• 検索結果がありません。

王治本 明治三十八年秋冬 越中・加賀・越前等における詩文交流

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "王治本 明治三十八年秋冬 越中・加賀・越前等における詩文交流"

Copied!
42
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

  明

  越

  田

  清

  継

「日本語日本文学論叢」 第十三号 抜刷 平 成 三 十 年 二 月 二 十 日   発 行

(2)

王治本

 

明治三十八年秋冬

 

越中・加賀・越前等における

詩文交流

  

  

  

はじめに

明治 (以下、 誤解を招く恐れのない場合は 「明治」 を省略する) 三十八年の秋から冬にかけて、 当時横濱に住んでいた王治本 ( 号 桼 〈漆〉 園。 一八三五~一九〇八) は二十数年ぶりに加越能地方及び越前を訪れ た (注 1 ) 。 その行程は、 九月五日に金沢に到着して一カ月足らず滞在し、 同 月 三 十 日 に 富 山 へ 移 動 し て 一 カ 月 餘 り 滞 在 し、 十 一 月 三 日 に い っ た ん 金 沢 に 戻 っ た 後、 ま た 金 沢 を 離 れ、 同 月 二 十 五 日 に 再 び 金 沢 に 戻 っ て 滞 在 し、 十 二 月 一 日 に 福 井 へ 移 動 し て し ば ら く 滞 在 し た 後、 年 内 に 福 井 を 発 っ て 名 古 屋 へ 向 か う と い う も の で あ っ た。 こ の 時 の 彼 の 足 跡 は、 金 沢 在 住 の 細 野 申 三 や 山 田 天 籟 が 富 山 や 福 井 で も 彼 と 行 動 を 共 に し て い る 点 に 特 に 顕 著 に 表 れ て い る よ う に、 ひ と 連 な り の も の で あ っ た か ら、 地 域 別 に 切 り 離 す と 描 述 す る の に 些 か の 支 障 が 生 ず る の で あ る が、 紙 幅 の 制 約 が あ る の で、 ま ず は 先 般、 そ の 金 沢 に お け る 詩 文 交 流 の 様 子 ま で を「 王 治 本   明 治 三 十 八 年 秋   金 沢 に お け る 詩 文 交 流 」 と 題 す る 拙 文 (注 2 ) に ま と め、 発 表 し た。 本 稿 は そ の 続 編 に 当 た る も の で、 彼 の 九 月 三 十 日、 富 山 へ の 移 動 後、 福 井 滞 在 ま で の 詩 文 交 流の様子を紹介することにしたい。 なお、前編で取り上げた人物については説明を繰り返さないことを断っておく。

(3)

一、富山滞在

王治本は九月三十日、 細野申三とともに富山へと赴いた。これを報ずる記事が、 翌十月一日、 金沢の『北國新聞』 、富山の『北 陸政報』 、『富山日報』 、三紙いずれにも掲載されているが、その中から、 『富山日報』の記事を挙げておこう。 高 儒 王 治 本 来 遊    今 を 去 る 二 十 年 前 ぜん 当 市 に 来 遊 し て 田 中 清 次 郎、 金 山 従 革、 内 山 松 世 其 他 重 な る 有 志 と 文 墨 を 倶 に せ し 清 国 浙 江 省 寧 波 府 慈 谿 県 人 に し て 有 名 な る 儒 者 王 治 本( 号 泰 ママ 園 ) は 昨 日 金 沢 を 出 発 当 市 へ 来 遊 富 山 舘 へ 投 宿 せ し が 茲 数 日 間は当地 ● (注 3 ) 滞在する都合なりといふ こ の 文 中 に 見 え る 三 人 の 日 本 人 は、 十 五、 六 年 当 時 の 王 治 本 の 越 中 訪 問 関 連 の 資 料 に は そ の 名 が 見 ら れ な か っ た 人 た ち で あ る。 金山と内山については後で言及することとして、 ここでは田中清次郎 (一八五二~一九一五) にだけ言及しておこう。 この人物は、 その名が 『明治大正昭和   日本徳行録』 上 巻 (注 4 ) に「緑綬褒章受章者   故田中清次郎氏   産業功労者   嘉永五年 (中略) 生」 として載り、 「 明 治 十 八 年 即 ち 氏 が 三 十 四 歳 の 時、 父 君 が 不 帰 の 客 と な つ た の で、 父 名 清 次 郎 を 襲 ひ 家 督 を 相 続 し、 始 め て 紙 商 並 に 売 薬 業 を継承した。 (中略) 多年富山県の産業発達の為に、多大なる功績を樹てた」という事績が述べられている。 な お、 『 富 山 日 報 』 の 記 事 で は、 こ の 後「 尚 ほ 同 人 が 当 地 へ 着、 早 々 詠 み し 詩 を 得 た れ ば 左 さ に 掲 ぐ 」 と し て、 王 治 本 の「 重 遊 富 山 誌 感 」 と 題 す る 七 律 が 挙 げ ら れ て い る が、 転 写 ま た は 印 刷 上 の ミ ス ( 平 仄 と 韻 字 ) と 思 わ れ る 字 句 を 含 む の で、 こ こ に は 引かない。また、 『北陸政報』の記事では、 「 (前略) 王治本氏は富山市仝好家の招請に応じ昨日来富したり」と述べられており、 彼を招請した「仝好家」が誰であるかは究明すべき問題であろうが、今のところ不明である。

(4)

(一)十月三日の小雅筵 来 富 後 三 日 目 の 十 月 三 日、 神 通 川 畔 の 秋 あ き や ま て い 山 亭 で 王 治 本 を 招 い て の 宴 席 が 設 け ら れ た。 十 月 七 日 の『 富 山 日 報 』 の「 王 黍 ママ 園 と 小 雅 莚 」 と い う 見 出 し の あ る 記 事 に よ り、 そ の 時 の 様 子 を 窺 っ て み よ う。 な お、 詩 句 の 訓 読 文 及 び〔   〕 で 括 っ た 語 釈 は、 筆 者が付したものである。 清 儒 王 黍 ママ 園 笻 を 富 城 に 停 め( 富 山 舘 に 寓 す ) て よ り 文 士 の 来 訪 頗 る 繁 く 詩 酒 の 徴 逐 に 日 も 惟 れ 足 ら ざ る 有 様 な り と か 去 三 日の夜金山怪堂、 黍 ママ 園を江畔秋山亭に招きて小莚を張りけるが一座陶然として興酣なる頃 黍 ママ 園左の句あり 湾前流水仍悠々    湾前   流水   仍お悠々 緑酒江燈憶旧遊    緑酒   江燈   旧遊を憶う 画閣雖非風景在    画閣 〔鮮やかな彩色の楼閣〕 は非なり 〔以前とは異なる〕 と雖も風景は在り 不宜銷夏却適秋    銷夏に宜しからざるも却って秋に適せり 富 城 は 其 の 曾 遊 の 地、 当 時 旗 亭 銷 夏 湾 (注 5 ) あ り 神 江 に 臨 み て 風 光 に 富 み 兼 ね て 割 烹 に 名 あ り、 星 霜 二 十 有 三、 人 事 蒼 忙 夢 の 如 し 江 流 長 へ に 北 に 流 る も 亭 榭 ま た 尋 ぬ る に 由 な く 空 く 雑 草 の 離 々 た る を 見 る の み 句 中 銷 夏 の 二 字 偶 たまたま 徃 事 を 追 思 し て 之 に 及びしものなりとか怪堂又無心先生の号あり 黍 ママ 園乃ち筆を執りて云く 秋山亭上夜飛觴    秋山亭上   夜   觴を飛ばす 酔裏狂言見 至 (注 6 )     酔裏の狂言   至って?なるを見る 唯是無心能脱俗    唯是れ無心なればこそ能く脱俗したれ 奇才磊落怪先生    奇才   磊落たり   怪先生 坐客島田神水画を善くし竹に妙を得たり、酔後筆を揮へば幾 竽 ママ の琅玕 〔竹〕 箋上に生動す 黍 ママ 園題して云く

(5)

多年揮禿筆    多年   禿筆 〔大したことのない書画の才〕 を揮いしも 愧以画工論    画工を以て論ずるを愧ず 枝葉空形似    枝葉   空しく形似するのみ 墨君還不言    墨君 〔墨竹の雅称〕 は還お 言 ものい わず 更に又云く 風梢雨 籜 耐寒冬    風梢   雨 籜 〔タケノコ〕   寒冬に耐え 筆底神来淡又濃    筆底   神   来りて   淡く又濃し 不譲冬心誇独妙    冬心の独り妙なるを誇るに譲らず 野中復有一金農    野中   復た一金農 〔金冬心〕 有り 蓋 し 此 日 黍 ママ 園、 怪 堂 を 訪 と う て 金 冬 心 〔 清、 銭 塘 の 人 〕 の 幅 を 看、 感 す る 処 あ り し を 以 て な り、 一 座 四 人、 風 流 の 談、 忘 形 の 交りに時の移るを知らざりきと亦近来藝園の佳話と謂ふべし 金山怪堂 (一八六四~一九三六) は、従革が名で、怪堂はその号。 「少年期金沢に住んでいたイギリス人ウィルキンソン家の書生 と し て 英 語 を 学 び、 中 国 公 使 館 随 員 で 書 家 の 楊 守 敬 に 師 事 し て 漢 学 を 修 め 」、 そ の 後、 政 治 家・ 実 業 家 と し て 身 を 立 て た (注 7 ) 。 島 田 神 水 は、 亀 谷 龍 二・ 橘 米 次 郎 編『 越 中 古 今 詩 鈔 』 に 島 田 信 太 郎 と い う 名 で 作 品 が 掲 載 さ れ て い る 人 物 と 見 ら れ る (注 8 ) 。『 百 花 欄 』 第 二 十 四 集 臨 時 増 刊 ( 三 十 八 年 一 月 一 日 ) に は「 富 山 十 八 家 」 の 一 人、 十 二 銀 行 員 と し て そ の 名 が 挙 げ ら れ て い る。 当 時、 三 十 五 歳だった。 記 事 の 末 尾 に、 こ の 日、 王 治 本 が 怪 堂 宅 を 訪 れ た 旨 記 さ れ て い る が、 怪 堂 は「 お び た だ し い 骨 董 漢 籍 を 蒐 め て 」 お り、 そ れ ら を 別 宅「 寄 枕 野 堂 」 に 置 い て い た と い う (注 9 ) 。 翌 三 十 九 年 五 月 に 富 山 を 旅 し た 土 居 香 国 が 寄 枕 野 堂 を 訪 ね、 「 去 訪 怪 堂 寄 枕 野 堂。

