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十九・二〇世紀におけるリューベック不動産法研究の展開

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(1)19·20世紀におけるリュ ー ベック不動産法研究の展開. 格. つ い て 概 観 し た が 、 本 稿 は そ の 続 編 で あ る 。 前 稿 で の 結 論 は 、 リ ュー ベ ック 法 の 歴 史 的 な 研 究 が 本 来 的 に 現 行 法 の 解. 釈 の た め に 、 極め て 法 実 務 的 な 動 機 に 基づ いて 出 発 し た と 思 わ れ る こ と 、 従 っ て 、 そ の 史 料 操 作 に は 、 今 日 の 視 点 か. ら 見 れ ば ‘ 必 ず し も 適 切 で は な い 面 も 有 し て い た こ と 、 そ れ に も か か わ ら ず 、 特 に 十 八 世 紀 半 ば以 降 の リ ュー ベ ック. - 53 -. 十九 ・二0世紀 にお け るリ ュー ベ ック 不 動 産 法 研究 の展 開. はじめ に. 一、はじめに 二、十九世紀初期 のフランスによる占領と二人 の法律家 ウ リ のリ ュー ペック 不動産法研究 三、。ハ 四、今世紀三0年代まで のリ ュー ペック 不動産法研究 の動向 五、「定期 金権者 の解 約告知権」論 争 六、第二次世界大戦後 のリ ューベック 不動産法研究. 七、総括. ヽ. 一. 冗. 筆 者 は 、 前 稿「 「 リ ュー ベ ック 法 」 研 究 の た め の ― つ の 覚 書 」 で 「 十 八 世 紀以 前 の リ ュー ベ ック 不 動 産 法 研 究 」 に. 稲.

(2) 法史料 の収集とその出版が、 そ の後のリューベック法研究の主たる素 材を提 供していることであった。. ここでは、 そ の後のリューベック不動産法 研究の展開をさらに今世 紀まで跡づ けてみようと思う。 即ち 、いかなる. の設定 」の有効性 を検 証することにしたい。なぜなら筆者の素朴 な問 題に対する解答がこれまでの研究におい て既に. 与 えられているのであれば、 原則として、 そ れをあらためて検 討する必要はないからである。さて、ここで取り扱う. 代表的な研究に限定するつもりである。従って、 何らかの形. 論考は、 前稿 の場合と同様、少なくとも 著者の問 題関 心にとって重要で、 かつ他 の同様の研究に大いに影 智を与えた. と判断しうるー—しかも筆者が管 見しえた限りでの1. であれ、 リューベック不動産法 制度を論じた研究をすべてここで検 討の対象とする訳ではない。. 以下の論述の過程では、 対象となる個 々の論考の著者である法 学者がなぜリューベック法研究に立ち 向かっていっ. たのかとい う彼の研究動機も 明らかにするために、彼の経歴、彼の登 場した時代の社 会的な背 景につい ても 多少言及. するつもりである。ただし、この叙述は、 彼らの研究が決してそ の当時の社 会とは無縁な研究ではなく、 彼らもまた. 同時代人 として、 その研究に当時の様々な法観念やイデオロギ ーを反 映させていたのではないかという筆者の推 定の. 論拠を示しておきたいがためであり、彼らの研究動機を論評するためではない 。そ の評価は今後の検 討課 題にしたい. と思う。従って、本稿 では、当該法 学者にかかわる、できる限 り、 客観的な事実を述べるにとどめよう。 註. 「 近畿大学法学」 、第三八巻、第一l 四合併号°. (1). - 54 -. 法 史料 を対象として、そ こからどのような結 論を導き出してきてい るのかを明らかにし、筆者が前稿 で論じた「課 題. 近畿大学法学 第 39巻第 1 ·2 号合併号.

(3) 二、 十九 世 紀初 期 のフ ラン ス に よ る 占 領 と 二人 の法 律 家. 十 九 世紀前半のリューベックにとって最も深刻 な体験 は、同市がフランス軍によって占領され、 その占傾期 間中、. 従来とは全く異なる法 原理に基づ く法制度を強 制されたことである。. 一七八九 年に 隣国のフランスで発生した市民革命は、十九 世紀に入るとともに、 ドイツの地域に 、 そしてリュ ーベ. ック市にも重大な影 響を及ぼすことになった。まず、 一八〇 六 年八月六日 に皇帝フランツニ 世が神聖ローマ帝国皇帝. on)」 (N orddeutsche Konforderati. への参加を要請 してきた。 しかし 同年十 月十 四日 プ ロイセン軍がイ. も 脅かされ始めることになった。プロイセンは早速 リューベック、 ハンプルク、プレーメンの三ハンザ都市に 「 北ド. イツ連合. (Blucher). ェナとアウエルシュテットでフランス軍によって打ち 破られると 、翌十五 日 に は、 ハンザ諸都市はプロイセンの要請. を拒否し 、差し当たり彼らの政治的自立と 中立を維持することを決議した。ところが 、プリュッヒャ ー. 将軍率 いる、 敗走するプロセイン軍の一部が十 一月五日 に リューベックに 入城し、 これをフランス軍が追走してき. た。翌六日 、 両軍はリューベック市を戦場に して激しい 戦闘を繰り広げ、プロイセン軍は間も なく撃 破され、リュ ー. ベック市もフランス軍によって占領されることに なったのである。ここに リューベックの政治的自立は破られ、 以後 m フランスによる支配が開始することになった。 同市は、さらに一八― 一年二 月十 八日 に 、正式 にフランス頷に併合さ. れ、このような外国軍による支配体制が、一八 一三年十 二 月五日 既にフランス軍に代わって 同市を占頷していた同盟. - 55 -. の地位から退 位し、 旧来の帝国体制が実質的に 崩壊 し、さらに 自由帝国都市としてのリューベック市の政治的な自立. 19• 20世紀におけるリュ ー ペック不動産法研究の展開.

