永 観 堂 ホ ー ム ペ ー ジ
みかえり法話集 第2部
浄 土 宗 西 山 禅 林 寺 派 総 本 山 永 観 堂 禅 林 寺 目 次 永 観 堂 禅 林 寺 ご 本 尊 み か え り 阿 弥 陀 如 来 さ ま ... 3 * * * み か え り 法 話 集 * * * ... 3 1「 恩 」 に 目 覚 め て 生 き る (2014/6/01) ... 3 2「 不 思 議 」 を 感 じ 、「 あ た り ま え 」 と は 言 わ な い (2014/7/01) ... 4 3 道 林 禅 師 と 白 居 易 の 問 答 (2014/8/01) ... 4 4 家 庭 は 心 と 心 が 触 れ あ う と こ ろ (2014/9/01) ... 5 5 正 し い と い う こ と (2014/10/01) ... 6 6 憎 し み を 超 え て (2015/1/01) ... 7 7 仏 も 衆 生 も お や 子 の ご と く な る ゆ へ に 親 縁 と な づ く (2015/2/01) ... 7 8 「 し あ わ せ ノ ー ト 」 (2015/3/01) ... 8 9 「 親 よ り 先 に 死 ぬ の は 親 不 孝 だ よ 」 と 言 わ れ た ら ? (2015/4/01) ... 9 10 仏 さ ま の ね が い : 世 の 中 は 平 和 で 穏 や か で あ り ま す よ う に ( 上 ) (2015/5/01) ... 10 11 仏 さ ま の ね が い : 世 の 中 は 平 和 で 穏 や か で あ り ま す よ う に ( 下 ) (2015/6/01) ... 11 12 青 色 青 光 黄 色 黄 光 (2015/7/01) ... 11 13 「 は た ら き 」 と な っ て (2015/8/01) ... 12 14 彼 岸 花 に お も う (2015/09/01) ... 13 15 パ ン タ カ の お 話 (2015/10/01) ... 14 16 二 度 と な い 人 生 だ か ら (2015/11/01) ... 15 17 「 願 い ご と 」「 願 」 に つ い て (2016/2/01) ... 16 18 和 顔 愛 語 先 意 承 問 (2016/3/01) ... 17 19 物 を 受 く る に 心 を も っ て す 法 を 受 く る に 体 を も っ て す (2016/4/01) ... 17 20 仏 教 ボ ラ ン テ ィ ア (2016/5/01) ... 1821 念 仏 は 幸 福 の 大 道 な り (2016/6/01) ... 19 22 「 忍 辱 ( に ん に く )」 … 耐 え る 、 と い う こ と (2016/07/01) ... 20 23 今 が 一 番 幸 せ (2017/2/01) ... 21 24 感 動 と は 感 じ た ら 動 く こ と (2017/3/01) ... 21 25 健 康 っ て ど ん な 状 態 を い う の で し ょ う か (2017/4/01) ... 22 26 食 事 の と き に 「 い た だ き ま す 」 っ て い い ま す か (2017/5/01) ... 22 27 信 仰 心 (2017/6/01) ... 23 28 受 け 難 き 人 身 を 受 け て 、遇 い 難 き 本 願 に 遇 い て・・・法 然 上 人『 一 紙 小 消 息 』(2017/7/01) ... 24 29 命 の 平 等 ( 2017/8/01) ... 24 30 法 然 上 人 の お 歌 ( 2017/9/01) ... 25 31 管 見 ( 2017/10/01) ... 26 32 12 月 8 日 は お 釈 迦 さ ま の 成 道 会 ( 2017/12/03) ... 26
永 観堂 禅 林寺 ご本尊
みかえり阿弥陀如来さま
自分 よ りおく れ る者たち を待つ 姿勢
自分 自 身の位 置 をかえり みる姿 勢
愛や 情 けをか け る姿勢
思い や り深く 周 囲をみつ める姿 勢
衆生 と ともに 正 しく前へ 進む ためのリー ダーの 把握
のふ り むき
真 正 面 からお び ただし い人々の心 を濃く 受けと め
ても、なお正面にまわれない人びとのことを案じて、
横を み かえら ず にはいら れない 阿弥陀仏の み心
*** みかえり法話集 ***
1「恩」に目覚 めて生きる (2014/6/01)
お釈 迦 様 が説 かれた教 えは八 万 四 千 の法 門 と言 われるほど膨 大 で多 岐 にわたりますが、仏 教 の 説 くところ を突 き 詰 めてたった一 文 字 の漢 字 で 表 すとすれば何 とい う字 になるでしょうか。それは 「恩 」という字に極 まると言 われています。 「恩 」という字 は、「因 」と「心 」からできています。「因 」とは原 因 の「因 」です。つまり、自 分 が存 在す ることの原 因 、自 分 のいのちを支 えているものに心 するということが「恩 」だと言 えます。 また「因 」という字 には「もとづく」とか「受 け継 ぐ」という意 味 もあります。自 分 のいのちの「もとづき」 や「受 け継 ぎ」を考 えてみたとき、両 親 ・祖 父 母 ・曾 祖 父 母 ・・・先 祖 代 々から脈 々と受 け継 ぎ、自 分 のいのちが今 ここに存 している、ということに気 がつくのではないでしょうか。自 分 のいのちというのは、 数 え切 れないご先 祖 の方 々がこの世に人 間 として生 きておられたことの証であり、その無 数 とも言 え るいのちに我が身 はもとづき、この世 代 を受 け継 いでいるのです。 また、今 の自 分 のいのちを支 えているのは、身 近 な人 々をはじめまわりにある無 数 のいのち、そし て水 や空 気 、光 など自 分 を取 り巻 く環 境 のありとあらゆるもののおかげでもあります。 言 い換 えれば、 私 たち一 人 一 人 のいのちは皆 、無 量 なるものから生 きることを願 われた「いのち」なのです。 目 には見 えない無 数 のいのちを「無 量 寿 」と言 い、いのちを支 える無 数 のはたらきかけを「無 量 光 」 と呼 びます。「無 量 寿 」も「無 量 光 」も語 源 は、それぞれ「アミターユス」「アミタ ーバ」というサンスクリッ ト語です。阿 弥 陀 佛 のアミダとは、計 り知 れないという意 味 の無 量 (アミタ)に由 来 しているのです。 阿 弥 陀 佛 は、生 まれたときから今 のこの瞬 間 に至 るまで片 時 も離 れずに「お前 はお前 でよい、しっかり生 きてくれよ!」と、この私 のことを願 っていてくださったのであり、今 現 在 もこれからも途 切 れる ことなく願 っていてくださるということです。 自 分 のいのち自 分 の人 生 は、世 界 中 の誰 にも代 わりは務 まりません。この私 にしか歩 けない道 な のです。ですから、どんな人 のいのちも、一 人 一 人 どれも尊 く素 晴 らしいものであり、それ ぞれの苦 難の中 を生 きてこそ「いのち」が輝くのです。 無 量 なるいのちの佛 である阿 弥 陀 さまから、こんな私 も願 われていることをしっかりと心 に留 め、そ のご恩に感 謝 して自 分 のいのちの使 い道 を考 えてまいりたいものです。 合 掌
2「不思 議 」を感じ、「あたりまえ」とは言わない (2014/7/01)
