九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
La question de I' ≪homme de nature≫ selon Jean-Jacques Rousseau: une lecture de l' Emile
原田, 裕里
九州大学大学院比較社会文化学府
https://doi.org/10.15017/4494674
出版情報:比較社会文化研究. 23, pp.73-81, 2008-03-01. Graduate School of Social and Cultural Studies, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
Social and Cultural Studies No. 23 (2008), pp. 73~81
ルソー『エミール』における自然人の間題
ー自然の概念と「単純さ」についての考察一
直 ュ 裕
ダ 田 盆 犀
序
自然人についてルソーが叙述するとき、そこには「人間 は本来、善良であったはずである」という信念と、本来あ るべき人間の諸形態を大きく変質させた社会にたいする批 判が含まれる。彼はその特有の自然状態 「もはや存在せ ず、これまでおそらく存在したことがなく、多分これから も存在しないであろうひとつの状態、それでも我われの現 在の状態についてよく判断するために、それについての正 しい観念をもつことが不可欠な状態」り を人間の原初 の状態まで徹底的にさかのぽり描写しようとする。自然人、
つまり社会によって歪められる以前の人間の純粋な形態に つ い て 仮 説 を 立 て る こ と に ル ソ ー は な ぜ そ う 固 執 す る の か。そこには歴史的事実を論証する意図はない。むしろ、
ピエール・ビュルジュランが『ルソーの存在の哲学』のな かで彼を人間の「心の歴史家」と形容したように2)、ルソー の視点はつねに人間の「こころ」、すなわち人間の本質を見 極めることに向けられているのである。
ところで、ルソーにとって「自然nature」とはいかなる 意味をもっていたのだろうか。ジャン ・スタロバンスキー は、ルソーが自己の自然へ立ち返ることによって自然人を
描 き だ し た と 述 べ ているが3)、このように自然はルソーに とって自分自身の心の奥底に見出される源泉と言うべきも のである。そこに確固たる善性を認めるからこそ自然人の 存在に固執し、人間の生得的善性を正当化しようとするの である。この問題にかんしては二つの方向性が認められる だろう。まず1754年刊行の『人間不平等起源論jでは、本 来善き者として生まれた人間が、社会において自然に反し て堕落していく過程を論じ、つづいて1762年の『エミール』
では、いかに自然を保ちながら人間を教育することが可能 であるか、 18世紀当時の社会背景から考えれば極めて新し い教育論を展開したのであった。
このように「自然」とは、人間が社会で後天的に獲得し た性質をすべて取り払った姿に他ならない。そしてルソー 的な自然とは、彼を魅了するアルプス地方特有の田園風景 などの外的自然がまず前提にあり、それらの自然にたいす る親近感や憧憬をテクストに表しながら、より複合的かつ 文学的な様相を呈することになる。こうして本稿では、ル ソーにおける「自然」の概念の再検証を試みるべく『エミー ル』で実践された自然教育に着目する。とくに自然教育に おいてもっとも重要な時期とされる第4編の重要性につい ては、ルソーがこの編にテクストの3分の 1を割いている l)ルソーの作品にかかわる本稿の言及はすべて次の版にもとづくものとする。 Jean‑Jacques Rousseau,(Euvres comp!払tes, t. I ‑IV, Paris, Gallimard, ≪ Bibliotheque de la Pleiade ≫, 1959‑1969.以下、 OCと略記し、巻号と頁数をローマ数字で記す。本稿で中心 的に引用した作品[エミール』は同版の第4巻に収録されている。引用文はすべて拙訳だが、訳出のさいには今野一雄訳の岩波文庫版
(上巻、 1999年第63刷)、(中巻、 2000年第58刷)、および白水社版「ルソー全集」 (第6、7巻、樋口謹一訳)を参照した。引用の出 典は (Rousseau,Discours sur l'oガ'gineet !es fondements de l'inegalite parmi !es hommes, OC Ill, p. 123)。
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人間不平等起源論J にあるこの文章にかんしてビュルジュランは、後半の直説法単純未来における副詞「たぷんprobablement」に着目している。それに よれば、ルソーのこの一節は、自然状態の存在について否定的なニュアンスを含みながらも、実現の可能性をまったく考慮していな いわけではないという (PierreBurgelin, ≪ L'homme originel ≫, La philosophie de !'existence de].‑]. Rousseau, Paris, J. Vrin, 1973, ze ed., p. 218)。2) Burgelin, ≪ Le toi et le moi ≫, op. cit., p. 388
3) Jean Starobinski, jean‑Jacques Rousseau : La transparence et !'obstacle ; suivi de sept essais sur Rousseau, Paris, Gallimard, 1971, p. 31.また、引用の訳は拙訳。訳出するさいには、松本勤訳の思索社版「JJ・ルソー 透明と障害Jを参考にした。 「自己認 識は、レミニセンスに相当する。しかしルソーがこれらの「原初の特徴」、だが以前の世界のものである「原初の特徴」をふたたび見 出すのは、記憶を働かせたからではまったくない。自然人を発見しその歴史家となるために、ルソーは時代のはじまりにまでさかの ぼる必要はなかったのである。つまり、受動的で能動的でもある運動のなかで、自己を探求し夢想に身を委ねながら、自画像を描き、
