として,通時的変化に触れながらも,共 時的描写を中心としている。また,言語地理的研究は行われていない。主な論文や著書は, 以下のとおりである。 平田昌司「休寧音系簡介」 『方言』4 号,商務印書館,1982 沈同「祁門方言的人称代詞」 『方言』4 号,商務印書館,1983 張琨「談徽州方言的語音現象」 『史語所集刊』57 号,中研院歴史語言研究所,1986 孟慶恵「歙県方音中的歴時特徴」 『語言研究』1 号,華中科技大学出版社,1988 伍巍「徽州方言和現代‘呉語成分’」『呉語論叢』上海教育出版社,1988 7.

(13) 沈同「祁門方言的語音特点」 『方言』1 号,商務印書館,1989 趙日新「安徽績溪方言音系特点」 『方言』2 号,商務印書館,1989 銭恵英「屯溪方言的小称音変及其功能」 『方言』3 号,商務印書館,1991 平田昌司等『徽州方言研究』好文出版,1998 金家騏「休寧方言有陽去調」 『方言』2 号,商務印書館,1999 趙日新「古清声母上声字徽語今読短促調之考察」 『中国語文』6 号,商務印書館,1999 趙日新「徽語的小称音変和児化音変」『方言』2 号,商務印書館,1999 馬希寧「徽州方言的知照系字」 『方言』2 号,商務印書館,2000 趙日新「徽語的語彙特点」 『中国語学研究・開篇』20 号,好文出版,2000 趙日新「徽語的特徴詞」 『漢語方言特徴詞研究』厦門大学出版社,2001 趙日新「徽語古全濁声母今読的幾種類型」 『語言研究』4 号,華中科技大学出版社,2002 劉祥柏「徽州方言全濁字今読与呉語的関係」 『呉語研究・第二届国際呉方言学術研討会 論文集』上海教育出版社,2003 趙日新「徽語中的幾個本字」 『呉語研究・第二届国際呉方言学術研討会論文集》上海教 育出版社,2003 趙日新「中古陽声韻徽語今読分析」 『中国語文』5 号,商務印書館,2003 王福堂「徽州方言的性質和帰属」 『中国語文』1 号,商務印書館,2004 趙日新「方言接触和徽語」 『語言接触論集』上海教育出版社,2004 孟慶恵『徽州方言』安徽人民出版社,2004 趙日新「徽語的特点和分区」 『方言』3号,商務印書館,2005 趙日新「徽語中的長元音」 『中国語文』1号,商務印書館,2005 鄧楠『祁門軍話語音研究』北京語言大学修士学位論文,2006 方清明『浮梁(鵝湖)方言研究』南京師範大学修士学位論文,2006 田玉晶『祁門民話語音研究』北京語言大学修士学位論文,2006 陳瑶『祁門境内方言的対比研究』貴州大学修士学位論文,2006 高永安『明清皖南方音研究』商務印書館,2007 賈坤『徽州(呈坎)方言語音研究』北京語言大学修士学位論文,2007 劉麗麗『休寧(溪口)方言語音研究』北京語言大学修士学位論文,2007 王琳『祁門(箬坑)方言語音研究』北京語言大学修士学位論文,2007 楊瑱『歙県(深渡)方言語音研究』北京語言大学修士学位論文,2007 黄燕『婺源(坑頭)方言語音研究』北京語言大学修士学位論文,2008 李華『歙県(三陽)方言語音研究』北京語言大学修士学位論文,2008 銭恵英『屯溪方言語彙研究』蘇州大学修士学位論文,2008 謝留文・沈明『黟県宏村方言』中国社会科学出版社,2008 趙日新「徽州方言‘物/物事’的量級用法」『中国語文』3 号,商務印書館,2009 胡松柏等『贛東北方言調査研究』江西人民出版社,2009 陳瑶『徽州方言音韻研究』福建師範大学博士学位論文,2009 原娟『黟県(宏潭)方言語音研究』北京語言大学修士学位論文,2009 張月婷『休寧(流口)方言語音研究』北京語言大学修士学位論文,2009 田文静『祁門(芦溪)方言語音研究』北京語言大学修士学位論文,2010 徐麗麗『休寧(白際)方言語音研究』北京語言大学修士学位論文,2010 賈坤『皖贛交界地帯徽語語音研究』北京語言大学博士学位論文,2011 方勝藍『歙県(英富坑)方言語音研究』中国社会科学院研究生院修士論文,2012 胡貴躍『黟県(漁亭)方言語音研究』北京語言大学修士学位論文,2012 8.