(6)

匾梧竹翁書、記王 桼 園所作。 〔去きて怪堂の寄枕野堂を訪ぬ。匾は梧竹翁の書、王 桼 園の作る所と記せり。 〕 」と書き残してい る )(注 (注 。 二)十月七日重陽節   湖海吟社例会及びその前後 この年は、陽暦の十月七日が古重陽であった。この日を含め、その前後の作品も見てみることにしよう。 十月十四日の『北陸政報』に載るのは、重陽前日の作である。    重遊富山即事 之 )(( (注 乙 己 ママ 重陽前日    坐 ママ 園   清国   王治本 白首豪遊向子平    白首にて豪遊す   向子平 尋煙重到越中城    煙を尋ねて重ねて到る   越中城 公園樹色三穐冷    公園の樹色   三穐   冷ややかに 神水石梁百尺横    神水 〔神通川〕 の石梁   百尺   横たわる 翰墨幾家留旧蹟    翰墨   幾家か旧蹟を留めたる 屢 )(注 (注 臺 随処認新営    屢臺   随処に新営を認む 相逢好有当年友    相逢う   好 まさ に当年の友有り 携手旗亭倒一觥    手を携え   旗亭にて   一觥を 倒 かたむ けん 初 句 の「 向 長 」、 字 は 子 平 は、 『 後 漢 書 』 逸 民 列 伝 に 取 り 上 げ ら れ て い る 人 物 で あ る が、 そ の 晩 年「 意 を 肆 に し、 ( 中 略 ) 五 嶽 名山に遊」んだことを王治本は自分の生き方に重ね合わせているのであろうか。 七 日、 重 陽 の 日 の 会 が 湖 海 吟 社 の 例 会 を 兼 ね て 開 か れ る こ と に な っ た 理 由 は、 十 月 六 日 の『 北 陸 政 報 』 の 次 の 記 事 の 中 で 説

(7)

明されている。 来 る 十 五 日 富 山 市 桜 木 町 秋 山 亭 に 於 て 開 く 筈 な り し 湖 海 吟 社 の 例 会 は 明 七 日 に 繰 上 け 目 下 来 富 中 な る 清 儒 王 治 本 氏 を 招 聘 するよしなるが当日の仝幹事は吉川江邨   稲垣外山の両氏なりと 吉 川 江 村 は、 名 が 安、 詩 を 木 蘇 岐 山 に 学 ん だ 人 )(注 (注 。 稲 垣 外 山 は、 名 が 復 )(注 (注 。『 百 花 欄 』 第 二 十 四 集 臨 時 増 刊 で は「 富 山 十 八 家 」 の一人に挙げられており、富山橋北銀行員、三十八歳であった。 湖 海 吟 社 は、 木 蘇 岐 山 ( 一 八 五 七 ~ 一 九 一 六 ) に 師 事 し た 小 倉 正 恒 ( 一 八 七 五 ~ 一 九 六 一 ) の 記 す と こ ろ に よ る と、 岐 山 が 二 十 五 年 ご ろ 島 田 湘 洲・ 内 山 外 川 ら と 富 山 に 興 し た も の で あ る )(注 (注 。 島 田 湘 洲 ( 一 八 五 〇 ~ 一 九 〇 七 ) は、 名 が 孝 之、 立 憲 改 進 党 系 の 自 由 民 権 運動家であった。二十三年の第一回衆議院議員選挙に当選、 以後三十年まで四選を果たした。また、 三十五年から改進系の『富 山 日 報 』 社 長 と し て 地 方 文 化 の 開 発 に 尽 く し た )(注 (注 。 内 山 外 川 ( 一 八 六 四 ~ 一 九 四 五 ) は、 名 が 松 世。 十 五 年 秋、 王 治 本 が 訪 れ た 神 通 川畔宮尾村の富家、内山家 (当時は十九代の年彦) の二十代。書家・政治家・実業家として活躍し た )(注 (注 。 外川の編集に成る湘洲の詩集に、この重陽の秋山亭における宴会時の作があるので、それをまず見てみよう。 十 月 七 日 古 重 陽 邀 飲 王 漆 園・ 李 雪 岳 両 翁 于 秋 山 亭、 偕 岐 山・ 外 川・ 呉 江・ 神 水・ 藍 田・ 仁 里・ 天 籟・ 旭 泉・ 金 湯・ 外 山・耕村・江村・希仙・如癡・詩竹賦得楼暉二字 眼中李白与蘇欧    眼中   李白と蘇欧と 〔李白・白居易・蘇軾・欧陽修か〕 文酒留連共勝游    文酒   留連し   勝游 〔快適な遊覧〕 を共にす 憑仗詞人賦黄菊    詞人に憑仗 〔頼む〕 して黄菊を賦せしめ

(8)

満城風雨上江楼    満城の風 雨 )(注 (注   江楼に上る 如是勝游相値稀    是くの如き勝游は   相値うこと稀なり 重陽風物特依依    重陽の風物   特に依依たり 顧余病骨秋来健    顧えば余が病骨   秋より 来 このかた 健やかに 放眼江山恋落暉    眼を江山に放ちて   落暉 〔残照〕 を恋 う )(注 (注 詩 題 に あ る 通 り、 こ の 宴 に は 王 治 本 だ け で な く、 李 雪 岳 ( 一 八 五 八 ~ 一 九 一 六 ) も 招 待 さ れ て い た。 こ の 人 物 に つ い て は、 木 蘇 岐 山 の『 五 千 巻 堂 集 』 巻 七「 答 韓 人 李 雪 岳 幷 序 」 詩 の 序 に「 雪 岳 名 斗 璜、 韓 国 前 訓 練 隊 長 正 三 品、 建 陽 乙 未 之 変、 逃 難 我 国、 売 文 為 活 ( 下 略 ) 」 と あ る の が 参 考 に な る。 「 建 陽 乙 未 之 変 」 と は、 一 八 九 五 ( 明 治 二 十 八 ) 年 に 起 き た、 い わ ゆ る 閔 妃 事 件 で、 閔 妃殺害に関与した嫌疑を受けたため、日本に避難してきていたのである。来日後、各地を巡り歩き、詩文交流を行ってい た )注注 (注 。 そ の 他、 詩 題 に 見 え る 人 物 に つ い て 簡 単 に 触 れ て お こ う。 木 蘇 岐 山 は 美 濃 の 生 ま れ で、 各 地 を 転 々 と し た が、 二 十 五 年、 越 中小杉に移り住んで月三社を設け、 また、 上述の通り、 富山では湖海吟社を興す等、 「北国の詩風に影響するところ大きかった」 人物であ る )注( (注 。呉江は、 『越中古今詩鈔』 坤四十一丁にその作品が載る沢田平のことかと思われる。作品は 「辛酉元旦」 という題で、 一九二一年の作であり、 その自注に 「予齢届七十」 とあるから、 一八五一年の生まれか。藍田は岡崎佐次郎、 婦負郡鵜坂村の人で、 三 十 六 年 に 郡 会 議 員 に な っ て い る )注注 (注 。『 百 花 欄 』 第 二 十 四 集 臨 時 増 刊 で「 富 山 十 八 家 」 の 一 人 と し て 挙 げ ら れ、 婦 負 郡 会 議 長、 四 十 五 歳 と な っ て い る。 仁 里 は 半 井 尚 暢。 こ の 人 も『 百 花 欄 』 第 二 十 四 集 臨 時 増 刊 で「 富 山 十 八 家 」 の 一 人 と し て 挙 げ ら れ て いる。富山県農工銀行支配役で、 四十七歳。天籟は『越中古今詩鈔』坤二十四丁に見える上新川郡濱黒崎村の人、 宝田正美か。 あるいは金沢から来た山田天籟 (後述) かもしれない。旭泉は前掲書坤一丁に見える婦負郡朝日村中道寺の主僧、 五十嵐成満か。 金 湯 の「 湯 」 は「 陽 」 の 誤 り か も し れ な い。 も し 然 り と せ ば、 大 西 金 陽 の こ と か と 思 わ れ る )注注 (注 。 こ の 年 の 十 一 月 二 日 の『 富 山 日

(9)

報 』 に 王 治 本・ 金 陽・ 細 野 申 三 の 三 人 が 内 山 外 川 に 招 待 さ れ た 時 の 記 事 ( 後 述 ) が あ る か ら、 こ の 日 よ り も 前 に 金 陽 は 富 山 に 来ていたことにな る )注注 (注 。耕 (畊) 村は婦負郡杉原村の人、 山田重 穆 )注注 (注 。江村は富山の人、 吉川 安 )注注 (注 。希仙は金沢から同行した細野申三。 如 癡 は 若 杉 彦 太 郎。 土 居 香 国 が 翌 三 十 九 年 五 月 二 十 一 日、 光 厳 寺 ( 富 山 市 五 番 町 ) で こ の 人 に 会 っ て い る )注注 (注 。 詩 竹 は 中 新 川 郡 五 百 石町の人、橘有隣、別号勉斎、香 園 )注注 (注 。 岐 山 は 大 阪 で 会 っ て )注注 (注 以 来、 こ の 日、 王 治 本 と 二 十 年 ぶ り の 再 会 だ っ た よ う で あ る。 こ の 文 宴 で の 彼 の 作 が あ る (『 五 千 巻 堂 集 』 巻七所収) ので、見てみよう。    古重陽、秋山亭文宴、与王 桼 園話旧 廾年契濶感秋蓬    廾年   契濶   秋蓬 〔風に吹かれて飛ばされる秋の蓬〕 に感ず 売賦依然西復東    賦を売り 〔いわゆる売文の意〕 て   依然   西復た東 磨蝎命宮非我独    磨蝎命宮   我独りのみに非ず 観河面皺与君同    河を観て   面   皺よるは   君と同じ 途窮歌哭詩千首    途   窮まりて   歌い哭する   詩千首 菊候風流酒一中    菊候の風流   酒   一たび中たる 後会不知何地是    後会は   知らず   何れの地か是れなる 夜闌話旧両燈紅    夜   闌にして   旧を話せば   両燈   紅なり 難 解 で あ る が、 幸 い、 『 五 千 巻 堂 集 』 に は 岐 山 の 門 下 生、 石 野 徹 ( 香 南 ) に よ る 詳 細 な 語 注 が 付 し て あ る の で、 そ れ を 参 考 に 五点の説明を加えておこう。一、 「磨蝎命宮」 。「磨蝎 (宮) 」は星宿の名。身 ・ 命がこの星宿にある者は常に苦難が多いとされた (都

