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博士論文 概要書

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博士論文 概要書

清国人留学生の思想と行動

―早稲田大学出身者を中心に―

The Thought and Behavior of Chinese Students Studying Abroad in Japan In the Late Qing Dynasty

-Focusing on WASEDA University graduates-

早稲田大学大学院社会科学研究科 地球社会論専攻現代日本学研究日本歴史論

孫 倩

(2)

No.1

本論では、近代中国における日本留学の起源といわれた清末(1895年日清戦争後)に、

中国人留学生の言動について考察した。とりわけ早稲田大学で学んだ清国人留学生たちを 中心に、彼らの思想と行動を把握した上で、清末留日学生が中国の近代化・日中関係にど のような役割を果たしたのかを検討した。

一、問題の設定

近代中国人留学生に関しては、既に膨大な量の研究が蓄積されている。しかし、以下の 2点をめぐり、まだ検討する余地があると考えられる。

① 思想面において、清国人留学生が創刊した諸雑誌を通じて、彼らの思想を分析した 研究はあるが、雑誌『河南』を事例に、清国人留学生の思想を論じたものは管見の 限りでは、見当たらない。そして、早稲田大学における清国人留学生が遺した卒業 記念帳『鴻跡帖』に関する研究は乏しい。同史料に収録されている揮毫を解読して、

留学生たちの考えを検討する研究はまだ見当たらない。

② 留学生に関する人物研究はいくつかあるが、著名人のみを取り上げた事例が多い。

清国人留学生のうち、魯迅や宋教仁のようなエリートたちに関する研究成果が蓄積 されている一方、様々な事業に黙々と取り組んでいた多数の留日経験者に焦点を当 てた研究は十分とは言い難い。早稲田大学を例に、同校出身の清国人留学生の帰国 後の行動を検討する余地があるように思われる。

以上の問題提起に立脚し、本論では以下の5点の課題を明らかにした。

第一に、数多くの清国人留学生教育機関の中で、早稲田大学清国留学生部はどのような 存在であったのか。

第二に、『河南』は、河南籍留学生が創刊した雑誌であり、早稲田大学出身の河南籍留 学生段世垣もその創刊者の一人であった。同誌に掲載された留学生たちが書いた文章を通 じて、留学生投稿者の思想は窺えるのか。

第三に、『鴻跡帖』を手掛かりに、同史料を解読したうえで早稲田大学清国留学生部を 卒業した人々の考えはどのようなものであったのか。

第四に、早稲田大学出身の清国人留学生は帰国後、どのような行動をしたのか。

第五に、早稲田大学出身の清国人留学生が時代の変遷の中で、どのような役割を果たし たのか。

以上の課題を考察するため、本論は次のような構成をとった。

二、本論の構成

序章 近代中国人留学生研究の現状と本論の目的・構成 第一部 清末における日本留学

第一章 日本留学概説

第二章 清国人留学生の教育機関 第二部 清国人留学生の思想

―雑誌『河南』と史料『鴻跡帖』から見る―

(3)

No.2

第三章 清国人留学生と雑誌『河南』

第四章 史料『鴻跡帖』から見る清国人留学生 第三部 清国人留学生の帰国後の行動と役割

―早稲田大学出身者を中心に―

第五章 清国人留学生たちの帰国後の行動 第六章 清国人留学生の役割

終章 本論の総括と今後の課題

三、各章の概要

序章 近代中国人留学生研究の現状と本論の目的・構成

本章では、近代中国人留学生に関する先行研究を整理し、本論の目的・構成を述べた。

先行研究の不備な点を補うため、前述した「問題の設定」の中で2点の問題意識を持ち、5 点の課題について考察した。

第一部 清末における日本留学 第一章 日本留学概説

本章では、近代において、米欧への中国人留学生派遣の歴史を振り返りながら、後の日 本留学を中心に、その経緯と清国人留学生の社会活動を再考してみた。近代の留学生教育 について、最初の留学生派遣先はアメリカであった。1872年、アメリカ留学の第一人者の 容閎の計画案により、留学生30名がアメリカへ派遣された。しかし、派遣留学生が異国文 化や環境などの影響を受けた一方、自国の伝統文化を守ることができなくなった。このよ うな弊害があったため、アメリカへの留学生派遣は挫折し、1875年四回目の派遣後一時的 に中断した。1909年、アメリカ政府が「庚子賠償金」の一部を留学基金として、清国に返 還した後、派遣は再開した。他方、ヨーロッパ諸国への留学生派遣は、1875年から福州船 政局が多数の学生を、ヨーロッパ諸国へ送ったことから始まった。この派遣は、海軍に関 する専門技術を勉強させることが目的であった。