(14) 呉然『徽語婺源方言語音内部比較研究』南昌大学修士学位論文,2012 董佳『婺源(紫陽鎮)方言語彙研究』江西師範大学修士学位論文,2012 劉珂『徽語方言韻書「婺城郷音字彙」語音研究』南昌大学修士学位論文,2012 戴文慧『中古入声字在徽語中的演変研究』河北師範大学修士学位論文,2013 陳麗『安徽歙県大谷運方言』方志出版社,2013 沈明『安徽歙県向杲方言』方志出版社,2013 謝留文「徽語祁門,婺源第一人称代詞読音試釈」 『方言』2 号,商務印書館,2014 王俊芳『婺源方言韻書「下北郷音字彙」与「正下北郷音字彙」語音比較研究』南昌大学 修士学位論文,2014 秦智文『五種婺源方言韻書韻部比較研究』南昌大学修士学位論文,2014 李小凡・池田健太郎「徽州方言古全濁声母無条件分化成因新探」 『語文研究』2 号,語 文研究編集部,2015 賈坤「祁門,浮梁交界地帯徽語的長元音韻母」 『語言研究』1 号,華中科技大学出版社, 2016 以上に挙げた先行研究を通じて,徽州方言の音韻特徴に対する認識が深まり,徽州方言 にかなりの程度の内部差異が存在する一方,共通する特徴も少なくないことが共通認識と なった。以下,趙日新「徽語的特点和分区」(2005)を参考にこれらの音韻特徴を簡単に 説明する6。 (1)古全濁声母有声音はすべて無声化しているが,績溪県,祁門県,婺源県などでは ほとんど有気音になったのに対し,黟県,休寧県などでは有気音になったものと無気音に なったものとがある。分化の規則は明確ではない。例えば,「茶」は祁門方言では有気音 [tʂh:ə55]であるが,黟県方言では無気音[tʃɔ:ɐ44]である。 (2)中古音の軟口蓋音[k] [kh] [x]は,介音 i またはyの前で,それぞれ[tɕ] [tɕh] [ɕ]に変化した方言が多い。しかし,績溪県と歙県には[k] [kh] [x]を保存した方言も 35 42 ある。例えば, 「狗」は歙県方言では[kio ] ,祁門方言では[tɕie ]である。 (3) [n]と[l]は自由変異(free variation)となる地点が多いが,区別する地点も 少なくない。例えば,婺源県では「女」=「呂」 ,黟県方言では「女」は[nyɛi53],「呂」 は[lyɛi53]である。 (4) [tsi-,tshi-,si-]と[tɕi-,tɕhi-,ɕi-]は(以下それぞれ[si-]と[ɕi-]で代表する), 中国音韻学ではそれぞれ「尖音」 , 「団音」と呼ばれている。徽州方言では尖音と団音を区 別する方言もあれば,区別せず,いずれも[ɕi-]と発音する方言もある。例えば,黟県方 言では「写」=「顕」,いずれも[ɕi:ɐ53]であるが,休寧方言では「写」[si:e31]≠「顕」 [ɕi:e31]である。 (5)中古音では流摂 1 等と 3 等の韻母に区別があった(中古音:*əu/*iəu7)が,徽州方 言の中には,合流した方言もあれば,対立を保存した方言もある。例えば,績溪方言では 「狗」 [ki213]≠「九」 [tɕiɵ213]だが,休寧方言ではいずれも[tɕiu31]である。 (6)中古音では効摂 1 等と 2 等の韻母に区別があった(中古音:*ɑu/*au)が,徽州方 言の中には,合流した方言があれば,対立を維持した方言もある。例えば,黟県方言では 「高」 [kɤ:ɐ31]≠「交」 [kau31]だが,祁門方言ではいずれも[kɔ11]である。 (7)中古音で u 介音を有した韻母は合口呼,i 介音を有した韻母は斉歯呼,y 介音を有 した韻母は撮口呼,介音を有さなかった韻母は開口呼と呼ばれる。徽州方言には開口韻母 6. この小節で挙げた例はすべて『徽州方言研究』(平田昌司等 1998)に拠る。また,黟県方言や祁門方 言などと呼ぶのはすべて県庁や区庁所在地の方言を指す。 7 本稿で挙げる中古音は,すべて『漢語史稿』(王力 1980)に拠る。 9.

(15) の一部が合口呼になった方言がある。例えば,績溪方言では「開」は[kha31]だが,黟県 方言では[khua:31]になった。 (8)中古音の鼻音韻尾-m,-n,-ŋ は弱化し,鼻音化,脱落,合流などの変化が発生し た。多くの徽州方言では-m,-n は鼻音化韻母や口韻母に変化した。-ŋ は保存される傾向が あるが,-n や鼻音化韻母,さらに口韻母になることもある。例えば, 「男」 (*-m), 「田」 (*-n) , 44 h 44 31 31 44 「京」 (*-ŋ) ,根(*-ŋ)は,績溪方言では[nɔ ] [t i ] [tɕiɑ ] [kɑ ],黟県方言では[noɐ ] h 44 31 31 11 h 11 44 [t i:ɐ ] [tʃɛɐ ] [kuaŋ ],婺源方言では[liɔ ] [t ] [tɕiɔ ] [kuɐin44]である。 (9)休寧県や黟県には n を指小辞(dimunitive suffix)とする方言が多い。例えば, 黟県方言では「袋」は[tua:3]だが,指小辞が加わると「袋児」[tun35]となり,1 音節 に融合するだけでなく,韻母も声調も変化する。績溪県や歙県にはこの現象がほとんど見 られない (10)休寧県や黟県には長韻母がある方言が多いが,績溪県や歙県にはほとんど見られ ない。例えば, 「花」は休寧方言,黟県方言では[xuːə11] [xuːɐ31]だが,績溪方言,歙県方 言では[xo31] [xua31]である。 (11)徽州方言の多数では,平声と去声が中古声母の清濁によって,陰平と陽平,陰去 と陽去に分化している。上声は短促調(音節長が短い声調)になる方言がある。例えば, 屯溪方言において,上声の「美」 [me32]は短促調であり,調値は[32]と記したが実際に はほとんど下降しない。 (12)中古音の入声字は,音節末閉鎖音(-p, -t, k)を伴う短促調であったが,徽州方 言では閉鎖音が脱落するとともに,音節が長くなった方言が多い。例えば,休寧県で「八」 「六」は[puːə212] [liu35]であり,いずれも短促調ではない。但し,音節末閉鎖音が[ʔ]に 変化し,短促調を保存した方言も少なくない。例えば, 「八」 「六」は績溪方言では[pɔʔ32] [nɤʔ32]である。 2.3 歙県方言の音韻体系8 徽州全体を代表する地点方言として,歙県の県城(県庁所在地)の方言を取り上げ, その音韻体系を紹介する。 声母(20) P 布薄巴比 T 到東多徳 Ts 紫走精追 tɕ 紙主経専 K 改講貴簡 Ø 王雨月衣用. Ph Th tsh tɕh Kh. 韻母(38) ɿ 之事子紫 A 馬家排江 ɛ 来賠男二眼山耕 E 編悲写尖 ɔ 刀敲学木 O 婆火走短床算 8. 爬歩破白 逃土動奪地 草字清墻 陳出軽直及 苦開共狂. i ia iɛ ie iɔ io. m n. ŋ. 米毛満命 脳泥年奴熱. 襖鵝藕瓦. 低泥去十 夜亮張养 葉者也 県爺 表姚朝箬 頭酒後薬. u ua uɛ ue. f. 斧飛房発. s ɕ x. 三心時星 戯書興実 厚海虎灰. 補五夫 花抓快塊 官関灰 桂衰最. v l. 横温原月 老犁連爐. y ya. 女魚主水 靴曰. ye. 追磚巻. 『徽州方言研究』(平田昌司など 1998)に拠る。 10.

(16) 根村灯東 aʔ ɛʔ eʔ ɔʔ. 甲殺八 貼百客 節北黒 法脱割. M N. 母 爾. 声調(6) 陰平 [31] 陽平 [44] 上声 [35] 陰去 [313] 陽去 [33] 陰入 [21]. i iʔ iaʔ. 心深星城 一尺錫 脚洽. ieʔ iɔʔ ioʔ. 浙歇 薬若 浴菊曲. u uʔ uaʔ uɛʔ. 公紅滾 骨国哭竹 刮闊 或. y yʔ. 雲閏雄用 出桔. 三西東高天庁詩低 皮田名南来時人 九古口稲坐両米有 四送対去蓋菜大 洞树面硬乱動,熱月薬学六毒 八鉄雪発各一七国. 11.

