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創設の頃をめぐって︵対談記録︶

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創設の頃をめぐって︵対談記録︶

大蔵−今年で都立大学が創立ちょうど二五年目です︒おおま   に入って昭和二五年に転任しました︒学生から︑二体教員免

かにいいますと教育の研究室も二五年ですが︑教育研究室の発   許状のことはどうなるのか︒我々は免許状をとりたいとおもっ

展史というものをいちおうここでまとめておく必要があると思   て入ったのに﹂という声がでて︑たしか四月になってから僕に

います︒たまたま三井先生が来春退官されるということがござ   行かないかという話しが︑当時国立教育研究所長であった村上

いますので︑教育研究室創立の頃からのお話しをおうかがいし   俊亮さんからあった︒あの頃僕は︑東京学芸大学にいたいとい

たいというつもりでこの集りを持ったわけです︒まず創立当初   う意志があまりなかった︒というのは︑学芸大学設置委員十数

のことをおねがいします︒      名の一人として︑いい大学を造るには︑我々設置委員は犠牲に

三井ーきょうは初期の頃だけにした方がいいでしょう︒その   なるつもりでなければいけない︒そのため設置されたら一年以

後のことはみんなで色々なものをよせ集めれば︑かなり正確な   内に委員はすべて大学を去ることを申し合わせようと提案して

ものができてくるとおもいます︒そこで︑初期の︑私がここに   いたものですから︑自分からまず実践するつもりでした︒その

赴任した頃を中心にお話してみましょう︒       ため︑九州大学だの東京外国語大学だの︑何だか僕の意志表明

 東京都立大学が発足したのは︑昭和二四年の四月ですね︒第   のないうちに転任することになってしまったような行きちがい

一回の学生募集をしたのはかなりはやかったとおもいます︒そ   もありました︒

れで非常に沢山志願者が来て︑大変な厳選だったときいてます︒   その直後に︑都立大学へ行かないかという話しが村上さんか 51       2 当時︑私は東京学芸大学にいたので︑第一年度すぎて第二年度   らあったのです︒そこで当時の人文学部長松平さんに会ったん

(2)

