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『声聞地』の不浄観(阿部)
『声聞地』の不浄観
―諸経論との関係性をめぐって―
阿部 貴子
抄録
本稿は『声聞地』の成立背景を探るために、不浄観に関する所説を考察するもの である。特に、他の経論との接点が認められる体内の
36
種、死体の10
種、墓場の4
種、内外の観察という観点について、阿含経典、阿毘達磨論書、禅経典と比較した。これにより、『声聞地』の不浄観は、『念処経』(
Smṛtyupasthānasūtra
)に基づき ながら、細部の解説や法数については『雑阿含経』や『集異門足論』『法蘊足論』『婆 沙論』と近い語句を用いていることが分かった。不浄観をはじめとする五停心観という枠組みは、これまで禅経典の影響が指摘さ れてきたが、その内容は
―
五停心観の他の瞑想方法と同様―
ほとんど相応しな い。むしろ、阿含経典の所説を取り上げ、『法蘊足論』『集異門足論』『婆沙論』な どの初期阿毘達磨論書と同様の法数や語句で補強しながら自説を展開しているとい える。はじめに
不浄観は釈尊が説いた修行法のうちの主要なるものであり、部派仏教から大乗仏 教にわたりその方法や瞑想対象がさまざまに説かれてきた。初期瑜伽行唯識思想を 説く『瑜伽師地論』「声聞地」(以下『声聞地』)も不浄観を詳述する論書の一つである。
『声聞地』の修行道の中心は止観であるが、このうち観に相当するものがいわゆる 五停心観(不浄観・慈愍観・縁性縁起観・界分別観・入出息念)であり、不浄観は その最初に位置づけられている。
『声聞地』の不浄観に関する研究として最も網羅的なものに、釋(1994)がある。
釋は不浄観の各プロセスについて、漢訳およびパーリの阿含経典類、『清浄道論』
などの南伝文献、阿毘達磨論書、禅経典を参照して論じている。また文献学的視点 のみならず生理学的視点からも体内や死体のあり方を考察しており、これ以上研究 すべき点はほとんど残されていないようである。しかしながら、参照経論が広範囲
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-(120)-
でありかつ比較対象を定めていないため、かえって諸文献のなかの『声聞地』の位 置づけや特異性が不明瞭になっている点が見受けられる。
最近の研究では
Kritzer(2017)に注目すべきである。すでに Dhammajoti(2009)
が『法蘊足論』『婆沙論』『倶舎論』をはじめとする説一切有部の論書における不浄 観を横断的に考察しているが、Kritzerはそれを参照しつつさらに『婆沙論』の考 察を深め、かつ『声聞地』との比較を行っている1。これにより『婆沙論』『声聞地』
双方の特徴が明確となった。だが、両論の比較を主たる目的とするため、他の経論 についてはあまり議論されていない。
筆者はこれまで『声聞地』の五停心観に関する所説を通して、その成立背景を探っ てきた。詳細は控えるが、『声聞地』の五停心観の枠組みは諸先学の指摘通り『サ ウンダラナンダ』および『修行道地経』等の禅経典に求められる。しかし細かい内 容はほとんどそれらに依拠しておらず、経名を挙げずに阿含経典を引用し、『法蘊 足論』『婆沙論』等の初期阿毘達磨論書と同様の語句を用いながら独自に解説する ことが分かってきた。
そこで本稿においても、不浄観に関わる阿含経典を探り、初期の阿毘達磨論書と、
『声聞地』が影響を受けたとされる禅経典を比較し、作者がいかなる経論に依拠し ていたのかを考察したい。なお、『声聞地』は「第二瑜伽処」の方が「第三瑜伽処」
よりも後に成立した可能性があると指摘されている2。各瑜伽処の特徴も視野に入 れ、「第二瑜伽処」「第三瑜伽処」の内容を分けて検討する。
不浄観を含む五停心観は、「第二瑜伽処」の所縁章 ālambana、「第三瑜伽処」の 心一境性章
ekāgratā、修作意章 manaskārabhāvanā
の三箇所で説かれている。「第二 瑜伽処」は修行方法を事典的に列挙する部分であるが、このうち前半部を占める所 縁章では五停心観の瞑想対象すなわち所縁の種類を総説する。「第三瑜伽処」は、修行による具体的な身心の変容を説く部分であるが、このうち心一境性章では五停
1 Kritzer(2017)の比較の概要を挙げると次の通りである。1. 対面の念に関する表現では、両 者は近似している。2. 不浄観の対象を内外で説明するのは『声聞地』だけである。3. 対治する 貪欲についてはそれぞれ相違する。4.鳥獣に食われた死体についての表現も相違する。5. 参照 する経典とその譬喩について、『婆沙論』はアヌルッダの譬喩(Anuruddhamanāpakāyikasutta.
AN IV, 262-266)に基づく譬喩を用いるが、『声聞地』は油鉢の譬喩(Janapadakalyāṇīsutta. SN V, 3.
2. 10;『雑阿含経』174b-c)を用いている。6. 不浄観を身念住と見なす点で共通している。7. 八 解脱について『婆沙論』では最初の三解脱に不浄観を説くが『声聞地』は言及しない。