日 本 にはたくさんの仏 教 宗 派 があり、読 むお経 は宗 派 によって違 います。ところがそのお経 を読 む ときに心 構 えとして唱 えるとても短 い偈 文 がありますが、この偈 文 だけはどの宗 派 も同 じです。その 偈 文 の内 容 は 「今 般 、この上 なく深 く妙 なるみ教 えに接 することができました。この機 会 を逃 すことなく、み仏 の 真 実 の教 えを私 は戴 きます」という 意 味 です。 「この上 なく深 く妙 なるみ教 え」とは、お釈 迦 さまの説 かれた教 えのことです。 お釈 迦 さまは何 を説 かれたか、というと「真 理 の法 則 」を説 かれました。 「真 理 の法 則 」とは「宇 宙 の法 則 」「天 地 (あめつち)の法 則 」とも言 えます。私 どもの身 の回 りにある ごく自 然 の、つまり、生 きものであったり、天 体 であったり、人 の心 であったり。それらはあるおたがい の関 係 性 の中 で存 在 しあっている、というものです。その関 係 性 は簡 単 に口 では説 明 できませんか ら、古 来 、物 のあり方 を「不 思 議 」と表 現 してきました。 良 寛 さんの詩に、 花 、無 心 にして蝶 を招 き、 蝶 、無 心 にして花 を尋 ぬ 花 、開 く時 蝶 来 たり 蝶 来 たる時 花 開 く 知 らずして帝 則 に従 う (一 部 略 ) というのがあります。花 と蝶 が打 ち合 わせをしたわけではないのに、絶 妙 のタイミングでこの世 で出 あい、そして、つながり合 っているのです。良 寛 さんは花 と蝶 のおたがいの関 係 を「不 思 議 」と戴 き、 「帝 則 にしたがう」と呼 んでいるのです。 花 と蝶 の出 あいとそのつながりに宇 宙 の不 思 議 を見 る、そのセンスが私 たちの生 きる力 に なると思 います。ひとつの事 象 を深 く観 察 していくなかに、宇 宙 の「不 思 議 」を感 じていく、「あたりまえ」とは 言 わない、その心 のありようが、ひいては、自 分 自 身 の存 在 が「不 思 議 」といただくことができ、その ことが、己 れを大 切 にしたり、目 の前 の人 を大 切 にしていこう、という心 を作 っていきます。身 の回 り の物 のあり方 を「あたりまえ」とは言 わず、「不 思 議 」といただく生 き方 は、人 をより深 く人 たらしめるの です。3 道林 禅 師 と白居 易 の問 答 (2014/8/01)
中 国 は唐 の時 代 に白 居 易 (はくきょい。白 楽 天 (はくらくてん)とも/772‐846)という人 がいました。 その白 居 易 が杭 州 の地 方 長 官 として赴 任 した時 、その土 地 では名 高 い道 林 (どうりん)禅 師 (741 -824)を訪 ねました。この道 林 禅 師 は木 の上 に鳥 の窠 (す)のようなものをこしらえ、そこで坐 禅 をする 奇 行 があったので世 間 では彼のことを鳥 窠 (ちょうか)というあだ名でよんでいました。 この白 居 易 と道 林 禅 師 の最 初 の出 会 いのやり取 りが伝 わっています。 白 居 易 は寺 の松 の木 の上 で座 禅 をしている道 林 禅 師 を見 上 げて、なかば驚 いてこう言 い出 しま す。 白 居 易 : そんな高 い所 での生 活 、危 ないぞ 道 林 禅 師 : 危 ないのはそっちの方だ 白 居 易 : 木 の上 より地 上の方 が安 全 だと思 うが、なぜ地 上 が危 ないのか? 道 林 禅 師 : 仏 の教 えを知 らず、心の定 まらぬ者 は、地 上 にいても危 ない 白 居 易 : その仏の教 えとは何 か? 道 林 禅 師 : 諸 悪 莫 作 衆 善 奉 行 自 浄 其 意 是 諸 仏 教 。つまり、もろもろの悪 はなさず、 もろもろの善 を行 い、みずからその意 をきよめる、これが諸の仏 の教 えだ 白 居 易 : そんなことは三 才 の子 どもでも言 うことではないか 道 林 禅 師 : 三 才 の子 どもでも言 うというが、八 十 才の老 翁 でも行 うことは難 しいぞ これを聞 いた白 居 易 は実 にその通 り、と了 解 して拝 謝 した、というのです。 こ こ で 面 白 い の は 、 白 居 易 の 「 木 の 上 よ り 地 上 の 方 が 安 全 だ と 思 う が 、 な ぜ 地 上 が 危 な い の か?」というごく当 たり前 の質 問 に対 し、道 林 禅 師 が「仏 の教 えを知 らず、心 の定 まらぬ者 は、地 上 にいても危 ない」と答 えたところです。 明 日 のいのちもわからない私 どもであるのに、そのことを真 剣 に考 えないでいると、いざというとき に足 をすくわれてしまう。つまり地 上 は安 全 だ、と高 をくくって安 逸 な生 活 を送 っていると、いつ足 を すくわれるかわからない、その方 が危 ない生 活 だぞ、と言 っています。いまのあいだ、元 気 なあいだ に心 の修 養 をしておけ、というお話 です。 その修 養 の内 容 は何 か、というと、よいことをせよ、悪 いことをするな、自 分 の心 を清 らかにせよ、 それが仏たちの教 えだ、と、これもシンプルに答 えています。 もっと言 うと、人 は死 ぬものだが、どう死 ぬか、ということは生 きている間 、考 えられる間 にしっかり 考 えておきなさい、そのために、先 ずは、よいことをして悪 いことはしないようにし、いつも自 分 の心 を 清 らかにしておくよう努 力 しなさい、と教 えられたのです。 書 家 の相 田 みつをさんのことばに 「生 きているうち 働 けるうち 日 の暮 れぬうち」というのがあり ます。できる時 にするべきことをやっておかねば、いつ足 をすくわれるかわかりません。今 をきちっと 生 きていくことが大 事 です。
4 家庭は心と心が触 れあうところ (2014/9/01)
「家 庭 」ということばを聞 いて、あなたは何 を思 い浮 かべますか。 あるお坊 さんの書 かれた文に、こんなものがありました。 「家 はあるが、家 庭 はない。時 間 はあるが、ゆとりがない。楽 しみはあるが、喜 びがない」 いかがでしょう。いろいろと考 えさせられますね。 では家 と家 庭 には、どんな違 いがあるのでしょう。 「家 」とは、朝 出 て行 って夜 には帰 ってくる、ご飯 を食 べて寝 るところです。でもそれだけで、他 と の関 わりを持たなくても済 むところです。一 方 の「家 庭 」は、ホームと表 現 できるのではないでしょうか。ホームという言 葉 からは、アットホー ムやスイートホームなど、人 と人 との関 わりの中にある温もりが伝 わってきます。 ところが、現 代 の私 たちの身の回 りを見 渡 すとどうでしょう。 情 報 技 術 の発 達 により、人 と会 わなくても電 話 で用 が済 み、メールなら声 で会 話 する必 要 もない かもしれません。 そのうち、人 との関 わりを煩 わしく感 じるようになり、独 りだったらどんなに楽 だろうと考 えることもあ るでしょう。 そんな考 えで暮 らしていたとしたら、人 と遇 っても「こんにちは」などの一 声 を掛 けることもないので しょうね。 ちょっとしたひと言でお互 いの心も開 かれるのに、残 念 です。 煩 わしいこと、よく考 えてみるとその殆 どが人 と関 わることなのですが、私 たちは日 頃 の忙 しい毎 日に、ついついそのことを忘 れがちです。 でも、人 はひとりでは生 きられないのです。このことは、是 非 覚 えておいていただきたいのです。 仏 教 では、人 はひとりでは生 きていくことができない、だからこそ人 とのつながり、関 わりの中 で生 きているのだと仏 様 が私 たちに教 えてくださっているのです。 多 くの力 に支 えられて毎 日 を暮 らしている私 たち、そのことに気 付 くだけでも、煩 わしさが喜 びに 変 わってくるのではないでしょうか。
5 正しいということ (2014/10/01)
