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教師夏目金之助の研究(四)

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教師夏目金之助の研究(四)

一 教職観とその背景一

森 下 恭 光

緒  言

 夏目金之助の教師生活約14年間を観ると,表面上は平穏であり,彼の指導を受けた学生,

生徒の印象を概観すると,職務に精励する学識豊かな卓越した教師と見ていた者の多かっ たことが確認される。しかし,表面下の意識を探ると,それは表面上に観察されるものと は裏腹に相当に屈折したものがあり精神的には苦悶ともいえる状況が潜んでいたことがわ かる。それは,種々な場面で表白されているので,本論ではそれぞれの表白の場面をとり あげながら,そこに表明されている彼の教職観を明らかにしその教職観が特異なものであ ることに触れつ〉,その特異性が何から生じているものであるかを探求したい。

 作家漱石によって世に広く知られる彼ではあるが,その生活年数においては作家生活が 約10年間であるのに対し,教師生活は約14年間に及んだのであることを考量するならば,

夏目金之助という本名で活動した期間は数量的な意味では当然大きな意味を持つ。しかし,

本論ではそういう意味よりは精神的な意味で大きな意味を持つことをその教職観と背景を 明らかにすることを通して明白なものにして行くことを意図している。

 夏目金之助の教職観を明らかにする手続きにおいて,作家漱石と重なる期間については,

作家漱石の作品を考察の資料として用いることにした。すなわち,『吾輩は猫である』と『坊 っちゃん』の2篇がそれである。

 両篇はいずれも,彼が東京帝国大学文科大学講師,第一高等学校講師を勤めていた時期 に,いわば教師としての職務の傍で制作されたものである。そのことにより,作品中の教 師に関する部分は重要資料となる。

 夏目金之助の教師生活は,定職(常勤)としての在職期間(tSl)ということで計算するなら ば,明治26年10月に東京高等師範学校講師に就任した時に始まり,熊本の第五高等学校に 在任中の2年間(注2)ロンドン留学をした期間も入れると,朝日新聞社入社により東京帝国大 学文科大学,第一高等学校を辞職する明治40年4月まで約14年間に及んだ。

 彼の生涯は約50年であったが,学業を終えたのが26歳の時であり,教職を辞したのが40 歳の時であったことを考えると,世に作家夏目漱石として知られる生活年数は約10年であ ったということになる。つまり,教師夏目金之助として生活した年数約14年は,作家夏目 漱石として生活した年数約10年に比べると約4年長いわけである。

 この事実を考える時,教師夏目金之助が,その教師生活を送った期間における教職観と その背景を明らかにすることは意義あること〉いい得るであろう。

 そこで,まず,彼が初めて定職としての教職についた時点の前後における教職に関する

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意識がどのようなものであったのかを明らかにすることから始めたい。

 彼が定職としての教職についたのは,東京高等師範学校においてであった。この時,彼 は帝国大学で英文学を修めた若き学徒であった。彼が学んだ帝国大学は,明治19年3月2 日に公布された「帝国大学令」㈹の第1条により「国家ノ順要二応スル学術技芸ヲ教授シ及 其纏奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」(ti4)とその目的を定められた,わが国における高等教育 機関の頂点に位置する学校であった。明治26年7月に帝国大学を卒業すると,彼は文科大 学長外山正一の推薦で東京高等師範学校に英語講師として就職することになるのであるが,

その間の経緯を知るならば,東京高等師範学校への就職が必ずしも彼の本意に添うもので はなかったことが知られる。

 学習院の学生に対して行なった講演「私の個人主義」(注5)には東京高等師範学校への就職 の経緯と,それに伴なう彼自身の心情が率直に述べられている。

 それによれば,彼が帝国大学を卒業した時代での帝国大学卒業生の就職事情は「今(大 正4年一筆者注)と違って就職の途は大変楽で」(注6)あった。そのような状況下で,彼の就職 先として候補に上ったのは,学習院,高等学校(固有名詞は明らかでない一筆者注),東京 高等師範学校であった。つまり選択肢が3つあったわけである。しかし,諸事情により彼 の意志は十分に生かされないま〉に,東京高等師範に就職することになってしまう。この 経緯を彼は「厄介な事になってしまったと思はざるを得なかった」(tt7)と述懐している。就職 先の決定を喜ぶどころか,むしろ嫌う心理が働いたことを伺わせるこの述懐の背景にある のはいかなる事情か。それを探求することにより,この時点での彼の教職観の特性もまた 明らかにし得るであろう。