また、日清戦争の惨敗を契機に、清国は西洋より東洋の日本を第一モデルとして各分野 を習得し始める。日本への留学生派遣事業について、日清両国の政治界や学界などで活躍 していた人々(近衛篤麿・上田万年・矢野文雄・光緒帝・張之洞・康有為)を挙げて、彼 らの主張を分析した。両国はそれぞれの立場から、ともに前向きな姿勢を取った結果、清 国人留学生数は1万人に近い時期もあった。大勢の留学生は就学以外にも、さまざまな社 会活動にも携わった。たとえば、新知識や近代文明を清国の国民に伝えることを目指した 漢訳活動や諸雑誌の発行、または政治熱心な留学生たちの中国同盟会入会の行為などであ る。彼らは中国の政治、文化などの諸方面に貢献し、日清両国の交流にも尽力した。

第二章 清国人留学生の教育機関

本章では、東京における各教育機関を中心に、清国人留学生教育の実態において概観し た。その上で、ともに私立大学構内に設立された清国人留学生教育機関として、法政大学

(4)

No.3

清国留学生法政速成科と早稲田大学清国留学生部を比較、検討して、それぞれの特徴を捉 えて論じた。

まず、留学生教育に当たった東京の主な学校(21校)を教育機関の種類(予備校・正式 な学校)、創立形態(特別成立・付属学校)、創立時期から分析した。そして、各学校の 設立経緯、授業科目、講師陣などを紹介した。次に、早稲田大学清国留学生部を中心に、

同部の開設とユニークな教育方針の確立、講師陣と生徒による評価、その閉鎖について述 べた。最後に、法政大学清国留学生法政速成科と早稲田大学清国留学生部を教育方針、設 置科目、人材養成、入学者・卒業生数から比較してみた。清国留学生部と清国留学生法政 速成科は、ともに清国の国情に応え、適切な清国人留学生教育機関として成立した。法政 は法律・政治分野、早稲田は師範教育・実業教育という内容的な特徴を持っていた。した がって、清国人留学生の教育に関して、両校は相互補完的役割を果たしていたと思われる。

第二部 清国人留学生の思想

―雑誌『河南』と史料『鴻跡帖』から見る―

第三章 清国人留学生と雑誌『河南』

本章では、河南籍の清国人留学生が創刊した雑誌『河南』を例に、同誌に載せた留学生 たちが寄稿した文章を分析して、留学生投稿者の思想を考察してみた。創刊者・投稿者に 関する調査や、投稿論文の紹介をしたうえで、投稿論文を分析した。その結果、留学生投 稿者たちが政治、思想文化、河南省の社会問題などに熱心であったことが判明した。以下 は、彼らの主張である。まず、政治に関心を持っていた者は、国難を救うため、国自らが 強大化しなければならないと考えている。具体的な方法は、「政治革命」を通じて、清国 政府を打倒し、新政権が成立することであると指摘する。また、思想文化面において、留 学生たちは、国民の思想啓蒙教育に熱心であり、西洋文明を国民に伝え、国民精神を奮い 立たせようと意図した。個人の思想的独立が進めば、国家の強大化が実現できると主張し ている。そのほか、社会問題をめぐって、留学生たちは河南省において、汚職事件、不公 平な裁判、民生問題などを取り上げて論じた。それらの文章によって、地域の社会問題が 有識者の注目を引き、地元住民の覚醒を喚起し、河南省の社会風習が改善できると彼らは 期待した。なお、河南省の地理環境や、言語・文化・教育などを紹介した留学生たちは、

