片山廣子『燈火節』をめぐって
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(2) 要. ︵教育科学編︶. 第五十八巻. 第二号. 平成二十年二月. 佐. 野. 比呂己. 北海道教育大学釧路校国語科教育研究室. 片山麗子﹃燈火節﹄をめぐつて. 北海道教育大学紀 要. 概. された。帯文には次のような記述がなされている。. 歌人、アイルランド文学の徒、随筆家として、ふたつの名のあいだを翔 け、日本とアイルランド、生活と想像世界を自在に越境した作家、初の. 長く入手困難だった﹃燈火節﹄全編をはじめ、初期から晩年までの随筆・. 集成。 小説を網羅。. 芥川龍之介が惹かれ、堀辰雄が慕った⋮⋮. の作者である片山廣子は、﹁歌人﹂ であり、﹁アイルランド文学. であり、﹁随筆家﹂ であり、﹁ふたつの名﹂を持っていた。一つは、歌. ﹃燈火節﹄ の徒﹂. の松村みね子の二つである。. 人として本名の片山廣子、もう一つはアイルランド文学の翻訳家として筆名. 芥川龍之介の精神的な恋人﹁越し人﹂、堀辰雄の ﹁聖家族﹂ の経木夫人の. モデルとして知られる廣子ではあるが、歌人として、さらにはアイルランド. 文学の翻訳家として十分な評価がなされていないのが現状である。どちらか と言えば、芥川や堀の研究に取り組む際、周縁的に取り上げられる場合が多. いようである。中でも、廣子そのものについての研究は少なく、詳細な年譜 を附した藤田福夫の精赦な研究、歌人・片山廣子の生涯を綴った清部千鶴子 の著書、アイルランド文学翻訳者としての仕事と意義とを考察した井村君江. 点からの鶴岡真弓の論文があげられる程度である。昭和三十年︵一九五五︶. 子の論考、アイルランド文学研究家と歌人である廣子の二面性に着目する視. 本稿は、片山廣子﹃燈火節﹄をめぐつて、片山廣子という人物について、﹃燈 火節﹄という書名の意味、刊行に至るまでの経緯について確認し、﹃燈火節﹄ の随筆教材としての可能性をさぐる出発点とするとともに、今後の研究に資 することを目的としている。 まず、廣子の年譜を作成し、廣子の家族について、芥川龍之介、堀辰雄と の交流について整理した。廣子は、歌人・片山廣子とアイルランド文学翻訳. ある。 本稿は、廣子の随筆集﹃燈火節﹄. 筆教材としての可能性をさぐる出発点としたいと考える次第である。. 試みていくつもりである。﹃燈火節﹄を研究する、さらには ﹃燈火節﹄ の随. するものである。片山廣子について、﹃燈火節﹄発刊の経緯について考察を. について、その概観を明らかにしようと. かかわらず、﹃燈火節﹄ についての作品研究に至っては皆無に等しい状況に. には第三回目本エッセイスト・クラブ賞を受賞するという栄誉に浴したにも. の論考、﹃心の花﹄ の同人として身近に接した廣子の素顔を追慕した阿部光. 家・松村みね子の二つの名を持つ。各々の領域における仕事、及び仕事に対. が再刊. に込めた思いについても考察を試みた。. 十一月、五十年の歳月を経て、﹃燈火節﹄. ﹃燈火節﹄. いている。廣子が筆を摘き、再び筆をとるに至った経緯について﹁あとがき﹂. する評価についても整理した。 加えて、随筆集﹃燈火節﹄という書名の意味・由来について、随筆﹁燈火 節﹂を中心に検討した。﹃燈火節﹄発刊に至るまで、廣子はしばらく筆を潤 を中心に論じ、廣子が. ︵二〇〇四︶. はじめに 平成十六年.
(3) 佐 野 比呂己. 一片山鹿子年譜 片山廣子について詳細かつ優れた研究に先に掲げた藤田の研究がある。藤. ︵一人七人︶. ○歳. 田の研究を参照しっつ、﹃燈火節﹄を検討・考察するための補助として、片 山廣子の年譜の作成を試みる。 明治十一年. 二月十日、東京都港区麻布三河台に生まれる。埼玉県大里郡奈良村四 方寺の人、吉田二郎長女。後、妹次子、弟精一、東作が生まれる。父 七−十七歳. はニューヨーク領事などを勤めた外交官。 明治十人− 二 十 八 年 ︵ 一 八 八 五 − 九 五 ︶. ︵一人九六年︶. 十人歳. この頃、東京都港区麻布鳥居坂の東洋英和女学校に在学。寄宿舎生活 を送る。 明治二十九. ︵坂正臣選︶. 天位に. 東洋英和女学校の同級生である新見かよ子とともに佐佐木信綱を訪ね る。歌を学び ﹃源氏物語﹄ の講義を聞く。 二十歳. 一月﹃こ こ ろ の 華 ﹄ 創 刊 号 、 課 題 文 ﹁ 新 年 望 嶽 ﹂. 明治三十一 年 ︵ 一 人 九 人 ︶. 入選。 二十一歳. 五月以降夏に、片山貞次郎と結婚。貞次郎は新潟県中蒲原郡が原籍地、. 明治三十二 年 ︵ 一 人 九 九 ︶. 明治四年︵一人七一︶一月十四日生まれ、明治二十九年︵一人九六︶、 ︵一九〇〇︶. 二十二歳. 東京帝国大学法科大学卒業、結婚した頃は大蔵省に勤務していた。 明治三十三 年. この頃、東京本郷千駄木町五十七番地に居住。この家は以前に森鴎外 が住み、その後は夏目淑石が住んだ。 ︵一九〇三︶. 二十五歳. 六月二十二日、長男・達吉、誕生。 明治三十六 年. 二十七歳. 五月四日、夫貞次郎、大蔵省司計局司計課長を退官する。病気療養の ため。 明治三十人 年 ︵ 一 九 〇 五 ︶. 四月二十日、夫貞次郎、日本銀行調査役に就任する。以後、調査局長、. 秘書役、計算局長、文書局長を歴任する ︵一九〇七︶ 二十九歳. この頃、東京市外新井宿二丁目に居住。 明治四十年. ︵一九一〇︶. 三十二歳. 八月二日、長女・繚子、誕生。 明治四十三年. 春、東京市外新井宿三丁目一三五二に転居。 ︵一九一三︶ 三十五歳. 三十六歳. ﹃満月﹄を翻訳。. 三月、小説﹁草団子﹂ ︵﹃心の花﹄掲載︶ で初めて﹁松村みね子﹂. 大正二年. 名を用いる。 ︵一九一四︶. 一月、アイルランドの劇作家レディ・グレゴリーの. 大正三年. アイルランド文学を初めて翻訳する。 大正五年︵一九一人︶ 三十人歳 ノグチ. ︵野口米次郎︶、佐佐木信綱が執筆。. の筆. 三月、歌集﹃薪翠﹄ ︵﹁心の華叢書﹂竹柏会出版部︶ 刊行。序はヨネ・. 八月三十一日、夫貞次郎、日本銀行理事となる。 ︵一九一七︶ 三十九歳. 二月八日、自宅に菊池寛が ﹃時事新報﹄ の取材で来訪。﹁閏秀文壇唯. 大正六年. 一の翻訳家﹂と題されたインタビュー記事が十日、十一日の二回にわ たって掲載される。 大正七年︵一九一人︶ 四十歳 ︵一九二〇︶ 四十二歳. 長い期間にわたって大病を患う。 大正九年. 三月十四日、夫・貞次郎、四十九歳で死去。長男・達吉、十九歳。長 ︵一九二一︶ 四十三歳. 女・繚子十二歳。 大正十年. ︵一九二三︶. 四十五歳. 三月、長男・達吉、第一高等学校英法科卒業。 大正十二年. 四十六歳. 七月、﹃シング戯曲全集﹄を刊行。 ︵一九二四︶. ︵一九二五︶. 四十七歳. 七月、避暑地・軽井沢にて芥川龍之介と知り合う。以後、芥川と交流。. 大正十三年. 大正十四年.