2 Deleanu (2006, 147-153).
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『声聞地』の不浄観(阿部)
心観のそれぞれについて義・事・相・品・時・理から説明する。最終章の修作意章 では、不浄観において止と観を繰り返すことを強調し、それにより身心を軽快にさ せ、転依に至ることを説く。このプロセスのなかで光明想という独自の方法に言及 するが、これについては別稿で論じているため3、本稿では扱わない。今回は、他 の経論と接点のある箇所に焦点を当て、1. 体内の
36
種、2. 死体の10
種、3. 墓地の 観察、4. 内外の解釈について論じていきたい。1.体内の 36 種〜「第二瑜伽処」
不浄観は概して、体内と死体の不浄を観察することとされている。確かに『スッ タニパータ』「勝利経」では、体内と死体観察を続けて説いているが、『テーラガー ター』「クッラ長老偈」には墓地における死体の観察のみを説く。また、阿含経典の『念 処経
Satipaṭṭhānasutta
』(MN I, 10)、『大念処経Mahāsatipaṭṭhānasutta
』(DN II, 22)、『身行念経
Kāyagatāsatisutta
』(MN III, 119)では身念処として、入出息念、行住坐臥、正知の観察、体内の不浄の観察、続いて四大(漢訳では六界)の観察、最後に墓地 における死体の観察を説き、体内と死体の観察をセットで扱っていない。
『声聞地』はどうだろうか。「第二瑜伽処」の所縁章では、体内を内に依る不浄と し、死体を外に依る不浄として、両者をあわせて不浄観とする。六界の観察は不浄 観に含めず五停心観中の界分別観として扱っている。
ここではまず、体内における
36
種を確認しよう。以下の通りである。tatrādhyātmam upādāya / tadyathā (1) keśā, (2) romāṇi, (3) nakhā, (4) dantā, (5) rajaḥ, (6) malam, (7) tvak, (8) māṃsam, (9) asthi, (10) snāyu, (11) sirā, (12) vṛkkā, (13) hṛdayam, (14) plīhakam, (15) klomam, (16) antrāṇi, (17) antraguṇaḥ, (18) āmāśayam, (19) pakvāśayaṃ, (20) yakṛt, (21) purīṣam, (22) aśru, (23) svedaḥ, (24) kheṭaḥ, (25) śiṅghāṇakam, (26) vasā, (27) lasīkā, (28) majjā, (29) medaḥ, (30) pittam, (31) śleṣmā, (32) pūyaḥ, (33) śoṇitam, (34) mastakam, (35) mastakaluṅgam, (36) prasrāvaḥ //
この内で内に依る〔不浄の対象〕とは、すなわち
(1) 髪 (2) 毛 (3) 爪 (4) 歯 (5)
塵 (6) 垢 (7) 皮 (8) 肉 (9) 骨 (10) 筋 (11) 血管 (12) 腎 (13) 心 (14) 肝 (15) 肺 (16) 小腸 (17) 直腸 (18) 胃 (19) 大腸 (20) 脾 (21) 大便 (22) 涙 (23) 汗 (24) 唾 (25) 洟 3 阿部 (2018).-(122)-
(26) 膏 (27) 黄水 (28) 髄 (29) 脂 (30) 胆汁 (31) 痰 (32) 膿 (33) 血 (34) 脳髄 (35) 脳
膜(36) 尿である。(ŚrBh II, 58-61)
4釋(1994)は、これらの
36
種とパーリSatipaṭṭhānasutta
の32
種と比較し、また それに基づく『清浄道論』の解釈を説明している5。Satipaṭṭhānasuttaには『声聞地』にある
6
項目―(5) 塵 (6) 垢 (11) 血管 (18) 胃 (19) 大腸 (34) 脳髄 ―
が無く、代わり に (15) 肺を横隔膜ki1omaka
と肺臓papphāsa
に分け、胃中udariya
を加えており、これが南伝の伝統になっていると述べている。なおこのパーリ文は対応する『中阿 含経』「念処経」(以下『念処経』)と概ね一致する6。
では、釋が言及していないその他の阿毘達磨論書と禅経典はどうだろうか。紙面 の都合上、すべてを列挙することはできないが、主な阿毘達磨論書と禅経典を挙 げると《表
1》の通りである。なお『雑阿含経』1165
経はBhāradvājasutta
(SN IV,127)に対応するが、そのパーリ文は Satipaṭṭhānasutta
と完全に一致し漢訳とは相違している。7
《表1》
ŚrBh II
Skt, 和訳 [漢訳]
雑阿含経 (1165) 311a28-b2
法蘊足論 念住品 476a9-11
婆沙論 第40巻 208a22-248
坐禅三昧 271c7-10
達磨多羅 325b15-17
(1) keśa髪 (1) 髮 (1) 髮 (1) 髮 (1) 髮 (1) 髮
(2) roman毛 (2) 毛 (2) 毛 (2) 毛 (2) 毛 (2) 毛
(3) nakha爪 (3) 爪 (3) 爪 (3) 爪 (3) 爪 (3) 爪
4 以下、原文は声聞地研究会の校訂本(ŚrBh II, III)に従う。訂正した箇所は註記した。和訳 も概ね声聞地研究会に従うが、訳語統一等のために註記せずに変更を加えた箇所もある。
5 釋 (1994, 133-140).
6 Satipaṭṭhānasuttaと『念処経』には下線部に相違がある。MN I, 10, 57: atthi imasmiṃ kāye kesā lomā nakhā dantā taco maṃsaṃ nahāru aṭṭhi aṭṭhimiñjā vakkaṃ hadayaṃ yakanaṃ kilomakaṃ pihakaṃ papphāsaṃ antaṃ antaguṇaṃ udariyaṃ karīsaṃ pittaṃ semhaṃ pubbo lohitaṃ sedo medo assu vasā kheḷo siṅghāṇikā lasikā muttanti.
『念処経』583b6-9:我此身中有髮髦爪齒麁細薄膚皮肉筋骨。心腎肝肺大腸小腸。脾胃摶糞腦及腦根。
涙汗涕唾膿血肪髓涎膽小便。
7 Glass (2007, 52-57) にガンダーリー写本Saña-sutra RS 5. 2-4, Śikṣāsamuccaya, Girimānandasutta,
『雑阿含経』1165,『念処経』の比較が挙げられている。ガンダーリー写本Saña-sutraでは、36 種を挙げる。『声聞地』の (11) (18) (19) が無く、chadi(薄皮)、pa[śpru]sa(横隔)、guza(癊) が入る。
