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日本佛教學會年報 第67号 033橋本 哲夫「パーリ語経典韻文中の「信仰」について」

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(1)

パーリ語経典韻文中の 信仰 について

橋 本 哲 夫

(種 智 院 大 学)

faith 信 仰 は,Andersenの Glossary内 で は,saddha, pasanna, khanti,pasadaの訳語である。おなじく faithful 信仰(心)のある は saddhaの訳語である。しかし,これらのパーリ語が,テキスト ⑴ 中で常に 信仰 または 信仰(心)のある を意味しているわけではない。⑵ 特に,saddha(saddha)に関しては, 信仰 または 信仰(心)のあ⑶ る と訳すことに不自然さを感じる個所がいくつかある。

本稿ではそれらの内のひとつである saddha dutiya purisassa hoti に ついて 察する。 この語句は,テキスト内では,SN. vol. 1, p. 25, G と SN.vol.1,p.38, G に出現する。 dutiyaは,テキスト内では, 同伴者 または 第2 の意味で使われ ている。 同伴者 の場合, いないほうが良い のニュアンスを伴ってい⑷ ⑸ る。 第2 は,第1のものと対等な 第2 である( 第1のものに比べ て劣った という意味はない)。 ここでは,主語が saddha で述語が 同伴者 である。saddha が 信仰 を意味するのであるなら, 信仰は,(いないほうがよい)同伴者 である となり,不自然である。この場合,saddhaが 信仰 でないか, dutiyaが,(いてほしい)同伴者 のどちらかと えねばならない。 1 パーリ語経典韻文中の 信仰 について(橋本哲夫)

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SN. vol. 1, p. 38, G, SN. vol. 1, p. 25, G の順に 察する。

A)SN. vol. 1, p. 38, G の場合,いま仮に,saddhaが, 信仰 を意味す るとした場合,仮訳は以下となる (下線部は問題点)

saddha dutiya purisassa hoti //panna c enam pasasati //nibbanabhi-rato macco //sabbadukkha pamuccatıti////信仰は人の(いてほしい) 同伴者である。明らかな智 が彼を教え諭す。人は,安らぎ(ニルバー ナ)を楽しんで,一切の苦しみから逃れる。(SN. vol. 1, p. 38, G.)

そして,このガーターの要旨は, 信仰が,智 の遠因となって,人は, 一切の苦しみから逃れる ということになるが,そのことは,他のいくつ かのガーターを組み合わせると認められるようである⑹

saddhayaham pabbajito //agarasma anagariyam //satipanna ca me buddha //cittan ca susamahitam //kamam karassu rupani // n eva mam vyadhayissasıti ////信の心をもって,私は家を出て, 家無き(修行者の境地)に赴いた。我が正しい思いと智 とは増大し た。我が心はよく安定している。(悪魔よ)色々の姿を現すがよい。 しかし私を悩ますことは出来ないであろう。(SN. vol. 1, p. 120, G.= Thag. 46)

mamsacakkhussa uppado maggo dibbassa cakkhuno /yato nanam udapadi pannacakkhu anuttaram / yassa cakkhussa patilabha sabbadukkha pamuccatıti // 肉眼はやがて超人的な眼の生じる道で あり,そこから智 が生じる故に,それが最高の智 の眼である。そ の眼を得ることによって全ての苦しみから解放される。(Itivuttaka,p. 52, G.)

ところが,上記で, 智 が,彼を教え諭す(panna c enam pasasati)

と訳した部分のpasasatiは,テキスト内は勿論 Pali Tipitakam Concor-⑺

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danceに挙げられた用例でも,意味が 支配・統治する であり,目的語 は,非明示なものひとつを除いて全て 王国 大地 等であり,人間で はない。(非明示なものも,前後から 王国 と推察される)。従って, enam を purisaとみなし, 彼 と訳すのは,自然ではない。enam を女 性・単数・対格(Geiger A Pali Grammer sec. 7.2)と解して, それを すなわち saddha を 支配する,統治する とするほうが自然である。 ところが,そうすると訳は, 智 が信仰を支配・統治する となる。こ れはまた不自然である。 ここで,ノーマン博士によれば,saddha(Skt. sraddha)には,オー ルタナティヴな意味として, 欲望(desire) があるそうである。ここの⑻ saddhaをこの意味に解すると, 智 が欲望を支配・統治する となり, 自然である。