 まず,彼が就職することになる東京高等師範学校は,明治19年の「師範学校令」(注8)によ り,東京師範学校を改組したものであり,その卒業生は,尋常師範学校長および教員とな ることを原則とする,と定められている㈹。

 ところで,「師範学校令」は明治19年に森有礼文部大臣によって制定されたものであり,

その第1条に「師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス」(注1°)とその目的を規定し た後に「但生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備ヘシムルコトニ注目スヘキモノトス」(注11)と 付け加えられていることでも明らかなように,単に教員を養成する機関としての形式的規 定ではなく,教師に求められる資質をも規定するものである。

 国民教育を掲げ国家主義による教育行政を進めた森有礼文部大臣の教員養成思想が象徴 化されたものとしてこの「師範学校令」は見ることができる。

 森有礼の教育行政,とりわけ師範教育に関する制度の整備については,とくに,その近 代化と組織化について高い評価がなされる一方で,国家主義に基ずく教育行政には批判も 多い(注12)。中でも,嘉納治五郎の批判は,彼が東京高等師範学校長を明治26年より勤めた人 物であり,しかも,夏目金之助が就職する際に強い影響力を持つ立場にあったことを考量 すると,その意味は重いと言わざるを得ない。明治26年第五・第一高等中学校教授となっ た彼は,同年文部省参事官として,東京高等師範学校長を兼務する。彼はこの後,明治31 年には,「造士会」を結成して視野の広い人材の育成をはかり,また,大正11年には,講道 館文化会を創設し「精力の善用」,「自他共存」をモットーとして国際社会との共栄を主張 した人物である(注13)。そういう彼が表明する森の師範教育に対する反発は,単なる批判の域 を越え怒りを含んだ指弾とも印象される。

 「森が順良・信愛・威重の三綱領を標榜したということは,これによって教育が機械にな

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ることを示している。仏帽という兵隊帽をかぶせ,生徒を兵隊にしているのであるが,兵 隊の場合には頭はなくとも一命のもとに多勢を動かす為めに専制的にやらねばならぬ。し かるにこれを教育の中にとり入れることはとんでもない間違である。」(注14)師範学校の頂点

に位置する東京高等師範学校の校長という立場は,師範学校令によって制度化された教員 養成のあり方を実行する責任者であることを意味するから,その制度を制定した森に強い 反感を抱くのは当然である。その嘉納治五郎に,東京高等師範学校への就職に際して接触

した夏目金之助は,その席での自身の対応を次のように述懐する。「嘉納さんに始めて会っ た時も,そうあなたの様に教育者として学生の模範になれというような注文だと,私には とても勤まりかねる」(注15)と言い,就職をためらったというのである。これに対して,嘉納 校長は,「そう正直に断わられると,私は益貴方に来て頂きたくなった」(注16)と言って夏目金 之助を離さなかったという。こうして,止むなく就職が決定した東京高等師範学校におい て彼が担当した英語は,勅令第13号師範学校令第12条に基く「高等師範学校ノ学科及其程 度」(tS 17)によると,理化学科,博物学科,文学科の3学科において,各学科固有の科目と共 通の科目の2種類がある中で,共通の科目として,第1学年から第3学年に至る3年間に わたり必修の科目として定められている科目であった。

 週単位での授業時数では,第1学年6時間,第2学年5時間,第3学年3時間と定めら

れている(注18)。

 3年間,帝国大学で英文学を修めた夏目金之助にとって,高等師範学校で共通科目とし ての英語を教授すること自体は決して負担を感じる程度のものではなかった。このことは,