(17) 第3章. 研究目的と研究方法,及び研究資料. 3.1 研究目的 1998 年出版の『徽州方言研究』以来,徽州方言に対する研究は次第に増えてきたが, 音声に対する記述とその変化に力点が置かれ,音声以外に関心が払われていない。徽州方 言は内部差異が大きく,数キロメートルを離れると全く言葉が通じないことも多く,各県 の県庁所在地の方言を記述した『徽州方言研究』だけで徽州方言の全容を把握することは 難しい。最近,郷鎮方言に対する論文や著書が増えてきたが,未調査地域はなお多い。そ のため,郷鎮方言を重視し,音声だけでなく,語彙,文法などを含む,徽州全域を覆う方 言調査に基づく研究が必要である。 一方,徽州方言は,呉方言,贛方言,江淮官話に囲まれており,外部方言の大きな影響 を受けたとする考えが多いが,掘り下げた議論は少ない。徽州方言と周辺の方言との関係 も徽州方言研究の重要なテーマである。 以上の研究情況を踏まえて,本論文では 105 地点の方言を対象とし,音声と語彙を合わ せて,23 の項目に関する方言差の実態を描写した上で,それらの地理的分布図を描いた。 そして,これらの地理的分布図に基づいて,言語的要因と徽州の歴史や地理などの非言語 要因を結合し,徽州方言の通時的変化の過程,及び変化の成因,特に周辺の方言との関係 を解明する。 3.2 研究方法 従来の研究は音声の記述を重視し,それらの変化については主に比較法で研究してきた。 本研究はフィールドワークを通じて音声,語彙を記述した上で,地理的分布図を描き,主 に言語地理学的方法で音声,語彙の通時的変化を明らかにする。地図作成には,ESIA (Environmental Systems Research Institute)で開発された ArcView3.0 という地理情 報処理ソフトウェアを使用する。各地点の経緯度については,グーグルマップで各村の村 民委員会(日本の村役場に相当)の位置を測定した。 地図上の記号については,赤の三角形によって最も古い形式を表す。次いで,青の円形 や緑の四角形で表す。3 種以上の形式が出現する場合は,他の記号も使用した。 3.3 研究資料と方言調査 本論文で扱う方言資料の大部分は 4 回にわたるフィールドワークで収集したものであ る。このほか,一部の地点は先行研究として上で挙げた論文や著書に拠って補った。表 3 にそれらの資料の地点,著作,出典を挙げる。ほとんどが北京語言大学をはじめとする大 学院生の修士論文である。 表 3 先行研究から収集した方言資料 番 号. 地点. 著者. 出所. 発行所. 発行年. 01. 徽州区呈坎鎮. 賈坤. 『徽州(呈坎)方言語音研究』. 北京語言大学 修士学位論文. 2007. 02. 休寧県溪口鎮 和村村. 劉麗麗. 『休寧(溪口)方言語音研究』. 北京語言大学 修士学位論文. 2007. 03. 祁門県箬坑郷. 王琳. 『祁門(箬坑)方言語音研究』. 北京語言大学 修士学位論文. 2007 12.

(18) 04. 歙県深渡鎮定 潭村. 楊瑱. 『歙県(深渡)方言語音研究』. 北京語言大学 修士学位論文. 2007. 05. 婺源県龍山郷 坑頭村. 黄燕. 『婺源(坑頭)方言語音研究』. 北京語言大学 修士学位論文. 2008. 06. 歙県三陽郷. 李華. 『歙県(三陽)方言語音研究』. 北京語言大学 修士学位論文. 2008. 07. 黟県宏村鎮. 謝留文・ 沈明. 『黟県宏村方言』. 中国社会科学 出版社. 2008. 08. 婺源県紫陽鎮. 胡松柏等. 『贛東北方言調査研究』. 江西人民出版 社. 2009. 09. 婺源県江湾鎮. 胡松柏等. 『贛東北方言調査研究』. 江西人民出版 社. 2009. 10. 黟県宏潭郷. 原娟. 『黟県(宏潭)方言語音研究』. 北京語言大学 修士学位論文. 2009. 11. 休寧県流口鎮. 張月婷. 『休寧(流口)方言語音研究』. 北京語言大学 修士学位論文. 2009. 12. 祁門県芦溪郷. 田文静. 『祁門(芦溪)方言語音研究』. 北京語言大学 修士学位論文. 2010. 13. 休寧県白際郷. 徐麗麗. 『休寧(白際)方言語音研究』. 北京語言大学 修士学位論文. 2010. 14. 歙県岔口鎮英 富坑村. 方勝藍. 『歙県(英富坑)方言語音研 究』. 中国社会科学 院研究生院修 士学位論文. 2012. 15. 黟県漁亭鎮. 胡貴躍. 『黟県(漁亭)方言語音研究』. 北京語言大学 修士学位論文. 2012. 表 4 に本論文が研究対象とするすべての地点を列挙した。表 3 に挙げた 15 地点を除く 90 地点の方言資料は,すべて筆者がフィールドワークで収集したものである。調査は 2015 年 3 月から 2016 年 10 月までの期間の長期休暇を利用して行い,すべて筆者一人で実施し た。 地点名は原則として当該方言話者が居住する行政村の村名であり,郷鎮名ではない。先 行研究に拠った 15 地点のうち,11 地点の話者の出身地については,郷鎮名しか分からな い。異なる村の出身者が二名以上いることもある。このようなケースでは,郷鎮名で地点 名を表した。同名の地点も多いため,説明の便を図って,アルファベットと数字を組み合 わせた地点番号で各地点を表す。県(区)によって異なるアルファベットを使用したほか, 数字で県(区)内の各地点を表した。 「J」 「S」 「H」 「X」 「T」 「Y」 「Q」 「W」はそれぞれ績溪 県,歙県,徽州区,休寧県,屯溪区,黟県,祁門県,婺源県を表す。1 地点に1つの地点 番号を当てるが,数字の 1 は例外なく各県や区の県庁・区庁所在地の地点を表す。例えば, 「Y1」の郭門は黟県の県庁所在地である碧陽鎮に属する村である。また, 「T1」の隆阜二 村は屯溪区で唯一の調査地点である。原則として一つの地点番号は一つの記号に対応する が,二つ以上の語形があれば,地点番号の下に複数の記号を並べる。 方言話者については,通常地元の村民委員会に依頼し,少なくとも祖父の代から地元に 居住している生え抜きの 60 歳以上(1955 年以前生まれ)の男性,またほとんど他地での 居住歴がなく,地元の方言と標準語しか話せない老人 1 名を選んでいただくようにした。 13.