地元民衆のアイデンティティーの確立、文化優位性の認識やプライドの養成を考えていた。

このように、国民が地域および国に自信を持ち、国家建設に尽力することを留学生投稿者 は望んでいた。

第四章 史料『鴻跡帖』から見る清国人留学生

本章では、『鴻跡帖』(全七冊)を中心に、留学生揮毫者の思想を検討した。主に「『鴻 跡帖』の由来」、「同史料の揮毫者と揮毫」、「同史料による清国留学生部の開設目的と 存立意義の考察」、「留学生揮毫者に関する調査」、「留学生揮毫者の思想」について論 じた。

その中、第一に、『鴻跡帖』の由来は、清国外交官銭恂が早稲田大学教授青柳篤恒に宛

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No.4

てた書簡、『早稲田学報』に載せた原稿募集の記事、銭恂と楊枢(駐日公使)の揮毫を挙 げて説明した。

第二に、同史料の揮毫者と揮毫について、各冊に収録されている揮毫者の氏名と揮毫の 中身を整理して表を作成した。同史料には、1906年から1910年までの間、早稲田大学清 国留学生部卒業生(第二・四・五・七冊)、外交官・教育行政の地方官僚(第一冊)、進 士(第三冊)、皇族・将軍・憲政大臣(第六冊)、全員278名の揮毫を収録している。揮 毫は早稲田大学用箋で1、2枚程度のものであり、先人の詩文、あるいは自作の詩文を書い たものであった。留学生揮毫者のほうは、自作の詩文を遺したのが多数を占めている。

第三に、同史料による清国留学生部の開設目的と存立意義について考察した。数人の留 学生揮毫者の揮毫を解読し、以下の結論が出た。三つの開設目的の中で、一つ目の「教育 の代行」は実現した。二つ目の「革命思想対策の代行」は失敗するという結果となった。

そして三つ目の「中国進出」は達成した。数人の揮毫のみを分析して、このような結論を 出したのは不十分であるが、清国留学生部卒業生の職業ランキングの上位を占めた教育者、

革命家の存在(第五章を参照)と早稲田大学教員への感謝の気持ちを表した数多くの留学 生揮毫者(本章を参照)と合わせて考えると、この結論は無理のあるものではないだろう。

第四に、留学生揮毫者に関する調査は、『早稲田学報』や『早稲田大学百年史』から関 連情報を収集し、『早稲田大学中国留学生同窓録』(戊申夏刊)を参考にしたうえで、さ らに中国側の資料や著作を活用し、留学生調査と分析を行った。

最後に、留学生揮毫者の思想について、多くの者は戦国時代における強国の秦や楚、強 大な隋・唐・漢の時代、各国の偉人の伝説などを挙げて、古代における優れた中華文明を 振り返りながら衰微した国勢を回復しようとした。その方法は、強国となった日本を参考 にし、日本と連合して欧米に打ち勝つということであった。特に、日本と中国は、ともに アジアにあり、「同文同種」、「唇歯相依」の友好関係を築いた隣国同士だと多くの留学 生は信じていた。逆に、敵対関係と認識した者がほとんどいなかったのである。それゆえ、

当時において、反日感情は彼らの中になかったであろう。むしろ、共に協力し欧米諸国に 対抗しようとした者が多かったのである。ここでまとめた留学生たちの思想は、留学中、

彼らが考え、感じたものであった。これらの問題は、当時において注目されたものでもあ った。各自の思想を持って帰国した後、各領域で問題解決の道を探ってみた留学生たちの 行動と役割は次の第三部で述べてみた。

第三部 清国人留学生の帰国後の行動と役割

―早稲田大学出身者を中心に―

第五章 清国人留学生たちの帰国後の行動

本章では、早稲田大学出身の清国人留学生の帰国後の行動を考察した。彼らが帰国後、

どのような活動をしたのかが明らかとなった。教育者、革命家、政治家などとして中国近 代史の表舞台に登場した人物が多かったのである。

まず、清国留学生部卒業生について、1906(明治39)年予科第一回卒業生、1907(明治

40)年予科第二回卒業生、1908(明治41)年師範本科第一回卒業生、1909(明治42)年師

(6)