です︒松平さんは︑総長がいらっしゃるから会ってくれとのこ   長が地理の村田先生で︑庶務課長が数学の安岡さんでした︒松 2

とで柴田総長ー初代総長ですが  と総長室でおめにかかっ   平学部長が︑研究室の事務との連絡や電話を受けたり︑雑務を 25

た︒総長は︑この大学は都立の大学なんだからなんとかして教   処理する人がいなくちゃいけないからいそいでとりなさいとい

育学部をぜひ設置したいとおもっているというお話しをしてく   われるので僕の前任校の教え子の推せんで和田君に来てもらっ

れたんですね︒それならおもしろそうだなと気持ちが動いて︑   た︒小さな部屋に三人いたわけです︒

村上さんに︑決心を伝えたわけです︒実際に発令になったのは    これが︑教育学研究室のそもそものはじまりなんです︒もっ

やっと七月三一日です︒ですから本当は昭和五〇年七月三一日   とも当時大学は教職課程しか考えていませんでした︒鈴木桃太

が来て僕は在勤満二五年になるのですよ︒満二五年に三ヶ月ば   郎さんもそうだし︑木戸さんも︑安岡課長も︑教職課程だけお

かり足らずで︑僕は出ることになるわけです︒実際に出勤した   けばいいんだという考え方でした︒東京工業大学とか東京外国

のは秋からです︒部屋は二階の北側のずっと西寄りの部屋でし   語大学とかと同じようにしか考えていなかったのです︒教育学

た︒小さな部屋に僕と辻君が二人でいたのです︒         を専攻する学生をとろうなんて気は毛頭なかったわけです︒心

大蔵−辻先生と先生とどちらが早いんですか︒         理学も全然専攻をおく考えはなくて︑ただ社会学の講義の中に

三井  辻君の方が早いですよ︒辻君は︑都立高校の時にすで   社会心理学というのがあったので︑辻君は教育心理学をやりな

に来ていたんじゃなかったかな︒いや︑いや︑思いちがいで︑   がら︑社会学専攻の中の社会心理学を担当していました︒

彼は僕より三ヶ月早く︑四月の発令でした︒辻君が教育心理を   大蔵−辻先生の場合も︑教職課程の先生としてこられたので

持ち︑僕が教育原理を持ったんです︒この二人だけで都立大学   すか︒

の教職課程は完成したと言うことですね︒秋から講義をはじめ   三井1そうでしょうね︒

ました︒受講者は相当多かったんじゃないかと思います︒文部   大蔵ーーでも旧制高校には心理学がありましたね︒

省としては・教職課程を設置するかぎり︑教育心理と教育原理   三井1そう︒それだから心理学の本はかなりあったが︑教育

は最低一名ずつ専任がなくちゃいけないということで︑それを   学の本などゼロというところでした︒

充足したから・この大学として事務局などではいいつもりでい   大蔵  心理の本はね︑昔橘先生という人がいて集めていた︒

たらしいです︒当時︑事務局長は鈴木桃太郎先生で︑理学部の   森  教育学部構想は︑その当時もうあったのですか︒

教授でした︒教務部長は︑木戸先生じゃなかったかな︒教務課   三井ーいや総長自身の構想でしょうね︒大学全体のものかと

(3)

   おもって鈴木桃太郎先生にもあたってみたのです︒全然そんな   いと考え︑まず教授会で是非心理学専攻をおくべきだと辻君と

   気はないんです︒教職課程だけだったんです︒      話しあった上で主張したのです︒辻君はあまり強く主張しない

   大蔵ー柴田総長自身にはこの構想が後までありましたね︒社   ので︑僕が教授会でガンガン言いました︒都立大学として心理

   会教育主事講習の時でしたか⁝⁝︒       学専攻をおかないなんてなってない︑社会学の中の社会心理学

   三井ーいや︑それではなくて︑社会教育学会の第二回大会の   という一つの講義だけでいいなどという考えはよくないとさん

   時です︒本学の講堂で学会総会をやったのです︒非常に大勢来   ざんいいましたね︒同調するものがだんだんでてきて︑心理学

   ましたね︒会場校の代表として柴田総長があいさつしました︒   の方が先にできたんですよ︒次に教育学を出したんですが︑心

   ここでも︑本学は教育学部を持ちたいと申されたわけです︒あ   理学を先に成立させて山下さんをお願いしていたのは有力でし

   の時は全国から来ていた学会のみなさんは大変意気ごんで︑教   た︒また︑教授会では喜多村浩さんが力になってくれました︒

   育学部を作れよ︑作ったらおれもひっぱってくれなどと大分言   スイスのバーゼル大学を出た人で︑経済学専攻の中心人物だっ

   われました︒けれど︑まず大学自体にはそんな考えはなかった   たんです︒

   ですね︒       大蔵1そのころの人文学部は︑法律も経済も一緒だったんで

   森ーそれは単なる総長個人の構想に終ってしまったんですね︒  す︒

   おしい機会でしたね︒      三井ー未分化で法律も経済もかかえこんでいて︑しかも教授

   三井ーおしいことでしたね︒それに僕は学芸大学から都立大   会の構成員は︑せいぜい二十人前後︒極めてインティメートな

   学へ移ったでしょう︒都立大学へ教育学部を設置して︑都の教   集りでやりよい時期でした︒僕が学芸大学から都立大へ来て一

   員養成はすべて都立でやり︑学芸大学を浮きあがらせてしまう   番感じを良くしたのは教授会の空気でした︒言いたい事を誰で

んだというデマが学芸大で飛んで︑非常芒っと心でみられる も自由に量・えるんです︒学芸大では言わないものが相当いてね︒

ボ傾向があり芒たね︒僕はデ三よと打消し芒奈︒それど  =口う差んか圧力があるんでし︑嘉︒非常にストレスがある

を  ころか︑赴任後一年たってからさえも教育学部構想どころじゃ   会議なんですよ︒だから会議の時間が長いことでは有名でした︒ 噸なくて︑まず誓学専攻をおいて・専攻学生をとりたいといー 非常に長いんです・そのため会議が終ると脳いっ血で倒れると

臓念願をもったけれど︑金学部初期の考えは︑特定部門の専攻 いえがしばしばでました.それに比べるとこの大学は︑若か脇

   を考えなかったのです︒それに教育学を先にだしちゃ具合が悪   ろうが年よりだろうが言いたいことは自由に言えるし︑その代

(4)