(4) ② 軍のデンマーク軍が撤退 するまで、七 年間継続することになる。. この期 間中、 リュ ーベック市参事 会の 支配する 統 治体制も フランスによっ て様々な修 正を加えら れた。クラウゼ. (u.p•Kr ause )の研究によれば、占領期 の前半、一八 一0年の秋 までは 旧来の市参事 会の統 治体制が容 認されたが、. 市参事 会を頂点とする 裁判・行政制度が 廃 止され、 権力 分立を 前提 としたフランス型の行 政・司法 機構が導 入され ③ こo f. まず、 行政の分野では、 リュ ーベックの都市国家的な性 格は否 定され、 同市は新たに設置された、 ―つの行 政区 画. であるエルベ河 口地域の「 県(Depar t me nt )」に編入された。 同県 は、 ハ ンプルク、 リューベッ ク 、 リュ ーネプル. ク、 シュ ターデの四郡(Ar r o ndi sse me nt )から 構成され、その県都はハンプルク市とされた。これを統 治するのは、. 皇帝によって任命されたフランス人の県知事 (Pr afe kt )である。リュ ーベック市参事 会も同郡の行 政官庁(Se nat ). に衣替 えし、 官庁機構の頂点にフランス人の郡長 (Unt e r pr afe kt ) が任命され、 そ の下にリュ ーベック市の四人の. ドイツ市長(Mai r e s)が、そ して彼ら を補佐 する市議会が配置された。 後者は以前の市参事 会であるが 、 今やそ れ は完 全に行 政機構の中に組み入れら れた。. 他 方、司法 の分野では、市参事 会裁判は占領当初、暫 定的に「臨時上級 裁判所 (pro vi so r i sc he s Ober t ri bunal )」. という 名称 の下に行 政機構から 独立した司法 機構として存 続することになっ ていた。そこでは、九 人の裁判官の上に. 一 人のフランス人の所長、 皇帝の任命した一人の委員 (Ko mmi ssar ) と一人の書 記が配置された。 し かし、九 人の. 裁判官は 以前の市参事 会員たちであり、 この裁判所は某本的に 以前の市参事 会裁判と異なっ ていなかっ たので、 この. - 56 -. 前述のごとく、 翌十 一年のフランス領への併合の結 果、その支配体制は根 本的に否 定されることになっ た。 伝統 的な. 近畿大学法学 第39巻第 1·2 号合併号.

(5) 臨時裁判所も 一八― 一年七月 四日 の 勅 令により 廃 止され、 新たに一七 九九年十二月 十三日 のフランス憲法 に基づ い. て、前述の行 政機構に対応 した新たな司法機構が整備 されることになった。. e r )」 と呼ばれる識 業裁判官であ この司法 機構の最下級 審に位置するのは 、いわゆる「 治安判事 (Fr i e de nsr i cht. り、彼 らは本 質的には民事事件の調停人であったが、同時に一定額までの民事事件と小額の軽罪事件を管 轄した。第. htであ り 、この裁判所は一人 のフランス人裁判所所長と四人 ic r ge bunal i 二審に位置するのは各 郡に設置された Tr. のドイ ツ人裁判官から構成された。 同裁判所は「 治安判事」の裁判の控訴審であると同時にまた高 額の民事・刑事事. ri cht sho f) 」 件の第 一審でもあった。そ して最終審は県都ハンプルクに設置された「皇帝裁判所(de rKai se r li cheGe. 裁判官から構成された。. このような裁判 で使 用される言語の多くはフランス語とされ、それゆえ審理において困 難が伴ったとされる。 さら. に、ここで適 用される法令も、す べて翻 訳されたフランスの法典、具体的にはナポレオン法典、 即ち 、民法 典 、民事. 訴訟法典、商法 典 、治罪法典、刑法典である。フランス側は占領当初から、これらの法 令の導 入を意図していたよう. であるが、 ハンザ 都市は遅延策によって事実上これを拒否しようとした。なぜなら、これらの持つ 法的な平等性 、見. せ しめ的な刑の廃 止、商業と手工業を区 分しない 営業 の自由等は、市の従来の法秩序 と整合するものではなかったか ④ らである。クラウゼによれば、一八 ― 一年七 月四日 の勅 令により、リューベック法の効力 は、刑事法分野では否 定さ 固 れるにいたったが、 相続法、後見法、商法 に関 して効力 を有し続けたとされる。. このようなフランス的な行政・司法機構も一八 一 三年のフランス・デンマーク軍の撤退 によって廃 棄された。市参. - 57 -. とされ、これは二 つ の民事部と―つ の刑事部、そして行政事件のための―つ の特別控訴部の計 四部と、三0人の職業. 19·20世紀におけるリュ ー ベック不動産法研究の展開.

