はじめに
・財政基盤を創出する諸改革において、いわば扇の要に位置する土地・租税制度の改革である。それは、
往の研究では、「地租改正法」の立法目的と関わり、後述するように、官側の地価査定において、当初、①小作地準拠の検査例
地租改正の歴史的意義
奥 田 晴 樹
(七五)
一 地租改正の歴史的な背景と前提
(一) 地租改正の歴史的背景
地租改正を起動させた諸々の歴史的背景の基底には、後述するように、近世国家にとって経済・財政のみならず軍事的な基盤をも
なしていた「石高制」の機能不全があろう。天保期には、既成の「石高」の数値では土地の経済的な価値を十全に掌握しきれなくな
り、その数値の修正も実施が困難な事態に陥っていることが明らかとなっていた。
明治新政府も、慶応四年(一八六八)閏四月一九日付で制定した「陸軍軍制」で、諸藩に対し、その石高に応じて、軍役と軍資金
を賦課する措置をとっていたが (1)、軍役の方は明治二年(一八六九)三月一七日付で「兵制御変革」を理由にした「一時帰休」の形を とって実質的に撤回している (2)。また、廃藩置県後の四年(一八七一)一一月二七日付で制定された「県治官員並常備金規則」では府 県の官員と常備金をそれぞれ管轄石高に準拠させることにしていたが (3)、増大する一方の府県の経費を同規則で規律することはできな
かった。そこで、「地租改正法」公布後の六年(一八七三)一〇月二〇日付で制定された「官員及常備金割賦規則」でそれを管轄区
域の反別と人口に準拠するように改正した (4)。しかし、同規則は、実施される間もなく、同月三〇日付で撤回され (5)、人件費を含む府県 経費の法的規律は改租を前提とした地方税制の整備を俟つこととなった (6)。これを要するに、石高制は、新政府の国家権力にとって基
軸をなす、軍事力の編制原理にも、地方統治機構の構成原理にも、なり得なかったのである。
地租改正を起動させた直截的な背景は、丹羽邦男が遺著で究明した悪贋貨問題に淵源するところのものであろう (7)。貿易決済に戊辰
戦争中に濫発された悪贋貨が用いられ、イギリス公使H・パークスらの厳しい督責の下で、通貨・金融制度改革の着手を余儀なくせ
しめられた新政府は、大蔵省や民部省を創設し、そこに旧幕府の勘定所役人などを登用して実務を担当させ、これにあたることとな
る。主に旧幕臣や旧譜代諸藩士からなる、これらの財政・民政官僚たちは、同じく新政府に登用された旧幕府系の洋学者たちをシン
ク・タンクとして、身分制の解消を基軸とする一連の改革を企て、新政府における開明官僚の一翼を形成していく。地租改正は、そ
うした諸改革の中で、事業の規模や影響の大きさなどにおいて、群を抜く位置を占めている。 (七六)
(二) 地租改正の歴史的前提
近世では一般に、同一の土地を、領主が「領知」すると同時に、領民が「所持」し、その土地の経済的な価値は米の「石高」で数
量表示されていた。領民が負担する貢租である年貢諸役も、「所持」する「石高」を基準として賦課された。このように、同一の土
地について、「領知」と「所持」という二つの権能を重畳・対偶させている、近世の土地制度を「石高制」という。そして、貢租は、
兵農分離され自立した小農民を基幹とする、村落が貢租の納付に責任を負う、「村請制」に依拠して徴収されていた (8)。
地租改正は、端的に言えば、そのうちの「所持」を近代的な土地私有権へと移行させた土地制度改革だった。近代的な私有権は、
土地であれ何であれ、排他的な唯一絶対の所有権であるから (9)、それが成立するためには、同一の地所において法的に対抗し得る権能 の存在は排除されなければならない )(1
(。この場合、排除されるのは「領知」である。
僅か三万石余の禁裏御料を唯一の固有財源として出発した )((
(、明治新政府は、「王政復古」政変で成立した当初から、全国土は本来、
天皇が領有するものである、とする「王土」論の立場をとり、旧幕府領の「返上」を徳川慶喜に要求する )(1
(。それをめぐる両者の対立
を背景に、慶応四年一月三~四日の鳥羽・伏見の戦へと至る。これに勝利した新政府は、同月七日付の慶喜追討令で、朝廷に帰順し
ない諸藩や旧旗本の追討 )(1