「あなたは正 しいことをしていますか?」と問 われると、「少 なくとも間 違 ったことはしていない」と思 う でしょう。この世 は正 しい人 ばかり。正 しい人 ばかりの国では誰 も「すいません」なんて謝 りません。だ って間 違 ったことはしていないのですから。 「正 しいこと」ってなんでしょう。国 の数 だけ正 義 があって戦 争 が起 こり、人 の数 だけ正 義 があって 喧 嘩 は絶 えません。 お釈 迦 様 は苦 しみから抜 け出 す方 法 として「八 正 道 」を説 かれています。 一 . 正 しょう 見 けん ………… 正 しく見 ること 二 . 正 思 惟 しょうしゆい ………… 正 しく考 ること 三 . 正 しょう 語 ご ………… 正 しい言 葉 を話 すこと 四 . 正 しょう 業 ごう ………… 正 しく行 うこと 五 . 正 しょう 命 みょう ………… 正 しい生 活 をすること 六 . 正 精 進 しょうしょうじん ……… 正 しく努 力 すること 七 . 正 しょう 念 ねん ………… 正 しい理 解 をすること 八 . 正 しょう 定 じょう ………… 正 しく心 をしずめること これを最 初 の問 いに当 てはめると、誰 もが正 しいことをしているのですから誰 もが苦 しみから自 由 になっているはずです。でもそうはできていません。お釈 迦 様 が「正 しく」と言 われたのは「あなたが 思 っている正 しいということを本 当 に正 しいのですか?見 直 しなさい」ということです。私 の間 違 いに 気 づく。これが「正 しこと」への第 一 歩 です。草 にすわる わたしの まちがひだつた わたしのまちがひだつた こうして 草 にすわれば それがわかる (八 木 重 吉 )
6 憎しみを超えて (2015/1/01)
「真に恨 み心 はいかなる術 を持 っても、恨 みを懐くその日まで人の世 には止 みがたし。 恨 みなきによってのみ、恨 みはついに消 ゆるべし。此 はかわらざる真 理 なり」 これは法 句 経 に説 かれた詞 華 の一 節 です。当 たり前 のことのように思 えますが、言 い換 えればこ の恨 みを「消す」という行 為がいかに困 難 であるかという事 実 を再 認 させられる経 説 でもあ ります。 新 聞 を広 げてみればわかるように、殺 傷 事 件 から国 家 同 士 の紛 争 まで……。恨 みによって人 を傷 つける事 例 は時 代 を問 わず枚 挙 に暇 がありません。それこそ事 件 にはならなくとも、「あいつは気 に 食 わない」と疎 ましく感 じたり、「ふざけるな!」と口 論 になってしまうことはだれしも経 験 があることで しょう。しかし、私 たちは世 捨 て人 にでもならない限 り、多 くの人 たちと関 わり合 いを持 ち、過 ごしてゆ かねばなりません。人 との関 わり合 いは他 の価 値 観 を知 ると共 に自 己 の考 え方 を押 し広 げ、人 間 性 を豊 かにしてくれる存 在 でありますが、時 と場 合 によ っては不 安 や憎 しみの対 象 、そして諍 いを 生 み出 す原 因 ともなります。人 はこの二 律 背 反 の条 理 を背 負 って生 きてゆく存 在 ――恨 みは恨 み を、憎 しみには憎 しみしか産 み出 さないと理 屈 ではわかっていても、恨 まずにはいられないという人 の性 (さが)、つまり感 情 があります。しかし、この感 情 にすべてを任 せてしまえば、相 手 も自 分 も永 久に苦 しんでしまうという現 実 しかありません。 憎 しみは人 である限 り、生 起 する自 然 な感 情 ではあります。但 し、辛 くとも忍 び、耐 え、乗 り越 えて ゆくことができるのもまた人 なのです。7 仏も衆 生も おや子 のごとく なるゆへに 親
しん縁
えんとなづく (2015/2/01)
親 というものは、有 り難 いものです。親 という漢 字にこんな説があります。 「親 というものは、子 どもが遠 くへ行 っていると、帰 ってくるまで心 配 で、『まだか、まだか』と、子 ども の帰 りを待 っています。もう待 ちきれずに、表 へ出 て、高 い木 の上 に立 って子 どもの帰 りを見 てくだ さる」。 今 から30数 年 前 のことです。お隣 に、春 江 さんというお母 さんがおられました。「恭 一 」という息 子 さんがいました。3月 初 めのころの寒 い日 でした。私 は、いつもより早 めの6時 過 ぎに家 に帰 りました。そうしたら春 江 さんが、うす暗 くなった家 の前 の道 で立 っておられました。春 江 さんは、前 年 の秋 に 胃 ガンを手 術 されたばかりでしたので、「こんな寒 いのに・・」と私 は不 思 議 に思 いました。そのことを 母 に話 しましたら、「お前 はいつも帰 りが遅 いから知 らないが、毎 日 立 ってみえるよ」という言 葉 が 、 母 から返 ってきました。「どうして?」と聞 きました。「恭 ちゃんの帰 りを待 ってみえるんだよ。何 度 も出 たり入 ったりして。親 というものは、子 どもの姿 を見 るまで心 配 なものなのだよ」と。 それから一 週 間 ぐらいして、また、春 江 さんが立 っておられました。丁 度 その時 、恭 ちゃんが帰 っ てきました。春 江 さんは、家 の前 で出 迎 えられるのではなく、恭 ちゃんの単 車 のヘッドライトとエンジ ンの音 を確 認 すると、家 の中 へ入 っていってしまわれました。私 は「ああ、これが母 親 かあ。ありがた いなあ」と胸 に熱 いものを感 じました。私 は、はっと気 がつきました 。春 江 さんが、毎 日 、恭 ちゃんを 待 って外 に出 ておられることを、母が見 ているということは、母 もまた、私 を待 っていてくれたのだとい うことを・・・。 この恭 ちゃんのお母 さんの春 江 さんは、その年 の秋 にお浄 土 へ旅 立 たれました。春 江 さんにとっ て、自 分 の病 気 、身 体 よりも、子 どもの無 事 、子 どもの成 長 が第 一 であったのです。いくら子 どもが 大 きくなっても、親 にとっては、子 どもは子 どもです。まさに、『はえば立 て 立 てば歩 めの 親 心 わ が身 につもる 老 いは忘 れて』です。しかし、私 たちは、なかなか深 い愛 情 に気 づかないことも多 い のではないでしょうか。 「仏 も衆 生 も おや子 のごとく なるゆへに 親 縁 となづく」という法 然 上 人 の法 語 の通 り、お父 さ んやお母 さんの愛につつまれているように、「今 の私 の生 活 が、すでに阿 弥 陀 佛 の大 慈 悲 に包 まれ ている。すでに救いの中 にある」のです。
8 「しあわせノート」 (2015/3/01)
