九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
過疎のムラを外へとつなぐ : 栂尾神楽と博物館・メ ディア・研究者
徳安, 祐子
九州大学大学院
https://doi.org/10.15017/2340950
出版情報:九州人類学会報. 30, pp.51-56, 2003-07-05. 九州人類学研究会 バージョン:
権利関係:
池媛づくりと簿物勉
過疎のムラを外へとつなぐ1)
一栂尾神楽と博物館・メディア・研究者一
I . はじめに
徳 安 祐 子
(九州大学大学院)
ディアが栂尾神楽を「発見」してからおこ なってきた表象の過程とそれが地域に及ぼ 近年博物館についてはその展示・表象の した影響について考察していく。
もつ政治性が問題化されている一方で、地
域の中から展示・表象をおこなう動きが活 II ‑1 • 栂尾神楽の客体化 発化している。それは博物館がコロニアリ
ズムとの共犯関係から抜けだすひとつのあ 30数年前、栂尾神楽は「栂尾の神さん」
り方ではあるが2)、地域系博物館もまた表 の祭りで奉納されるものであり、「祭り」と 象する立場であることには違いない。地域 だけ呼ばれていた。客は少なく、戦時中も の中から描き、代わって表すという中間的 細々と続けられてきたという神楽が最も危 な立場にたって表象の問題に関わるのが地 機に瀕していた時期である。人が集まるよ 域系博物館の営みであろう。そこにはやは うに演目順や期日を変えて工夫をこらして
り政治性の問題が含まれるにしても、博物 いたが、効果はあがらなかった。
館は表象をし、展示をしなければならない。 1972年、村文化財指定が決まり、栂尾神 それならば、博物館が表象や展示を通じて 楽保存会が結成された。それと前後して、
地域に対して果たしうる役割とは何なのだ 県による調査、神社以外の場所での神楽上 ろうか。本稿では、「表象されること」が何 演がおこなわれはじめ、 1975年には栂尾神 をもたらすのかについて椎葉村栂尾地区と
そこでおこなわれている栂尾神楽の事例3)
を検討することから考えてみたい。
椎葉村は宮崎県、九州山地の中央に位置 する山深い村である。神楽で知られ、現在 27地区において伝えられている。これらは
「椎葉神楽」として1991年に国の無形重要民 俗文化財に指定された。村では1997年に椎 葉民俗芸能博物館を設立したが、それまで には神楽が研究者によって「発見」されて 以降、外部からやってきた研究者やメディ アがさまざまに表象してきた過程がある。
彼らは外部からやってきては表象し、立ち 去っていった。そしてこの表象するものを 村の内部に取り込んだのが椎葉民俗芸能博 物館である。本稿では、博物館創設以前よ り神楽の表象に関わってきた研究者やメ
社にカメラを持ち込んでのテレビ撮影がお こなわれた。この2,....̲, 3年で客数は2倍近 くまで増加した。 1977年に早稲田大学の渡 辺伸夫の栂尾調査が始まり、これをきっか けに1980年には椎葉村の神楽が国の選択を 受けて翌年から本田安次を委員長とする
「椎葉神楽調査委員会」による調査が始まっ た。村内の神楽をひとまとめに「椎葉神楽」
とする呼び方もこの時からである。当時研 究者に評価されたのは「神楽の古態を良く 残している」[渡辺 1981‑1993: 1 ]という 点であった。その後重要無形民俗文化財指 定に向けて東京公演がおこなわれることに なるわけだが、同じ80年、椎葉に「『秘境』
のテーマ・パーク」として目をつけた大手観 光業者がツアー企画にむけて現地調査を始 め、これにも神楽が含まれていた。椎葉神
池城づくりと簿物勉
楽はこの頃学術・観光両面から資源として 統」として観念化し、自己を同一化していっ 発見され、外部からのまなざしを受ける形 たのである。
で「古態」を残す「秘境」の芸能として形 作られていった。そのなかで、栂尾神楽は 欠落の多かった他地区と比べて「ちゃんと した形を残している」と研究者に認められ、
その後一貫して椎葉神楽のなかで優越した 存在となる[飯島・徳安 2000: 71‑78]。
