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司弘毅をめぐって
An A n a l y t i c S t u d y o n t h e L i f e and Work o f OKA Koki
は こ め に
本 楠 に お い て は 、 岡 弘 毅
( 1 8 4 4
年1 9 3 4
年) の人物像を探ることを課題とする。同は幼保一元、て諭を展開した人物として一部の領域に おいて知られているが、必ずしも社会福祉研究に おいて知名度が高い人物とはいえない。それは、
社会福祉の盤史について書かれたテキストを開く と必ず控場してくる井上友ーや寝間幸助といった 人物と同列に扱われていないという点に
いる。また、最近完結した企番ケ瀬藤子・
次編『シリーズ福祉に生きる」
にも収められてはいないということにも示されて いる。
しかしながら、筆者はかねてより社会福祉の歴 史を記述していくにあたっては、 「歴然と
しながら史には残されなかった人たちiを栂り こすことを試みようとしてきた。
その
1 r
1で、筆者は1 1 9 3 0
ツルメント"および 小湊セツルメント"の様相
J
を記述し、東北におけるセツルメントの実践に係 わった岡倫氏の存在に控目するところとなっ そして、開設取りのなかで関倫氏が岡弘毅の次女 であることを確認した。拙稿において充分に解き 明かすことができなかったが、これらのセツルメ ントの実践を暗に陽に支えた人々やそのつなが り、理論的裏付けといったものが、この間弘毅か らも発信されていたのではないかといった関心か ら彼に注訂することとなっ
ここでは、
く、披が社会事業に残
りにして紹介し、彼が当時の在会事業に 与えた影響、設の周聞に存在した人物と岡との関 係について探ることによって、間の人物像を述べ
松 本 部 代
I k u y o Matsum
例。ることにとどめる。
1.岡弘毅に関する先行研究
ついての先行研究のひとつは と社会事業
J
編纂刊行会『岡 弘毅と社合事業逮捕』都政人合出版部、
1 9 8 0
岡弘毅に直接接触 った人々も参加して同についてまとめたもの であり、間弘毅の論楠を含めて編集されている。二つ目として挙げられるのが、次のものである。
・ Lll崎明子
f
光ほのかなれども』朝日新 聞社、1 9 8 0
年。この中では、諒永恕と岡弘毅との つながりが明かにされている。また、永恕を看取った人物であることも書かれている。
復刻版として龍説書舎から
1 9 8 1
(東京府慈善協会 に掲載されている 久一氏による [1:)氏は、主要執筆者
1 5
かで、問について(j)と評価している。ちなみに他の執筆者として
‑生江孝之・井上友一・Ll
J
室事平・れており、こ れている。
.長持川良信 たるメンバーと
2 .
岡弘毅が社会事業に残した定跡( 1
)東京府および東京府社会事業協会岡弘毅についての吉田久一氏の評揺は先に述べ たとおりである。附が自ら死を選んだ{訟で、彼の いた移くの人々から、間は社会事業専にな くてはならぬ存在であったと言われた。そのこと は、当時の東京府社会事業:主事であった早日正雄
去 、 言 r t
学院大学社会福祉学部研究紀繋第 2'i‑J
(2002年)が次のように述べていることから判る。 くなった後
もない戦争という波であ
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岡さんは東京の社曾事業界の大きな存在で り、彼が2
苦労して形成した社会事業が厚生事業と あった、明治、大正、昭和三大時代に於ける東 いうかたちで変質していったこともその要因で 京の社曾事業を語る場合には必ず引合に出さな あっくてはならぬ程、各種の社曾事業に関係があ る、殊に東京府の社曾事業を語る場合にはどう しても│南さんを座長の椅子に掘えなくてはなら
ぬ J
(2)社会事業に係わっている。
例えば、東京府社会事業協会が発行してし 曾幅利』は岡が編集を行っていた。また、東京府
( 2 )
光明学校開設およびその周辺│判は東京府社会事業協会に在籍している 医師j の旧代義徳(1 864 年~
1 9 3 8
年)と出会ってい る。旧代は、光明学校開設にあたって尽力した人 物として記憶されている。その田代の発想、による ものであった光明学校の構想は、東京!存社合事業 協会の協力もあって開校を実現する事によって結したということ 黙である。
間と田代との協力関係は、
ことを社会資源として進められおり、ま
しての
った
世
'‑・