り一応決定が出れば︑みんな拍手でもって協力するしね︒その   あって︑社会が特に重視されていたね︒東京都の理事者には当 4

空気が良かったですね︒       時保守的な人が多かった︒彼らを説得するには社会学的発想が 25

 教授会で教育学専攻をおくことにきまっても︑学部以外に案   大事で︑都市社会というものにとくに重点をおくんだとさかん

外抵抗がありました︒どうも教育学専攻にして教職課程から手   に言っていたようですね︒社会学は︑当時の構想の割合にはあ

を抜かれちゃこまるというのです︒理学部の学生の大部分が免   まり成長していない︒今︑社会学と社会人類学の二専攻になっ

許状をとりたい人たちです︒だからその方を手をぬいてもっぱ   ているが︑はじめは社会学が全学部をおおうかのような構想で

ら教育の専攻生を育てることを考えてもらっちゃこまる︒ここ   したね︒

は本来教職課程をおくはずで教育学専攻をおく気はなかったん   大蔵−英文︑独文︑国文は旧制の高等学校の時代からあった

だという抵抗です︒これには松平さんも苦労したとおもいます︒  わけです︒中文と仏文が旧制に関係がないですね︒歴史と哲学

部長会や評議会なんかでとにかく押し通してくれて︑教育学専   はもちろんあったわけですね︒社会が新しく都立大構想の中で

攻がようやく成立した︒その時は︑もうあの部屋は三階に移っ   大きくでてきた︒

て︑今の独文あたりのいる部屋ですね︒      森−結局︑旧制高校の文科が人文の母胎になっているわけで

大蔵ーあれはいつ頃でしたか︑二九年か二入年︒        すね︒理科が理学部︒

三井ー移ったのはたしか二八年︑教育学専攻はもっと早く︑   三井ーしかも︑教員であるかぎりすべて教授会の構成メンバ

池田君は第二回生だし︑彼が卒業したのは二九年ですよ︒だか   ーでなければいかんという考え方があり︑教職課程をどこの学

ら教育学専攻ができたのは︑二七年か入年ですね︒僕が来て二   部におくかということで︑まあ一番人文に近いからそこにおこ

年か三年たってからです︒       うという話しだったらしい︒僕が来る前ですが︒それで︑人文

大蔵−創立当時︑都立大学構想をたてた人の中には︑教育学   学部長に僕が最初に会ったわけですし︑教職課程設置の責任は

構想はなかったですね︒       人文が負うたものらしい︒体育課程をどうするかとなると︑人

三井i全然なかった︒      文で教職課程をしょいこんだのだから︑体育の方は理学部でし

大蔵1それから心理学も中文もなかったですね︒その三つが   よいこむかという風なことで理学部へくっつけちゃった︒教育

たしか最初なくてあとは一応できていた︒      に一番近いのにね︒なんの科学的根拠もないんだね︒ようする

三井−人文学部の人文科学系統の中では歴史と哲学と社会が   に負担をわけるということだったんだね︒

(5)

