香 川 大 学 経 済 論 叢 第68巻 第 2・3号 1995年11月 683:-712
多義性と意味変化に関するこ,三の考察
守 矢 信 明
は じ め に <<percevoir>>というフランス語の動詞の第一の意味は「知覚する,感知する, 認める」である。第こには「見分ける,識別する,察知する」である。この第 一の意味と第二の意味は感覚的に把握するか,知的に把握するかというきわめ て近い関係にあるので,両者が同一の語にふくまれる語義として記述されてい てもなんら抵抗感はない。ところが次の場合になると事態が一変する:( 1) Actuellement un port franc est un port ou aucun droit de douane n'est percu. この文における<<percu>>以外の部分は「現在では,自由港とはいかなる関税も ゆercu>>されない港のことである」である。この文脈において上にあげた語義 がいずれも該当しないことは一目瞭然である。実はここでのpercevoirは「徴 収する」という意味であって,人間の認知作用とはなんの関係もない。いった いなぜこれほどまでに異なる意味が同一の語のなかに同居しうるのであろう か。
1
.
語の共時態と通時態 ある語の意味がはなはだしくかけ離れている場合,辞書編纂者はそれらの意 味を一語のなかにふくめて考えるべきか(多義語),複数の同形〔異義〕語に ふりわけで別々に処理するか,判定の岐路にたたされる。事実<<percevoir>>に 関しては,多義語派(PetitRobert, Logos Bordas. . • )と同形語派(LeRobert 香 川 大 学 経 済 論 叢 第68巻 第 2・3号 1995年11月 683:-712多義性と意味変化に関するこ,三の考察
守 矢 信 明
は じ め に <<percevoir>>というフランス語の動詞の第一の意味は「知覚する,感知する, 認める」である。第こには「見分ける,識別する,察知する」である。この第 一の意味と第二の意味は感覚的に把握するか,知的に把握するかというきわめ て近い関係にあるので,両者が同一の語にふくまれる語義として記述されてい てもなんら抵抗感はない。ところが次の場合になると事態が一変する:( 1) Actuellement un port franc est un port ou aucun droit de douane n'est percu. この文における<<percu>>以外の部分は「現在では,自由港とはいかなる関税も ゆercu>>されない港のことである」である。この文脈において上にあげた語義 がいずれも該当しないことは一目瞭然である。実はここでのpercevoirは「徴 収する」という意味であって,人間の認知作用とはなんの関係もない。いった いなぜこれほどまでに異なる意味が同一の語のなかに同居しうるのであろう か。
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語の共時態と通時態 ある語の意味がはなはだしくかけ離れている場合,辞書編纂者はそれらの意 味を一語のなかにふくめて考えるべきか(多義語),複数の同形〔異義〕語に ふりわけで別々に処理するか,判定の岐路にたたされる。事実<<percevoir>>に 関しては,多義語派(PetitRobert, Logos Bordas. . • )と同形語派(LeRobert684
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めo仰O のが実情ででトある。 香川大学経済論議 880 )に分かれている 理論的あるいは抽象的には「同形異義J(homonymie)と「多義性J(plysemie) の区別は明快である。たとえばデュクロ/トドロブの『言語理論小事典』では 同形異義を「音の上では同ーの現実に対し,根本的にちがったいくつもの意味 が対応することがあるという現象である」とし,多義性を「かなり一般的な法 則によって一つの意味からもう一つの意味への移行が説明でき,その変異が予 測できるようなときには,暖昧性というよりはむしろ多義性polysemieと呼 ぶ」とする(1975: 3: 74)。しかしこの一般論がどこまで具体的事例を処理しう るかどうかは疑問である。この事典の筆者は同形異義の例として<<cousimを あげ,これは親族の「いとこ」を指すことも,昆虫の「家蚊」を指すこともで きるとし,また別の例では什'aifait lire Piene.>は「ピエールに読ませた」 という意味にも, r (人に〕ピエール〔の書いたもの〕を読ませた」の意味にも なると述べている。また多義性の例としては「たとえば,修辞的文彩の一つで ある換輸なるものを知っていれば, <ヴァイオリン〉という語がときには楽器 を,またときにはその奏者を指すことが理解できる」と述べる。たしかにcousin の場合は「いとこ」と「イエカ」の聞にはなんの意味論的共通性も見当たらな いし,語源的にも両者は別々のものに起因する。これを同形異義語とすること に異論はない。しかし理解しがたいのは〈ピエール〉のケースと〈ヴァイオリ ン〉のケースの違いである。一般に換轍とは隣接関係にもとづいて,Aなる
対象を指示する際にBなる対象を用いることである。古くから認められてい るものとしては,結果と原因,作物と作者,所有物と所有者,道具とその使用 者,容器と中身,産地と産物,象徴と象徴されるものなどがあげられる。今問 題になっている場合でいえば,ピエールなる人物がたまたまヴァイオリン奏者 であるとき,彼を称するのに字義的に「今日のピエーlレは素晴らしかった」と 言うことも,換轍的に「今日のヴァイオリンは素晴らしかった」と言うことも できる。そして彼がたまたま本の著者であるとき,字義的に「ピエーノレの新刊 本は素晴らしい」と言うことも,換職的に「新刊のピエールは素晴らしい」と 684M
