はじめに 前号(本紀要第 13 集)で、仏師玉運法眼の活動とその彫刻史的位置づけについて論述した。 その後ほどなく文化庁美術学芸課の奥健夫氏より新たな玉運法眼在銘の像の存在を御教示いただ いた。同封された平成 18 年 1 月発行の青森県史叢書「下北の仏像ー下北地方寺院所蔵文化財調査 報告書ー」のコピーによれば、像はむつ市大平町所在の浄土宗願求院の本尊像で、像内に天正 14 年(1586)武州新座郡大和田郷云々との長文の墨書銘をもっているとの解説があった(註 1)。玉運 法眼の仏像がなぜまた下北にとの驚きとともに、自らの資料調査の不徹底さを悔やんだ次第だが、 同報告書の解説には、さらに埼玉県狭山市金剛院に元亀 4 年(1573)玉運法眼修理云々の文書をも つ地蔵菩薩像があることが紹介されていた。なんと筆者の地元の埼玉にも玉運法眼の事績の見落と しがあったことが知られて、かさねて情報収集の甘さを痛感させられた。この不備を回復すべくな るべく早い機会の確認調査を期していたが、ようやく今秋にはいって関係各位の協力を得て実現す ることができた。 ここにその調査の成果を報告し、前回の論考の不足を補うこととしたい。 (1)狭山市金剛院元亀4年木造地蔵菩薩立像(狭山市指定文化財) 像高 79.5㎝ 金剛院は、狭山市大字南入曽 460-1 に所在する新義真言宗豊山派の寺で、青梅市成木の安楽寺の 末、本尊には享保 2 年(1717)京仏師法橋玄慶作(註 2)になる不動明王坐像を安置する。『新編武 藏風土記稿』(以下『風土記稿』)には近くの御嶽神社(現入間野神社)の別当寺を務めるとみえ、 埼玉県指定無形民俗文化財 「入曽の獅子舞」 の奉納寺社として知られる。寺伝及び『狭山市の社寺 誌』(註 3)によれば、創立年代は不詳ながら、天文 2 年(1533)深悦沙門(永禄 9・1566 寂)の中 興になり、慶安 2 年(1649)十石の朱印状を付せられたとあり、現に歴代の朱印状を伝えている。 明治 38 年 11 月火災に遭い山門、 土蔵を残して伽藍を消失し、 しばらく仮本堂住まいを余儀なくさ れたが、昭和 32 年本堂再建が果たされ今日に至っている。ただ、その際境内にあった薬師堂、地 蔵堂は廃堂となったことが説かれている。
仏師玉運法眼・補遺
林 宏 一Supplement to The Study of Buddhist Sculptor "Gyokuun-Hougen" Ko-ichi HAYASHI
本地蔵像は同地蔵堂の本尊として伝来したもので、現在本堂内陣の右脇壇に安置されている。煩 雑になるが、まず像の概要を紹介しておこう。 〔形状〕円頂。上額部に緩やかにカーブする髪際線を表し、額中央に白毫を表す。耳朶は環ならず、 頸部に三道を刻む。着衣は下に内衣と裙をつけ、偏衫・衲衣をまとう。偏衫は右肩から右腕を被い、 衲衣は左肩を被って右肩に浅くかかり右腋下を通って偏衫の一端を挟んで腹部をつつみ再び左肩に かかる。正面を向き、左腕屈臂して掌上に向け宝珠をもち、右腕軽く臂をまげ錫杖を執り、右脚や や前に出し親指を上向きに反らして蓮台上に立つ。台座は蓮台、敷茄子、 受座、蕊座、反花座、上 框、下框の七重蓮華座。光背を失う。 〔品質・構造〕ヒノキ材か。寄木造、玉眼、肉身部朱漆地に金泥彩、法衣部は漆箔とする。表面の 塗りの状態がよいため構造の詳細ははっきりとしないが、おおよそ頭体幹部は耳後で前後二材矧ぎ とし内刳を施し、両側面部は袖部分を含め肩先やや外側で別材を寄せているようで、頭部と体部の 接合方法は確認できない。この他両手先、両足先は各々別材。左手の宝珠も別材。像底に前後二本 図 1 金剛院地蔵菩薩立像 図 2 泉蔵寺十一面観音菩薩立像