(、ついで同月一〇日付で農商宛の慶喜追討令で、「是迄徳川支配イタシ候地所ヲ天領ト称シ居候ハ言語同 (ママ)断 之儀ニ候、此度往古ノ如ク総テ 天朝ノ御料ニ復シ真ノ 天領ニ相成候間、左様相心得ヘク候」 )(1
(と、旧幕府領の全面的な朝廷直轄化
を宣言し、戊辰戦争の過程でそれを実行していく。
諸藩については、その全てを帰服させた後、諸侯に列した諸藩主の大方に版籍奉還を建白させ、明治二年六月一七日にそれを聴許
した )(1
(。諸侯の建白を促迫したのは、同年一月二三日、新政府首脳の筋書きでなされた長州・薩摩・肥前・土佐四藩主の上表だが、そ
こでは、「天祖肇テ国ヲ開キ基ヲ建玉ヒシヨリ 皇統一系万世無窮普天率土其有ニ非サルハナク其臣ニ非サルハナシ」と「王土」論 の大前提が説かれ、それが「中葉以降」に侵犯・解体されてきた歴史を回顧し、「抑臣等居ル所ハ即チ 天子ノ土、臣等牧スル所ハ 即チ 天子ノ民ナリ、安ンソ私ニ有スヘケンヤ」と現状を反省して、一旦、「版籍」を朝廷に収め、しかる後、あらためて「封土」 を定め下されんことを願い出たものである )(1
(。しかし、聴許後、それまでの諸侯の「領分」は、その「封土」ではなく、直轄府県と並
ぶ、新政府の地方統治機関である藩の「管轄地」となり、諸侯も法定された家禄を給与される地方官である知藩事とされた )(1
(。
旧旗本のうち、戊辰戦争の中で、「朝敵」とされた者や脱走・屯集した者、徳川亀之助が就封した駿府へ随従した者、新政府によ
(七七)
る直接「扶助」を願い出て許された者たちは、その知行所をすべて「上地」された )(1
(。そのうち、直接「扶助」組は、蔵米取の旧幕臣
で同様の措置の対象となった者と併せ、大幅に削減されて新政府から給禄された。一方、開戦後、早期に京都に伺候して朝廷に帰順
した旧旗本の知行所は、直轄府県がその「地方支配」を管掌することとなったが、それ自体の「上地」は免れて「本領安堵」された
上、実質的に「地方支配」を継続していた向きもあった )(1
(。しかし、これも版籍奉還聴許後、同年一二月二日付で上地され、直接「扶助」
組も含め、彼らを対象として定められた前出の禄制よりもさらに苛酷な禄制があらためて定められ、家禄の給付に切り換えられた )11
(。
さらに、江戸―東京には諸藩と旧幕臣の「拝領屋敷」という、江戸市中の「領知」とも見られるものがあったが、これについては
後述する。
この他に残された「領地」としては寺社領があった。寺社領は、朱印地が二九万四四九一石六斗七升、黒印地と除地が合わせて
三〇万三一三三石余あったという )1(
(。新政府は、慶応四年五月二四日付で、「以来万石以下之領地并寺社領共其国々最寄之府県ニテ支
配可致事」と布達して、「本領安堵」された旧旗本領とともに、寺社領を最寄りの直轄府県に「地方支配」させている )11
(。その後、明
治四年一月四日付の太政官布告 )11
(で、社寺領 )11
(は、境内地を除き、全面的に「上知」(布告文言のママ)され、それぞれ従来それらの「地
方支配」を管掌していた直轄府県および諸藩の管轄高へ編入されたものと見られる )11
(。
かくして、近世の「領知」は、四年七月一四日に断行される廃藩置県に先行する時期に、すべて天皇の領有に帰したのである )11
(。も
っとも、こうした「王土」論による「領知」の(新政府の論理では)「回収」がその解消に直結している、との共通了解が政府首脳
部においてかならずしもなされていなかったことには留意しておく必要があろう。さなくんば、後年の皇室財産創設問題に発端する
地租改正見直し論議 )11
(の生起は理解し得まい。
こうして接収された幕府領・旗本領・社寺領・廃藩管轄地などからなる政府直轄地は、諸藩預所を除き、廃藩置県までに、三府
四一県の直轄府県へと編成された )11
(。そして、廃藩置県を断行して、新政府は全国の貢租徴収権を完全に掌握したのである。しかし、
それ以前に成立していた直轄府県をも含め、貢租の賦課内容や徴収方法は、新政府が「旧慣」と称する、近世以来の個々の領主―領
民関係の多様性に制約されており、それらの統一は容易ではなかった )11
(。
それは、新政府もまた、貢租の賦課・徴収を村請制に依拠せざるを得なかったからである。もっとも、近世後期には、離農や離村
