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ヘーゲル『精神現象学』「序説」第46節〜第50節の 解明

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ヘーゲル『精神現象学』「序説」第46節〜第50節の 解明

著者 山口 誠一

出版者 法政大学文学部

雑誌名 法政大学文学部紀要

巻 81

ページ 1‑14

発行年 2020‑09‑30

URL http://doi.org/10.15002/00023462

(2)

はじめに

第 46 節では,いままでの論究を踏まえて,純粋数学から,応用数学を経て,哲学へ到る。ここで,

時間としての時間が定在する概念であり,空間と対になる時間ではないとされる。哲学では,前者の時 間が対象となり,純粋な不安定と絶対的な区別を伴った生ないし現実が射程にはいるが,純粋数学や応 用数学では,時間は麻痺して,算術の一にしかならない。こうして,数学ではなくて哲学だけが,定在 する概念としての時間から過程という否定面と真理という肯定面をとらえることができる。そして,こ の否定面から肯定面へ到らんとする道が意識経験の学としての『精神現象学』なのである。とはいえ,

哲学の方法を三重性の原理に還元し,外から当該原理を述語として適用すると形式主義になる。

【へーゲル『精神現象学』「序説」 第 46 節~第 50 節要約・邦語訳・注解】

《第

46

節》

要 旨

 純粋数学は時間としての時間を考察しない。応用数学つまり動力学は,たしかに時間,運動,現実的な事物 を扱う。しかし,応用数学では,総合命題が経験から拾い上げられて前提され,数学の公式がそれに適用され ている。よく持ち出されるてこの平衡や落下運動でも証明がなされるのは,証明が認識にとって必要とされ,

自己満足しているからである。数学知の限界の先に哲学知がある。時間は,本来空間の対ではなくて,「定在す る概念」である。数学の原理は,生を相手にすることができない。数学の認識では,時間は麻痺させられて算 術の一になる。

⑴ 純粋数学は時間としての時間を考察しない。

  Die immanente, sogenannte reine Mathematik stellt auch nicht die Zeit als Zeit dem Raume gegenüber, als den zweiten Stoff ihrer Betrachtung.

内在的数学いわゆる純粋数学もまた,時間としての時間0 0を,数学の考察の第二の素材として空間に対 置しない。

へーゲル『精神現象学』「序説」

第 46 節~第 50 節の解明

山 口 誠 一

(3)

 《注解》 哲学では,時間としての時間は,空間と不可分に関係し,物質の運動様式となるが,幾何学 は,時間から切り離された空間を考察し,純粋数学は,空間から切り離された時間を考察する。

⑵ 応用数学つまり動力学は,たしかに時間,運動,現実的な事物を扱う。

  Die angewandte handelt wohl von ihr, wie von der Bewegung, auch sonst anderen wirklichen Dingen;

 応用数学は,たしかに時間をとりあつかい,運動やその他の現実的な事物もとりあつかう。

 《注解》 ここで応用数学とされているのは,おそらく動力学であろう。動力学は,純粋数学と一体で 扱われると,『ハイデルベルク・エンツュクロペディー』のように自然哲学部門で数学につづくことに なる。

⑶ しかし,応用数学では,総合命題が経験から拾い上げられて前提され,数学の公式がそれに適用 されている。

  sie nimmt aber die synthetischen, d. h. Sätze ihrer Verhältnisse, die durch ihren Begriff bestim- mt sind, aus der Erfahrung auf und wendet nur auf diese Voraussetzungen ihre Formeln an.

 しかし,応用数学では,本来は事物の概念によって規定されている事物関係についての命題すなわち 綜合命題が,たんに経験から拾いあげられ,これをもっぱら前提としておいて,それに数学の公式が適 用されるのである。

 《注解》 ここで,へーゲルは,カントの総合命題が,概念によって規定されることなく経験的になっ ているのが,応用数学の場合であると主張している。

⑷ よく持ち出されるてこの平衡や落下運動でも証明がなされるのは,証明が認識にとって必要とさ れ,自己満足しているからである。

  Daß die sogenannten Beweise solcher Sätze, als der vom Gleichgewichte des Hebels, dem Verhältnisse des Raums und der Zeit in der Bewegung des Fallens usf., welche sie häufig gibt, für Beweise gegeben und angenommen werden, ist selbst nur ein Beweis, wie groß das Bedürfnis des Beweisens für das Erkennen ist, weil es, wo es nicht mehr hat, auch den leeren Schein desselben achtet und eine Zufriedenheit dadurch gewinnt.