自分の心の奥底に、自己の自然に立ち帰るだけで彼には十分だったのである。内面性へ訴えることではるか昔の過去の探求と同じ現 実性に達し、同じ絶対的な規範を読みとることができる。こうして、歴史的時間の秩序において最初であったものが、ジャン=ジャッ クの現実体験のなかに、もっとも深いものとしてふたたび見出される。」
4)『エミールj第4編にとくに言及した研究としてはつぎのような研究書がある(ChristianJacquet, La pensee relz'gieuse de jean‑Jacques Rousseau, Louvain, Bibliotheque de l'Universite, 1975, 229 pp.)および (YvesVargas, Introduction
a
!'Emile de jean‑Jacques Rousseau, PUF, 1995, 343 pp.)原 田 裕 里
にもかかわらず、これまで十分に指摘されてきたとは言え なる。はじめはそれらの感覚が快いものであるか、不 快なものであるかによって。それから私たちと事物と の間で都合がいいか、よくないかを見出すことによっ て。そして最後に、理性によって私たちに与えられる 幸 福 も し く は 完 全 さ の 観 念 に も と づ い て 下 す 判 断 に よって。こういった傾向は、私たちがより感じやすく、
より分別がつくようになるにつれて広がり、確立され てくる。しかし、自分の習慣に抑えられているこれら の傾向は、私たちの臆見によって多少は変質してしま う。このように変質する前の傾向が、私が我われのう ないのではないだろうか4)。したがって本稿では、第4編を
中心に論じることにし、また最終的には、「自然人」の概念 について現代において考察する意味を示すために、心の「単 純さ」、すなわち人間の単一性の問題に関する考察を行うこ
とにしたい。
I .
自然に従う『エミール]では、人間の発達時期が5段階に区分され、
各時期に応じて子どもの「自然nature」を保っための教育 法が適用される。その教育法は、子どもにみずから発見さ せる消極的教育 (educationnegative)、つまり子どもが子 どもとして生きるべき時代を尊重する方法である。この教 育法によってこそ自然に従った教育が可能だとルソーは言 ぅ5)。すでにビュルジュランが指摘しているように、ここで は5段階の教育を辿ることによって健康で平均的な能力を もつひとりの人間の良心(意識conscience)の発展を読み 取ることができる 「『エミール』は、生来の善良さにつ いて論じた著作である。なぜならそこではおそらくすでに、
精神現象学の下書きとなる良心(意識)の発展理論が提示 されているからである」 6)。つまりこのルソーの教育論で は、のちにヘーゲルが『精神現象学』において展開するこ とになる、絶対知へ至るまでの人間の意識の発展過程の萌 芽が認められるのである。
この自然教育では、自然が教える時期に先走ることを回 避する必要性が強調されている。それによって良心(意識)
の自然な発達を忍耐強く待つことが重要なのである。そも そも「自然」とはいかなるものか、ここでまず確認してお きたい。『エミール』ではつぎのように定義されている。
私たちは感覚をもつ者として生まれる。そして生ま れると周囲の事物によって様々に影響を受ける。いわ ば自分の感覚を意識するようになるとすぐに、私たち は感覚を生みだす物を求めたり、逃れたりするように
.
.
ちに自然と呼ぶものである。
7)
こうして人間に生来そなわっている自然は、社会のなか で自尊心に目覚めるようになると変化することになる。『エ ミール』の自然教育は、悪い方向への変化を最小限に留め ながら子どもの自然を維持する教育方法を提示する。しか し留意しておくべきことは、ここで言う自然人は、 『人間不 平等起源論』で描写された自然人とはまったく異なる点で あろう。自然教育の子であるエミールは、完全な自然状態、
つまり人間の原初の状態において孤立して生きる存在では なく、社会において他者とともに生きるべき存在である。
自然状態で生きる自然人と、社会状態で生きる自然人が明 確に区別されている点が、『エミール』に描かれた自然人の 特徴である。この区分については第3編において述べられ ている。
自然状態で生きる自然人と、社会状態で生きる自然人 には、大きな違いがある。エミールは無人の地へ追い やるべき未開人ではない。街に住むようにつくられた 未開人である。彼はそこで必要なものを見つけ、街の 人々を利用して生きる方法を知らなければならない。
彼らのようにとは言わないが、少なくとも彼らととも に生きる方法を知らなければならない。 8)
ここでは、情念の渦巻く社会において自然人として生き 5)この点についてルソーはみずからの観察にもとづく理論に絶対的確信をもっている一「私をより確信にみちた口調にさせているの
は、そして思うに、そうすることが私にいっそう許されているのは、私が体系の精神にこだわらないで、できるだけ推論に拠らず、
観察だけを頼りにしていることである。」 (Rousseau,Emile ou de !'education, Livre IV, OC IV, p. 550)「エミールjを書くにあ たってルソーは、リヨンでマプリ家のふたりの息子の家庭教師をした経験 (1740年4月から翌年5月頃まで)をもとにし、じっさい その期間に[サント=マリのための教育論j (17 40年11月から12月にかけて)を執筆している。しかしエミール{象についてのルソーの 描写にはレミニセンス、すなわち自己にかんする過去の生きた記憶が発揮されていると考えられる。さらに、「サヴォワの助任司祭の 信仰告白」の助任司祭のモデルは、ルソーがイタリア時代に出会ったふたりの司祭(ジャン=クロード・ゲーム、 ジャン=バチスト・