彼自身「幸に語学の方は怪しいにせよ,何うか斯うか御茶を濁して行かれるから,其日々々 はまあ無事に済んでいました」(注19)と述懐していることでも明らかである。

 ここまで論じたことで明らかになったことは,教員養成を目的として設立された師範学 校から発展し,教員養成機関としてはわが国最高の教育機関である東京高等師範学校に帝 国大学を卒業して就職することになった夏目金之助は,その事を決して喜んでいないとい

うことである。

 就職の必要性は当然のこと5して認めながら,それでも,東京高等師範への就職を喜ば なかった理由は何か。それも,ここまでの論述の中に暗示されている。

 理由の第1は,彼が帝国大学で専攻したのは英文学であって,英語教育ではなかったと いうことである。いわば,研究の対象として学んだ英文学が,教育の対象として英語教育 に変換されてしまった形である。英文学研究が自己目的としてとらえられるのではなく,

教育のための手段と化してしまったことになるわけで,これは,3年間もその研究に没頭 して来た学徒夏目金之助にとっては喜ぶわけにはいかない事態であったに違いない。

 理由の第2は,師範学校という学校に与えられた目的と,そこから派生したイメージが 夏目金之助にとって好ましいものではなかったということである。

 師範学校という名称は,「学制(第39章)」において用いられ,この規定によって,「職業 人としての教員の養成」(注2°磯関としての性格づけが決定した。さらに,明治19年の「師範 学校令」により,教員養成機関として制度上の位置づけが確定しただけでなく,その制定

を主導した森有礼文部大臣の国家主義思想の反映により,教員のもつべき徳性まで規定さ れたのである。すなわち,「順良・信愛・威重」の3気質がそれである。

 夏目金之助が就職することになる明治26年は,この制度による師範教育が行なわれるよ うになってから,7年を経ており,ある意味では軌道に乗って運営されている時であった。

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 当時の高等師範学校長であった嘉納治五郎は,先にも述べたように,森の師範学校理念 には批判的であったが,その彼さえ「教育者として学生の模範になれ」(注21}という趣旨の話 を面接の時点でしており,夏目の反発を買っているのである。森の言う「順良・信愛・威 重」の3気質と同義ではないにしても,嘉納も又「学生の模範」という語に言い換えて,

「師範の師範」たるべき師範学校の教師のあるべき姿を期待しているわけである。

 ところで,嘉納の立場からすれば,その発言内容は当然言うべきことであったに違いな い。したがって,このばあい嘉納はその発言によって責められるべきではない。問題はむ

しろ夏目の側にあると考えるべきである。

 では,なぜ夏目は嘉納の「学生の模範」たれとの発言に反発したのか。それは恐らく,

「学生の模範」という言葉を人格的意味での「模範」と解釈したことに由来するであろう。

担当科目である英語の教師として学生の模範であれ,という限定的意味で用いられたので あれば,「語学の方は怪しいにせよ,何うか斯うか御茶を濁して行かれる」(注22)と考えていた 夏目であって見れば,反発する理由はないはずである。

 しかし,人格的意味を付与した「学生の模範」ということになると,英文学を専攻した ことによって培われた人間理解とそれによって生まれる人間批判,人間としての自己批判 を徹底し,常人を越える自己課題を課する夏目にして見れば,到底その課題は果し得ない。

自己への課題を果し得ない自分が,どうして他人に課題を課する「模範者」になり得るの か。間断なく,このような精神生活を資質的な理由からも送っていたと言える夏目に対し て「学生の模範」という嘉納の言葉は,英語教師としての学生の模範であればよいとは到 底受け取れるものではなかったはずである。

 人格的意味を込めた「学生の模範」という課題を安易に押しつける職業,それが教職と いう職業であると彼は考え,その結果として反発し,そういう経緯で就職した東京高等師 範学校であったが故に喜べなかったということであろう。

 「私の個人主義」の中で,「今考えると勿体ない話ですが」(注23)とことわってはいるも の〉,「私は高等師範などを夫程有難く思っていなかったのです」(注24)と述べていることを 考えると,もともと東京高等師範学校という教員養成の学校については魅力を感じていな かったであろうことが伺われる。

 以上によって,夏目金之助にとって定職としては最初の職業であった教職が東京高等師 範学校講師で始まったという理由もあって,自己の職業としてふさわしいものであるとは 考えられていなかったことが明らかになった。