 よく持ちだされるのは,てこの平衡とか,落下運動における空間と時間との関係などについての 命題の,いわゆる証明である。応用数学ではあのようなものが証明として提出され,そう受けとられて もいるという,このこと自体が,認識にとって証明に対する要求がいかに大きいものであるかというこ との,一つの証明にほかならない。というのも,証明をもはや持ってはいない場合にも,認識はそれの むなしい見せかけを尊重し,そうすることで満足を得ているのだからである。

 《注解》 ここで,てこの平衡や落下運動の証明は見せかけにすぎないとへーゲルは考えているようで

(4)

ある。

⑸ 数学知の限界の先に哲学知がある。

  Eine Kritik jener Beweise würde ebenso merkwürdig als belehrend sein, um die Mathematik teils von diesem falschen Putze zu reinigen, teils ihre Grenze zu zeigen und daraus die Notwen- digkeit eines anderen Wissens.

 そうなれば,例の証明なるものを批判することは,それ自体きわめて興味あることであるばかりでな く,教えるところが多いであろう。そのことによって数学はこうした虚飾を洗い落とされ,他方,数学 の限界が示されて,そこから他の知識の必要性が明らかにされることになるからである。

 《注解》 要するに,数学は,大きさの次元で,概念をつかんでいないのであって,それは,哲学がな しうることなのである。

⑹ 時間は,本来空間の対ではなくて,「定在する概念」である。

  Was die Zeit betrifft, von der man meinen sollte, daß sie, zum Gegenstücke gegen den Raum, den Stoff des andern Teils der reinen Mathematik ausmachen würde, so ist sie der daseiende Begriff selbst.

 時間0 0についていえば,それは空間の対をなすものとして,純粋数学のもう一つの部分の素材となるべ きものだと思われているかもしれない。しかし,時間とは,実は,定在する概念そのものにほかならな い。

 《注解》 ここでは,数学の素材と思われながら応用数学での対象になる時間と「定在する概念」とし ての時間とが対比されている。後者は,絶対知への道で抹消されるはずだった。

⑺ 数学の原理は,生を相手にすることができない。

  Das Prinzip der Größe, des begrifflosen Unterschiedes, und das Prinzip der Gleichheit, der ab- strakten unlebendigen Einheit, vermag es nicht, sich mit jener reinen Unruhe des Lebens und abso- luten Unterscheidung zu befassen.

 無概念な区別である大きさ0 0 0,抽象的で生命のない統一である等しさ0 0 0,こうした原理をもってしては,

生の例の純粋な不安と絶対的な区別を,まともに相手にすることができない。

 《注解》 ここでは,数学について前節⑿から⒃にかけて言われたことをまとめて,それに哲学的否定 を含んだ「生の例の純粋な不安と絶対的な区別」を対置している。

⑻ 数学の認識では,時間は麻痺させられて算術の一になる。

  Diese Negativität wird daher nur als paralysiert, nämlich als das Eins, zum zweiten Stoffe dieses Erkennens, das, ein äußerliches Tun, das Sichselbstbewegende zum Stoffe herabsetzt, um nun an

(5)

ihm einen gleichgültigen, äußerlichen, unlebendigen Inhalt zu haben.

 したがって時間という否定性も,この認識の第二の素材となるときには,麻痺させられしかなく,一 としての意味しかもたないことになる。この認識は事物にとって外的ないとなみであるため,みずから 運動するものをも素材の位置におとし,そうした上でこの素材において,無関与的で,外的で,生命の ない内容をもつだけなのである。

 《注解》 時間は否定性であるため内的な自己運動するものである。しかるに,数学の認識では,それ が素材とされることによって,麻痺させられて算術の数としての一になる。