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対象を指示する際にBなる対象を用いることである。古くから認められてい るものとしては,結果と原因,作物と作者,所有物と所有者,道具とその使用 者,容器と中身,産地と産物,象徴と象徴されるものなどがあげられる。今問 題になっている場合でいえば,ピエールなる人物がたまたまヴァイオリン奏者 であるとき,彼を称するのに字義的に「今日のピエーlレは素晴らしかった」と 言うことも,換轍的に「今日のヴァイオリンは素晴らしかった」と言うことも できる。そして彼がたまたま本の著者であるとき,字義的に「ピエーノレの新刊 本は素晴らしい」と言うことも,換職的に「新刊のピエールは素晴らしい」と881 多義性と意味変化に関するこ,三の考察 -685 言うことも可能だ。ピエールが字義的に解釈されたり,換日前的に解釈されたり することは意味論上の一般的規則であって,この語が多義語か同形語かという 区分け以前の問題である。つまり語の分類と,語の用法を分けて考えなければ ならないのだ。そこを混同しているために言語理論小事典』の筆者は前述 の部分につづく箇所で, <<bureau>>の扱いにも戸惑っている。すなわち「もっ とも実際にあたってみると,ボーダーラインに位置するものも出てくる。いく つかの意義を結びつける文彩が,文彩と感じられない,あるいは感じられなく なってしまっていることがある。 <<bureau>>が「机」という家具のことも「部 局」という管理体のことも指せるというのは,同形異義であろうか多義性であ ろうか?J (375)。周知のようにこの語の第一義は「事務机」である。第二義 は「その机の置かれた場所」をあらわし,具体的には事務所,オフィス,役所 あるいはそれらをさらに特定化した場所である事務局,部局ということにな る。このような説明はどのフランス語の辞書にも書かれていることで,フラン ス語を母語とする筆者たちが「一つの意味からもう一つの意味への移行」をこ の事例にかぎって「感じられない」とはとうてい信じがたいと言わなければな らない。この関係は分類としては「中身と容器」を表す換轍であり,一つの語 の中で分化した意味なのだから,当然bureauは多義語ということになる。 ある語が多義性を有する一つの語なのか,同形異義語として別々の語にあっ かわれるのかを判定する一つの基準は語源である。,-さいころ」のdeと「指 ぬき」のde,,-確実な」のsurと「酸味のある」のsur,,-一周」のtourと「塔」 のtour. . .これらは音形だけが同じで,意味も語源もはっきり異なる別々 の語である。問題は語源が同ーでありながら,歴史的変遷を経るうちにはなは だしくかけはなれた意味が生じてきた場合であり,-一つの意味からもう一つ の意味への移行が説明」しにくくなっている場合である。そのような場合,語 源学は語の多義性にどこまで迫りうるだろうか。 古代ギリシア・ラテン時代の語源学は,語形の源、をたどり,そこに事物の本 性を説明する真の意味を読みとることをもって職務とした。まさにその意味℃、 語源吾tymologieという語の語源はveriloquium(真の言説)を指した。現在 881 多義性と意味変化に関するこ,三の考察 -685 言うことも可能だ。ピエールが字義的に解釈されたり,換日前的に解釈されたり することは意味論上の一般的規則であって,この語が多義語か同形語かという 区分け以前の問題である。つまり語の分類と,語の用法を分けて考えなければ ならないのだ。そこを混同しているために言語理論小事典』の筆者は前述 の部分につづく箇所で, <<bureau>>の扱いにも戸惑っている。すなわち「もっ とも実際にあたってみると,ボーダーラインに位置するものも出てくる。いく つかの意義を結びつける文彩が,文彩と感じられない,あるいは感じられなく なってしまっていることがある。 <<bureau>>が「机」という家具のことも「部 局」という管理体のことも指せるというのは,同形異義であろうか多義性であ ろうか?J (375)。周知のようにこの語の第一義は「事務机」である。第二義 は「その机の置かれた場所」をあらわし,具体的には事務所,オフィス,役所 あるいはそれらをさらに特定化した場所である事務局,部局ということにな る。このような説明はどのフランス語の辞書にも書かれていることで,フラン ス語を母語とする筆者たちが「一つの意味からもう一つの意味への移行」をこ の事例にかぎって「感じられない」とはとうてい信じがたいと言わなければな らない。この関係は分類としては「中身と容器」を表す換轍であり,一つの語 の中で分化した意味なのだから,当然bureauは多義語ということになる。 ある語が多義性を有する一つの語なのか,同形異義語として別々の語にあっ かわれるのかを判定する一つの基準は語源である。,-さいころ」のdeと「指 ぬき」のde,,-確実な」のsurと「酸味のある」のsur,,-一周」のtourと「塔」 のtour. . .これらは音形だけが同じで,意味も語源もはっきり異なる別々 の語である。問題は語源が同ーでありながら,歴史的変遷を経るうちにはなは だしくかけはなれた意味が生じてきた場合であり,-一つの意味からもう一つ の意味への移行が説明」しにくくなっている場合である。そのような場合,語 源学は語の多義性にどこまで迫りうるだろうか。 古代ギリシア・ラテン時代の語源学は,語形の源、をたどり,そこに事物の本 性を説明する真の意味を読みとることをもって職務とした。まさにその意味℃、 語源吾tymologieという語の語源はveriloquium(真の言説)を指した。現在
← 686 香川大学経済論叢 882 でもある語の語源を説いて,物事の“真実 “本性 “意義"を説くやり方 はしばしば見られる(,帰省」の「省」は目を細かくして見ることから,故郷 に帰って親の安否をねんごろに問うこと」が本義であるのに,近頃の若者は故 郷に帰ってこづかいをねだることだと勘違いをしている,など)。けれども現 代の語源学は「語を,その起源にあるより古い要素
etymons
(語源核)一ー と関連づけて研究するもの」と定義される(Lagrammaire d'aujourd'hui: 260)。語の状態を一つ,またーっとさかのぼvコていくわけだから,原則的には, それぞれの状態は連綿とつながっており,たとえ始源の状態と到達点の状態が いかにかけはなれていても,一連のつながりのなかでは各状態は関連しあう要 素として連鎖をなしているはずである。たとえばe
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という語には「①〈古 用法〉悲痛.②(a)心配,不安.(b)困惑,当惑.③(a)嫌悪.(b)倦怠,退屈.J ( I スタン夕、ードイ弗和辞典~,語義は歴史順に示されている)のような語義があ る。始源の意味(悲痛)と到達点の意味(倦怠,退屈)を比べてみるなら,正 反対とは言nわないまでも,少なくとも雲泥の差はある。なぜなら始源的には精 神の深刻な状態を指したのにたいし,到達点セは精神の無風状態,無風に過ぎ て飽き飽きした状態を指しているからだ。けれどもこれらを一連の流れの中に 置いてみるなら,結局は要素と要素,鎖と鎖は互いにつながりあって今日に至 っていることが理解できょう。流れを方向づけているものは「語義の弱体化」 の傾向,すなわち当初の強い意味がじょじょに薄れていく傾向であって(強度 の気がかり→漠然とした気がかり→ゆるやかなイライラ),基本的に意味は変 質していない。そしてこのような意味の弱体化は言語に広く見受けられる一般 的な傾向である。e