最 近 、ある方 の勧 めで「しあわせノート」と呼 ばれるノートを記 しております。どのようなノートかと言 いますと、一 日 3つ、ささやかでも良 いから「しあわせだな、よかったなあ、心 が温 かくなったなあ」と 感 じた物 事 を忘 れないうちに書 き留 めておくだけのものです。掛 けていただいたやさしい言 葉 や電 車 内 で席 を譲 る人 の姿 、地 平 線 に沈 んでいく真 っ赤 な太 陽 、食 いしん坊 の方 はおやつの時 間 に 食 べたお菓 子 でもよろしいのでしょう。 しかしながら、いざ「しあわせ」を探 そうと思 うとなかなか見 つからないものです。なぜでしょうか? 「しあわせ」を見 つけるためには、今 まで心 に留 めていなかった様 なこと、当 たり前 だと正 面 から向 き合 わなかったものまで、余 程 注 意 深 く探 していかなければ、この3つのハードルを越 えることはな かなかできません。 人 は自 分 に都 合 の良 いことだけを後 生 大 事 に覚 えているものです。小 さな親 切 や、さりげない励 ましはなかったかのように、次 々と忘 れていきます。そんなささやかな喜 びに目 を向 けていくのが、こ の「しあわせノート」の神 髄 であります。以 前 、NHKラジオで『心 美 人 になる日 本 語 』という番 組 を担 当 されていた作 家 の山 下 景 子 さんは、 毎 晩 、寝 床 で「ありがとう」と言 うことを習 慣 にされているそうです。誰 にという訳 ではなく、その日 出 逢 った人 に、その日 の出 来 事 に、その日 見 た光 景 に、その日 の全 てに感 謝 しての「ありがとう」なの だそうです。なぜ、そのようなことをしているのかと言 うと、自 分 が死 ぬ 時 にお世 話 になった方 や、近 しい人 たちに笑 顔 で「ありがとう」と言 いたいから、その日 のために練 習 をしているのだそうです。 ずば抜 けた才 能 を持 つ芸 術 家 であっても、生 まれながらに身 体 能 力 に恵 まれたスポーツ選 手 で あっても、日 々の練 習 、鍛 錬 を怠 っていれば、いずれ一 流 どころか芸 術 家 生 命 も選 手 生 命 をも失 ってしまうかもしれません。私 たちの「しあわせ」を感 ずる心 も感 謝 の心 も同 じです。これらを毎 日 毎 日 心 掛 けて練 習 し、磨 いていかなければ、肝 心 要 のその瞬 間 に「しあわせ」と感 ずることができなか ったり、「ありがとう」の言 葉がでてこなかったりしてしまいます。 このささやかな行 いの積 み重ねが私 たちの心 を清 らかにし、内 よりその人 を輝 かせていくのです。
9 「親より先に死ぬのは親 不 孝だよ」と言われたら? (2015/4/01)
ある日の夕 食 の時 、85才 の母 親 が 「あんたは、長 生 きをしないかんよ。親 より先 に死 んだら親 不 孝 だからね」 と60才 の息 子 に言いました。息 子 は思 わず、 「そんなことは分 からんよ。そんなことを言 ったって分 からんだろう」 と答 えました。さて、みなさんだったらどう返 事 しますか? みなさんがよくご存 じの良 寛 さんは、ある時 、村 の庄 屋 さんから「縁 起 のいい言 葉 を書 いてほしい のです。正 月 に床 の間 に掛 けますから」と頼 まれました。そこで、『親 死 に、子 死 に、孫 死 ぬ』と書 い て渡 したところ、庄 屋 さんは「正 月 に掛 けるのに、死 ぬなんて縁 起 の悪 いことを書 くのはけしからん」 と言 って怒 りました。しかし、良 寛 さんは笑 って答 えました。 「それでは『孫 死 に、子 死 に、親 死 ぬ』の逆 縁 だったらどうだね?これこそ不 幸 で縁 起 の悪 いこと だろう。『親 死 に、子 死 に、孫 死 ぬ』の順 縁 は、幸 せな縁 起 の良 い言 葉 じゃないか。しかし、なかな かそうはいかないのが人 の寿 命 というものだ。だからこそ、 今 生 きていること、今 の命 や家 族 を大 切 にした生 き方 をしなければいけないのだよ」。 庄 屋 さんはそれを聞 いて、毎 年 正 月 の床 の間 に掛 け、命 や家 族 を大 切 にした生 き方 を心 掛 けた そうです。 どの人 にも平 等 に、そして、必 ず迎 えること、それは「死 」です。若 い人 は「死 」をまだまだ先 の事 と して忘 れ、年 老 いた人 も「死 」をまだまだ先 の事 と考 えないようにして、日 々を暮 らしています。しかし、 「死 」は一 息 、一 瞬 の間 に来 ると言 われています。「死 」を正 面 から受 け止 めた時 、「生 (命 )」の有 難 いことを受 け止 めた、生 き方 を本 当 に考 えることが出 来 ると思 います。 冒 頭 の母 親 の言 葉 は、どの親 にもあてはまる子 を思 う親 の願 い、子 を思 う親 の気 持 ちですが、子どもには守 ることを約 束 できない願 いです。でも、良 寛 さんの言 葉 を聞 くと、「命 」と「生 き方 」を改 め て考 えさせる阿 弥 陀 仏 様 からの言 葉 に思 えます。
10 仏さまのねがい:世の中は平 和で穏やかでありますように(上 )(2015/5/01)
『仏 説 無 量 寿 経 』というお経 の中 に「天 下 和 順 日 月 清 明 」で始 まる有 名 な聖 句 があります。今 回 は 2 回 にわたってご紹 介 いたします。まずは今 回 、前 半 の句 です。天
て ん下
げ和
わ順
じゅん日
に ち月
が つ清
しょう明
みょう風
ふ う雨
う以
い時
じ災
さ い厲
れ い不
ふ起
き 「世 の中 は平 和 で、やさしく穏 やかでありますように。太 陽 や月 は、明 るく輝 き、風 や雨 も時 を得 て 程 よく吹 いたり降 ったりし、天 災 や伝 染 病 なども起 こらないように」と仏 前 に願 うことばです。 このお経 には「この娑 婆 世 界 は、悪 が多 く、おのずから善 がそなわることはありません。苦 しみなが ら貪 り求 めて、お互 いに偽 り欺 きあって生 きています。しかし仏 の教 えが行 き渡 ることによって、そこ では天 災 も伝 染 病 も起 こらなくなりました」と説 かれています。 今 年 は阪 神 大 震 災 発 生 から丸 20 年 、そして 3 月 11 日 は東 日 本 大 震 災 から 4 周 年 でした。3 月 11 日 には政 府 主 催 の東 日 本 大 震 災 追 悼 式 が東 京 で開 催 されました。その中 で遺 族 代 表 として発 表 した 菅 原 すがわら 彩 さや 加 か さんの言 葉 も印 象 的 でした。 あの日、中学 校の卒 業 式 が終わり家に帰ると大きな地震が起き、津 波が一 瞬 にして私たち家 族5 人 をのみ込 みました。瓦 礫 の下 で動 けなくなった母 を見 つけ、瓦 礫 をよけようと頑 張 りましたが、私 一 人 にはどうにもならないほどの重 さ、大 きさでした。母 のことを助 けたいけれど、ここにいたら私 も 流 されて死 んでしまう。「行 かないで」という母 に私 は「ありがとう、大 好 きだよ」と伝 え、近 くにあった 小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。 母 親 をおいて逃 げなければならなかった 彩 さや 加 か さんの苦 しみに思 いをはせるとき、言 葉 がありませ ん。そして彼 女 はこう続 けたのでした。 「被 災した方々の心 から震 災の悲 しみが消えることは無いと思います。しかし前 向きに頑 張 って生 きていくことこそが、亡 くなった家 族 への恩 返 しだと思 うとともに、私 のあいさつでちょっと頑 張 ろうか なと思ってくれる人がいたらうれしいです」 と。 大 きな苦 しみを受 け入 れ、そして乗 り越 えようとする人 々のことばを聞 くとき、阿 弥 陀 さまは世 界 中 の人 々を照 らし続 けているのだ、と私 たちは受 け止 めると同 時 に、大 自 然 の大 きな恵 みの中 でこの 命 をいただいているのだ、阿 弥 陀 さまの願 いがここにあるのだと気 付 かせていただくことであります。 おたがい、一 人 ひとりの毎 日の生 活 の中 にある浄 土 を、見 つけていきたいものです。11 仏さまのねがい:世の中は平 和で穏やかでありますように(下 )(2015/6/01)
