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子供の文化論-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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子供の文化論

(The Culture of Children)

問 屋 昭 雄

1 はじめに

確かに、現在の教師たちは苛立っている。かつては存在していた、教師と子

供(児童・生徒)との信頼関係は非行・不登校、いじめ、おしゃべり等の現象 によって解体しつつある。 本田和子の主張する如く、子どもを「異人」として把捉する新鮮な試みもあっ

た。また、「フィクション」として、記紀の時代にまで遡って「子ども」を適

時的に研究することもある意味の有効性は存在し得たのである。 『症状としての学校言説』『学校の現象学のために』等の著書で、学校の持 つ意味を問い直す試み、つまり、学校言説の病巣そのものを別択・解体・埋葬

し、現象そのものを解読する小浜逸郎、また、『文化としての学校』として、

「自由な個性を育てる」教育的理念の無効性を批判しつつも、教師のプロとし ての技術を練磨しようと教師と子供のあるべき姿を構築し、実践を見直そうと する埼玉教育塾もある。 もとより、死に急ぐ子どもたちを「小さな哲学者」として見る識者もおり、 子どもを純粋無垢な存在としてロマンを抱いている教育者も確かにいる。 劇方、マスコミ等による教師批判が多いことも事実であろう。「コンクリー ト殺人事件」「校門圧死事件」「幼女を誘拐しては、手、足を切り刻んでは殺 した宮崎革件」等、枚挙にいとまがない。 最近、香川県丸亀の中学校で起こった教師の生徒への暴力事件は、一体どの ように解読・解釈したらよいのだろうか。 以上のことを視野に入れつつ、今、大人たちは子どもたちにどのように対す べきか、その問題を浮き彫りにしつつ、その根元にある「子ども」Lの現状をど う把握したらよいか、を明確にすることをこの小論の目的とする。

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2 暴走する子どもたちの実状

最近の子ども、とりわけ中学生は、学校で掃除をしなくなちている。この事

は、家庭で掃除をしなくなったことの反映ではなく、むしろ学校・学級に対し てのアイデンティティを持ち得ないことが問題なのである。かつては、女生徒 はいやいやながらも掃除をしていたものであるが、最近は、女生徒も掃除をし なくなっている、という。 また、廊下に落ちているごみを拾うように子どもに指導すると「ぼくが落と したごみでもないのに、どうして拾わなければならないのですか。」という児 童・生徒が多くなったことも事実である。ここにも、自分が落としたごみなら ば、仕方がないから拾うけれども、自分に関係ない人間のしたことには責任は とらない、という態度が身についていることが問題であろう。 したがって、非行・いじめの多い学校・学級では、できるだけ他人と関わる ことを避け、遊び、C.D..、ビデオ、マンガ、ファミコン等々が話題となり、 人間関係を切り結んだ話し合いができないという状況がある。したがって、ス トレスが沈澱してしまって、精神的にへ身体に異常を来たし、不登校になるの みならず、誰れも信頼できなくなり、肉体にまでその影響があらわれるように なる。ロボット顔の児童・生徒が多くなり、喜怒哀楽を表現できなくなるので ある。つまり、自閉的状況が生まれてくるようになるのである。 ミヒャエル・エンデの『モモ』では、学校は、子どもを管理し、子どものよ さを喪失する場所(トポス)として象徴させるのであって、子どもらしさを失 わしめる場所が学校となる原因として、勉強によって、画一イヒ・統一イヒし、体 育・図工・音楽といっても、子どもの興味、感ノL\意欲からはど遠いものとなっ ていることばその一周として指摘できるであろう。 確かに、大人から見た「よい子」ということが問題なのである。 かつてのような「ガキ大将」はいなくなっており、同学年のしかも数人しか のつき合いしかできない子が多くなっている状況では、子どもがたくましく育っ て行く事は無理だ、と断ぜざるを得ないであろう。確かに、異学年を通しての 子どものグループには、それなりのルールが存在し、また、リーダーの資格と

(3)