従って,このガーターの始めの部分 saddha dutiya purisassa hotiの訳 も, 欲望は,人の(いないほうがよい)同伴者である となる。ガータ ー全文の訳は以下のようになる 欲望は人の(いないほうがよい)同伴者である。明らかな智 がそ れを支配・統治する。人は,安らぎ(ニルバーナ)を楽しんで,一切 の苦しみから逃れる。 B)SN. vol. 1, p. 25, G.の場合,いま仮に,saddhaが, 信仰 を意味す るとした場合,仮訳はこのようである (下線部は,問題点)

saddha dutiya purisassa hoti //no ce assaddhiyam avatitthati //yaso ca kittıca tatvassa hoti // saggam ca so gacchanti sarıram pahaya ti // // 信仰は人の(いてほしい)同伴者である。もしも人に不信が残ら ないならば,彼には名声と名誉とが生じる。かれは身体を捨てた後に,天

3 パーリ語経典韻文中の 信仰 について(橋本哲夫)

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に行く。(SN. vol. 1, p. 25, G.) そして,このガーターの要旨は,(仏などへの)信仰が,人にあれば, その人には名声と名誉とが生じ,死後は,天に生まれる ということにな る。そのことは,他のいくつかのガーターを組み合わせると一見認められ るようである 名声と名誉が生じる について:

aggato ve pasannanam aggam dhammam vijanatam /agge buddhe pasannanam dakkhineyye anuttare //agge dhamme pasannanam viragupasame sukhe / agge samghe pasannanam punnakkhette anuttare // aggasmim danam dadatam aggam punnam pavad-dhati /aggam ayu ca vanno ca yaso kitti sukham balam //真に最 上の者を信仰し最上の教えを知り,無上の供養されるべきものである 最上の仏を信仰し,貪りを離れて安らかな,安楽な,最上の教えを信 仰し,最上の功徳をもたらすところである最上の僧団を信仰し,最上 のものに施しを施す人々には,最上の功徳が増大し,最上の寿命と美 貌と名声と名誉と幸福と力が増す。(Itivuttaka, pp. 88-89) 死後は,天に生まれる について:

ye dha laddha manussattam // vadannu vıtamacchara // buddhe pasanna dhamme ca // sanghe tibbagarava // ete sagge paka-senti // yattha te upapajjare // sace enti manussattam // addhe ajayare kule // colam pindo ratıkhidda// yatthakicchena lab-bhati //parasambhatesu bhogesu //vasavattıva modare //ditthe dhamme sa vipako //samparaye ca suggatıti ////この世で,人た る身を得て,気前よくわかち与え,ものおしみをしない人々が,仏陀 と真理の教えに対して,信仰し,修行者の集いに対して熱烈な尊敬心

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をもっているなら,彼等は天界に生まれて,そこで輝く。もしも人間 の状態になっても,裕福な家に生まれる。そこでは,衣服食物,快楽, 遊戯が労せずして手にはいる。また(来世には)他人の蓄えた財物を 他化自在天のように,喜び楽しむ。現世ではこの報いがあり,死後に はよいところに生まれる。(SN. vol. 1, pp. 34-35, G) ところが,少し厳密に見ると,事情は異なる。 まず,ここでは 信仰 を表すのに,pasannaが使われており,sad-dhaではない。⑼ pasannaと saddhaとには,同義と思われる部 ⑽ 分と,異議と思われる部 分とがある。同義である部分を重視すれば,saddhaは, 信仰 であり, dutiyaは (いてほしい)同伴者 である。しかし,その場合(A)と同 じ矛盾が生じる。 一方,pasannaと saddhaは同義ではない,と えた場合,上記の要旨 を援護する用例はテキスト内には全くない。すなわち, 名声と名誉