社会事業協会は各種団体の連絡を行うことを第 a とが東京府社会事業協会の病院であって、
の目的としていた。当時の東京府における社会事 業を行う病院を開くことにつながっている。ま 業の領域は多岐にわたるものであって、それらに た、田代は柏倉松蔵に勧めて柏学閣を開閣させて 岡は目配りをしていたようである。ちなみに、そ いる。やはりこれについても、岡が田代につし1て のことが、彼が亡くなったときに執り行われた迫 語っているなかにな場してくることから、柏閑 悼式での参加者に現されている。そのなかには長 の創設についても岡の向らかの関与があったとみ
口々
ている。井支えるにあたっては、社会事業全般にわたる註 りを怠らず、社会事業の各方掛からの相談事には 真撃に耳を傾けた伺の療がうかがえる。
同は東京府社会事業協会において、刀両委員に ついて早く取り組みを開始している。
しかしながら、当時これほど評価された人物が なぜ人々の記憶のかなたに迫いやられてしまった のかは解明する必要があろうO ひとつには急逝し たことにより厚生事業における論者とはならず、
ましてや戦後に活躍する場面がなかったという
2 9
るべきであろう。
( 3 )
同による各種社会事難施設設蹟つ
とんどに関係していた。いくつもの 例を挙げるまでもなく、例えば、藤井コトがいう ように、藤会学園は同が創設したのだと寄っても よいくらいの施設であるというO つまり、大島に おいて感化事業を始めようとした中内帯古が東京 府社会事業協会を訪ねた際に、岡は人里離れたと ころでの感化事業はうまくしゅ、ないだろうから知 恵遅れの子どもたちの施設をつくるように勧め た。こうして出来たのが藤倉学園であった。(fi)
それ以外にも、いわば東京府の社会事業施設の 実験場のように岡が関係した社会事業施設が登場
時 弘 毅 を め ぐ っ て
している。
3
関弘毅を取り場く人々 (1)剛弘毅と井上友一周辺まず隣との関係で筆頭に挙げられるのは、
友ーである。井
k
は東京府の知事としてた人物であり、井上は
f
需は間に合う男だ。J ( 7 )
と いう詰葉を残している。 間は武蔵野学院創立の際 に相同良雄から式裁野学院に推鳶されているが、井上は
f
問者は符来性を持って語る、東京府でも 十分に擾遇する横だから掛合から予を出さミてほしいと相同に言っている組であっ 井上はかの有名設
f
救済制度要義J
を刊行して いるが、周毘から泣井上がこの本をどのように実 践に結が付汁ていくのかとみられていたようでそれを可能としたのが開であった。
りにしており、井土知事の予是となって また、井
k
の死後残されたそ が闘のもとに相談に訪れ ていまた、井上は留岡幸助が井上を訪ねて来たとき 岡敬呼んで話をしている。(9)こうして問 もこの留岡幸助との関わりをもつにいたってい る。岡本来の人務もあったが、感化児童について 人物に対して]ー郁に話を開い ている。当時の役人たちの中には不良少年という と真冊目に話を聞いてくれない人もいたというの だから、同の存在誌社会事業の実践を行っている 人たちにとっては無二の存在であったに違いな
し
( 2 )
岡弘毅と二葉幼稚調関係者 岡と二葉幼稚園〈のち二葉保育盟)糊委・
なれども
J
に詳しい。野口 ともに岡に対する前頼を寄せてい 徳永恕は、当時の施設の動向などについて岡 に情報を提供し教示をもらっていたようである。そういう意味では、
f
弱者に互いに情報療と知恵袋 を抱えていたということになる。二二葉が財│引法人 化するといった組織替えをするうえでも、きが頼りにされていた。
さらに、野口胸答・帯、永恕を介主して尚がつな
がりをもった重要な人物として高貯慎吾が挙げら れる。高田は大学平業後に養宵院に一時勤務して おり、二葉によく出入りしていたようである。こ に対して同は
f
高出先生」と慕っていたと いう。また高田の方もf
岡;君J
といって親しく交 友していたというのである。そして高回を中心に 当時の社会事業関係者が集まっており、岡もその ひとりであった。これは二葉の藤井コ中にあることであったが、藤井自身は
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蒋に勧めら れて児童保護委員を引き受けてしところで、高田は言うまでもなく後の大原社会 問題研究所におけるメインスタップであった。こ の二葉での高間・岡・徳永といったメ
会事業の理論家・実践者としての交流なもってい たことは興味深い。同が周囲の社会事業関係者に 慕われ頼りにされた背景には、この高山との交流 によって良さ社会事業家としてのモデルに接する 機会仁志まれていたということにもよると考えら
4 .