No.5

範科・研究科卒業生を対象に、『早稲田学報』に掲載されたこの四年間の卒業生1066名の 名簿を手懸かりに追跡調査を行った。結果は、卒業生の出身地・専攻、帰国後の経歴とい う観点から整理した。出身地調査の結果は南方地域、とくに浙江省出身者が多い。専攻に ついては、1906・1907(明治39・40)年は、政法理財科を専攻した学生が一番多く、特に 法律、政治経済を勉強した人が顕著である。また、1908・1909(明治41・42)年は、物理 化学を専攻した人が全体の半分を占めている。帰国後の経歴は、1066名のうちの132名を 明らかにした。この中で、教育者となった人が一番多く、83名である。その次は、政治家 51名、革命家23名、法律家11名、学者7名(言語学者・文学者・歴史学者を含む)、起 業家5名、経営者4名、医学者3名、記者1名、作家1名、詩人1名(多種多様な職業を 経験した者がいるため、合計は132名を越える)となっている。教員養成を第一目的とし て創設された清国留学生部は、教育者以外、政治家や革命家など中国の政治改革や革命運 動に関与した人材を多数養成したことは大きな特徴の一つとなるであろう。もう一つの特 徴は、卒業生たちが人文社学科学のみならず、自然科学でも活躍していた点である。そし て、個人の職業経験はかなり多岐にわたっている。

次に、『早稲田学報』に掲載された大学部・専門部出身の清国校友の動向により、大学 部や専門部卒業生は政治、教育、法律などに従事していたことがわかる。彼らは国会開設、

法律の制定、教育改革などに取り組んでいた。また、名門出身者(林則徐の曾孫たちであ る劉崇傑兄弟四人)や著名人とつながった者(唐紹儀の甥である唐宝鍔・梁啓超とは舅同 士である林長民・劉少奇の舅である王治昌)、彼らも早稲田大学を留学先として専門知識 を習得した。帰国後、各分野の第一人者となった。

第六章 清国人留学生の役割

本章では、第五章で行った早稲田大学出身の清国人留学生に関する追跡調査に基づいて、

留学生たちの役割を「中国社会変革の主役」、「日中両国の架け橋」という点から検討し た。

まずは、「中国社会変革の主役」の部分では、追跡調査の中で多数を占めた教育者、政 治家、革命家を対象に、代表的な人物(陳時・宋教仁・湯増璧)を挙げて、それぞれの動 向をまとめた。教育者は中国国内各地の学校で人材養成、啓蒙活動、学問研究、学校の運 営などに尽力し、中国の教育の近代化に寄与した。また、政治家や革命家は、国家・地方 議会の議員となる者がいた一方で、中国同盟会に参加し、革命運動に参画する者もいた。

彼らは政治改良、民主建設、国家発展などに取り組んだ。もちろん、そのほか、法律関係 の人材は、近代法制社会に転換する段階において、中国の法律制度の整備に貢献した。学 者たちは各分野の専門家として活躍し、人文社会科学や自然科学の発展を推進した。特に、

自然科学を専門とする人材が少ない清末・民国時代、理科・医科を学んだ者はエリートの 中のエリートといえよう。その中では、医学者は、西洋医学の分野でまだ遥かに遅れてい る当時の中国において、西洋医学の教育や研究、病気の治療や予防などに大きな役割を発 揮していた。

次に、「日中両国の架け橋」の部分は、早稲田大学出身者と母校、早稲田大学と中国、

(7)

No.6

日本と中国にわけて論じた。早稲田大学出身の清国留学生と早稲田の絆が彼らの在学中は もちろん、卒業時や帰国後も強まったのである。卒業時、留学生たちは早稲田での留学生 活に未練を残したと同時に、講師たちに対する感謝や恩返しの気持ちを持っていたことは 彼らが揮毫した詩文(第四章参照)から読み取れた。一方、母校は留学生に対する誇りや 期待は大隈総長、高田学長、そして青柳講師の演説(第五章参照)を通じてわかる。この ような生徒と母校との交流はほかの形でも続いたことは、『早稲田学報』に掲載されてい る同窓会や送別会、謝恩会などの記事から検証できた。この深い絆は100年以上を超えて、