    やがて︑教育実習をはじめなければいけないことになった︒   いんだな︒なにがどこへ行っているのか︒それで結局︑ポスト

   教育実習は︑四年でもいいじゃないかという声もあったが︑四   全部はとれなかった︒そのうちにだんだんしぼられて教授一︑

   年では卒論なんかあって無理だから︑三年で実習をやった方が   助教授一︑助手一になってしまった︒

   いいんじゃないかと考えた︒それをはじめるには︑とても僕と   大蔵1まもなく︑辻先生が教育からはなれて心理の方に行か

   辻君だけではだめなんで︑とにかく︑助教授を招こうというこ   れたのですね︒

   とになった︒学部長はまかせるからみつけてくれと言われる︒   三井−心理に行かざるをえなくなったのは︑教育にすでに教

   そこで国研の村上さんのところに相談に行ったんです︒推薦し   官が五人いるでしょう︒一︑一︑一︑になったら一名あまるわ

   てくれたのが児玉君︑それから磯野君です︒      けでしょう︒

   大蔵−磯野先生は誰から︒       大蔵−あとで教育の場合︑五になるんですよ︒そのあと昭和

   三井−同じです村上さん︒それと同時に教育心理学の方を手   三〇年に飯田先生にきていただいて︑それがずっと三講座にな

   助けするのに三浦君が来てくれた︒この方は辻君が東大の研究   るまで続いたわけです︒教官五ですね︒教育は変則なんですよ︒

   室に行き︑千輪先生の推せんを得たらしい︒また︑大蔵君に助   教職課程で多少特殊だというわけで一人余分にいるわけです︒

   手として来てもらった︒安岡総務課長は︑教職課程は講義以外   三井1あとで理屈をつければ他専攻を借りるか助手を一名分

   に教育実習を担当しなければいけないんだから︑理学部と同じ   くったというわけ︒

   講座組織で考えているといわれる︒すなわち教授一︑助教授一︑  大蔵−ところがね︑一︑一︑二は助手の場合はちゃんといる

   講師一︑助手二ということですよ︒そういう構成で︑しかも教   んです︒和田さんが一番最初にこられた︒私が︑二六年の四月

   職課程は二講座だった︒教育原理の講座と教育心理の講座です︒  で︑その五月に太田卓君︑その翌年の四月一日から岡田正章さ

だから︑︑厳密に言えば曇は︑教察二︑助教授二︑︑藷二︑ ん︒ ぐ  助手四ですよ︒そういう構成になるはずだから︑まだ人員はと   三井  あ︑そうだね︒

噸をかけられた︒そんなにとってもらってはこまると︒安岡君は 育実翼から璽に充足しなければいけない︒誓だけ竺人 を  れるとおもっていたら︑人文学部事務長の荻間さんにストップ   大蔵  ですからたしかに四人いるんです︒助手の定員は︑教

幟  とってもいいと言ってますよと言ったら︑実は学部内で助手の   余分になった︒そこで一人席を借りてるわけです︒英文の講座 55

ハ      ぐピ

   ポストを色々貸し借りLてるんでという︒複雑怪奇でわからな   を︒教育が三講座になるまで︒

(6)

  三井ー教育実習が出発したのは︑たしか昭和二七年だったと   だけでなく︑本当の付属にし︑実験学校のみでなく教育実習も          おもう︒今の三階の独文研究室にいた頃です︒教育実習が発足   年間を通じほとんど全員うけ入れられるようにすべきでしょう 25 . する前に︑付属の校長が組合関係の付属の先生方︑三︑四人を   ね︒それには先生定員をふやし︑一学級の生徒数をへらすべき

  つれて僕の研究室へやってきました︒教育実習を付属に頼むか   です︒今行ってみてもわかるように背後に立ってる場所すらな

  ぎりは︑付属らしい学校にしてくれという要求です︒即ち一学   い︑みているところすらないようで︑実習ができる状態じゃな

  級の生徒定員をへらすことと︑先生の定員をふやすこと︑一人   いですよ︒僕はこれこそ実現しなくちゃならないとおもったが

  の持ち時間を普通の高校よりはるかに減じなければならない︒   駄目でした︒当時大学を設置するだけで大変な犠牲を東京都は

  たとえば教育大付属と普通の都立高校とでは︑教員定員の計算   払ったという考えが都の理事者側にはあるらしいし︑これ以上

  の仕方がちがうんだって︒組合関係で調べたらしい︒そういう   大学の予算をふやして付属を付属らしくせよと要求する心臓が

  ようにしてくれという要求を︑僕のとこへ持ってきたんですよ︒  大学にもなかったんですね︒だから僕などがいくら強くいった

  それを実現してくれないと教育実習を受け入れないというから︑  ってだめなんですよ︒

  しょうがなく僕は大学の事務当局へ交渉したが︑それが又だめ    そういうのともからんでいて教育学専攻を設置するというこ

  です︒だいいち︑付属は都立の高校なんだから︑教官定員のこ   とは︑とても僕のようなものにはできなかった︒その点では喜

  とを考えるのは都の教育委員会だというわけです︒ヌエみたい   多村君などは教育学設置には功績があったとおもう︒教授会で

  な付属ですね︒何も実現せず不承ぶしょう付属は教育実習を受   は相当主張してくれたから︒諸外国の大学の中で教育学は重要

  け入れた状態です︒僕としては︑付属が実習生を受け入れてく   な位置をしめていると言ってね︒

  れなければ︑しょうがないから協力校だけでやろうと考えたん   大蔵−教育実習の観点からいって︑付属が付属になりきれな

  だけど︑当時すでに教育実習を受けたいという学生は相当数い   かったのは︑高等学校しかなかったからでは︒

  て︑とても付属だけでは受け入れられない数だった︒協力校は︑  三井  それもあるでしょうね︒

   一校で一〇名までは受け入れてくれるので︑付属はこれを少し   大蔵ー付属中学があれば︑もっと性格がちがったのでは︒

  オーバーしても受け入れてくれないかとお願いしていわば付属   三井−中学となれば新設ということになるでしょう︒もっと

  は緩衝地帯みたいなものとして始まったわけです︒今でも︑こ   抵抗がでてくる︒最初の頃は︑付属高校の方が︑大学を自分達

  の問題を考えてみると矛盾が多いですね︒付属高校を単に名目   の付属だと思っている傾向が強くてね︒校舎も全部付属のもの

(7)