 しかし,そのようにして就いた教職に,朝日新聞社入社のため退職する明治40年までと どまることになるのであるから,彼にとって,教職は重苦しい負荷であった。

 夏目金之助がペンネームとして「漱石」(注25)を用いて創作活動を始めたのは,彼がロンド ン留学を終えて帰国し,友人狩野亨吉の尽力により東京帝国大学文科大学講師,第一高等 学校講師(以上は明治36年4月より),明治大学講師(明治37年4月より)として教鞭を執

った時期と平行している。つまり,一方で教師生活を送りながら,他方で作家生活を送り 始めたということになる。

 作家生活に入るきっかけを与えたのは高浜虚子である(注26)。彼は正岡子規との関係で漱

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石を知るようになってからは,とくに俳句を通して漱石と近い関係になった。その彼が見 るところでは,「明治37年の9月頃までは其教師としての職責を真面目に尽すという以外余

り文筆には親しまなかった」(注27)漱石であるが,同年12月に開かれる「山会」と称する文章 会に作品を出してみてはどうかと勧誘すると,それに応えて,数十枚に及ぶ原稿を書きあ

げた(注28)。それが『吾輩は猫である』であった。

 この『吾輩は猫である』は明治38年1月発行の『ホトトギス』の巻頭に載せられ,この 作により,漱石の名は文壇に知られるようになったのである。以後,『吾輩は猫である』

は,第2から第11まで合計11篇『ホトトギス』誌上に発表され完結したのは明治39年8月 であった。

 この間,漱石は,明治38年9月17日付けの次のような文面の書簡を高浜虚子に宛て〉送 っている。「元来学校三軒懸持ちの,多数の来客接待の,自由に修学の,文学的述作の,と 色々やるのはちと無理の至かとも考候。小生生涯のうちに自分で満足の出来る作品が二三 篇でも出来ればあとはどうでもよいと言う寡慾な男に候処,それをやるには牛肉も食わな ければならず玉子も飲まなければならずと云う始末からして,遂に心にもなき商売に本性 を忘れるという顛末に立ち至り候。何とも残念の至に候。(とは滑稽ですかね)とにかくや めたきは教師やりたきは創作。創作さえ出来れば夫丈で天に対しても人に対しても義理は 立つと存候。自己に対しては無論の事に候。」(注29)ここに記されていることでも明らかなよ

うに,教職にある夏目金之助と作家生活を送る夏目漱石は同一人物でありながらあたかも 別人格の如くに存在し,しかも自己の存在意義はむしろ作家夏目漱石において強く感じら れていたのである。

 このような状況の下で執筆された『吾輩は猫である』は,その主人公「猫」の眼を通し て観察し,批評される中学校の英語教師「苦沙弥」とその周辺の人間達を描いた特異な文 学である。

 そこで,以下において猫の眼を通して観察,批評される中学教師の姿による漱石の教師 観,および教職観について考察する。

 中学校教師「苦沙弥」の飼い猫「吾輩」は主人を観察して次のようにいう。「吾輩は猫な        らくがら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となる

に限る。」(E3°)「猫」がこう考えるのは,主人が書斎に這入って研究に没頭していると見られ ていながら,実際は,胃弱にかかわらず大食するため時々昼寝をし,本に挺をたらす様子        それを見ているからである。つづけて「猫」はいう。「夫でも主人に云わせると教師程っらいも

のはないそうで彼は友達が来る度に何とか〉んとか不平を鳴らして居る。」(注31)このばあい,

「猫」は作者漱石自身でもあるから,作家漱石が教師夏目金之助を批評した形になる。

 また,次のようにも観察する。「要するに主人も寒月(水島寒月で寺田寅彦がモデルとさ

       たいへい  いつみん         へちま

れる一筆者注)も迷亭(漱石の分身と見られる一筆者注)も太平の逸民で,彼等は糸瓜の

       すま       しやば け     よくけ

如く風に吹かれて超然と澄し切って居る様なもの〉,其実は矢張り娑婆気もあり欲気もあ る。競争の念,勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて,一歩