(4) 片山廣子『燈火節』をめぐって. 四十九歳. 三月、長 男 ・ 達 吉 、 東 京 帝 国 大 学 法 学 部 政 治 学 科 卒 業 。 ︵一九二七︶. 昭和三十二年 ︵一九五七︶. 片山康子の家族. 三月十九日、死去。. 二. 富田二郎. 七十人歳. 七十九歳. ︵角川文庫︶ 翻訳。. 六月、﹃燈火節﹄ で第三回目本エッセイスト・クラブ賞受賞。 昭和三十一年 ︵一九五六︶ 九月、シングの. 昭和二年. 脳溢血により病臥。. 五十一歳. ﹃海に行く騎車他一篇﹄. 六月末、 堀 辰 雄 の 案 内 で 芥 川 が 廣 子 の 自 宅 を 訪 れ る 。 五十歳. 七月二十 四 日 、 芥 川 、 服 毒 自 殺 。 昭和三年︵ 一 九 二 八 ︶ ︵一九二九︶. 十月、渡 辺 と め 子 ら と と も に 文 芸 雑 誌 ﹃ 火 の 鳥 ﹄ 創 刊 。 昭和四年. 七月二十八日、急性腹膜炎により二ケ月間、寝たきりの状態になる。. 父. 1. に小説﹁聖家族﹂を発表。廣子、芥川、長女・. 五十二歳. ﹃改造﹄. ︵一九三〇︶. 十一月、 堀 が. 昭和五年. 五十三歳. 総子、堀 自 身 が 作 品 の モ デ ル と な っ て い る 。 ︵一九三一︶. 夫. 貞次郎. ︵一人七一︶一月十四日生まれである。明治二十九年. ︵一人九九︶廣子が二十一歳の時に結婚する。. ︵一. 東京帝国大学法科大学を卒業し、大蔵省に勤務するエリートであっ. ︵一九. 三月十四日、四十九歳で尿毒症を併発し病死した。この時、廣子は四. 十二歳、長男・達吉は十九歳、そして長女・繚子は十二歳であった。. 二〇︶. 書役、計算局長、文書局長を歴任する。長く腎臓病を患い、大正九年. 明治三十人年︵一九〇五︶ 日本銀行調査役に就任する。以後、調査局長、秘. 明治三十六年︵一九〇三︶腎臓を患い、大蔵省司計局司計課長を退官する。. た。明治三十二年. 人九六︶. された。明治四年. 越夫がいた。三人の妹は器量がよく、当時の婦人雑誌のグラビアに度々紹介. 郎の父は上京し造幣局に勤務した。貞次郎の兄は夫逝し、三人の妹と末の弟・. 貞次郎の両親はもともと越後の人で造り酒屋を営んでいた。その後、貞次. 2. 0 えよ、つ。. り、聖書の教えや英文学の講義が英語でなされていたという。廣子がアイル ランド文学を翻訳する素地は、彼女の少女時代に醸成されたものであるとい. 廣子は東洋英和女学校に通う。東洋英和女学校はミッションスクールであ. 洋の香りがする家に育ったのである。. 応接間とお手洗いが建て増しされたものだったという。廣子は少女時代、西. されたものとなっていた。もともと旗本の古くて広い家を改築し、西洋風の. 吉田二郎は、若い頃長崎への留学経験があり、ロンドン領事やニューヨー ク領事を務めた外交官である。廣子の生家は父親の外国暮らしの経験が生か. 昭和六年. の筆名は翻訳作品の再録を除いては用い. 六十六歳. 六十一歳. この年以 降 、 ﹁ 桧 村 み ね 子 ﹂ ︵一九三九︶. られなく な っ て い る 。 昭和十四年. ︵一九四四︶. 五月、母 死 去 。 昭和十九年. に家を求めて転居。. 刊行. ︵下高井戸四−九六五︶. 六十七歳. 六月、東 京 杉 並 区 浜 田 山 ︵一九四五︶. を刊行。. ︵岩波少年文庫44︶. 七十歳. 六十九歳. 三月二十 四 日 、 長 男 ・ 達 吉 、 死 去 。 四 十 四 歳 。. 昭和二十年. ︵一九四七︶. 弟・吉田 東 作 、 死 去 。 昭和二十二年. ︵一九四七︶. 妹・上田 次 子 、 死 去 。 昭和二十七年. 十月、﹃ カ ッ パ の ク ー ﹄. 七十五歳. ︵暮しの手帖社︶. 五月三十 日 、 堀 辰 雄 死 去 。. 昭和二十八 年 ︵ 一 九 五 三 ︶ 六月、﹃燈 火 節 ﹄. 七十六歳 ︵第二書房︶. 七十七歳. を刊行。. ﹃鷹の井戸﹄を翻訳︵角川文庫︶。 ︵一九五四︶. 十二月、 イ ェ ー ツ の 昭和二十九年. ︵一九五五︶. 一月、短 歌 集 ﹃ 野 に 住 み て ﹄. 昭和三十年.
(5) 佐 野 比呂己. 3. 長男. 達吉. 達吉は、一中、一高、東京帝国大学法文学部に進んだ秀才である。川崎第 に参加。後に第一. 大正十四年︵一九二五︶ 三月の ﹃明星﹄. に芥川は ﹁越びと﹂と題して二十. ﹁三十七 越し人﹂ の中に次. 五首の旋頭歌を発表している。廣子への思いをそこに見ることができる。芥. 川が久米正雄に託した遺稿﹃或阿呆の一生﹄ の. ﹃山繭﹄. 百銀行に勤める傍ら、吉村鉄太郎のペンネームで. のような記述が見られる。. ﹃文学﹄を創刊、同人として執筆を続けた。. 彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、﹁越し人﹂等の. 書房において堀辰雄、川端康成、横光利一、犬養健、永井龍男、深田久弥と 元来、病弱であり、心臓病を患い、昭和二十年︵一九四五︶三月二十四日、. 終戦を待たずして母・廣子より先に病死する。四十四歳の時であっち. 何かは道におちざらん. かがやかしい雷を落すやうに切ない心もちのするものだつた。. 抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍った、. 4 長女 組子 繚子は幼稚園から聖心女学院に通ういわゆる典型的なお嬢様育ちであっ. 惜しむは君が名のみとよ. わが名はいかで惜しむべき. 風に舞ひたるすげ笠の. た。結婚前には茶道で得た﹁宗瑛﹂の名をペンネームとして、同じく﹃文学﹄ に筆を執った時期があった。﹃狐﹄ ﹃空に遊ぶ獣の子ら﹄ ﹃無為﹄ ﹃プロテウス. 芥川にとって廣子は単なる恋人ではなく、畏敬の念を起こさせる精神的な恋 廣子の自宅を訪れたという。. 芥川のいう﹁才力の上にも格闘出来る女﹂というのが廣子にあたるという。. の倒影﹄などの異郷、野性に着目し、想像力によって非日常の世界を創出す る短編に特徴を発揮したとい、も結婚相手は兄・達吉の友人の一人であった 山田秀三である。達吉とは一中、一高、東京帝国大学法文学部と同窓であっ. 人であったことをうかがわせる。自殺する一ケ月前、芥川は堀辰雄の案内で に退官した。. までつとめ、その後は相談役. ︵一九四六︶. た。山田は農商務省の役人であり、資源局、企画局、仙台鉱山監督局長、内 ︵一九七九︶. 閣調査官などを歴 任 し 、 終 戦 直 後 の 昭 和 二 十 一 年 北海道曹達の会長 を 昭 和 五 十 四 年. の家﹄. で始まるが、ここでいう死とは、芥川の自殺を契機としているといわ. ﹃美しい村﹄ ﹃菜穂子﹄といった作品群には、いずれも廣子母娘らしき. ルが芥川と堀であるというのである。﹃ルウペンスの偽画﹄ ﹃物語の女﹄ ﹃檎. れている。モデルの母娘は廣子母娘であり、主人公と師弟関係にあったモデ. た。﹂. 堀の出世作﹁聖家族﹂は、﹁死があたかも一つの季節を開いたかのようだっ. ある。. い交流があり、長女・繚子に対してはかなりの好感を抱いていたという。二 人の関係については当時の文壇においても話題にのぼっていたということで. 軽井沢で廣子らと出会った後、廣子の長男・達吉とは文学仲間としての深. たが、廣子のみならず片山家との親交は堀の生涯を通じて続くことになる。. 前述の芥川の項でも、芥川の自殺直前に廣子の自宅に案内したことを記し. 廣子が堀辰雄と初めて会ったのは大正十三年︵一九二四︶ 八月、軽井沢の. 堀辰雄. 2. には藍綬褒章を受章した。金田一京. 3. をつとめた。昭和 四 十 一 年 ︵ 一 九 六 六 ︶. などを出版している。. 七月、芥川との交流が始まる。避暑のために出か. ︵一九五七︶︶. つるや旅館だったという。. 昭和三十二年. 助の薫陶を受けユーカラの研究をし、地名研究家としても知られている。仙 台在住時に奇妙な地名が多いのに興味を持ち、やがて ﹃東北と北海道のアイ ︵檎書房. ︵一九二四︶. 片山康子の交友関係. 芥川龍之介. 三. ヌ語地名考﹄. 1 大正十三年. けた軽井沢での宿泊先﹁つるや旅館﹂は文士たちがよく逗留する所であり、 芥川もたまたま同宿していたことが機縁である。芥川三十二歳、慶子四十六 歳の時であった。芥川は廣子の聡明さに惹かれ、二人はひんばんに手紙のや りとりをしている。この時、既に夫・貞次郎が病死して四年の歳月が過ぎて いた。.