(19) 但し,村民の情況に詳しくない村民委員会もあり,また推薦された老人が協力を断るなど, 様々な状況によって,60 歳以上の老人男性が見つからないこともあった。そのため,少 なくとも祖父の代から地元に居住している生え抜きであるという条件は確保した上で,生 年の条件を 1960 年以前に緩和した。そうしても,年齢の条件を満たさない地点が 5 地点, 女性の話者になった地点が 4 地点あった。方言話者についての性別,生年,職業などの詳 しい情報は本文末尾に付録として列挙した。 調査内容については,まず『漢語方言地図集調査手冊』 (北京語言大学語言研究所,2003) の調査表で四つずつの漢字がペアとなった 64 の漢字の音読を通して声調の調類と調値を 調べた。次に, 『方言調査字表』 (中国社会科学院語言研究所,1981)から選んだ徽州方言 の音韻差異が現れる 183 の漢字を音読してもらいながら発音を記録した。最後に,事前に 用意しておいた基礎語彙の絵を 312 枚示しながら, 「これは何ですか」, 「この人は何をし ていますか」 , 「あなたはどう思いますか」などの質問文で事物や動作などの名称や状態を 尋ねた。調査時の音声は全て IC レコーダーで録音した。 表 4 研究対象とした 105 の地点 県 区 名. 績 溪 県 J. 歙 県 S. 郷 鎮 名. 村 名. 地 点 番 号. 郷 鎮 名. 村 名. 地 点 番 号. 華陽鎮. 郎坑. J1. H1. 祁山鎮. 寺前. Q1. 臨溪鎮. 臨溪. J2. 楊村. H2. 鳧峰郷. 鳧坑. Q2. 長安鎮. 鎮頭. J3. 富溪郷. 富溪. H3. 金字牌鎮. 金字牌. Q3. 上庄鎮. 上庄. J4. 洽舍郷. 長潭. H4. 大坦郷. 大中. Q4. 板橋頭郷. 中村. J5. 呈坎鎮. 石川. H5. 祁紅郷. 閶頭. Q5. 揚溪鎮. 揚溪. J6. 呈坎鎮. 呈坎. H6. 塔坊郷. 塔坊. Q6. 金沙鎮. 金沙. J7. 海陽鎮. 北街. X1. 平里鎮. 平里. Q7. 家朋郷. 家朋. J8. 璜尖郷. 璜尖. X2. 溶口郷. 溶口. Q8. 瀛洲郷. 瀛洲. J9. 白際郷. 白際. X3. 蘆溪郷. 蘆溪. Q9. 伏嶺鎮. 伏嶺. J10. 源芳郷. 幸川. X4. 小路口鎮. 晨光. Q10. 徽城鎮. 古關. S1. 榆村郷. 富溪. X5. 渚口郷. 大北. Q11. 上豐郷. 上豐. S2. 龍田郷. 浯田. X6. 歴口鎮. 許村. Q12. 富竭鎮. 中溪. S3. 嶺南郷. 璜茅. X7. 古溪郷. 古溪. Q13. 許村郷. 許村. S4. 嶺南郷. 嶺南. X8. 安凌鎮. 城安. Q14. 王村鎮. 八村. S5. 五城鎮. 古林. X9. 閃里鎮. 桃源. Q15. 漁岸. S6. 斉雲山鎮. 岩腳. X10. 新安郷. 高塘. Q16. 童川. S7. 渭橋郷. 渭橋. X11. 箬坑郷. 箬坑. Q17. 小川郷. 小川. S8. 溪口鎮. 石田. X12. 紫陽鎮. 紫陽. W1. 街口鎮. 新門. S9. 陳霞郷. 回溪. X13. 溪頭鎮. 下溪. W2. 璜田. S10. 板橋郷. 板橋. X14. 江灣鎮. 江灣. W3. 胡埠口. S11. 江潭. X15. 段莘郷. 中村. W4. 長陔郷. 長陔. S12. 和村. X16. 秋口鎮. 秋口. W5. 紹濂郷. 紹濂. S13. 流口陳. 流口. X17. 思口鎮. 思口. W6. 桂林鎮. 桂林. S14. 汪村陳. 汪村. X18. 清華鎮. 里村. W7. 森村郷. 璜田郷. 県 区 名. 徽 州 区 H. 休 寧 県 X. 郷 鎮 名. 村 名. 地 点 番 号. 岩寺鎮. 信行. 楊村郷. 溪口鎮. 県 区 名. 祁 門 県 Q. 婺 源 県 W. 14.

(20) 溪頭鎮. 黃村. S15. 漁塘. X19. 北岸鎮. 北岸. S16. 枸梓里鎮. 蘇村. S17. 三陽郷. 三陽. S18. 金川郷. 金川. 岔口鎮 溪頭鎮. 新安 源. X20. 籃田鎮. 南塘. S19. 碧陽鎮. 岔口. S20. 洪村口. S21. 漳潭. S22. 定潭. S23. 岔口鎮. 英富坑. S24. 石門郷. 石門. S25. 深渡鎮. 鄣山郷. 車田. W8. 浙源郷. 查村. W9. 沱川郷. 河東. W10. X21. 中雲鎮. 中雲. W11. 郭門. Y1. 賦春鎮. 沖田. W12. 宏村鎮. 宏村. Y2. 鎮頭鎮. 遊山. W13. 碧山郷. 梘溪. Y3. 許村郷. 許村. W14. 洪星郷. 大星. Y4. 珍珠山郷. 珍珠山. W15. 西递鎮. 葉村. Y5. 太白鎮. 太白. W16. 宏譚郷. 宏譚. Y6. 龍山郷. 坑頭. W17. 漁亭鎮. 漁亭. Y7. 柯村郷. 柯村. Y8. 黎陽鎮. 隆 阜 二. T1. 鶴城郷. 黟 県 Y. 屯 溪 区 T. 15.