(10)

穆『 南 濠 詩 話 』「 韓 文 公 詩 曰 …」 の 一 節 ) 。 二、 「 観 河 面 皺 」。 波 は 斯 し 匿 のく 王 が ガ ン ジ ス 川 を 眺 め て い る う ち に、 物 悲 し い 気 持 ち に な っ て、 髪 が白くなり顔にしわが寄ったが、 ガンジス川は不変であったというブッダ時代の故事 (『首楞厳経』巻二) を踏まえた表現。三、 「途 窮 歌 哭 」。 晋 の 阮 籍 が 常 に た だ 一 人、 あ て も な く 車 に 駕 し、 袋 小 路 に 行 き 当 た る た び に 慟 哭 し て 帰 っ た と い う 故 事 (『 魏 氏 春 秋 』) を踏まえた表現。四、 「菊候風流酒一中」 。「菊候風流」は清の厲鶚の「夏秋之交臥疾南湖草堂、 辱竹渓沈六幼牧以佳句三首見寄、 如数奉答」 詩の第三首第六句に見える語句。 「酒一中」 は、 禁酒令が布かれていたとき、 三国魏の徐邈がこっそり飲酒して酩酊し、 問 い 質 さ れ て、 「 聖 人 ( 澄 ん だ 酒 ) に 中 た っ た 」 と 答 え た と い う 故 事 (『 三 国 志 』 魏 書 本 伝 ) を 踏 ま え た 表 現 )注注 (注 。 岐 山 が こ の 文 宴 で 飲 酒 を楽しんだことのみならず、王治本の人柄に心酔したといった意味も込められているかと思われる。 十 月 十 五 日 の『 政 教 新 聞 』 文 苑 に は、 天 籟 山 田 重 光 の「 乙 巳 古 重 陽 湖 海 吟 社 小 集、 分 韵 得「 疎 然 」 二 字、 是 日 黍 ママ 園 先 生 亦 在 籍 」 と 題 す る 作 が 掲 載 さ れ て い る。 こ の 作 品 が あ る か ら に は、 山 田 天 籟 は こ の 日、 富 山 に 来 て い た の で あ る。 上 述 の 文 会 の 一 連の出席者中の「天籟」はやはり山田天籟と見るべきかもしれない。また、彼は湖海吟社の社員であったのかもしれない。 その他、十月十五日の『北陸政報』に橘詩竹の「十月八日諸同人邀飲王 黍 ママ 園 ・ 李斗璜両先生於秋山亭、余有故不能賦之以●」 と題する作が載っており、重陽節の翌日にも湖海吟社の同人たちが王・李の二人を招待する宴会が催したことが分かる。 (三)十月十一日   島田湘州に招かれて 島 田 湘 州 が 十 月 十 一 日、 王 治 本 と 細 野 申 三 を 秋 山 亭 に 招 い た と き に 詠 ま れ た 作 品 の 書 幅 を、 曾 孫 の 島 田 政 啓 氏 が 所 蔵 し て お られる。それを拝見する機会に恵まれたので、ここでその内容を紹介しよう。 こ の 書 幅 は、 ① 王 治 本 の 七 絶 の 連 作 四 首、 ② こ れ に 対 す る 湘 州 の 次 韻 の 作 一 首、 ③ 同 韻 に よ る 申 三 の「 風 光 好 」 詞 一 闋 、 ④ 申 三 の 作 に 和 韻 し た 王 治 本 の「 風 光 好 」 詞 一 闋 の 順 に 揮 毫 さ れ て い る。 ① ② ③ は、 い ず れ も 石 鼓 文 で 書 か れ て お り、 細 野 申 三 の 筆 に 成 る も の と 見 ら れ る。 ④ は 王 治 本 の 筆 跡 で あ る。 な お、 ① は「 乙 巳 之 秋 十 月 仲 一 島 田 湘 州 詞 兄 招 飲 桼 園 先 生 秋 山 亭 酔 餘

(11)

成畳韻絶句四章」 と題されており、 一見王治本以外の人物の作のような印象を与えるが、 これと全く同一の作が十月三十日の 『北 陸 政 報 』 に「 乙 巳 之 秋 十 月 仲 一 島 田 湘 州 詞 兄 招 飲 余 於 秋 山 亭、 酔 餘 成 畳 読 ママ 絶 句 四 章 」 と い う 題 で、 王 黍 ママ 園 の 作 と し て 載 っ て い る。 書 幅 の「 桼 園 先 生 」 の 四 字 は、 申 三 が 王 治 本 の 作 を 筆 写 す る 際 に、 第 三 者 の 立 場 に 立 っ て 書 い た た め に、 こ う な っ た も の と考えられる。唱和の順序からしても、ここには王治本の作がないと不自然である。 さて、①②③を挙げることにしよう。    ①乙巳之秋十月仲一島田湘州詞兄招飲 桼 園先生秋山亭酔餘成畳韻絶句四章 最佳風景晩晴天    最も佳き風景   晩晴の天 江上秋波似画妍    江上の秋波   画に似て妍し 野渡不揺牽索渡    野渡にも揺れず   索を牽いて渡り 行人穏坐過前川    行人   穏やかに坐して   前川を 過 こ ゆ 落霞映水水連天    落霞   水に映じて   水   天に連なり 水色霞光分外妍    水色   霞光   分外に妍し 指点橋西煙樹碧    指点 〔指さす〕 すれば   橋西   煙樹   碧に 呉山一帯隔神川    呉山 〔呉羽山〕 一帯   神川 〔神通川〕 に隔てらる 悠々秋水共長天    悠々たる秋水   長天を共にす 暮色迷離淡更妍    暮色   迷離たり   淡くして更に妍し

(12)

羨 煞 香魚風味好    羨 煞 す   香魚   風味   好きを 把竿我欲釣長川    竿を把りて   我   長川に釣らんと欲す 酒緑鐙紅別有天    酒は緑に   鐙は紅にして   別に天有り 美人顔色似霞妍    美人は顔色   霞に似て妍し 青 廔 隔在西江上    青 廔 は隔てられて   西江上に在るも 風送歌声過野川    風   歌声を送りて   野川を過えしむ    ②湘州詞兄次韻 満江秋水漫長天    江に満つる秋水   長天に 漫 みなぎ り 雨後青山晩霽妍    雨後の青山   晩に霽れて妍し 鉄鎖不揺舟繫岸    鉄鎖   揺れず   舟   岸に繫がれたり 何人呼渡立前川    何人か渡 〔渡し舟〕 を呼びて   前川に立て る )注( (注    ③余亦倚韻塡「風光好」一 闋 午晴天        午晴の天 暮晴天        暮晴の天 秋水盈々碧似烟    秋水   盈々として   碧   烟に似たり 短亭前        短亭の前

(13)

風揺酒燭簾影砕    風   酒燭を揺らして   簾影   砕け 人将酔        人   将に酔わんとす 檀板一声月満川    檀板   一声   月   川に満ち 夜光妍        夜光   妍し ③ の 後 に は「 酔 歩 珊 々 帰 寓、 風 雨 交 鳴、 孤 燈 明 滅 」 と の 識 語 が あ る の で、 宿 舎 に 帰 っ た 後 で 詠 ま れ た も の と 考 え ら れ る。 王 治 本 も 申 三 と 同 宿 し て い た は ず で あ る か ら、 や は り 宿 舎 で 申 三 の 作 を 見 た う え で ④ の 作 を 詠 ん だ と い う こ と に な る だ ろ う (「 読   申 三 詞 兄「 風 光 好 」 一 闋 、 不 覚 神 移、 倚 詞 効 塡 以 博   一 粲 」 と い う 題 で あ る ) 。 書 幅 の 末 尾 に は「 書 奉 / 湘 州 詞 兄 大 人 雅 政 / 園 老 人 王 治 本 時 年七十有一    ㊞」と記されている。書幅完成後、あらためて湘洲のもとに届けられたものと考えられる。 (四)その他の会合 その他、催された日にちは不明だが、王治本を招いての会合が『富山日報』に二件報じられているので、取り上げたい。 (1)内野梅迂主催の風雅会 梅迂と号した内野信一 (一八七四~一九二八。開拓者。大沢野耕地整理組合組合長) が催した 「風雅会」 が、 十月三十日の 『富山日報』 に 「秋 山亭の風雅会」という見出しで報じられている。これを紹介しよう。記事はまず、 当 市 の 内 野 梅 迂 山 人 は 此 程 清 儒 王 黍 ママ 園 を 主 賓 と し 四 方 の 雅 客 を 招 き て 神 通 江 畔 秋 山 亭 に 於 て 一 席 の 茶 筵 を 開 き 半 日 の 閑 を 消 し け る が 来 会 者 無 慮 百 数 十 に 上 り 近 来 稀 有 の 雅 会 と し て 好 事 者 の 羨 称 措 か ざ る 処 な り 当 日 排 陳 せ ら れ た る 器 什 は 孰 れ も 秘蔵の逸品にして実に左の如くなりき

(14)