(6) 片山廣子『燈火節』をめぐって. 片山康子への評価. 歌人・片山康 子. 四. 人物がモデルとな っ て い る と い う 共 通 性 が う か が え る 。. 1. 年譜に示した通り、廣子が短歌の世界に入ったのは、東洋英和女学校を卒 業した明治二十九 年 ︵ 一 人 六 九 ︶ 、 十 人 歳 の 時 で あ る 。 ︰・︰・. 学校を出てから私は佐々木信綱先生の神田小川町のお宅まで歌のおけい こや源氏物 語 の お 講 義 を 伺 ふ た め 一 週 一 度 づ つ 通 つ た 。. 東洋英和女学校の同級生で、寄宿舎も一緒だった新見かよ子と佐佐木信綱 明治三十一年. ︵一人七一︶一月、その竹柏会を中心にした雑誌﹃こころの. の竹柏会に入った 。. に次々と発表していく。当時、﹃心の花﹄. は短歌. 華﹄︵後に﹃心の花﹄と改題︶が創刊される。廣子は、短歌のみならず、評論、 随筆、詩までも、 ﹃ 心 の 花 ﹄. という形で歌集を. に限らない総合文芸誌の性格が強く、正岡子規、伊藤左千夫、坪内避遥、森 鴎外といった一流 の 文 学 者 た ち が 執 筆 、 寄 稿 し て い る 。 ﹃心の花叢書﹄. から歌集を出している。大正五年. と並行する形で. ﹃心の花叢書﹄. ﹃心の花﹄. て、詩人の寂しく大なる城を再び築かばや!1. 詩的ともいえる言葉でノグチは、﹁昔の歌﹂は既に﹁灰煙﹂となり、今私. たちは﹁廃墟の上に新しき歌を再び築﹂かなければならないという。最後の. となっている。ノグチにとって. 一節はJbe−ieくeyOut00StandupOntFeruins−Oneandsad㌧一︵ 君も亦寂しく悲しき廃墟の上に立てりと。︶. 廣子は言葉の革新を目指す同志として認識されていることがわかる。すでに アイルランド文学の翻訳を手がけていた廣子の繰り出す言葉にもノグチは期 待していたとみることもできよう。. ノグチの文章の後に、廣子の師でもある佐佐木信綱の文章が続く。信綱は. その中で廣子が語った言葉として、次のような言葉を書きとめている。. ﹁自分の歌は、たくみを捨てて、事物をありのままで感じたものであり. たい。そして其感じを普通の人と共に分つものでありたい。其ためには、. 美しい狭い詩歌の境を未練気なく離れなければならない。これが自分の. 近頃切に感じてゐる鮎である。併しながら、この薪翠の歌の中には、現 在のこの見地を目標として見れば、捨てなければならないものも澤山あ. る。それを捨てなかつたのは、たとへ多少のたくみの交つた作であつて も、狂熟と理智との争の濃き陰影を印して居る鮎に於いて、最も強く自 分を現はしたもので、自分の身の半身の如くなつかしく思はれたからで. 竹柏会は雑誌 出していた。廣子 も. ︵一九. 一六︶三月、三十人歳のとき、三〇〇首の歌を収めた﹃薪翠﹄︵竹相会出版部︶. の一片、新しき道にいづる記念﹂. ある。覚めんとして覚め得ざる心の姿、真面目なる女の内的生活の記録. の序には、ヨネ・ノグチと佐佐木信綱の文章が掲載されている。. ﹁美しい狭い詩歌の境﹂を離れようとする廣子の歌を、芥川は ﹁唖苦陀﹂. がそれにあたる。 ﹃薪翠﹄. と署名した書評の中で﹁まだ幼稚である﹂としながらも、次のように評価す. ヨネ・ノグチは野口米次郎のことで、当時アメリカ、イギリスで英詩集を 出版し、英詩人としても評価されていた人物である。ノグチの英文と日本文. この作者は、序で佐佐木信綱氏も云つてゐる様に在来の境地を離れて、. る。. 心揚りよろこびを以て吾が常に歌ひしむかしの歌は今いどこにある7・. 一歩を新しい路に投じ様としてゐる。︵中略︶ 易きを去って難きに就い. の二つの序が巻頭 を 飾 る 。. 今吾は灰煙となれる廃墟なり。火災と共に吾が第三期は始まりぬ。. たと云ふ事は、少くとも作者自身にとつて、意味のある事に相違ない。 此処に存するのではないかと思ふ。. 君も亦君が生 の 第 三 期 に 入 り し と 吾 は 信 ず 。. 哀愁と傷痍より生れいでたる色彩と認識とを以. そして同時にまたこの歌集が、他の心の花叢書と撰を異じする所には、. −. 終局の破滅に急ぐは現代の特色なり。ああ、吾が心の廃墟の上に新しき 歌を再び築かばや.
(7) 佐 野 比呂己. 従来の詩歌の枠 を 超 え よ う と す る 廣 子 の 歌 集 を 評 価 す る の で あ る 。 しかし、﹃薪翠 ﹄. 戦後をりをりに発表された片山廣子夫人のお歌を、そのをりをりに読ん. でゐました。豊かな、まぎれもない美しい精神の歌でしたから︵宮柊二︶. 片山さんは潔癖幽聾で夫のかつぎやの如く棒手振のやうな歌商人どもと. の歌壇的評価は今一つであった。竹柏会の仲間たちの評 8. の短歌史的位置づけを. 以後の四人四首. アイルランド文学翻訳家・松村みね子. ﹃野に住みて﹄. におい. 廣子はアイルランド文学の翻訳家として、﹁桧村みね子﹂という筆名を使っ. すと、可愛い娘さんが居らしつてその方の雨傘に桧村みね子と書いてあ. 必要がございましてあれかこれかと苦心して居りました時電車に乗りま. 夫人の匿名の由来を尋ねると﹁あれでございますか、夫はある時匿名の. ている。その由来は次の通りである。. 2. て、実現したことを示しているといえよう。. 通の人と共に分つものでありたい﹂という詩歌の形を. くみを捨てて事物をありのままで感じたものでありたい。そして其感じを普. ﹃薪翠﹄刊行の際、佐佐木信綱が廣子の言として記した ﹁自分の歌は、た. て固定しないみづみづしさがある。. きも枯淡となつてよき意味の老境の文学となつてゐる。それでゐて決し. のであらうか。技術と人間性とが一になつてしまつたとも言へる。さう して人間性といふ点から言へば、感情の鋭さも抑へられ、知性のひらめ. な詞と日常的な素材によつて淡々と歌いこなされてゐる、それでゐて読 んで深い感動を覚えたのは、技術を越えた人間性の深さにあると言へる. がないのではなく、技術を通りこしたといふ意味である。︵中略︶ 平易. 私には技術を越えた作品であると感じた。技術を越えたといふのは技術. 者・久桧潜一も次のように称賛する。. この歌集に対し、いずれも高く評価していることがわかる。また、国文学. 一級の女流歌人たらしめたのである ︵川田順︶. 作歌の実力と、深い教養と、永年の孤独な竜とが、片山さんを現代第. 示すものである。︵日夏秋之介︶. 価は、﹁称賛よりもつよく、戸惑いや驚きを吐露﹂するものであけた。佐佐 の読みはどうもうまく行って﹂おらず、﹁同時代にいい. 鋭く対立して来られた、⋮⋮此度の歌集は現代純粋短歌の芸術の高さを. ﹁この時代、﹃ 薪 翠 ﹄. 木幸綱によれば廣子にとって﹁期待していた評価が得られなかった﹂という。. であるとし、佐佐木幸綱は廣子の短歌の再. は、近代短歌史のなかできわだった特色をもっ. 読者とめぐりあえなかった歌集﹂ 0. 評価をのぞんでいも 彼女の第一歌 集 ﹃ 薪 翠 ﹄ が早く、社会的な而での日本女性. ﹃みだれ髪﹄. かにはない 。 輿 謝 野 晶 子 が社会的なら、﹃薪翠﹄. ている。哲学的な主題を正面から歌った女性歌人は、この歌集以前にほ の新しい青 春 を 表 現 し た 。 ﹃ み だ れ 髪 ﹄ ﹃茹翠﹄. は女性の. 内面的な世界 を 表 現 し た 。 こ の あ た り の ふくめて、 廣 子 の 評 価 は 定 ま っ て い な い 。. 廣子は、﹃薪翠﹄刊行後、短歌から遠ざかり、アイルランド文学の翻訳の. ︵一九五四︶一月、七十六歳の時に、﹃薪翠﹄. 第二歌集が出るのは、﹃薪翠﹄刊行から二十六年の歳月を経ることになる。. 仕事に力を入れる よ う に な る 。 昭和二十九年. を上梓する。夫の死、芥川との出. ﹃野に住みて﹄. ︵第二書房︶. の歌を集めた. 会いと別れ、戦争、息子の死、そして一人暮らしの生活と、それぞれの時代 の心境が静諸に、 時 に は ユ ー モ ア を 込 め た 歌 が 集 め ら れ て い る 。 帯文には室生犀 星 の 言 葉 が 次 の よ う に 記 さ れ て い る 。. 片山さんの人がらは、いつもおつとりしてゐて、のびやかです。戦争時 分軽井沢でずゐぶんしたしくしてゐましたが、ああいふときでものびの したが、さういふ気色にも片山さんは片山さんを失つてゐませんでした。. びしてゐてこの人がお砂糖を百円だけ頒けてくれといひ、頒けて上げま 歌は全部よんでゐませんが、片山景色はきつとどこまでも片山景色なの でせう。安 心 し て よ め る と 思 ひ ま す 。 刊行にあたって は 、 次 の よ う な 推 薦 の 言 葉 が 寄 せ ら れ て い る 。.