8 Cf. Kritzer (2017, 37).
(4) danta歯 (4) 齒 (4) 齒 (4) 齒 (4) 齒 (4) 齒
(5) rajas塵 (5) 塵 (5) 塵 (5) 塵 (33) 微膚
(6) mala垢 (6) 垢 (6) 垢 (6) 垢 (27) 垢 (22) 垢
(7) tvac皮 (8) 皮 (7) 皮 (7) 皮 (5) 薄皮 (5) 薄皮
(6) 厚皮 (6) 厚皮
(8) māṃsa肉 (9) 肉 (8) 肉 (8) 肉 (8) 肉 (8) 肉
(9) asthi骨 (10) 白骨 (11) 骨 (9) 骨 (11) 骨 (9) 骨
(10) snāyu筋 (11) 筋 (9) 筋 (11) 筋 (9) 筋 (7) 筋
(11) sirā血管[脈] (12) 脈 (10) 脈 (12) 脈 (10) 脈
(12) vṛkka腎 (17) 腎 (14) 腎 (16) 腎 (17) 腎 (12) 腎
(13) hṛdaya心 (13) 心 (15) 心 (23) 心 (15) 心 (13) 心
(14) plīha肝 (14) 肝 (17) 肝 (13) 肝 (13) 肝 (14) 肝
(15) kloman肺 (15) 肺 (16) 肺 (14) 肺 (14) 肺 (15) 肺
(16) antra小腸 (18) 腸 (19) 腸 (18) 小腸胃 (20) 小腸 (16) 小腸
(17) antraguṇa直腸 (17) 大腸胃 (19) 大腸 (17) 大腸
(18) āmāśaya胃 [生蔵]
(20) 生藏 (20) 胃
(33) 生蔵
(20) 生蔵 (18) 胃 (18) 胄
(19)pakvāśaya大腸 [熟蔵]
(21) 熟藏 (34) 熟藏 (21) 熟藏
(22) 胞 (30) 胞 (19) 胞
―[肚胃] (19) 肚9 (27) 肚 (24) 肚
(20) yakṛt脾[髀] (16) 脾 (13) 髀 (15) 脾 (16) 脾 (11) 脾
(21) purīṣa大便[屎] (35) 屎 (35) 大便利 (25) 屎 (21) 屎 (20) 屎
(22) aśru涙 (23) 涙 (29) 涙 (30) 涙 (26) 涙 (24) 涙
(23) sveda汗 (24) 汗 (30) 汗 (29) 汗 (25) 汗 (23) 汗
(24) kheṭa唾 (7) 流唌 (32) 唾 (28) 唾 (24) 唾 (26) 唾
(25) śiṅghāṇaka洟 (25) 涕 (31) 涕 (27) 涕 (23) 洟 (25) 涕
(26) vasā膏[肌膏] (27) 肪 (22) 膏 (21) 肪
(34) 膏 (35) 肪 (32)
(27) lasīkā黄水[―] (26) 沫
(28) majjan髄 (29) 髓 (12) 髓 (10) 髓 (12 )髓 (10) 髓
(29) meda脂[肪] (28)脂 (28) 脂 (33) 脂 (34) 脂 (31) 肪
9 Glass (2007, 53) によれば、ガンダーリー写本ではudāriが当たる。なお「肚」は胃・腹中の
audaryakaに相応する。
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-(125)-
-(124)- -(125)-
(30) pitta胆汁 (34) 汁 (18) 膽 (19) 膽 (31) 膽 (30) 白痰癊
(31) śleṣman痰[熱痰](30) 痰癊10 (22) 澹熱 (32) 水 (29) 黄痰癊
(32) pūya膿 (31) 膿 (25) 膿 (31) 膿 (28) 膿 (27) 膿
(33) śonita血 (32) 血 (26) 血 (32) 血 (7) 血 (28) 血
(34) mastaka脳髄 (33) 腦 (23) 腦 (35) 腦 (29) 腦 (33) 腦
(35) mastakaluṅga脳膜 [膜]
(24) 膜 (36) 膜 (36) 腦膜 (34) 膜
(36) prasrāva尿 (36) 尿 (36) 小便利 (26) 尿 (22) 尿 (21) 尿
以上のように、『声聞地』は『雑阿含経』1165経『法蘊足論』『婆沙論』とそれ ぞれ僅かずつの相違があるが近似している。なお『達磨多羅禅経』の項目は『大 智度論』(403a23-26)と完全に相応しているため、『達磨多羅禅経』は『大智度論』
によって法数を整えたと考えられる。ここにはまた『坐禅三昧経』との共通点もあ る。よって、法数に関して『声聞地』と禅経典との関係は希薄といえる。
2.死体の 10 種〜「第二瑜伽処」
「第二瑜伽処」の所縁章では、続いて外に依る不浄として死体観察の法数を列挙 する。
tatra bahirdhopādāyāśubhā katamā / tadyathā (1) vinīlakaṃ vā, (2) vipūyakaṃ vā, (3) vipaṭumakaṃ vā, (4) vyādhmātakaṃ vā, (5) vikhāditaṃ vā, (6) vilohitakaṃ vā, (7) vikṣiptakaṃ vā, (8) asthi vā, (9) śaṅkalikā vā, (10) asthiśaṅkalikā vā, (11) uccārakṛtaṃ vā... /
このうちで外に依る不浄〔の対象〕とは何か。すなわち、(1) 死斑の浮き出た 死体、(2) 膿の出た死体、(3) うじのわいた死体、(4) 膨らんだ死体、(5) 食い あらさられた死体、
(6) 血に汚れた死体、 (7) 散乱した死体、 (8) 骨、 (9) 骨鎖、 (10)
支節の骨鎖…
である。(ŚrBh II, 60-61)このうち、
(1)
〜(10) に関しては下の《表2》のように、
『集異門足論』『婆沙論』『坐 禅三昧経』と近似する。なお、「第一瑜伽処」には20
種の無常想が説かれるが、そ のうち12
〜20
の9
項目が不浄観に該当し、『雑阿含経』に同様の所説がある11。次 10 Glass (2007, 53) によれば、ガンダーリー写本ではguzaが当たる。11 この部分に一部該当する写本断片SHT (VI) 533 fol. 114が存在する(Chung &Fukita 2011, 174)。またPāṇḍulohitakavastu (Yamagiwa 2001, 7.5.11) は「第一瑜伽処」と完全に一致する。そ
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-(125)-
-(124)-
『声聞地』の不浄観(阿部)
の通りである12。
《表
2》
ŚrBh II, 60-61 集異門足論
392a25 婆沙論
第40巻 205a9-11
坐禅三昧
271c11-12 ŚrBh I, 214 雑阿含経
198a22-24 (1) vinīlaka
死斑の浮き出た死体
(1) 青瘀 (1) 青瘀 (1) 青瘀 (12) vinīlakasaṃjñā 青瘀想
(12) 青瘀想 (2) vipūyaka
膿の出た死体
(2 )膿爛 (3) 膿爛 (6) 臭膿 (13) vipūyaka- 膿爛想
(13) 膿潰想 (3) vipaṭumaka
うじのわいた死体
(3) 破壞 (4) 破壞 (3) 破 (14) vipaḍumaka- 破壞想
(15) 壞想 (4) vyādhmātaka
膨らんだ死体
(2) 膖脹 (2) 膖脹 (15) vyādhmātaka- 膖脹想
(14) 膖脹想
(5) vikhādita
食いあらさられた死体 (5) 啄噉 (6) 被食 (7) 噉食 (16) vikhāditaka-
噉食想 (16) 食不盡想
(6) vilohitaka
血に汚れた死体 (6) 異赤 (5) 異赤 (5) 血流塗漫 (17) vilohitaka-
血塗想 (17) 血想
(7) vikṣiptaka 散乱した死体
(4) 離散 (7) 分離 (4) 爛 (18) vikṣiptaka- 離散想
(18) 分離想
(8) asthi骨 (7) 骸骨 (8) 骨 (8) 不盡骨 (19) asthi-骨鎖想 (19) 骨想
(9) śaṅkalikā骨鎖 (8) 骨鎖 (9) 骨鎖 (10)asthiśaṅkalikā
支節の骨鎖
(20) śūnyatāpraty- avekṣaṇa-觀察空想
(20) 空想 (9)散燒焦
一方《表
3》は Satipaṭṭhānasutta
と漢訳『念処経』および南伝の論書とされる『舍 利弗阿毘曇論』との比較である。『声聞地』の項目は《表3》のプロセスとは相違
していることが分かる。の他のパラレルはAllon (2001, 283ff.) にも言及されている。
12 Kritzerは『摂事品』における他の分類も挙げている。(Kritzer 2017, 41. n. 62)
-(125)-
-(124)-
-(127)-
-(126)-
《表
3》
Satipaṭṭhānasutta,
MN I, 10, 10ff. 中阿含経 念処経
583b23-c22 舍利弗阿毘曇論
629b14-629c2 (1) ekāhamataṃ vā dvīhamataṃ
vā tīhamataṃ vā uddhumātakaṃ vinīlakaṃ vipubbakajātaṃ.