       ぞくこつども

進めば彼等が平常罵倒して居る俗骨共と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至り

である。」(注32)

 この箇所でも作家漱石は教師金之助を批判している。しかも,前の箇所では「苦沙弥」

が書斎で研究に没頭していると見られていながら,昼寝をして誕をたらすところもあるの を批判するという外面的,表面的な批評に止まっているのに対し,この箇所では,表面と

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は裏腹の「苦沙弥」の内面,裏面に潜む俗物性や偽善性を指摘していることは注目される。

 次にあげるのは,彼自身が大学教員である時点で執筆したものであることで注目される 箇所である。

 「元来こ〉の主人は博士とか大学教授とかいうと非常に恐縮する男であるが,妙な事には 実業家に対する尊敬の度は極めて低い。実業家よりも中学校の先生の方がえらいと信じて

居る。」㈱3)

 この箇所は『吾輩は猫である・第3』にあたる。発表されたのは明治38年4月である。

この時点での漱石は,文中にあるような博士でも大学教授でもない。したがって,現実に は東京帝国大学文科大学講師である夏目金之助が博士や大学教授という肩書に憧憬の念を 懐いていなかったと断言できない以上は,「苦沙弥」の思いは,漱石の思いではなかったと 断定することはできない。

 しかし,先に引用した高浜虚子宛の明治38年9月17日付の書簡に「とにかくやめたきは 教師やりたきは創作」とあることでも明らかなように,意識の上では,作家漱石は教師夏

目金之助を明治38年の9月時点では越えている。このことは,急に発生したこととは思わ れないので,「猫」の「苦沙弥」批判は,ここでもやはり作家漱石の教師夏目金之助批判で

あると考えるのが妥当であろう。

 そう仮定すると,漱石が博士とか大学教授を憧憬しなかったと推測することはできる。

 ただ「苦沙弥」が実業家を尊敬しないことを指摘していることについては,先の例とは 異なり,作家漱石も教師夏目金之助も意識の離反はない。権力者・実業家に対する反発は,

生理的ともいい得るものがあるからである。

 次にあげるのは明治39年1月,『ホトトギス』誌上に発表された『吾輩は猫である・第7・

第8』にある内容である。

 「教師は鎖で繋がれて居らない代りに月給で縛られて居る。いくらからかったって大丈 夫,辞職して生徒をぶんなぐる事はない。辞職をする勇気のある様なものなら最初から教

 など       お も

師杯をして生徒の御守りは勤めない筈である。」(t「3 )

 この箇所は,「苦沙弥」の屋敷に隣接する私立中学「落雲館」の生徒が無断で屋敷内に侵 入し騒ぐのに閉口した「苦沙弥」が生徒の一人を捕えて厳重に注意するが効果がないので 校長宛に生徒の取締りを哀願する文書を送るが返書を得たもの〉,依然として効果のない ことに怒りをおぼえる件の後に出てくる。要するに「苦沙弥」は落雲館生徒のからかいの 対象とされているわけで,からかいである以上相手が興奮すればする程,その目的の達成 度は高いわけである。文中に「教師は鎖で繋がれて居らない代りに」とあるのはこの前に,

鎖に繋がれた「奥山の猿」の話がいくらからかわれても対抗することが出来なくて,ただ 騒ぐだけという例え話として使われていることを受けている。

 「苦沙弥」はいくらからかわれても対抗することのできない「奥山の猿」と同じ境遇であ ると言っているわけである。しかし「苦沙弥」を拘束しているのは「給料」である。した がって,鎖に繋がれている猿と違い,給料さえ捨てる気になれば解放される。「奥山の猿」

を繋いでいる鎖は物理的な拘束であるから,物理的力を加えて破壊することができる。

 ところが,給料は物理的拘束ではないので,物理的力によっては破壊されない。いわば,

社会的,経済的拘束力とでもいうべきものであるから,それから解放されるためには給料 を捨てる力としての社会的・経済的力を所有することが必要である。教師にはそれがない ので,結果的には鎖に繋がれてからかわれる「奥山の猿」と何ら変わるところがないとい