(6) 事 会は再び 行政と司法 に対する完 全な権力 を取戻し、 さらに 十四年二月十六日の命令によって、上述の「 皇帝裁判 ⑥ 所」が活 動を開始した十一年八月 二0日 以前のすぺての法令と法慣行が再び効力 を回復するも のとされたのである。. ただし、従来の法制度 への回帰は新たな諸制度の制定までの暫 定的な措 置とされ、十四年三月 四日に司法・行政制. 度に関する命令が発せられた。そ れによって、従来の多数の小裁判が四部 門の下級 審裁判所に統 合されることになっ. た。 即ち 、市内のすべての司法 領域を管 轄する下級 審としての市裁判所(ssdt ger ic ht) と市外のそれを管 轄する、. 同じく 、下級 審としてのラント裁判所(Fmdg er i cht )、市内外の営業 に関する争いのための特別裁判所としてのヴ ェ. ッテ裁判所 (We t t eg er i cht )、 幾つかの軍事裁判所の四部門である。これらの裁判所の控訴審は、従来通り、市参事. 会の上級 裁判所(Oぽ r g er i cht ) とされた。従って 、 この裁判令は従来の裁判管 轄を整理し、法曹教育を受 けた陪席. 裁判官を部分的に導入するといった暫 定的な手直しを加えただけで、司法と行政の分離という近代的な司法 機構 への. 改 組をめざすものではなかった。そ れゆえ、これらの裁判所は行政事務のみならず、裁判所の減少による負 担超過に m 一層 苦しめられることになったのである。. ところで、一八〇六 年の帝国崩壊 ととも に、―四九五 年に開設された帝 国の最上級 審である帝室裁判所も機能を停. 止していた。 リューベック市は、十六 世紀の皇帝マクシミリアン一世とルドルフニ世の特許 状によって一定額以下の. 訴訟事件に関する不上訴特権を付与され、最終審としての地位を帝国法 によって承 認されていたが、 そ れ以外 の訴訟. 案件については同市から帝室裁判所 への上訴の道も残されていた。従って、当時一八 一0 年代半ば、フランス軍撤退. 後の法秩序 の再建の中で、リューベックを始めとする ハンザ都市にとって早急 に帝室裁判所に代わる最上級 審として. の裁判 所の開設が緊急の問 題となっていた。しかし、 ハンザ都市間、 即ち 、リューベック、 ハンプルク、プレーメン. - 58 -. 1· 2号合併号 第 巻 39 第 近畿大学法学.

(7) の 間での 利害 が一致 せず、その 交渉は難航 していた。十 四年 九月十 八日 に始まったヴ ィーン会議の 最終日 の 前日 ( +. 五年 六月 八日 )に締 結されたドイツ同盟規約の 第十二 条、 即ち、住民数が三0万 人を超え る同盟構成 国は最上級審 裁. 判所を設置しうるという規定によって、さら に自 由帝 国都 市フランクフルト ・ア ム・ マインも三ハンザ都 市に加わる. ことによって、 この 四都 市に共通の 最上級審裁判所の 設置が漸 く具体 的な日 程に上がってくることになった。そし. て、 十 九年 六月三 0日 、四都 市は「四ドイツ自 由都 市の 上級控訴裁判所( O ber erFr ei en -a pel la t i o ns ge r i c htde rvi. から その 活動の 舞台 をリューベック市に定めた法実務家であった。. .Ahl ハッハは 、ア ーラーズ ( 0 e r s)によれば 、 一七八八年 から イェナ とゲッティンゲンの 両大学で神学と法学を. 学んだ 後、九 一年 から リューベックに戻って代言人を開業した。彼 は、この 時、十八世 紀末の リューベック法学を代. 表する市参事会法律顧問の ドライヤーの 知遇を得、翌年 、彼 の 支援もあってキ ール大学から 法学博士 号を取 得するこ. とができたとされる。 九四年 には下級裁判所での 訴訟代言人と なり、 その 評判の 良 さから 一八〇 五年 に は 市参事会. 員に選ばれた。彼 が一 二六歳 の 時である。翌年 三月 、彼 はレーゲンスプ ルクの帝 国議会に派遣され、彼 の外交官として. - 59 -. St adt eDeut (以下、四都 市上級控訴裁 判所と略す|ーI筆者 )をリューベック市に開設することを決定す s c hlan ds )」. ⑨ るに至 り、同裁判所は、翌二十年 十 一月 十三日 にその 活動を開始することになったの である。. ー. で. 以 上、長々とフランス革命の リューベック市への I 特に法的な側面 での ーー. 影響 について論じてきたの は、本節. ー. 9) 92 187 7 lWi elm Pa r 9 1851) ..lJ lh 6 。 7 ( Ca h Hach 1 uli1 c i edr i nn Fr ha o (J ハゥ"ノ. ノ‘ ッ ノ‘. ある。彼 らは、 「リューベック法学」 期の 法学者とは異なり、 リューベック商 人の 家系の 出自 で、大学卒 業後、最初. その 二 人と は 、. で採り上げる二 人の リューベック市民の 法学者がこの 時期の 社会・政治状況と深く係わっているから である。. 19·20世紀におけるリュ ーペ ック不動産法研究の展開.