   だという考え方があるんですね︒講堂だって彼らの方が使うの   三井ーあれは︑僕も良く知らないですよ︒国研の横山君がよ

   が多かったし︑図書館だって高校生が主に使ったしね︒大学の   く知ってるんじゃないですか︒当時文部省の方で委嘱先にこま

   ものが行ったってすわるとこがないという状態で︒しかも︑最   っていたんじゃないかとおもうんですよ︒本来ならば︑主事講

   初この校舎には付属がいただけでなく︑目黒十中も一年ぐらい   習を実施するのは︑教育学部を設置している大学という規定で

   いた︒昭和二二年に六.三制が発足したでしょう︑目黒十中は   した︒ここには教育学部も︑教育学科すらもないでしょう︒そ

   今は五百メートル位先方にいるけれど︑はじめはここにいたん   れでいて昭和二八年︑二九年︑三〇年と三年連続で引き受けま

   ですよ︒      したね︒

   大蔵−初代校長が︑ここの人でしたね︒教頭さんもここでし    社会教育主事講習を引き受けてくれないかと文部省から言わ

   た︒       れて︑教育学部がないからだめなんですと言ったら︑いやあな

   三井ー十中と高校が最初ここにいて︑そこに大学が入ってき   くてもいいやと言ったのがたしか横山君なんですよ︒当時彼は

   たから︑余分な者が入ってきたという感じでした︒都は予算も   文部省にいたね︒僕はその年︑昭和二八年夏に琉球列島に行く

   なかなか出してくれないし︑大阪の市立大や府立大と比べても   ことになっていた︒これも文部省委嘱の第一回教員再教育です︒

   比較になりませんでしたね︒今考えてみれば︑教育もゼロから   主事講習も夏休みだし︑僕は責任をもって引き受けられないと

   出発してよく本もこれだけ買い集めたとおもうね︒教職課程だ   いったら︑児玉君が︑主任講師を引受けるということで実施し

   けだったら︑本はそんなにいらないというわけですね︒教育学   ました︒僕は琉球から帰ってから社会教育史を講義した程度で

   専攻があるから研究上必要だというわけでここまで買えたんで   したね︒第二回は︑僕が主任講師をやり︑第三回の三〇年は︑

   す︒教育はゼロから出発したということは︑教授会でも公認し   飯田先生がみえたので飯田先生に主任講師をやってもらった︒

4てくれたから︑最初のうちは図書費予算も余分にくれた︒  この三年間だけでもとても大変でした︒夏休み中休暇がなくな ぐ  大蔵−都立の教育学の一つの特色は︑今から考えれば︑社会   るのです︒とくに主任講師は︑夏休み中フルに動かなくてはな

噸育主轟習をひきうけたことでし・うが︑あれを引き受けた経 いうことでごめんこうむることになった︒中断後の再開のさい を  教育があるということですが︑こうなった経過は︑例の社会教   りません︒みんなにげちゃって︑ちょうど主事講習も打切ると

峡  過について︑必らずしも我々にはあきらかではないので︑おき   はしょうがなくて再び教育大へもっていった︒教育大は今日ま 7

 ロ       

   きしたいのですが︒       でともかくやっているけれど︑大変でしょうね︒       2

(8)

森−主事講習のカリキュラムには心理関係もありましたか︒   占領軍から都立大学は女子をとらないのかと言われたらこまる        三井−あったですよ︒成人心理とかそのほかね︒        ということで︑女子の受験生には下駄をはかせて︑ほんの一割 25