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うことになるのである。

 「猫」の眼に,「奥山の猿」と異なるところのない「苦沙弥」という教師は,そのま〉教 師夏目金之助の境遇であったといえるであろう。教師を職業とするということは,教育す ることによって給料(報酬)を得ることである。もし,給料を捨てるならば,教師という 職業に就いている意味がない。つまり職業を失なうわけである。職業を失なうということ は生活の糧を失なうということであるから,生活不能になる。そういう結果を考えると,

教師夏目金之助は「苦沙弥」と異なり高等学校,帝国大学の教師であるといっても,この 間の事情は全く異ならず,生活できなくなる自分であることを認めざるを得なかった。

 そういう意味において「苦沙弥」の惨めな境遇は,程度こそ違え当時の教師夏目金之助 の苦悩でもあったわけである。

 『吾輩は猫である・第10』が発表された明治39年4月発行の『ホトトギス』に『坊っちゃ ん』(tS35)も発表された。同時に発表されたということは,その制作背景は同じであるという ことであるから,作者夏目金之助は,東京帝国大学文科大学講師,第一高等学校講師,明 治大学講師を勤めている時期であった。

 『吾輩は猫である』に登場する「苦沙弥」は中学校の英語教師としての設定であったが,

『坊っちゃん』に登場する「坊っちゃん」も中学校の教師であった。ただし,担当教科は 数学であった。職業を教師とする人物を主要登場人物として描写する2つの小説は,作者 漱石の教職観と同時に同時代の社会が抱く教職観を直接あるいは間接に示しているので,

『吾輩は猫である』の次に『坊っちゃん』に見られる教職観を探ることにする。

 よく知られるように,『坊っちゃん』は愛媛県の松山の中学校教師「坊っちゃん」を主人 公とする小説ということになっている。

 それは彼が明治28年に東京高等師範学校を辞し,愛媛県尋常中学校(注36)教諭として赴任 し,明治29年4月に同校を辞職するまで中学校教師を勤めたという経歴があるからである。

もっとも,担当教科は「坊っちゃん」が数学であったのに対して,夏目金之助は英語であ

った。

 「坊っちゃん』によれば,就職の経緯はこうである。「四国辺のある中学校で数学の教師 が入る。月給は40円だが,行ってはどうだと云う相談である。おれは3年間学問はしたが 実を云うと教師になる気も,田舎へ行く考えも何もなかった。尤も教師以外に何をしよう

と云うあてもなかったから,此相談を受けた時,行きましょうと即座に返事をした。」(注37)

 ここにある「実を云うと教師になる気も,田舎へ行く考えも何もなかった」という「坊 っちゃん」の就職に際する心境や意識は,この後の『坊っちゃん』の展開を暗示するもの になっている。つまり,教職に執着しない教師として登場するということである。

 初出勤の日に校長が「坊っちゃん」に対して行なった訓話に対する彼の反応は次のよう        いであった。「生徒の模範になれの,一校の師表と仰がれなくては行かんの,学問以外に個人 の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの,と無暗に法外な注文をする。そんなえらい

        はるばる

人が月給40円で遙々こんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ。」(注38)この箇所を読 むと,夏目金之助が東京高等師範学校に就職する際に校長の嘉納治五郎から受けた訓話に 対して彼が示した反応と同質のものであることがわかる。

 さて,教師生活を始めた「坊っちゃん」は彼自身が教育に不慣れであること〉,初めて の地方都市生活から発生する異和感とに悩まされる。とくに宿直日に生じた「バッタ事 件」(注39)は彼を激昂させる。この事件による生徒の処分について催された会議で,処分を穏

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便にと考える側と,厳罰にと主張する側に分かれ議論が交わされる。大勢は校長,教頭も 支持する穏便派であるが,これに対して,数学主任の「堀田」は厳罰を主張する。その論

旨はこうである。

       ぽか

 「教育の精神は単に学問を授ける許りではない,高尚な,正直な,武士的な元気を鼓吹す       けいそうると同時に,野卑な,軽躁な,暴慢な悪風を掃蕩するにあそと思います。もし反動が恐し       へいふつ