死後一日、二日、あるいは三 日経ち、膨張し、青黒くなり、
膿ただれたもの。
[1] 比丘者觀彼死屍或一二日至 六七日。烏鴟所啄豺狼所食。火 燒埋地悉腐爛壞。
[2] 復次比丘觀身如身。比丘者 如本見息道。骸骨青色爛腐食半 骨璅在地。
(1) 復次比丘見死屍棄在塚間。
一日至三日。若烏鳥虎狼。爲若 干諸獸所食噉。
(2) 復次比丘。見死屍骨節相連 青赤爛壞膿血不淨臭穢可惡。
(2) khajjamānaṃ.
食べられているもの。
(3) aṭṭhikasaṅkhalikaṃ samaṃsa- lohitaṃ nahārusambaddhaṃ.骨 が連鎖し、血肉があり、筋が 繋がっているもの。
[3] 復次比丘。觀身如身。比丘者。
如本見息道。離皮肉血唯筋相連。(3) 復次比丘。見死屍骨節相連 血肉所覆筋脈未斷。
(4) aṭṭhikasaṅkhalikaṃ nim- maṃsalohitamakkhitaṃ nahārusambaddhaṃ.骨が連鎖 し、肉がなく血は枯れていな い、筋が繋がっているもの。
(4) 復次比丘。見死屍骨節相連 血肉已離筋脈未斷。
(5) aṭṭhikasaṅkhalikaṃ apagat- amaṃsalohitaṃ nahārusambad-
dhaṃ.骨が連鎖し、血肉のな
い、筋が繋がっているもの。
(5) 復次比丘。見死屍骨節已壞 未離本處。
(6) aṭṭhikāni apagatasam- bandhāni.
骨に繋がりがないもの。
[4] 復次比丘。觀身如身。比丘者。
如本見息道。骨節解散散在諸方。(6) 復次比丘。見死屍骨節已壞 遠離本處脚髀膊脊脇肋手足肩 臂項髑髏各自異處。
(7) aṭṭhikāni setāni saṅkha- vaṇṇupanibhāni. 骨が白い貝の 色のようなもの。
[5] 復次比丘。觀身如身。比丘者。
如本見息道。骨白如螺青猶鴿色。
赤若血塗腐壞碎末。
(7) 復次比丘。見死屍骨節久故 色白如貝色青如鴿朽敗碎壞。
(8) aṭṭhikāni puñjīkatāni tero- vassikāni. 骨が山積みされ、一 年経っているもの。
(9) aṭṭhikāni pūtīni cuṇṇaka- jātāni. 骨が腐食し粉々になっ ているもの。
(8) 復次比丘。見死屍在火聚上。
一切髮毛。皮膚血肉。筋脈骨髓。
一切髮毛。乃至骨髓漸漸消盡。 このように『声聞地』は
Satipaṭṭhānasutta
及び漢訳『念処経』とは異なっており、『集異門足論』『婆沙論』『雑阿含経』と近いことがわかる。『坐禅三昧経』とも共通
-(127)-
-(126)-
『声聞地』の不浄観(阿部)
するように思われるが、(9) 散焼焦(=vidagdhaka)を入れている点で相違する。こ の項目を入れる文献としては『大智度論』『二万五千頌般若経』13があり、『坐禅三昧経』
はむしろそれらと相似するといえよう14。
しかしながら、『声聞地』には『念処経』に基づく箇所も見られる。それが次の 項である。
3.墓地の観察における『念処経』の引用〜「第二瑜伽処」
「第二瑜伽処」の所縁章では続いて、四種類の墓地における
catasṛṣu śivapathikāsu
観察について、経典を引用して論じている。この経名を記していないが明らかにSmṛtyupasthānasūtra
であり、パーリではなく『念処経』(583b25-c22)に相応する。以下考察してみよう15。
まず『声聞地』は、第一の場所として『念処経』[1]《表 3》を挙げ、それを自説 の「(1) 死斑の浮き出た死体」から「(5) 食いあらされた死体」《表 2》に配当している。
“yā yaivānena śivapathikā dṛṣṭā bhavati / ekāhamṛtā vā saptāhamṛtā vā kākaiḥ kurara-
iḥ khādyamānā gṛdhraiḥ śvabhiḥ sṛgālaiḥ / tatra tatremam eva kāyam upasaṃharati / ayam api me kāya evaṃbhāvī, evaṃbhūtaḥ, evaṃdharmatām anatītaḥ” iti / anena tāvad vinīlakam upādāya yāvad vikhāditakam ākhyātam /
「その者によってあちこちの墓地が見られる。〔つまり〕一日たったばかりの 死体、七日たった死体が烏や鷹や鷲や犬や山犬に食われている〔死体が見ら れる〕。それぞれの〔墓地〕でこの身体について要約する。私のこの身体も、
このようになるもの、このような性質のもの、このような法則を超えられな
13 『大智度論』218a25-27:膖脹相壞相噉相散相多除形容愛。血塗相青瘀相膿爛相多除色愛。
骨相燒相多除細滑愛。
Pañca, 19. 19-20. 2: yad uta ādhmātakasaṃjñā vidhūtakasaṃjñā vipūyakasaṃjñā vilohitakasaṃjñā vinīlakasaṃjñā vikhāditakasaṃjñā vikṣiptakasaṃjñā vidagdhakasaṃjñā asthisaṃjñā. Cf. 165. 6-8.