渡辺の栂尾調査から1983年の東京公演に 至る過程において、地区の人々は「すごい もの」として栂尾神楽を意識するように なったのだという。地区内に観光産業のな い栂尾では研究者による学術面からの評価 が大きな影響力を持った。とりわけ研究者 と頻繁に接触を繰り返した神楽の中心的担 い手たちの受けた影響は大きかった。渡辺 は、神楽に注目することで人々の神楽に対 する意識を高め、繰り返し質問することに よって反省的な視点を与え、発言すること によってことばを与えた。これにより、自 明の慣習であり、周囲の人々から飽きられ かけていた神楽は「伝統」として再発見さ れ、担い手たち自らそれについて語ること を可能にした。さらに研究者と共同して神 楽を固定、復古する試みがおこなわれ、そ のことでますます栂尾神楽は「伝統」を体
II‑2. 「新たな客」の出現
1980年以降、栂尾神社の神楽に集まる観 客の数は著しく増加し、より広域から集ま
るようになった。この頃はディスカバー・
ジャパンキャンペーンが打ち出され、ふる さと観光が盛んになった時期でもあった。
都市生活者が失ったはずのイメージとして の「ふるさと」がメディアの中で増殖し、
自然と伝統はそれらとの接触を通じて日本 人としてのアイデンテイティを再発見でき
るものとして語られた[太田 1998: 77‑78、 Kelly 1986: 606]。そして「秘境」は本物の それらが残されているはずの場所であった。
このころ椎葉村についてもドキュメンタ リー番組が作られているが、神楽に集まっ た観客へのインタビューからは、マスメ ディアや研究者からの情報、とくにドキュ メンタリー番組の影響は大きいことがわ かった。よく名前のあがる番組は、いずれ も椎葉村、椎葉神楽を秘境、秘境の芸能と して上手く「再構成」したものであった。
こうしたイメージや研究者が評価する「本 現し、評価されるべきものになっていった。 物の伝統」というイメージが研究者やメ 椎葉神楽が評価されるようになると公演 ディアを通じて流通する。新たにやってく の機会は増え、なかでも栂尾神楽はその機 るようになった観客はこれらの情報から作 会が多かった。公演では複数の神楽などと り上げられた観念的な「栂尾神楽」を求め、
同一のステージ上で上演する場合も多く、 ふるさとイメージを映すものとしての「栂 そのなかで舞い手たちは自分の神楽と他と 尾」にやってくるのである[徳安 2002:
を差異化していくようになった。村内の神 87‑89]。
楽と比較して「伝統」としての優越、また 従来の観客が近隣地域から集まり、自分 他の神楽、とりわけ知名度が高く研究者や の地区の神楽で、あるいは毎年参加するこ 観客から比較される対象となりやすかった とで、せりうた5)などを通した神楽への直 高千穂の神楽と比較して観光化4)されてい 接的・身体的な参加が熟練していくのと対 ない「本物」の伝統として栂尾神楽を意識 照的に、これら「新たな客」は「一度来た するようになった。こうして神楽の舞い手 ら満足する客」といわれる。神社外でおこ たちは栂尾神楽を「本物の伝統」「真正な伝 なう公演ではさらに身体的な参加の機会が
勉城づくりと簿物飯
なく「新たな客」だけの前で舞うことにな るのである。舞い手がこうした観客たちと 共有しうるのは「伝統」として客体化し、
観念化された栂尾神楽に対する視点である。
彼らとの接触を繰り返すなかでますます栂 尾神楽は「真正なる伝統」として舞い手や 地区の人々に観念されていくのである。
III‑1. 舞い手にとっての「伝統」
「真正なる伝統」として同一化した栂尾神 楽の舞い手たちにとって、神楽は変わって はならないものとなった。そしてその「変 わってはならない」という意識は行為にの み集中し、舞い手たちの集団は逆に少しず つ変わっていくことになったのである。
栂尾では、舞い手となるのは「神楽の家」
の跡取りであり、特定の演目についてはそ れぞれに定まった家の舞い手が代々舞うこ とになっていた。神楽の世襲演目は特権化 しており、それは知識の独占によってなさ れていたと考えられる。そうであれば、研 究者が多くの演目の唱教や舞いの所作を記 述したことにはそれが解体へと向かう結果 が伴ったはずである。そしてそれを許した のは舞い手たちが特権の保持よりも姿を変 えずに「保存」することに重きを置いたた めであろう。そのための人員確保も重要視