(yaso kitti) をもたらすものに saddhaはない。また, 天に行く (sag-gam gacchati) ことの原因に saddhaはない。つまり,saddhaを 信仰 と解する限り,それと 名声と名誉 , 天に行く の間には,まったくつ ながりがなく,同一のガーター内で,続けて書かれる必然性がないという ことである。従って,saddhaは 信仰 以外のものと えねばならない。 また,続く no ce assaddhiyam avatitthatiの assaddhiyaも 信仰の否 定 以外の意味に解されねばならない。 では,その no ce assaddhiyam avatitthatiは,どう訳されるべきか? no ce assaddhiyam avatitthatiは, 名声と名誉 , 天に行く の原因・ 理由である。 天に行く(saggam gacchati) の原因は,テキスト中では他 には, 園に植え,林に植え,橋を作り,井戸の家や,貯水池を作る,休 5 パーリ語経典韻文中の 信仰 について(橋本哲夫)

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息所を与える 行為(SN.vol.1,p.33,G.), 施し物を受けるに適した多く の人に食べ物を施し,施し物をささげる 行為(Itivuttaka p.19,G.), も のおしみをしない,他に分け与える 行為(Itivuttaka p. 19,G.)の3例が ある。共通して, ものおしみをしないで,与えること の重要性が言わ れている。 ここで,assaddhiyaは assaddhaから作られた抽象名詞である。assad-dhaはテキスト内での5回の出現中3回(SN. vol. 1, p. 96, G に2回,Sn. 663), 吝嗇な(macchari) ものおしみする(kadariya) と並べて,劣 悪人の形容に使われている。さらに Sn. 663の assaddhaにノーマン博士 は,Kohlerが saddhaに与えた意味に言及して, ungenerous(狭量な)

という訳語を与えている。

以上の諸事実を え合わせると,no ce assaddhiyam avatitthatiは, 狭量さが残っていないならば と訳すべきである。

翻って,saddha dutiya purisassa hotiの訳を えると,ノーマン博士 によれば,saddhaには,二者択一的意味として, 欲望(desire) がある そうである。ここの saddhaをこの意味に近づけて解すると, 欲望は, 人の(いないほうがよい)同伴者である となり,(しかし)狭量さが残 っていないならば と自然に繫がる。 ガーター全文の訳は以下のようになる 欲望は人の(いないほうがよい)同伴者である。(しかし)狭量さが 残っていないならば,彼には名声と名誉とが生じる。かれは身体を捨 てた後に,天に行く。

こ の よ う に,saddha dutiya purisassa hotiの saddhaは, 欲 望

(desire) と訳されるべきである。

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⑴ SN. vol. 1, Suttanipata, Udana, Itivuttakaのガーター,および Thera-gatha, Therıgatha, Dhammapada.

⑵ ノーマン博士は,Sn.371の saddhaを believer, Sn.663の assaddhaを ungenerous, Sn. 853の saddha を empassioned, Thag.240の assaddha を unbelieving と訳し,さらに Sn.1146に対する注記中では,saddha に alter-nativeな意味として desire の意味のあることを記し,Dhp.97の assaddha の意味に with desire got rid of, without desire がある可能性を示し,さ らに pamuncantu sadddham の訳に give up their desire がある可能性を記 している(K. R. Norman The Group of Discourses 2001, PTS. pp. 428-429)。また,Thig. 43, 69の saddhayikaを fit-to-be-trustedと訳している。 一方,pasannaを faithと訳すことはない。ただし,pasıdatiを have faith と訳すことはある(Sn.563,Thag.673,833)。また,ノーマン博士は,Thig. 452の saddaを asaddhaとして, without faith の訳語を与えているが,こ こでは,採用しない。また,Sn. 766の addhaには v. l.として saddhaがあ るとする見解に言及し,否定しているが,この点はノーマン博士に従う (K.R.Norman The Group of Discourses PTS.2001,p.323)。また,Sn.