の枘を設けるが、前の枘は前面材の正面中央に、後の枘は背面材前面中央に各々挿着する。 〔保存状況〕表面の金泥、漆箔は承応 2 年の後補。像底薄板、台座、錫杖も後補。光背は亡失。 本像には像本体、台座等に直接由来・来歴等を記した銘文は見いだされていないが、寺に伝来し た『金剛院文書』のなかの冊子中にこの地蔵像及び地蔵堂再興 に関する数葉の書付けが収録されている。以下、全文を記すと 次のようになる。 〔地蔵種字「カ」〕 奉古佛地蔵菩薩再興カ 也 大日本國武刕入東郡 常願寺本尊入曽地藏就中絶有爰善人 令再興者也其時之本願金剛院甚悦沙門 同施主斉藤助太郎爲心得傳同六虐カ 集 源左ヱ門尉助二郎助三郎源六申房 美濃太郎左門四郎釘カ 太郎右門 于時元亀四癸 酉歳卯月十日 作者玉運 爰梵字再興爲ト有之候 此本尊春日之御作候得共法眼被カ 再興 仕候附而二度目之修復ニ而玉眼佛飾カ 細色 申候同宮殿共建立仕候施主金剛院住寺 権大僧都法印宥栄入曽村堂本尊 勝軍地藏菩薩 別當金剛院 大工吉川某 承應二癸 巳歳正月吉日 南入曽惣旦中 北入曽惣旦中 聖主天中天 奉再興御脇士 (地蔵種字「カ」)奉再営地藏堂一宇 奉寄進畑壹反歩 哀愍衆生者我等令敬礼 迦陵碩ママ伽聲 右者爲令法久住利益人天 天下恭平國土安穏郷内安全 堂内繁昌興隆佛法殊者 図4 同 (左側面) 図3 金剛院地蔵菩薩立像(背面)
護持施主先祖菩提子孫 繁栄并助成檀越主自他平 等現當二世安楽也 正徳二壬 辰歳十一月吉祥日 武列入間郡南入曽村 別當 金剛院法印寛紹 同所施主 齊籐市左ヱ門 今井村大工 久保田伊右衛門 右之札弐枚共是迠地蔵堂棟木ニ打附有 之所金剛院十四世寛叡代弘化三丙 午 正月地蔵堂屋根修復ニ付寺江引取申候 依而右之札是より寺ニ御座候 弘化三丙 午年正月廿六日写置 この文書は弘化 3 年(1846)の地蔵堂屋根修復に際して、堂の棟木に打付けてあった 2 枚の銘札 の内容を時の金剛院十四世寛叡が再録したもので、2 枚の銘札の内訳はその文面内容から元亀 4 年 再興銘を含めて承応 2 年再興次第銘札の 1 枚と正徳 2 年(1712)の地蔵堂再興棟札の 1 枚であった ことが理解される。多少の写し間違いがあるようにみなされるものの、その記載内容は極めて信頼 性が高いと判断してよいだろう。 一部意味のとれないところもあるが、これによれば本地蔵像は何らかの理由で中絶していた常願 寺本尊の入曽地蔵尊を、金剛院甚悦沙門を本願とし施主斉藤助太郎以下数名の善人によって元亀 4 年(1573)4 月に再興したもので、像の作者は玉運であった。(註 4) 常願寺の名はすでに『風土記稿』の時代に失しているが、次に続く承応 2 年(1653)再興次第の 入曽村堂や別当金剛院の表記からすると金剛院管理の堂宇の名称であったことがうかがえる。また、 地蔵像は春日作と伝える古仏で、元亀 4 年では入曽地蔵、承応 2 年では入曽村堂本尊勝軍地蔵の名 があることからすると、中世のいずれかの時期から入曽地域の厚い信仰を集めてきた尊像であった ことが知られる。再興の本願「甚悦」は、寺伝に説く天文 2 年(1533)中興の僧「深悦」と音の似 るところから同一人物である可能性もあろう。施主の斉藤助太郎以下は地元の地侍層と推定される が、詳細は不明とするしかない。 像容を見てみると、左手に宝珠、右手に錫杖を執り、 右脚をかるく前に踏み出した姿は六道を行 脚し衆生を救う、いわゆる遊行姿の地蔵菩薩を表した像とみなされる。とはいいながら正面・背面・ 図5 金剛院地蔵菩薩立像 ( 左斜側面)