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は元来は「魔法にかけられて魅了されでいる」だ ったが,今日の<<.Je
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(雷に打たれた ようになる→驚かせる),a
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(深淵に投げ込む→破損する),g
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(荒廃 させる→ぶち壊しにする)など,いずれも当初の強烈な意味が弱体化した例で ある(cfGougenheim 1
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しかしある一時期の言語状態を説明するのに,歴史的知識をもってしではな ← 686 香川大学経済論叢 882 でもある語の語源を説いて,物事の“真実 “本性 “意義"を説くやり方 はしばしば見られる(,帰省」の「省」は目を細かくして見ることから,故郷 に帰って親の安否をねんごろに問うこと」が本義であるのに,近頃の若者は故 郷に帰ってこづかいをねだることだと勘違いをしている,など)。けれども現 代の語源学は「語を,その起源にあるより古い要素etymons
(語源核)一一ー と関連づけて研究するもの」と定義される (Lagrammaire d'aujourd'hui: 260)。語の状態を一つ,またーっとさかのぼっていくわけだから,原則的には, それぞれの状態は連綿とつながっており,たとえ始源の状態と到達点の状態が いかにかけはなれていても,一連のつながりのなかでは各状態は関連しあう要 素として連鎖をなしているはずである。たとえばe
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しかしある一時期の言語状態を説明するのに,歴史的知識をもってしではな883 多義性と意味変化に関する二,三の考察 687ー らないという言語学上の原則がある。実際われわれは「みちくさをくう」と言 うとき,いちいち馬が道の草を食べて手間どるように手間どったなどと言葉の 故事来歴を念頭においたりはしない。現代の用法では「むだ、に時簡を費やす」 という抽象的意味があるだけである。共時態を通時的に説明しない理由は,フ ランク R ・パーマー (1978: 9:2) が言うように「言語の歴史は常に正確に現在 の状態を映すものでもない」からである。パーマーは一例としてつぎのような 例をあげて言う iたとえば, pupil<生徒〉と自のpupil<瞳〉や,靴のsole 〈底〉と魚、のsole<かれい〉とを関連づけるべきではないj,たしかに歴史的 にはこれらは同じ起源であって多義語の例になるであろうが「現在の言語では 関係のない語で,すなわち同形異義語である」と。しかし返す万で今度は逆に
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とうもろこし〉のcornと足にできる corn<たこ}, meal <食事〉と meal 〈あらびき粉〉の例があるが,各々の語源は異なっている。しかし,今日のわ れわれには別々の語と感じられるだろうか」という点になると,さすがに釈然 としないものが出てくる。 ソシュールが共時的研究と通時的研究を峻別しなければならないと説いたと き,それは当時の19世紀言語学における歴史偏重が念頭にあったからである。 この問題に深入りすることは本論の趣旨ではないの、で,ここではウルマンの『窟 味論』のなかの「ごつの研究法の依り合い(同音音h異義の衝突)jと題する節の結 論だけを言記己しておこうO ウノレマンはヴアルトブノレグ,パイイ,セシヱの説をそ れぞれ取り上げ,二つの研究の統合の道をさぐっている。そして「縦のものは いつも横にうつされる」というきわめて平明な言い方で,こう述べている。,<王 冠〉が王権の観念に移動し,あるいはその発行する法定貨幣の観念に移動する ことはcrownという語の共時的多義として残存しているj (1964: 157) と。 つまり多義性というものは突然変異的に意味が分裂してできたものではなく, 歴史のなかで産出されてきたもの(縦のもの)が,今日一つの語のなかに,横 ならびに並んだ状態を指しているのだ。 したがって多義語か,同形語かを区別する決め手はあくまでも語源にある。 pupilは「生徒」と「瞳」の意味をあわせもつ多義語であり, soleは「底」と 883 多義性と意味変化に関する二,三の考察 687ー らないという言語学上の原則がある。実際われわれは「みちくさをくう」と言 うとき,いちいち馬が道の草を食べて手間どるように手間どったなどと言葉の 故事来歴を念頭においたりはしない。現代の用法では「むだ、に時簡を費やす」 という抽象的意味があるだけである。共時態を通時的に説明しない理由は,フ ランクR
・パーマー(
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が言うように「言語の歴史は常に正確に現在 の状態を映すものでもない」からである。パーマーは一例としてつぎのような 例をあげて言う iたとえば, pupil<生徒〉と目のpupil<瞳〉や,靴のsole 〈底〉と魚、のsole<かれい〉とを関連づけるべきではないj,たしかに歴史的 にはこれらは同じ起源であって多義語の例になるであろうが「現在の言語では 関係のない語で,すなわち同形異義語である」と。しかし返す万で今度は逆にi
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とうもろこし〉のcornと足にできる corn<たこ}, meal <食事〉と meal 〈あらびき粉〉の例があるが,各々の語源は異なっている。しかし,今日のわ れわれには別々の語と感じられるだろうか」という点になると,さすがに釈然 としないものが出てくる。 ソシュ、ールが共時的研究と通時的研究を峻別しなければならないと説いたと き,それは当時の1