と 述 べ て、 第 一 席 ( 明 の 曹 有 光 の 仙 舘 幽 居 の 図 等 ) 、 第 二 席 ( 盆 栽 等 ) 、 第 三 席 ( 亀 田 鵬 斎 の 水 墨 山 水 等 ) 、 第 四 席 ( 石 荘 山 人 の 疎 林 遠 岫 の 図 等 ) 、 第 四 席 副 席 ( 浦 上 春 琴 愛 蔵 の 班 ママ 竹 の 机 等 ) 、 そ れ ぞ れ の「 秘 蔵 の 逸 品 」 を 紹 介 し て い る。 な お、 第 三 席 に は、 こ の 日 招 待 さ れ て い た 日 本 画 家、 浅 井 柳 塘 ( 一 八 四 二 ~ 一 九 〇 七 ) 所 蔵 の 茶 器 等 も 含 ま れ て い た。 こ の 後、 同 記 事 は「 当 日 席 上 王 黍 ママ 園 の 記 あ り 云 く 」 と して、王治本の筆に成る次の文章を掲げている。    秋山亭茶筵記 内 野 梅 迂 君、 風 雅 士 也。 聯 翰 墨 之 良 縁、 修 湯 甌 之 韻 事。 暫 分 酒 座、 品 取 酪 奴、 恰 愛 水 亭、 甞 来 森 伯。 適 是 日 秋 高 気 朗。 喜 此 間 水 秀 山 明、 開 画 閣 以 延 賓、 仮 繡 屛 而 分 座。 洞 天 石 畔、 並 列 名 花、 畳 嶂 画 前、 紛 陳 古 鼎。 金 爐 乍 沸、 珠 履 紛 来。 ( 中 略 ) 香 浮 碧 乳、 嫩 煑 緑 芽、 可 以 清 詩 膓、 可 以 換 凡 骨。 此 味 唯 為 玉 泉 子 所 深 嗜、 非 陶 大 尉 所 能 知 也。 余 何 人 也、 得 与 斯 会、 賞 雲 龕 之 楽 事、 埀 藝 苑 之 佳 談。 幸 何 如 之。 〔 内 野 梅 迂 君 は、 風 雅 の 士 な り。 翰 墨 の 良 縁 に 聯 な り、 湯 甌 の 韻 事 を 修 む。 暫 く 酒 座 を 分 か ち、 品 ご と に 酪 奴 を 取 り、 水 亭 を 恰 愛 し、 森 伯 を 甞 め 来 る。 適 た ま 是 の 日   秋 高 く 気 朗 ら か な り。 此 の 間 の 水 秀 で 山 明 ら か な る を 喜 び、 画 閣 を 開 き て 以 て 賓 を 延 き、 繡 屛 を 仮 り て 座 を 分 か つ。 洞 天 石 畔、 名 花 並 列 し、 畳 嶂 画 前、 古 鼎 紛 陳 せ ら れ た り。 金 爐 乍 ち 沸 く や、 珠 履 紛 あいつい で 来 る。 ( 中 略 ) 香   碧 乳 浮 か び、 嫩 やわらか く 緑 芽 を 煑 れ ば、 以 て 詩 膓 を 清 く す 可 く、 以 て 凡 骨 を 換 う 可 し。 此 の 味 は 唯 玉 泉 子 の 深 く 嗜 む 所 た り、 陶 大 尉 の 能 く 知 る 所 に 非 ざ る な り。 余 は 何 人 ぞ や、 斯 の 会 に 与 かり、雲龕の楽事を賞し、藝苑の佳談に 埀 とど むるを得たり。幸い何か之に如か ん )注注 (注 。〕 こ の 後、 「 浅 井 柳 塘 も 亦 詩 あ り 云 く 」 と し て 七 絶 二 首 が 掲 げ ら れ、 「 実 に 藝 苑 の 佳 譚 と し て 後 に 伝 ふ べ き な り 」 と の 言 葉 で 締 めくくられてい る )注注 (注 。 (2)内山外川に招かれて 内 山 外 川 が 王 治 本・ 大 西 金 陽・ 細 野 申 三 の 三 人 を 秋 山 亭 に 招 い た 際、 「 秋 山 旗 亭 」 の 四 字 で 分 韻 し て 各 人 が 賦 し た 作 が、

(15)

十 一 月 二 日 の『 富 山 日 報 』 文 苑 に 載 っ て い る。 ま ず 王 (「 秋 」) ・ 大 西 (「 山 」) ・ 内 山 (「 旗 」) の そ れ ぞ れ 七 絶 四 首、 次 に 細 野 の 菩 薩 蛮 詞 (「 亭 」) と こ れ に 和 し た 王 の 作 の 順 に 配 列 さ れ て い る が、 王 の 七 絶 四 首 全 部、 大 西 と 内 山 は 各 三 首、 菩 薩 蛮 は 二 首 と も 掲 げることにしよう。    内山外川詞兄招飲秋山亭、以秋山旗亭四字分韻、拈得秋字    王治本 賞罷重陽 己 ママ 暮秋    重陽を賞し罷われば   己 すで に暮秋 尋詩又酔酒家楼    詩を尋ねて又酔う   酒家の楼 為嫌入夜寒風峭    夜に入りて寒風 峭 きび しきを嫌うが為に 簾幕埀々不上鈎    簾幕   埀々たり   鈎に 上 か けず 一雨初晴夜色幽    一雨   初めて晴れて   夜色   幽に 蘆花瑟々水悠々    蘆花   瑟々として   水   悠々たり 扁舟不渡人声静    扁舟 〔小舟〕 渡らず   人声   静かに 幾点漁燈傍岸浮    幾点かの漁燈   岸に傍いて浮かびたり 秋山亭上者番游    秋山亭上   者 この 番 たび の游 聊藉吟尊遣客愁    聊か吟尊に 藉 よ りて   客愁を遣る 酔後憑欄情脉々    酔後   欄に憑れば   情   脉々たり 待看残月上山頭    看るを待つ   残月   山頭に上るを

(16)

分題拈韻逞風流    題を分かち韻を 拈 と りて   風流を逞しくし 無限幽情筆底収    無限の幽情   筆底に収む 攪乱詩魂誠悪客    詩魂を攪乱するは   誠に悪客 〔招かれざる客〕 厭聴隔坐美人謳    聴くを厭う   坐を隔てて   美人   謳うを    得山字    大西金陽 神江十里水潺々    神江   十里   水   潺々たり 一座旗亭隔市 闤    一座の旗亭   市 闤 に隔たる 領略呉山秋色淡    領略 〔見て味わい感じ取る〕 す   呉山   秋色   淡く 宛如画意仿荊関    宛も画意   荊関 〔五代の画家荊浩・関仝の師弟〕 に仿うが如し 晩来倚檻看雲還    晩来   檻に倚りて   雲の還るを看 欲写秋容下筆難    秋容を 写 か かんと欲するも   筆を下すこと難し 鱸美蟹肥風味好    鱸は 美 うま く   蟹は肥えて   風味   好し 幽情聊寄酒盃間    幽情   聊か寄せん   酒盃の間 雪峯萬丈奈難攀    雪峯   萬丈   攀じ難きを奈せん 為恨老来腰力慳    為に恨む   老来   腰力   慳 すくな きを 摹 取崔巍雲際影    崔巍たる雲際の影を 摹 と 取 り

(17)

擬拈禿筆写名山    禿筆を拈りて名山を写かんと擬す これらの作には王治本の 「絵情絵景、 真箇詩中有画 〔情を絵き景を絵く、 真 まことに 箇 「詩中に画有り」 なり〕 」 との評が付されている。画家金陽、 面目躍如たるものがあっただろう。次に内山の作。    得旗字    内山外川 尋盟鷗鷺訂幽期    盟を鷗鷺に尋ねて   幽期を訂め 九日曾茲載酒随    九日   曾て茲に   酒を載せて随いぬ 今夕江楼重買酔    今夕   江楼   重ねて酔いを買え 〔痛飲する〕 ば 明燈素壁読君詩    明燈   素壁   君が詩を読む 滲緑青春感少時    緑 滲 にじ む青春   少き時に感ずるも 到頭剰看 髩 成絲    頭 いま に到っては剰お看る   髩   糸と成れるを 可堪風月廿餘歳    堪う可けんや   風月   廿餘歳 一盞秋燈重問奇    一盞の秋燈   重ねて奇を問わんとは 明月吹笙憶牧之    明月に笙を吹けば   牧之を憶う 揚州劫後鶴帰遅    揚州   劫後   鶴   帰ること遅し 陌頭 揚 ママ 聊空斜日    陌頭の揚聊   空しく斜日

(18)

只看一亭飄酒旗    只看る   一亭   酒旗飄るを 内 山 が 意 識 し て い た か 否 か は 不 明 だ が、 杜 牧 と 揚 州、 さ ら に そ の 劫 後 ( 匪 賊 に よ る 劫 略 ) の 様 子 に 至 る ま で を 詠 み 込 ん だ 作 品 と し て は、 南 宋 の 姜 夔 が 金 軍 に よ る 侵 略 後 十 五 年 た っ た 揚 州 を 訪 れ て 詠 ん だ 詞「 揚 州 慢 」 が あ る。 内 山 の こ の 作 品 は 王 治 本 を 鶴 に た と え、 彼 と の 再 会 を 待 ち わ び て い る 間 に、 自 ら も 晩 年 を 迎 え て し ま っ た と い う よ う な 心 境 を 詠 ん だ も の と 解 す る こ と が で きるが、 「劫」という表現を重く受け止めるなら、それは日清戦争あたりをたとえているということになる。 次は細野と王治本の「菩薩蛮」 。    得亭字調寄菩薩蛮    細野申三 秋雨乍歇川流急    秋雨乍ち歇みて   川流急に 呉山日暮寒烟碧    呉山   日暮   寒烟碧なり 灘角小魚肥      灘角   小魚肥え 沙禽掠水飛      沙禽 〔砂浜に住む水鳥〕 水を掠めて飛ぶ 詩人多愛酒      詩人は多く酒を愛し 身似黄華痩      身   黄華 〔菊〕 の似く痩せたり 覓句上旗亭      句を覓めて旗亭に上るも 酔多詩未成      酔い多くして   詩   未だ成らず

(19)

   和申三兄韻     王治本 当年歌管声如沸    当年   歌管   声   沸くが如く 天 上 ママ 楼上多佳麗    天 てんじん 上 楼 ろう 上   佳麗多かりき 崔護者番来      崔護   者番来れば 桃花変緑苔      桃花   緑苔に変じたりき 旧題壁上詩      旧 もと 壁上に題せし詩 化作劫塵飛      化して劫塵と作りて飛びたり 賸看一旗亭      賸お一旗亭を看れば 風颺帘影青      風 颺 あが りて   帘影青し この作品は全体として 『本事詩』 情感のいわゆる 「人面桃花」 の話を踏まえる。 「天上楼」 は、 王治本が二十三年前の富山滞在時、 しばしば遊んだ料亭「天人 楼 )注注 (注 」の誤りと思われる。

二、再び金沢へ

十 一 月 一 日 の『 北 國 新 聞 』 に「 王 桼 園 詞 宗 の 再 遊 」 と い う 見 出 し で、 「 富 山 県 下 漫 遊 中 の 王 李 ママ 園 詞 宗 は 三 四 日 中 に 再 び 来 沢 し前寓所なる殿町細野申三氏方に暫時滞在、 詩文書の依嘱に応ずべしと云ふ」という記事が載り、 三日の『富山日報』には「清 儒 王 治 本 出 発 」 と い う 見 出 し で、 「 今 日 金 沢 市 に 向 け 出 発、 同 市 殿 町 細 野 申 三 方 に 一 カ 月 餘 滞 在 の 筈 な り 依 頼 の 詩 文 に て 出 来