ガティエ)とされているが、これらの人物像はより複合的に創作されている。つまりここにも著者自身やヴァランス夫人などの影響 が見られる。「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の若者像についても同様である。
6) Burgelin, ≪Emile≫, op. cit., p. 504. つづけてビュルジュランは「生まれつきの善良さ、原初の直接的な統一性には、相次ぐ意識 化の単純な働きによって、一連の統合—同時に、自我を宇宙の秩序の中で考える一連の統合—ーーにおける多様性を越えた統一性へ 達し得る発展の余地がある」と述べている。
7) Rousseau, Emile ou de !'education, Livre I, OC IV, p. 248. 8) Ibid., Livre III, pp. 483‑484
ることが重要となる。そして、そのために不可欠な性質と して「善良さ bonte」が挙げられる。事実、森の奥で孤立 した、他者に出会うことも滅多にない完全な自然状態の中 で生きることはもはや不可能であり、その有無を問うこと は問題ではない。他者の中にありながら自然人であるため の教育を実践するのが、エミールの家庭教師の役目である。
そのために家庭教師はエミールが生まれるとすぐに教育を 任され終始、影のようにつき添うことになる。真の未開人 は想像力、理性、感情、情念といった社会生活を送るため に不可欠な要素にかんして無知である。しかしエミールは、
当然のことながら、肉体と精神の自然な発達によってこれ らの社会的能力にいずれ目覚めることになる。
第4編で展開されるのは、人間が少年期から青年期へ移 行する教育上もっとも重要な「第2の誕生」9)期である。す なわち、「人生の効用を知らないうちに過ぎてしまう」10)最 初の4分の 1と、「人生の楽しみを感じられなくなってから 過ぎていく」 11)最後の4分の1に挟まれたインターバルの 時期を指す
私たちはいわば、二回生まれる。一回目は存在する ために、そして二回目は生きるために。はじめは種の ために生まれ、つづいで性のために生まれる。
[…]一般的に、人間はいつまでも子ども時代に留ま るように作られてはいない。自然によって定められた 時期にそこから脱け出すのである。そしてこの危機の 時代は非常に短いとはいえ、長いあいだその人に影響 を及ほす。 12)
第2の誕生期における人間は、肉体的には完成されつつあ るが、精神は柔軟さを保ち、明晰な判断力はまだ養われて いない。目をはじめとして顔かたちにはっきりとした線が 現れ、精神的なしるしに際立った変化が見られる。自立し ようとする子どもは、もう指導されようとはしなくなる。
典 奮 や 感 動 な ど そ れ ま で 知 ら な か っ た 感 情 に も 目 覚 め る が、他方で、まだ子どもの頃の純真さも併せもつ。いわば、子 どもでも大人でもない状態であり、「現れはじめた情念のつ ぶやき」13)によって告知される人生の転換期である。この転 換期への境目にいる人間は、まだ自己の存在を自覚しては いない。良心が完全に眠っている状態だからである。‑‑
9) Ibid., Livre IV, p. 490 10) Ibid., p. 489
11) Ibid., p. 489 12) Ibid., p. 489 13) Ibid., pp. 489‑490 14) Ibid., p. 500 15) Ibid., p. 501 16) Ibid., p. 505.
では、子どもの突出した「無関心」が挙げられる。
その年齢にふさわしく育てられている子どもは孤独 である。習慣からくるもの以外には愛着というものを 知らない。彼は自分の時計を大事にするように妹を、
自分の犬をかわいがるのと同じように友だちを愛して いる。自分の性も種もまったく意識していない。男性 も女性も等しく彼にとっては無縁の存在である。彼ら がしていることも言っていることも、何ひとつ自分に 関連づけて考えない。それを見もしなければ聞きもし ない、あるいはそれにどんな注意も払わない。彼らの 話 も 彼 ら の 実 例 も 同 じ く 彼 の 典 味 を ひ く わ け で は な ぃ。つまり、そういったことすべては彼のためになさ れたことではないからだ。それはこの方法によって子 どもにあたえられる人為的な誤りではなく、自然に基 づく無知から来ている。同じ自然が生徒を照らしだそ うと気遣う時期はやってくる。そのときこそ自然は、
あたえられる教えを何の危険もなく生徒が利用できる 状態にしてくれる。 14)
彼の一貫した無関心さは、それまでの教育によってすでに 事物に関する知識は所有しているとはいえ、人間について は無知だからである。他者にまったく関心がないために反 省を知らず、完全に自己充足して生きており、ひとりでい ても孤独を感じていない。他方で、自然に先行して育てら れた子ども、つまり「時期尚早の知識をあたえられ、それ を実行に移す能力をひたすら待ちこがれている、世なれて 洗練された文化的な」15)子どもを観察すると、より社会的で 成長過程も早いことが分かる。
[…]私が彼[エミール]を導いてきた時期には、彼 は感じたこともなければ嘘をついたこともない。彼は、
愛するとはどういうことか知らないうちに、誰かに「私 はあなたが好きです」と言ったことはない。父親の部 屋や母親の部屋、もしくは病気で寝ている教師の部屋 に入るときにはこういうふうにしなさい、などと彼は 言いつけられたことはない。感じてもいない悲しみを 装う技巧を教えられてはいない。死ぬとはどういうこ とかを知らないために、誰が死んでも、泣いたふりを
原
. . . . . . . . . . . . . . . .