などの形をとって、村請制の前提をなす村落秩序の規範も弛緩しつつあり )11
(、脱籍浮浪の対策は新政府初期の重大な政策課題の一つと (七八)
なっている )1(
(。また、すでに天保期には、同一「石高」の土地を交換させる領知替 )11
(や、「石高」を引き上げる検地の実施 )11
(が、関係する
領主や領民の反対で困難となっていた。これは、土地の「石高」だけでは、当該する地域社会で生み出される経済的な価値の実態を
十全に掌握し得なくなっていることを露呈したものだと言えよう )11
(。
かくして、石高制と村請制に代替する土地・租税制度の模索が、近世国家の政治的解体と雁行して始まり、地租改正が起動するの
である )11
(。
(三) 地租改正と秩禄処分および地主制の成立との連関
「領知」の「回収」後もしばらくの間、その残滓とも言うべき「家禄」が存置された。政府は、この家禄を被給者の家産とは認めず、
地租改正事業と併行して、その処分を進めていった。六年一二月、家禄税・官禄税を設けるとともに、禄高百石未満の者を対象とし
た秩禄奉還の法を定め、七年(一八七四)一一月にはそれを禄高百石以上の者にも拡大する。さらに八年(一八七五)九月、家禄や
維新の功臣に与えられた賞典禄を全面的に金給化し、ついで九年(一八七六)八月五日付で、「金禄公債証書発行条例」を制定して家禄・
賞典禄を全廃し、秩禄処分を敢行したのである )11
(。
家禄とその処分に着目すれば、「領知」として定在した、わが領主的土地所有の解消は、フランス革命における体制的な無償廃棄とも、
プロシアや一〇革命前のロシアにおける個別的な有償廃棄とも異なる )11
(、体制的な有償廃棄と言うべきものであろう )11
(。これを耕作農民
による土地獲得の面に即して見ると、プロシアとロシアでは領主から農民保有地などを個別的に買収する際に相当額の対価が必要で
あり、フランスでも領主から無償で没収され国有化された土地を競売で取得する際の落札対価が、低価ではあるが求められた。
わが国の場合、戦後歴史学では戦前の講座派理論を継承し、改正地租を旧貢租と同水準の高額なものと捉え、その地租収入を家禄
とその処分の財源にしたとして、これが実質的な買収費用に相当し、「領知」=家禄の有償廃棄費用は土地私有権と引き替えに地租
負担者に転嫁された、と理解してきた。これに対して、中村哲は、地租改正が旧貢租水準の二割前後を超える大幅な減租をもたらす
一方、家禄の六割が実質的に切り捨てられたとして、形式上は有償廃棄に相違ないが、その実質は無償に近い有償廃棄である、とし
ている )11
(。
ここでは、改正地租の高額性と、国家歳入に占めるその比重如何とが先ずもって検証に付され、しかる上で家禄とその処分の歴史
(七九)
的性格が吟味されねばなるまい。
また、土地制度の近代化改革と地主制成立の歴史的連関について見れば、プロシアとロシアでは、領主が直営地の地主経営に乗り
出す一方、また農民保有地などの個別買収や、後日の所有権移転により、上層の農民や市民にも地主経営を行なう機会が生じている。
フランスでも、後者については、国有化された土地の競売による取得や、その後の所有権移転により、同様の事情が見られる。
わが国については、戦後歴史学がやはり戦前の講座派理論を継承し、おおよそ次のように理解してきたと言ってよかろう。すなわ
ち、地券調査ないし地租改正の際、幕末までにかなりの程度に展開していた質地地主―小作関係の処理がなされたが、そこでは耕作
農民である質地小作にではなく、質地地主へ地券が交付された。さらに、地券を交付された自作農民も、改正地租の高額性と、生産
した米穀の換金価格の低額性との故に、改租後、急速に土地私有権を喪失し、松方デフレでこれが広汎に激甚化して、地主的土地所
有が成立した、というのである。
地主制の成立経緯やその歴史的性格をめぐる問題 )11
(はここでの検討課題ではないが、明治新政府の政策基調ないし地租改正の政策目
的が、山田盛太郎の所説 )1(
(のように、地主制の創出にあった、とまで言い得るかは検証に付されねばなるまい。
二 地券調査
(一) 地所売買解禁と沽券税施行の提議