(20)

上 ら ざ る 向 は 同 地 よ り 本 人 へ 送 附 す べ し 」 と い う 記 事 が 載 っ て い る。 そ し て、 六 日 の『 北 國 新 聞 』 に は「 王 桼 園 詞 宗 の 近 什 」 と い う 見 出 し で、 一 日 の 記 事 と ほ ぼ 同 内 容 の こ と を 記 し た う え で、 「 氏 の 近 什 二 律 左 の 如 し 」 と し て、 金 沢 へ 向 か う 車 中 で 詠 まれた富山諸友への留別詩が掲載されている。    乙巳小春月 六 )注注 (注 日富山回程車中率成二律留別富山諸友 多謝諸君厚愛忱    多謝す   諸君   厚愛の 忱 まこと 相偕新旧訂苔岑    新旧   ともに   苔岑 〔同志の友〕 と 訂 むす べり 詩壇文社頻番会    詩壇   文社   頻番 〔頻繁〕 に会し 酒座茶筵次第斟    酒座   茶筵   次第に斟む (中略) 前遊爪跡悲零落    前遊の爪跡   零落せるを悲しむ 今日又成倦翼 禽 )注注 (注    今日   又   成りぬ   翼倦れたる禽に 送我遠過神水潯    我を送りて遠く過ゆ   神水の 潯 みぎわ 斯情比較水尤 勝 )注注 (注    斯の情   水に比較して 尤 はるか に勝れり (中略) 不尽流連文字契    流連を尽くさず   文字の契 最難消遣別離心    最も消遣し難し   別離の心 重逢未久重分手    重ねて逢い   未だ久しからずして重ねて手を分かつ

(21)

後会悠々何処尋    後会は悠々たり   何れの処にか尋ね ん )注注 (注 ところで、 十一月三日に金沢に戻った王治本は、 その八日後には東京にその姿を現している。 永井禾原 (一八五二~一九一三) が「古 暦十月望」 (陽暦十一月十一日に当たる) 」に、 自宅来青閣 (東京市小石川区) で催した集まりに参加したのである。その時のことがこの 年の十二月五日出版の『随鷗集』第十五編「墨田佳話」に小青居士、大久保湘南 (一八六五~一九〇八) により、 「来青閣燭集」と の 見 出 し の 下、 記 録 さ れ て い る。 王 治 本 が な ぜ わ ざ わ ざ 東 京 ま で 行 っ た の か、 今 の と こ ろ 不 明 な の だ が、 こ の 時 点 で の 彼 の 以 後の心算を窺う手掛かり等も見られるので、本稿の必要に応じた範囲内でこの記事の内容を紹介したい。 こ の 会 に 招 か れ た の は、 田 中 夢 山 ( 名 不 二 麿。 一 八 四 五 ~ 一 九 〇 九 ) ・ 森 槐 南 ( 一 八 六 三 ~ 一 九 一 一 ) ・ 永 坂 石 埭 ( 一 八 四 五 ~ 一 九 二 四 ) ・ 岩 渓 裳 川 ( 一 八 五 五 ~ 一 九 四 三 ) ・ 手 島 海 雪 ( 一 八 五 九 ~ 一 九 〇 七 ) ・ 大 久 保 湘 南・ 王 治 本 の 面 々 だ っ た。 「 時 に 海 雪   塩 務 を 以 て 将 さ に 遼 東 に 航 せ ん と し )注注 (注 、 園 も 亦 越 中 よ り 旋 り、 復 た 重 ね て 越 に 赴 む か ん と す、 此 を 以 て 席 上 の 和 韻 往 往 二 君 の 送 別 に 言 及 」 し た と いう。参会者の作が数多く記録されているが、その中で、蕭韻の海雪の作に王治本が次韻した送別の作の其の一に、 紅流蠋涙冷光揺    紅   蠋涙を流して   冷光揺れ 別恨牽縈興不饒    別恨   牽縈 〔心にかかる〕 して   興   饒 おお からず 君赴遼東 卭 ママ 越北    君は遼東に赴き   卭 わ れ は越北 離歌唱徹月明宵    離歌   唱い 徹 つ くさん   月明らかなる宵 とあり、海雪がこれに畳韻し王治本を送る作には、

(22)

遼東越北望迢揺    遼東   越北   望めば迢揺たり 分手白雲紅葉饒    手を白雲に分かたんとすれば   紅葉饒し 秋色一尊同対月    秋色   一尊 〔樽〕   同に月に対し 高吟且賞此良宵    高吟して且く此の良宵を賞せん とあり、夢山が同じ韻を借りて王治本を送る作には、 暮簾如夢燭光揺    暮簾   夢の如く   燭光揺れたり 別恨饒於落葉饒    別恨   落葉の饒きよりも饒し 七十二橋秋欲尽    七十二橋   秋   尽きんと欲す 可憐人倚可憐宵    憐れむ可き人   憐れむ可き宵に倚る と あ る の に よ れ ば、 「 越 北 」 と い い、 「 七 十 二 橋 )注注 (注 」 と い い、 こ の 会 で 王 治 本 が 東 京 の 後、 新 潟 へ 向 か う 予 定 だ と 語 っ て い る 姿 が 髣髴としてくる。 新 潟 は 彼 が 十 五 年 か ら 十 六 年 に か け て 一 年 間 漫 遊 し た 所 で あ る が、 そ の 新 潟 へ 再 び 行 こ う と し た 動 機 は 不 明 で あ る。 ま た、 実 際 に 行 っ た と い う 裏 付 け は、 今 の と こ ろ 取 れ て い な い )注( (注 。 行 っ て い な い の で は な い か と い う 疑 い を 強 め る 資 料 も あ る。 そ れ は 十 一 月 二 十 七 日 の『 北 國 新 聞 』 の「 王 桼 園 詞 宗 送 別 会 」 と い う 見 出 し の 記 事 の「 七 尾 漫 游 中 の 清 国 鴻 儒 王 治 本 詞 宗 は 同 地 火 災 の 為 め 一 昨 日 急 遽 帰 沢 し 殿 町 細 野 申 三 氏( 氏 も 詞 宗 と 共 に 帰 沢 し た る が 同 地 に 於 て 右 足 負 傷 の 為 め 静 養 中 ) 方 に 滞 在 中 」 だ と いう部分である。十一月十一日に東京に滞在していて、 その後、 七尾へ行って二十五日に金沢に戻って来た齢従心の王治本に、

(23)

七尾の前に新潟まで行く余裕があっただろうか。来青閣ではその希望を表明しただけと見るのが自然なようにも思われる。 さ て、 『 北 國 新 聞 』 の こ の 記 事 は、 以 下、 王 治 本 が「 来 十 二 月 一 日 当 地 発 に て 福 井 へ 赴 く こ と と な り し に 付 明 後 廿 九 日 午 前 四 時 よ り 殿 町 殿 待 楼 に 於 て 霊 沢 吟 社 諸 同 人 は 詞 宗 の 為 め 送 別 会 を 催 す 由 ( 下 略 ) 」 と 続 く。 送 別 会 の 模 様 は、 十 二 月 一 日 の 同 紙 に「殿待楼雅会」という見出しの下、次のように記載されている。 霊 沢 吟 社 諸 同 人 の 発 企 に て 一 昨 夕 殿 町 殿 待 楼 に 開 会 し た る 三 名 家 招 待 雅 会 は 正 賓 王 桼 園 詞 宗、 浅 井 柳 塘 画 伯( 中 林 梧 竹 翁 は 富 山 よ り の 帰 期 俄 に 延 引 し 欠 席 ) を 始 め 土 居 香 国、 小 池 梅 処、 広 岡 尾 山、 吉 田 愚 渓、 石 橋 養 元、 中 浜 松 香、 平 賀 東 吾、 渡 辺 牧 野、 北 方 月 泉、 帰 山 芝 蘭、 泉 谷 雨 声、 細 野 申 三 氏 等 無 慮 四 十 名 と 注 せ ら れ 近 来 の 盛 会 に し て 席 上 唱 和、 揮 毫 あ り 酒 間風流談に時を移し夜半漸く散会を告げたり 中 林 梧 竹 ( 一 八 二 七 ~ 一 九 一 三 ) は 明 治 の 三 筆 の 一 人、 こ の こ ろ 北 陸 を 巡 っ て い た ら し い )注注 (注 。 既 出 の 土 居、 小 池、 広 岡、 渡 辺、 北 方、 細 野 以 外 で、 情 報 の 得 ら れ た 人 物 を 簡 単 に 説 明 し て お こ う。 吉 田 愚 渓 は、 中 村 正 直 ( 一 八 三 二 ~ 一 八 九 一 ) の『 敬 宇 文 集 』 に 「跋吉田愚渓書」 と題する 文 )注注 (注 があり、 その中に初め佐瀬得所 (一八二二~七八) に師事したことが記されている。書家のようである。 石橋養元 (一八四五~一九一二) は北國新聞社の編集顧問や弁護士を務めた石橋忍月の養父。 「久留米より金沢に来住」 、「歌をよく し、自宅で江南軒歌会を開い た )注注 (注 」。中浜松香 (一八五七~一九二一) は画家。父祖三代にわたる画家の家 系 )注注 (注 。他の人物は未詳。 さ て、 同 記 事 は「 今 王 桼 園 詞 宗 留 別 の 七 律 二 首 を 掲 ぐ れ ば 左 の 如 し 因 に 香 国 詞 宗 以 下 の 次 韻 は 改 め て 録 す る 処 あ る 可 し 」 と して、王治本の作二首を掲載している。 「尤」韻の第一首だけ掲げることにしよう。なお、第二首は「真」韻。    乙巳季冬将発金城赴福井餞於俟公 楼 )注注 (注 賦此留別    王 桼 園

(24)