(8) 片山廣子『燈火節』をめぐって. ったのが如 何 に も 気 に 入 っ た か ら で ご ざ い ま す ﹂. この匿名が必要な時と. 云ふのは夫人が大正二年に三越の懸賞小説に応募して一等三百円の桂冠 を得た時の事 で あ ち. アイルランド文学の翻訳に力を入れるきっかけについて、廣子自らが記し た年譜によれば、 次 の 通 り で あ る 。. 私はこれまで多くの人が多くの西洋脚本を諾したのを謹みました。所. 謂名を成した人の謹もあります。又若い盛んな人で、﹁誤謬なんぞは一. つも無い積ですが﹂などと云ふ鰯込の本もあります。それを謹みつつ、. いつも心の内で﹁まづいなあ﹂と思ふのです。﹁おれならこうは書かない﹂. ﹁まづいなあ﹂を出せな. と思ふのです。さう思つて謹むのが私の癖になつてゐます。. 然るに此本はどこまで謹んで行っても、その. いのです。とう︿出させずじまひになつて、LadyCice−yのHOW 大正五年. escapeを得ずに、此の本に捕らへられてしまつたのです。. で西洋近代詩を紹介したこと. 巴OriOuS一AndwFatanescape一に到着しました。そして私はその. もとに初めてアイルランド文学に親しみ、爾来桧村みね子の名を以て翻. で知られる上田敏も次のように絶賛している。. 海外文壇の新風を紹介し、訳詩集﹃海潮音﹄. 歌集﹁薪翠﹂を出版。同年ごろより鈴木大拙夫人ビアトリス女史指導の 訳を事とし、次第に歌から離れち ︵一九一六︶、鈴木大拙夫. ショオ一流の声音符号で現はした点にある。限からのみで無く、耳から. 間々ある。加之、方言や俗語ならそれぞれの手段もあつて、却って理解 に苫まないが此曲中の難処は、普通の英語を妙に託つて発音する所を. は、多少英語に慣れた人でも、一寸考直すほど、意味の解しにくい所が. の物言振を翻訳し得る人は、さう多数は居ないからだ。原書を読んだ者. 正しく且つ巧に、曲中の倫敦批、蘇格蘭風の発音、または英国上流社会. あるまい。併しそれは全く異ふ他の原因から来るので、つまり夫人ほど. らうと言はれたのには同意し難い。成程この曲の翻訳を試みる者は一寸. 末にある夫人の謙辞中これをショオの作中での大あまものとしてあるの には、少し異議もあるし、且つその為に恐らく翻訳の労を執る人は無か. 今回はショオの ﹁キャプテン・ブラスバウンド﹂を翻訳になつた。巻. であらう。自国の詩文を充分によく味はへる人が訳したからだ。. タゴオアの抒情詩抄訳を見て、更に敬服の度を加へた。この翻訳は詩人 タゴオアの最も早い紹介の一つだが、同時にまた最も永く残るべきもの. 翻訳の後に潜む非凡の読書力といひ、奥床しい事だと思つてゐるうち、. 桧村夫人の翻訳振には、さきに此誌上で、レデエ・グレゴリイの ﹁満. 月﹂を読んだ時、感服して了つた。愛蘭風の英語はあゝ読み砕して、あゝ. 奇しくも第一歌 集 ﹃ 薪 翠 ﹄ を 刊 行 し た 大 正 五 年. 人ビアトリス女史の指導を受けたことに始まも 廣子は、短歌の世界からアイルランド文学翻訳に傾倒していったことに関. いふ形に再現するのが適当であらう、それにしてまづ原曲の選択といひ、. ﹃薪翠﹄を出した前後まで私は歌に熱心であつたやうだが、. して、次のように 理 由 を 述 べ て い る 。 大正五年に. その翌年あたりからだんだん作らなくなつてしまつた。これはちやうど その時分から外囲文学の翻諸に興味をもち始めた焉もあり、また熱情の ない自分の歌が次第にマンネリズムに堕してゆくのに自分ながら不満を 持ったためも あ ら 、 ㌔. 短歌への情熱は、アイルランド文学の翻訳の仕事へと変じていく。廣子の ﹃薪翠﹄とは正反対の手ごたえを廣子は感じる. 翻訳の仕事は高い評価を得ることになる。﹁期待していた評価が得られ﹂ず、 のである。. 歌壇的評価は今一 つ で あ っ た. の名訳で知られる森鴎外は、廣子がバーナード・ショー原作. 当時の廣子のアイルランド文学翻訳の仕事に対する評価をいくつか並べて みよう。 ﹃即興詩人﹄. ﹃船長ブラスパオンドの改宗﹄を翻訳した際、次のように序をつけている。. もよく英語を会得し、且つかういふ場合にはかういふ物言ひが出る筈だ.
(9) 佐 野 比呂己. 8. と、大方初めから見当が付くくらゐ。堪能の人で無いとどんなに努力し て理解しょうとしても、夫人のやうに誤訳無く、且つ原文の調子にしつ くり当厳った 日 本 語 を 用 ゐ る こ と は 出 来 ま い ㌔ はアフリカ批の英語がたくさんまじっ. 苦心をしたという。. ﹁英国大便のグリーンさんの奥様が愛蘭のお生れなので難しい字を二. 三人伝てに伺ひました﹂と自ら言っていっているように、疑問の点は外. 国人のみならず本国の学者や専門家に質問して正確を期す努力もしてい る。その頃、市川三喜が帝大でシングを講じているとあれば研究室に訪 ね、また英文学者の本田増次郎にも訳に目を通してもらっている。日夏. ﹃船長ブ ラ ウ ス バ ン ド の 改 宗 ﹄. ており、難解中の難解といわれていたという。当時の英文学者たちは、この 本が翻訳されたことに驚嘆したそうであも ﹃シェイクスビヤ全集﹄を完訳. 秋之介門下で、イエイツやダグラス・ハイドの優れた翻訳を同人誌に発. この. したことでも知ら れ る 坪 内 避 遥 の 評 価 も 高 い 。. のところにも固有名詞の発音や疑問を礼. すために訪れていたことを、筆者は直接きいている。こうしたところに は、原文の一語一句もゆるがせにしない翻訳者としての忠実な態度が見 える。しかし本国でも未だ発音記号の付いたゲール語の辞典の刊行され. 表していた燕石猷︵岸野知雄︶. 何の凝滞もなく、晦渋もなく、さら︿と理解もされ、同情もされ、と. ていない頃であり、日本に滞在していたアイルランド人も少く、新分野. たび︿お手馴れの愛蘭土物の事とて、更にあぶなげなく、諸に面白. ころぐは、これは、つい此頃、東京近在で起った事ではないかとさへ. の仕事の真には、多くの困難があったことであろ、㌔. く拝見いたしました。読みにくゝ訳しにくい筈の原文が、お訳によると、. も思はれます。方言本位の、異国情調の原作を、これほどまでにおこし なされた御苦心の程をお察し申し上げます。殊に、平素上品な言葉づか. 外交官の娘として育ち、幼少の噴から東洋英和女学校で学んだ英語の力を. は暮しの手帖社から昭和二十八年︵一九五三︶. 燈火節とは. いばかりを主となされる御婦人のお筆で、下等社会の口吻や情味を、こ. 五. 基礎としてはいるものの、それだけではなく、努力を惜しまない姿勢の所産 が廣子の翻訳となっているといえよう。. 0 服いたしまし た 。. ﹁閏秀文壇唯一の翻訳家﹂と題したインタビュー記事を執筆. ﹃燈火節﹄. の設立者であ. り、編集者・グラフィックデザイナーである花森安治氏によるものである。 次にある随筆四十七編と短歌﹁林檎のうた﹂十首が収載されている。. 四六版上製二八〇頁からなる。装本は生活雑誌﹃暮しの手帖﹄. に刊行された。. れほどまでにお写しなされたは、並大抵のお骨折ではなかつたことゝ感. 廣子について. した菊池寛も、廣 子 の 仕 事 に 対 し て 絶 大 な る 信 頼 を 寄 せ て い る 。 詳者松村みね子さんは日本の文壇で自分の尊敬し得る少数の翻諾者の. 一人である。そして自分と同じく愛蘭文学の愛好者である。従って、そ の翻諾は、愛蘭文学に対する愛から生れた良心的な仕事である。桧村さ ﹁プレイポイ﹂を詳される時に、絶大の苦心をせられたこ. 或る囲のこよみ. んはシング の. れと同程度の苦心をせられただらうと思ふ。三一口一句の末までも、信頼. とを自分は知つて居る。恐らく、ダンセニイを詳せらるゝに就ても、そ. 濱田山の話 ばらの花五つ. 三本の尭. 季節の攣るごとに 燈火節. して謹むことが出来る様に思も 廣子の翻訳はかなりの水準にあったことがわかる。しかし、廣子の翻訳し た作品はアイルランド方言が縦横に出てくるものが多く、翻訳にはかなりの.
(10) 片山廣子『燈火節』をめぐって. 仔猫の. 豚肉. りんご. ﹁ト ラ ﹂. 桃. 鷹の井戸 イエスとペテロ. 大へび小へび. 赤とピンクの世界. 買食ひ. 入浴. あけび. 乾あんず. たんざくの客. 池を掘る. 菊池さんのおもひで. 東北の家. 子供の言葉. 軽井澤の夏と秋. 古い博説. コーヒー五 千 円. 北極星. た際には、﹁キャンドルマス﹂というルビが附されている。一方、タイトル にはルビが附されていない。他の随筆についてもタイトルにルビが附されて. 書名の燈火節とはどのような意味があるのだろうか。原典には、同名の随 筆﹁燈火取いが所収されている。この随筆に燈火節という語が初めて登場し. よめいり荷 物 アラン島 ミケル祭の 聖 者. いるものは皆無のため、タイトルを ﹁とうかせつ﹂と読むのか、﹁キャンド. 偏頗の歴史 身についたも の. ルマス﹂と読むのかは不明である。ただし、本文中の燈火節ついては全て﹁キャ. 地山謙. 二人の女歌 人. ンドルマス﹂と読んでもいいだろう。. 徒歩 ﹁子猫ノハ ナ シ ﹂ トイレット. ﹁燈火節﹂という語は ﹃日本国語大辞典﹄ にも ﹃広辞苑﹄ にも見当たらな ヽ一 〇 ト∨ 一方、ルビの ﹁キャンドルマスcand−emas﹂を手持ちの英和辞典で引くと. ともしい日の 記 念 まどはしの四 月. 聖燭祭、︵英国国教会で︶ 被献日2月2日。. ローマーカトリック教で、二月二日に行なわれる祝祭。キリスト. ﹃日本国語大辞典﹄ で引くと、次のように記されている。. ︵カトリックで︶. 次のように記されている。. ︹名︺. ﹁聖燭祭﹂を. [名]. 過去となつた ア イ ル ラ ン ド 文 学 花屋の窓 燃える電車 四つの市 ﹁王の玄関 ﹂ イ ェ ー ツ 戯 曲 お嬢さん 掬摸と泥棒た ち 茄子畑. 名づけられた。︽季・冬︾. 降誕後四〇日日に、聖母マリアが産後の汚れの清めの式を受け、キリス トを神殿にささげた日で、ミサの前に蝋燭の行列が行なわれることから. L氏殺人事 件 林檎のうた その他もろも ろ.