明治二年(一八六九)三月に開院された公議所には、新政府の開明官僚と各藩の代表が集まったが、多数を占める後者の大半は現
状維持論の守旧派で、身分規制の解除をめざす開明官僚の諸提案をめぐって、両者が議論をたたかわせた )11
(。
旧幕府の開成所の教授だった会計官権判事の加藤弘蔵(弘之)は、同年四月、賤称の廃止とともに )11
(、「田地町地面共勝手ニ売買ノ議」
を公議所で提案し )11
(、田地(高請地)・町地(町屋敷)・拝領屋敷(武家屋敷地)の売買を自由化して、土地売買に関する身分規制の解
除を唱えている。また、同月、加藤の盟友でやはり開成所の教授をつとめ、公議所では副議長となっていた会計官権判事の神田孝平
も、「税法改革ノ議」を提案している )11
(。これは、田地売買の自由化を前提とした沽券値段(地価)への定率金納課税、つまり地租改
正の原型をなす土地・租税制度の改革案だった。 (八〇)
これらの提案に対して、同月、上総国の桜井藩公議人の近藤門造は、「禁止田地売買之議」を逆提案し )11
(、田地が「公田」であると
の前提に立って、その売買の解禁に反対している。もっとも、加藤と近藤が、近世では土地売買が禁止されていた、との認識では共
通していることに留意しておきたい )11
(。
その後、民部省は、三年(一八七〇)四月、朝廷が全国土を有するとの立場から、藩の管轄地をも含め、全国の無租地への課税を
太政官に伺い出ている )11
(。同省の渋沢栄一らの改正掛では、同年五月、藩体制の解体、家禄処分、貢租の近代的租税への移行など、税
制改革の基本方針を固め、全国地租賦課法改正のための調査に着手することを太政官に建議している )11
(。
そうした中、渋沢や、賤称廃止令の原案策定を主導した杉浦譲らとともに、太政官の制度取調掛となっていた神田 )11
(は、同年六月、
「田税改革議」を政府に建議する )1(
(。その内容は、前年の公議所での提案を補訂したものだが、その基礎をなす発想として、この税制
改革によって市場経済、自由競争、能力主義への転換をはかるという見地が前面に打ち出されている。また、土地売買解禁反対論を
批判するため、「今ノ田地ハ民ノ買得テ有スルニテ官ヨリ之ヲ渡シタルニ非サル」なりと論じて、近世における所持を買得地と看做す、
加藤にすら見られず、そればかりか明治期における土地所有論議全体を通じてもほとんど登場することのない、画期的な論点を提示
している )11
(。
同年一〇月、杉浦は、担当する民部省地理司で、士民一般への田畑売買許可をめぐる討議を行なっている )11
(。おそらく、これは神田
の建議を受けたものだろう。
改正掛の伺は、四年(一八七一)二月一八日、ようやく太政官の裁可を得る )11
(。かくして、税制改革が本格的に起動することになる。
(二) 地券調査の開始と目的
(1) 東京府の地券交付・「沽券税」施行と武家地処分
地券の交付と地価定率金納課税=「沽券税」施行とは、そもそも市街地に濫觴するものだった。それはまた、士族にとって重要な
生活基盤の一つである武家地(武家屋敷地)を、町地(町屋敷)と平準化する措置と不可分でもあり、江戸―東京で着手された )11
(。
廃藩置県後、政府は、四年一二月二七日付の太政官布告で )11
(、東京府の管内において、①従来あった武家地と町地の区別を廃止し、
②それらの地所すべてに地券を発行し、③地租を上納させよ、と達した。大蔵省は、五年(一八七二)一月付の東京府宛の達で「地
(八一)
券発行地租収納規則」を布達し )11
(、この太政官布告の実施手続を定めた。そこでは、東京府の武家地は、一ヶ所に限り、従来の用益者
に払い下げられることとなり、拝領屋敷地は無償、拝借地は低価の有償という優遇措置が講じられている。
東京府以外の諸府県における旧城下町などの武家地はどう処分されたのだろうか。
大蔵省租税寮は、同年一月付の府県宛の達で )11
(、東京府同様、他の府県でも武家地など従来免税だった地所について、「沽券税」を
課税する予定なので、東京府に布達した「地券発行地租収納規則」の規定に準拠し、調査など必要な準備をしておくようにと指示し、