し た こ と は な い 。 心 情 が 無 関 心 な ら 態 度 も 同 じ よ う に
. . . . . .
無関心である。他の子どもも全てそうであるように、
...
自 分 の こ と の 他 に は い っ さ い 関 心 を も た な い 彼 は 、 誰
. . . . . . . . .
に も 興 味 を 感 じ な い 。 他 の 子 ど も と 違 う 点 は 、 興 味 を 感 じ て い る よ う に 見 せ か け よ う と は し な い こ と 、 他 の 子 ど も の よ う に 嘘 つ き で は な い こ と 、 そ れ だ け で あ
る。 16)
意 識 の 転 換 が 生 じ る こ の 地 点 か ら 、 成 長 過 程 の 中 で 人 間 は第2の 誕 生 期 に 入 る 。 こ の 時 期 に 教 育 が 真 に 重 要 な 意 味 を も つ こ と に な る と ル ソ ー は 述 べ る の だ が 、 ま た こ の 時 期 は 、 教 育 の 実 践 方 法 を そ れ ま で の 消 極 的 教 育 か ら 実 証 的 な 教 育 へ 移 す 時 期 で も あ る 。 人 間 を 研 究 す る の に も っ と も 相 応 し く 、 周 囲 の 人々に つ い て 学 び 、 人 間 性 を 知 り は じ め る 時期である。
. . . . .
こ の 時 期 が 私 の い う 第2の誕生である。ここで人間 は真に 人 生 に 生 ま れ 、 人 間 的 な も の は 何 も の も 無 関 係 で は な く な る。17)
肉 体 的 な 存 在 に よ っ て し か 自 分 を 認 め て い な い あ い だ は事物との関係から自分を研究しなければならない。
そ れ は 子 ど も 時 代 に す る こ と で あ る 。 み ず か ら が 道 徳 的 存 在 で あ る こ と を 感 じ は じ め た と き に 、 人 間 と の 関 係 か ら 自 分 を 研 究 し な け れ ば な ら な い 。 そ れ は 我 わ れ が 達 し て い る 地 点 を 出 発 点 と し て一 生 を かけてするこ
とである。 18)
教 育 に お い て は 、 み ず か ら の 「 道 徳 的 存 在 (etremoral)」 を 感 じ は じ め る 地 点 に 目 を 向 け る こ と が重 要となる。なぜ な ら 、 人 の 一 生 に お い て こ の イ ン タ ー バ ル の 時 期 は 極 め て 短 い た め に 、 気 づ か ぬ う ち に 瞬 く 間 に 過 ぎ 去 っ て し ま う か ら で あ る 。 教 師 は 、 子 ど も に 自 尊 心 か ら 情 念 が 生 ま れ る 時 期 を 見 極 め 、 自 然 を 変 質 さ せ て し ま わ な い よ う 見 守 る 必 要 が あ る 叫 自 然 の 正 し い 歩 み は 一 般 的 に 考 え ら れ て い る 以 上に遅く進行するからである。
17) Ibid .,p. 490 18) Ibid., p. 493
田 裕 里
あ な た は 現 れ は じ め た 情 念 に 秩 序 と 規 則 を あ た え よ う と し て い る の で し ょ う か 。 そ う で あ る な ら 、 情 念 が 生 ま れ る に つ れ て 時 間 を か け て 整 理 が な さ れ る よ う に 、 情 念 が 発 達 し て い く 時 間 を 延 ば す こ と で す 。 そ れ な ら 、 情 念 に 秩 序 を あ た え る の は 人 間 で は な く 、 自 然 そのものということになります。配慮すべきことは、
自然にその仕事を整理させることだけなのです。 20)
「情念に秩序をあたえる」とは、自然の歩みに従う、すな わち子どもの経験と理性の歩みに従うということである。
子 ど も に 情 念 が 現 れ る 時 期 は 、 教 育 上 も っ と も 配 慮 を 要 す る 期 間 と さ れ 、 そ の 時 期 を 見 極 め る こ と が 教 師 に と っ て は 最 大 の 仕 事 と な る 。 情 念 の 現 れ る 時 期 と は 、 前 述 し た よ う な 、 子 ど も が ひ と り で い な が ら 孤 独 を 感 じ て い な い 状 態 か ら 、 他 者 の 中 に 存 在 し て い る 自 己 を 認 識 し た と き で あ ろ う