Lamotte (1970, 1312-1313) にその他のパラレルも指摘されている。
14 この他に新死相を入れるものがある。『放光般若経』2c12-14:新死相筋纒束薪相青瘀相膿 相血相食不消相骨節分離相久骨相燒焦可惡相。その他に『観仏三昧海経』 652b24-c19。 また、
女性の死体と結びつくものもある。『十誦律』443a26-28:新死女人脹女人青瘀女人臭爛女人噉 殘女人血塗女人乾枯女人脹壞女人骨女人。
15 釋(1994)も『声聞地』とSatipaṭṭhānasuttaの内容を対応させている。ただし、漢訳を用い
ておらず、引用箇所の検証がなされていない。
-(129)-
-(128)-
いものである16」と。これにより「(1) 死斑の浮き出た死体」から「(5) 食いあ らされた死体」までが説明される。(ŚrBh II, 64-65)
『念処経』:[1] 比丘者觀彼死屍或一二日至六七日。烏鴟所啄豺狼所食。火燒 埋地悉腐爛壞。見已自比。今我此身亦復如是倶有此法終不得離。如是比丘觀 内身如身。觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。
(583b24-29)
このうち二重線部分であるが、《表
3》のパーリ Satipaṭṭhānasutta の (1)(2) には一
致せず、上の漢訳 [1] の表現と相応している。そして波線部の表現は、パーリでは「ayam pi kho kāyo evaṃdhammo evaṃbhāvī
etaṃ anatīto ti. この身体も、このような法則であり、このようになるもの、これを
超えられないものである」(MN I, 10, 58. 32-33)となっているが、漢訳は『声聞地』と近似し、Hoernle Collectionの
Smṛtyupasthānasūtra
写本断片とも一致する17。第二の場所は『念処経』[3] 《表
3》を挙げ、自らの項目「(6) 血に汚れた死体」《表
2》を説明している。yat punar āha “yānena śivapathikā dṛṣṭā bhavati / apagatatvaṅmāṃsaśoṇitasnāyūpani- baddhe”ty anena vilohitakam ākhyātam /
さらにまた説かれている。「その者は、墓地にあるもの、皮・肉・血・筋で〔体 に〕繋がれていたものが離れ離ばなれになったのを見る18」と。これによって
「(6) 血に汚れた死体」が説明される。(ŚrBh II, 66-67)
『念処経』:[3] 復次比丘觀身如身。比丘者如本見息道。離皮肉血唯筋相連。
(583c5-7)
第三の場所については、同様に『念処経』[4] に対応する。法数は一致しないが、
16 ŚrBh II, 67:「私のこの身体はこれと同じものである、このような性質のものである、法性 を超えることはできないものである」
17 Karashima et al. (2015, 315): Or.15009/451: Smṛtyupasthānasūtra: Cf. MN I, 58; N.T.Br., type b, folio [1]xx, verso. “1 .. : evaṃbhāvī evaṃbhūtaḥ evaṃ dharma • ev. ///” “v1: Cf. MN I, 58. 20–21. ayam pi kho kāyo evaṃdhammo evambhāvī etaṃ anatīto ti.”
18 サンスクリットを「離れた皮・肉・血が筋で繋がれている」と読めば『念処経』と同意となる。
ただし『声聞地』の漢訳とチベット語訳は上の和訳と同じである。
-(129)-
-(128)-
『声聞地』の不浄観(阿部)
この部分を自らの項目「(8) 骨」〜「(10) 支節の骨鎖」に配当していることが分かる。
yat punar āha / “yāny eva śivapathikāsthānāni
( 19dṛṣṭāni bhavantī”ti
(20des ni rus goṅ daṅ / keṅ rus daṅ / rus pa’i keṅ rus bstan to
20)/ yat punar āha /
21(21des lag pa’i rus pa dag kyaṅ logs śig / rkaṅ pa’i rus pa dag kyaṅ logs śig / loṅ bu’i rus pa dag kyaṅ logs śig / pus mo’i rus pa dag kyaṅ logs śig / rtsib logs kyi rus pa dag daṅ / dpuṅ pa’i rus pa dag daṅ / lag ṅar gyi rus pa daṅ
19)21)pṛṣṭhīvaṃśaḥ, hanucakraṃ, dantamālā, śiraḥkapālam, tathā bhinnapratibhinnāni.
さらにまた「諸々の墓地にある骨が見られる」と説かれている。これによっ て「(8) 骨」と「(9)骨鎖」と「(10) 支節の骨鎖」が説明されている。さらに また「手の骨が離れ離れであり、足の骨が離れ離れであり、踝の骨が離れ離 れであり、膝の骨が離れ離れであり、肋骨、腕の骨、前腕の骨、背骨、顎の 輪状の骨、歯並びの骨、頭蓋骨が同様に各々分散している。(ŚrBh II, 66-67)
『念処経』:[4] 復次比丘觀身如身。比丘者如本見息道。骨節解散散在諸方。足 骨・膞骨・髀骨・髖骨・脊骨・肩骨・頸骨・髑髏骨。(583c10-13)
第四の場所もまた『念処経』[5] と近似し、ここに自らの項目の「(7) 散乱した死 体」を当てている。『声聞地』の「鳩のような色をした」という表現は漢訳「鴿色」
と相応するが、Satipaṭṭhānasuttaには見られない。
ekavārṣikāṇi dvivārṣikāṇi yāvat saptavārṣikāṇi śvetāni śaṃkhanibhāni, kapotavarṇāni pāṃsucūrṇavyatimiśrāṇi dṛṣṭāni bhavantī”ty anena vikṣiptakam ākhyātam /
19 Shukla omits.
20 Ms omits. The text can be reconstructed as: anenāsthi ca, śaṅkalikā ca, asthiśaṅkalikā cākhyātā.
21 Ms omits. The text can be recontsructed as: anyato hastāsthīny anyataḥ pādāsthīny anyato gul- phāsthīni (踝) anyato jānvasthīny anyataḥ pārśvakāsthīni (肋骨) bāhvasthīni prabāhvasthīni.
Cf. ŚrBh III, 38: anyato hastāsthīny anyataḥ pādāsthīny anyato jānvasthīny ūrvasthīni (腿) bāhvasthīni prabāhvasthīni pṛṣṭhīvaṃśaḥ hanucakraṃ dantamālā anyataḥ śiraskapālam.
Mahāsatipaṭṭhānasutta. DN II, 296. 17ff.: aññena hatthaṭṭhikaṃ aññena pādaṭṭhikaṃ aññena gopa- phaṭṭhikaṃ (=goppha, 踝 ) aññena jaṅghaṭṭhikaṃ aññena ūraṭṭhikaṃ aññena phāsukaṭṭhikaṃ aññena kaṭaṭṭhikaṃ aññena piṭṭhikaṇṭakaṃ aññena khandhaṭṭhikaṃ aññena gīvaṭṭhikaṃ aññena hanukaṭṭhikaṃ aññena dantaṭṭhikaṃ aññena sīsakaṭāhaṃ.
Satipaṭṭhānasutta. MN I, 58. 28ff.: aññena hatthaṭṭhikaṃ aññena pādaṭṭhikaṃ aññena jaṅghaṭṭhikaṃ aññe- na ūraṭṭhikaṃ aññena kaṭaṭṭhikaṃ aññena piṭṭhikaṇṭakaṃ aññena sīsakaṭāhaṃ.
Pañca, 207. 5-6; Pañca(K), 79. 20-23: pādāsthīni anyena jaṃghāsthīni anyena urvasthīni anyena śroṇīkaṭāhāsthīni anyena pṛṣṭhavaṃśāsthīni anyena pārśvakāsthīni anyena grīvāsthīni anyena bāhvasthīni anyena śiraḥkapālāsthīni..