側面観ともに動感・抑揚に乏しく、 直立硬化した立体構成が目につく。やや四角めの頭部は面幅、 頭奥とも厚めで安定感のある象形をみせている。面部は幅広、ふくよかな頬を持った丸顔で、ゆる やかな弧を描く離れ気味の両眉、伏し目がちの細く小さな眼、 太めの鼻梁、両端を引き締めやや尖 らせ気味の唇等の表現は童顔の印象をあたえる。側面観において首は太めで猪首、撫で肩ながら丸 みの強い肩から下半身にかけてはズンドウで胸、腹、腰部のめだった起伏は認められず、明確な肉 身のモデリングは表されていない。そうした身体を被う法衣の表現は、図式的で陰影感に欠けては いるものの、厚手でやわらかみのあるほどよい衣文構成を見せ、像全体を落ち着いた佇まいに仕上 げている。 こうした平面的で図式的な表現様式と抑揚感に乏しい直立静止したような立体構成は、前稿で取 りあげた玉運法眼造立の埼玉県東松山市泉蔵寺天正 3 年(1575)銘十一面観音菩薩立像に共通する ところであり(図 2)、また南北朝・室町時代の院派系仏師の作品によく見受けられる特徴といえる。 四角く幅広な顔、細く伏し目がちの眼、短く太めの鼻、小振りに引き結んだ唇等の面貌表現や耳輪 の線をそっけなく直線で表した耳の表現、さらには厚手の布の質感を強調した説明的な着衣の衣文 表現等にも泉蔵寺像に相似かよった特徴が認められる。このことからすれば本地蔵像は元亀 4 年に 玉運法眼が、何らかの理由で失われてしまったかつての入曽地蔵の再興を期して新規に造立した、 いわば玉運法眼真作の像であると判断して間違いない。泉蔵寺像に較べれば全体の形姿相整い、平 明典雅な仕上がりとなっており、ことに彫りやわらかく落ち着きのある面貌表現にはこの時期のも のとしてはレヴェルを超える表現力が見てとれ、玉運法眼の実力がなかなかのものであったことを 示している。これまで確認されている玉運法眼の作品としては最初期のものであり、出来映えも優 れていて高く評価される作品といえよう。 図7 同 (頭部左側面) 図6 金剛院地蔵菩薩立像(頭部)
(2)むつ市願求院天正 14 年銘阿弥陀如来立像 像高 96.6㎝ 願求院は浄土宗、山号を松風山と称し、むつ市大湊駅にほど近い山際の中腹に所在する。寛文 9 年(1669)良喚助心上人の草創と伝え、現住鷹たか觜はし俊道師で廿一代を数える古刹である。昭和 24 年 堂宇全焼の難に遭い、併せて本尊阿弥陀如来坐像(平安時代の定朝様の美作)も焼失したため諸方 に求めて新たに迎えたのが本像である。平成 5 年、像の損傷がめだってきたので京都の仏師中西祥 雲氏に依頼して解体修理を行い荘厳を一新した。その際像内から天正 14 年(1586)武州新座郡大 和田郷云々の長文の墨書銘が見つかり、そこに玉運法眼の名が記されていた。 まず像の概要を見ておこう。 〔形状〕如来形。螺髪切付(髪際 33 列、地髪 5 段、肉髻 9 段)、旋毛を刻む。髪際ゆるやかにカーブ、 肉髻珠、白毫珠。耳朶は環状。頸部に三道を表す。法衣は通肩、下に裙を着け、偏衫をまとい衲衣 を左肩から右腋下にまわし、再び前に戻して左肩にかける。左腕軽く下にのばして掌前に向け第 1 図9 同 (修理前) 図8 願求院阿弥陀如来立像(平成五年修理後)