森−教養的なものもやったわけですね︒       足らずとった︒その女子がまた優秀だったですね︒

三井  ええ︑それが大変広範囲で︑ここの大学には打ってっ    第一回卒業生が昭和二八年でしょう︒この優秀な卒業生がど

けでした︒ともかくここで三年間やった主事講習は︑受講生も   こに就職してくれるか心配でね︒就職委員には選ばれるし︑し

非常に面白いとはりきっていたけどね︑部屋は暑くて︑今の教   かも当時は就職委員の経費など交通費すら全然でなかった︒全

授会をやるあの大きな部屋ですよ︒あの部屋で大きな氷柱をた   部自腹をきってね︒高校時代の同級生がちょうど会社の人事部

ててやったですね︒冷房なしですから︒カリキュラムはおもい   長とか人事課長とかになっているので︑これをたよって歩いて

きって柔軟性にとんでいたし︑非常に面白かったという評判で   ね︒法経も当時は一緒の学部ですから︑専ら会社関係を歩いて︑

す︒その後は︑ああいうおもいきったカリキュラムはできなか   就職試験のチャンスだけは与えて欲しいと頼みました︒あの当

ったようですね︒      時会社関係は古い有名大学へは︑学生を推薦してくれと手紙を

森1はじめの頃の学生の状態は︑どうでしたか︒        よこすけれど︑新制大学は︑相手にしないんですよ︒ともかく

三井ー第一回生が激烈な入学試験競争でしたね︒他の大学の   訪ねていった甲斐があって︑就職試験のチャンスは多くの処で

入学試験前にやったと思います︒しかも大学の構想が非常にフ   与えてくれました︒今の三菱重工にあたる東日本重工がですね︑

レクシブルでね︒昼と夜との学生の区別をつくらず︑講義は昼   就職試験をやったら東大や一橋大を尻り目に断然トップの成績

おこなわれるものは︑たいてい夜もおこなわれる︒学生は昼だ   の者が本学から出た︒僕の頼んだその社の友人がびっくりして

け聴講してもいいし︑夜だけとってもいい︑昼夜まぜてとって   言って来ましたよ︒圧倒的に優秀な成績だったと言うわけです

もいい︒自由にやっていいわけです︒さらに夜の講義へは︑自   ね︒それから多くの企業で毎年求人申込をよこすようになりま

由学生という形で勤労学生を入学させる︒今の聴講生と同じで   したね︒

すね︒本学は出発点から都民の大学として勤労学生に役立つ大    その頃の学生は︑勉強家でもあったが︑優秀でしたね︒こと

学をという考え方であった︒入ってきた学生は能力が高かった   し︑第一回生が一期会というのをつくって︑名簿を送ってくれ

し優秀だったですよ︒最初の入学試験をやってみたら︑女子は   ました︒実業界︑マスコ︑ミ界各方面でそれぞれ大いに活躍して

一人も合格者がなかったとのことです︒当時占領下でしょう︒   いる様子がわかって愉快でした︒大学の教授助教授になったも

(9)