動機・よさについてのインタビューをおこ なったところ、栂尾在住、つまり中心的な 舞い手の多くは神楽に参加することを自明 なことと捉えている場合が多かった。動 機・よさとして「伝統」ということばをあ げた舞い手は、周辺的な参加者であるこの 20年ほどの間に加入した地区外からの参加 者に多かった[飯島・徳安 2000: 46‑49]。 新たに「伝統」という価値が与えられたこ
とによって中心的な参加者の意識にも変化 が見られるものの、動機としては伝統的動 機づけの弱い周辺的な参加者にもはたらく
ものとして捉えることができる。つまり、
新しい舞い手の出現は、舞い手集団がより 緩やかなものになったというだけでなく、
それまでの集団外部の人々にも共有しうる
「伝統」という新たな価値が付与されたこと もその要因であると考えられる。
しかし、実際に神楽に訪れ、舞い手や地 区の人々から話を聞けば「伝統」というこ とばは頻繁に聞かれるはずである。すでに 参加が自明である人々にとっての「伝統」
とは何であろうか。上記のインタビューに おいて、 2年続けて同じ質問をおこなった 2名の舞い手の場合、両者とも 1年目突然 現れた他者である私には「伝統」というこ とばを用いて回答し、半年以上栂尾で生活 し、神楽の練習には常に顔を出していたそ され、舞い手集団への加入は容易になった。 の後では「伝統」ということばを用いなかっ それまでのような条件を備えない加入者も た。また2年目に質問した若い舞い手のなか 現れ、増えていった。知識の独占による舞
い手集団内での壁、祭りの場における舞い 手集団の内/外という壁は低くなっていっ
には「伝統があるからねえ…とか言って欲 しいんでしょ」とふざけて答えるものもい た。彼らは外部からやってくる観客や研究
た。 者が何を求めてやってくるかよくわかった
こうしてこの20年ほどの間に、舞い手集 上で「伝統」ということばを口にするので 団はよりゆるやかな集団へと移行し、周辺 ある。つまり、これは主として他者に向け 部が拡大してきたといえる。このような多 た語りであるという可能性が考えられる。
様な人々が一つの集団として成り立っため に「伝統」は求心力としてはたらいている のだろうか。舞い手に対して神楽への参加
池城づくりと簿物航
III‑2. 「伝統」という語り
椎葉村はテレビ番組等でもしばしば秘境 のイメージで描かれ、これが遠くの客をも 呼びよせることになるのだが、地区の人々
尾神楽を支えるネットワークが地域を越え て広がっていることは、自己表象のことば を 手 に 入 れ た 地 域 の あ り か た に も 変 化 が あったためと考えられる。
1994年、地区の中心的存在であった栂尾 にとっては「いまだにあんな生活をしてい 小学校が生徒数の減少に伴って休校になる ると思われる、恥ずかしい」ものだという。 と住民の間に危機感が広まった。これを契 しかし秘境の芸能として神楽が描かれてい
る番組については「自分のところの神楽が テレビで放映されているのを見ると感激す る、誇りに思う」と非常に評判がよい。栂 尾地区では、 1990年ころより地区活性化の ために外部から人を招き入れようと「小丸 川源流まつり」を始めているが、当初「神 楽とホタルの里小丸川源流まつり」と銘打 ち、神楽はその最後を飾る中心的なプログ ラムであった。これは、外部に対して働き かけをおこなうのに用いられた自己の表象 が栂尾神楽であったということを示してい
る6)。
栂尾神楽は発見当初から「真正なる伝統」
として高い評価を与えられてきた。栂尾の 人々はそれによって栂尾神楽を客体化し、
アイデンティファイしてきた。神楽は、誇 りをもって受け止めることができ、誇りを も っ て 自 己 を 表 象 で き る こ と ば な の で あ る四栂尾の人々は「真正なる伝統」である 神楽を自己表象として選びとっているので
ある[徳安 2002: 87‑89]。