(11) 佐 野 比呂己. 本文中にも次の よ う な 記 述 が あ る 。. 今日辟書で探してみると、燈火節二月二日、膏故にては、この日に蝋燭 り、とあつた 。 のことであり、もともとローマ・カトリック. 行列をなし、一年中に用ひる蝋燭を祓ひ清むる風習あるを以てこの名あ. ﹁燈火節﹂と は 、 ﹁ 聖 燭 祭 ﹂ 教で聖母マリアの清めの式を祝う日であり、ミサの前に蝋燭行列を行ない、 蝋燭を清める日であったようである。それが二月二日にあたるのである。. 六 の. ﹁あとがき﹂. ﹃燈火節﹄出版の経緯. ﹃燈火節﹄ ている。. に、この随筆集を出版するまでの経過が記され. もう二十何年か前、昭和の初めごろ、私は急に自分の生活に疲れを感. じて何もかもいやになつてしまつた。それまで少しは本も読み、文撃婦 人といふやうな奇妙なよび名もつけられてゐたけれど、そんな事ともす. 義理で人を訪ねるときには、それまでのやうに銀座まで行って長門や菊 のやでおみやげを買ふやうなこともなくなつて、大森駅の前にあつたフ. つかり緑をきつて、ぽんやりと庭の草取りなぞして日を暮すやうになつ た。文筆の仕事ばかりでなく、外に出ることも面倒になり、やむを得ぬ. 聖女ブリジットの物語で、彼女は二月に生れた人で、古いゲエルの習慣. ランス屋といふ洋菓子屋の菓子折を持って出かけた。何年かのさういふ. の出版が昭和二十八年︵一九五三︶ だから、昭和二年︵一九二. では、聖ブリジットの日に春が来ると言つて、ちやうどこの燈火節の日. ﹃燈火節﹄. 生活は精神的な脳溢血の病人みたいな容体であつたかと息はれる。. は、古くからのアイルランドの習慣であり、春を迎える聖女ブ. から昭和六年 ︵一九五一︶ にかけてのどこかで廣子は ﹁急に自分の生活. 七︶. ﹁濱 ﹁温い火の聖. ︵一九一人︶、夫・貞次郎との死別が大正九年︵一九二〇︶、芥川の自殺が昭. 自身の大病、夫の病死、芥川の自殺の ﹁三段構え﹂により、彼女の精神世 界にダメージを受けたとしている。廣子が大病の長患いをしたのは大正七年. 容になったのであろう。﹁みなぎる力﹂がなければ﹁うつろ﹂は必要で 4 はなく、すべての文学活動から離れたのは当然の結果である。. 自身の大病、夫の病死、芥川の自殺は三段構えで廣子の精神世界にダ メージを与えてしまった。三段構えで﹁夢想﹂ の世界から彼女を引き離 してしまったのである。﹁みなぎる力﹂はもうどこにも廣子の体内には 残っておらず、それが﹁精神的な脳溢血の病人みたいな容体﹂という形. に陥った原因について、林田弘美は次のように述べ. リジットの祝祭で あ る と し て い る 。. ﹁二月の美しい女﹂. 血の病人みたいな容体﹂ ている。. に疲れを感じて何もかもいやになつてしまつた﹂ のであろう。廣子が﹁急に 自分の生活に疲れを感じて何もかもいやになつてしま﹂ い、﹁精神的な脳溢. を抱いたことは想 像 す る に 難 く は な い 。. 子の生まれ月でもある。廣子が﹁二月の美しい女﹂聖女ブリジットに親近感. 廣子は、聖女ブリジットが二月生まれであることにこだわり、この随筆の 中で ﹁二月﹂という語を実に十二箇所にわたって使用している。二月は、廣. 女ブリード﹂﹁濱遽の聖女ブリード﹂と三つの名を挙げてゐも. 遽の聖女 ブ リ ジ ッ ト ﹂ と い ふ 文 で は. ヽヽ 名づけた、火箭といふ名である。﹂またフィオナ・マクラオドの. じめに﹁ブリジットは春の初めの日の目の出る時に生れた。母はコン ノートの奴脾であつた。天の便が彼女に洗砥をさづけてブリジットと. ﹁ゲエルのマリヤなるブリジット﹂といふグレゴリイ婦人の博説のは. 聖女ブリジットについて、﹁蝋燭だけではなく ︵中略︶ すべての火を守る 8 守護神﹂ であるとし、その伝説を引用し、廣子は次のように解説を加える。. ﹁燈火節﹂. に春を迎へ る 祀 ひ を し た も の ら し い. 廣子のいう﹁燈 火 節 ﹂ は 、 ロ ー マ ・ カ ト リ ッ ク の も の で は な い 。. 0 4. 10.
(12) 片山廣子『燈火節』をめぐって. 和二年︵一九二七 ︶ である。. である。そして松村みね子の筆名で再録を除いては見ら. ると大攣に面白さうな事ばかしで、自分がそれにぶつかると何もかもが. ︵一九三一︶. に大病を患った際、廣子は. の取材の際、記者の. ﹁桧村みね子と云ふ表札をお出しになつては⋮⋮﹂とい. 二度めの大病を患う二年前の昭和二年 ︵一九二七︶ 十一月の ﹃読売新聞﹄. 見ることができる。. いやにな﹂り、﹁精神的な脳溢血の病人みたいな容体﹂ になる原因をそこに. おそらく二度めの大病の際には、もう﹁何かして見たかつた﹂という思い は小さくなっているだろう。正に﹁急に自分の生活に疲れを感じて何もかも. 4 た。. つまらない物になつて来た。何もしたくなくなつた、それでゐて何かし て見たかつた。あゝつまらない。自分は年をとつたのだと彼女は思つ. る。 堀辰雄﹁聖家族﹂を﹃改造﹄. に発表。. 急性腹膜炎により二ケ月の間、寝たきりにな. に昭和六年までの間に、次の二つの事項が加わるのであ. ︵一九二九︶. ﹁三段構 え ﹂. れなくなったのが 昭 和 六 年 この 7∂○. ・昭和四年 ・昭和五年 ︵ 一 九 三 〇 ︶. ︵一九一人︶. 現在においても死亡率が高く緊急手術を要する急性腹膜炎は廣子にとっ て、二度めの大病 と な る 。 大 正 七 年. その心境を次のように述べている。. う問いかけに対し﹁どういたしまして、もう翻訳の松村みね子は、年をとつ たので廃業しやうかと思つてゐます﹂と答えていも二度めの大病により、 自分自身がさらに﹁年をとった﹂という実感は、五十を過ぎた廣子にとって. 昭和五年︵一九三〇︶、堀辰雄は﹁聖家族﹂を発表する。廣子、芥川、長女・. 増幅されていったことだろう。. 込んで、彼女のたましひがあくびをした。何が来るか、何が来るか、彼. ほんとに彼女の魂はあくびをしてゐた。激しい生活の中途で初めて輿 へられた休息の時に彼女はもうそれっきり進む気もなくぼんやりと座り 女は何か来るものを恐れた、そして何も来ないことが悲しかつた。しん. の結婚話がみんなこわれてしまったと言いに来た. たことであろう。江藤淳はこのことについて次のように述べている。. 娘・繚子︵宗瑛︶ の結婚話をこわしてしまう堀には母である廣子も迷惑し. 4. た雰囲気の中に二人がいるかのようにして見せる。そのためにわたくし. わざと来る。そこに雑誌社の記者なんかがいると、あたかも何かそういっ. 宗瑛さんがぼくのところに来て堀辰雄という人は非常に卑怯な悪い奴だ と言う。軽井沢でのことだが、道で馬車などが来ると自分がよける側へ. の中で、次のように語っている。. 一︵司会︶、中野重治、中村真一郎との ﹁堀辰雄の人と文学﹂という座談会. 立場として母親として苦しむのである。私生活における堀の繚子への恋人気 4 取りの言動は廣子と繚子に﹁激しい嫌悪感﹂を抱かせる。丸岡明は、吉田精. 繚子、堀をモデルとした ﹁聖家族﹂は廣子を強く悩ませたであろう。廣子自 身と芥川との関係を示唆するものであることはもちろん、適齢期の娘を持つ. まで疲れ切った彼女は刺戟と興奮を待ち望んでゐた。雨も風も降るまに. ︿吹くまに/ゝ ここでいう﹁彼女﹂とは廣子自身のことである。一度目の大病の際は ﹁刺 戟と興奮﹂を待ち望んでいたかも知れないが、二度めの大病でも同様な心持 ちを持てるだろうか。一度目の大病の際は、夫・貞次郎もいた。さらに長男・ 達吉も長女・繚子もまだ十代であった。さらに自分自身も四十歳になったば かりである。しかし、二度めの大病は廣子にとってもっと重い意味を持つ。 夫は既に病死し、精神的な恋人であった芥川も自殺、しかも二度めの大病で 寝たきりの状態である。五十を越えた廣子は、﹁それっきり進む気もなくぼ んやりと座り込んで、彼女のたましひがあくびをした﹂どころか、その魂は すっかり萎えてしまったことと推測される。廣子は一度目の大病の際、次の ようにも述べている。 世間の辛がすっかり違った色に映つて来た。何でもかでも遠くから見. 11.