   のの多いのにも驚きました︒しかも︑全国の大学に散在してい   三井ーやっぱり昼間完全に働らいている者だけだったから︒

   るんです︒国立では東大︑京大︑名大︑九大︑北大︑横浜国大︑  昼間仕事がないのに︑夜の講義だけきくという者はないからね︒

   東工大︑外国語大︑お茶水大︑岡山大などにいるし︑都立には   大蔵ー昼夜開講制を貫いていた時の方が︑夜らしい授業だっ

   数名いるし︑私立でも早大︑慶応︑立教︑法政︑立正︑青山学   たという感じがいたしますね︒むしろ︑あれがくずれてきた段

   院大︑中央大︑昭和薬大︑桐朋学園大︑国際基督教大︑北里大︑  階の今の方が︑入学試験とからむかとおもいますが︑夜の講義

   愛知工大︑南山大︑立命館︑と数えてみてびっくりしました︒   が夜らしくなくて昼間の学生が沢山でてきた︒夜の学生であっ

   当時三学部二五〇人程ですから︑そのうち大学に勤務している   ても勤めてはいなかったりいろいろ問題があるとおもいますね︒

   ものが三四名ですから︑大変高率ですね︒中学や高校にいる者   三井1ある意味じゃ当時は夜の学生の方が︑共通点があるか

   も二三名いましたので︑実に卒業生の五人に一人以上の割合で   らすぐ意見も一致したといえるでしょう︒夜の学生からの希望

   教育関係の職に就いていることになります︒﹁教育は花ざかり﹂   で︑冬になると暖房もないし夜は寒くなって大変だから︑夏休

   というべきでしょうか︒       みに集中的に講義をやってくれということで︑教育原理を集中

    一期生ばかりではありませんね︒初期の者たちが︑ちょうど   的に三年間位はやりました︒後期の分を夏休みにやるのです︒

   活躍ざかりの年齢に来たということでしょうか︒こんどの参議   森ーもとの制度の方が自由というか︑のびのびしていたので

   院選に共産党から出て見事当選した近藤君︒かれは都立の野球   すね︒

   部最盛期の主将で︑柔道部の方でも主将で︑実にさっぱりした   大蔵−たぶんそれは制度だけでなく︑学生の質もからんでい

   スポーツマソでしたね︒三期生です︒同じ三期生に︑女子学生   るでしょう︒

   で共同通信社の入社試験に男女をぬきんでてトップで入った者   森iでも制度によって考え方も規定されるという面がありま

パもい芒たよ︒家庭へ入って社をやめてからも︑ひとりで海外 すね︒ ぐ  旅行をして︑バートラソド・ラッセルだの︑パール・バックだ   三井−昼夜の区別なく一緒に入学させ︑別々の定員などはき

噸旅﹂という歪まとめました︒驚きましたね︒   大蔵ーそれはいつまで続いたですか︒ を  の︑当時の世界第一級の人物と面接して歩いて︑﹁対話のある   めてなかったし︑卒業証書にも区別がない︒

畷  大蔵−個性のある学生が多かったですね︒夜・昼の区別がな   三井ー文部省の圧力がかかるまでですよ︑昭和三三年でしょ 59

カ      ワピ

   いというが︑以前は夜の方に夜らしい学生が沢山いましたね︒   うか︒

(10)

大蔵  ただ最初のような入試方式ですと︑現状では︑夜はほ   っていたらしいんです︒新制は大学学部と同じように講義と単 0

とんどいなくなるとおもいますね︒入学できなくなってしまう︒  位を与えることが必要なんです︒教育はわずか二講座︒しかも 26

ですから制度の面というより入学試験の問題だとおもいます︒   全学の教職課程をもち︑夜昼講義せねばならない︒これで大学

三井  いま昔どおり一緒に入学させても︑入学してから︑昼   院まではとても不可能だといったのです︒他の専攻は︑多くが

間勤めて夜だけ聴講しようというものが出るかもしれません︒   バスに乗りおくれまいと申請しました︒教育は講座増と予算措

差別されないならね︒       置のない限り︑申請しないと主張しました︒しかも教授ゼロの

大蔵1それは少ないとおもいますね︒      時代ですから︑申請してもパスする見込みがありません︒

三井i今は家庭にお金の余裕がでてきたからね︒        飯田先生が見えられてからも︑この体制で貫くつもりでいま

大蔵  昔は・定時制高校出でも沢山入ってきたけど︑今では   したが︑そのうちに教官に大学院手当がついて︑差別が出てき

入れないですよ︒      たり︑学生からの要望もあったりで︑ついに十年程おくれて申

三井iそれだけ競争が激化したんですね︒       請にふみきったわけです︒

大蔵  つぎに大学院の件ですが︑大学院を作る時︑主に動い    もちろんマスターとドクターを同時に申請しましたが︑これ

たのは︑三井先生と飯田先生ですね︒       は作戦の意味もありましてね︒どうせドクターがパスするはず

三井1そうです︒       はないけれども︑両方申請したらマスターぐらいはパスさせて

大蔵  最初はマスターとドクターを一緒に作りたいという構   くれるだろうとね︒

想だったんですか︒それとも⁝⁝      設置がきまったとき︑飯田先生は僕にいわれました︒都立の

三井  こういうことです︒大学院問題が︑この大学におこっ  教育としてはマスターだけでいいね︒このままでずっとやって

たのは昭和二七年です︒翌年には第一回の卒業生が出るわけで   いくことにしようとね︒僕もその当時はそれに賛成しました︒

す︒希望者を受け入れるだけの大学院がなければいかんという   それで︑ドクターまで進みたい者ははじめから東大を受けるよ

わけでね︒ところがその大学院たるや︑全く何の予算増も︑講   うにとすすめて︑既に三人も送りこみましたね︒ところが︑マ

座増もなしに︑現状だけで設置するほかないというわけです︒   スターを本学でやりながら︑終る頃になってどうしてもドクタ

私は大反対しましたね︒現状で設置できるはず無いですよ︒ほ   ーへ進みたいという者が出てきて︑ドクターからでも受け入れ

かの先生方は旧制の大学院を頭に描いていて︑研究生程度に思   てくれる名古屋へさしむけるというようなことにもなり︑だん

(11)