機に始まったのが月刊の広報紙「ルネッサ ンス103」の発行である。地区内に33部配る ほか、地区外にも180部程度発送する。巧み な紙面作りで情報の共有や紙上での交流が おこなわれている。栂尾に住んでいない神 楽の舞い手にとっては、たまに行ってもブ ランクを感じない、栂尾を常に感じること ができるものだという。このなかで神楽は ふるさとの象徴的存在として語られ、これ をみんなで支えようというメッセージがソ フトに発せられている。地区外からの参加 者についても、近郊都市で練習をし、神楽 に参加する様子や新しい参加者についてな どが伝えられ、また神楽に集まった人たち への感謝のことばが述べられる。このよう な記事を読み、自分も神楽に行ってみよう か、行ってみたら舞ってみようかとなるの だという。実際には住んでいなくとも栂尾 といつもつながっている感じがするという のはなにも出身者に限ったことではない。
「ふるさと観光」の客として通り過ぎるはず だった人のなかにもこのネットワークに参 加する人が現れている。毎年のように神楽 N. 広がるネットワーク に来るようになる人もいるという。「ルネッ サンス103」は栂尾を中心とした架空の空間 栂尾の人々はこのような自己表象のこと に集まる人々を巻き込み、共同性を構築し ばを手に入れ、外部への働きかけを始めた。 う る 媒 体 と な っ て い る の で あ り 、 そ れ に 1999年の時点で栂尾神楽保存会は29名から よって実際の栂尾という地域に人々を向か なるが、この半数以上の16名が地区外から わせているといえる。
の参加である。多くの伝統芸能を保持する これによって神楽の場に現れる新たな客 地域で不足している若者についていえば、 を取り込み、栂尾をとりまくネットワーク 当時20歳代の舞い手は4名いたが、彼らは は周辺部の広がりを見せるのである。より 全て地区外からの参加である。ここまで栂 緩やかな構造になった神楽の舞い手集団も
池城づくりと簿物詣
このネットワークを通じて周辺部を拡大さ せてゆくことになる。すでに地区の出身者 でもなく住人と親戚関係にもない人から神 楽を舞いたいという声は上がっており、
2000年にははじめてそれが実現した。
V. 過疎のムラに生きる
栂尾地区は過疎高齢化の激しい椎葉村の なかでも特に厳しい状況にある。 1999年の 時点で栂尾地区の人口は77名、その半数以 上が65歳以上の高齢者であった。実質的に 栂尾に在住している人で最も若い人は40代 半ばだった。小学校の休校以来「このまま ではいけない」と地域の活動に対して意欲 的に取り組みながら、ふと「いまさら何か を始めても自分の代で終わりかも」「何年後 には栂尾がもうないかもしれない」「自分が 栂尾最後の住人になるかも」などといった ことが口をつくのである。このようなどう しようもなく頭打ちな状況のなかで現在栂 尾の人々は生きているのである。
神楽は、舞ったり見たりする人々にとっ ては父親やその父親が生きて死んだ土地で 彼らと同じことをする、あるいは同じこと をしていると思うことに意味があった。神 楽の場には今だけでない連綿と続く過去が 現れる。それは本来未来へと続くものであ り、個の人生を越えた生を生きることへの 信頼を得ることにその大きな意味があった のではないだろうか。しかし今過疎の村で は未来に対する信頼を構築することができ ないでいる。栂尾では、神楽に「伝統」と いう外部と共有しうる価値を得て以来「他 の地域からの参加希望者をどうするか」「も し栂尾で維持できなくなったら他地域から の参加者に任せるのか」など、未来が開か れていない過疎という状況にあって、なん となく外へ託すことを考えはじめているの である。それは実際には不可能なことなの
かもしれない。しかし今過疎の村に生きて いる彼らにとって、全くの頭打ちになるよ りもどこかへ開かれていると感じることは 大切なのではないだろうか。
そしてこのような「どこかへ開かれてい る感じ」というのは、博物館を含む研究者 やメディア、観客と栂尾の人々とが共に文 化的資源の再構成によってつくりあげてき た「栂尾神楽」を媒介としている。地域の 人々にとって、「栂尾神楽」とは外部の人々 に対して誇りをもって自己を表象すること のできることばであるというだけでなく、