(13) 佐 野 比呂己. や﹁文学﹂. の同人を手土産を持っ. たがしかし、本は時々買つて来てくれた。. 長男・達吉の母・廣子への優しさが満ち溢れている。気力を失っている廣. 私はあるとき、片山廣子が﹁山繭﹂ て歴訪し、堀辰雄と娘繚子とのあいだには、﹁本当に何もないのだ﹂と 釈明して歩いたという話を、当時の同人の直話として聞いたことがある。. 子に対して達吉はさまざまな提案をする。草取りは草取り婆さんに頼むこと、. 読書すること、映画をみること、随筆を書くことを勧めたのは、達吉である. のも達吉である。達吉. ことがわかる。廣子が易を信じていることから、﹁笠竹や算木を買つて来て、. のあたたかな心遣いは、当時の廣子にとって ﹁精神的な脳溢血﹂を癒すもの. 自分で易を立てる稽古をするやうにすすめてくれた﹂ であったに相違ない。. ﹁あとがき﹂を読み進めていく。. ﹁精神的な脳溢血の病人みたいな容体﹂から脱却するのは、戦. て書いてみた。おぼえ書きといふやうな﹁忘れられたアイルランド文筆﹂. 心も休もひまな私は虫ぽしの本を机に並べて随筆みたいなものを初め. て久しい心のふるさとのにほひを嘆ぐやうな感じを持った。. もう一度東京生活をするやうになつて、空襲よけにせがれの家の庭に 埋めて置いた本なぞがそろそろ届けられて来た。しめつてかびた本もあ ったけれど、それを乾したり風をとほしたりしてゐるうちに、私はたえ. れ、かなしい古都のけしきであつた。. 京の野つばらにぽつぽつ小屋が立ってゐて、洗濯ものが白く日光に乾さ. しも苦しい息ひはしないで東京に掃って来ることが出来た。そのとき東. 軽井澤で私は終戦を迎へた。なじみ深い宿屋の生活であつたから、少. 後になってからである。さらに. 廣子がこの. 4. ﹁にくしみ﹂と怒りが、母においても娘にいささかも劣るものではなかっ たことを、如実に物語る挿話というべきであろ、㌔ 繚子の結婚した時期についてははっきりしない。小林いづみによれば、﹁昭 8 4. または昭和九. に結婚したと推測される。繚子の年齢は数えで二十七、八と. ︵一九三三︶. 和九年には結婚﹂したということである。宗瑛が筆を折ったのは昭和七年︵一 ︵一九三四︶. 九三二︶末のこと で あ る 。 し た が っ て 、 昭 和 八 年 年. いったところである。当時としては、かなりの晩婚である。廣子が徳子の結 婚について、母として悩んだことは容易に想像できよう。 一度目の大病、夫の死、芥川の自殺、二度めの大病、そして堀の﹁聖家族﹂ の発表という﹁五段構え﹂が、廣子の年をとらせ、﹁文筆の仕事ばかりでなく、 外に出ることも面倒に﹂させ、﹁精神的な脳溢血の病人みたいな容体﹂ にさ せたといえよう。上流階級で育ち、上流の家庭の婦人であった廣子が手土産 を買う際も手近なものですましてしまうというのであるから、状況はかなり 深刻であったことだろう。 廣子の苦悩の姿を見て、長男・達吉は手を差しのべる。﹁あとがき﹂を続 けて読んでいく。 親にしんせつな私のせがれは、草とりは草取り婆さんを頼みなさい。. である。そのつぎに書いた﹁仔猫のトラ﹂といふのはわかい時分に数へ. といふのを書いた。ペンをもつのを忘れてから二十五六年過ぎてのこと. そして毎日少しつつ講書することですね。それから一週間に一度ぐらゐ 映画を見たらどうです? と言ってくれた。私はすぐ草取り婆さんを頼. ったのである。そんなやうに日記みたいなものを並べて私は愉快になつ. イ工−ツが食べものの事ばかり細かく書きならべたのが珍らしく面白か. じみ深い宿屋﹂とは、かつて芥川、堀をはじめ数多くの文人と交流したつる. 昭和二十年︵一九四五︶八月十五日を廣子は疎開先の軽井沢で迎える。﹁な. てゐた。せがれの言葉を息ひ出したからである。. そのつぎは詩人イ工−ツの詩劇﹁王の玄関﹂のただあら筋だけ諾した。. て頂いた鈴木大拙博士夫人の息ひ出であつた。これはたつた三枚のもの。. 日記のやうに毎日. 時々随筆を書いてみたらどうです?. 私は常. むことにして、本は読まず、映画だけ見て歩いた。一人で見るのだから まことにかんたんで、締りにはコーヒイを飲んだりして掃って来た。さ て又せがれが言った、だんだん年寄になると映画をみるのもめんどうに なるでせう?. 何かしら書くことはあります。愉しいことでせうと言った。 随筆なんて、常識のある人か撃間のある人が書くのでせう?. とせがれはしぷい顔をし. 識が足りない人間でまるきり撃はなし、日記はきらいだし、タメですね と断った。それでは営分、映画専門ですか?. 12.
(14) 片山廣子『燈火節』をめぐって. や旅館である。軽 井 沢 へ の 疎 開 を す す め た の も 長 男 ・ 達 吉 で あ っ た 。. 三月二十四日にTが亡くなつた。その二日ばかり前に私は彼と合って. 急に彼に死なれて私は疎開する気も. 一時間ばかり話をした。その時も彼は空襲がだんだんひどくなるから母 さんは早く軽井澤に行った方がよろしい、自分たちもすぐあとから行く からと私を 急 か し て ゐ た 。 ︵ 中 略 ︶. なかつたけれど、それから三月ばかり立つて六月中ばにやつとのこと軽 0 井澤に出かけ て 行 っ た 。. 森の家⋮⋮。廣子にとって、どれもかけがえのないものだっただろう。 廣子がアイルランド文学に郷愁を落としたのはなぜだろうか。そこには﹁あ. りし平和の日﹂を起らせるものがあったからであろう。. 大正のいつごろであつたか、大森新井宿で私はサラリーマンの家の平. ﹁ありし平和の日﹂とは、大森の家で夫・貞次郎、長男・達. 和な生活をしてゐた時分、︵後略︶. 廣子にとって. 吉、長女・繚子とともに、妻として母として生活した日常であり、アイルラ ンド文学の翻訳に情熱を傾けていた日々を指すのだろう。アイルランド文学. ってゐても、別の心は彼が謹んでくれるとかたく信じてゐるのらしい。 ﹁あとがき﹂ には夢でなく、ほんとうの事を言ふつもりでゐながら、や つぱり私はゆめみたいな事を書いてしまつた。. たので、この世界に生きてゐない彼が私の本を読むはづはないとよく解. らすぐ、どうぞお頗ひします、と言った。何千部の本が薫れさうもない といふ事なぞ考へるひまもなく、たつた一冊の本の読者を心に患ってゐ. 時々せがれに呼びかけて相談したりすることもあつた。暮しの手帖社か ら随筆の本を出しませうと言はれたとき、一度はびつくりして、それか. そのをさない文を書いてゐる私の心は、文よりもつとをさないもので、. を書かせる原動力になっているといっていいだろう。 ﹁あとがき﹂ の最後には、長男・達吉への思いが綴られている。. ことはあります。愉しいことでせう﹂という﹁せがれの言葉﹂ が廣子に随筆. たというのである。随筆を書くことに廣子は楽しさを見出したのである。そ れは ﹁時々随筆を書いてみたらどうです? 日記のやうに毎日何かしら書く. めて書いてみた﹂という。細かく書きならべることにおもしろみを感じたり、 ﹁日記みたいなものを並べ﹂ ることによって ﹁愉快﹂な気持ちになったりし. ま大森の家での以前の家族の生活の ﹁にほひ﹂なのである。 そして、廣子は、掘り出された本を並べながら、﹁随筆みたいなものを初. ﹁にほひ﹂はそのま. Tとは長男・達吉を指す。ここでも達吉の母への心遣いがよくわかる。戦. であり、﹁に. もに暮らすのは家政婦のみである。アイルランド文学の. に燃えていた時代こそが、廣子にとって最も幸せな時代だったともいえる。 貞次郎、達吉はともに病死し、繚子は遠く離れてしまった。当時の廣子とと. ことがきっかけである。. 争が終わり、廣子は元気を取り戻す。﹁空襲よけにせがれの家の庭に埋めて 置いた本﹂との触れ合いによって ﹁たえて久しい心のふるさとのにほひを喚 ぐやうな感じを持 っ た ﹂. 私は戦争中の苦しまぎれに詠んでゐた自分の短歌を整理してゐるうち、. ふいと昔なじんだアイルランド文学のにほひを嗅いだ。自分の身に大事 だつた殆ど全部の物を亡くした今の私の郷愁がアイルランド文学の上に 落ちて行くの を 、 吾 な が ら あ は れ に も 感 じ る け れ ど 、 ︵ 後 略 ︶. の味をあじはふやうにその二三の本をよみ返. 馬込の家で空襲中は土の中に埋めて置いた本の中に、むかし私が大切 にしてゐたグレゴリイの博説集も交つてゐた。先だつてその本を届けて 貰つたので、アメリカの探偵小説位しか家に持って来なかつた私は久し ぶりに﹁あ り し 平 和 の 日 ﹂ した。. ここにある﹁馬込の家﹂というのが達吉の家にあたる。﹁あとがき﹂では﹁乾. が廣子の 郷 愁 を 誘 い 、 ﹁ 二 三 の 本 ﹂ を 読 み 返 さ せ る 。. ﹁にほひ﹂. ﹁心のふるさとのにほひ﹂. したり風をとほしたりしてゐるうちに、私はたえて久しい心のふるさとのに ほひを嗅ぐやうな 感 じ を 持 っ た ﹂ と あ る が 、 こ の ほひ﹂. とは、かつて翻訳 に 取 り 組 ん だ ア イ ル ラ ン ド 文 学 の. 廣子は当時の状況を﹁自分の身に大事だつた殆ど全部の物を亡くした﹂と 言っている。夫・貞次郎、長男・達吉、芥川といった人たち、思い出多き大. 13.