但書で「今度田畑売買差許、地券発行ノ儀、本省ヨリ一般公布相成候処、本文無税ノ場所、沽券税取調ノ儀ト不相混様、心得可有之
候也」としている。
この租税寮達の但書で言及されている田畑の永代売買解禁は、同年二月一五日付の太政官布告で闡明された )11
(。これを受けて、大蔵
省は、同月二四日付の達第二五号で「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」を布達し )11
(、その第一四で「東京府下ヲ始、沽券税法御達ノ土
地ハ此規則ノ例ニアラサル事」と定め、前引の租税寮達の但書における注意を確認している。
租税寮達の但書で注意されているように、武家地の処分は、「所持」だった高請地についての措置とは明確に区別されている。武
家地は、対偶する「所持」を欠く、町の中に設定された「領知」と見られるものであるから、「領知」が解消されれば、従来の持ち
主によるその用益の法的根拠も失われるはずである。有償であれ無償であれ、「払い下げ」という手続きを経る、ということは、そ
の土地所有権が国家にあることが前提となっていると考えられる。
この租税寮達での指示によって、東京府以外の諸府県でも、同府に準じて、武家地は、無償ないし有償の払い下げがなされ、地価
の決定→地券の交付→沽券税の徴収がなされていったものと見られる。しかし、実際にはまちまちな状況だったようである。大蔵省
は、六年二月九日付の三府六六県宛の達第一〇号で )1(
(、その対策を指示している。
各地の市街地における士族や卒の居住する地所についても、従来の免税をやめ、前年の五年分から課税するはずだったが、実際に
は、前引の前年一月付の租税寮達で指示された、そのための「取調」に未着手なところもある。そこで、そういうところでは、前年
分に遡って収税することはしないが、その代わりに本年分は必ず徴収すべく、早々に作業にとりかかれ、と指示している。
この達でいう「取調」の中身は、やはり東京府の「地券発行地租収納規則」の規定に準拠した、無償ないし有償の払い下げ→地価
の決定→地券の交付という一連の作業だったと見られる。ちなみに、同年二月一四日付の三府六六県宛の達第一五号で )11
(、旧諸藩の城 (八二)
郭の存廃決定にともない、従来処分を見合わせてきた城郭内の武家地について、その処分方針を指示し、廃城の場合は城下の武家地
と同様の措置、つまり前述の作業に取りかかり、城郭存続の場合は拝借地と同様の扱いにする、としている。
以上から、東京府以外の諸府県における旧城下町などの武家地についても、同府の「地券発行地租収納規則」に準拠して、無償な
いし有償で払い下げられ、地価が決定され、地券が交付されていったものと見てよかろう。
(2) 地券調査の開始とその背景
近世の「所持」において最も近代的土地所有権に近似する権能を具有していたのは、町地だったが )11
(、前述したように、武家地と併
せて「市街地」として把握され、ここに地券が交付されていく。この地券は、従来、町地の地所の売買の際に取り交わされた沽券に
代わるものとして発行され、町地が既往に有していた、領主から特段の規制を受けずに、売買・譲渡・相続・質入などの処分や、用
益を行ない得る権能を、市街地全体に拡大して法的に保障し、加えて当該地所に対して沽券税を賦課・徴収する根拠となさんとする
ものだった。
さらに、それは、これまた前述したように、高請地(田畑)へと拡大されていく。五年二月一五日付の太政官布告第五〇号で「地
所永代売買ノ儀従来禁制ノ処、自今四民共売買致所持候儀被差許候事。」 )11
(とし、地所一般の永代売買が解禁され、その所持に対する
身分規制も解除された。これを受けて、同月二四日付の大蔵省達第二五号で「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」が達され )11
(、今後、地
券は地所の譲渡・売買時に交付されることとなった。
しかし、同年七月四日付の大蔵省達第八三号で「地券渡方規則」が改正され )11
(、地所によって地券の有無があるのは「不都合」だと
して、すべての地所に一斉交付する方針に切り替えられ、しかもその交付作業を僅か三ヶ月後の同年一〇月中に完了することとした