子どもの文化論

しては、グループの秩序を保ち、グループの秩序に従わせる茸任もあり、何よ

りもグループからの信頼があったことである。したがって、子どもの遊びのみ

ならず、人間的なあり様を身につける場所であったのである。いじめもそこに

は存在していた。しかし現在のように陰湿ではなかった。

香川県長尾町塚原や寒川町神前では以下に述べるような、かって子どもたち

だけの小屋づくりをしていたことを藤井洋一・(1)は紹介する。

八月と九月のお月見には、アルモンゾロイと称し、だんご、里芋、ばち

かご等、丸い物ばかりの料理を作り、山の頂上で月見をしながら食べる習

慣が長く続いていたという。 以下、藤井が述べることに従うこととする。

14、15歳までの子供が集まって、年長者の指導のもとに、みんなが力をあ

わせて小屋を作ったのである。それぞれの年齢や、発達の程度にあわせての

仕事が与えられ、全くの子供の自治的な活動によって、その小屋は建てられ

たのである。

以上の事は、親が手を出すことば許されなかったと述べており、よはどのこ

とがない限り、大人の判断を求めたり、手を借りることはなかった、という○

旺盛な成長を子どもに願う親の心があり、かつ、霊力のあるカヤやカズラを利

用しつつ、自然への畏敬の念を培っていった、とも述べる。この事も、子ども

たちが、村落共同体としての重任を持っていたことであり、他には「亥’の子祭

り」「虫追い」「苗代の蛾の駆除」等の行事にも見られることである。時とし

て、秋のまつりには「子どもみこし」も多くの地域に存在していた。したがっ

て、地域の教育力が豊かに存在していた。もちろん、負のイメージとしての

「村八分」が存在し、子どもが参加しないときにはいじめに合っていたことも

あることは当然であろう。筆者なども、「そんなに遊んでばかりいると、うえ

の学校へは入れんぞ」とか、「あいさつもきちんとできんようだと世間的には

通用せんぞ。」とか、「けんかばかりが強うても、人間としての優しさがない

と信用されんぞ。」等々の批判もよく受けたものである。現在ならば、「ほっ

といてくれ、お前には関係ないじゃろが。」という事になり、「そんなくさい

(4)

事言うとったら人から嫌われるで」と逆襲されるのがおちであろう。 しか′し、現状では、子どもを取り巻く大人たちが全く子供に無関心であるこ とには問題があるであろう。そうなった事情も分かる。以前は、昔から何代も 続いて住んで来た人ばかりの村落では、それだけ、濃密に関わり合わなければ 生きていけなかったからであり、かつまた、自然に依存しなければ生きていけ なかったことも事実である。しかも、貧しいが故のやさしさも存在していた。 藤井は、「出産の習俗」についても次のような示唆的なことを述べる。 ……年代別に出産習俗を調べてみると、大きく三つのタイプに分けること ができる。「おたしらのときは、座ってお産をしたんでっせ。」 と語るのは、70歳以上の老婆である。その次は産婆さんの世話になって、自 宅の布団の上に油紙を敷き、あお向けに寝て産んだ時代である。その後は、 今と同じように、病院に入院して、分娩台の上で出産した人たちである。 産の重い軽いは個人差があるが、筆者の知人などは、母親がコクバかきに 行って産気づき、山で落ち葉の上へ産み落とし、帰りに負いカゴの中へ入れ て連れて帰ったものだなどと聞いたことがある。(中略) むかしは、どの民家にもナンドとかオクとか呼ぶ部屋があって、ここが産 屋に使われた。それさえない家では、ニワ(土間)の隅にわらを敷いてお産 をしたという。 前にこたっのやぐらを置くか、上からつるした縄につかまり、後ろに米俵 を置いて、ヒッチャがあくまで座りずくめで過ごしたのである(2)。 以上の事は、讃岐の産むことの習俗を伝えるものであり、現在の産む儀礼とは 違って原始的でさえある。女性が産むことは“ハレ”に対して“ケ”であり、 離れた所で産んでいたことが分かる。

現代のように、病院に入院して子どもを産み、何日聞かは、看護婦さんに育

児を任せるようになると、赤ん坊を育てることに自信を失い、育児書によるマ ニュアルによって育てることが多くなり、あまつさえ、育児ノイローゼになる 女性も多くなっているという。この事も子どもに対する自信のなさが生まれる 原因にもなるのである。

(5)

子どもの文化論 したがって、過保護になるか、放任になるかの二極分裂現象を起こすことと なる。 筆者が、中学生を教えていた頃、親から以下に紹介する事に遭遇して困惑し たことがある。 わたしの家では、家の申では煙草を喫ってもよいことにしているので、その ことで学校からとやかく言われることは心外である。子どもの事は親が責任 を持つから、学校は、いらんことを言ってもらっては困る。