      こそくいの,騒動が大きくなるのと姑息な事を云った日には此弊風はいつ矯正出来るか匁誓ませ ん。か〉る弊風を杜絶する為めにこそ吾々は此学校に職を奉じて居るので,之を見逃がす 位なら始めから教師にならん方がい〉と思います。」餌゜)として,「寄宿生一同を厳罰に処す        おおやる上に,当該教師の面前に於て公けに謝罪の意を表せしむる」(注41拠置を求める。

 この事件の結末は,結局「堀田」の主張が通った形で,寄宿生は1週間の禁足をした上 で,被害者「坊っちゃん」の前で謝罪することで決着した。もし謝罪がなければ辞職して 東京へ帰る気でいた彼は,学校に留まる。

 「バッタ事件」に見られる「坊っちゃん」という教師の対応は,『吾輩は猫である』に「奥 山の猿」と同じ境遇と見倣された教師と異なり,給料という鎖に縛られていない。つまり,

「バッタ事件」にかかわった生徒の処罰が納得できないものであったなら決然として学校 を去るつもりでいたからである。驚くべきことに,こういう決意を固めたのは赴任して20 日も経っていない時点でのことであった。もともと教師になることが目的ではなかったと しても,それは余りにも短時日の間に行なわれた決断である。

 この不自然な程の短絡的な決断は,この事件で終わるはずもなく,「坊っちゃん」は「マ ドンナ事件」(注42)に見られる教頭の不実に対する正義感と堀田に対する友情から教頭の「赤 シャツ」制裁に加わり,生卵子を投げつけるという暴行を加え,それによって辞職するこ とになる堀田と共に中学を去り,東京へ帰る。帰京後の彼は,教職とは全く異種の職業を

選び街鉄(注43)の技手となる。

結  言

 本論によって明らかにし得たと考えられるのは以下のことである。

 まず,夏目金之助の教職観を決定する大きな要因になったこと〉して,彼が定職として の教職に就いた最初の職場が東京高等師範学校であったということがある。理由は,師範 学校令によって制度化された師範教育が,その制度の制定者である森有礼文部大臣の思想 により国家主義によるものであり,とりわけ全寮制の中で行なわれた軍隊式の教育が教員 養成そのもの〉性格を規定することになり,そのことが,英文学専攻により人間理解に根

ざす批判精神を培ってきた彼にはなじめないものであったということである。

 次に,教職そのものの特性と彼の心性の特性との違和感とでもいうべきものが彼の消極 的教職観の要因になっているということがある。英文学を専攻した彼の志向は文学研究に よる人間研究と人間理解ということにあった。

 ところが学校教育にたずさわる教師ということになると,帝国大学においてさえ,教育 の要素は排除できない。研究に没頭したい彼にはこれが負担であった。つまり,教師とし て生きることが,人間の研究者として生きることを志向する彼にとっては自己目的となら ならなかったということである。

 さらに,彼には世のためになりたいという素朴な使命感(醐があり,それは自己の本

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分(注45)を発揮することによって最も効果的に行なわれると考えていた。そういう彼にとっ て,自己の本分とは何かを明確にとらえることが先決問題であったが,その自己の本分は 何かを模索する時期と教職にある時期が重なっており,しかも,教職は自己の本分を発揮 する職業ではないという予感があったため,その教職観は消極的なものにならざるを得な かった。

 以上の三点が本論文によって明らかにし得たことであると考える。

  (注)

1.アルバイトとして教師を勤めたのは,明治19年,本所の江東義塾が最初である。荒正人,夏目   漱石,五月書房,昭和32年,13ページ。

2.ロンドン留学の経緯については,小宮豊隆,夏目漱石,岩波書店,昭和24年に詳述されてい   る。留学期間は,明治33年9月より明治36年1月までの約2年間である。