私 の エ ミ ー ル は 、 今 ま で は 自 分 の こ と し か 考 え て い な か っ た が 、 彼 と 同 じ 人 間 に 注 目 す る よ う に な る と す ぐ に 自 分 を 彼 ら と 比 べ て み る こ と に な る 。 そ し て 、 こ の 比 較 が 彼 の う ち に 呼 び 起 こ す 最 初 の 感 情 は 、 第 一 位 を占めたいということである。こ れ は 自 分 に 対 す る 愛 が 自 尊 心 に 変 わ る 地 点 、 そ し て そ れ に 関 係 す る あ ら ゆ る情念が現れてくる地点である。 21)
情 念 に 関 し て は 、 ル ソ ー が 第4編 の な か で 詳 細 に 論 じ て いるが、それによれば、情念の源は「自己愛(amourde soi)」 で あ っ て 、 も と も と は 良 い も の で あ る 。 し か し 、 川 の 流 れ の 源 泉 に 例 え ら れ て い る よ う に 、 社 会 に お い て 様 々 な 方 向 へ 向 か う こ と に よ っ て 変質す る こ と に な る 。 代 表 的 な も の として「自尊心 (arnour‑propre)」があるが、たとえば自己 と 他 者 を 比 較 し て 自 分 を 見 失 い 、 自 己 疎 外 す る こ と が 挙 げ
られる22)。しかしこのような情念の形態は、ルソーによれば
自 己 制 御 で き て い る あ い だ は す べ て 良 い も の で あ る 。 し た が っ て 、 こ の 時 期 に 生 じ 得 る あ ら ゆ る 情 念 を 自 分 で 支 配 す る こ と を 学 ば せ る の が 第4編 及 び 第5編 に お い て 中 心 的 に
19) ルソーは人間の「情念 (passion)」をすべて否定しているわけではなく、 自然に由来する情念の源一―—自分にたいする愛ー一4よ他の すべての情念に先立つもので、自己保存のために必要だと考えている。ルソーによれば、その他の情念はそこに関係なく生まれてく るために、人間にとって有益であるどころか有害である。しかしながら「情熱 (passion)」は他方で、人間の発達に必要な要素てあ るという。
20) Rousseau, Emile ou de !'education, Livre IV, p. 500. 21) Ibid., p. 523.
22)ビュルジュランによれば、真に自然に反していることは、人間のあいだの依存と臆見 (opinion)にたいする依存であり、それらは人 間の精神が発達するさいに障害となる。臆見のくびきはすべてが想像に根ざしているもので、人はその幻想に従うことによって身を 貶めている。臆見は情念の名を変えたものであるにすぎず、人間を分裂させながら幸福から隔てるものであるCBurgelin,≪Emile≫, op. cit., p. 499)。
ルソー 『エミール』における自然人の問題
説かれる教育となる。
さらに、この時期に人間は精神の自然な歩みによって宗 教および哲学への問いが生じることになるのだが、こうし て 『エミール』第4編の延長線上に「サヴォワの助任司祭 の信仰告白」が挿入されることになる。
II. 自然の喪失、あるいは第2の自然
自然の歩みによって道徳的存在となった人間は、やがて 自然の喪失を強いられる。『エミールj第4編でルソーは、
人間がどのようにして自然から脱して行くことになるのか を明瞭に説明している。他者の存在を意識しはじめること によって情念が芽ばえ、反省を知り、自己にたいする距離 が生まれる。しかし他方で、理性も目覚めるのである。ル ソーによるとこれが人間の堕落のはじまる地点であり、反 省によって比較や判断が可能となる。自然の喪失は社会状 態に生きる人間にとって必然の過程であるのだろう。この とき人は再生への強い力を要求されるが、そこにおいて再 び自然を見出さないかぎり、自己疎外し堕落の一途を辿る ことになる。第4編における「サヴォワの助任司祭の信仰 告白」の役割は、この危機の時代に正しい判断力を養わせ、
自由な意志の存在へと導くことにある。そのために、サヴォ ワの助任司祭は若者に宗教や哲学を説きながら自然の教育 を完成させようとする。「サヴォワの助任司祭の信仰告白」
直前のくだりが示しているのは、暗黒の闇にいる者を太陽 のもとへ出すプラトンの『国家jにおける、洞窟の比喩と 解釈できるだろう。ふたりの対話には適当な時と場所が選 ばれなければならない。対話は一度きりしか為されないか らである
私[若者]はすぐに、話を聞きたいと熱心につたえ た。その約束はできるだけ早く、明日の朝に、という ことになった。夏だった。私たちは夜明けに起き出し た。そして、彼は私を町の外にある高い丘の上へと連 れて行った。丘の麓にはポー河が通じ、肥沃な土地を なだらかに流れていくのが見えた。遠くのほうには、
広大なアルプス山脈が景色をとり囲むようにそびえて
23) Rousseau, Emile ou de !'education, Livre IV, p. 565.