指と 2 指を捻じ、右腕屈臂し掌前に向け同じく第 1 指と 2 指を捻じて弥陀の来迎印を結び、両足先 を揃えて蓮台上に立つ。台座は蓮台、敷茄子、蕊座、反花座、八角上框、八角下框座からなる六重 蓮華座。光背は飛雲文の舟型光背。 〔品質・構造〕寄木造(カヤ材か)、玉眼、肉身部金泥彩、法衣部漆箔、螺髪群青彩。肉髻珠・白毫 珠水晶嵌入。新しい塗りのため構造の詳細はつかみがたいが、修理前及び修理時の写真を参照する とおおよそ以下のようである。頭体幹部は耳後で前後に二材を寄せ、頭部は三道下で割首。面部厚 めに別材をあてる。両側面部各々肩口で別材を寄せ、左右の内袖部も別材とする。この他両手先、 両足先及び右袖口部等も別材でつくる。像内は丁寧に内刳が施され、右側面部材と本体は肩下のあ たりで角の通い枘で接合されていたことが写真から知られる。 〔保存状況〕表面の塗り並びに光背、台座は平成 5 年の修理による。『願求院史』(註 5)では、本像 の像内に納入されていたと判断される「豊原山開教院本尊修理寄附芳名」巻物 1 巻及び木札 12 枚 が別途寺に保管されており、天正 14 年の修理後度々の修理を受けていることを紹介されている。 それによれば、まず宝永 2 年(1705)至心院専修寺の本尊として大仏師宗慶が再興しており、次い で昭和 22 年(1947)樺太より帰国に際して青森県弘前市の仏師伴誠一による修理、さらに同 25 年 願求院本尊として迎えられた際に台座・光背を下北郡脇野沢村の仏師坂田金之丞が製作したとある。 宝永 2 年及び昭和 22 年の修理の詳細は不詳とある。 〔銘文〕 (像内背面墨書銘) [上段] 〔観音種字「サ」〕 〔阿弥陀種字「キリーク」 虚空蔵種字「タラーク」〕五倫種字周遍法界鬼畜人天皆是大日矣 〔勢至種字「サク」〕 [下段] 并佛處玉運法眼舘中野於村作之 右志意趣者現世安穏後生善處爲度受樂矣 右奉再興此御本尊意趣者爲妙(阿朱禅定字尼) 丗三年逆修也 武刕新座郡大和田郷舘村之住人菊子并田嶋源右衛門旦那也 于時天正十亖年丙 戌二月鬼宿旦那夫婦敬白 〔像内前面左矧面補材墨書銘〕 佛カ 處宿坊 遍照坊カ 権少僧都尊秀并走廻之人 銘は、写真に見られるとおり背面材内刳部に目一杯に墨書されているので、便宜上上下二段に分 けた。全文一筆で書されており、玉運の「運」、法眼の「眼」、天正の「天」等の書体や筆捌きの特 徴等からすると玉運本人の執筆になる可能性が高い。
上段の種字による阿弥陀三尊と虚空蔵の組み合わせの意味、「五倫種字周遍法界鬼畜人天皆是大 日矣」の典拠が何によるかは不明で識者の御教示を俟つしかないが、下段はいかにも戦国末期らし い文面内容で、「妙阿禅定尼」の文字のみ朱書されている。銘によれば、武州新座郡大和田郷舘村 の住人菊子と夫田嶋源右衛門が旦那となり、母親と思われる妙阿禅定尼の三十三回忌逆修と現世安 穏後生善処を願って天正 14 年(1586)2 月に本像を再興したとある。仏師は玉運法眼、舘中野村 に於いて之を作ったと記す。「於」の字は本来なら「法眼」の下に来るべきものであろうが、玉運 の書き間違いであろう。また左矧面補材墨書銘のうち、『下北の仏像ー下北地方寺院所蔵文化財調 査報告書ー』では不明とされている最初の□字は「佛」と読んでよく、「遍照切」の「切」は「坊」、 「志廻之人」は「走廻之人」と読むのが適切であろう。 武州新座郡大和田郷舘村は現在の埼玉県志木市西部柏町・幸町・本町一帯にあたり、戦国期の武 将大石氏が居館した柏城にちなんだ名とされる。『風土記稿』では、舘村の小名に奥州から甲斐・ 図 11 同左側面 図 13 同頭部 図 12 同左側面頭部 図 10 願求院阿弥陀如来立像 (修理前)