『仏 説 無 量 寿 経 』というお経の中 に「天 下 和 順 日 月 清 明 」で始 まる有 名 な聖 句 について 2 回に わたってご紹 介 しています。今 回 は後 半 の句 です。 国 こ く 豊 ぶ 民 みん 安 あん 兵 ひょう 戈 が 無 む 用 ゆ う 崇 す う 徳 と く 興 こ う 仁 にん 務 む 修 し ゅ 禮 ら い 譲 じょう 「国 は豊 かで国 民 は安 穏 で、武 力 も武 器 も必 要 なく、善 い行 いを尊 び、思 いやりの心 で、礼 儀 正 しく、譲 り合 いの心がこの世に行 き渡 りますように」と仏 前 に願 うことばです。 お経 では「この娑 婆 世 界 では、身 も心 も疲 れ果 てて、苦 を飲 み毒 を食 べているようなものです。あ わただしくして、休 息 することもありません。しかし、仏 法 がきちんと伝 わっているところでは、武 力 も 武 器 も必 要 がなくなりました」と説 かれています。 法 然 上 人 がまだ勢 至 丸 と呼 ばれていた 9 歳 の時 、父 ・時 国 は夜 討 ちで命 を落 とします。その時 の 遺 言 が「勢 至 丸 、よく聞 け。お前 が仇 を討 てば、次 はお前 が狙 われる。仇 討 は尽 きることが無 い。お 前 は一 刻 も早 く出 家 して私の菩 提 を弔 ってくれ。自 分 の解 脱 を求 めるのだ」でした。 『法 句 経 』にも「怨 みは怨 みによって果 たされず、忍 を行 じてのみ、よく怨 みを解 くことを得 る」とあり ます。 この 1 月 に過 激 組 織 IS によって殺 害 された後 藤 健 二 さんのお母 さんは 「今 はただ、悲 しみ、悲 し みで言 葉 が見 つかりません。しかしこのことが憎 悪 の連 鎖 になってはなりません。戦 争 と貧 困 から子 どもたちの命 を救 いたいとの健 二 の遺 志 を引 き継 いで下 さい」 と言 っておられます。 ユネスコ憲 章 の前 文 にも「戦 争 は人 の心 の中 で生 まれるものであるから人 の心 の中 に平 和 のとり でを築 かなければならない」とあります。このように法 然 上 人 の父 親 の言 葉 、また後 藤 健 二 さんの母 親の言 葉 なども仏 法 が伝 わるところではないでしょうか。 これらの言 葉 を聞 くにつけ、阿 弥 陀 さまは世 界 中 の人 々を照 らし続 けているのだ、と私 たちは受 け 止 めさせていただくのであります。言 いかえれば、阿 弥 陀 さまの願 いが届 いているのだ、と気 付 かせ ていただく瞬 間 です。 「兵 戈 無 用 」という言 葉 は、私 自 身 が仏 法 を聞 き、心 穏 やかに、暴 力 を用 いない、平 和 を願 う生 き 方 をしていくことの大 切 さを言 っているのではないでしょうか。その心 が広 がっていくことによってこの 世が、武 力 も兵 器 も不 必 要になると信 じています。12 青色 青 光 黄色 黄光 (2015/7/01)
『阿 弥 陀 経 』というお経 の中 に「 青 しょう 色 し き 青 しょう 光 こ う 、黄 お う 色 し き 黄 お う 光 こ う 、赤 しゃく 色 し き 赤 しゃっ 光 こ う 、 白 びゃく 色 し き 白 びゃっ 光 こ う 」という一 節 があり ます。「極 楽 の池 の中 には、車 輪 ほどもあるような大 きな蓮 の華 が咲 いている。そして、青 色 の花 か らは青 の光 が、黄 色 の花 からは黄 の光 が、赤 色 の花 からは赤 の光 が、白 色 の花 からは白 の 光 が放たれている。それらは、いずれも美 しく香 りも清 らかである」と。浄 土 に咲 く蓮 の花 のありさまを語 った ものです。 童 謡 『ぞうさん』は、「ぞうさん、ぞうさん、お鼻 が長 いのね」で始 まります。 みんなに「うらやまし い」とも、「みっともないぞ」といわれているようにも受 け取 れます。しかし、ぞうさんは「そうよ、母 さんも 長 いのよ」と自 慢 げに答 えています。2 番 では「あのね、母 さんが好きなのよ」とこちらも得 意 げです。 「母 さんだってそうなんだよ」「私 、母 さん大 好 き」と「みんなと違 うこと」をむしろ誇 りに思 っています。 老 若 男 女 、賢 者 も愚 者 も、五 体 満 足 な者 も不 満 足 な者 も、人 種 が違 っても、いかなる者 であろうと も、みんなそのままですばらしいのです。 金 子 みすゞさんの詩 『わたしと小 鳥 とすずと』のように「みんなちがって、みんないい」のです。「青 色 青 光 、黄 色 黄 光 、・・・」は、みすゞさんの詩 のように、人 間 だけじゃない、小 鳥 も鈴 も、この世 の全 てのものが、それぞれの色 を持 ち、光 り輝 いているということです。 さらに、一 人 ひとり、いろいろな色 を持 っていますが、その色 が合 わさると別 の色ができます。「赤 と 青 色 を混 ぜたら紫 」「青 と黄 色 を混 ぜたら緑 」。別 の色 になるためには、青 は青 、黄 は黄 、赤 は赤 で なくてはなりません。人 と人 が出 会 うたびに、新 しい色 がこの宇 宙 に誕 生 しているのです。私 たちは、 すべてのものとつながり合 って、共に生 きるものであることに目 覚 めることが大 切 です。 だから、この極 楽 に咲 く蓮 の花 のありさまを語 った「青 色 青 光 、黄 色 黄 光 、・・・」という言 葉 は、お 互 い傷 つけ合 うのではなく、助 け合 って生 きることが、自 分 らしく光 り輝 いて生 きる道 なのだと教 えて いるのです。 青 い花 は青 い花 でいい。そして、自 分 は自 分 のままでいい。自 分 の花 を咲 かせればいい、自 分 の色 で・・・。 仏 さまは、そんな私 を、ちゃんと見 ていてくださる。あたたかく、あたりまえに・・・。
13 「はたらき」となって (2015/8/01)
あるご夫 婦 が先 日 、本 堂 に来 られました。 五 〇代 中 ごろのそのご夫 婦 は、二 〇数 年 前 に流 産 をした赤 ちゃんの、お経 を上 げて欲 しいという ことでした。 流 産 の赤 ちゃんですので、平 成 〇年 〇月 〇日 寂 、〇〇〇〇氏 (お父 さんのお名 前 )の水 子 の精 霊 と、読 経 しご回 向 いたしました。 死 別 されたというのは、もちろん悲 しい事 ですし、そのご夫 婦 にとっては、何 年 経 っても、その事 実 をきれいさっぱりと忘 れて乗 り越 えた、という事 にはならないと思 います。何 十 年 たとうが、「やっぱり 悲 しい」と思 っておられるでしょう。 読 経 中 に、お焼 香 をしてもらうために、「どうぞお焼 香 して下 さい」と言 いながら振 り返 ると、そのご 夫 婦 は、合 掌 の姿 勢 を取 っておられました。読 経 終 了 後 、今 度 はお説 教 をしようと再 び振 り返 りますと、また、そのご夫 婦 は合 掌 をされていま した。たぶん、読 経 中 の三 〇分 くらいを、ずーっと合 掌 をされていらっしゃったんですね。これ、簡 単 なようで、慣 れていないと、中 々できないんです。私 はそのご夫 婦 の合 掌 の姿 に、とても真 摯 なもの を感 じました。そこで私 は思 わず「ありがとうございます」と挨 拶 をいたしました。 「善 知 識 (ぜんちしき)」という言 葉 があります。私 たちを仏 の教 えに導 く人 の事 ですが、これは人に 限 りませんね。色 々な出 来 事 も、私 たちにとって「善 知 識 」になることがあります。 そのご夫 婦 は、赤 ちゃんの死 という悲 しみを、その悲 しみのままに受 け止 め、今 現 に本 堂 のご本 尊 さまの前 で手 を合 わせてらっしゃる。その赤 ちゃんは、決 して、死 して終 わるのではなく、そのご夫 婦にも、私にも、ご本 尊 さまの前で手 を合 わさせるという「はたらき」となって表 れている。 その赤 ちゃんが、今 は善 知 識 となって、そのご夫 婦 にも私にもはたらいているんですね。 そんな有 り難 い時 間 を過 ごさせていただきました。お浄 土 で、必 ず、かならず、会えますね。
14 彼 岸
ひ が ん花
ばなにおもう (2015/09/01)