-(131)-
-(130)-
一年経過した、二年経過した、乃至七年経過した、白く、螺貝にも似た、鳩 のような色をした、砂塵が混じった〔それらの〕骨が見られる」と説明され ている。これによっては「(7) 散乱した死体」が説明されている。(ŚrBh II,
66-67)
『念処経』:[5] 復次比丘觀身如身。比丘者如本見息道。骨白如螺青猶鴿色。赤 若血塗腐壞碎末。(583c17-18)
以上、「第二瑜伽処」では『念処経』の所説に基づいて、独自の
10
項目を説明し ていることが確認できた。4.内外の解釈について〜「第三瑜伽処」
次に「第三瑜伽処」を見てみたい。所縁を列挙した「第二瑜伽処」と異なり「第 三瑜伽処」では主に観察方法を説き、心一境性章では義・事・相・品・時・理から 不浄観を解説する。このうち相
lakṣaṇa
を説く箇所に内外の観察方法を説明する。内外の観察はすでに
Satipaṭṭhānasutta
やMahāsatipaṭṭhānasutta
に見られる。ここ では、入出息念ないし体内の32
種、四大(漢訳では六界)、死体の9
種を説くが、それぞれのプロセスで内外を観察することを示す。しかし、内外が具体的に何を指 すのかを明記していない。
ただし『法蘊足論』(念住品)では不浄観に関連して内外を解説している。ここ では四念処を説く別の経典『雑阿含経』610経(171b14-23)を引用し22、逐語的に 注釈を加えており、経典に説かれる内・外・内外を以下のように解説する23。
『法蘊足論』内身とは謂く自身の若し現相続中に在りて已に得て失はざる なり。外身とは謂く自身の若し現相続中に在りて未だ得ざると已に失へる と、及び他の有情の有する所の身相なり。二種を合説して内外身と名づく。
(476c1-4)
22 『雑阿含経』610経, 171b16-21: 云何修四念處。謂内身身觀念住。精勤方便。正智正念。調
伏世間憂悲。外身内外身觀住。精勤方便。正念正知。調伏世間憂悲。如是受心法。内法外法内 外法觀念住。精勤方便。正念正知。調伏世間憂悲。是名比丘修四念處。
23 『舍利弗阿毘曇論』(613b9-614a9) でも、死体観察とは別の箇所で体内と四大の観察を説き、
内は自分、外は自分以外、内外とは自分と自分以外と説く。
-(131)-
-(130)-
『声聞地』の不浄観(阿部)
すなわち、①内とは現在の相続における自分、②外とは自分の相続において未だ得 ていないもの、あるいは失ったもの、及び自分以外の者と捉える。③内外はその両 方であると示し、この後に体内の
36
種の観察と地界から識界までの六界の観察を 行うことを説いている24。
では「第三瑜伽処」はどのように論じているだろうか。心一境性章(ŚrBh III,
36-40)では、不浄観の対象を自相と共相とに区別したのち、前述した死体の 10
種の観察を順に解説する。
このうち、自相の解説は以下の通りである。まず、①内(自分)の身体の内側を 観察し、そこに
(1) 髪〜 (21) 大便までの地界と、(22) 涙〜 (36) 尿までの水界を観察
する。adhyātmaṃ tāvad antaḥkāyagatām pūtyaśubhatām adhimucyate “santy asmin kāye keśaromāṇi vistareṇa yāvan mastakaṃ mastakaluṅgaṃ prasrāva” iti / tāṃ punar anekavidhām antaḥkāyagatām aśubhatāṃ dvābhyāṃ dhātubhyāṃ saṃgṛhītām adhimucyate, pṛthivīdhātunā abdhātunā ca / tatra keśaromāṇy upādāya yāvad yakṛt- purīṣāt pṛthivīdhātur adhimucyate / aśrusvedanām upādāya yāvat prasrāvād abdhātum adhimucyate /
内(自分)の体の内側にある朽穢不浄性を勝解する。「この身体に髪、毛、な いし脳髄、脳膜、尿がある」と。さらに地界と水界の二つの界によって包含 されるその多種な身体の内側にある不浄性を勝解する。このうち髪・毛より 脾・大便までの地界を勝解する。涙・汗より尿までの水界を勝解する。(ŚrBh
III, 36-37)
その後に、②外(自分以外)の外側の不浄として死体を観察する。
bahirdhā vā punar bāhyagatām aśubhatāṃ vinīlakādibhir ākārair adhimucyate /
あるいはまた、死斑の浮き出た死体等の形相をもって、外(自分以外)の(身24 『法蘊足論』476c4-13:循身觀者。謂有苾芻。合自他身。總爲一聚。從足至頂。隨其處所。
觀察思惟。種種不淨。穢惡充滿。謂此彼身。唯有種種髮毛爪齒。廣説乃至大小便利。如是思惟 不淨相時。所起於法簡擇。乃至毘鉢舍那。是循内外身觀。亦名身念住。住住具正勤正知正念。
除世貪憂。亦如前説。復有苾芻。合自他身。總爲一聚。觀察思惟諸界差別。謂此彼身。唯有種 種地界水界火界風界空界識界。如是思惟諸界相時。所起於法簡擇。
-(133)-
-(132)-
体の)外側にある不浄性を勝解する。(ŚrBh III, 36-37)
そして、共相については、③内(自分)の変化していない(現在の)外側と、外(自 分以外)の変化した(死んだ)外側を同等と見ることと示している。
yathā cādhyātmaṃ bahiḥkāyasya śubhā varṇanibhā apariṇatā yāvad bahirdhā ba- hiḥkāyasyāśubhā varṇanibhā vipariṇatā, adhyātmikayā aśubhayā varṇanibhayā samānadharmatāṃ tulyadharmatām adhimucyate /
変化していない内(自分)の身体の外側の清浄な様相は、変化した外(自分 以外)の身体の外側の不浄な様相ほどのものであるというように、内(自分)
の不浄な様相と共通の性質・等しい性質を勝解する。(ŚrBh III, 40-41)
次に「第三瑜伽処」修作意章を確認してみよう。ここでは、不浄観を身念処と見 なして循身観を説き、①内として自分の体内、②外として自分以外の死体を観察す ることを説明する。
evaṃ ca punar avatara, bahirdhā ṣaṭtriṃśato dravyāṇāṃ kāye keśādiprasrāva-
paryantānāṃ nimittam udgṛhya adhyātmaṃ kāya etāni sarvāṇy aśucidravyāṇy adhimucyasva / ... idaṃ te bhaviṣyaty adhyātmaṃ kāye kāyānupaśyanāyāḥ, yadutāt- mano ’ntaḥkāyam ārabhya.