以上の事は、意外に多い。進学指導についても、問題行動を起こした生徒にも

当てはまるのである。「うちの子どもは、塾に行っているので、塾の指導で考

える。」とか、「うちではそんな問題をおこすことは考えられん。友だちが悪

いか、学校の指導が悪いかでしょう。」ということを意外に多く聞いたもので ある。自分が悪いのではない。悪いのはみんな他人が悪いからである、という

論理である。子どもが欲しがるエレキギター、ファミコン、バイクまでも買い

与える親がいるという状況があった。 この事以前に、附属学校に勤務していた時に、テストの点がよいと、お金を 与えたり、子どもが欲しがる品物を買い与えたり、ということもあったことを 想起す−る。 以上の事は、親が子どもの育て方を間違えているのみならず、子どもの自立 を妨害していることにもつながるのである。 したがって、「わたしは、勉強するのに疲れた。」という子どものことばに、 親がおそれをなし、おろおろするという状況が生まれてくるのである。小学生 に「だれのために勉強するの。」と聞くと、「親のため」という答えが多かっ た、という笑うことのできない詰も生まれるのである。つまり、アパシー現象 を生み出す根本の原因を親が作り出していることもあるであろう。 以上のことと関連して、教師の地位・立場が相対的に低下したことも指摘で きるであろう。新聞・テレビ等のマスコミに報道される教師の品位を下げる事 件が多くなったこともまた問題となるであろう。

(6)

前掲の丸亀中学校の事件はへ子どもを取りまく親と教師の関係のあり方を鋭 く問いかけているである。安易に市議会・県議会で取り⊥げる問題ではなく、

当事者である、子ども、親、教師がどうして話し合い、解決する問題だったの

である。筆者は、教師は苛立っていると書いた。最近、学校の教師の病体が多

くなっている。退職を前に、自殺したり、死亡したりする先生も多くなったと いう指摘もあり、筆者の知っている範囲でも以上のことはよく聞くことである。 確かに、教師としてやりたいことができない、という問題が大きいであろう。 学級新聞。文集さえも出すことができなくなり、全て学年の協力、同山歩調と いうことが至上の命題となっている現状では、目の前にいる子どもに責任を持 つということが無化されてしまうことは当然であり、教えるということが単に 教科書を同山の進路で教えるという無感動・形式的になるのは止むを得ない、 とこばす教師が多くなることは当然であろう。一・方においては、子どもや親に とっては、学校に対する関心ではなく、わが子を中心にしてしか、つまりわが 子の学力、よぐできる、テストの点がよくなることだけに目が向きがちとなり、 他のクラスが違うことを実践し、学力が育っことが許せないのである。そんな 狭い了見しか持てなくなった親の立場も理解できないではないが、異人排除の

論理が、親にも働いていることば問題となるであろう。そして、この事は教師

の人間関係にも言えることである。異人排除の論理は教師の人間関係にも強く 働くようになっている、という。教師にもアパシ・一現象はあり、無気力になる のみならず、教えることに自信がなくなり、あまつさえ、教師としての立場さ え崩壊しそうな状況であると断してもいいであろう。 したがって、教師の資質向上ということが一方的に教師の側に求められるこ とではなく、教師の教える環境を改善することなく、かつ教えるということの 真の意味が学校に恢復することなしには、教師がいくら資質を向上させても効 果はないであろう。 もとより、教師の教える力量が低下していることも事実であろうが、学校と いうトポスが学.ぶ場というイメージが希薄となっている現状をも視野に入れっ つ、学校の教育力の恢復を真剣・真筆に考える時期に釆ているのではないだろ うか。

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子どもの文化論 以上のことと相即して、家庭の教育力、地域の教育力の恢復が問題となるこ とは当然であろう。 子どもが暴走する背景には、子どもが子どもとして生活する空間がなくなっ ていることが重大なあである。 斉藤次郎は次のように述べる。 子どもたちにとって<遊び>が、たんなる息ぬきや時間っ.ぶしなのではな く、生命感の躍動と充実をもたらす大切な営みであることは、今日ではすで に常識となっている。子どもたちから遊びをとりあげて、勉強にかりたてた り、きびしい生宿管理で彼らを束縛したりすることが、子どもたちの心身の 発達にどれはど有害であるかは、いうまでもないこととして、今日の教育論・ 子ども論の前提にさえなっているといってよい(3)。 つまり、子どもたちにとって、遊びは生活そのものであり、JL、身の発達にとっ て必要欠くべからざるものになると断ずるのである。したがって、この事を付 慶す−ると、現在のように家の近くまで自動車が往来するようになり、家と家の 問がコンクリートによって囲い込まれるような所では、、子どもたちの遊び場