のである。
これを同年の干支から「壬申地券」、またその交付に要する一連の作業を「地券取調」あるいは「地券調査」という。
さらに、同年八月一二日付の太政官布告第二二二号で、同年の収税から、①田の貢租は、それまで正納(米納)を原則としたが、
出願があれば石代納(金納)を許可する、②また畑の貢租は、明治四年五月八日付の太政官布告で全面的に石代納化したが )11
(、金融事
情が悪く畑作物の換金が困難な場合、出願があれば、米納を条件に許可することなどを布告した )11
(。これは、田畑貢租の全面的な金納
(八三)
化を企図し、例外として米納に限定して現物納も認める、という租税政策の大転換を闡明したものだったと言えよう。
この貢租金納化への政策転換を併せ考えると、一〇月を地券交付完了の期限として設定したのは、間に合えば同年分の貢租から地
価定率金納課税へと全面的に切り替える、つまり神田の改革構想の一挙全面的実施を目論んでいたためと考えられる。どうして、こ
のような拙速方針が出てきたのか。
これに先立つ四年一一月一二日、岩倉使節団が米欧回覧へ横浜港から出発する )11
(と、留守を預かった政府の首脳たちは、使節団に近
代化、そして政府の主導権を奪われることを懼れ、彼らが帰国する前に諸改革を実施してしまおうとした )11
(。そのため、翌五年は改革
のラッシュとなった。「学制」の頒布 )1(
(、鉄道の開業 )11
(、官営模範工場富岡製糸場の開場 )11
(、「徴兵告諭」の公布 )11
(などである。
その結果は、たちまち財政に跳ね返ってきた。翌六年は閏年の予定だったが、政府は、急遽、太陽暦に切り替えることとし、五年
一二月三日を六年一月一日とした )11
(。そこには、五年一二月と六年閏月の二ヶ月分の官吏の月俸を浮かせる算段が働いていたという )11
(。
このようなアクロバティックな運営を余儀なくされるほど、財政事情は逼迫しており、それが前述したような税制改革の拙速実施へ
の動きをもたらしたと見られるのである。
(四) 地券の権能
地券は、それが交付される地所に、どのような権能を具備させたのだろうか。
五年六月二七日付で大蔵省から東京府へ達された地券の書式 )11
(では、冒頭で地券が当該地所の「永代所持」を証明するものであるこ
とが宣言され、その上で対象が東京の市街地ということもあり、第一に政府による土地収用の条件が規定されている。そこでは、収
用には持主の承諾を不可欠とし、また公共目的の収用でも正当な補償が必要とされている。後者が不承諾の場合を想定しての条件規
定であることは明らかだろう。これは、同年一月付の大蔵省から東京府への達 )11
(を再確認したものである。
第二には、外国人に対する売却や抵当権設定を禁止しているが、これは同年四月一四日付の太政官布告 )11
(の内容を再確認したもので
ある。第三は用益の自由、第四・五は相続・譲渡・流質・売買による所持者変更の届出義務を規定している。
この達では「永代所持」、「御用」や「上地」などの文言に近世的残滓を依然とどめてはいるが、そこで成文法規定を与えられた地
所所持の権能は、国家との関係における土地私有権の近代的要件を一応は具備していると言ってよかろう。 (八四)
地券の交付対象を高請地(田畑)へも拡大した「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」の地券書式 )11
(には、東京府の場合のような権能規
定は券面記載されておらず、同年八月二八日付の大蔵省達第一一五号で )1(
(、この書式によってすべての地所に地券を交付することにな
る。したがって、いわゆるこの壬申地券では地所所持の権能規定の券面記載を欠くこととなるが、「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」
には東京府の市街地地券と同等の権能が規定されている。ただし、この時点では政府による土地収用の条件規定が同規則には欠けて
いたが、これも同年一〇月晦日付の大蔵省達第一五九号で同規則を改正し )11
(、東京府と同内容の規定を設けている。