〔 3 〕 哲学的真理とその方法の本性,図式化する形式主義への反対

《第

47

節》

要 旨

 哲学は本質的規定を考察する。哲学の場面・内容は,現実的なものである。現実的なものには,過程という 否定面と真理という肯定面とがある。現実的なものの否定的運動は,虚偽の経験の道である。真なるものは虚 偽と切り離すことができない。現象の生成生滅が生成生滅しないところに真理がある。『精神現象学』の現象は 真なるものの陶酔である。陶酔は静止でもある。意識形態には否定面と肯定面がある。意識形態は,否定面で は直接的定在であり,肯定面では,己れ自身についての知である。

⑴ 哲学は本質的規定を考察する。

  Die Philosophie dagegen betrachtet nicht [die] unwesentliche Bestimmung, sondern sie, insofern sie wesentliche ist;

 これに反して哲学は,非本質的な規定を考察しはしない。むしろ,哲学が考察するのは,本質的規定 であるかぎりでの規定である。

 《注解》 数学が考察する時間や空間の規定は非本質的規定であるが,哲学は本質的規定を考察する。

⑵ 哲学の場面・内容は,現実的なものである。

  nicht das Abstrakte oder Unwirkliche ist ihr Element und Inhalt, sondern das Wirkliche, sich selbst Setzende und in sich Lebende, das Dasein in seinem Begriffe.

 哲学の場面と内容をなすのは,抽象的なもの,ないし非現実的なもの0 0 0 0 0 0 0ではない。むしろ,現実的なも0 0 0 0 00,己れ自身を設定するもの,内に生命をもつものであり,己れの概念でありながら定在しているもの である。

 《注解》 ここで「現実的なもの」で意味されているのは,感官でとらえるだけのものではない。それ が精確には「己れの概念でありながら定在しているもの」とされ,より具体的には「内に生命をもつも の」であり,『論理学』本質論の次元では「己れ自身を設定するもの」である。

(6)

⑶ 現実的なものには,過程という否定面と真理という肯定面とがある。

    Es ist der Prozeß, der sich seine Momente erzeugt und durchläuft, und diese ganze Bewe- gung macht das Positive und seine Wahrheit aus.

 この現実的なものは,みずから己れの諸契機を産み出し経巡る過程である。そして,この過程の 運動全体が肯定的なものとなっていて,過程の真理をなしている。

 《注解》 現実的なものには,過程という否定面と真理という肯定面とがある。

⑷ 現実的なものの否定的運動は,虚偽の経験の道である。

  Diese schließt also ebensosehr das Negative in sich, dasjenige, was das Falsche genannt werden würde, wenn es als ein solches betrachtet werden könnte, von dem zu abstrahieren sei.

 だからこそ,この運動は,自己内に,否定的なもの,虚偽とよばれることになるものをも含んでい る。〔虚偽とよばれることになるのは,〕虚偽が捨て去られるべきものと見なされる場合のことである。

 《注解》 この文は,現実的なものを考察する『精神現象学』の道を正当化する。というのは,否定的 な学としての『精神現象学』は,仮象としての虚偽を経験するからである。

⑸ 真なるものは虚偽と切り離すことができない。

  Das Verschwindende ist vielmehr selbst als wesentlich zu betrachten, nicht in der Bestimmung eines Festen, das vom Wahren abgeschnitten, außer ihm, man weiß nicht wo, liegen zu lassen sei, so wie auch das Wahre nicht als das auf der andern Seite ruhende, tote Positive.

 むしろ,消えさるものが,それ自身本質的なものとして見られるべきなのである。消え去るものを真 なるものから切り離して,固定したものとして規定し,どこか知らないが,真なるもののそとに放置さ れなければならないというのではない。同様に,真なるものの方もまた,虚偽とは別の側に静止してい て,死んだ肯定的なものと見なされるべきではない。

 《注解》 真なるものは,虚偽という否定的なものを否定することで肯定的なものである。両者は常に 関連しあっている。

⑹ 現象の生成生滅が生成生滅しないところに真理がある。

  Die Erscheinung ist das Entstehen und Vergehen, das selbst nicht entsteht und vergeht, son- dern an sich ist und die Wirklichkeit und Bewegung des Lebens der Wahrheit ausmacht.