のみならず、あまつさえ、青信号の時、横断歩道を歩いていて、交通事故に遭

い、死傷者がでる、という状況では、子どもたちの生活空間が豊かに機能して いるとは把握できないことは当然だし、夜の8時、9時までも塾通いで疲れて しまうということでは子どもの身体のみならず、精神までもおかしくしてしま うのである。 夜遅く、ファスト・フツドの店で買い求めたパンやポテトチップを食べてい る風景も見ることが多くなっている。塾でほ点数によって序列化され、落ちこ ぼれると、他の塾へと走りまわり、家庭教師をっけたとしても無気力となって しまって、成績は上がらない。テストの点数のみが至上のメルクマールとなり、 点数が取れない子どもは、人間として扱ってもらえなくなると、暴走する以外 に方法がない、と思い込むようになる。 勉強ができる子に反感を持つ子どももでてくる。「お前のように勉強できる 子がいるから、おれが損をするのだ。」とか、自分よりできの悪い子どもに向

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かって「バイキン」「シネ」「コロス」「お前のような者は生きていてもしよ うがないぞ。」と異質な者を排除するようになるのは当然の帰結である。また、

反社会的行動、例えば、シンナー遊び、喫煙、バイクに乗って風になる等々の

行為になることば当然であり、彼等は概して学校生活からはみ出した子供なの である。

家に帰っても誰もいない。友達を呼ぶ。そこがたまり場となる。やがて、煙

草を吸ったり、缶ビ・−ルを買って釆て飲んだりするようになる。時として、ア パ・−トの空き部屋の鍵をこじ開けて、そこにたむろするようになる。最近、子 どもたちは盗みに対して極めて罪悪感が欠如している。10年程前からお金がな くなっても出て来る例が少なくなっている。生徒・児童が、友達が盗んでいる 場面に遭遇しても、先生に知らせると「チクル」「スパイ」といわれていじめ に会うから言わないのである。先生に分からない所があって相談に行こうとし ても、他の生徒の目が恐くて行けない、という状況もある。

したがって、子供自身が悩みを自分のJL、の申にため込むようたなる。親にも

教師にも、まして友達にも相談できないという状況に置かれれば、身体的にも 精神的にもおかしくならざるを得ないであろう。 授業中、手を挙げて発言することさえはばかれるのであり、先生が当てれば、 いい加減に答えるという生徒も多いのである。だからと言って、すべての中学 生がそうであるというのではない。にもかかわらず「かっこいい。」「すてき。 」という言葉は必ずしも誉め言責ではなく、いしめの対象にもなり得るのであ

る。つまり「シカト」の対象となるのである。したがって、授業中、何回も発

言することば「シカト」の対象となるおそれは十分あり得るのである。 学校という場で、「一人ひとりの個性を生かす」「できない子どもに視点を 据えて」ということばの内実は必ずしも明確とはなり得ていない憾みは残るで

あろう。つまり、点数至上主義の現在の学校教育を続ける限り、小学校では、

不登校、自閉症等の問題に止まるとしても、中学校では防ぎ切れなくなるであ ろう。 以上のことを視野に入れて「子とごも」を捉え直す必要があるであろう。

(9)

子どもの文化論 3 おわりに 最近、小学生5年生の児童を対象にして詩の授業をさせてもらった。瑞々し い感性に溢れた表現が多く出され、子どもは昔と少しもかわっていなかった。 この事は、子どもたちの心の芯では今だに感性は喪失していないこ.とになる。 今後とも大人が自分自身の生き方を鮮明にすること以外に子どもに対すること はできないことほ確かである。 (注) (1)藤井洋一・『さぬき108話 ふるさと賛歌』(松林杜1991年1月)「第56話 小屋生活の痕跡」から (2)上掲書 66∼67貰。以下のような指摘も重要であろう。 当時の産婦は、赤子のへソノオを、そのしりからひざまでの長さをとって、 その中問のこか所をツムイトでしばり、その間をはさみで切って、一方を綿 でおさえて腹にくくりつけ、他の叫方は、後産がまいあがると命を取られる というので、自分の太ももに糸でしばりつけることと、寒いときには、ヌキ デワタに赤子をしっかり包んで手元に置くことをしないうちは、どんなにず るけこみそうになっても眠ってはいけないと教えられたものであった。 (3)斉藤次郎『子どもたちの現在』(風媒社1975年8月)127頁

参照

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