21世紀の今日までもしっかり結ばれている。2017年3月19日、早稲田大学中国校友会が 北京で発足した。早稲田大学と中国の間に、留学生の存在があったから、100 年を超えた 交流が現在でも続いているのである。

なぜ早稲田大学は中国で有名なのか。大隈重信の「東西文明の調和」などの政治的な主 張の影響以外に、早稲田大学での独特な中国研究、中国語教育などの中国を重視する学術 的な雰囲気もその要因の一つかもしれない。さらに、清国留学生部の設置、早稲田大学出 身の留学生と母校との交流、および彼らが帰国後に果たした役割も重視しなければならな いだろう。本章で述べた毛沢東の師であった湯増璧は、毛に深い思想的影響を与えた。ま た、前章で述べた劉少奇の義父、王治昌も早稲田大学出身であった。毛と劉は後に中華人 民共和国の初代主席と二代主席として、早稲田大学との交流を重視しただろう。1955年12 月1日、中国学術視察団が訪日した。日本の諸大学の中で、この一行は早稲田大学、立命 館大学、大阪大学の三校で講演した。関東地域は早稲田大学のみであった点から、早稲田 大学と中国はいかに密接な関係を結んでいるのかが読み取れた。その後、学術的交流のみ ならず、文化やスポーツや教育などの交流も開始した。政治についても、中国の政治家、

特に歴代国家主席の中の二人(江沢民・胡錦濤)は訪日した時、早稲田大学で講演を行っ た。このように、早稲田大学が近代以来、日中両国の交流の大切な拠点の一つとして日中 友好関係に寄与している。その原因は、数多くの早稲田大学出身の留学生が早稲田大学と 中国の間に仲介役として努力したことにあるだろう。

それだけでなく、早稲田大学出身の留学生たちは、日本と中国の間の掛け橋とも言える だろう。彼らの存在で、清国皇族や役人の訪日および来校が頻繁になった。中国官員の中 には早稲田大学出身者は少なくなかった。これも、早稲田大学と中国の親密な関係の理由 の一つといえ、日中関係を左右できるパワーの一つともいえよう。本論で挙げた人物の中、

皇族に随行して訪日・来校した早稲田大学出身者は何人もいた(唐宝鍔・戢翼翬・曹汝 霖・劉崇傑)。いずれも日中関係について大切な役目を担っていた。留日学生の第一世代 のみならず、彼らの子孫(留日学生の第二世代)も日中関係に多大な貢献をした。前章(第 五章第三節第二項)で林長民の紹介文で言及した林と親交があった廖仲愷が1904年、早稲 田大学高等予科に一年間在学した。彼の息子の廖承志も同大学附属第一早稲田高等学院に 在学した経験があるので、親子は校友同士であった。なお、留日学生の第一世代といえる 清国留学生の中の早稲田大学出身者およびその後の代々の同校出身の中国人留学生はもち ろん、校友として同校出身の日本人政治家(元総理大臣の石橋湛山、福田康夫、海部俊樹、

小渕恵三、元外務大臣の田中眞紀子、河野洋平)も両国友好関係に尽力した。

(8)

No.7

終章 本論の総括と今後の課題

本章では、前掲した6章を総括し、序章で提起した問題をめぐって、結論を得ることも できた。要約すると、以下のようになる。

第一に、数多くの清国人留学生教育機関の中で、早稲田大学清国留学生部はユニークな 存在であった。ほかの教育機関はほぼ速成教育を実施していたのに対し、清国留学生部は 独特の長期教育を徹底していた。

第二に、雑誌『河南』に掲載された、留学生たちが書いた文章を通じて、留学生投稿者 の思想を窺うことができた。つまり、政治に関心を持っていた者は、「政治革命」を通じ て、清国政府を打倒し、新政権が成立することを訴えている。また、国民の思想啓蒙教育 に熱心な者は、西洋文明を国民に伝え、国民精神を奮い立たせようと意図した。そのほか、

社会問題に注目している者は、地域の社会問題を取り上げて論じた。河南省の社会風習が 改善されることを考えていた。なお、河南省の地理環境や、言語・文化・教育などを紹介 した留学生たちは、文化優位性の認識やプライドの養成を望んでいる。