 現象とは生成消滅にほかならないが,この生成消滅そのものは生成も消滅もしない。むしろ,それ自 体として存在し,真理の生命の現実と運動とをなしている。

 《注解》 ここでは,虚偽が現象とされ,その現象が生成生滅とされる。そして,その生成生滅が生成 も生滅もしないというところに真理があるのである。こうして,真理にも生命があり,そのような生命 が主体である。

(7)

⑺ 『精神現象学』の現象は真なるものの陶酔である。

  Das Wahre ist so der bacchantische Taumel, an dem kein Glied nicht trunken ist;

 こうして,真なるものは,乱痴気騒ぎの陶酔であって,それにあずかるかぎり,だれも酔わない人は いない。

 《注解》 真なるものの生命の現実的運動さしあたっては『精神現象学』の道が,生成生滅としての現 象であることを「乱痴気騒ぎの陶酔」に喩えている。

⑻ 陶酔は静止でもある。

  und weil jedes, indem es sich absondert, ebenso unmittelbar [sich] auflöst, ist er ebenso die durchsichtige und einfache Ruhe.

 そして,その中のある人が,ときとしてその陶酔から離れる場合にも,同じく,たちまちまた融けこ んでしまうから,その陶酔は,陶酔であると同様に透明で単純な静止でもある。

 《注解》 生成生滅の現象運動の円周が,円環をなし,「透明で単純な静止」ともなる。

⑼ 意識形態には否定面と肯定面がある。

  In dem Gerichte jener Bewegung bestehen zwar die einzelnen Gestalten des Geistes wie die bes- timmten Gedanken nicht, aber sie sind so sehr auch positive notwendige Momente, als sie negativ und verschwindend sind.

 このような真理の運動による裁きにあえば,個々の精神形態も特定の諸思想も,いかにも,よく 持ちこたえうるものではない。けれども,それらは,否定的で消え去ると同様に,肯定的で必然的な諸 契機でもある。

 《注解》 意識の自己吟味を「真理の運動の裁き」と表現し,個々の精神形態は,絶対的な真理として は否定されるけれども,絶対的真理の肯定的契機となる。

⑽ 意識形態は,否定面では直接的定在であり,肯定面では,己れ自身についての知である。

  In dem Ganzen der Bewegung, es als Ruhe aufgefaßt, ist dasjenige, was sich in ihr unterschei- det und besonderes Dasein gibt, als ein solches, das sich erinnert, aufbewahrt, dessen Dasein das Wissen von sich selbst ist, wie dieses ebenso unmittelbar Dasein ist.

 運動のなかで区別され特殊な定在を己れに与える当のものは,運動の全体0 0が静止ととらえられる 場合,この全体にあって想起0 0されるものとして保存される。そして,その定在は,自分自身についての 知である。それは,この知が直接的定在であるのと同様である。

 《注解》 意識形態は,否定面では直接的定在であり,肯定面では,己れ自身についての知である。

(8)

《第

48

節》

要 旨

 以下で学の方法について前置きする。哲学的方法には概念と提示とがあり,後者は論理学そのものである。

方法とは,全体の構成が純粋な本質性において提示されたものである。数学的方法を学問の方法の模範とする ことは時代遅れである。スピノザの幾何学的方法などは時代遅れである。数学的方法は哲学体系の道具立てと しては好まれていない。すぐれたものは使用され好まれるという先入見を抱かざるをえない。数学的やり方は,

真理が現われうる形式ではない。哲学的認識と幾何学的認識。数学は,死んだ空間と一を素材としている。数 学的方法は,認識のためではなくて,好奇心のためにある。ふだんの意識には,内容が依拠する確かなものは 静止している。

⑴ 以下で学の方法について前置きする。

  Von der Methode dieser Bewegung oder der Wissenschaft könnte es nötig scheinen, voraus das Mehrere anzugeben.

 この運動の方法0 0すなわち学の方法0 0について,前もって多少述べておくことが必要なように思われるか もしれない。

 《注解》 ここで,学が運動とされ,本来,方法0 0は,学の運動によっておのずと示される。しかし,本 節以下では,その運動に先だって多少前置きされるわけである。

⑵ 哲学的方法には概念と提示とがあり,後者は論理学そのものである。

  Ihr Begriff liegt aber schon in dem Gesagten, und ihre eigentliche Darstellung gehört der Logik an oder ist vielmehr diese selbst.