(21) 第4章. 徽州方言の地理的分布. 本章では音声,語彙合わせて 23 項目のデータに基づいて,語形の地理的分布パターン を類型化し,各類型がなぜ,どのように形成されたかを考察する。23 項目のうち,音声 は 6,語彙は 17 である。具体的な項目は表 5 の通りである。 表 5 分析対象とした 23 項目 01「扶胡」の声母. 09 母屋. 17 サツマイモ. 02「猴」 (猿)の音声. 10 トンボ. 18 父の妻の対面呼称. 03 月. 11「宝飽」の韻母. 19 父の兄の妻の対面呼称. 04 ソラマメ. 12 ナス. 20 全濁声母. 05 昨日. 13 鼻. 21 そり舌音. 06 拾う. 14 ミミズ. 22 父の姉妹の対面呼称. 07 寝る. 15 台所. 23 単音節声調. 08 見る. 16 ジャガイモ. 4.1. AB 型分布. AB 型分布とは,東と西に方言形が整然と分かれて分布するパターンである。地図 8 の “月”では,徽州の中央部を境として,東に「月亮」,西に「月光」が分布している。こ のように,二つの語形が一つの等語線によって二分されるような分布を「AB 型分布」と 呼ぶ。 “月”のほか, “ 「扶胡」の声母” , “ 「猴」の声母” ,“昨日” , “ソラマメ” ,合わせて 5 項目の地理的分布がこのパターンに属する。 例えば,地図 8 の“月”では,東西の等語線は休寧県と歙県,徽州区の県境とおおよそ 一致していることが分かる(但し歙県 S25(石門)の「月光」,祁門県 Q1(寺前)の「月 亮」が例外となる) 。本論文ではこの方言境界線を「休歙線」と呼ぶ。 “月”のほか,地図 6,7 の“ 「扶胡」の声母”と“ 「猴」の声母”についても,等語線は休歙線とほぼ一致す る。地図 9 の“ソラマメ”では,東西に「蚕豆」が分布し,休歙線を境とする東西対立型 の AB 型分布とは異なり,南北対立的である。本論文が AB 分布と認定したのは,東部に分 布した「蚕豆」が徽婺古道に沿って西部に伝播したという解釈に基づく。 地図 10 の“昨日”では,東西の境界線が休歙線から少し離れた歙県の北東部にある。 従って,AB 型分布の境界線は休歙線を中心として東西方向に幅度があるものになってい る。 言語地理学では,以上のような分布を「隣接分布」又は「AB 分布」と呼び,二つの語 形の間には A→B や B→A という変化関係があると考えられている(柴田武 1969)。徽州方 言の「AB 型」分布も一方が古く一方が新しいと考えられる。以下地図を一枚ずつ検討す る。 4.1.1 [「扶胡」の声母] 徽州では「扶胡」の韻母([u])と声調(陽平)はほとんど差異がなく,差異は声母にあ る。 音声形式と分類 まず, 「fu」と「xu」を区別する類型があり,合流した類型は,変化の結果が「f」であ るものと「x」であるものとがある。地図 7 では,この三類型に分類した。 16.

(22) 地図 6 「扶胡」の声母 分布 1.[fu]と[xu]が区別される類型は主に休歙線以西に分布しているほか,歙県の S1(古 関) ,S21(洪村口) ,S14(桂林) ,S15(黄村)にも分布している。これらの地点では[fu] と[xu]を区別する。 2.合流して[fu]になる類型は主に休歙線以東に分布している。黟県の Y6(宏譚) ,Y8 (柯村)でも区別しない。 3.合流して[xu]になるのは祁門県 Q14(城安)だけである。 解釈 『漢語方言地図集・語音巻』 (曹志耘 2008)の地図 53 によれば, 「府」, 「虎」の声母は ほぼ長江を境として南北対立している。長江以北の地域では区別するが,長江以南の地域 では合流した方言が多い。但し,江南地域9と徽州には区別する地点が多い。江南の中心 地である南京,杭州でも区別する。 今回の調査では, 「府」 , 「虎」のほか, 「扶」, 「胡」の発音も調査した。地図 6 は「扶」 , 「胡」の声母に基づいて作成した。 「扶」 , 「胡」は中古音で区別され,休歙線西部ではその区別を保っているが,東部では 同音化した。これは内的変化に因るものである。 [f]は唇歯音, [x]は軟口蓋音であり, 発音部位は異なるが, 「fu」と「xu」は聴覚的にはかなり類似しているため,合流しやす い。地点によって合流方向が異なり,ほとんどの地点で[fu]に合流しているが,唯一 Q14(城安)では[xu]に合流している。一方,その周辺地域では, [fu]に合流している 9. 江南地域とは,南京,杭州を中心とした江蘇省南部と浙江省北部の広い地域を指す。唐宋以来,中国 の経済的中心地と発展してきた。現在でも,中国で最も発達した地域の一つである。 17.

(23) が,歙県の S1(古関) ,S21(洪村口) ,S14(桂林) ,S15(黄村)では[fu]と[xu]の 区別が保たれている。これは,S1(古関)が旧府庁所在地であったことと関係があると考 えられる。おそらく府庁所在地として,南京,杭州などの経済中心地との接触が多く,特 に杭州の影響を受けて,合流が抑制されたのではないだろうか。 4.1.2. [「猴」の音声]. 地図 7 「猴」 (猿)の音声 音声形式と分類 徽州では「猴」 (猿)の声母と韻母の組み合わせによって,五類型に分類できる。それ ぞれ[x-](介音なし) ,[xi-](介音あり) ,[ɕi-](介音あり) ,[s-](介音なし),[ʃ-] (介音なし)である。ここでは[x-] ,[xi-]と[ɕi-],[s-],[ʃ-]の差異に着目して「AB 型分布」と認めた。 分布 1.[x-](介音なし)と[xi-]は主に休歙線以東に分布しているが,[xi-]は績溪県を占 めるほか,歙県中心地の S1(古関) ,S14(桂林)などに分布している。また,黟県の Y6 (宏譚),Y8(柯村) ,及び祁門県の Q14(城安)でも[x-]と発音する。 2.[ɕi-]は休歙線以西に分布している。但し,横江上流の黟県には[s-] が分布し,[ɕi-] の勢力範囲外である。[ʃ-]は閶江流域の Q9(蘆溪)だけに分布している。 解釈 「猴」の中古声母は匣母(喉音声母)であり,介音[i]の前で口蓋化(palatalization) が発生し,[xi-]>[ɕi-]のように変化したと考えられる。 「猴」の中古韻母は流摂 1 等で,本来は介音[i]を伴わない。 「猴」が介音[i]を有 18.