(8) の 第 一 歩 が 踏 み 出 さ れ た 。 し か し 、 そ の 休 会 中 、 彼 が リ ュー ベ ック に 帰 還 し て い る 間 に 、 前 述 の フ ラ ン ス 軍 に よ る リ. は 、 フ ラン ス 的 な 司 法 制 度 の 下 で 訴 訟 代 言 人 も 勤め た 。 一 八 一 三 年 の 解 放 後 、 彼 は 再び 外 交 官 とし て 活 躍 す る こ とに. な っ た 。 ヴ ィー ン 会 議 に 市 の 代 表 と し て 出 席 し 、 前 述 の ド イ ツ 同 盟 規 約 に 署 名 し た の も 彼 で あ っ た 。 そ し て 、. 彼 は 、 同 書 の 中 で 、 リ ュー ベ ック 法 史 上 初 め て 、 一 五 八 六 年 の 校 訂 リ ュー ベ ック 都 市 法 典 (以 下 、 校 訂 法 典 と 略 す. 第 一 法 典 」、 同 世 紀 末 の い わ ゆ る 「. ハ. ッ. ハ. は リ ュー ベ ック 法 の 特 定 の 法 制. ハ. 第 二 法 典 (バ ルデ ヴ ィク 法 典 )」、 十 五 世 紀. ハ. 筆 者 )以 前 の 法 典 類 の 年 代 画 定 、 グ ルー プ 化 、 系 統づ け を 試 み 、 そ れ ら の 法 典 類 の 中 の 代 表 的 な 法 典 、 即 ち 、 十. ッ. ハ. 第 三 法 典 」 の 三 つ の 法 史 料 を 収 録 し た 。 そ れ ゆ え 、 ハッ. ハ. 世紀後半のいわゆる「. ッ. ハ. と に よ っ て 、 同 法 研 究 に お け る 史 料 的 な 幅 を 広 げ 、 さ ら に 法 制 史 的 な 系 統だ っ た 研 究 を 可 能 に さ せ た こ と で あ る 。 そ. ック 法 研 究 の 中 に 、 単 な る 生 の 法 史 料 と し て で は な く 、 学 問 的 な 処 理 を 施 し た 中 世 リ ュー ベ ック 法 史 料 を 取 り 込 む こ. 度 、 例 え ば 、 不 動 産 法 制 度 に つ い て 言 及 し て い る 訳 で は な い 。 し か し 、 彼 の 不 動 産 法 研 究 史 上 の 重 要 性 は 、 リ ュー ベ. 前半のいわゆる 「. I. ) で 「 古リ ュー ベ ック 法 ( Dasal t e Lili sche RechtJ を 出 版 し た こ と で あ る 。. b. 彼 の リ ュー ベ ック 法 史 に お け る 学 問 的 な 貢 献 は 、 そ の 後 約 二0 年 間 の 研 究 の 成 果 と し て 一 八 三 九 年 に リ ュー ベ ック. 五 一歳 の時 であった。. u ". 0 年 、 彼 は 、 四都 市 上 級 控 訴 裁 判 所 の 評 議 員 ( Rat) に 就 任 す ぺ く 、 再 び リ ュー ベ ック に 戻 っ て き た の で あ る 。 彼 が. ゜. 八. "". の 際 、 ド ラ イ ヤー に よ っ て 収 集 さ れ て い た 法 史 料 が ー ー フ ラ ン ス 占 領 に よ っ て 散 逸 の 危 機 に 見 舞 わ れ な が ら も ー� 役. 立 っ たこ とは 言 う ま で も ない 。. - 60 -. ュー ベ ック 占 領 が 行 わ れ 、 彼 は 、 占 領 下 で 、 そ の 占 領 費 用 の 捻 出 に 当 た っ た よ う で あ り 、 フ ラ ン ス 領 へ の 市 の 併 合 後. 近畿大学法学 第39巻第 1 · 2 号合併号.