 しかしその方法の概念は,これまで述べてきたことのなかにすでにふくまれている。また方法の本来 の提示は論理学に属すること,あるいはむしろ論理学そのものである。

 《注解》 ここで,方法の概念と本来の提示が分けられており,後者は,論理学そのものなのである。

問題は,第 47 節までに含まれている学の方法の概念をこれからはっきりとさせるわけである。

⑶ 方法とは,全体の構成が純粋な本質性において呈示されたものである。

  Denn die Methode ist nichts anderes als der Bau des Ganzen, in seiner reinen Wesenheit auf- gestellt.

 なぜならば,方法というものは,元来,全体の構成が純粋な本質性において呈示されたものにほかな らないからである。

 《注解》 方法は,全体の構成から存在を切り捨てて,全体の構成を本質論段階で反省規定からとらえ る。

(9)

⑷ 数学的方法を学問の方法の模範とすることは時代遅れである。

  Von dem hierüber bisher Gangbaren aber müssen wir das Bewußtsein haben, daß auch das System der sich auf das, was philosophische Methode ist, beziehenden Vorstellungen einer verschol- lenen Bildung angehört.

 ところが,この点にかんし従来世間でおこなわれていた考え方をみると,とくに哲学の方法は何かと いうことを問題にした諸説の体系でさえ,それはもう影のうすくなった形成陶冶に属する,という意識 をいだかざるをえない。

 《注解》 数学的方法を学問の方法の模範と見たデカルト,スピノザ,カントの体系は,時代遅れに なっていることを暗示している。

⑸ スピノザの数学的方法などは時代遅れである。

  Wenn dies etwa renommistisch oder revolutionär lauten sollte, von welchem Tone ich mich entfernt weiß, so ist zu bedenken, daß der wissenschaftliche Staat, den die Mathematik herlieh - von Erklärungen, Einteilungen, Axiomen, Reihen von Theoremen, ihren Beweisen, Grundsätzen und dem Folgern und Schließen aus ihnen, schon in der Meinung selbst wenigstens veraltet ist.

 こう言うと,何か大言壮語をしたり革命的な言辞を弄する者のように聞こえるかもしれないが,わた しはそうした調子でものを言うことを避けることを心得ている。ただ,つぎのような事態を憂慮しても らいたい。数学から借りてこられた学問上の道具立て,すなわち,定義,分類,公理,諸定理の系列,

それらの証明,根本命題とそれからの演繹や推理,といったような道具立ては,すでに人々の受けとり 方をみても,少なくとも時代おくれのものになって0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0いる。

 《注解》 主にスピノザの『倫理学』の方法が,ユークリッド幾何学の方法に従っていることを念頭に 置いている。

⑹ 数学的方法は哲学体系の道具立てとしては好まれていない。

  Wenn auch seine Untauglichkeit nicht deutlich eingesehen wird, so wird doch kein oder wenig Gebrauch mehr davon gemacht, und wenn er nicht an sich mißbilligt wird, [so wird er] doch nicht geliebt.

 こうした道具立てが役に立たないことが明確に見抜かれているというわけではなくても,とにかくそ れが用いられることは,もはやまったく,あるいはほとんどない。その道具立てがそれ自体として否認 されるのではないが,とにかく好まれてはいない。

 《注解》 数学的方法を哲学体系構築の方法とするような考えは,現今,とられていない。すでに,カ ントでも,数学と物理学と哲学とは区別されるようになっている。

(10)

⑺ すぐれたものは使用され好まれるという先入見を抱かざるをえない。

  Und wir müssen das Vorurteil für das Vortreffliche haben, daß es sich in den Gebrauch setze und beliebt mache.

 とはいえ,わたしたちは,すぐれたものであるのなら,それは用いられ,好まれるようになるはずだ という先入見を抱かざるをえないのである。

 《注解》 ここでの「すぐれたもの」が,数学的方法ではなくて,哲学的方法であることが,行文から わかる。

⑻ 数学的やり方は,真理が現われうる形式ではない。

  Es ist aber nicht schwer einzusehen, daß die Manier, einen Satz aufzustellen, Gründe für ihn anzuführen und den entgegengesetzten durch Gründe ebenso zu widerlegen, nicht die Form ist, in der die Wahrheit auftreten kann.