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世紀言語学における歴史偏重が念頭にあったからである。 この問題に深入りすることは本論の趣旨、ではないので、,ここではウルマンの『意 味論』のなかの「ごつの研究法の依り合い(同音異義の衝突)jと題する節の結 論だけを記しておこうO ウノレマンはヴアルトフノレグ,パイイ, セシヱの説をそ れぞれ取り上げ,二つの研究の統合の道をさぐっている。そして「縦のものは いつも横にうつされる」というきわめて平明な言い方で,こう述べている。,<王 冠〉が王権の観念に移動し,あるいはその発行する法定貨幣の観念に移動する ことはcrownという語の共時的多義として残存しているj(
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と。 つまり多義性というものは突然変異的に意味が分裂してできたものではなく, 歴史のなかで産出されてきたもの(縦のもの)が,今日一つの語のなかに,横 ならびに並んだ状態を指しているのだ。 したがって多義語か,同形語かを区別する決め手はあくまでも語源にある。 pupilは「生徒」と「瞳」の意味をあわせもつ多義語であり, soleは「底」と688 香川大学経済論叢 884 「かれい」の意味をあわせもつ多義語である。一方,語源上なんの関連もない 「とうもろこし」の
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と「たこ」のc
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,I食事」のm
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と「あらびき 粉」のm
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は,いかに相似て見えようとも,あくまで同形意義の別語として 扱われるべきものだ。もちろんこれは意味論的観点からの指摘であって,便宜 を重視した辞書編纂の場合は別である。実践的必要に迫られる辞書編纂者たち はこの点に関して厳密な態度をとらず,たとえば「同ーのつづり、でも語源の異 なる語,および語源が同じでも語義が著しく異なる語は別見出しを立て,それ ぞれ右肩に番号を付して区別したJ (W 小学館ロベール仏和大辞典~)のように, 便宜的な対応をおこなっている。先に見たように,意味論的には多義語であるp
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が,ある辞書では一つの項目で扱われ,他の辞書では別々の項目で 扱われるという現象がおきるのも,このような事情によるものと思われる。2
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語義はどのようにして限定されるか ソシュールは音声学を語る章で「二つの要素があるという事実だけで,すで に関係が生じ,規則が生じるJ(1971:: 78)と述べているが,これは意味論に もあてはまることである。フランス語の語桑素u
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の働きによって固有名詞がいとも迅速に隠聡と 化してしまうのだ。それはナポレオンのような特質をそなえた男の意味であ る。固有名詞が比轍的にもちいられ,普通名詞化した例は意外に多い。ドン・ ファン(女たらしにして不信心者),タルチュフ(偽善者),アルセスト(厭人 癖の男),ドン・キホーテ(空想的理想主義者)などなど。あるいは固有名詞 688 香川大学経済論叢 884 「かれい」の意味をあわせもつ多義語である。一方,語源上なんの関連もない 「とうもろこし」のc
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は,いかに相似て見えようとも,あくまで同形意義の別語として 扱われるべきものだ。もちろんこれは意味論的観点からの指摘であって,便宜 を重視した辞書編纂の場合は別である。実践的必要に迫られる辞書編纂者たち はこの点に関して厳密な態度をとらず,たとえば「同ーのつづりマも語源の異 なる語,および語源が同じでも語義が著しく異なる語は別見出しを立て,それ ぞれ右肩に番号を付して区別したJ (W 小学館ロベール仏和大辞典~)のように, 便宜的な対応をおこなっている。先に見たように,意味論的には多義語であるp
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が,ある辞書では一つの項目で扱われ,他の辞書では別々の項目で 扱われるという現象がおきるのも,このような事情によるものと思われる。2
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語義はどのようにして限定されるか ソシュールは音声学を語る章で「二つの要素があるという事実だけで,すで に関係が生じ,規則が生じるJ(1971:: 78)と述べているが,これは意味論に もあてはまることである。フランス語の語桑素u
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という要素が並ぶとき,この二つはすでに単 純な関係を示さなくなる。u