いる。朝日の光りがすでに平野にすこしずつ差してい て、木々や、葡萄畑の小さな丘や、家々を、長い影を とおして野原に映し出している。限りない陽の光りの 変化によって、人間の目が感動し得るこのうえなくす ばらしい光景を、いっそう美しいものにしていた。ま るで自然は、私たちの目の前にそのあらゆる壮麗さを くり広げて、私たちの対話のテクストをあたえている ようだった。そうして、しばらくのあいだ黙ってそう いう風景をじっと眺めていたあとで、静かな心の人は こんなふうに私に語ってくれた。 23)
対話のテクストには、助任司祭と若者のふたりが見下ろす アルプスの山並み、高い丘、ポーの流れといった自然その ものが記述される。自然とはルソーにとって、人間の内的 な本性を示すと同時に、外的な自然となって表わされるの である。自然と朝日の光りの描写によって、若者の進む道 が暗示されている。もともとは単独で書き始められた「サ ヴォワの助任司祭の信仰告白」を、著者が後に『エミール』
ヘ挿入することになったのは、自然教育に肝要な意味付け をするため、つまり人間の知的成長を哲学と宗教によって 完成するのが目的であった。ここで対話による教育を経て エミールはみずからの道を歩み出し、自己決定する存在へ
と成長しなければならないのである。
ところで、このように自然を喪失した人間に解決の道は あるのだろうか。この地点において人間が動物性を凌駕す るとビュルジュランは述べている。
こうして自然は、まず静的なものとして示され、少 しずつ、あるダイナミズムを顕にする。自然に源泉を もち、状況が始動させるダイナミズムである。したがっ て自然へ「帰る」必要はないが、それに「従わ」なけ ればならない。そこで自然は内なる弁証法をみずから
. . .
提示しているはずである。内なる弁証法は直接性を受 入れ、もし時間があたえられるならば、少しずつその
. . .
直接性を組み込んでいく。一方、悪魔のような粗暴な 社会は、時代を急いで進化しようとするために、つい には我われが自己の自然、自己の存在をも捨てること
24) Burgelin, ≪ L'homme originel ≫, op. cit., p. 220. ビュルジュランはこの章で、人間の真の自然、つまり本質を見極めようとしつ つ論述を展開するのだが、「存在 (existence)」、「本質 (essence)」のふたつの概念が、ルソーの思想において切り離せないものであ ることを述べたあとで、そこでは存在の感情(自己同意の感情)を認識すること、すなわち、これらの良心へ導く感情が、人間の幸 福の源泉であるとしている。存在の感情とは、サヴォワの助任司祭の言う「私は存在する。しかし私とは誰なのか?」の問いかけに はじまる自己意識の認識である一一「[…]私は感覚 (sens)をもち、それを通して印象を受ける。[…]私は自分の存在についてある 固有の感情をもっているのだろうか、それとも感覚 (sensations)をとおしてしかそれを感じていないのだろうか? […]じかに、あ るいは記憶によって、絶え間なく感覚から印象を受けている私は、「わたし」の感情がこの同じ感覚以外のものであるのかどうか、ま た「わたし」の感情がそれらの感覚から独立し得るのかどうか、どうしたら知ることができるのだろう?」(Rousseau,Emile ou de
!'education, Livre IV, pp. 570‑571)さらに、別の章においては、ルソーの恋愛経験に言及し、とくにヴァランス夫人の存在によっ て、ルソーが自己の存在に到達したことが良心に関連づけられて述べられている (Burgelin,≪ Le toi et le moi ≫, op. cit., p. 380)。
原 田 裕 里
によってしか機能しなくなってしまうのである。自己 を疎外することによって、もしくはむしろルソーが言 うように、堕落することによって。 24)
したがって、原初の自然状態とは異なる自然状態でありな がら、原初の直接性をともなった自然状態が存在すると言 えるのではないか。それ故に『エミール』においてルソー は、人間の本質が実現される社会状態を重んずるのである。
こうして人間の「自己完成可能性(perfectibilite)」、すなわ ち自然の喪失を経た人間が達し得る能力、かつ自然状態に おいてはまだ潜在的であった能力が現れる。喪失した自然 をいかに奪回できるのか。それにはただ、自己を見つめて みずからの自然を辿り (suivrela nature)、自然が回復す るのをゆっくりと待つしかないであろう。こうして回復さ れた自然は、以前のものとはまったく別の新たな生命力を もっている。自然状態において所有していた直接性をとも なう第2の自然である。この「直接性」について述べてい るのがスタロバンスキーのつぎの一節である。
カントによれば、ルソーは文化と自然の闘争をあばき だしただけではなく、その解決をも探求している。[…]
人為と文化がまさにもっとも高度な完成の域に達した とき、我われはふたたび自然を見出す。すなわち、「完 成された人為はふたたび自然となる」。カントが人為と 名づけているものは、法的制度や、人間がそれに自己 の存在を一致させようと決意する、自由で理にかなっ た秩序である。教育と法律という最高の機能は、ふた つのいずれもが人間の自由にもとづいており、自然に 文化のなかで開花することを可能にすることにある。
そうなれば(とカッシーラーはつけ加える)、人々はか
. . .
つて自己の自然的存在において享受していた直接性 (immediat)を、ふたたび見出すのである。しかし彼 らがそのとき発見するものは、もう感覚と感情からな
. . .
るただの原初の直接性ではなく、自律的な意志と理性
. . .