 しかも,あのやり方,すなわち,ある命題をかかげ,その理由を並べたて,反対の命題に対しても同 じく理由をあげて反駁する,というやり方は,真理が現われうる形式ではないということを見抜くの は,さほどむつかしいことではない。

 《注解》 数学的やり方は,真理が現れうる形式ではないという点ですぐれた方法ではないのである。

⑼ 哲学的認識と数学的認識

  Die Wahrheit ist die Bewegung ihrer an ihr selbst; jene Methode aber ist das Erkennen, das dem Stoffe äußerlich ist.

 真理というものは,それ自身においてみずから運動してゆく。ところがあのような方法は,とりあつ かっている素材にとって外からの認識でしかない。

 《注解》 ここで,真理は,自己運動するが,数学的認識は,素材に外から適用される認識である。

⑽ 数学は,死んだ空間と一を素材としている。

  Darum ist sie der Mathematik, die, wie bemerkt, das begrifflose Verhältnis der Größe zu ihrem Prinzip und den toten Raum wie das ebenso tote Eins zu ihrem Stoffe hat, eigentümlich und muß ihr gelassen werden.

 だからこそそれは数学に固有なものであり,数学にまかせておくしかない。さきに述べたように,数 学は無概念な大きさの関係を原理とし,死んだ空間と,同じく死んだ一とを素材としているのだからで ある。

 《注解》 数学は,真理の生動をとらえることができない。

(11)

⑾ 数学的方法は,認識のためではなくて,好奇心のためにある。

  Auch mag sie in freierer Manier, d. h. mehr mit Willkür und Zufälligkeit gemischt, im gemeinen Leben, in einer Konversation oder historischen Belehrung mehr der Neugierde als der Erkenntnis, wie ungefähr auch eine Vorrede ist, bleiben.

 このような方法は,もっと自由になった形で,すなわち,もっと恣意や偶然とまぜあわされた形で,

日常の生活の中に存続するかもしれない。つまり会話だとか,あれこれの知識の授受においてであり,

こうしたものは認識のためよりも,好奇心のためのものである。序説すらもほぼ似たようなものであ る。

 《注解》 ヘーゲルは,ここで,数学的方法は,会話や好奇心のための教受で序説すらも同列だという のである。

⑿ ふだんの生活では,意識内容が固定していて静止している。

  Im gemeinen Leben hat das Bewußtsein Kenntnisse, Erfahrungen, sinnliche Konkretionen, auch Gedanken, Grundsätze, überhaupt solches zu seinem Inhalte, das als ein Vorhandenes oder als ein festes, ruhendes Sein oder Wesen gilt.

 ふだんの生活では,さまざまの知識や経験や感性的で具体的事物,またさまざまの思想や原則などが そもそも意識の内容になっているが,それらはいずれも,目の前に現にあるものとして,あるいは固定 した静止した存在や本質体として通用している。

 《注解》 「固定した静止的な存在や本質体」は,後の節では,命題次元で,固定した静止した主語と される。

⒀ ふだんの意識には,内容が依拠する確かなものは静止している。

  Es läuft teils daran fort, teils unterbricht es den Zusammenhang durch die freie Willkür über solchen Inhalt und verhält sich als ein äußerliches Bestimmen und Handhaben desselben. Es führe ihn auf irgend etwas Gewisses, sei es auch nur die Empfindung des Augenblicks, zurück, und die Überzeugung ist befriedige, wenn sie auf einem ihr bekannten Ruhepunkte angelangt ist.

 意識は,一方である程度までそれらの内容に沿って進んでゆくが,他方で自分勝手なやり方で関連を たちきり,内容に対して外から規定し処理するという態度をとる。意識はそれらの内容を,何か確かな ものにひきつけておこうとするのであるが,その確かなものというのが瞬間的な感覚にすぎないもので あってもかまわない。そして,とにかく自分がすでに見知っている静止点に達すれば,確信を得て満足 する。

 《注解》 ふだんの生活では,意識は,内容を,静止した確かなものにひきつけておこうとする。しか し,内容は静止していないのである。

(12)

《第

49

節》

⑴ 概念の必然性によって,学的哲学だけが肯定される。

  Wenn aber die Notwendigkeit des Begriffs den loseren Gang der räsonierenden Konversation wie den steiferen des wissenschaftlichen Gepränges verbannt, so ist schon oben erinnert worden, daß seine Stelle nicht durch die Unmethode des Ahnens und der Begeisterung und die Willkür des prophetischen Redens ersetzt werden soll, welches nicht jene Wissenschaftlichkeit nur, sondern die Wissenschaftlichkeit überhaupt verachtet.