秋 になると「曼 まん 珠 じゅ 沙 しゃ 華 げ 」と呼 ばれる花 が土 手 や田 んぼの畦 などに咲 きだします。お彼 岸 にあわせ るかのようにして咲くので別 名 「彼 岸 花 」さもいいます。 この曼 珠 沙 華 、花 が終 わって初 冬 になると小 さなカミソリのような葉 が芽 を出 し、そのうちモコモコと 群 生 した状 態 になります。そして年 が明 けて春 が過 ぎると、その群 生 していた葉 は枯 れて全 部 消 え てなくなってしまいます。そして、秋 の彼 岸 前 になると何 にもないところから乳 白 色 の小 さな茎 だけが 芽 を出 し、大 きくなってあの朱 色 の輪 状 の花 を咲 かせるのです。 彼 岸 花 の花 は、母 とも呼 ぶべき自 分 を育 てた葉 の群 生 を見 ないで大 きくなります。ですから、人 々 はこの花 のことを「親 知 らず 子 知 らずの花 」と呼 び、「親 知 らず」という異 名 をとりました。(ちなみに、 韓 国 ではこの花 のことを、花 と葉 が顔 を合 わせることがないので「葉 は花 を思 い、花 は葉 を思 う」とい う意 味 で「相 思 華 (そうしか)」と呼 ぶのだそうです。) さて、世 の中 では地 震 、津 波 、事 故 などで若 い親 が子 どもを残 して亡 くなってしまい、祖 父 母 が子 どもの面 倒 をみて育 てている、ということがよくあります。そんな時 、この「彼 岸 花 」の「親 知 らず」の話 を思 い出 します。この世 ではもう二 度 と 見 まみ えることのない親 子 です。でも、この彼 岸 花 のように生 きて いってほしい、と思 うのです。 子 どものあなたよ、 あなたには 育 ててくれた親 のおもい、ねがいがいっぱい あなたの 体 の中 につまっているのだだからそれを栄 養 として大 きくなっていくんだ。 と。 つまり、あなたと亡 くなったお父 さんやお母 さんのいのちは永 遠 につながっているのだ、そういう意 味 では、韓 国 の「相 思 華 (そうしか)」という呼 びかたはいいですね。「葉 は花 を思 い、花 は葉 を思 う」 をそのまま置き換 えて「亡 き親 は子 を思 い、子 は亡 き親 をずうっと思 う」という関 係 になりますから。
15 パンタカのお話 (2015/10/01)
お釈 迦 さまの十 大 弟 子 に、周 しゅ 利 り 槃 はん 陀 だ 伽 が (周 しゅ 利 り 槃 はん 特 どく 、梵 語 ではチューラ・パンタカ)という方 がお られます。周 しゅ 利 り 槃 はん 陀 だ 伽 が では読 みにくいですからパンタカと呼 ぶことにいたします。 パンタカは兄 について仏 門に入 りましたが、生 来 物 覚 えが悪 く仏 典 の一 詩 句 を覚 えるのに 4 カ月 もかかったそうです。このため、修 行 僧 仲 間 から愚 か者 とみられていたようです。 そんな弟 に愛 想 をつかした兄 は、パンタカにお寺 を去 るように言 います。 すっかりしょげてしまったパンタカは、自 分 の愚 かさを嘆 く日 々を過 ごしておりました。ある日 、道 を 歩 んでいると、意 地 悪 な子 供 たちがその姿 を見 かけて、からかってやろうと話 しかけてきました 「やぁい、パンタカ! リンゴ 3 つとみかん 2 つ 合 わせていくつだい?」 「ええっと、ううん、3 つと 2 つで…、ううん…」 「パンタカはバカだなぁ」 ちゃんと答 えられないパンタカが道 端 で泣 いていると、ちょうどお釈 迦 さまが通 りかかられました。 「パンタカよ、なぜ泣 いているんだい?」 「自 分 の愚 かさに呆れて泣 いているのです」 そこで、お釈 迦 さまはパンタカに 1 本 のホウキを渡 し、次 のように言われました。 「パンタカよ、これから毎 日 『塵 ちり を払 い垢 あか を除 かん』といいながら、掃 除 をしなさい」 パンタカはお釈 迦 さまのおっしゃる通 り、来 る日 も来 る日 も、片 時 もホウキを離 すことなく『 塵 ちり を払 い垢 あか を除 かん』と唱 えながら一 心 に掃 除 をし続 けました。そしてある日 、ホウキを払 ったときにハッと 気 がつきました。「この言 葉 は、心 の迷 いを掃 き清 めて取 り除 けとのみ教 えだったのだ」と。そうして パンタカは〝説 法 第 一 〟のお坊 さんになられました。 このお話の塵 や垢 とは煩 悩 を指 しており、お釈 迦 さまの大 切 な教 えが含 まれています。 第 一 に「慢 心 の戒 め」。自 分 の愚 かさを知 るものは愚 者 ではない。愚 かさを知 らず智 慧 があると思 いこんでいる者 がほんとうの愚 者 である。 第 二 に「無 分 別 の心 」。心 に塵 垢 ある者 は分 別 にとらわれて外 見 で他 人 をあざ笑 ったり、いじめた りする。智 慧 を得 た者 は、人 にはそれぞれ生 まれたことに意 味 があることを知 り、物 事 をすべて平 等 に観 る。 第 三 に「精 進 努 力 」。智 慧 を得 る道 は、優 劣 勝 敗 に一 喜 一 憂 するのではなく、自 分 自 身 と向 き合い、自 分 自 身 を見 つめ、自 分 自 身 を高 める努 力 を続 けることにある。 短 いお話 ですが、深い意 味 を含 んだお話 です。
16 二度とない人 生だから (2015/11/01)
私 のお寺 は田 舎 にあるお寺 で、いわゆる過 疎 地 にあります。お檀 家 さんの中 には、実 家 に年 老 い た両 親 を残 し、仕 事 の関 係 で都 市 部 で暮 らしておられる方 もたくさんいます。 そんな檀 家 さんの中 に、広 島 市 内 に住 んでおられるお檀 家 さんがいらっしゃいました。夫 婦 と男 の 子 と女の子 の4人 家 族 で暮 らしておられました。女 の子 が平 成 15 年 4 月 1 日にガンで亡 くなりまし た。17 歳 でした。お父 さんも、お母 さんも、お兄 ちゃんも涙が枯 れるほど泣 き悲 しまれました。それ以 来 12 年 間 、お母 さんはわが子の遺 骨 を近 くに置 き、実 家 に帰 るときも一 緒 です。「この子 は、私が お墓に入 るときも一 緒 です」とお母 さんは仰 います。 女 の子 の部 屋 も机 もまだ当 時 のまま置 いてあるそうです。その女 の子 の机 のデスクマットの下 に1 枚 の紙 があり、坂 村 真 民 さんの「二 度 とない人 生 だから」という詩 が書 いてあるそうです。「ガンを発 病 する前 からありました」とお母 さんは仰 っていました。 17 歳 の女 の子 はどんな気 持 ちで、この詩 を受 け取 っていたのでしょうか。健 康 な時 、発 病 の時 、 体 調 が悪 いとき、治 療 が始 まったとき、そして・・・。 詩 をご紹 介 します。 二 度 とない人 生 だから 一 輪 の花にも無 限 の愛 を注 いでいこう 一 羽 の鳥の声 にも無 心 の耳 をかたむけていこう 二 度 とない人 生 だから まず一 番 身 近 な人 たちにできるだけのことをしよう 貧 しいけれど、心 豊 かに接 してゆこう 二 度 とない人 生 だから つゆくさの露 にもめぐり合 いの不 思 議 を思 い 足 をとどめてみつめていこう 坂 村 真 民 さんは仏 教 精 神 を基 調 とし、詩 作 に打 ち込 んでこられた方 です。私 はこの詩 には仏 教 でいう慈 悲 、布 施 、そして衆 縁 所 生 が唱 われていると思 うのです。わが派 の派 祖 ・証 空 上 人 は「衆 生 の重 んずるところ、命 に過 ぎたるはなし」と述 べられています。人 がもっとも大 切 にしなければなら ないもの、命 をおいて他 にない、といわれるのです。この一 日 は大 切 にすべき一 日 です。この一 瞬 の命 は尊 ぶべき命 です。命 は一 つ、二 度 とない人 生 だから、この一 日 を大 切 に生 きねばなりません。 この女 の子 はこの詩 を通 して、自 分 の状 況 を悲 嘆 することなく命 に真 摯 に向 き合 っていたのに違 いないのです。 私 はこのお話 を思 い出 すたびに、「俱 会 一 処 」という言 葉 を思 い出 します。女 の子 もそのお母 さん も意 識 することなく、仏 の教 えの道 に踏 み出 されているのです。この現 実 世 界 を離 れたとき、お二 人 はお浄 土 で再 会 されると信 じています。