的な良心からなる直接性なのである。25)
見出された新たな自然としての「第2の自然」26)とは、自 然状態で人間が享受していた直接性、つまり自己の統一を ふたたび可能にするものである。そして、この点にルソー は人間の動物にたいする優越性と、存在理由を与えている のである。
25) Starobinski, op. cit., p. 47
III. 透明な「単純さ」
「サヴォワの助任司祭の信仰告白」 冒頭で助任司祭は、
「心の単純さ (simplicitedu cceur)」のままに、彼の言葉 に耳を傾けるよう幾度も聞き手の若者に懇願している。ま ず
私はあなたと議論しようとは思っていないし、説得し
. . . . . . . .
ようとも思っていません。私はただ心を単純な状態に
.
.
して考えていることをあなたに述べるだけなのです。
私が話しているあいだ、あなたの心に問いかけてみて ごらんなさい。私はただあなたにそれだけをお願いす るのです。 27)
さらに、言説の中程では
私が自分の考えを教示しているのではないことをい つも思い出してください。私はそれを述べているだけ なのですから。 28)
ここで助任司祭の言う「単純さ」とは、言い換えれば「素 直さ」だが、子どもが概してそうであるように、曲解せず に聞くことを意味している。語り手である助任司祭は、多 くの情念によって辛酸をなめた後で、ようやく心の平静を 取り戻している人物である。その助任司祭の単純さには努 力が伴うのにたいし、 若者はまだ柔らかな心によって、あ りのままで単純でいることができる。だがこういった素直 さや従順さは、他方で (naivete)つまり正直すぎるが故に 御しやすく、信じ込まされ易い一面があることは否めない。
自己の意見の固まらない若者であれば、そのような不安定 さがつきものであり、哲学や宗教の言説が対象となる場合 はなおさら問題であろう。しかし、ここで示される「単純 な心のままに聞く」というのは、語り手の話をすべて信じ るということではない。まずは「すべてを聞く」というこ となのである。したがって、若者に語りかけるとき、助任 司祭が「彼と同じように単純でありのままでいること」29)が 重要となる。こうして「サヴォワの助任司祭の信仰告白」
における対話は、語り手および聞き手それぞれの心の単純 さによって道徳的対話となり得るのである。
しかしながら、このような対話はまず成立しないのでは ないだろうか。 じっさい、助任司祭が語るばかりであり、
26)アリストテレスの思想においては、人の習慣付けによって形成された性向が第2の自然になるとされる。しかしこの第2の自然は、
必ずしもルソーの言う良き方向へ発展するものではない。
27) Rousseau, Emile ou de !'education, Livre IV, pp. 565‑566. 28) Ibid., p. 581
29) Ibid.. p. 539
ルソー『エミールjにおける自然人の問題
また人は対話のなかで聞き手に頷きや相槌、目の合図など の何らかの反応を求めるものである。それでも助任司祭は そのような表面上の反応さえ要求することはない。聞き手 の若者に、自分の心に問いかけるよう話すだけなのである。
若者は助任司祭の言葉を反省したのちに、みずからの見解 を決定すれば良い。その準備をさせるのが助任司祭との対 話なのである。
私はあなたにすっかり心を開いて話をしてきました。
確実だと思っていることは確実なこととしてあなたに 語りました。疑わしいことは疑わしいこととして語り ました。[…]これからはあなたが考えるのです。あな たは時間をかけて考えてみる、と言いましたね。そう いった慎重な態度は賢明なことで、私はあなたのそう いう態度に期待しています。まずあなたの良心を、光
りを求めたいと願う状態に置いてください。自分自身 にたいして誠実であってください。私の考えの中で納 得のいくことは取り入れ、その他のことは捨て去って
くださし% 30)
第4編で展開される教育期が非常に重要な意味をなすの は、この時期にこうして、忍耐強さが要求される自然教育 によって少しずつ育まれていた「良心」の目覚めを子ども に準備させる点にあると言えるだろう。良心によって、理 性を伴うその後の確実な判断力が養われるからである。こ うして第4編では良心の誕生と理性との密接な関連性が述 べられる。
私たちはついに、道徳的秩序の中へ入っていく。人 間の第二の段階を通過したところだ。ここでそのこと を話すべきだとするなら、私は、どのようにして心の 最初の動きから良心の最初の声が湧き出てくるのか、
また、どのようにして愛と憎しみの感情から善悪につ いての初めての観念が生まれてくるのか、その証明を 試みたいと思う。「正義」と「善」は単なる抽象的なこ とば、悟性によって形づくられた純粋な道徳的存在で はなく、理性によって照らされた魂が真に愛着をもつ ものであること、それは私たちの原始的感情の正しい 進歩の一段階にほかならないこと、良心とはかかわり なしに、理性だけではどんな自然の掟も確立されない こと、そして自然の心の自然の要求に基づくのでなけ れば、すべて幻影にすぎないこと、そういうことを私 は証明しようと思う。 31)
30) Ibid., pp. 630 31) Ibid., pp. 522‑523
32) Starobinski, op. cit ,.pp. 31‑32
自然の喪失を経た人間は、一方で堕落の道を辿るのだが、
他方でこの時期に、目覚めた良心に従って正しく理性を用 いることが出来るようになれば、社会状態にいながら自然 人でありつづけることは可能であろう。この点にかんして は、ふたたび人間の心の性質としての「単純さ」が問題と なるが、これは「自然」とも言い換えられるべきものであ る。心の単純さと自然人との関係について述べているのが スタロバンスキーのつぎの一節である。
歴史的距離はもはや内面的距離でしかない。そして、
自己のうちに目覚めている感情に十分に身を委ねるこ とのできる者にとって、この距離はやがて越えられる のである。[…]それからは自然は、我われの後ろに隠 れたはるか遠いものであることをやめ、我われにおい てもっとも中央にあるものとして現れる。規範はもは や超越的ではなく、私という自我に内在していること が分かる。誠実でありさえすれば、自己でありさえす ればそれでいい。今後は、自然人はもう私が拠り所と するずっと昔の原型ではなく、それは私自身の現存と 私の存在そのものと一致する。かつての透明は、神々 のまなざしのもとで人間が素朴に存在していることに 由来するものであった。新たな透明は、自我への内な る関係、自己の自己にたいする関係である。全ら謬明
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
は、自分自身への澄みきったまなざしのなかで現実化
. . .