相模への街道筋の宿として繁盛した引又町と並べてその西方柳瀬川沿いの地を中野村と紹介してい る。銘文中にみえる「舘中野村」はこの地と比定して誤りなかろう。旦那の菊子、田嶋源右衛門は 同所の住人とあるのみで、詳細は不明。ただ旧来からの住人ではないようで、享保 14 年(1729) に舘村名主宮原仲右衛門が著した『舘村旧記』(註 6)によると、同書中野組之事の章に「天文年中 図 15 同背面墨書銘部分 図 16 同背面墨書銘部分 図 14 願求院阿弥陀如来像像内墨書銘 (背面・前面矧面) 図 17 同前面矧面墨書銘 同前面矧面墨書銘図 18 同前面矧面墨書銘図 19 同前面矧面墨書銘図 20
常陸国に移住した大石四良殿の住居した舘の城の別所跡を、後に百姓が中央の芝野を残して開発し た。中野の名はこれに由来し、芝分(草分)の百姓は萩原、渋谷、三枝、細田の四氏で、その後三 上、奥貫、渡辺、田島氏等が追々来住した」と見える。この田島氏が旦那田嶋源右衛門に連なるな ら、元亀・天正頃の新来の住民あったと想定される。 それはともかく、玉運法眼によって再興されたこの阿弥陀像はいったいどこの寺の本尊であった のか。銘文中には「此御本尊」とあるのみで、具体的な寺院名があげられていない。補材に記され た銘に「仏処宿坊 遍照坊」とあるので一つの手がかりにはなりうるが、関連の地誌等にはその名 は見あたらない。『風土記稿』では村内に所在する寺院として新義真言宗醍醐三宝院末で地蔵菩薩 を本尊とする宝幢寺、同じく新義真言宗石神井三宝寺末で薬師如来を本尊とする長勝院に次いで小 名中野村に所在する東明寺をあげている。東明寺は新義真言宗で宝幢寺の末、山号は阿弥陀山、阿 弥陀如来を本尊とし、創建年代は不詳ながら境内光海上人の墓石に寛文三年示寂の文字がみえるこ とからそれ以前の創建であることは確かである、と解説している。この記事によるなら、「此本尊」 の寺は宝幢寺でも長勝院でもなく東明寺がもっともふさわしく思われるが、前に引用した『舘村旧 記』では、宝幢寺門院として東明寺をあげ、「是は中興迠、天台宗の行屋にて有りけるを、寺に取 り立て、宝幢寺門徒に成したる也。但し別録に慶長二丁酉年、光海坊開基、元禄十一寅年迠百弐年 に成り、当住迠三代に成る也。(後略)」と見えることから、別録にいう慶長 2 年(1597)の開基な ら天正 14 年(1586)とは時期的に齟齬するので、その可能性は低くなる。もっとも門徒寺として 中興されたのが慶長 2 年と理解するなら、それ以前の行屋時代からの本尊であった可能性も考えら れなくもないが、今の時点では不明に付すしかない。現在同寺は廃寺となり、江戸時代の製作とみ なされる一尺ほどの阿弥陀如来立像を本尊とする小堂を遺すのみで、中野・引又地区の墓地となっ ている。 この天正 14 年の玉運法眼による修理以後、本像は数奇な運命を辿ることになる。『願求院史』及 び平成 5 年修理時に像内に納められた平成修理記録を参照すると、すでに保存状況のところでふれ たところの像内に納入されていた木札中、宝永 2 年(1705)7 月 15 日附銘札(註 7)では至心院専 修寺本尊として再興されたことを明らかにしている。同銘札には鎌倉時代初期の名仏師快慶を指す 「安阿弥作」と記され、再興仏師には大仏師宗慶の名が見える(註 8)。この至心院専修寺がどこの 寺か手がかりがないが、いつの頃か本像は武州新座郡舘村の地を離れて安阿弥快慶作の阿弥陀像と して専修寺の本尊に収まっていた。しかし、その後また何らかの理由があって同寺を離れ、京都の 浄土宗総本山知恩院の管理するところとなり、さらに大正年間には浄土宗布教伝道の拠点として南 樺太豊原市に開設された豊原山開教院の本尊に迎えられはるばる海を渡る仕儀となった。