559=Thag. 829の adhimuccassuを have faith と訳している。* pamun-cantu sadddham に関しては,中村元,中村元選集決定版 ゴータマ・ブッ ダ Ⅰ 春 秋 社 1992年,pp. 462-423,村上真完 信 を 発 こ せ 再

pamuncantu sadddham ( 仏教研究 22号,平成5年3月)に詳しい。 ⑶ 動詞 saddahatiとその現在分詞 saddahanaおよび abhisaddahatiの現在

分詞 abhisaddahantについては,saddha(saddha)とは区別して扱う。 ⑷ dutiyaは, 第1 を意味する語が伴われている場合は, 第2 の意味

となり,そうでない場合は, 同伴者 の意味となる。SN.vol.1,p.131,G. の dutiyaは, 第1 を意味する語が伴われていないが,tadisika が 第 1 の意味を表していると え, 第2 を意味していると える。また, 同様に Thag. 97(=Thag. 862)の dutiyaは 第1 を意味する語が伴わ れていないが,注釈により 第2 の意味である(Theragatha-Atthakata, vol.1,p.213)。さらに,Thig.420の dutiya も 第1 を意味する語が伴わ れていないが,注釈により 第2 の意味である(Therıgatha-Atthakata, p. 247)。 ⑸ 同伴者= 悟りの邪魔もの (Thag. 54, 541, 896,1091)。同伴者= いさ かいと饒舌の原因 (Sn.49)。同伴者= 妄執 (tanha,Sn.740;Itivuttaka, p.9.G,p.109,G. ここでは,saddha は tanha の類義語である。)。同伴者= 7 パーリ語経典韻文中の 信仰 について(橋本哲夫)

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(悪魔からすれば)誘惑の邪魔者 (Thig. 230)。

⑹ vijjaと pahassatha(=pajahissatha, comm.)を用いて,1ガーターで ほぼ同義のものがある saddhaya sılena ca viriyena ca samadhina dhammavinicchayena ca sampannavijjacarana patissata pahassatha duk-kham idam anappakam 鞭を与えられた良い馬のように勢いよく努めよ。 信仰により,戒めにより,励みにより,精神統一により,真理を確かに知る ことにより,智 と行いとを完成した人々は,思念を凝らし,この少なから ぬ苦しみを除け。(Dhp. 144)

⑺ pasasati=to teach,to instruct,to rule,to reign,to govern,PTSD.ただ し,注釈によれば,pasasatiは anusasatiとされる(Saratthappakasinıp. 94)。また dutiyaは sugatin ceva nibbanan ca gacchantassa dutiyika よ いところ,ニルヴァーナへ行くための同伴者(f.) とされる(Sarattha-ppakasinıp. 94)ことから,注釈者は,saddha は 信仰 とのみ解してい たようである。anusasatiには,少ないが, 統治する の意味がある(SN. vol.1,p.86,G,Sn.1002,Thag.914の3例)が, 信仰 が主語であるとして いる以上, 智 が,彼を教え・諭す とするのが自然である。comm kissa cabhirato ti, kismim abhirato. dutiya ti, sugatin ceva nibbanan ca gacchantassa dutiyika. panna cenam pasasatıti, panna etam purisam

idam karohıdan ma karıti anusasati.(Saratthappakasinıp. 94) ⑻ It is likely, then, that saddha here reflects the alternative sense of

sraddha desire (see Hans-Werkin Kohler, Śraddha in der vedischen und altbuddhistischen Literatur , Wiesbaden, 1973, p. 60and K. R. Nor-man, Dhammapada 97:a misunderstood paradox ,Indological Taurinen-sia, VII, pp.325-31(=Collected Papers II,pp.187-93)1979,p.329),and would therefore mean desiring . K. R. Norman The Group of Dis-courses PTS. 2001, p. 355. ad. Sn. 853, and see. p. 428. ad Sn. 1146. ⑼ garavaは, 同僚に対する尊敬(心) の意味である。