(15) 佐 野 比呂己. 廣子はこの世の人ではない達吉に﹁呼びかけて相談したりすることもあつ の中に次のような記述がある。. 廣子は達吉の言葉に対して次のような形でこたえる。. 残るでせう。﹂私は棚の前に坐ってお香をたいた。Tの需眞は若い派手 な顔をしてゐたが、私の心に映るのはそれより四五年もふけて蔽い顔に. た﹂という。﹃燈 火 節 ﹄. 私は眠つたつもりはなかつたが、椅子ですこし眠つたらしい。だれか 側に来たので、限をあげて見た。Tが来たのだつた。いつでも週間の日. ﹁ありがとう。あなたも安心して下さい。私たちの囲はどうにか生き. に着てゐたねずみ色の服で、勤めの蘇りに私の家に寄つて茶の間でお茶. 、つO. 月の初めに生れた彼女を愛するのであら、㌔. は達吉の. 九十日の冬眠から天然自然が目をさまして春が生れる歓びとともに、二. 優しい心遣いに捧げる書であるといっても過言ではなかろう。 ﹁燈火節﹂由来の人物ブリジットについて、廣子は次のようにも述べてい る。. ﹁たつた一筋の本の讃者﹂とは達吉を指すのであり、﹃燈火節﹄. 家族のなつかしい﹁にほひ﹂であった。しかし、それは、絶えず優しく見守っ てくれた達吉の存在という前碇があってこそのものなのである。達吉の死後 も達吉の霊に語りかけることによって、随筆を綴る力がわいてきたのであろ. 廣子に再び筆をとるきっかけを与えたのは、アイルランド文学の、そして. 微笑してゐる彼だつた。﹁戦争さへおしまひになれば、あたしもどうに か生きて行けるでせう。見てゐてね﹂彼の限と私の心の目がぴつたり合 って塞が握手したやうに思つた。. をのむ時のやうに、髪が少し乱れて、ふだんの時のとほりに微笑して﹁母. さん、あのね、⋮⋮ですよ﹂と言つた。彼は私の腰かけてゐる右手の横 から出て凍て私の正面に来たとき、さう言つた。この世にゐない人とも 思はず私はそれに返事をして、何か三一口いつた。その自分の聾で限をあ. けてTと限を見合せた。その瞬間Tがすうつと右手に動いた。その動い て行く姿がはつきり私の限に見えて、私が首をそちらに曲げた時に彼は 消えてしまつた。夢でなく、これはまぼろしである、私は彼とはつきり. 八月十日の出来事であったそうである。この出来. 顔を見合せた の で あ つ た 。 昭和二十年︵一 九 四 五 ︶. の目の前に現われたというのである。達吉の﹁母さん、あのね、⋮⋮ですよ﹂. 事は夢の中の話ではなく、幻だと廣子はいう。長男・達吉の幻が実際に廣子 と言った内容について、五日後の出来事によって、廣子は次のように解釈す る。. 八月十五日、けふ午前中に天皇陛下御自身で一大事の御放送をなさる. るようになったことを﹁目をさまして春が生れる﹂とたとえているとは考え られないか。再び筆をとることができたことの ﹁歓び﹂を表そうと、﹁春を 迎へる祝い﹂ である ﹁燈火節﹂を書名としたのではないだろうか。さらに、. 文筆生活から離れていたことを﹁九十日の冬眠﹂とたとえ、今再び筆をと. たまたまブリジットという﹁二月の美しい女﹂と廣子の生まれ月と同月であっ. から、奥の廣間のラヂオの前にあつまるやうにと言つて束た。日本がポ ツダム宣言を受け入れて降伏したのだといふことが、そのラヂオの陛下 たやうにT に 向 つ て 呼 び か け た 。 ﹁ こ れ で せ う ?. たことも、廣子自身を投影するのに適当であったと考える次第である。廣子. この知らせを持って、. のお言葉よりも早く私たちに侍って凍てゐた。その時私は限がひらかれ. はら流れ出した。私の身にとつての一大事、全日本人にとつての一大事、. もう心配するなと言ひに来たのでせう?﹂心でさう言ふと私は涙がはら それを彼の塞も強く感じたので、早く知らせてよろこばせようと思つて、. が元気を取り戻したことを達吉に伝えるメッセージが﹁燈火節﹂という書名 に込められていると考えたい。. 平和の時のや う な 静 か な 聾 で 私 に 呼 び か け た の だ つ た 。 廣子は達吉が終戦の知らせを前もって告げてくれたと解釈したのである。. 14.
(16) 片山廣子『燈火節』をめぐって. 終わりに 以上、片山廣子﹃燈火節﹄をめぐつて、片山廣子という人物について、﹃燈 火節﹄という書名の意味、刊行に至るまでの経緯について、整理してきた。. 本来であれば、﹃燈火節﹄所収のそれぞれの随筆についても考察を進める 8. 特に、﹃燈火節﹄所収の﹁大へび小へび﹂は柳田国男監修高等学校用国語. べきであろう。. 科教科書にも採用されるほどの随筆である。﹁大へび小へび﹂をはじめとして、. 十一月. 本稿は、それらを研究する前提となるものである。本稿をもとに、別の機. その他の随筆についても教材化の観点から検討する必要もあるであろう。 会にこれらの課題 に 取 り 組 み た い と 考 え る 次 第 で あ る 。. 平成十六年︵二〇〇四︶. 注. 片山廣子/松 村 み ね 子 ﹃ 燈 火 節 ﹄ 月 曜 社. 人文・社会・教育. 昭和四十年︵一九六五︶十二月一二一頁︶. ︵﹃金沢大学教育学部紀要. 金沢大学教育学部. ﹁片山広子の 作 風 概 観 な ら び に 年 譜 ﹂ 科学編﹄第十四 号. 四月. 秋号. 中央公論社. ︵フィオナ・マクラウド﹃かなしき. 平成九年︵一九九七︶. 松村みね子﹂. ﹃片山廣子孤 高 の 歌 人 ﹄ 短 歌 新 聞 社 アイ ル ラ ン ド 文 学 翻 訳 家. 二月︶. ︵﹃中央公論文芸特集﹄. 平成二年︵一九九〇︶. 平成元年︵一九八九︶九月︶. ︵﹃新潮﹄新潮社. ケルト幻 想 作 品 集 ﹄ 沖 積 舎. ﹁解題. 女王 ﹁ひとつの樹 か げ ﹂. 月曜社. 一四六頁︶. ︵片山廣子/松村みね子﹃燈火節﹄. 昭和二十八年︵一九五三︶. 七三七八一二頁︶. 廣子とみね子﹂. 一七二一人七頁︶. ひる が え る 二 色. ︵一 九 九 五 ︶. ﹁松村みね子 の 回 想 戦 後 の 土 の 中 か ら ﹂. 平成七年 ﹁解説 十一月. ︵﹃燈火節﹄暮しの手帖社. ︵二〇〇四︶. 一二一 頁. 十二月一人三頁︶. ︵東洋英和女学校五十年史編纂委員含編﹃東洋英 昭和九年︵一九三四︶. 片山廣子﹁ミ ス ・ マ ン ロ ー の こ と ﹂. ﹁トイレット ﹂. 注2. 平成十六年 7. 8. 9. 二八〇二八一頁︶ 三一四〇頁︶. 六二九号. 昭和女子大学近代文化研究所. 平成十一年︵一. 林田広美﹁忘れられた女流翻訳家松村みね子に関する一考察短歌とアイルランド. 和女学校五十年 史 ﹄ 東 洋 英 和 女 学 校 0 1. 三月. 三月. ︵﹃学苑﹄. 文学翻訳に傾倒 し た ﹁ 夢 想 家 ﹂ ﹂ ︵ ﹃ 埼 玉 女 子 短 期 大 学 研 究 紀 要 ﹄ 第 十 号 九九九︶. ︵一 九 九 二 ︶. 2 1. 昭和四十七年︵一九七二︶. ︵一九七九︶. ︵﹃大妻国文﹄第三号 大妻女子大学. 二五一三一頁︶. 小林いづみ﹁宗瑛研究 作品年譜と参考文献﹂ 本項は次の文献に負うところが大きい。. 