(9) 同書が出版された後、 リューベッ ク市のみなら ずリューベッ ク法都 市でも中世の法史 料の収集 と出版が相次ぐこ と 皿 になり 、同書は中世リューベッ ク法研究の法制 史 的な研究の先駆けとなった。ハッ ハの年 代画定等の史料の処理 方法. に問題があったことは後世の研究者によって指摘されてはいるが、同書は、今日 でも史 料検索における、言わば‘ 標. 準化石 としての役割によって、リューベッ ク法研究にとって必要不可欠の文献 としての地位を保ち続けている。. も う 一人のーー リューベッ ク商 人の家系に生まれたーー' 法学者のバウリは、一八 ―一 年 、十九歳 の時、法律学を学. ぶためにテュービンゲン大学へと進学したが、十 三年 には対フランス解 放戦争に士 官として参加した。翌十 四年 に は. れば‘ この時期、彼 は過去 のドイツに関心を示す一 方で、当時の政治状況にも批判の目を向けていたようである。十. 六年 、 ゜ハウリは、学位を取 得すると故郷のリュー ベッ クに帰郷 し、弁護 士を開業した。しかし、彼 は法実務に余り 積. 極 的ではなかったよう である。彼 は、 二0 年 、四都 市上級控訴裁判所が開設されると、市参事会の要請に応じて、同. r )に就任した。彼 が二八歳 の時であった。彼 はこの瞭務を一八 四三年 まで勤めることにな 裁判所の書記官(Sec r eta 四. る。 この時期に、彼 は、熟練した外交官でかつ法律家であったハッハと識 務上親密な関係を結んだ と言われている。. 。ウリも同裁判所の評議員を 勤めている。 四三年から は、ハ. 。ウリのリューベッ ク不動産法研究史 上で果たした学問的な役割は、ハッ ハに比ぺれば‘ はるかに直接 的で、しカヽ△ ハ. も具体 的である。 一八 三四年 、彼 は、おそら く十 九世紀初頭に紛失 していたと思われるオーバー都 市帳簿とニーダー. 主に未印 刷の史料に基づ く— |' 、 第一. 都 市帳簿の古い巻 の部分を発見し、この法史 料と中世リューベッ クの法典類に依拠 して、三七年 に、中世リューベッ. クの相続財産制 度に関する論考 を発表した。これが「リューベッ ク法論集I. - 61 -. ens 除隊 し 、ゲッ ティンゲン大学で再び法律学の勉強 を開始することになった。 フレンスド ルフ (F.Fr do r ff) によ. 19• 20世紀におけるリュ ー ベック不動産法研究の展開.

(10) (. . Gr oB' ht e hel Di ee br ec i c he ht n Er enach Lubi s c hem Rec. ー. (Da r,. .Gr il )J であ erThe oBt ent hei l snach ungedruc e en,l usdem Lii bi sc hen Recht kt en Quell 巻 ( Abha ndl ungen a. 主に未印 刷の史料に基づ く—’ ー. .Gr er m Lti ht sderEr bgti t e r nach alt druc kt en Quel e st ell ungde bi sc he n Recht oBt ent hei l sa sRec us unge. ー. l e n)」 である。さらに、 四0 年 、「 リューベック法論集 」 の第二巻 が出版される。 その 副題は 「 リューベック法によ. る夫婦の 相続権ー| 主に未印 刷の 史料に基づ v. t ent heil sa usunge druc kt en Quell en) 」 であり、 ここでは夫婦財 産 制が主に論究される。同巻 以降、その 前年 の三. 九年 に出版されたハッハの文献からの頻繁な 引用が見ら れるようになる。 第三 巻 は、四 一年 に刊行され、 副題は rリ. ューベック法による 血縁者の相続権と遺 言ー— 主に未印 刷の 史料に基づ くーー ( Da ut sfr eunde br e c htder Bl s Er. .Gr und di stament enach Lii eTe bi sc hem Recht oBt e nt hei druc l saus unge kt en Quell e en) J である。同 書では. 被相 続人の 最近親相続人の 先買権 ( Naher r echt) と被相続人の 遺言の 自 由が論じら れている 。 最 後の第 四巻 は 、. 以 上の 四冊はいずれもリューベック市で出版された。さて、 これら の書 物は、その 副題から も明ら かなごと く、 中. .Gr us unge druckt oBt e nt e n Quell hei Rec l sa hts en) 」 である。 ここで 論じられているの は、 題名 が示しているご g と く、定 期金売買である。同書の出版 の 遅延は、評議員への 就任による識務の 多忙の ためであった ろうか。. .g.Wi bi s che 売買—— 主に未印 刷の 史料に基づ くー — enkaufe des Lti Di n der di en o e Rent ent ー ( dsr es l ebo. れから かなり遅れて、一八 六五年 に、出版 され、 副題は「 リューベック法の 所謂ヴ ィーボル トレンテ あるいは定期金. そ. 世 リ ューベ ック不動産法の 主要なテー マを ほとん ど網羅している。従っ て、 その後の同不動産法に ついての 研究害は. 彼 の説を 必 ず俎上に載 せ、 これを 補足するか、 あるいは批判する形で論を 展 開してきている。 ハッハの 著作と同様に. - 62 -. る° 副題は 「古い リューベック法に基づ く 相続財産の法 に ついての 叙述I. 近畿大学法学 第39巻第 1 · 2 号合併号.