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の働きによって固有名詞がいとも迅速に隠聡と 化してしまうのだ。それはナポレオンのような特質をそなえた男の意味であ る。固有名詞が比轍的にもちいられ,普通名詞化した例は意外に多い。ドン・ ファン(女たらしにして不信心者),タルチュフ(偽善者),アルセスト(厭人 癖の男),ドン・キホーテ(空想的理想主義者)などなど。あるいは固有名詞885 多義性と意味変化に関するこ,三の考察 -689 に限定していえば,先に触れたように「ピエール」は字義通りの人名になるこ ともあれば本の著者になったり,彼の役割に応じて兄,弟,父,夫,先生,悪 人などさまざまな代名調にもなりうる。一方の極にunのような文法語,他方 の極にNapoleonのような固有名詞をおくとき,そのあいだにそのほかのあら ゆる語棄がふくまれる。すべての語講素はラングとしての固定した意味(Bedeu -tung,たいてい辞書に記録されている)と,パロールに際しての文脈や場面 の限定しだいで変幻する,一回性の意味 (Meinung,必ずしも辞書に記録さ れているとはかぎらない)が存在する。こうした意味の諸相をヴァインリヒは 「意味論的目盛り」という概念を用いることでうまく説明している(1984: 374 -375) われわれは取り急ぎ,非常に広い意味をもっ形態素から非常に狭い意味を もっ固有名詞まで,意味論的領域を外観してきた。この意味論の広い領域に ついては,目盛り Skalaという比目前で説明することもできるだろう。すな わちその日盛りの上では,記号素である語講が,それぞれ自らの意味論的状 況に応じて固有の位置を占めているのである。もう少し詳しく説明すると, 目盛りの一方の端には形態素が位置し,他方の端には固有名調が位置してい る。前者では意味の拡がりが比較的大きいが,意味内容は比較的貧しいとい う特徴を持っている。この両端の聞に,不規則だが,ひとつの言語に属する すべての語棄が自らの意味論的状況に応じて,それぞれに分布しているので ある。ここでひとつ重要なことを付け加えておくと,記号の意味,それと同 時に目盛りの上の記号の位置は,コンテクストの限定作用がどのようである か,いわばその状況しだいでいくらでも変化するということである。すなわ ちテキストのなかセは,ひとつの語の意義Meinungは常にその語の意味Be -deutungと異なっており,しかもその意義は,テクストが数限りなく存在す ることから,無数にあるのである。 固定している意味が明解でト,無数に変化する意味が不安定かというと,面白い 885 多義性と意味変化に関するこ,三の考察 -689 に限定していえば,先に触れたように「ピエール」は字義通りの人名になるこ ともあれば本の著者になったり,彼の役割に応じて兄,弟,父,夫,先生,悪 人などさまざまな代名調にもなりうる。一方の極にunのような文法語,他方 の極にNapoleonのような固有名詞をおくとき,そのあいだにそのほかのあら ゆる語棄がふくまれる。すべての語講素はラングとしての固定した意味(Bedeu -tung,たいてい辞書に記録されている)と,パロールに際しての文脈や場面 の限定しだいで変幻する,一回性の意味 (Meinung,必ずしも辞書に記録さ れているとはかぎらない)が存在する。こうした意味の諸相をヴァインリヒは 「意味論的目盛り」という概念を用いることでうまく説明している(1984: 374 -375) われわれは取り急ぎ,非常に広い意味をもっ形態素から非常に狭い意味を もっ固有名詞まで,意味論的領域を外観してきた。この意味論の広い領域に ついては,目盛り Skalaという比目前で説明することもできるだろう。すな わちその日盛りの上では,記号素である語講が,それぞれ自らの意味論的状 況に応じて固有の位置を占めているのである。もう少し詳しく説明すると, 目盛りの一方の端には形態素が位置し,他方の端には固有名調が位置してい る。前者では意味の拡がりが比較的大きいが,意味内容は比較的貧しいとい う特徴を持っている。この両端の聞に,不規則だが,ひとつの言語に属する すべての語棄が自らの意味論的状況に応じて,それぞれに分布しているので ある。ここでひとつ重要なことを付け加えておくと,記号の意味,それと同 時に目盛りの上の記号の位置は,コンテクストの限定作用がどのようである か,いわばその状況しだいでいくらでも変化するということである。すなわ ちテキストのなかセは,ひとつの語の意義Meinungは常にその語の意味Be -deutungと異なっており,しかもその意義は,テクストが数限りなく存在す ることから,無数にあるのである。 固定している意味が明解でト,無数に変化する意味が不安定かというと,面白い
690 香川大学経済論叢 886 ことにその逆である。語棄は文脈におかれると,その文脈に限定された特定の 意味しかもちえなくなる。,-恋人」なる語葉素はラングのレベ/レで見るなら, 〈恋している相手〉という明解でありつつも空疎な意味しかもたない。ところ がひとたび「正夫がいま夢中になっている恋人,愛子」なる文脈におかれるな ら,この「恋人」は陰在的概念のレベノレから一躍顕在的概念へと移行し,にわ かに現実味をおびて,具体的なイメージとともにわれわれの脳裏に浮かんで、く るのである。そのことをヴァインリヒは上の引用のつづきでこう述べる: 意味論的目盛りは,孤立した語というフィクションを基礎にして考えるの ではなし話された談話というリアリティを基礎にし
τ
考えるならば,絶え ず変動している流動的な目盛りであるともいえる。そのように目盛りが流動 的であるからこそ,われわれはその上でつ意味の拡がり(外延)も意味の内容 (内包)も思いのままに正確に決定することができるのである。そのような 目盛りの上では,どの語も二つの価値,すなわち不可変だが漠然とした意味 価と,可変だが精密な意義価とを持っている。 さて今度は別の角度から,われわれがいかにして文脈のなかで意味を特定し ているかについて考えてみよう。いまヴァインリヒを引用する際に,ラングと しての固定した意味はたいてい辞書に記録されているが,パロールに際しての 意味は必ずしも辞書に記録されているとはかぎらないと述べた。つぎの文で: ( 2) Ilpercut une lueur indecise. ( 3) Etudier les processus selon lesquelsl'homme percoit et reconnait la forme des objets ( 4 ) Le receveur de l'autobus percoit le prix des places. もしpercevoirの意味が不明であれば,われわれは辞書を引くことによって, この語が擁する意味(1. <知覚する}, 2.<識別する}, 3.<徴収する})を順繰 りに当てはめながら検証することになる。その結果(2 )の場合は1が, ( 3 )の 場合は2が, (4)の場合は3が該当すると判断する。 percevoirの意味は文脈 690 香川大学経済論叢 886 ことにその逆である。語棄は文脈におかれると,その文脈に限定された特定の 意味しかもちえなくなる。,-恋人」なる語葉素はラングのレベ/レで見るなら, 〈恋している相手〉という明解でありつつも空疎な意味しかもたなIい。