国文学会 3 1. 阿部光子﹁ひとつの樹かげ﹂ ︵¶新潮﹄新潮社 平成二年︵一九九〇︶ 二月︶. 山本茂﹃物語の女モデルたちの歩いた道﹄講談社 昭和五十四年. 清部千鶴子﹃片山廣子孤高の歌人﹄短歌新聞社 平成九年︵一九九七︶. による。. ﹃嘉. 片山廣子氏著﹂︵﹃新思潮﹄第一年第四号 大正五年︵一九一六〓ハ月︶. 一四三頁. 平成十人年︵二〇〇六︶ 四五頁︶ による。. 大正五年︵一九一六︶︶引用は片山廣子/松村みね子﹃野に住みて﹄. ﹁歌集嘉翠の出版せらるゝにあたりて片山夫人に与ふ﹂ ︵片山廣子. 昭和二十八年︵一九五三︶ 一三〇頁︶. 川村湊﹃物語の娘 宗瑛を探して﹄講談社 平成十七年︵二〇〇五︶ ノグチ. 片山廣子﹁徒歩﹂ ︵﹃燈火節﹄暮しの手帖社 ヨネ. 注3. 唖苦陀﹁茄翠. 引用は、注15 ﹃野に住みて﹄ ︵五五三五五四頁︶. 鶴岡真弓﹁松村みね子の回想戦後の土の中から﹂ ︵﹃中央公論文芸特集﹄ 秋号第十. 十月︶. 竹相会出版部 昭和二十. ︵注15 ﹃野に住みて﹄六五七頁︶. 中央公論社 平成七年︵一九九五︶九月一七人頁︶. ︵注15 ﹃野に住みて﹄ 五人九頁︶. 六四六六四七頁. ︵一九五四︶. ︵注15 ﹃野に住みて﹄ 五四二頁︶. 改造社. 以前に松村みね子としてアイルランド文学の翻訳の仕. 昭和六年︵一九三一︶ 四一七頁︶ 廣子は大正五年︵一九一六︶. ﹁黒い髪の女﹂、さらに同年7月にはシングの ﹁谷のかげ﹂. 指導を受けた時期、ビアトリス女史との関係については十分に解明できていないこと. 得る様である﹂ ︵四頁︶ とし、大正五年 ︵一九▲六︶ 以前の翻訳について、﹁これらが ママ ベアトリスを介して知ったものかどうかは今不明である﹂とし、ビアトリス女史から. 同様に、藤田福夫も注2の中で ﹁広子とアイルランド文学との出会いは今少し遡り. なり読み込んでいたものと想像する。︵注1〇 二九一二九二頁︶. が掲載されている。これらから大正2年頃にはアイルランド文学、特に戯曲をか. バーナード・ショーの. る。大正3年1月の ﹃心の花﹄ にレディー・グレゴリーの ﹁満月﹂、翌年一月には. 前に既に片山廣子改め松村みね子はアイルランド文学翻訳を発表しているのであ. ただ年譜にある大正5年という時期には疑問を禁じ待ない。︵中略︶ 大正5年以. 事をしている。林田弘美はこのことについて次のように述べている。. 2. 第十九巻. ﹃相馬御風集 ▲二井甲之集 平野南皇集 外山且之集 片山広子集﹄︵﹃現代短歌全集﹄. 二月十日十一日. 菊池寛﹁閏秀文壇唯一の翻訳家 松村みね子夫人﹂﹃時事新報﹄大正六年︵一九一七︶. 九年. ﹁﹃野に住みて﹄を読みて﹂ ︵﹃心の花﹄第五十八巻第十号. ﹁解題﹂. 注19. 佐々木幸綱﹁解説 片山廣子の境地﹂. 二巻第三号. 1. ︵月曜社. 翠﹄竹相会山版部. 6 1 7 1. 8. 3. 5. 4 2. 2. 22 212019. 9. 猪熊雄治﹁素 描 ・ 吉 村 鉄 太 郎 ﹂. 平成四年. 15. 2 1 4 3 6 5 11.
(17) 佐 野 比呂己. 9. 1. 1 2. 四一五 頁. を指摘している 。 注24. 岩波書店. 五一人. 大正四年︵一. 大正四年十月. ︵一九七三︶. 竹相会出版部. 昭和四十人年. ショオ﹃船長ブラスパオンドの改宗﹄竹相会. 五五一頁︶. ﹃心の花﹄第十九巻第十号. ︵﹃ 鴎 外 全 集 ﹄ 第 二 十 六 巻. 森林太郎﹁松 村 夫 人 に ﹂. 五一九頁︶. 五四一 頁. ﹃野 に 住 み て ﹄. 上田敏﹁松村 夫 人 の 翻 訳 ﹂ ︵注15 注23. 大正六年︵一九一七︶. ︵小学館. l一七. 平成. 一五. 三五九. 大正十年︵一. 平成七年︵一九九五︶. ﹃ダンセニイ戯曲全集﹄警醒社書店. 五五七頁︶. シング﹃いたづらもの﹄東京堂書店. ﹃野に住みて﹄. 五四一 頁. ︵注15. 坪内避遥﹁序 に 代 へ て ﹂ 六月 注23. 一五頁. 昭和二十八年︵一九五三︶. 第4版﹄. 昭和二十八年︵一九立三︶. 文芸春秋. ︵﹃燈火節﹄暮しの手帖社. 二八八 二 八 九 頁. 十一 月 ︵ ﹃ 菊 池 寛 全 集 ﹄ 第 二 十 二 巻. 菊池寛﹁ダン セ ニ イ 戯 曲 集 の 序 ﹂. 注4 片山廣子﹁燈 火 節 ﹂. 一五頁. ︵﹃燈火節﹄暮しの手帖社. 囲廣哲弼、安 井 稔 、 堀 内 克 明 ﹃ プ ロ グ レ ッ シ ブ 英 和 中 辞 典. 一人頁︶. 注34. 十人年︵二〇〇六年 ︶ ︶. 注34 一五頁. ﹁あ と が き ﹂. 一五 一 六 頁. 注34. 注34. 注1〇. 二九五 頁. 竹相会出版部. 昭和二年︵一九二七︶. 十一月五日. ︵注15. 解釈と鑑賞﹄第二十六巻第四号 二五〇 頁. 至文堂. 五四七頁︶. 昭和三十六年︵一九六一︶. 三. 平成元年︵一. ﹃野に住みて﹄. 松村みね子夫. 大正八年︵一九一九︶. 二八〇頁︶尚、読者の便宜を図り、﹁あとがき﹂を引用する際にゴシック体を用い. 片山廣子. 4. 六頁. 六頁︶. ﹁最初のペイ ジ ﹂ ︵ ﹃ 心 の 花 ﹄ 第 二 十 三 巻 第 六 号. 注45. 十七頁. ﹃国文学. 二五〇 頁 ︶. 江藤淳﹁文学 的 時 空 間 そ の 内 と 外 か ら の 崩 壊 ﹂ ︵ ﹃ 昭 和 の 文 人 ﹄ 新 潮 社. ﹃議書新聞 ﹄. ﹁写真ぎらひ / 二 十 幾 年 も 写 さ ぬ / 雷 は 芝 居 で も い や / 女 流 翻 訳 家. 注42. 六月. 4. 4. 月. 4. 九八九︶. 4. 人﹂. 4 4 4. 3. 頁︶. 九二一︶. 2 3. 3. 3. 0. 2. 8 2. 九一五︶. 27 26. 34 33. 40 39 38 37 36 35 5. 6. 7. た 九. 1. 2. 5. 6. 9. 5. 注12. 一二七頁. 一二〇頁︶. 昭和二十八年︵一九五三︶. 片山廣子﹁地山謙﹂︵﹃燈火節﹄暮しの手帖社 昭和二十八年︵一九五三︶. 片山廣子﹁軽井澤の夏と秋﹂ ︵﹃燈火節﹄暮しの手帖社. 一六二頁. 二六七二六八頁 二六八頁. 二六五頁. 注5〇. 一六頁. 注5〇. 注34. ︵釧路校准教授︶. 高等学校一年上︵高等学校第一学年前期用︶﹄︵昭和三十年度︵一. 片山廣子﹁大へび小へび﹂. 東京書籍︶. ︵﹃燈火節﹄ 暮しの手帖社 昭利二十八年 ︵一九五三︶. 片山廣子﹁たんざくの客﹂ ︵﹃燈火節﹄暮しの手帖社 昭利二十八年へ一九五三︶. 注5〇. ︵一九五三︶ 一六一一六二頁︶. 片山廣子﹁過去となつたアイルランド文学﹂ ︵﹃燈火節﹄暮しの手帖社 昭和二十八. 二六〇頁︶. 5. 5. 注5〇. 二三〇頁︶. 年 5. 5. 5. 5. 七三八一頁︶. 版. 柳田国男監修﹃国語 九五五︶. 5. 8. 7. 5. 4. 3. 5049 48. 16.
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