17 「願いごと」「 願
がん」について (2016/2/01)
新 年 になるとわれわれはお寺 やお宮 さんに詣 でて、新 春 を寿 ぎながら願 いごとをします。寒 さの 厳 しい中 、晴 れ着 を着 た老 若 男 女 が、仏 前 、神 前 で拝 む姿 は厳 かで、どこから見 てもお正 月 の穏 やかな景 色 です。 そこで今 回 は、「願 いごと」「願 」ということについて考 えてみましょう。 「願 いごと」は仏 教 の教 えの柱 の一 つです。仏 さまが、仏 さまになる前 の位 のことを「菩 ぼ 薩 さつ 」といい ますが、そのときに私 どもを救 おうと建 ててくださるのが「願 」なのです。その「願 」を完 成 させるため の修 行 こそが、私 どもが救 われていく道 でもあります。その菩 薩 の「願 」のなかで代 表 的 なのは「この 世 界 の生 きとし生 けるものが一 人 残 らず救 われなかったら、私 は仏 にならない」という「願 」です。 でもこの「願 」、よく考 えてみるとすこし変 ですね。生 きとし生 けるものは次 から次 へと際 限 なく生 ま れてきますから、一 人 残 らず救 われる、という状 態 は永 遠 に来 ない、ということになるでしょう。という ことはこの菩 薩 さま、永 遠 に仏 さまの位に上がれない、ということになります。 そうです、一 人 残 らず救 う、ということは不 可 能 ですから、菩 薩 さまの願 は永 遠 にかなうことがない のです。でも、菩 薩 さまはその「願 」が完 成 する、しないは度 外 視 して、永 遠 に修 行 をし続 けるので す。これを仏 教 では「菩 薩 行 」と申 します。 「願 い」がかなう、かなわない、にかかわらず、今 、こうあってほしい、と自 分 のことはさておいて、ま わりの人 たちのしあわせのために「願 」をたてる、これが尊 いのです。 書 家 の相 田 みつをさんのことばに「願 を持 ちましょう」というのがあります。ちょっと紹 介 してみまし ょう。 「願 」と「欲 」とは根 本 的 に違 います。 わずかなお賽 銭 を挙 げて、それも年 一 回 の初 詣 の時 ぐらいで、「家 内 安 全 。商 売 繁 盛 。お金 が いっぱいできますようにー」なんてね。こういうのは個 人 的 ・私 的 な欲 望 です。それをわたしは否 定 し ません。わたしも同 じですから。 しかし、そういう私 中 心 の欲 望 とはまったく別に、 〇核 戦 争 など 絶 対 におこりませんようにー 〇世の中が どうか平 和 でありますようにー 〇山や海 や河 、そして土 、水 、空 気 、自 然 が、人 間 の作 る公 害 でこれ以 上 よごれませんようにー と、心 から念 じたとき、それを「願 」といいます。どんな小 さな「願 」でも心 ひそかに持 ち続 けている と、顔がよくなり、眼 の色 が深 く澄 んできます。 と。 自 分 中 心 の欲の思 いではなく、自 然 、地 球 のありようや、すべてのいのちのありかたを考 え、生 きとし生 けるものが平 安 でありますように、と、広 く大 きな「願 」をもちたいものです。
18 和
わ顔
げん愛
あい語
ご先
せん意
い承
じょう問
もん(2016/3/01)
ある日のコンビニ店 でのことでした。 女 性 客 が棚 の前 に立 って商 品 を探 していました。私 がその女 性 の後 を通 りかかった時 に、彼 女 が急 に一 歩 後 ろに下 がり、運 悪 く私 とぶつかってしまいました。思 わず「すみません」という私 に、彼 女 は冷 たい視 線 を向 けるだけでした。きっと「失 礼 ね!気 をつけてよ」とでも思 ったのでしょう。そん な態 度 を見 た途 端 、私 は「あなたこそ周 りを見 てから動 きなさいよ!」と言 いたくなりました。 また、ある日のうどん屋 さんでのことでした。 厨 房 からお盆 のうどんを運 んできた店 員 さんは「後 ろ通 ります!」と声 をかけながら、別 の店 員 さ んの後 ろ背 をすり抜 けて行 きました。忙 しさの中 のきりりとした声に、私 はあのコンビニ店 での出 来 事 を思 い出 しました。 あの日 、私 が「後 ろ通 ります」と声 をかけていたなら、嫌 な思 いは避 けられたでしょう。それどころか 「なんて気 が利 いた人 かしら」と思 われていたかもしれません。 『無 量 寿 経 』というお経 に「和 顔 愛 語 、先 意 承 問 」と説 かれています。「明 るい笑 顔 と愛 情 のこもっ た言 葉 で人々を思 いやる心 」という意 味 です。 笑 顔 ・気 配 り・思 いやりは、相 手 に向 けると共 に私 自 身 の心 をも和 らげてくれます。 「先 意 承 問 」とは、私 たちの思いを先 んじて汲 み取 ってくださる阿 弥 陀 さまのみ心 を表 した言 葉 で す。阿 弥 陀 さまは、日 々の私 の頑 張 り、過 ち、不 運 、喜 びを見 守 っていてくださるのです。 それなのに、私 を見 ていてくださる阿 弥 陀 さまをふと忘 れ、他 人 への気 配 りを忘 れ、他 人 の思 い を察 することを忘 れてしまうのが、この私 なのです。恥 ずかしいことです。 阿 弥 陀 さま、ごめんなさい。19 物を受くるに心をもってす 法を受くるに体をもってす (2016/4/01)
私 どもは物 を戴 いたり、またこちらからプレゼントをすることがあります。特 に日 本 人 にはお中 元 、 お歳 暮 として物 を贈 答 する習 慣があります。 先 日 、宅 配 で「冷 凍 」のシールが張 られた中 くらいの大 きさの荷 物 が送 られてきました。 瀬 戸 内 海 のとある町に住 んでいる初 老 ご夫 婦 からのものです。 送 られてきた箱 は再 利 用 の箱 で、ぎゅうぎゅうに詰 めてあり、中 身 が外 に出 ないようにビニール紐 でぐるぐるに巻 かれて梱 包 されていますが、箱 は表 面 が濡 れていて形 がいびつになっていました。 さっそく抱 えてみるとズシリ、と重 いのです。台 所 にもっていって開 けてみると、なんと、そこには冷 凍 したタコが一 つ一 つ、ビニール袋 に小 分 けしていくつも入 っていました。そのタコの隙 間 に、魚 の味 噌 漬 けが 、これま た 切 り 身 を 二 つ ず つ 小 分 け 、 冷 凍 した ものが た く さん入 ってい ま した 。そ して、 各 々の袋 に紙 片 が入 れてあって味 噌 漬 けの袋 には「私 の作 った味 噌 漬 けです。お口 に合 うかどうか心 配 です」「味 噌 をとって焼 いてください。味 噌 が残 るので焦 げないようして召 し上 がってくださ い」「これは夫が海 で獲 ってきたものです」などと書 いてありました。 この海 の幸の贈 り物 を見 ながら、ご主 人 の海 での漁 の姿や、その釣 果 を持 ち帰 って奥 さんに誇 ら しげに見 せている様 子 、それを受 けとっていそいそと味 噌 漬 けを作 っている様 子 、箱 にぎゅうぎゅう 詰 めにしてくださるご夫 婦 の作 業 の姿 、などを思 い浮 かべながら、また、そうして送 ってくださるお気 持 ちを察 していくと、心 ほのぼのとなりますし、同 時 に、もったいないこと、と一 人 「ありがとうございま す」とお礼 の言 葉 が出 てくるのです。 