狂遊随処似萍浮    狂遊   随処   萍の浮かぶに似たり 書剣飃零到白頭    書剣もて飃零し   白頭に到る 子畏売文嗟末路    子畏は文を売りて   末路に嗟き 仲宣作賦倚● 廔    仲宣は賦を作りて   ● 廔 に倚る 立山晁水行将別    立山   晁水   行くゆく将に別れんとし 残月暁風易惹愁    残月   暁風   愁いを惹き易し 強自寛懐傾竹葉    強いて自ら懐いを寛くせんと   竹葉 〔美酒〕 を傾くれば 偏教燭涙倩人流    偏えに燭涙をば人に 倩 たの んで流さしむ 第 三 句 の「 子 畏 」 は 明 の 唐 寅 の 字。 唐 寅 は 売 文 売 画 の 生 活 を 送 っ た 人 と し て 知 ら れ て い る )注注 (注 。 第 四 句 は、 後 漢 の 王 粲 ( 字 仲 宣 ) が 異 郷 で 楼 に 登 っ て「 登 楼 賦 」 を 作 り、 「 信 に 美 し と 雖 も 吾 が 土 に 非 ず、 曾 ち 何 ぞ 以 て 少 し く 留 ま る に 足 ら ん 」 と 詠 ん だ 故 事 を踏まえていると考えられる。尾聯は、 明るい気持ちになろうと杯を重ねるうち、 傍らで流れる「燭涙」 (蠟燭が燃えて、 流れる蠟) につられ、意に反して自分も涙を流すことになってしまったの意か。 「 香 国 詞 宗 以 下 の 次 韻 」 の 作 品、 及 び 送 別 会 で 詠 ま れ た と 見 ら れ る 他 の 作 品 が、 併 せ て 十 二 月 二 日 の 同 紙 に 掲 載 さ れ て い る。 それらのうち、香国と尾山の作を掲げることにしよう。    与霊沢吟社諸同人俟公楼送王 桼 園先生赴福井、酒間賡其留別詩韻二律併政    香国   土居通豫 始識人生只是浮    始めて識る   人生は只是れ浮かべるのみなるを 別筵忽漫独搔頭    別筵   忽漫として独り頭を搔く

(25)

詞源飜倒三州水    詞源   飜倒す   三州の水 筆力応揺五嶽楼    筆力   応に揺るがすべし   五嶽楼 (後半四句省略) 第三句は、 杜甫が従姪の文章の力をたたえた 「詞源倒流三峡水、 筆陣独掃千人軍」 (「酔歌行」 ) を踏まえているだろう。 第四句の 「五 嶽楼」は福井にあった旅館。十五年の王治本の福井訪問時、ここで「別宴」が催され た )注注 (注 。    同    広岡尾山 無限離情杯裏浮    無限の離情   杯の裏に浮かぶ 明朝分手空回頭    明朝   手を分かたば   空しく頭を 回 めぐ らすのみならん 尾山夜雨茲参坐    尾山 〔金沢の古称〕 の夜雨   茲に参坐し 羽水風烟卜寓楼    羽水 〔福井を流れる足羽川〕 の風烟   寓楼を卜せん 緑酒紅燈須尽酔    緑酒   紅燈   須く酔いを尽くすべし 残楓枯柳自成愁    残楓   枯柳   自ら愁いを成す (尾聯省略) そ の 他、 吉 田 愚 渓 の 真 韻 の 五 律「 俟 公 楼 即 吟 」 と 尤 韻 の 七 絶「 送 王 桼 園 先 生 赴 福 井 」 が 掲 載 さ れ て い る。 ま た、 十 二 月 七 日 の 同 紙 に は、 「 次 韻 土 居 香 国 詞 宗 与 広 岡 尾 山 諸 君 餞 王 桼 園 先 生 和 其 留 別 之 作 先 生 二 十 年 前 甞 一 到 而 今 復 忽 々 赴 福 井 予 病 中 悵 然 以 此 寄 併 請 雅 正 〔 土 居 香 国 詞 宗 と 広 岡 尾 山 諸 君 の 王 桼 園 先 生 を 餞 し、 其 の 留 別 に 和 す る の 作 に 次 韻 す。 先 生 は 二 十 年 前   甞 て 一 た び 到 り、 而 し て 今 復 た 忽 々

(26)

と し て 福 井 に 赴 く。 予   病 中   悵 然 と し て 此 れ を 以 て 寄 せ、 併 せ て 雅 正 せ ん こ と を 請 う 〕 」 と 題 す る 蘭 疇 小 川 孜 成 ( 一 八 四 四 ~ 一 九 〇 八 ) の 尤 韻 の 七 律が掲載されている。 三十八年の金沢における王治本の足跡・活動を紹介してきたが、最後に二点追加しておきたい。 ⑴ 十 一 月 十 三 日 の『 政 教 新 聞 』 に 王 治 本 の「 祝 政 教 新 聞 二 千 日 」 と 題 す る 七 絶 二 首 が 掲 載 さ れ て い る こ と。 当 時 同 紙 の 漢 詩 文欄「文苑」を担当していた愛弟子、山田天 籟 )注注 (注 の依頼に応じたものだったろう。 ⑵ 村 上 珍 休( 一 八 四 三 ~?) の『 函 峯 文 鈔 )注注 (注 』 に 跋 を し た た め た こ と。 珍 休 は 小 田 原 の 出 身 で あ る が、 「 二 十 五 年 八 月 来 っ て 第四高等学校教授となり、漢文学を担当し明治四十年九月に至っ た )注( (注 」人である。その跋文は次のようなものである。 余 自 丁 丑 春 始 客 東 瀛、 以 文 酒 之 会 獲 交 毅 堂 山 長。 山 長 不 以 余 不 文、 時 出 近 著、 相 与 論 榷。 山 長 為 東 都 宿 儒、 学 識 淵 深、 文 材 超 卓、 其 為 文、 力 追 昌 黎・ 子 厚 之 間、 門 下 有 高 弟 二 人、 神 波 即 山 以 詩 名、 村 上 函 峰 以 文 名。 余 所 欽 慕 者 久 之。 今 茲 乙 巳 秋仲余客游加州、 適函峰司教在加、 得以重晤。一日函峰来訪、 出示『函峯文鈔』 、 曰「近将付梓、 乞為跋後」 。余就而読之、 覚 其 製 局 必 厳、 立 言 必 正、 凡 所 持 論 要 旨 皆 有 益 時 事、 有 関 名 教、 ( 中 略 ) 即 探 勝 絵 情 之 篇 亦 寓 有 敦 品 勧 学 之 旨。 故 能 不 事 粉 飾 而 気 自 清 華、 不 仮 舖 張 而 論 自 堅 卓、 其 精 到 処 直 欲 追 歩 山 長、 洵 不 負 師 門 之 真 伝 者 矣。 山 長 去 世 既 久、 即 山 亦 早 作 故。 余 今又得与函峰尊酒論文、感慨之餘、差堪稍慰耳。乃為之歴叙交契之忱、附書巻末、以誌仰企。 〔余   丁丑の春始めて東瀛に客たり しより、 文酒の会を以て交わりを毅堂山長に獲たり。山長は余を不文と 以 おも わず、 時に近著を出だし、 相与に論榷す。山長は東都の宿儒たり、 学識淵深にして、 文 材 超 卓 た り、 其 の 文 を 為 す や、 力   昌 黎・ 子 厚 の 間 に 追 およ ぶ。 門 下 に 高 弟 二 人 有 り、 神 波 即 山 は 詩 を 以 て 名 だ か く、 村 上 函 峰 は 文 を 以 て 名 だ か く、 余 の 欽 慕する所の者   之を久しく す )注注 (注 。今茲乙巳秋仲   余   加州に客游するに、 適たま函峰司教   加に在り、 以て重ねて晤うを得たり。一日函峰来訪し、 『函峯文鈔』 を出だし示して、曰く「近ぢか将に梓に付せんとす。乞う跋を後ろに為せ」と。余就きて之を読み、其の製局 必 ことごと く厳に、立言必く正しく、凡そ持する所の 論は要旨皆   時事に益する有り、名教に関する有り、 (中略)探勝絵情の篇とても亦品を 敦 はげま し学を勧むるの旨を寓有するが故に、能く粉飾を事とせずして気

(27)

自 ら 清 華 に、 舖 張 を 仮 ら ず し て 論 自 ら 堅 卓 に し て、 其 の 精 到 な る 処 は 直 ますぐ に 山 長 に 追 歩 せ ん と 欲 し、 洵 に 師 門 の 真 伝 者 に 負 か ざ る を 覚 え た り。 山 長 は 世 を 去 り て 既 に 久 し く、 即 山 も 亦 早 く 故 と 作 り ぬ。 余 今 又   函 峰 と 尊 酒 も て 文 を 論 ず る を 得 て、 感 慨 の 餘 り、 差 ど 稍 慰 む る に 堪 え た る の み。 乃 ち 之 が 為 に 交 契 の 忱を歴叙して、巻末に附書し、以て仰企を誌せり。 〕 )注注 (注 光緒乙巳小春月下澣     淛 東 園老人王治本譔 幷 書 識 語 の「 光 緒 乙 巳 小 春 月 下 澣 」 は、 額 面 通 り な ら ば、 こ の 年 の 十 一 月 十 七 日 か ら 二 十 六 日 ま で の 間 と な る か ら、 こ の 跋 の 執 筆は七尾から帰った直後かと思われる。

三、福井滞在

十 二 月 一 日 に 細 野 申 三 と 共 に 金 沢 を 発 っ た 王 治 本 は、 そ の 日 の う ち に 福 井 に 着 い た で あ ろ う が、 二 日 後 の 三 日 に は 王 治 本 を 招いての「雅宴」が催された。その時詠まれた作品と「蘋園令尹の雅宴」と題する記事 (作品も含む) とが、 福井発行の新聞『北 日 本 』 の 十 二 月 五 日 第 一 面 と 第 三 面 に そ れ ぞ れ 掲 載 さ れ て い る の で 紹 介 し た い が、 事 の 経 緯 が 述 べ ら れ て い る 第 三 面 の 記 事 を 先に引用することにしよう。 蘋園令尹の雅宴 既 記 の 如 く 坂 本 令 尹 は 清 国 文 豪 王 黍 ママ 園 翁 の 来 福 に 際 し 一 昨 三 日 午 後 四 時 よ り 翁 の 紹 介 旁 雅 宴 を 三 秀 園 〔 福 井 藩 家 老 邸 宅 跡 〕 に 設 け ら れ た る が 当 日 は 主 賓 翁 及 び 其 随 員 細 野 某 を 始 と し 詩 歌 風 韻 を 弄 す る 文 人 墨 客 の 会 合 の 事 と て 各 種 の 人 物 を 一 堂 に 見

(28)