(24) するのは,おそらく介音[i]を有した 3 等字に類推して, [xəu]>[xiəu]という変化が 発生したためである。歙県の S14(桂林) ,S22(漳潭)及び績溪県の J1(郎坑),J10(伏 嶺)などの地点でこの変化が発生した。 さらに, [xi]は介音[i]の影響で,口蓋化が発生し, [ɕ]に変化した:[xəu]>[xiəu] >[ɕiəu]。休歙線以西の地域では,ほとんどこのように変化が発生し,[ɕi-]になった。 つまり,徽州では[xaɯ]>[xiu]>[ɕiu]という変化が発生したと推定される。但し,Q9(蘆 溪)では[ʃyo]に変化した。 [xaɯ]>[xiu]の中間段階として*[xiaɯ]のような形式が期待されるが,徽州ではみつか っていない。一方,徽鄱水路(閶江と楽安江)下流にある景徳鎮市,楽平市には[xiəu] が分布している( 『贛東北方言調査研究』胡松柏等) 。この[xiəu]が徽州に伝播し,徽州の [xiu]などに変化した可能性がある。 黟県方言で[saɯ]になったのも口蓋化の結果と見なすことができる。[xaɯ]>[xiaɯ]と変 化した後,口蓋化が起きたが,舌面音でなく舌葉音に変化して[ʃiaɯ]となり,その後[i] 介音が飲み込まれて[ʃaɯ]となったと考えられる。例えば,黟県の Y1(郭門)では, 「溝」 h と「口」を,それぞれ[tʃaɯ],[tʃ aɯ]と発音している。つまり[k-]>[tʃ-]という変化が 発生したのである。この変化に対応して[x-]>[ʃ-]という変化が発生したのだろう。[ʃaɯ] は調音上も聴覚上も[saɯ]に近いので,その後[saɯ]に変化したと考えられる。黟県方言の 声母[ʃ]は,現在,円唇母音としか結合しない。例えば,Y1(郭門)の「書」[ʃu],「酸」 [ʃuɐ]などが挙げられる。 4.1.3. [月]. 地図 8 “月”の語形 語形と分類 19.

(25) 徽州で“月”を表す語形は二つある。それぞれ「月光」[ȵye kau], 「月亮」[ȵye ȵ ] である。いずれも「月」を有する二音節語である。また,ほとんどの地点で「月光」には “月の光”の意味もある。 分布 1. 「月光」は休歙線以西の広い地域に分布している。 2. 「月亮」は主に休歙線以東の徽州区,歙県,績溪県に分布している。祁門県の Q1(寺 前),Q14(城安)と黟県の Y6(宏譚)にも点在している。 解釈 中国の古典文献では単音節語「月」が“月”を指し,その起源は甲骨文時代(殷代)に 遡ることができる。 「月光」は,その名の示すとおり,もともと“月の光”を指していた が,語義が拡大し, “月”を指すようになった。 「月亮」はおそらく“月が明るい”の意味 から変化してきた語形であろう。 調査資料によれば,徽州の東部と西部では“明るい”を表す語形として「亮」と「光」 が対立している。東部では単音節の「亮」,西部では単音節の「光」で明るいものを形容 している。例えば, 「天亮了」 (空が明るくなった), 「灯不亮」 (ライトが明るくない)を, S1(古関)では「天亮了」 , 「火不亮」 ,X1(北街)では「天光了」, 「火不光」と呼ぶ。 西部の Y1(郭門)を例とすれば,現代標準語の「明亮」 (明るい) ,「鋥亮」 (反射で明 るい)などは, 「通光」 , 「鏡児光」などと呼び, 「亮」の例は 1 例として存在しない。これ に対して,東部では“明るい”一般は単音節の「亮」で表される一方,「光」は複合語の 中に見られる。そのうちの幾つかを選んで表 6 にまとめた。 表 6 で挙げた例は,いずれも粘着性が強い複合語であり,“明るい”の「光」はこれら の地点の複合語だけに見られる。複合語に古語が保存しやすいという傾向があることから 徽州東部ではもともと“明るい”一般を表わすのに, 「亮」ではなく, 「光」を使っていた と推定する。即ち,まず単音節の「光」が「亮」に取り替えられただろうと考える。 表 6 徽州東部で“明るい”の「光」を使った用例 語形. 意味. 分布地点や地域. 天光. 朝ご飯. S17(蘇村) ,S20(岔口) , S23(定潭) , S24(英富坑). 天光星. 金星(明星). H5(呈坎) ,Y6(宏譚). 鋥同光,鋥同溜光. 非常に明るい. 績溪県10. 天光爹爹. 白雉. Y6(宏譚). 祁門県の Q8(溶口)と Q9(蘆溪)などでは,単音節の「亮」を使っているが, 「天光了」 (空が明るくなった) ,及び「光瓦」 (瓦の一種)といった複合語には必ず「光」を使って いる。Q16(高塘) ,Q17(箬坑) ,S24(英富坑)などでは,単音節の「亮」のほか, 「天亮 了」とも言うが,複合語には「光」を多く使っている。これに対して,東部の S18(三陽) では,すべて「亮」を使っている。以上の実例から, “明るい”の意味の「光」が次第 に「亮」に取って替わられたと考えられる。単音節の「光」から,「天光了」のような常 用的なフレーズを経由し,複合語までの順で変化したのであろう。 以上から,徽州方言にはもともと「亮」が存在しなかったことが分かる。従って「月亮」 もなかったわけである。しかし, “明るい”の「光」が次第に「亮」に交替するにつれて,. 10. 『徽州方言研究』(平田昌司など 1998)に記載された県庁所在地の方言の例である。 20.

(26) 「月光」も「月亮」に変化したと考えられる。この「亮」はもともと外部方言から伝播し, 徽州方言が受容したものであったろう。 4.1.4. [ソラマメ]. 地図 9 “ソラマメ”の語形 語形と分類 徽州で“ソラマメ”を表す語形は二つある。それぞれ「碧豆」[pɵ thiu], 「蚕豆」[tsh thiu]である。 分布 前述のように, 「碧豆」と「蚕豆」の分布は東西対立型ではない。 1. 「碧豆」は祁門県,黟県の全域と休寧県の中西部,婺源県の北部に分布している。ま た,休寧県の X2(白際)と歙県の S5(八村)にも点在している。 2. 「蚕豆」は徽州東部を占めるほか,徽婺古道沿いに連続的に分布が伸び,西部の婺源 県でも多数を占める。 解釈 「碧豆」は『徽州方言研究』 (平田昌司等 1998)などに記録されているが,筆者の方言 調査の時, 「碧豆」の代わりに, 「北豆」と書いた話者が多かった。現在,「碧」は「碧陽 鎮」 , 「碧山郷」など幾つかの地名だけに残されており,日常生活ではあまり使われなくな っている。そのため, 「碧豆」を「北豆」と書き直すのは民衆語源を反映し, 「碧」に対す る語源意識がなくなったことを物語っている。また, 『漢語方言地図集・語彙巻』 (曹志耘 2008)によれば,徽州の「碧豆」は「蚕豆」と「佛豆」に囲まれ,他地域にも分布しない ため,外来の可能性が低く,徽州特有の語形であろうと考える。 地図 9 では,休寧県の X2(白際)と歙県の S5(八村)の「碧豆」は「蚕豆」に囲まれ, 21.