金 子 大 栄 さんという念 仏 者 は「物 を受 くるに心 をもってす 法 を受 くるに体 をもってす」ということを 教 えてくださっています。 まさに私 が遠 くにいる初 老 夫 婦 から海 の幸 を戴 いて、いちばんに思 ったのはこの「物 を受 くるに 心 をもってす」ということばでした。 そして、金 子 先 生 は、もう一 つ大 事 なことを教 えてくださっています。「法 を受 くるに体 をもってす」 ということです。 「法 を受 くる」とは「仏 法 を受 くる」こと、つまり「仏 さまのみ教 え」に出 逢 うことです。私 どもは生 きて いる以 上 、つらい、苦 しい、生 きる力 がなくなるときに遭 遇 します。そんなときに「仏 法 」という生 きる 力 を戴 くのです。生 きる力 を戴 いたのですから、今 度 はそれを身 体 全 体 で受 けとり、日 日 の生 活 の 中 でよろこんで生 きる、という生 き方 にシフトしていかねばならない、またそうなるものだ、とお示 しくだ さっているのです。このことについてはまた別 の機 会にお話 しいたしましょう。
20 仏教 ボランティア (2016/5/01)
よく仏 教 ボランティアについての質 問 を受 けます。仏 教 はボランティアについて、どのように考 える のか、その特 徴 や、考 え方の方 向 を聞 かれることが、多 いのです。 そんなとき、『七 仏 通 誡 偈 』の一 句 を使 って説 明 しています。 諸悪 莫 作 (もろもろの悪 をすることなく)、 衆 善 奉 行 (もろもろの善 いことを行 い)、 自 浄 其 意 (自 らこころをきよくする )、 是 諸 仏 教 (これが諸 仏の教 えです) と言 う有 名 な一 句 です。 仏 教 の教 えるボランティア活 動 の基 本 的 な考 え方 は、ここにあると考 えています。 まず①悪 を止 める→ ②善 いことを行 う→ ③こころをきよらかにする、とかういう順 序 に仏 教 ボラ ンティアの意 義 があるといえるのです。私 は仏 典 の表 現 においで、言 葉 の順 序 にも思 想 性 が込 めら れていることがあると、思 っています。『七 仏 通 誡 偈 』にも仏 さまの意 思がある、と思 っています。 ボランティア活 動 は、何 か社 会 的 な活 動 を始 めることよりも、社 会 的 な悪 を行 わないことから始 め ることが、仏 教 に近 いのです。善 行 するよりも前 に、悪 いことをしないようにすることが大 事 だ といえま す。 道 路 に落 ちた空 き缶 拾 いをするボランティア清 掃 活 動 も必 要 なことですけれど、私 が空 き缶 をゴ ミとして道 路 に捨 ててしまわないようにすることが、もっと大 切 なのです。ゴミさえ捨 てなければ、ゴミまた社 会 にある構 造 的 な悪 の仕 組 みに気 づくことが、実 は大 事 なことなのです。社 会 開 発 をテー マにする仏 教 系 のNGOでは、最 初 には貧 困 や格 差 、争 い用 の社 会 構 造 の問 題 点 と、その仕 組 み に組み込 まれて、知 らず知 らずのうちに、関 係 しあっている私 たち自 身 の課 題 を学 ぶことから、活 動 が始 められています。 ボランティア活 動 は、わたし自 身 が悪 いことしません、という姿 勢 から始 まります。ここを強 調 する のが、仏 教 ボランティアの意 義 であるといえます。よいことをするボランティア活 動 をすることもいいし、 このほうが実 感 もあるし、周 囲 から褒 められたり理 解 ももらえます。やはり子 どもたちには、よい活 動 をすることがボランティア活 動 であるということの方 が理 解 しやすいでしょう。だから、しっかりやれば いい。それを踏 まえた上 で「諸悪 莫 作 、衆 善 奉 行 、自 浄 其 意 、是 諸 仏 教 」という語 句 の順 序 に込 め られた意 味 を伝 えることで、ボランティア活 動 の意 味 がますます深 くなっていきます。 悪 いことをしない、というボランティア活 動 は、見 えにくい活 動 だから、実 感 も少 ないし、認 めても らいにくい面 もあります。でも大 切 なことだと、子 どもたちに伝 えています。
21 念仏は幸 福の大 道なり (2016/6/01)
私 たちは毎 日 おいしいものを食 べ、便 利 で快 適 な暮 らしをしています。しかし、毎 日 が忙 しく何 か漠 然 とした不 安 感 を抱 いておられる方 も多 いのではないでしょうか。子 育 てや人 間 関 係 の悩 み、 子 どもの手 が離 れてくる頃 には両 親 の病 気 や介 護 、そして死 を看 取 るという現 実 が待 っています。 やがてその現 実 は自 分 の身 にもいつの日 にか起 こってくるのです。この誰 にでも起 こる人 間 の苦 悩 を「生 ・老 ・病 ・死 」(四 苦 )として私 たちに示 し、解 決 するための教 えを開 かれたのがお釈 迦 さまなの です。今 から約 二 千 五 百 年 前 のことです。 この四 苦 の中 でも私 達 がいちばん受 け入 れ難 い苦 しみが、人 は誰 も必 ず亡 くなって行 かねばなら ないという「死 」の苦 しみではないでしょうか。宗 祖 法 然 上 人 もお釈 迦 さまと同 じ苦 しみを抱 かれてお 念 仏 の道 へとたどり着 かれ、苦 悩 の解 決 の為 に私 たちにお念 仏 の教 えを示 されました。 法 然 上 人 はご法 語 に「受 け難 き人 身 を受 けて、会 い難 き本 願 に遭 いて、おこしがたき道 心 をおこ して、離 れがたき輪 廻 の里 を離 れて、生 まれ難 き浄 土 に往 生 せんこと、喜 びの中 の喜 びなり」と示 し てくださいました。つまり、日 常 の生 活 に追 われるあまり、私 たち人 間 がなかなか気 づかない五 つの 大 事 なことがら、 ① 身として在るありがたさ、 ② 仏の本願に遭うありがたさ、 ③ 仏のみ教えに手を合わす心が起きるありがたさ、 ④ この世の悩み、苦しみの世界から離れるありがたさ、 ⑤ お浄土に往生することのできるありがたさ、 この五 つのことがらに気 がつけば、本 当 の生 きる喜 びが生 まれてくる、とおっしゃるのです。法 然 上 人 は、人 は単 に死 んで行 くのではない、人 は死 ねば終わりではなく最 後 は浄 土 に往 生 して行 くのだ、 と示 しておられます。 私 たちはみないつか亡 くなって行 く身 の上 です。しかし、有 限 の生 活 を終 えたあと、まちがいなく 行 くべき世 界 があるのです。人 として生 まれ、阿 弥 陀 さまの願 いに出 遇 い、お念 仏 の信 仰 を起 こして、離 れることの難 しい娑 婆 世 界 を離 れて浄 土 である阿 弥 陀 さまの国 に往 生 して行 く道 、私 たちが 苦 悩 を滅 し、仏 となる道 が、既 に用 意 されているのです。なぜならそれが阿 弥 陀 さまの願 いだからで す。その願 いを本 願 といいます。日 々苦 悩 を抱 え苦 しんでいる私 たちに大 丈 夫 ですよと常 に働 き掛 けてくださっているのです。その阿 弥 陀 さまの働 きに感 謝 して我 が体 から、口 からほとばしり出 でる 歓 びが「南 無 阿 弥 陀 仏 」のお念 仏 なのです。 一 旦 お念 仏 の歓 びを頂 いた私 たちは仏 さまのみ教 えを暮 らしの中 に生 かして世 のため、人 のた めに貢 献 し、人 々と和 合 して、歓 びと感 謝 の報 恩 の日 ぐらしをさせて頂 くのです。 念 仏 は決 して亡 くなってからのことでは無 く、今 日 ただ今 を幸 福 に生 かしてくれる人 生 の大 道 なの です。