外部との対話・実践をつなぐアクセスポイ ントとなっている。そしてそれが、地域と 外とをつなぎ、地域のありかたまでもすこ
しずつ変えてきたといえるだろう。
注
1)本稿は2002年11月2日に開催された「九 州人類学研究会オータムセミナー」の口述 発表の概要である。詳しくは永吉による セッション趣旨文を参照。セミナーにご参 加いただいた皆様にこの場を借りて謝意を 表したい。なお、タイトルは原稿化するに あたり「過疎の村を外へとつなぐ」から「過 疎のムラを外へとつなぐ」に変更している。
2)本セッションの永吉趣旨文参照。
3) 1999年5月から約10ヶ月間おこなった住 み込み調査に基づいており、基本的に資料 は当時のものを使用している。栂尾神楽は 毎年11月22日の夜から23日の朝にかけて栂 尾神社でおこなわれる。椎葉神楽の一つ。
栂尾神楽の舞い手集団である栂尾神楽保存 会は1999年当時会員29名で、そのうち栂尾 在住者が13名、栂尾出身者や在住者の親戚 等非在住参加者16名。また一般的に、栂尾 神社における栂尾神楽については、神楽だ けでなく神楽を含む祭り全体を指すのでこ こでもそれにならいたい。
池報づくりと簿物危
4)研究者や観客の影響で、見たことのない 人でも高千穂神楽を観光神楽と位置付けて いる。
5)神楽のあい間に、また舞いにあわせて観 客がうたうもの。
6)栂尾地区の伝統芸能は神楽以外にも臼太 鼓踊りがある。
7)日本では、 1950年代半ばから山村に住み 第一次産業に携わっている栂尾の人々は事 実上マイノリティー化されていった[飯 島・徳安 2000: 13‑14]。さらにマスメディ アの普及に伴ってさまざまなライフスタイ ルが「選択」可能になものとして提示され るようになる。栂尾でも主要な産業である 林業の弱体化に伴い、 1970年頃を境に急激 に市部へと人口が流出していった。市部へ の転出を考えたが実現しなかったという話 も多く聞かれ、栂尾の人々が常に都市を「ま なざし」続けてきたことがわかる。その「ま なざす/まなざされる」という関係を逆転 したのが「ふるさと」としてノスタルジッ クな憧憬を込めた椎葉や栂尾に対する表象 であった。そのなかでも経済的基盤を失い、
都市をまなざし続け、自らの生活を否定的 に語ることの多かった彼らにとって発見以 来内外から肯定的なことばで語られてきた のが神楽なのである。
主要参考文献
飯島秀治・徳安祐子 2000「栂尾神楽一生成 する儀礼ー」『椎葉の祭り』(関一敏・竹沢 尚一郎編)pp.12‑111、九州大学人間科学科 比較宗教学研究室。
太田好信 1998 [1993]「文化の客体化」『ト ランスポジションの思想ー文化人類学の再 想像ー』 pp.55‑94、世界思想社。
徳安祐子 2002「まなざしを捉える一ノスタ ルジア・ツーリズムの人類学から一」『九州 人類学会報』 29: 74‑93.
ハンドラー, R.&リネキン,
J .
1996 [1984]「本物の伝統、偽物の伝統」『民俗学の政治 性』(岩竹美加子訳) pp.125‑156、未来社。
安井員奈美 1997「町づくり・村おこしとふ るさと物語」『祭りとイベント』(小松和彦 編) pp.201‑226、小学館。
山下晋司 1996「観光人類学案内一《文化》へ の新しいアプローチー」『観光人類学』(山 下晋司編) pp.4‑13、新曜社。
渡辺伸夫 1981‑1993「椎葉神楽発掘」『広報 しいば』(椎葉村総務課編)椎葉村。
Ivy, M. 1995. Discourses of the Vanishing: Modernity, Phantasm, Japan. Chicago: The University of Chicago Press. Kelly, W.W. 1986. Rationalization and
Nostalgia: Cultural Dynamics of New Middle‑Class Japan. American Ethno
‑logist 13 (4) : 603‑618.