ところ がひとたび「正夫がいま夢中になっている恋人,愛子」なる文脈におかれるな ら,この「恋人」は陰在的概念のレベノレから一躍顕在的概念へと移行し,にわ かに現実味をおびて,具体的なイメージとともにわれわれの脳裏に浮か人ノでく るのである。そのことをヴァインリヒは上の引用のつづきでこう述べる: 意味論的目盛りは,孤立した語というフィクションを基礎にして考えるの ではなし話された談話というリアリティを基礎にして考えるならば,絶え ず変動している流動的な目盛りであるともいえる。そのように目盛りが流動 的であるからこそ,われわれはその上でつ意味の拡がり(外延)も意味の内容 (内包)も思いのままに正確に決定することができるのである。そのような 目盛りの上では,どの語も二つの価値,すなわち不可変だが漠然とした意味 価と,可変だが精密な意義価とを持っている。 さて今度は別の角度から,われわれがいかにして文脈のなかで意味を特定し ているかについて考えてみよう。いまヴァインリヒを引用する際に,ラングと しての固定した意味はたいてい辞書に記録されているが,パロールに際しての 意味は必ずしも辞書に記録されているとはかぎらないと述べた。つぎの文で: ( 2) Ilpercut une lueur indecise. ( 3) Etudier les processus selon lesquelsl'homme percoit et reconnait la forme des objets ( 4 ) Le receveur de l'autobus percoit le prix des places. もしpercevoirの意味が不明であれば,われわれは辞書を引くことによって, この語が擁する意味(1. <知覚する}, 2.<識別する}, 3.<徴収する})を順繰 りに当てはめながら検証することになる。その結果(2 )の場合は1が, ( 3 )の 場合は2が, (4)の場合は3が該当すると判断する。 percevoirの意味は文脈887 多義性と意味変化に関するこ,三の考察 -691-に応じて変動したが,変動の幅はラングによってあらかじめ固定された範囲で 事足りている。しかしつぎの場合:
( 5 ) Cet homme est un Ioup.
( 6 ) Ce toit tranqu
i
I
I
e,
OU marchent des colombes,
entre Ies pins paI-pite
,
entre Ies tombes; (P. Valery,
Le C
i
m
e
t
i
e
r
e
m
a
r
i
n
)
辞書的な意味はほとんど役立たない。語索的な詮索をいくらおこなってもここ に示された一種の不条理を解消することはできない。というのも(5 )では主語 <<cet hommの[十人間]と属詞<<unIoup>>[一人間]の聞で選択制限が破られ ており, (6)の場合は主語<<cetoit tranquilIの[+不動性]と動詞<<palpite>> [一不動性]の聞で選択制限が破られているからだ。普通そのような結合は不 適格なものと見なされる。だが詩的な文では意図的にコードからの逸脱が仕組 まれている。そこでそうしたメッセージの受け手は,発信者が設けた逸脱を逆 の心的操作をはたらかせることによって解消しようとする。その際に介入する のが「隠喰J(metaphore)であり,換時(metonymie)であり,提日前(synecdoque) である。これらは伝統的に一括して「転義法J(tropes)と呼ばれているものだ が,それには「慣用的な転義法J (trope d'usage)と「創作的な転義法J(trope d'invention)がある。前者は通時面ですでに登場し慣用化するに至った用法で あり,後者は共時面で登場しながらいまだ慣用化していない組み合わせだ(cfJ
Cohen, 1966: 114)。たとえば(5 )で示したloupは,しばしば狼がもってい る属性の一つが強調されて, <<cruel>>の意味をおびる。 すなわち“ ( 7) Cet homme est cruel
.
こう解されるとき, (5)の逸脱は解消される。(6 )の場合は慣用的な転義法で はなく,創作的なものなのでにわかには理解しがたいのだが,この詩句の作者 は詩篇の終わりでつぎの詩句をあたえている: ( 8) Ce toit tranquiIIe ou picoraient des focs.! ( 6 )と(8 )の関連づけは,使用された語句の類似性のほかに, (6)が詩篇の官 頭の第一句, (8)が詩篇の最終行という対応のさせ方によっごより一層強調さ 887 多義性と意味変化に関するこ,三の考察 -691-に応じて変動したが,変動の幅はラングによってあらかじめ固定された範囲で 事足りている。しかしつぎの場合: ( 5 ) Cet homme est un Ioup.( 6 ) Ce toit tranqu
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辞書的な意味はほとんど役立たない。語索的な詮索をいくらおこなってもここ に示された一種の不条理を解消することはできない。というのも(5 )では主語 <<cet hommの[十人間]と属詞<<unIoup>>[一人間]の聞で選択制限が破られ ており, (6)の場合は主語<<cetoit tranquilIの[+不動性]と動詞<<palpite>> [一不動性]の聞で選択制限が破られているからだ。普通そのような結合は不 適格なものと見なされる。だが詩的な文では意図的にコードからの逸脱が仕組 まれている。そこでそうしたメッセージの受け手は,発信者が設けた逸脱を逆 の心的操作をはたらかせることによって解消しようとする。その際に介入する のが「隠喰J(metaphore)であり,換時(metonymie)であり,提日前(synecdoque) である。これらは伝統的に一括して「転義法J(tropes)と呼ばれているものだ が,それには「慣用的な転義法J (trope d'usage)と「創作的な転義法J(trope d'invention)がある。前者は通時面ですでに登場し慣用化するに至った用法で あり,後者は共時面で登場しながらいまだ慣用化していない組み合わせだ(cfJ
Cohen, 1966: 114)。たとえば(5 )で示したloupは,しばしば狼がもってい る属性の一つが強調されて, <<cruel>>の意味をおびる。 すなわち“ ( 7) Cet homme est cruel
.