アジア太 平洋戦争敗戦後ソ連軍占領下の混乱の中、昭和 22 年開教院の留守僧木立大定師が苦労のすえ背負っ て内地に引き揚げられてようやくの帰国を果たし、かつて樺太開教区監督職にあった青森県弘前市 徳増寺に安置されていたところ、縁あって消失後の新たな本尊を探し求めていた願求院とめぐり逢 い同院本尊として安住の地を得ることになった、ということである。仏像に関わるさまざまな逸話・ 奇譚を耳にしたことはあるが、故地を離れて流転の後遠く千島海峡を渡海し異国の教化に携わり、
戦乱をくぐり抜け再び本土に帰って下北の地で衆生済度の務めを果たしておられるという本像の経 歴は、まことに感嘆讃仰のほかない。天正 14 年に武州舘村において本像を修理再興した玉運法眼も、 像がその後まさかこのような流転の足跡を辿ろうとは想いもしなかったであろう。 さて、玉運法眼は本像の再興にどのような関わり方をしたのであろうか。前の狭山市金剛院の地 蔵菩薩像は、その作風の特徴から玉運自身による新規の造立と判断される。願求院像の場合はどう であろうか。 本像をはじめて紹介された『下北の仏像ー下北地方寺院所蔵文化財調査報告書ー』では、天正 14 年の再興銘を造立銘と判断されて製作年代を桃山時代から江戸時代に位置づけられ、頭部の補 作を初め像全体に江戸時代の補修が及んでいる可能性を指摘されている。たしかに平成 5 年の修理 で装いを一新した像は金色燦然と輝きカッチリと硬質な印象が強く、近世仏的な様相を呈している。 しかし、修理前の写真を参照しながら子細に観察すると、この像は度重なる修理を受けているにも かかわらず造立当初の姿をかなりよく伝えており、様式的にも構造技法的にも極めて古格で正統な 出来映えを示していて、とても 16、7 世紀の製作とはみなされない。像高ほぼ 3 尺の来迎阿弥陀像 としては定型的な像容ながら、頭体のバランスよく整った形姿をみせ、やや首を傾け猫背気味の姿 勢でゆったりと蓮台上に立つ姿は室町時代以降の仏像には見られないおおらかさと品格の高さがあ り、安阿弥作の伝承もさもあらんといったところがある。肉髻は低平、頭の鉢張り、螺髪は粒立ち 整え後頭部まで丁寧に刻み、髪際はゆるやにカーブする表現、やや面長でふっくらとした頬の線を 持つ秀麗かつ写実味のある面貌表現等には鎌倉後期以降に広く流行する宋風彫刻の影響が顕著に認 められる。そうした傾向は体部の表現にも見いだされ、適度なボリュウム感のある七頭身ほどに均 整のとれた体躯の表現、それを被う着衣の陰影ゆたかで流麗な衣文表現等には写実的で装飾的な鎌 倉後期彫刻の成熟した様式美がうかがえる。また、像の木寄せや内刳りの仕口、さらに内刳り面の 材のやつれ具合等も相当時代がさかのぼることを物語っている。 このことからすれば本像は頭部・本体ともに当初の姿をよくとどめており、その様式技法からみ て 13 世紀後半に遡り得る鎌倉時代後期の製作になるものと推定される。ことに豊頬秀麗な面貌表 現や腹前にかかる衲衣にみられるやや破調の図式的な衣文描写などに着目すると、延慶 3 年(1310) 院保作の山形慈恩寺薬師三尊の中尊像などに相通じるところが見うけられ、安阿弥作というよりは むしろ院派系の仏師による造像であることをうかがわせており、その作風、出来映えにおいては玉 運法眼の力量と時代をはるかに超えたレヴェルにあるといってよい。したがって天正 14 年(1586) の玉運法眼の再興は、文字どおり古像の修理であったとみなされる。その具体的な修理内容は今と なっては確認しがたいが、平成 5 年修理時の写真等から判断すると当時損傷が進み解体状況にあっ た様子が読み取れ、前面左矧面の補材や右側面部材と本体を肩下のあたりで角の通い枘で接合した 仕事等がその一端であったと推測される。