(11) 19 • 20世紀に おける リ ュ ー ペ ッ ク不動産法研究の展開. 今 日で も そ の重 要 性 は な お 失 わ れ てい な い ので あ る 。. ー. ,s.1 ,Ges ,189 山 MaxKoff chic ht ederfr mann es t adtLubec k,2•Hal f t e ei en und Hans 2 291 35. ,s.1 ② i 48.と ころで、 一八 一三年 三月、前年 の モスク ワ遠征で敗北した フランス軍を追走する ロシア軍の接近によ って、フ bi d.. —. ランス占領軍は エルベ西岸 へと撤退した 。 その後、 ハンプ ルク で 志願兵から成る 「ハンザ部 隊 ( eat i s di cheLegi ehans on) 」が .,s.1 結 成され、 リュー ベ ック からも八0 0 名 以上が参加した と言われる。i bi d 44. この ハンプ ルク と リュー ペ ック の混成部隊 は 、解 放戦争の中で北 ドイツ地 域 にお いて、英軍の指揮の下 にフランス軍とデン マーク 軍と戦 い、翌十四年 六月と七月 に帰 還し、 , S. ,S.5 ,Lub ,1 ,hr ,A.von Gr . 解散した 。Lti becki s cheGes chic ht e s g aBmann ec k,1 988 46 f •Di eHans e1•Hambur g 989 . 72 6 .p•Krause•DieGeschichtederLtibeckerGerichtsverfassung,Kiel•1968. ③ u ,undS.5 ,S.5 ④ Lti 39 becki s cheGes 385 chi cht e 4 3• . ,a . . 固 U.P.Kr a 3 11 O..S.286aus e . エー ベ ルによれば、 この年、す べての裁判帳簿 と書類が紙屑とし て売却 され てしま い、 今 日で は、 その内 のわ ,s.322 ⑥ i bi d. ず かの史 料 しか残 存し ていな い。彼 はその原因 に ついて述 ぺていな いが、 これが その後 のリュー ベ ック法研究 にと って取り返し. ー. ー. ,S.218. 971 chesRecht1. Lubeck,1 s bi の つかな い損失 であ った ことは言 つまで もな い。W.Ebel.Lii . このよ うな不十分な改革は、 やがて、様 々な方 面からの批判 に晒されるよう になり、特 ,a . . ,S.3 m U.P.Kraus 2 23 O. 5 0 a e に三0年 代以降、 自由主義的な改革派の攻撃の的と な った 。行政からの司法 の独立、 即ち、市参事会の裁判権力 の否 定と瞭業裁 判官 の導 入は六0年 代の刑事法、訴訟法 に関する法典 の公布 によ って実現される こと にな った が、 一八六七年 のリュー ベ ック 市 の北 ドイツ連 邦 への加 盟によ って、 そして最終的 には 一八七九年 一0月 一日を以 て同市 の裁判権が否 定され、 そのす ぺての裁判 . -46 所 も廃止された ので ある。i bi d.,S.3 1 9 7 a ⑧ その訴訟書類は現在でも リュー ベ ック市文書館 に保存されている。 . ,a . . ,S.36 ⑲ U.P.Kraus a O. 4376 e , , . . 4 0 5 s cheBi S 叫 NeueDeut ogra phi e•Bd.7 1 9 6 6 . ,1 ,Di .Bunge 皿 例えば、F.G.v adt r ec ht s •Dor erSt pat 844 en desReval eQuell. - 63 -.

(12) J. ー. q. ,1 . .2 .2 5 5 6 2 — 2 heBi 6 c e s t 7`S hi u 8 p 8 a eDe r n g i o me e g `Bd ⑫ All ⑬ 彼の行動は、法学者としての活動の他に、極めて多岐にわた っている。まず、中世リ ューベ ッ クに関する啓製書たる 『 中世に リュ t t e l a lt e r ) 」 、三巻 (-八四七ー七八年)を発表し、 さらに 「 おけるリ ューベ ッ クの状況 ( Lti be c ki s c heZu s t andei m Mi e c , r e i n sfurLub i t s c hr i f tde sVe e c k) 」 、r リ ューベック歴史協会雑誌 ( Ne ーベッ ク市史料集 ( Ur ku n de n bu c hde a dtLub rSt heGe c s 今活動にも熱心に参加し、 ki e t n)の抵マ r eu e ht c mi r hi c fo s Re ndAlt で、古土羊派 ( 」の卒#刊に関年すと0-ヤ土 ) nde ku ms u t r e . . , 聖歌に関する論考を発表したり、宗教上の論争にも発言し続けた。i bi d s.2 6 6 6 42. パ ウ リ の リ ュー ペ ック 不 動 産 法 研 究. ゜ ハウリが、彼 の 四巻 の 著作の 中で、 中世 リ ューベックの 不動産法につい てに 明ら かにしたことをこ こ で紹介しよ. のある 話題にの み限定される。. 第一巻 ( -八三 七年 )では、「 相続財産」をめぐる法的問題がかなり詳細に 論じられ ている。. 彼 は、法史 料とし て、 ラテン語法 典 や中世 低 地 ドイ ツ語法 典よりも、むし ろ都 市帳簿のオー バー都 市 帳簿とニーダ. 1都 市帳簿に重心を 置き、これらの法史料 に記され ている 登記 や法 文から リ ューベック法体 系の 構築を 試みる。彼 の. 理 論的な前 提は、前稿で述 べたような 「リ ューベック法学期」の 法的な論争も、それ以前の 時期には存在 せず‘ そこ. では、 混乱のな い、一定の法体 系が存在したと いう想定である。そし て、それは、法史 料を詳細に検討すれば、明ら 111 かに なりうるというのである。. - 64 -. ヽ. う。 なお、彼 の 検討はきわめ て詳細であり、す べてを紹介することは不可 能である。以 下の 記述は筆者にとっ て関心. 近畿大学法学 第39巻第 1 · 2 号合併号.