こう解されるとき, (5)の逸脱は解消される。(6 )の場合は慣用的な転義法で はなく,創作的なものなのでにわかには理解しがたいのだが,この詩句の作者 は詩篇の終わりでつぎの詩句をあたえている: ( 8) Ce toit tranquiIIe ou picoraient des focs.! ( 6 )と(8 )の関連づけは,使用された語句の類似性のほかに, (6)が詩篇の官 頭の第一句, (8)が詩篇の最終行という対応のさせ方によっごより一層強調さ692ー 香川大学経済論叢 888 れている。粛藤磯雄訳を借りるなら:
(
6
'
)
鳩の歩みて静かなる聾(いらか)の屋根は, 松林(まつばやし),墓標(ぽへう)の隙(ひま)にわななきて, (8' ) 漁船(いさりぶね)むれて静けきこの屋根を。 となり I鳩が歩むJ(des colombes marchenf)は「漁船が群れるJ(des focs picoraient)に対応し I静かな屋根J(ce toit tranquille)は詩篇全体から「静 かな真昼の海J(la mer tranquille du midi)に対応していることが分かるの℃、あ る。 さて以上に見た例からわかるように I狼」という語講に「残酷な」という 意味を認めるものはラングのコードではない。それゆえこれらの意味は辞書に 記録されていない。 I屋根」と「海J, I鳩」と「漁船」についても同様であ る。にもかかわらずわれわれの認識装置は,これら辞書にない意味を引き出し ているのである。それはなぜだろうか。先に「二つの要素があるという事実だ けで,すでに関係が生じ,規則が生じる」というソシュ- Jレの言葉を引き合い に出した。つまりわれわれは,二つもしくは工つ以上の要素(ここでは言語記 号)をまえにして字義通りの解釈が困難なとき,より広い一般的な認識能力を 行使するのである。すなわちもし関係が類似性にあるならそれは「隠、輸」とし て受け止め,隣接性にあるなら「換喰」として,部分と全体の関係なら「提喰」 として受け止める。最初は創作的な転義法としていまだ人口に謄来しない組み 合わせも,やがて何度となく繰り返され,パターン化されることによって市民 権を得た組み合わせとなり,人々の言語意識のなかに浸透していく。多義性と はそのような自己増殖がコードのレベルにまで達した結果であると考えること ができょう。3
.
多義性と意味変化 さてここで最初に提起した問題に立ち返ろう。 percevoirという語のなかに は,なぜ「知覚する,見分ける」という意味と r徴収する」という一見しで 反りが合わない意味が同居しているのだろう。この語の語源を調べてみると答 692 香川大学経済論叢 888 れている。粛藤磯雄訳を借りるなら:(
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鳩の歩みて静かなる聾(いらか)の屋根は, 松林(まつばやし),墓標(ぽへう)の隙(ひま)にわななきて, (8' ) 漁船(いさりぶね)むれて静けきこの屋根を。 となり I鳩が歩むJ(des colombes marchenf)は「漁船が群れるJ(des focs picoraient)に対応し I静かな屋根J(ce toit tranquille)は詩篇全体から「静 かな真昼の海J(la mer tranquille du midi)に対応していることが分かるの℃、あ る。 さて以上に見た例からわかるように I狼」という語棄に「残酷な」という 意味を認めるものはラングのコードではない。それゆえこれらの意味は辞書に 記録されていない。 I屋根」と「海J, I鳩」と「漁船」についても同様であ る。にもかかわらずわれわれの認識装置は,これら辞書にない意味を引き出し ているのである。それはなぜだろうか。先に「二つの要素があるという事実だ けで,すでに関係が生じ,規則が生じる」というソシヱ- Jレの言葉を引き合い に出した。つまりわれわれは,二つもしくはこつ以上の要素(ここでは言語記 号)をまえにして字義通りの解釈が困難なとき,より広い一般的な認識能力を 行使するのである。すなわちもし関係が類似性にあるならそれは「隠、輸」とし て受け止め,隣接性にあるなら「換喰」として,部分と全体の関係なら「提喰」 として受け止める。最初は創作的な転義法としていまだ人口に謄来しない組み 合わせも,やがて何度となく繰り返され,パターン化されることによって市民 権を得た組み合わせとなり,人々の言語意識のなかに浸透していく。多義性と はそのような自己増殖がコードのレベルにまで達した結果であると考えること ができょう。3
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多義性と意味変化 さてここで最初に提起した問題に立ち返ろう。 percevoirという語のなかに は,なぜ「知覚する,見分ける」という意味と r徴収する」という一見しで 反りが合わない意味が同居しているのだろう。この語の語源を調べてみると答889 多義性と意味変化に関するこ,三の考察 -693-えは意外に簡単であることがわかる。これはラテン語のpercipereが古いフラ ンス語のparceivreを経て,今の形になった。 percipereはper-(完全に)と capere(取る,捉える)から成る。つまり〈完全にとらえる〉というのがこの 語のetymonである。まとめるとこうなる: /(感覚的に)完全にとらえる一一一→知覚する 〈完全にとらえる〉そ一一(知的に) 完全にとらえる一一一→察知する ¥(税などを)完全にとらえる一一→徴収する 現在では語源にふくまれる「完全に」という強さの表現は弱体化しているもの の,とにかく percevoirがもっ三つの語義の相互の関連は明らかであろう。け れどもその一方で,人間の認知行為と,税を徴収するという行為の同居に関し てはもう少し言及する必要があると思われる。