る を 得 た る は 近 来 の 快 事 な り し、 聞 く 所 に よ れ ば 翁 は 今 を 去 る こ と 三 十 一 年 前 率 先 し て 来 朝 せ し )注注 (注 も の 今 や 横 濱 表 に 寓 居 を 設 け 悠 々 詩 文 を 弄 し て 風 月 を 嘲 罵 し つ ゝ あ り、 朝 野 知 名 の 紳 士 に し て 苟 も 詩 趣 雅 懐 に 富 め る も の は 翁 と 交 通 を 為 さ ゞ る も の な く 従 ふ て 翁 を 敬 愛 す る も の 尤 も 多 し と 云 ふ、 翁 は 過 般 七 尾 及 金 沢 に 遊 び 目 下 来 福 し て 羽 畔 〔 足 羽 川 畔 〕 名 和 屋 旅 館 に 滞 在 し 博 く 江 湖 の 希 望 に 応 じ 揮 毫 を 為 す よ し 翁 は 年 歯 将 に 六 マ 十 マ に 近 く 白 髯 禿 頭 の 紳 士 な る も 矍 鑠 と し て 健 啖 加 ふ る に 温 雅 交 際 に 長 し 一 見 尚 ほ 旧 の 如 き 態 度 を 以 て 人 に 接 す る の 風 あ り 故 に 当 日 の 雅 宴 も 終 始 歓 声 和 ● の 裡 に 成 立 し た り、 本 紙 第 一 面 所 報 の 詩 作 の 如 き 各 大 家 の 詩 文 立 と こ ろ に 成 り し 如 き、 又 特 に 坂 本 令 尹 の 筆 談 幷 に 翁 と 堯 民 県 長 の 筆 談 若 く は 令 尹 の 松 原 一 城 氏 及 本 社 龍 洲 の 紹 介 筆 談 の 如 き 酒 間 頗 る 興 を 添 ゆ る も の 少 な か ら ず 加 ふ る に 数 名 の 佳 人 杯 盤 に 周 旋 し て 毫 も 遺 憾 な か り し が、 遉 さすが に 詩 人 雅 客 の 会 合 と て 何 等 絃 歌 の 声 聞 か ざ り し は 近 来 に 於 け る 清 宴 と 謂 ふ べ し、 今 左 に 坂 本 令 尹 及 ひ 王 翁 並 に 堯民議長の筆談を掲げん 蘋園令尹は坂 (阪) 本釤之助 (一八五七~一九三六) 、蘋園はその号。永井禾原の実弟で、 当時福井県知事を務めていた。堯民県長は、 この年の十一月二十日に福井県会議長に就任したばかりの大橋松二郎 (一八六八~一九二〇) のこと。 「松原一城」は『真宗   安心 邪 正 明 治 断 概 評   真 宗   安 心 邪 正 明 治 断 続 餘 』 と い う 著 書 )注注 (注 が あ り、 戸 沢 春 堂 編『 真 理 之 暁 』 第 二 )注注 (注 に「 会 員 」 と し て「 道 徳 を 論 ず」という文章を書いている人物。龍洲は後出の大畠龍洲か。 こ の 後、 漢 文 に よ る 筆 談 が、 適 宜 場 面 の 転 換 を 示 す 和 文 の 説 明 を 挟 み つ つ、 談 ご と に 改 行 し て 掲 げ ら れ て い る の で あ る が、 漢文を書き下し、 改行はせずに、 ここに掲げることにしよう。もともと和文であった部分 (王治本のたどたどしい日本語での発言も含む) には傍線を施しておく。 令 曰 く「 前 年 の 遊 は 何 れ の 時 に 在 り し か 」 と。 王 曰 く「 初 め 到 る は 七 月、 回 程 は 次 の 年 の 三 月 な り き 」 と。 令 曰 く「 先 生

(29)

旧 作 の 満 江 紅 を ば、 鷗 波 翁 愛 蔵 し た れ ど も、 余 借 覧 す る こ と 之 を 久 し く す 」 と。 王 曰 く「 金 沢 に 横 山 蘭 洲 先 生 有 り 」 と。 令 曰 く「 弟 は 春 濤 翁 の 家 塾 に 在 る の 日   蘭 洲 先 生 を 識 り ぬ。 弟   福 井 に 来 る の 日、 先 生 既 に 亡 し。 悲 し い か な 」 と。 王 曰 く「 横 濱 は 詩 人 少 な し。 昨 年 弟   令 兄 と 初 め て 斜 川 吟 社 を 創 り た れ ど も、 弟   此 に 遊 び し よ り、 社 又 停 ま れ り 」 と。 令 曰 く「家兄及び 第 ママ   先生と交わること此に三十年なり。萍梗相逢う。感曷ぞ勝えん」 と。王曰く 「賢昆仲三位皆知 已 ママ なり」 と。 又曰く 「金昆玉友皆詩人なり」 と。 坂本太守松原一城翁を介して曰く 「老来   書画を学び   皆   妙に臻る」 と。又曰く 「鳴 鶴 翁 に 就 き て 書 を 学 び、 北 奥 に 従 遊 し た り 」 と。 王 曰 く「 即 ち 是 れ 東 嬴 の 山 翁・ 冬 心 先 生 を 恋 う る な り 」 と。 坂 本 太 守 更 に 大 橋 議 長 を 紹 介 し て 曰 く 「 県 に 会 議 有 り、 事 太 だ 繁 し。 堯 民 先 生 は、 職   議 長 に 在 り、 復 た 詩 を 思 う の 閑 無 し。 余 も 亦 同病相憐れむ」 と。王曰く 「詩を以て暇を告げよ」 と。堯曰く 「即答し難し」 と。又曰く 「玉礎に攀して以て詩を成さん。 期 せ ん   明 朝 乞 う   再 び 晤 わ ん こ と を 許 せ 」 と。 令 曰 く「 明 朝 の 約   若 し 之 に 愆 わ ば、 罰 す る に 百 杯 を 以 て せ ん 」 と。 堯 曰 く「 謹 ん で 命 を 奉 ぜ ん。 尚 お 請 う   紅 裙 十 人 を し て 侍 坐 せ し め よ 」 と。 令 曰 く「 紅 裙 の 隊 は 君 が 率 い る に 任 さ ん 」 と。 茲 に 於 て 満 坐 忽 然 と し て 笑 声 起 る 堯 民 議 長 尚 談 を 進 め て 曰 く 「 先 生 は 老 い た り と 雖 も 尚 お 壮 ん な り。 佳 人 の 意 に 中 た る 者 在りや否や」 と。王曰く 「 我愛の佳人 。佳人   老を愛せざるを奈何せん」 と。令曰く 「李花   海棠を圧するも亦可ならん」 と。 斯 く し て 談 益 佳 境 に 入 る 傍 に 昌 さ か や 谷 県 佐 あ り 王 翁 の 前 聯 を 賞 す 坂 本 太 守 筆 を 探 と り て 「 県 佐   尊 作 を 誦 え て 乃 ち 云 う『 夷 い の 思 う 所 に 匪 ず 』 と 」。 尚 人 あ り 王 翁 の 滞 留 日 数 を 問 ふ 翁 答 ふ る に『 ワ カ ラ ン 』 の 一 語 を 以 て す、 太 守 再 び 筆 を 探 り て 翁 の意を介して曰く 「遊   佳くんば輙ち留まれ。佳からずんば輙ち去れ」と。 「 前 年 の 遊 」 と は 十 五 ~ 十 六 年 の 福 井 漫 遊 の こ と。 鷗 波 は 富 田 鷗 波 ( 一 八 三 六 ~ 一 九 〇 七 )注注 (注 ) 。 横 山 蘭 洲 ( 一 八 三 四 ~ 九 三 ) は も と 加 賀 藩 家 老 )注注 (注 。 春 濤 は 森 春 濤 ( 一 八 一 九 ~ 八 九 ) 。「 令 兄 」 と は 坂 本 蘋 園 の 実 兄、 永 井 禾 原 ( 名 久 一 郎。 荷 風 の 父。 一 八 五 二 ~ 一 九 一 三 ) の こ と。 斜 川 吟 社 は 、 三 十 七 年 の 晩 秋 、 木 村 寧 静 ( 一 八 三 四 ~ 一 九 一 九 。 横 濱 の 貿 易 商 ) ・ 永 井 禾 原 ・ 王 治 本 の 提 唱 の 下 、「 横 濱 神 奈 川 の 同 人

(30)

諸 子 」 が 相 謀 っ て 創 め た 吟 社 )注注 (注 。 鳴 鶴 は 近 代 書 道 界 に 多 大 な る 影 響 の あ っ た 書 家 日 下 部 鳴 鶴 ( 一 八 三 八 ~ 一 九 二 二 ) 。「 即 ち ~ 恋 う る なり」の「東 嬴 」は「東瀛」 (日本のこと) の誤りか。 「山翁」は未 詳 )注注 (注 。「冬心」は金農か。全体として、松原一城が日下部鳴鶴に 付 き 従 っ た の は、 中 国 の 書 画 人 が 斉 白 石 や 金 農 を 恋 い 慕 う の に 対 応 す る よ う な 日 本 で の 事 象 だ と い う 意 味 か。 「 李 花   海 棠 を 圧 す る 」 は、 清 の 劉 廷 璣 の『 在 園 雑 志 』 巻 一 所 載 の 老 人 納 妾 に 関 す る 絶 句、 「 二 八 佳 人 九 九 郎、 蕭 蕭 白 髪 伴 紅 粧。 扶 鳩 笑 入 鴛 幃裏、 一樹梨花圧海棠。 〔二八の佳人   九九郎、 蕭蕭たる白髪   紅粧を伴う。鳩を 扶 だきかか えて笑いて入る   鴛幃の裏、 一樹の梨花   海棠を圧す。 〕 」に基づく。 昌 谷 県 佐 は 福 井 県 事 務 官・ 第 一 部 長 兼 第 二 部 長 の 昌 谷 彰 ( 一 八 七 〇 ~ 一 九 四 六 ) 。「 王 翁 の 前 聯 」 は 王 治 本 の 第 一 面 所 載 の「 三 秀 園 夜集」と題する詩の頷聯のことだろう (後掲) 。「夷の思う所に匪ず」は常人の考え及ぶところではないの意。 こ の 後、 「 斯 く て 歓 興 尽 く る 時 な く 各 自 十 二 分 の 快 を 貪 り て 終 に 左 の 聯 句 を 得 た り 」 と し て、 出 席 者 二 十 人 に よ る 聯 句 が 記 されているのであるが、それを掲げる前に第一面「詩藻」所載の作品を紹介しておこう。    三秀園夜集    黍 ママ 園王治本 午晴天気乍停輪    午晴の天気   乍ち輪を停むれば 山意相迎帯笑顰    山意 〔山の表情〕 相迎え   笑顰を帯ぶ 知 巳 ママ 重逢賢太守    知 ち 巳 き 重ねて逢う   賢太守 慙儂猶是 奮 )注( (注 遊人    慙ず   儂は猶お是れ 奮 きゅう 遊人なるを 一乗飛瀑料如故    一乗の飛瀑は   料るに 故 もと の如くなら ん )注注 (注   十月寒梅早放新    十月の寒梅は   早く 放 ほころ びて新たなり 満座洵是名下士    満座   洵に是れ名下の士 〔名にし負う人たち〕 吟成詩句定通神    詩句を吟じ成さば   定めし神   通ぜん