これを要するに、明治五年一月にまず東京府の市街地、ついで同年一〇月晦日までに全地所の所持が、近代的土地所有としての権
能を具備することが法制化されたのである。
(五) 地価課税移行への動き
前述したように、地券制度創設の目的は、地価定率金納課税への移行をはかる税制改革の実施にあったが、その動きを追跡してお
こう。神奈川県令陸奥宗光は、五年五月付で「田租改正建議」を提出し )11
(、「一切ノ旧法ヲ廃除シ、現在田畑ノ実価ニ従ヒ其幾分ヲ課シ、
年期ヲ定メ地租ニ充ントス。其例仮令田地原価ノ百分ノ五ヲ地租ト仮定スヘシ。」と、田畑の実勢価格への五パーセントの定率課税
を提案した。陸奥は、翌六月一八日付で大蔵省租税頭に任ぜられ )11
(、土地・税制改革の指揮を委ねられる。
そして、同年七月二五日付で大蔵省租税寮に改正局が設置され )11
(、同月中に陸奥と租税権頭松方正義の連名で、「去年以来追々伺済
旧来之租税法ハ漸ニ相改メ、遂ニ全国一般沽券租法施行可相成積ニ付、猶御規則等者不日御通達可申候得共、爾後之心得振モ可有之
候間、此段各位迄申進置候」 )11
(と、沽券課税の全国一斉実施を地方官に予告する。さらに、大蔵省は、同年八月二日付で、税制改革に
関連して、地方官の在任期間を長期化することと、全国の統治経費として政府が直接管掌する経租と、各府県の統治経費として地方
官が管掌する緯租に租税を区分することを建議する )11
(。
このように、地価課税への転換をはかる税制改革は、そのための態勢が整えられるのと並行して具体的に起動し、前引の同年七月
四日付の「地券渡方規則」改正で、同年一〇月中に全地所への地券交付を完了するよう布達されたのである。
右の「地券渡方規則」改正では、当該地所の所持者に土地売買を申告させて地価を決定する方式が採用されている。また、同月
(八五)
二五日付の大蔵省達第九四号で「地券渡方規則」を再改正して )11
(、地券の合筆記載を人民の願いにより許すことにしている。これらは
地券調査の促進措置であろう。
さらに、同年九月付の各府県宛の達で「地価取調規則案」を提示し )11
(、地券調査の参考に供している。それは、「真価調方順序当寮
見込別紙規則案之通当時伺中ニ付、未タ御発行相成候筋ニ者無之候共、御見合ニモ可相成ト御廻申候」 )11
(というもので、政府中央で検
討中の法案を参考に、府県の地券調査を進めさせようとしているところにも、大蔵省の超拙速ぶりがうかがわれる。
(六) 地券調査の実態と難航
(1) 地券調査の実態
地券調査は容易ならざる大事業だった。
地券は、当初、全地所の各筆(区画)に一枚宛交付されることとなっていたから、膨大な枚数となる、その用紙を調達することが、
そもそも難しかったと見られる。この用紙調達問題は、地租改正に伴う改正地券交付の際にも課題の一つとなっている )1(
(。
地券調査の実態については、全体の概況を丹羽邦男 )11
(と牛込努 )11
(、市街地の事例では滝島功が東京府と宮城県仙台町 )11
(、筆者が新 にいかわ川県富 山町などと石川県金沢町 )11
(、近世以来の高請地だった田畑や山林原野などを主とする、郡村地の事例では加藤衛拡 )11
(と松沢裕作 )11
(が埼玉県
域、徳永暁が栃木県域 )11
(についてそれぞれ追跡している。
全体の概況については、後述するように、作業を途中で打ち切って地租改正へ直行したようなケースもあり、その終局状態を把捉
することは困難なようである。
市街地では、町地と武家地の関係に加え、近世から進行している、隣接する高請地の市街化に伴う問題や、社寺地や墓地、河岸や
道路の処理など、作業は極めて複雑な様相に逢着している。
郡村地の地券調査は、埼玉県域では、村で保管されてきた土地「所持」台帳である、検地帳の記載内容に準拠し、地押丈量(実地
測量)などの作業を最小限に抑えようとした事例がある一方、村請制の規範下にある近世以来の村落秩序に依拠し、村側の要望で地
押丈量を実施して、錯綜した耕地の状態の解消を企てている事例もある。また、栃木県域の事例では、地券調査の過程で、村落指導
者が、検地帳の記載内容と実地の乖離が甚だしいことに気付き、地租改正の際の地押丈量に熱心に取り組むようになった、という。 (八六)