Grammaire Larθusse du)宇αncaisιontem
ρ
oraz:η (1988:S
79 -80) は,意味変化の一般的条件として「ラング内部の条件」と「ラング外の条件」をあげて いる。ラング内部の条件というのは,たとえば語がある一定の語と頻繁に接す ることによってその語の影響を受ける場合である。否定の補助詞がそれにあた る。 pas,point, plus, personne, rien, aucun, jamais等はもとは自立した 意味をもっ語であった。これらは初め否定のneを補強する目的で使用されて いたのだが(一歩も,一点も,それ以上多くは. . .、でない),そのうち自ら の自立性を失い単なる否定語に変わってしまったのである。 ラング外の条件としては三つある。一つは「歴史的条件」。これは名称だけ が不変で、,指示対象の中身が文明や科学の発達とともに変化してしまう場合で ある。今日voitureは〈自動車〉を指しているが, 19世紀には〈馬車〉のこと だった。あるいはpapier<紙〉はもとは葦の茎(papyrus)から作られていた。 太陽は日本語でもフランス語でも「昇った」り「沈んだ」りするが,もちろん これは今日の科学的常識に反している,など。二つ自にあげられるのは「柾会 的条件」である。語は一つの社会グループから別の社会グループに移動すると き,ときとして意味を変える。これには特殊化する場合と一般化する場合があ る。むかし, ponereは〈置く〉を意味し, trahereは何│っ張る}, mutare 889 多義性と意味変化に関するこ,三の考察 -693-えは意外に簡単であることがわかる。これはラテン語のpercipereが古いフラ ンス語のparceivreを経て,今の形になった。 percipereはper-(完全に)と capere(取る,捉える)から成る。つまり〈完全にとらえる〉というのがこの 語のetymonである。まとめるとこうなる: /(感覚的に)完全にとらえる一一一→知覚する 〈完全にとらえる〉そ一一(知的に) 完全にとらえる一一一→察知する ¥(税などを)完全にとらえる一一→徴収する 現在では語源にふくまれる「完全に」という強さの表現は弱体化しているもの の,とにかく percevoirがもっ三つの語義の相互の関連は明らかであろう。け れどもその一方で,人間の認知行為と,税を徴収するという行為の同居に関し てはもう少し言及する必要があると思われる。
Grammaire Larθusse du)宇αncaisιontem
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oraz:η (1988:S
79 -80) は,意味変化の一般的条件として「ラング内部の条件」と「ラング外の条件」をあげて いる。ラング内部の条件というのは,たとえば語がある一定の語と頻繁に接す ることによってその語の影響を受ける場合である。否定の補助詞がそれにあた る。 pas,point, plus, personne, rien, aucun, jamais等はもとは自立した 意味をもっ語であった。これらは初め否定のneを補強する目的で使用されて いたのだが(一歩も,一点も,それ以上多くは. . .、でない),そのうち自ら の自立性を失い単なる否定語に変わってしまったのである。 ラング外の条件としては三つある。一つは「歴史的条件」。これは名称だけ が不変で、,指示対象の中身が文明や科学の発達とともに変化してしまう場合で ある。今日voitureは〈自動車〉を指しているが, 19世紀には〈馬車〉のこと だった。あるいはpapier<紙〉はもとは葦の茎(papyrus)から作られていた。 太陽は日本語でもフランス語でも「昇った」り「沈んだ」りするが,もちろん これは今日の科学的常識に反している,など。二つ自にあげられるのは「柾会 的条件」である。語は一つの社会グループから別の社会グループに移動すると き,ときとして意味を変える。これには特殊化する場合と一般化する場合があ る。むかし, ponereは〈置く〉を意味し, trahereは何│っ張る}, mutare
694 香川大学経済論叢 890 は〈変える〉の意味だったが,田舎でよく用いられたためにそれぞれ〈卵を押 し出すニ生む>(pondre), <牛の乳房を引っ張るニ搾乳する>(traire), <羽, 皮膚を変える=換羽する,脱皮する>(muer)のように特殊化した。逆に狩猟 用語の多くはやがて一般化され,共通的用法に変わったものが多い。 niais<馬 鹿な,間抜けな,世間知らずの〉という語はもとはpris au nid(巣の中でっ かまえた:巣立ち前の,まだ飛べない)の意味だコた。あるいはhagard<逆 上したような,血迷った,身の毛のよだっ〉は,もとは mal dresse(なかな か馴れない)を意味した。また釣りに用いるleurre(ルアー,擬餌鈎)はもと は鷹匠用語で r鳥の形に裁断したひとひらの赤皮」だった。鷹匠はこれを手 にもち,鷹が自分のところに戻ってこないときにこの皮を利用した。鷹は鳥と 勘違いして舞い降りた。これの動調形leurrerは今日「見せかけや甘い言葉で 人をひっかける」である。特殊化もせず,一般化もせず,そのまま別のグルー プに移行するものもある。飛行術の用語の大部分は航海術の用語からの借用で ある (abattee:帆船の風下への進路変更〉失速による急降下, balisage::航 路標識設置→航空路の標識設置, gouvernai 船の舵→飛行機の舵)。あるい はテレビの専門用語はラジオ,映画からきているなど。