さらにまた、このように入れ。外(自分以外)の身体における髪をはじめと して尿までの
36
の物の相を取って、内(自分)の身体におけるこれらすべ ての不浄の物を勝解せよ。...これが、汝の内(自分)の身体における身体の 観察の〔念処〕となるであろう、すなわち、自己の内側の身体についてである。(ŚrBh III, 140-141)
sa tvaṃ punar api bahirdhā aśubhānimittenodgṛhītena vinīlakaṃ vādhimucyasva, yāvad asthiśaṅkalikāṃ vā, parīttena vādhimokṣeṇa mahadgatena vāpramāṇena vā /
さらにまた、その汝は、外(自分以外)の不浄の相を取って、少しの、ある いは広大な、あるいは量りきれない勝解によって、死斑の浮き出た死体、乃至、あるいは支節の骨鎖を、勝解せよ。(ŚrBh III, 142-143)
そして心一境性章とは異なり、③内外を、死につつある自分と、死んだ自分の体 内と死体と見なしている。
-(133)-
-(132)-
『声聞地』の不浄観(阿部)
sa tvaṃ punar apy ... ātmānaṃ mriyamāṇam adhimucyasva / mṛtaṃ vā punaḥ śmaśāne ‘bhinirhriyamāṇam, abhinirhṛtaṃ vā śmaśāne cchorayamāṇam, choritaṃ vā vinīlakāvasthaṃ, vipūyakāvasthaṃ, yāvad asthiśaṅkālikāvastham adhimucyasva / idaṃ te bhaviṣyaty adhyātmabahirdhā kāye kāyānupaśyanāyāḥ /
さらにまた、その汝は
...
死につつある自己を勝解せよ。あるいはさらに、墓 場に運ばれつつある、あるいは運ばれて墓場に棄てられつつある、あるいは 棄てられて死斑の浮き出た死体の状態の、あるいは膿の出た死体の状態の、乃至、支節の骨鎖の状態の〔自己〕を勝解せよ。これが、汝の内(自分)と 外(自分以外)の身体における身体の観察の〔念処〕となるであろう。(ŚrBh
III, 142-143)
すなわち、心一境性章では、①内を自分の体内、②外を他者の死体、③共相とし て内(自分)の現在の身体の外側と、外(他者)の現在の身体の外側と定め、修作 意章では、①内を自分の体内、②外を他者の死体、③内外を死につつある自分と、
死んだ自分の体内と死体と配分する。
このように理解が分かれているが、前述の「第二瑜伽処」では①内を自分の体内、
②外を他者の死体というように端的に示している。また「第二瑜伽処」では不浄観 の箇所ではないが、四念処を説く箇所で内外について論じており、①内は自分の体 内、②外は他者の体内、および自分の現在の身体の外側と、他者の現在の身体の外 側、他者の死体と述べ、これまでの議論を内外に統合させている25。
以上のように『法蘊足論』『声聞地』では不浄観に内外の区別を設けているが、
『婆沙論』『倶舎論』は明記していない26。『婆沙論』(第
40
巻)の不浄観を説く箇所 では身念処および他念処との関連を説くが内外には触れていない。『婆沙論』(第187
巻)の四念処の項では、『法蘊足論』と同じ『雑阿含経』610経を引用つつも、体内の不浄や死体に触れずに、四念処における内・外・内外の諸解釈を列挙して いる27。『倶舎論』(賢聖品)の場合は、五停心観を明確に四念処の前行としており、
25 ŚrBh II, 188-189. 「第二瑜伽処」では循身観に関する6種の解釈を挙げるなか、この解釈を
主要なものとし、その他を別の解釈aparaḥ paryāyaḥとして挙げる。
26 Kritzer (2017, 37).
27 『婆沙論』940a29-b28.
-(135)-
-(134)-
不浄観における内外の観察には触れていない。
また、禅経典でも不浄観の内外の観察は説いていない。『修行道地経』では、不 浄観を含む五停心観と四念処を別に扱っており、不浄観を説く箇所(分別相品第二)
ではなく、四念処を説く章(勧意品第九)のなかで、内を自分の体内、外を他者の 身体と示す28。『達磨多羅禅経』では、五停心観のうち安般念と不浄観のなかに四念 処の説明を含む。そのうち不浄観を説く章で、内として体内の
36
種の不浄を説き 外縁に言及する。ただし、外縁が何を指すのかは明記していない。『坐禅三昧経』では、声聞の不浄観を説く箇所で、内の身体として体内の
36
種を説くが、外の説 明は不明瞭である。また本経では声聞の五停心観を説いたのちに、菩薩の五停心観 を述べているが、そのうちの身念処でも簡単に内身・外身・内外身の語句を挙げる に過ぎない29。このように、これらの経論では不浄観における内外の観察に多くの注意を払って いない。むしろこれらは、以下のような異なる修行プロセスを強調している。
『婆沙論』では、Kritzerも示すように、墓地で死体を観察したあとに住処に戻り、
死体を略・広・広略で観察するという。まず略観で自分の骨に死体を見て、広観 でその骨を外界に広げると観想し、広略観で広げた対象を自分の骨に凝縮させる30。 そして瑜伽師には、三種の区分が有ると述べ、初行者は略・広・広略観により、自 分の骨に死体を観察する。熟練者は足より頭蓋骨にいたるまで半分を除いて半分を 観じ、一部を除き一部を観ずる。超作意者は対象を取らずに眉間に懸念すると説い ている31。
『倶舎論』でも同様に、自分の身体を観察したのちに、そこに死体を観察する(略)
という。そして、その骨のイメージを広げていき(広)、それを縮めていく(広略)。
また、初行者は、略・広観を行い、熟練者は足より頭蓋骨にいたるまで半分を除い て観想し、超作意者は心を眉間に保つと説く32。
28 『修行道地経』198a24-25:觀其内體察外他身。痛痒心法亦復如是。
29 『坐禅三昧経』278c7-10:身有三十六物故不淨。以不得自在故無我。習如是觀。觀内身觀外 身觀内外身。習如是觀。是謂身念止。
30 『婆沙論』205b14-c18.
31 『婆沙論』206a12-23.