⑽ 仏,法,僧を対象として,順に,saddha・saddha・tibbagarava(Thig. 286)と pasanna・pasanna・tibbagarava(SN.vol.1,p.34,G.)のセット がある。また,saddhaと pasannaはともに仏,法,僧を対象とする(SN. vol. 1, p. 102, G., Itivuttaka, p. 88)。また,Dhp. 249では,yathasaddham と yathapasadanam とが並んで書かれている。また SN.vol.1,p.32,57,58 では,saddhaと vippasanna-cetasとが平行語(言い換え)と えられる。

pasanna が citta, netta とコンパウンドになるのに対して saddha はコン パウンドにならない。pasannaが目的語を持つことが多いのに対して

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dha は目的語を持つのが珍しい。pasanna が 出家 の原因とはならないの に対して saddhaは 出家 の原因となる。pasannaが tathagataを信仰の 対象としないのに対し,saddhaは tathagataを対象とする。pasannaは, 特定の個人(ブラフマ・デーヴァ)を対象とする(SN.vol.1,p.142,G.)。 パーリ経典韻文中,ここ(Itivuttaka, p. 88-9)以外で,yaso(名声)と kitti(名誉)をもたらすものは, 不死に到達するために,正しいまっすぐ な,八つの仕方よりなる,尊い道(八正道)を実践する人は,安楽を求めて それを実践するので,幸せを得,名誉を獲得し,彼の名声は増大する (Thag. 35)と言われるが, 尊い道(八正道) には 信仰(のある)(sad-dha,saddha) は含まれていない。また ゆっくりしてよいときにゆっくり し,急がねばならぬときに急ぐ賢者は 名声と名誉とを獲得し,友人達と も仲たがいしない (Thag. 293-4)と言われる。さらに, 名声と名誉 を 失うのは, 欲の交わり(methuna) をするからであるとも言われる (Sn. 817)。yasoだけに言及している場合,その原因については, 心は奮 い立ち,思いつつましく,行いは清く,気をつけて行動し,自ら制し,法に 従って生き,努め励む人は,名声が高まる (Dhp. 24)と言われる。kitti だけに言及している場合,その原因については, 行動規範(sıla)を守る 人は,常に名声と名誉と称賛とを得る (Thag. 611)と言われ, 行動規範 (sıla)を行うことによく専念している慎重な人は,この世で名誉を得,ま た死後に天界(sagga)で楽しむ。かれは至るところで楽しむのである (Thag. 618)と言われ, 修行僧は,正しく実践して,いかなる時にも悲し まず,名誉と幸せとを享受する (Thag. 1221;SN. vol. 1, p. 187, G.)とい われ,(ひとは)誠実を尽くして名誉を得る (Sn. 187;SN. vol. 1, p. 214, G.)といわれ,また 智 (panna)は名誉(kitti)と名声(siloka)とを 増大する (Thag. 551)と言われる。

このように yaso(名声)と kitti(名誉)をもたらすもの の内に saddha (saddha)は無い。また,上記の諸用例と文脈上繫がっている前後のガータ ー内にもない。(Dhp. 303には,saddhoと yasobhogasamappitoが見られ るが,これらは,sılena sampanno とともに,ある個人の形容に使っている のであり,相互に因果関係がないと える)。 天に行く(saggam gacchati) の原因は,ここ以外には, 園に植え, 林に植え,橋を作り,井戸の家や,貯水池を作る,休息所を与える 行為 (SN.vol.1,p.33,G.), 施し物を受けるに適した多くの人に食べ物を施し, 施し物をささげる 行為(Itivuttaka p. 19, G.), ものおしみをしない,他 に 分 け 与 え る 行 為(Itivuttaka p. 19, G.)の 3 例 の み で あ る。 天 9 パーリ語経典韻文中の 信仰 について(橋本哲夫)