(27) 古語の残存である可能性が高い。X2(白際)は白際山の奥にあり,交通が不便で,現時点 (2016 年)ではバスが通じていない。S5(八村)の話者によれば, 「碧豆」は村の老人が 使う語形だという。この話者は政府職員で,常に村民と接触している。 一方,地図 9 によれば, 「碧豆」と「蚕豆」の境界線は T1(隆阜)から W1(紫陽)に 伸びる徽婺古道の北側を通る。 「蚕豆」の伝播はこの古道と深い関係があるはずである。 「蚕豆」はおそらく北から南に向かって伝播したのではないだろうか。 南宋時代(1127 年-1279 年)の『新安志』に黟県や績溪が絹紬税を納めたという記載が あることから,当時,蚕業がすでに一定の規模を持っていたことが分かる。徽州では蚕業 が栄えたため,蚕に対する認識も深く,今でも盛んであることから, 「蚕豆」の生命力は 逞しいはずである。 『徽州方言研究』 (平田昌司等 1998)は,屯溪に「碧豆」と「蚕豆」 が併存しており, 「碧豆」の方が古いと述べている。 以上のことから,徽州特有の「碧豆」はもともと徽州全域に分布し, 「蚕豆」の侵入に よって勢力範囲が縮小したと推定される。 4.1.5. [昨日]. 地図 10 “昨日”の語形 語形と分類 徽州で“昨日”を表す語形は四つある。それぞれは「昨日」[tsho ȵi], 「倉日」[tʃhoŋ ȵiɛi], 「昨朝」[tsho tɕie], 「長朝」[tɕh tɕie]である。このうち, 「長」と「倉」は, いずれも同音字であり,語源を表したものではない11。 この四つの語形の中心語(head)に拠って, 「日」系語形と「朝」系語形の二類型に分類 11. S2(上豊),S5(八村)の発音から,「倉」は同音字ではないが,ほかの同音字がみつからないので, 「倉日」で表すこととした。 22.

(28) 地図 10-1 “明日”の語形 した。 「日」系語形は「昨日」 , 「倉日」を含み,「朝」系語形は「昨朝」, 「長朝」を含む。 分布 1. 「日」系語形は分布地域が広い。歙県中西部とその以西の地域はすべて「日」系語形 の勢力範囲である。このうち, 「倉日」は Y1(郭門)を中心とした黟県,及び歙県の S2 (上豊) ,S5(八村)に散在している。 2. 「朝」系語形は徽州の北東部,つまり歙県の北東部及び績溪県にまとまって分布して いる。このうち, 「長朝」は績溪県だけに分布し,績溪県の大部分を占めている。 解釈 岩田礼(2007)によれば, 「朝」が“日”を指すようになったのはまず江淮地区,つま り南京を中心とした長江下流地区で発生し,後に長江などに通じて周辺地域に伝播した。 『漢語方言地図解釈地図』 (岩田礼 2009)の地図 9-2 によれば,「昨朝」は「昨日」の分 布地域の内部に,線状に長く分布している。それは南京やその付近地域から徽州まで延び ており,その分布状態は徽寧古道が通る方向とほぼ一致している。そのため,「昨朝」は 南京を中心とした長江下流地区に源を発し,長江及び徽寧古道に沿って徽州の北東部に伝 播してきたと推定する。即ち,徽州では「昨朝」より「昨日」の方が古いと考える。 下の地図 10-1 に示すように,徽州では“今日”と“明日”の分布状況も地図 10 と類似 しており,休歙線を境界線として西部には「今日」 ,「明日」,東部には「今朝」,「明朝」 が分布している。 “昨日”を表わす「昨朝」や「長朝」はすべて「今朝」,「明朝」の分布 地域内に分布している。同一の時間範疇に属するため,同じ中心語(head)を取る傾向が強 い。従って, 「今朝」 , 「明朝」への類推によって, 「昨日」から「昨朝」に変化した可能性 が高い。 第一音節については,ほとんど「昨」であるが,績溪県には「長朝」 ,黟県及び歙県に 23.

(29) は「倉日」が分布している。黟県の 5 地点では,いずれも“昨日”を [tʃhoŋ ȵiɛi]と発 音しており,第一音節には鼻音韻尾[ŋ]がついている。第二音節の声母が[n]であるため, その影響を受けて逆行同化(regressive assimilation)によって生じたものと考える。 [o]は後舌韻母で,調音が迅速に歯茎音の[n]に移行する時,鼻音成分を帯びやすい。「倉 日」はこのほか,S2(上豊)の[tʃhɑŋ ni]と S5(八村)の[tʃh ni]がある。第一音節の 韻母は黟県の 5 地点と異なるが,鼻音成分は同じメカニズムによって発生したものと考え る。S2(上豊)と S5(八村)には,それぞれ韻母[ɑŋ], ]が存在している。S2(上豊) で韻母[ɑŋ]の影響を受け,[tʃhɑŋ ni]になっているが,S5(八村)で韻母 ]の影響を受 け,[tʃh ni]になっている。 「昨」は中古音で陽入であり,地図 10 の「倉日」は「昨日」 から変化したものと推定される。一方, 「長朝」は既存の [i ]に影響され, 「昨」[oʔ]か ら変化したものではないだろうか。つまり, 「昨朝」>「長朝」という変化が発生したと考 える。. 4.2. ABA 型分布. ABA 型分布とは,A 語形が両側に分布し,B 語形が中央部に分布し,A 語形が B 語形に分 断される,或いは分断されそうになっている分布パターンである。例えば,地図 11 の“拾 う”では,徽州の中央部に「排」 ,その両側に「拾」が分布しており, 「拾」が「排」に分 断されている。また,地図 12 の“寝る”では,幅広く分布している「困」が,歙県に分 布している「睡」に分断されそうになっている。このような分布を「ABA 型分布」と呼ぶ。 これは言語地理学で言う「周圏分布」 (「ABA 分布」 )と同じである。 「周圏分布」という呼 び名は,古語が周辺部に残存するという考えを含蓄しているが,平行変化などによって古 語が中央部に残存する「逆周圏分布」の事例も存在している。そのため,ここでは「ABA 型分布」と呼び,分布を 1 つずつ検討する。 4.2.1 [拾う] 語形と分類 徽州で“拾う”という動作を表す語形は三つあり,すべて単音節である。「排」[pa], 「拾」[ɕie], 「捡」[tɕie]である。このうち, 「排」は同音字であり,語源は不明である。 分布 1. 「排」は中部地域に幅広く分布している。新安江以南の歙県,及び T1(隆阜二)ま での新安江と横江流域はすべて「排」の分布領域である。そのほか,豊楽河と富資水流域 にも「排」が分布している。但し,この両河川の合流点にある S1(古関)では「拾」を 使う。 2. 「拾」は当該地域の東西に分布している。東部では新安江以北の歙県と績溪県,西部で は閶江流域の祁門県,南部では楽安江流域の婺源県に分布している。但し,祁門県の Q3 (金字牌)と婺源県東北部にある W2(下溪) ,W3(江湾)では「排」を使う。 3. 「捡」は現代標準語の語形であるが,徽州に少なく,祁門県の Q14(城安)と黟県の Y8(柯村) ,Y6(宏譚)だけに分布している。 解釈 『漢語方言地図集・語彙巻』 (曹志耘 2008)によれば,徽州地域だけに「排」[pa]のよ うな唇音声母を有する語形が集中して分布している。文献にも全く見られないため,徽州 の固有語かもしれない。 「拾」は先秦以来の古語である。例えば, 『孔子家語・相魯』には「路不拾遺」 (道に落 ちたるを拾わず)とある。 『漢語方言地図集・語彙巻』 (曹志耘 2008)によれば, 「拾」は 24.