おわりに 以上、前稿発表後に所在を知った玉運法眼の事績について、その調査報告と若干の考察を行って みた。 元亀 4 年狭山市金剛院の地蔵菩薩立像は、中古以来入曽地蔵の名で地域の信仰を集めてきた尊像 の再興であったが、その作風的特徴から玉運による新規の造立と判断してよく、しかもその出来栄 えも当時の仏像彫刻のレヴェルを超えるものがあり、法眼の位にふさわしい腕前を示していて、彼 の秀作と評価される作品である。 天正 14 年むつ市願求院の阿弥陀如来立像は、武州新座郡大和田郷舘村の地で玉運法眼によって 修理再興されたが、その後いつの頃か同地を離れて流転を繰り返し、ようやく下北の地で安住を遂 げたという数奇な運命を辿ることになった像である。現状、また修理前の写真等の詳細な観察によ れば、元来 13 世紀に遡り得る頃の正統な様式技法による阿弥陀像であり、安阿弥作の伝承はとも かくとして当時の時代の趣向をよく表した美作の一つに数えられる作品とみなされ、本像において は玉運は文字どおり修理仏師の立場にあったことを伝えている。 この 2 件を加えることによって玉運法眼の事績は以下のとおりとなる。 1. 元亀 4 年(1573) 埼玉県狭山市金剛院地蔵菩薩立像 新規造立 2. 天正 3 年(1575) 埼玉県東松山市泉蔵寺十一面観音菩薩立像 新規造立 3. 〃 5 年(1577) 埼玉県東松山市浄空院僧形坐像 新規造立 4. 〃 8 年(1580) 神奈川県厚木市清源院薬師如来坐像 新規造立 5. 〃 9 年(1581) 東京都八王子市越野会館聖観音菩薩坐像 再興修理 6. 〃 14 年(1586) 青森県むつ市願求院阿弥陀如来立像 再興修理 (旧武州新座郡大和田郷舘村所在) こうしてみると、やはり活動の場は武蔵が中心のようで、相模は少ないようである。八王子市越野 会館聖観音像に「相州之住」と見えたことから本拠は鎌倉であろうと前稿で述べたが、さらなる他 例の出現を俟って今少し慎重に判断した方がよさそうである。 ただ、玉運法眼の仏師としての系統はこれまでの見解のとおり院派系であることは動かせない。 今回取りあげた元亀 4 年の狭山市金剛院像はその事実をよく示しており、玉運法眼の作例中出色の 出来映えをみせている。高く評価してよいであろう。戦国末期の一地方仏師の活動が思いのほか広 く丹念であることを確認して筆を擱くことにしたい。 最後に、前稿の不備を補うきっかけを与えていただいた文化庁奥建夫氏の御好意に深甚の感謝の 意を表させていただく。また、尊像の調査にあたって、無理な願いを聞き入れていただき御懇切に 対応いただいた金剛院住職清水亮一師、願求院住職鷹觜俊道師に心からの御礼を申し上げたい。
註 1) 青森県史叢書 平成 17 年度『下北の仏像 - 下北地方寺院所蔵文化財調査報告書』 編集 青森県文化観光部 文化振興課県史編さんグループ 発行 青森県史友の会 平成 18 年 1 月 31 日発行 2) 法橋玄慶、号は広峰。延宝元年(1673)千葉県市原市森厳寺木造釈迦如来立像像内墨書銘を初見に 貞享・元禄年間に武・相・房・野州等広範囲にわたって造仏・修理に携わっていることが確認さ れている。現在のところ享保 2 年(1717)の注文書を持つ狭山市金剛院本尊不動明王坐像が最終 作となっている。