(13) ta ri a edi 最 初 に論 じられ る のは 、 不 動 産 の法 的 な区 分 と し て の相続 財 産 と獲 得 財 産 であ る 。 相 続 財 産 は bona her. と表 記され、 ラ テ ン語 の法 文 では不 動 産 一般 を示 し たが、 十 四 世紀 初 め頃 か ら、 オ ー バ ー都市 帳 簿 の登 記 では相続 さ. ) と 表 記 され る。 他 方 、 獲 bgut れ る 不 動 産 を 意 味 す る よ う にな る。中 世 低 地 ド イ ツ語 では 、 これ は e2 e笞 d ( = Er. hl gewon, C wo cul ta t es と、 中 世 低 地 ド イ ツ語 では wol gewonnengudt 11 s i ta e fa 得 財 産 は ラ テ ン語 では s i biconqui. ) と 表 記 さ れ る。 バウリ が主 に論 じる のは 、当 然 の こと な が ら 、相 続 財 産 であり 、 獲 得 財 産 は考 察 の対 象 と nen Gut. は さ れ な い。 相 続財 産 と は主 に不 動 産、 それ が貨 幣 で評 価 さ れ た場 合 には、 そ の価 値 部 分 であ る。 定 期 金 も 、 それ が. 相 続 財 産 に設定 さ れ ている場 合 には、 相続 財 産 であ る。 そ の他 には、 人 の死 亡 によ って取得 さ れ た—ー ただ し、 特 別. - 65 -. 財 産 や、夫 婦 間 での遺 贈 に基 づ く 財 産も相 続 財 産 であ り 、そ し て、嫁 資 も妻 が死 亡 す れば‘. 特. に対 し て無 条件 の異 議. Naher r echt ) 権 を有 し、 ただ 「やむ を えざ る事 由 」 に基 づく有 償 処 分 の場 合 にのみ 、彼 ら は 、 ネ ー エ ルレヒト (. し かも 、 不 動 産法 行 為 は市 参 事 会 で の ア ウ フ ラ ッスングと 都市 帳 簿 への登 記 が義務 づ け られ てい たか ら、 最 近 親 相. 分 と さ れ た。 た だ し、十 四 世紀 のオ ー バー都 市 帳 簿 の登記 では、 この誓 約 は 最 近 親 相 続 人 の同 意 と並 ん で記載 さ れ て ⑥ おり 、 実 際 には買 主 のため の 一層 の保証 の役 割 を 果 たし ていた よ う であ る。. あ る先 買 権 を 有 し た。 こ の 「やむ を えざ る事 由 」 の証 明 は近隣 の ハンプ ルク法 より も 簡 単 な、 所有 者 によ る誓 約 で十. で. I れ た。 最 近親 相 続 人 は、 彼 ら の同 意 のな い所有 者 の任 意 処 分 ー� 有 償 、 無 償 にか か わ らず. i oni s ) も これ に含 ま に死 因 贈 与 ー — 、質 入れ 、売 却 であり 、 そ の他 に 、 不 動 産 の貨 幣 化 や劣 化 ( det eri ori s condit. 相 続 財 産 の処分 行 為 には処 分者 の最 近 親相 続 人 の同 意 が必要 であ る が、 ま ず、 そ の 「処 分 行 為 」 と は、 贈 与i. の条 件 が付 い て いな いー ② 相続 財 産 と さ れ た。. 19 • 20世紀に おける リ ュ ー ベック不動産法研究の展開.