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(sagga)に行く を 天(sagga)に生まれる(gacchati, uppajjati, upeti, etc.) と広く解した場合でも,その原因としては, 身の悪い行いを捨て, また,口の悪い行いを捨て,心の悪い行いを捨て,なお,その他の悪いとい われる行いも捨て,不善の行いをなさず,多くの善を行う (Itivuttaka p. 55,G.; p.25,G.)こと, よい行動規範(sıla)と,よい見解(ditthi)と, これらの二つのことを備えている (Itivuttaka p. 27, G.)こと, 正しい心 を持ち,正しい言葉を語り,身体で正しい行いをし,……この世の短い生涯 に,知識多く,功徳をなす (Itivuttaka p. 60, G.)こと, 行いのよい (Dhp. 126)こと, 福徳(punna)を生じる行いに務め励む (SN. vol. 1, p. 87, G.)こと, 繰り返し施しを行う (SN. vol. 1, p.174,G.;Thag.532) こと, 行動規範(sıla)を守る (Thag. 609)こと, 富を得たならば,自 ら用い,またなすべきことをなす。……親族の仲間を養う (SN. vol. 1, p. 91, G.)こと,(財を)受容し,かつ人に与えよ。能力に応じて与え,かつ 受容 (SN.vol.1,p.32,G.)すること, 善人 (SN.vol.1,p.19,G.)であ ること, 行動規範を行うことによく専念 (Thag. 618)すること, この 世で,人たる身を得て,気前よくわかち与え,ものおしみをしない人々が, 仏陀と真理の教えに対して,尊敬心(pasanna)あり,修行者の集いに対し て熱烈な尊重心(tibbagarava)をもっている (SN.vol.1,p.34,G.)こと, 両親に対する奉仕 (Itivuttaka p.111,G.;SN.vol.1,p.182,G.), 身体に より,言葉により,心による,法にかなった行いをなす (SN. vol. 1, p. 102, G.)ことが挙げられている。(SN. vol. 1, p. 102, G.は,直前に 賢者 は,仏・法・僧に対する信仰を安住させよ(buddhe dhamme ca sange ca, dhıro saddham nivesaye) とあるが,文脈上,繫がっていないと える)。 このように 天(sagga)に生まれる 原因の内に 信仰(saddha, saddha) は無い。また,上記の諸用例と文脈上繫がっている前後のガーター内にも,

信仰(saddha, saddha) との繫がりは無い。(ただし, 天 を saggaに 限らなければ,SN.vol.1,p.96,G.では,saddhaが tidiva-thanaに生まれ ることの原因のひとつとなっている。さらに, 信仰 を saddhaと saddha に限らなければ,Itivuttaka, p. 112では,saddahanaが devalokaで楽しむ ことの原因となっている。また,SN. vol. 1, p. 20, G. では saddahanaが parattha で快いことの原因となっている。* Dhp. 177では devaloka, para-ttha は, 物惜しみをしない 分かち合う ことで到達されるとあること から, 信仰 と 布施 との繫がりが予想される。)

うまれる の動詞を gacchatiに限定した場合,この3例のみであるが, upapajjati, upeti等の gacchati以外の動詞を範囲に入れても,同様に, 繰

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り返し施しを行う (SN. vol. 1, p. 174, G.;Thag. 532)こと, 富を得たな らば,自ら用い,またなすべきことをなす。……親族の仲間を養う (SN. vol. 1, p. 91, G.)こと,(財を)受容し,かつ人に与えよ。能力に応じて与 え,かつ受容 (SN.vol.1,p.32,G.)すること, この世で,人たる身を得 て,気前よくわかち与え,ものおしみをしない人々が,仏陀と真理の教えに 対 し て,尊 敬 心(pasanna)あり,修行者の集いに対して熱烈な尊重心 (tibbagarava)をもっている (SN.vol.1,p.34,G.)こと, 母または父を, ことわりに従って養うその奉仕 (SN. vol. 1, p. 182, G.)をすること, 両 親に対する奉仕 (Itivuttaka p. 111, G.)をすることが, 天に生まれる の原因とされており, ものおしみをしないで,与えること の重要性が言 われている。

The Groupe of Discourses 2nd ed. PTS. 2001, p. 87, p. 293. =注⑻。

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参照

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