32 AKBh, 338. 2ff.: sa punar ayam aśubhāṃ bhāvayan yogācāras trivadha ucyate / ādikarmikaḥ, kṛtaparijayaḥ, atikrāntamanaskāraś ca// tatra / āsamudrāsthivistārasaṃkṣepād ādikarmikaḥ //
それもまた、この不浄を行ずる瑜伽行者は三種といわれる。初行者と、熟練者と、超作意者と である。そのうち、初行者は、海まで骨を広げて〔また〕縮めることによって〔観想する〕。
-(135)-
-(134)-
『声聞地』の不浄観(阿部)
『修行道地経』では、略・広・広略観を明示していない。しかし修行道には三種 類があると述べ、凡夫は骨の連なりを観察し、学向道は頭蓋骨を観察し、無所学は 額に集中するという33。
『達磨多羅禅経』でも、略・広・広略観を説かない。ただし修行者は墓地で死体 を見てから住処に戻り、自分の骨に死体を観じ、体内の不浄と、不浄によって成立 する胎児とを観察すると示す。また修行者には三種類があり、始習行は智慧力が起 こり、少習行は心が安定し、久修習は自在になると述べている34。
また『坐禅三昧経』でも、修行者には三種類があり、初習行は皮を破り赤骨人を 観想し、已習行は皮肉を退けて頭蓋骨のみを念ずるとし、久習行は皮肉を退け自ら の五処(頂・額・眉間・鼻端・心)に集中すると述べる35。
『声聞地』には、このような不浄観の具体的方法や墓地から住居に戻るというプ ロセスを説いておらず、この点では同経論に基づいていないことが分かる。だが『声 聞地』は『念処経』を引用しつつも、別経を解説する『法蘊足論』にあるように内・外・
内外を説明している。『法蘊足論』の解釈を意識していた可能性は十分に認められ よう。なお『法蘊足論』については、この他にも近似する点が散見される36。改め て別稿を用意したい。
まとめ
以上『声聞地』の不浄観について考察してきた。「第二瑜伽処」に説かれた体内 の
36
種は、『雑阿含経』1165経『法蘊足論』『婆沙論』と近似し、禅経典とは対応 しなかった。また、死体の10
種については『集異門足論』『婆沙論』と近く、関連 pādāsthna ākapālārdhatyāgāt kṛtajayaḥ smṛtaḥ // ...atikrāntamanaskāro bhrūmadhye cittadhāraṇāt / 熟練者は、足の指から初めて頭蓋骨の半分までを除くことによって〔観想する〕と説かれている。…超作意者は、眉間に心を保つことによって〔行ずる〕。
33 『修行道地経』182c2-3:其彼修行而有三品。一曰凡夫。二曰學向道。三無所學也。191c17- 20:爲説人身不淨之法。有三品教。一曰身骨如鎖支拄相連。二曰適受法教便觀頭骨。三曰已了是 觀復察額上係心著頭。
34 『達磨多羅禅経』317b22-26:彼諸修行者 分別三種想 或有始習行 或已少習行 或有久 修習 是悉近決定 隨彼智慧力 趣向有差別 初業者始起 少習心已住 久學能趣縁 是説三 種修。
35 『坐禅三昧経』272a8-14:若初習行當教言。作破皮想。除却不淨當觀赤骨人。繁意觀行不令 外念。外念諸縁攝念令還。若已習行當教言。想却皮肉。盡觀頭骨不令外念。外念諸縁攝念令還。
若久習行當教言。身中一寸心却皮肉。繋意五處。頂額眉間鼻端心處。
36 阿部 (2018, 144).
-(137)-
-(136)-
する「第一瑜伽処」の法数は『雑阿含経』と一致した。これらの体内と死体の項目 はいずれも、Satipaṭṭhānasuttaと『念処経』とは相応しなかった。
ただし墓地の観察においては『念処経』に基づき自説を解説している。『中阿含経』
『雑阿含経』は説一切有部に属すことが知られており、『雑阿含経』に関しては『瑜 伽師地論』「思所成地」や「摂事分」の引用経典との一致が指摘されてきたが、『声 聞地』においても同様の経典に依っていることが分かる。『雑阿含経』と『中阿含経』
の成立背景に留意しながら37『中阿含経』との関連をさらに検討するべきである。
また「第三瑜伽処」では、不浄観の対象を内・外・内外で区分する。Sati-
paṭṭhānasutta
と『念処経』では内外を挙げながらもその説明を欠いているが、『法蘊足論』には解説されている。『声聞地』とは細部が異なるが、『婆沙論』『倶舎論』
や禅経典で内外が明記されていないことを鑑みると、その共通性は注目すべきであ る。『婆沙論』より成立の古い『集異門足論』『法蘊足論』との接点については今後 さらに考察していきたい。なお「第二瑜伽処」と「第三瑜伽処」の差異については、
「第三瑜伽処」で定まらなかった内・外・内外の区分を、「第二瑜伽処」では総合し て内・外として説明している。
以上から、『声聞地』の不浄観は、特に『念処経』=
Smṛtyupasthānasūtra
に基づ きつつも、法数としては『集異門足論』『法蘊足論』『婆沙論』と近いのものを用い ていることが分かった。五停心観という枠組みこそ禅経典の影響が指摘されてきた が、他の五停心観と同様に、不浄観についても阿含経典の所説を取り上げ、初期阿 毘達磨論書と同様の法数や語句で補強しながら自説を展開しているといえよう。【使用テキストと略号】
AKBh Abhidharmakośabhāṣya. Abhidharmakośabhāṣya of Vasbandhu, ed. P. Pradhan.
Patna: K. P. Jayaswal. 1967.
Satipaṭṭhānasutta PTS MN I, 10, 55-63.
Shukla Śrāvakabhūmi of Ācārya Asaṅga. ed. Karunesha Shukla, Tibetan Sanskrit Works Series 14. Patna: K. P. Jayaswal Research Institute. 1973
ŚrBh II Śrāvakabhūmi Yogasthāna II: Revised Sanskrit Text and Japanese translation 瑜伽論声聞地 第二瑜伽処 付 非三摩呬多地・聞所成地・思所成地 ─サンスクリッ 37 榎本 (1980; 1984).
-(137)-
-(136)-
『声聞地』の不浄観(阿部)
ト 語 テ キ ス ト と 和 訳 ─ , ed. Śrāvakabhūmi Study Group, The Institute for Comprehensive Studies of Buddhism, Taisho University. Tokyo: Sankibo Busshorin. 2007.
ŚrBh III Śrāvakabhūmi Yogasthāna III: Revised Sanskrit Text and Japanese translation 瑜伽論声聞地 第三瑜伽処─サンスクリット語テキストと和訳─ , ed. Śrāvakabhūmi Study Group, The Institute for Comprehensive Studies of Buddhism, Taisho University. Tokyo:
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Pañca(K) Pañcaviṃśatisāhasrikā prajñāpāramitā. Pañcaviṃśatisāhasrikā prajñāpāramitā, ed.
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『坐禅三昧経』T. 614.
『舍利弗阿毘曇論』T. 1548.
『集異門足論』T. 1536.
『修行道地経』T. 606.
『声聞地』T. 1579. See ŚrBh II; III.
『雑阿含経』T. 99.
『大智度論』T. 1509.
『達磨多羅禅経』T. 618.
『中阿含経』T. 26.
『二万五千頌般若経』See Pañca.
『念処経』T. 26, 582b6-584b29.
『婆沙論』『阿毘達磨大毘婆沙論』T. 1545.
『法蘊足論』T. 1537.
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〈キーワード〉Smṛtyupasthānasūtra, 『念処経』, 『中阿含経』, 『雑阿含経』,『法蘊足論』,
『集異門足論』,『阿毘達磨大毘婆沙論』, 『達磨多羅禅経』, 『坐禅三昧経』