(31)

この後、富田鷗波の「席上戯次 桼 園先生近作韵」と題する七絶があり、その次は高島石田の作である。    席上漫賦、呈 黍 ママ 園先生 幷 正    高島石田 萬里乗槎遊日東    萬里   槎に乗りて   日東に遊び 老来詩筆倍豪雄    老来   詩筆   倍ます豪雄 今宵佳会君須酔    今宵の佳会   君   須く酔うべし 又是明朝趁雪鴻    又是れ明朝   雪鴻を趁わんからには 高 島 石 田 ( 一 八 六 七 ~ 一 九 四 五 ) は、 そ の 名 茂 平。 東 京 高 等 師 範 学 校 を 卒 業 し、 福 井 中 学 校 の 教 諭、 そ の 後、 県 会 議 員 )注注 (注 。 な お、 石田の作は「同呈蘋園明府 幷 正」と題するものも掲載されている。 次は蘋園、及び山本小坡の作。    酒間次 黍 ママ 園先生近作韵呈政    蘋園主人 任他夜雨満階楹    他 か の夜雨   階楹に満つるに任さん 倩玉繊々酒可行    玉繊々 〔美人の手の形容〕 に倩いて   酒   行る可し 老杜晩年筆逾健    老杜 〔杜甫。ここでは王治本を指す〕 は晩年   筆   逾ます健なり 満囊佳句使人驚    囊に満つる佳句   人をして驚かしめん    同呈 黍 ママ 園先生 幷 正    山本小坡

(32)

一日千秋再遇遅    一日千秋   再び遇うこと遅し 駅亭握手意相怡    駅亭にて手を握り   意   相怡ぶ 記不二十年前事    記 き すや   いなや   二十年前の事 留得北荘懐古詩    留め得たり   北荘   懐古の詩 山本小坡 (一八四六~一九三一) は、名 翼 たすく 、小坡、琴古と号し、医家。詩を富田鷗波に学ん だ )注注 (注 。詩の内容から、十五、 十六年の王 の 福 井 訪 問 時 に 会 っ て い た こ と が 分 か る。 「 北 荘 懐 古 詩 」 と は、 関 義 臣 編『 藤 島 餘 芳 続 編 』 ( 三 十 七 年 ) に 十 首 の う ち の 一 首 だ け が 載 る 王 の「 北 荘 懐 古 )注注 (注 」 だ と 考 え ら れ る が、 福 井 県 立 図 書 館 蔵 の 稿 本『 小 坡 唫 稿 』 第 四 冊 に こ の 詩 が 記 さ れ て お り、 王 治 本 か ら 与 え ら れ た「 懐 古 詩 数 首 」 を 巻 物 に し て 保 存 し て い た 旨 の 自 注 が 付 け ら れ て い る )注注 (注 。 二 十 餘 年 前 の 二 人 の 交 流 の 中 で 詠 ま れ た ものであったことが知られるのである。 最後はこれに次韻した王治本の作。    次山本国手韵    王治本 流連随処到来遅    流連   随処   到来   遅きも 一得相逢令我怡    一たび相逢うを得るや   我をして怡ばしむ 茶竈薬爐無俗事    茶竈   薬爐   俗事無く 箸方餘暇又工詩    箸方の餘暇   又   詩に工なり ここで再び第三面に戻り、聯句を掲げることにする。

(33)

   乙巳臘月初三三秀園雅集席上    聯句用柏梁体 労君為我啓 討 )注注 (注 壇    労す   君   我が為に討壇を啓くを   黍 ママ 園 剪燭須永今夜歓    燭を剪り   須く今夜の歓を永くすべし   菩提 廿載重逢共倚欄    廿載   重ねて逢いて   共に欄に倚る   鷗波 如斯興会古成難    斯くの如き興会 〔興趣〕 は   古   成すこと難かりき   笙東 戸外聴到両声寒    戸外   聴き到る   両声   寒しと   堯民 不関菊老又楓残    関せず   菊   老ゆるか   又   楓   残せるかに   石田 ●宵陪宴似無官    ●宵   宴に陪して   官無きに似たり   虎山 酔歩珊々夜●々    酔歩   珊々   夜   ●々   申三 世海欲挽倒狂瀾    世海   挽かんと欲す   倒に狂える瀾   風外 道人自若錬金丹    道人   自若   金丹を錬る   鼎雲 神州禹域仝文翰    神州   禹域   文翰 〔文章〕 を仝じくす   城東 友情不復分清韓    友情   復たは分かたず   清と韓   碧湖 紛々牛李打為丸    紛々たる牛李 〔派閥争い〕   打ちて丸と為さん   龍州 君子之交臭若 蘭 )注注 (注    君子の交わりは   臭い蘭の若し   小坡 生平甞画幾辛酸    生平   甞て画きたる   幾辛酸   龍渓 一歩欲進百尺竿    一歩   進めんと欲す   百尺の竿   竹厓 絹素誰写竹平 安 )注注 (注    絹素   誰か写きたる   竹平安   香圃

(34)

酒気払々迸筆端    酒気   払々 〔広がる様〕 として   筆端に迸る   春星 我将何物供盤餐    我   何物をば   盤餐に供せん   婦峰 名園秋色酔中看    名園の秋色   酔中に看よ   蘋園 第三面の記事は、この後、次の一節を以て締めくくられる。 斯くて散会せしは午後七時過ぎなりしと云ふ、 因に当日来会者の主なるもの左の如し   王 黍 ママ 園、 細野某(主賓) 、 坂本令●、 昌 谷 第 一 部 長、 内 田 警 視、 富 田 鷗 波 翁、 大 橋 議 長、 谷 教 諭、 高 島 石 田、 鷲 田 鼎 雲、 松 原 一 城、 五 十 嵐 某、 土 生 笙 東、 須 永 素菩提、中村諦梁等及び本社の大畠龍洲外数名 こ こ に 新 た に 出 て き た 人 名 の う ち、 何 ら か の 情 報 の 得 ら れ る も の だ け 記 し て お こ う。 ( 素 ) 菩 提 は 福 井 新 聞 記 者 の 須 永 金 三 郎 ( 一 八 六 六 ~ 一 九 二 三 ) 。 須 菩 提、 蘆 山 な ど と 号 し た。 笙 東 は 土 は ぶ 生 笙 東 ( 一 八 六 四 ~ 一 九 四 三 ) 、 福 井 新 聞 主 筆 )注注 (注 。 風 外 は 岸 上 操 編『 明 治二百五十家絶句』 に 「水野風外。名昌、 (中略) 越前人」 として見える 人 )注( (注 のことだろう。城東はすなわち谷教諭で、 谷城東 (一八五二 ~ 一 九 二 六 ) の こ と。 伊 勢 松 阪 の 生 ま れ で、 長 年 の 教 職 を 辞 し た 後、 「 三 十 五 年 十 二 月 ニ 至 リ 再 ヒ 越 前 福 井 中 学 校 ニ 職 ヲ 奉 シ 尋 イテ同地商業学校ニ転」じた 人 )注注 (注 。 な お、 山 田 天 籟 も、 後 か ら 福 井 へ 来 た の か、 十 二 月 十 六 日 の『 政 教 新 聞 』 文 苑 に、 王 治 本・ 山 本 小 坡・ 土 生 笙 東 と の 分 韻 の 作が載っているので、掲げておこう。

(35)

       酌    山田天籟〔重光〕    興 ママ 王 桼 園・山本小坡・土生笙東諸彦、分「月白風清」四字為韻、得風字 旅窓寒月影朦朧    旅窓の寒月   影   朦朧たり 欲破羈愁酒有功    羈愁を破らんと欲すれば   酒   功有り 欣得両三詩客到    欣ぶ   両三の詩客の到るを得たり 聯吟追歩古人風    聯吟して追歩せん   古人の風

おわりに

三十九年一月十五日の『富山日報』に「王 黍 ママ 園の新年作」という見出しで、次のような記事が載っている。 客 冬 富 山 に 遊 杖 を 留 め し 清 客 王 わう 治 じ 本 ほん 老 人 は こ の 程 丙 午 新 年 の 作 と し て 越 中 詞 壇 の 諸 星 へ 寄 送 せ し 一 篇、 句 法 老 成 円 熟 洵 に 誦すべし左に掲ぐ 海外東風早報春    海外の東風   早く春を 報 つ げ 椒尊分韻到覊人    椒尊   分韻   覊人に到る 民生得享昇平福    民生   昇平の福を享くるを得て 国運相随歳月新    国運   相随い   歳月   新たなり 恰喜青陽逢吉午    恰も喜ぶ   青陽 〔春〕   吉午 〔縁起のいい午年〕 に逢うを 遍伝丹簡賀元辰    遍く丹簡を伝えて   元辰を賀す

参照

関連したドキュメント

-89-..

︵抄 鋒︶ 第二十一巻 第十一號  三八一 第颪三十號 二七.. ︵抄 簸︶ 第二十一巻  第十一號  三八二

これまた歴史的要因による︒中国には漢語方言を二分する二つの重要な境界線がある︒

強者と弱者として階級化されるジェンダーと民族問題について論じた。明治20年代の日本はアジア

明治33年8月,小学校令が改正され,それま で,国語科関係では,読書,作文,習字の三教

長尾氏は『通俗三国志』の訳文について、俗語をどのように訳しているか

鶴亭・碧山は初出であるが︑碧山は西皐の四弟で︑父や兄伊東半仙

報  告  者 患者年齢 経産轍 前産難易 破裂前胎児位置 破裂駒﹁陣痛持績 骨盤 診   噺 破裂ノ原因 手術迄ノ時間 手  術轄  蹄 木下 正 中 明治三十七年 三十一年ニケ月 三