される。 32)
ここでスタロバンスキーが述べているのは、自分自身にた いして限りなく「透明」な視点をもち、自己認識すること でみずからの自然を見つめることである。それがすなわち 人間の「自然」であり、「単純さ」なのである。このように して自然は取り戻される。以上が自然教育にもとづく、社 会状態において自然人が発展していく過程である。
また、他方で自然とは、男性を男性とするような、女性 を女性として形成するような何かであるのだろうか。結局、
自然は良心と結びつく、もしくは同一視可能なものである ように思われる。「自然の声に耳を傾ける」—―ーテクストで ルソーは、良心に関しても同様の表現を用いているのであ る。
結
ぴ
18世紀にルソーが考察した自然人、社会状態における自 然人の概念は、「もはや存在しない」ひとつの人間の状態を
原 田 裕 里
表しているのだろうか。自然状態でごく僅かな観念だけで 生きる自然人を幸福と見なしながらも、ルソーはこの「社 会状態における自然人」の価値を認め、そのために自己の 自然の承認と理性による情念の支配を挙げる。それが原初 の状態以上に、人間に幸福をもたらすとするのである。お そらく、社会において大部分の人間がすでに失っているで あろう「自然」は、実際は我われの内面において中心を成 しているべきものなのである。
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La q u e s t i o n d e I ' ≪ homme d e n a t u r e ≫ s e l o n J e a n ‑ J a c q u e s Rousseau
‑ une l e c t u r e de I ' E m i l e ‑
Yuri HARADA
恥 ileou de !'education de Jean‑Jacques Rousseau, paru en 1762, est un traite pedagogique ou ii expose !'education ≪ naturelle ≫, realisee en cinq etapes, idee qu'il fonde sur sa propre conviction que
≪ !es hommes sont naturellement bons ≫ et que c'est la societe qui !es a depraves. Remontant jusqu'au plus profond de l'etat originel, !'auteur du Discours sur les fondements de l'inegalite a mis en lumiere la signification de l'≪ homme de nature≫, dont l'hypothese lui est necessaire, ≪ pour bien juger de notre etat present≫. Ce serait mal comprendre cette these que d'y voir une invitation a revenir vraiment a I' etat de nature. Restee toujours une hypothese, cette theorie de Rousseau consiste evidemment en une argumentation sur l'essence de l'homme plutot que sur son histoire.
Que signifie la ≪nature≫ chez Rousseau ? La notion de nature est en effet pour lui ce qui demeure une fois ates tousles acquis sociaux. Ainsi, l'education naturelle proposera‑t‑elle la possibilite d'elever un enfant en respectant sa nature a mesure que sa conscience se developpe.
A
!'age de la morale decrit au quatrieme livre, l'instruction doit etre la plus attentive afin de ne pas alterer la nature dans l'enfant. La Profession de Joi du vicaire savoyard, affirme la necessite de la conscience dont la manifestation au niveau de la philosophie et la religion est indispensable a la croissance intellectuelle: le dialogue entre le Vicaire et son eleve revele peu a peu un lien tres intime, qui leur inspirera reciproquement confiance. Un tel nceud revele l'humanite et fait du livre IV un livre capital dans l'Emile. Et a cet instant precisement, la societe agitee par les passions va bientot obliger l'enfant a la ≪ denaturation ≫ qui, d'apres Rousseau, est precisement la degradation ou !'alienation humaines.II s'agit donc de la ≪ simplicite du cceur ≫ lors de la retrouvaille de sa nature perdue. Selon La Transparence et !'obstacle de Jean Starobinski, cette simplicite derive de l'≪ immediatete ≫, la meme caracteristique dont les hommes jouissaient auparavant dans l'etat primitif. Realisee par la ≪ limpidite du regard sur soi‑meme ≫, la simplicite transparente equivaut a l'adhesion a soi, ou a !'unite a soi. La question rousseauiste, de la nature, posee au