向弘毅の人物像(1)小薄ーによる罷弘毅の部価
のように関について してい
f
特にわたしが一言巾したいと存じますこと 大正以来の計:舎事業の歴史の 自己の信念を持ち、また一代の経験を以て 韓験を致した本嘗の!社舎事業家、業家として一代を了はられたこと あの位になりますと理論的
か、或いはいろいろの事情で熱意を失ってしま うのが普通でありま
事業家としての心持を持ち機けられた。
j
そしてその結果として、社会事業が転換してい く時期にあたって自己の社会事業に対する信念を 較換することが出来ずにその生涯を終え
いうのである。たしかに、動勉実直であって
30
年 間社会事業のために尽くした一人の社会事業家が 小津が言うように追りくる戦争の液仁耐え切れ ず,しかもそのことによってそれまでのように援 助を必要とする人々在守り切れるという見通しも弘蔀学技大学社会福祉学
t部研究紀要 第2 サ ( 2 0 0 2
年)1という事態が容易に想橡でき していたので、あった。
部時の社会事業家が上記のような事態にさら れたとき、それに対してとった態度は、例えば戦 時厚生事業に協力するという対応の仕方もあれば 時代の流れに抗するという対処のしかた、あるい は理論家の場合は筆を折るといった、いくつかの 典型に分かれるが、岡の対応、はそれ以上前進しな
?
ヲ史、1 9 3 7
年1 0
丹、および、第2 1
脊第8j
賞、1 9 3 7 1 1
月)がそれである。このほかにも執筆された論 文は残されてはいるが、井t
友ーのように学究凱 の理論家とはならなかった。大学を卒業して理論 家となった井上とは違う形で同は理論を求めてい た。それは、岡自身が語っていたように、大学を 出ていない代わりに、自らの勉強の機会として各 種の会合仁参加することでそれを満たしていたこ とにも現れている。しかし
向に見出せば途が開かれるのかということについ ても見通しをもてない状況に追い込まれていたと みるととができる。これは、閉接的な時代状況の な か で 、 当 時 の 一 社 会 事 業 家 が 経 験 し た 試 練 で あった。
( 2 )
間関係者による開の人物評日な人物であったことは多くの人 昨主に物品が送ち
' J
3 1
いうものを
「岡さんは、その人格が高潔で物事に私心が ないやうに、政治的野心とか、またはそれに顕 似した親分的気持ちで人の面倒を見るのではな く、全く御自分の性格の衷はれとして、純県な 行ひとして多くの面倒を見て来られた。
J
(15 )
りをよく知る人たち
によっ り、 なりを
よく表してい
お わ り に
岡弘毅は社会事業家としてそのとを終えた。
ただ空車な理論をうちたてることに熱
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すること はなく、私利私欲のために周囲の人間との関係を とり結んでいたわけでもなく、人牛.の大半は東京 府において社会事業の連絡調整に努め、世の中が 戦時厚生事業に巻き込まれていくR i j
にこの世を 去った。終始社会事業の裏;方に撤し、多くの人に 信頼され、しかしって目配りを 会事業家と
なったといえよう
註
( 1 )
wtl:会福本 1
jJ]] 1 締(東京府惑持協会報)解説・総吾次・
素手 I~ 龍混説得、 1984 年、 p.19
( 2 ) 早
fHJE雄[州さんの生態
ht曾制約
JJl鮒鋒第 2 4 巷第 2
競iヰ I 鍛 、 1 9 4 0
年2 丹 、 p . 5 5
( 3 ) I 岡弘毅君追悼録 J W I 社禽耐平
JIJl附録第 2 4 巷第 2 競附 録 、 1 9 4 0
年2 月 、 p . 7 1
( 4 )
~íH品、 1910年2 月 、 p p . l 8 4
( 5 ) 河田茂向l:働耐本 I U
第2 3
務 第4
続、p p . 6 2‑7 1
0F R 代について問が記述したもの在えも舟らのものとし て雑誌に記載することをと述癒した。しかしながら、
代との共時事業において、同の発想などが F A 代の背 後にあったことが考えられる。
( 6 )
藤井コトr lU1l先と二葉保育 i 麗 m 湾弘裂と社会事
業j編纂刊行会f
併 i 弘毅と n
脅事業』その足誌
と遺構 j都政人得出版部、 1 9 8 0
年)p . 4 1 8 ( 7 )
r弼弘毅主主追悼録
j向上禽総本f ] l[ J { i t 鋒第 2 4 巻第 2 繋跨
持 、 1 9 4 0
年2 F I . p . 7 4
間 弘 毅 を め ぐ 叶 て
( 8 )
柏 田 良 雄f恥悼岡弘毅君之急逝J n
吐曾幅利J附 録 第2 4 巷第 2 競附鍛、 1 9 4 0
年2 丹 、 p . 3 6
( 9 ) r
関弘毅君追悼録J
r牡舎福利J
附 鍛 第2 4
寄第2
競 附錦 、 1 9 4 0
年2 丹 、 p . 7 4
(0) 議藤井前掲
(11)財印法人東京府牡会事業協曾常務幹事
i
故 同 弘 毅 君 追 悼 座 談 曾j向上曾絹本IJjj第2 4
轡第2 続 、 1 9 4 0 1 r 2 丹 、 p . 6 3
( 1 2 ) 前掲、 p . 5 4
(13 )
言i H 号 、 p . 6 2
(1