元禄 6 年(1693)栃木県都賀町長福寺木造薬師如来立像では「洛陽烏丸大仏 師法橋玄慶広峰」と名のる。 3) 『狭山の社寺誌』 昭和 59 年 3 月 31 日 狭山市教育委員会発行 4) 『狭山の社寺誌』では、「善人」を「善八」と人名として読んでいる。「善人」が正しいであろう。 5) 『願求院史』 昭和 63 年 11 月 15 日発行 編者柳谷豊太郎 発行松風山願求院 6) 志木市史調査報告書『志木風土記稿』(第 2 集)所収 昭和 56 年 3 月 1 日 志木市発行 7) 銘札は 12 枚ある。ヒノキ材柾目の薄板製で、頭部山形につくり下端は隅取をする。寸法は各札共 高さ 15.1㎝、幅 6.1㎝、厚さ 0.3㎝。当初より一組のものであることは明らかで、12 枚とも一筆に よると判断される。本尊再興等に触れた主要な銘札をあげると、次のようになる。 ①(表) 至心院 (裏) 家内安全 本尊阿弥陀如来安阿弥作 再興大施主細谷三郎左衛門 大仏師宗慶再興 子孫長久 敬白 ②(表) 誓誉了悦和尚 (裏) 廓蓮社然誉上人弁随和尚 当院開基往誉即生大徳 専修寺開山代々上人等 心誉意空和尚 奉書写教誉 ③(表) 宝永第二乙酉稔 願主 (裏) 当院諸檀那等 当院中興聞誉通三和尚 三界六道有無両縁等 七月十五日 現世安穏後生善所 8) この頃の「宗慶」という仏師では、寛永年間武相地方で活動した鎌倉仏師「大貳宗慶法印」が確認 されている。寛永 5 年(1628)東京都多摩市小野神社木造随身倚像の「寛永五戊辰年三月二十五日 相州鎌倉仏師大貳宗慶法印作之」像内墨書銘を初見に、同 20 年(1643)鎌倉市英勝寺木造阿弥陀 三尊像の中尊及び十六羅漢像 2 躯の像内墨書銘に名を記す。中尊銘に「扇谷住」と見え、在所を明 らかにする。ただし、宝永 2 年(1705)とはかなりの隔たりがあるので、同一人物と見るのは難しい。 あるいはその後継者かとも思われるが、確定はできない。 〔法量〕単位㎝ 金剛院地蔵菩薩立像 像 高 79.5 髪際高 74.7 頭頂〜顎 14.6 髪際〜顎 9.4 耳 張 11.2 面 張 9.0 面 奥 12.8 肩 張 17.5 臂 張 25.9 胸 奥 14.1 腹 奥 14.9 袖 張 23.9 裾 張 18.1 裾 奥 15.7 足先開(内) 9.4 (外) 15.5 台座高 31.4 蓮肉径 24.1 框座幅 46.9 框座奥 36.5
図 23 同 №3 (表)・(裏) 図 22 同 №2 (表)・(裏) 図 21 願求院像内納入銘札 №1 (表)・(裏) 願求院阿弥陀如来立像 像 高 96.6 髪際高 90.4 頭頂〜顎 17.3 髪際〜顎 11.1 耳 張 13.3 面 張 10.2 面 奥 13.8 肩 張 20.2 臂 張 30.3 胸 奥 16.1 腹 奥 16.5 袖 張 29.5 裾 張 23.0 裾 奥 11.6 足先開(内)11.2 (外) 17.6 台座高 30.8 蓮肉径 27.9 框座幅 72.5 框座奥 59.0 光背高 130.0 光背幅 67.5 〔追記〕 本稿を作成するあたっては、前に名をあげた方の他、以下の方々や機関に御教示、御協力を賜った。 お名前を記して感謝の意を表したい。(敬称略、順不同) 高橋光昭 半貫芳男 大野政巳 武井尚 諸岡勝 森内優美子 狭山市教育委員会 川越市立博物館 埼玉県立文書館 東京家政大学図書館 なお、願求院阿弥陀如来像の修理前の図版は、同寺檀家の方(氏名不詳)が撮影した写真を複写させ ていただいたことをお断りしておく。また、参考のために重要な像内納入銘札の図版を掲載しておく。