(30) 地図 11 “拾う”の語形 主に長江以北に分布しているが,南の福建,広東,広西にも散在しているため,もとも と南部でもかなり勢力を持っていた可能性が高い。しかし,現在徽州周辺に「拾」はほと んど分布せず, 「捡」及び浙江省の「賺」, 「摭」などに囲まれて孤立している。 「捡」は現代標準語の語形であり,明代以前の文献には見られないため,相対的に新し い語形である。 「捡」は主に長江流域に分布している。徽州北部の美溪河と秋浦河は長江 に通じているため, 「捡」はおそらくそれらの河に沿って徽州に伝播し,徽州北部の Q14 (城安) ,Y8(柯村) ,Y6(宏譚)に基盤を築いたものと考えられる。 「排」と「拾」の関係には二つの可能性がある。一つの可能性は, 「排」[pa]は新しい 語形であり, 「拾」の連続的分布を分断し,ABA 分布となったというものである。この場 合は, 「排」[pa]は徽州で生まれたより新しい語形である。もう一つの可能性は,平行変 化によって, 「拾」は両側から徽州に入り, 「排」[pa]の分布地域を占めているというもの だ。この場合は,「拾」は「排」[pa]より新しい語形である。筆者は以下の①②③の考え に基づき,後者の可能性がより高いと考える。 ①「拾」は無縁形式であるが,文献にしばしば見られた書き言葉であるため,語源意識 が明確である。一方, 「排」[pa]に対する語源意識はなく,書ける方言話者が全くいない。 ②新安江と富資水,豊楽河の中上流地域のすべてに「排」[pa]が分布しているが,下流 地域はほとんど「拾」が分布している。下流の川幅は広く,語形伝播により有利であり, 新語形が出現しやすい。 ③「拾」は川に沿って分布する傾向がある。東部の練江,西部の閶江,南部の楽安江流 域はすべて「拾」の分布領域である。それらの川を通じて徽州に伝播した可能性が高い。 まとめると,徽州では「排」[pa] >「拾」>「捡」という変化が発生した。. 25.

(31) 4.2.2. [寝る]. 地図 12 “寝る”の語形 ここで言う“寝る”は前日の夜から翌日の朝までベッドで寝ることを指す。昼間にまど ろむことは含まない。 語形と分類 徽州で“寝る”を表す語形は二つある。 「睡」[tɕy]と「困」[khuaŋ]である。 「困」は「睏」 とも書く。 分布 1. 「睡」は現代標準語の語形であるが,徽州には少なく,歙県の S1(古関)を中心と した地域に集中して分布している。特に富資水と豊楽河流域沿いの地域ではすべて「睡」 と言う。 「睡」の分布地域の外縁に位置する地点では「睡」のほかに「困」とも言う地点 も少なくない。S5(八村) ,S16(北岸) ,S21(洪村口)などがある。 2. 「困」は分布地域が広く,S1(古関)を中心とした「睡」の分布地域を囲んでいる。 『漢語方言地図集・語彙巻』 (曹志耘 2008)によれば,富資水と豊楽河の北にも「困」が 分布している。そのため, 「困」は四方から徽州の「睡」を完全に包囲していると言える。 解釈 「睡」は S1(古関)を中心とした地域に分布している。 「睡」の分布地域のうち外縁に 位置する S5(八村) ,S21(洪村口) ,S16(北岸)などでは「困」も使う。二語形を併用 していることから,接触状態にあると見られる。そのほか,S22(漳潭),S23(定潭)で は, “寝る”は「睡」で表すのに対し,“昼間にまどろむ”という意味では「困」を使う。 これは「睡」が侵入し, 「困」と同義衝突(synonymic collision)を起こした結果,もと もと“寝る”を意味した「困」の語義が変化し, 「睡」との間で意味の分担が図られたの だろう。『漢語方言地図集・語彙巻』(曹志耘 2008)によれば,“寝る”を表わす語形は, 26.

(32) 長江以南の地域でほとんど「困」であり,徽州もそこに含まれるが,歙県の中心部では「睡」 を使うことが分かる。現在 S1(古関)を中心とする歙県の中心部ではほとんど「困」を 使わない。これは最近起きた変化だろう。 「睡」はなぜ徽州で使われるようになったのだろうか。その分布から飛び火伝播と考え られる。多くは,大きな中心地から小さな中心地へ,途中の集落を飛び越えて広がる。飛 び火が“点火”すれば,そこから周囲へやはり徐々に燃え広がるように広がるのである(柴 田武 1969p.28-29) 。 『漢語方言地図集・語彙巻』 (曹志耘 2008)によれば,長江以南の地 域のほとんどは「困」であるが,南京から寧国までは「睡」が分布している。「睡」は南 下の趨勢にあり,徽州に入ったのちは,績溪県を飛び越えて歙県に広がった可能性が高い。 徽州府庁所在地であった S1(古関)に定着した後に,周囲に徐々に燃え広がるように広 がったのではないか。 4.2.3. [見る]. 地図 13 “見る”の語形分布 語形と分類 徽州で“見る”を表す語形は三類型に分類できる。[tshan]系語形,「看」[khe],及び [xm]系語形である。 [tshan]系の音声形式については,[tshan]のほか,[tshən],[tshai],[tshau]など様々 な韻母がある。調類はすべて陰入である。そのため,同一語源に遡るものと考える。 「看」の音声形式については,[khe]のほか,[khum],[khom],[kh ɐ]などがある。 [xm]系語形は母音を欠き,子音だけで構成される音節である。また,[xm]系語形は持続 時間が短いため,聞こえにくいだけでなく,不安定で[xm]~[xn]のいずれにも発音される。 分布 27.

参照

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