3.明治19年3月2日,勅令第3号。文部省,学制百年史,ぎょうせい,昭和51年,152ページ。

4.同前書,152ページ。

5.学習院輔仁会の依頼により,大正3年11月に行ない,大正4年3月,『輔仁会雑誌』に掲載さ   れた。

6.夏目漱石,私の個人主義,漱石全集第21巻所収,岩波書店,1979年,135ページ。

7.同前書,135ページ。

8.明治19年4月10日,勅令第13号。文部省,学制百年史,ぎょうせい,昭和51年,174ページ。

9.師範学校令第10条に定められている。同前書,174ページ。

10.同前書,174ページ。

11.同前書,174ページ。

12.森有礼批判者として,野口援太郎,藤原喜代蔵,嘉納治五郎が主なものとしてあげられてい   る。唐沢富太郎,教師の歴史,創文社,昭和30年,51〜53ページ。

13.山田昇,嘉納治五郎,学校の歴史第5巻教員養成の歴史所収,第一法規,昭和54年,101ペー   ジ。

14.唐沢富太郎,前掲書,51ページ。

15.夏目漱石,私の個人主義,前掲書,135ページ。

16.同前書,135ページ。

17.明治19年10月14日,文部省令第17号。文部省,学制百年史,前掲書,176ページ。

18.同前書,177ページ。

19.夏目漱石,私の個人主義,前掲書,138ページ。

20.篠田弘,師範学校の創設,学校の歴史,第5巻教員養成の歴史所収,第一法規,昭和54年,3   ページ。

21.夏目漱石,私の個人主義,前掲書,135ページ。

22.同前書,138ページ。

23.同前書,135ページ。

24.同前書,135ページ。

25.子規の『七艸集』評に「漱石」の署名を用いたのが最初である。

26.高浜虚子,漱石氏と私,アルス,大正7年,85ページに「私は或時文章も作ってみてはどうか   ということを勧めてみた」とある。

27.高浜虚子,同前書,79ページ。

28.高浜虚子,同前書,85ページ。

29.夏目漱石,高浜虚子宛明治38年9月17日,漱石全集第27巻所収,岩波書店,1980年,263ペー

(10)

  ジ。

30.夏目漱石,吾輩は猫である上,漱石全集第1巻所収,岩波書店,1978年,7ページ。

31.同前書,7〜8ページ。

32.同前書,68ページ。

33.同前書,89ページ。

34.夏目漱石,吾輩は猫である下,漱石全集第2巻所収,岩波書店,1978年,45ページ。

35.『坊っちゃん』は,明治39年3月17日前後から3月23日前後にかけて,約1週間で書きあげら   れたと小宮豊隆は推測する。漱石全集第3巻,岩波書店,1979年,327ページ。

36.愛媛県立松山東高等学校の前身。

37.愛媛県尋常中学校への就職を仲介したのは菅虎雄であり,菅は愛媛県の書記官をしていた浅田   知定から人選を頼まれていたものである。月給は,「坊っちゃん」が40円であったのに対し,

  80円で同中学校で最高額であった。荒正人,夏目漱石,五月書房,昭和32年,26ページ。

38.夏目激石,坊っちゃん,漱石全集第3巻所収,岩波書店,1979年,218ページ。

39.坊っちゃんが赴任して3週間足らずの時に宿直したところ,生徒によって,床の中にバッタ(実   はイナゴ)を入れられるといういたずらをされる事件。

40.夏目漱石,坊っちゃん,前掲書,261ページ。

41.同前書,261ページ。

42.「坊っちゃん」が「うらなり」と呼ぶ教師古賀の許婚者遠山のお嬢さん(マドンナと呼ばれる)

  を教頭の「赤シャツ」が謀略により奪おうとする事件。

43.東京市街鉄道株式会社の略称。漱石全集第1巻,前掲書,242ページ。

44.猪野謙二はこれを「士大夫意識」と呼んでいる。勝本清一郎はこれを「さむらい精神」,「山の   手気質」と呼ぶ。柳田泉他編,座談会明治文学史,岩波書店,昭和39年,421〜437ページ。

45.宮井一郎によれば,人間がそれぞれの内部に包蔵する「自然」に従って生きるということにな   る。宮井一郎,漱石の人間観,国文学解釈と鑑賞,漱石と明治,至文堂,昭和43年,47ペー   ジ。

※ 引用文中の旧漢字と旧仮名は,すべて新漢字,新仮名に書き改めたことをことわっておき

 たい。

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