 しかしながら,概念のもつ必然性によって,右のような,理屈づけをする会話のだらしない歩みも,

もったいをつけた衒学のこわばった歩みも,ともに追放されるからといって,そのかわりに,方法も何 もない予感や霊感だとか,勝手な予言者気取りの語り方だとかなどが持ちだされてはならないことは,

すでに前にも注意したとおりである。こうしたものは,あの衒学ぶりを軽蔑するつもりなのが,むし ろ,それ以上に出て,学であること一般を軽蔑するにいたっている。

 《注解》 ここで,①学の概念の必然性に従う立場②理屈づけの立場③衒学の立場④予感や霊感の立場

⑤予言者気取りの立場がすでに語られたこととして列挙されている。そして,②から⑤は,①以前に学 一般を軽蔑しているとする。

〔14〕 図式化する形式主義への反対

《第

50

節》

要 旨

 三重性の原理が,カントからフィヒテへの転回で学の概念となった。三重性を一覧表の形式に貶めている場 合がある。形式主義は,事象の生命と本性を語らない。形式主義では,思想の純粋規定が吟味されないで述語 として用いられる。

⑴ 三重性の原理が,カントからフィヒテへの転回で学の概念となった。

  Ebensowenig ist - nachdem die Kantische, erst durch den Instinkt wiedergefundene, noch tote, noch unbegriffene Triplizität zu ihrer absoluten Bedeutung erhoben, damit die wahrhafte Form in ihrem wahrhaften Inhalte zugleich aufgestellt und der Begriff der Wissenschaft hervorgegangen ist.

 同じく真実の形式が同時に真実の内容をともなって立てられ,学の概念が現われ出るにいたった。そ れというのも,三重性0 0 0の原理が,カントでは,さしあたって本能的に再発見されたばかりであり,なお 死んでいてまだ概念的に把握されてはいないものであったが,その後それの絶対的意義にまで高められ るようになった。

 《注解》 三重性の原理は,カントでは,カテゴリー表という形で本能的に発見され,フィヒテでは,

(13)

知識学の三根本命題として学の概念となった。

⑵ 三重性を一覧表の形式に貶めている場合がある。

  derjenige Gebrauch dieser Form für etwas Wissenschaftliches zu halten, durch den wir sie zum leblosen Schema, zu einem eigentlichen Schemen, und die wissenschaftliche Organisation zur Tabelle herabgebracht sehen.

 しかし,この形式を用いさえすれば何か学的なものになるかというと,そうはゆかない。

三重性の形式を用いながら,それを生命のない図式,本物の図式に化してしまい,学の組織をたんなる 一覧表におとしめているようなやり方がみられるのである。

 《注解》 これは,シェリング派の形式主義に対する批判である。

⑶ 形式主義は,事象の生命と本性を語らない。

  Dieser Formalismus, von dem oben schon im allgemeinen gesprochen [wurde] und dessen Manier wir hier näher angeben wollen, meint die Natur und das Leben einer Gestalt begriffen und ausgesprochen zu haben, wenn er von ihr eine Bestimmung des Schemas als Prädikat ausgesagt,

es sei die Subjektivität oder Objektivität oder auch der Magnetismus, die Elektrizität usf., die Kontraktion oder Expansion, der Osten oder Westen u. dgl., was sich ins Unendliche vervielfältigen läßt, weil nach dieser Weise jede Bestimmung oder Gestalt bei der andern wieder als Form oder Moment des Schemas gebraucht werden und jede dankbar der andern denselben Dienst leisten kann, ein Zirkel von Gegenseitigkeit, wodurch man nicht erfährt, was die Sache selbst, weder was die eine noch die andere ist.