第三に、史料『鴻跡帖』を手掛かりに、同史料を解読したうえで早稲田大学清国留学生 部を卒業した人々の考えを明らかにした。留学生揮毫者たちは、古代における優れた中華 文明を振り返りながら衰微した国勢を回復しようとした。その方法は、強国となった日本 を参考にし、日本と連合して欧米に打ち勝つということであった。共に協力し欧米諸国に 対抗しようとした者が多かったのである。

第四に、早稲田大学出身の清国人留学生は帰国後、教育者、革命家、政治家などとして 中国近代史の表舞台に登場した人物が多かったのである。教員養成を第一目的として創設 された清国留学生部ではあるが、教育者以外、政治家や革命家など中国の政治改革や革命 運動に関与した人材を多数養成したことは大きな特徴の一つとなるであろう。もう一つの 特徴は、卒業生たちが人文社会科学のみならず、自然科学でも活躍していた点である。そ して、個人の職業経験はかなり多岐にわたっている。大学部や専門部卒業生は政治、教育、

法律などに従事していた。彼らは国会開設、法律の制定、教育改革などに取り組んでいた のである。

第五に、早稲田大学出身の清国人留学生が時代の変遷の中で、中国社会変革の主役、日 中両国の架け橋という役割を果たした。まずは、「中国社会変革の主役」の部分では、追 跡調査の中で多数を占めた教育者、政治家、革命家を対象に、代表的な人物(陳時・宋教 仁・湯増璧)を挙げて、それぞれの動向をまとめた。次に、「日中両国の架け橋」の部分 は、早稲田大学出身者と母校、早稲田大学と中国、日本と中国にわけて論じた。早稲田大 学出身の清国留学生と早稲田の絆が彼らの在学中はもちろん、卒業時や帰国後も強まった のである。このような生徒と母校との交流は、『早稲田学報』に掲載されている同窓会や 送別会、謝恩会などの記事からも検証できた。早稲田大学と中国の間に、留学生の存在が あったから、100年を超えた交流が現在でも続いている。それだけでなく、早稲田大学出 身の留学生たちは、日本と中国の間の掛け橋とも言えるだろう。彼らの存在で、清国皇族 や役人の訪日および来校が頻繁になった。中国官員の中には早稲田大学出身者は少なくな かった。これも、早稲田大学と中国の親密な関係の理由の一つといえ、日中関係を左右で

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No.8

きるパワーの一つともいえよう。

以上が本論の結論であるが、今後の研究課題としては以下のような点が残されている。

第一に、本論第二章で、ともに清国人留学生教育機関として、法政大学と早稲田大学と を比較してみたが、ほかの私立大学と早稲田大学との比較も試みたい。なお、私立大学同 士のみならず、私立大学と国立大学とを比較してみたい。

第二に、本論第二章で紹介した早稲田大学清国留学生部の講師陣の中、中国各地の学堂 で教員を務めた経験がある講師は数人がいる。当時、清国人留学生が日本に訪れた一方、

日本人講師も清国に派遣されていた。これらの日本人講師を対象に、彼らが中国の近代化 や日中関係にどのような役割を果たしたのかを検討したい。

第三に、本論第三章で雑誌『河南』を例に、留学生投稿者の思想を考察してみた。ただ し、本論第一章で述べたように、『河南』は各省出身の留学生が創刊した諸雑誌の中の一 つのみである。そのため、ほかの留学生が創刊した雑誌を取り上げ、『河南』と比較して 考察する必要がある。

第四に、本論第五章で行った追跡調査の中、対日協力者(漢奸)も出た。留学生の中の 親日派を今後の課題として研究してみたい。

第五に、本論は清末を中心に、議論を展開してきた。今後は、民国時代や中華人民共和 国成立後の中国人留学生に対して、研究し続けたい。

以上が、今後の課題として残されているものである。

(10)

No.9

注釈)

・2ページ以降はNo.1を複写してご利用ください。

・副題は使用される場合のみ記載してください。

・本文が英文による場合、和文・英文の表記位置を入れ替えてください。

参照

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