   だん学生の進学熱は高まるし︑学生の方からドクターコースを   小学校の校庭が︑幼稚園には幼稚園の遊び場がなければならな

   設けて欲しいという声もでてきて︑三講座になってからついに   い︒また︑付属の教官と本校の教官との関係の問題もすっきり

   踏みきったわけです︒国立大学には︑教官の手当てでもドクタ   割りきるべきです︒付属の教官はすべて大学の教官として位置

   ーコースとマスターコースとで担当教官に差別をつけるという   づけ︑別な﹁教諭﹂などの職名をつくらない︒任期五年程度で

   動きも出てきていましたし︑何としてもドクター設置を迫られ   いつでも本校と人事交流できる体制︑すべてが研究者であると

   たわけです︒このさいは︑全く僕一人でやりました︒大変でし   共に教育の実践者であること︒そういう体制で︑はじめて学問

   た︒しかし︑つくってよかったとおもいますよ︒学生が修士だ   も教育も進歩するのです︒付属の先生を公立校の校長に売りこ

   けでは不安ですしね︒修士での勉強の仕方もちがってくるしね︒  まねば人事が停滞するなどとんでもないことです︒何のための

   大蔵1さいごになにか都立の教育研究室に望むことがありま   実践︑何のための研究でしょう︒すべて同じ大学の教員とする

   したら残しておいて下さい︒      と付属はずっとちがったものになるとおもう︒そういう夢をも

   三井ー積極的なことを言えば︑最低五講座になってほしい︒   っている︒

   これ最低の線ですけれど︒それから教育学専攻をおくかぎりは︑   零歳児保育所をつぐれという主張も︑いまだ実現できない︒

   これは総長にも会って言おうとおもっているけれど︑例えば付   本学の職員の子供だけのためにでも一部屋でもいいから作るべ

   属高校をおく︒国公立のエリートを作る付属高校ではなく︑も   きだといったけど︑これは教育学部を作る構想の出発点じゃな

   っともここの付属はちっともエリートとはいえないけれど︑学  いかなどとかんぐってね︒全く賛成してくれない︒

   芸大や教育大のような反教育的なものでなく︑学区制をとった   森−厚生省にほこ先をむけてやってください︒

   付属学校を︑小︑中︑高と︑さらに可能ならば保育園・幼稚園   三井ーさしあたり小学校教員養成課程も作りたい︒これはむ

も是非設置してもらいたい︒将来のキャ三喬題とからんで︑ しろ都の教員免許の事務当局に前からある声です︒都で臨時免 ぐ  これを優先的に考えて欲しい︒それぞれの付属には独立した校   許状の小学校教諭講習を玉川大学に委託したさい︑教師や教組

噸なんて馬鹿みたいなことですよ︒校庭なんて人っこひとりいな をくらった・そこで都でも都立大に小学教員讃課程を作って を  舎も︑独立した運動場も必要です︒本学みたいに運動場の共有   の側から都立大学というものがあるじゃないかと強いつきあげ

轍くて遊んでいる時間が多いほど意味があるのです.空間と; ほしいといっていた.六︑七年ほ豆別の・﹂とです.各科教育法皿

   ものの重要性です︒やはり中学には中学の校庭が︑小学校には   の先生を六人位非常勤でもいいから置けば設置できるはずです︒

(12)

そんなに金がかからないんです︒      2        森  教官の方も大学院ができてから研究分野がひろがってい       2

ますしね︒

大蔵−大学拡張の方はどうですか︒

三井1そう大学開放センターの設立︒付属同様大学のキャン

パス内に大学開放セソターをつくり︑ここでの成人教育に大学

の先生が奉仕できる体制をつくるべきだ︒地域の人にも喜ばれ       ︑

るし︑研究や教育が地域にも還元できる︒もちろん幼稚園︑保

育所から高校までの付属施設も︑広義の大学開放です︒研究も

教育も︑開放なしに進歩しないということ︑開放と並行するも

のでない研究や教育が︑いかに人類に有害であったかというこ

とへの反省が︑まだわが国の大学人には一般化していませんね︒

 十年程まえに︑東大で国際大学会議が行なわれたとき︑現代

の大学の三大⁝機能として研究︑教育︑開放というのが世界の常

識になっていたのに︑わが国の大学人はほとんどこれを知らな

かったというので物笑いになりました︒本当に本学こそ︑改革

の先陣をきって欲しいですね︒

  ︵本稿は︑一九七四年十月三日︑研究室に於ける三井教授と森.大 −蔵・大串との対談の録音を大串がおこし︑三井教授の校閲を得たも

  のである︒︶

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