 この形式主義については前にもすでに一般的なことを述べたが,その手法を,ここでしばらく,さら に立ち入って調べてみたい。この形式主義は,何かある形態について,図式の中からとってきた一つの 規定を述語として語るだけで,その形態の本性と生命とを把握し表現したつもりでいる。その述語は,

主観性とか客観性といったものであろうと,磁気や電気といったものであろうと,さらには収縮と膨 張,東と西,その他何であろうと,無限にふやしてゆくことができる。なぜなら,このやり方によれ ば,どの規定や形態も,それぞれ他の規定や形態において,ふたたびその図式の形式あるいは契機とし て使われることができ,どれもがたがいに同じ役に立ちあうことができるのだからである。こうして相 互のあいだで循環しているため,事象そのものが何であるのか,一方が何で,他方が何なのか,人は けっきょくわからずじまいである。

 《注解》 事象そのものとは,形態の生命と本性であることがわかる。それは,図式の中から述語を取 り出して,形態を規定しても表現されないのである。

(14)

⑷ 形式主義では,思想の純粋規定が吟味されないで述語として用いられる。

  Es werden dabei teils sinnliche Bestimmungen aus der gemeinen Anschauung aufgenommen, die freilich etwas anderes bedeuten sollen, als sie sagen, teils wird das an sich Bedeutende, die reinen Bestimmungen des Gedankens, wie Subjekt, Objekt, Substanz, Ursache, das Allgemeine usf., gerade- so unbesehen und unkritisch gebraucht wie im gemeinen Leben und wie Stärken und Schwächen, Expansion und Kontraktion, so daß jene Metaphysik so unwissenschaftlich ist als diese sinnlichen Vorstellungen.

 このような諸規定として,ある場合には,普通の直観から感性的規定が拾いあげられる。この場合 は,当然,語義どおりのものとはちがった何ものかを意味する0 0 0 0のだということになっている。他の場合 には,それ自体で意味のあるもの,すなわち「主観」「客観」「実体」「原因」「普遍」などのような思想 の純粋規定が用いられる。しかしそれが,まるで日常生活におけると同じように吟味も批判もされずに 用いられ,その点,「強める」とか「弱める」,「ひろがる」とか「ちぢむ」といった言葉と,かわりが ない。したがって,例の形而上学は,これらの感性的表象がそうであるのと同様に,非学的なわけであ る。

 《注解》 形式主義では,思想の純粋規定がたしかに用いられるが,感性的規定と同じように偶有性の 述語なのである。

結びに代えて

 へーゲルは,数学は時間を麻痺させて算術の一を相手にするが,哲学は,概念の定在としての時間に 従って,区別と同等性の交代を特徴とする現実的なものを相手にする。

凡 例

 1.原文の隔字体は,本論稿ドイツ語文ではイタリック体で表記し,訳文には傍点を付した。

 2. 訳文については,「精神現象学・序論」,山本信訳,岩崎武雄責任編集・解説『世界の名著 35・ヘーゲル』所 収,中央公論社,昭和 42 年を参照した。

 3.本論稿ドイツ語文中の角括弧で括った語は,ズアカンプ版にもとづく挿入である。

(15)

Explikation der Vorrede der Phänomenologie des Geistes Hegels

(die Absätze 46

-

50)

YAMAGUCHI Seiichi

Zusammenfassung

In vorliegenden Absätzen zeigt Hegel den Weg vom mathematischen Methode nach der philoso- phischen Methode. Im Absatz 46 setzt Hegel nach der früheren Erörterung von der reinen Mathe- matik durch die angewandten Mathematik zur Philosophie. Er unterscheidet hier die Zeit als dasei- enden Begriff von der Zeit als Paar des Raumes. Indem die philosophische Zeit der Gegenstand ist, behandelt die Philosophie das Leben oder die Wirklichkeit, die den rein Unruhe und den absoluten Unterschied begleitet. Indem die Zeit dagegen in der reinen und angewandten Mathematik gelähmt ist, führt die Zeit nur zum rechnenden Eins. Nur die Philosophie behandelt deshalb die negative Seite des Prozesses und die positive Seite der Wahrheit. Und die Phänomenologie des Geistes als Wissen- schaft der Erfahrung des Bewußtseins ist der Weg von jener negativen Seite nach dieser positiven Seite. Wenn man aber die philosophische Methode zum Prinzip der Triprizität reduziert, macht diese Methode den Formalismus, der dieses Prinzip äusserlich als Prädikat für den Fall anwendet.

参照

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