(14) 続 人の 同 意の ない処分は考え られな い。 「やむをえ ざる事由」 に 基づ く有償処分の 場合、当該不動産は彼 ら 最 近親相. さ れた。 最近 親相続人への 買取りの提示がなされなかった「 やむをえ ざる事 由」に基づく有償処分の 場合には、 売主. は、買 主に対して追奪担保責任 を 負うか、さもなくば その責任に耐え な い ことを誓約して代金の 一0 分の 一を 買主に. uf) 化しており 、 ロー マ法とは異なり 支払わ ねば なら なかった。後者は十六世 紀の 法典類 では 一種の解 約 金(Reuka. 動 産に適用される ことはなかった。. 「 最 近親相 続 人」 は相続能力を 有する 血縁者 ではあるが、 それが実際に どの 範囲までの 血縁者を含むかは必ずしも. 明白ではな い。配偶者 も最近 親相 続人に含まれたとされる。また、最近 親相続人の 処分行為に対する「同意権」自体. は、十 五世 紀後半の リューベックの 判決によれば、相続さ れる ことの できな い一 身専属権とされた。 同 意期間に つい. ての 規定はな いが、次第に行為後の 四週間内に限定されたようである。 そして、彼 らの 異議権は、 ザク セン法の 「 一. 年と六 週と 三 日」とは異なり、 リューベッ クでは「一年 と一 日」 で失 効し、 その 後、買主は 当該財産につ いてレ ヒテ ④ ) を取 得するとされた。 e r we eGe ht ec ・ゲ ヴェーレ(r. 最後の 補論にお いて、 この相続財産制 度の 変遷が論じられる。法実務では十六世 紀頃から 、相続財産を特 定物とし. てでは なく、特定部分にお いて把握す るという観念化が進行した。 そして動産と不動産の 区分も次第に消滅 し、 これ. は一 七 五四年 の市参事会の一 宣言によって確 認さ れ ることになった。なお、配偶者 は一五 八六年 の校 訂法典 では 血縁 固 者 から 除外されて いるが、 これは 編纂者の 誤解 であり 、法実務は従来通り の 取扱 いをして いたとされる。 第一巻 の内 容は以 上である。. - 66 -. 続 人に 買取り が提示されねば な らな いの であるが、 その代 償として、彼 ら は処分行為にかかる費用を 負担するもの と. 近畿大学法学 第39巻第 1 · 2 号合併号.

(15) e) 」 が採り上げ られる。前述のご とく、 同書 で、 t err ec ht 第 二巻( -八 四 0年)で は、 「夫婦財産制 ( eheli cheGii. 初めて前年の 三 九年 に出版 された ハッ ハの 「 古リューベック法」が主たる 引用文献として言及される。そ の他 の法史. 料は第 一 巻の場合と基本的に同じである。. 夫婦は、そ れぞれの 固有のーー 相続財産と獲得財 産の区 別はここでは問 題とされないー—財産と、両者に共通 の財. Ge, 産を有した。前者の固有財産の中で も 、妻が嫁資として得た不動産に対して 、夫は 「所有権によるゲヴ ェーレ (. Ei gent um) によっ て制限 されていた。そ こで、妻 」 を婚姻中は有 する が 、そ れは 妻の所有権 ( m) gentu ezuEi r we. - 67 -. の不動産を 夫の自由な処分に委 ねるために、婚姻の際に、そ の不動産を動産化する法慣行 が生じるようになっ た。し. >し、この場合も 妻はなお当該財 産に対する所有 権を留保していた。そ の他 の妻の特有財産は彼女の排他 的な処分 権 カ. 特に 、 子供がいない場. の際の 財 産関 係が論 じられる。 子供のいない夫婦の場. ung)が なさ れる まで、 後者はそ の財 産につ いて単独の管 理権と用益権を有 し ht c hi bsc Er 間で当 該財産の遺産分 割 (. て 子供には共 同所有 権が属し、生存 配偶者には、その持分額までの処分権が認められた 。また、 子供と生存 配偶者の. ) とされ 、 そ れに対し gut 産と 見なされた 。子供がいる場合は 、夫婦の財 産は生存 配偶者 と子供の合有財 産(Sammt. 相続財 合、配 偶者 の死亡によっ て生存 配偶者に帰属した 財産はI 妻の持参財産が妻に返 還される場合を除いてー—.. 次に、 夫婦関 係の解消ー—特に、 一方の配 偶者 の死亡ー. mmuni o n)」 合I 妻の共 同経営者としての地位か ら 、あるいは相 互の遺贈 によっ て 、夫婦の間に現実的な「共有(Q) 161 関 係が生じる余地はあっ た。. )が存 在したとは考え 難い。 た だし配偶者の間で1 t haf ungensc r cheEr 財産共同制 (eheli. に服していた 。他 方 、夫婦で獲得した財産に対して 、妻の共同所有 権(Mi m)は認められず、従っ て、 夫婦 t ei gentu. 19· 20世紀における リ ュ ー ベック不動産法研究の展開.

(16) 生 存配偶者 が再婚する場合、 子供側か ら合有財産の分割請求をなしえ た。 しかし、この 請求権は、校 訂法典以 前か. されるま で、例え ば、彼 らが商 業を 営んでいた場合、その 全体財産の 分割は容易ではなく、場合によっては損失 につ. ながり か ねないか らである。. 。ウ リは、最後に、夫の終意処分権と 、寡婦の 夫の 生前の 債務に対する責任 を論じる。夫は、遺言に よって遺産と ハ. なる合有財産を分割 さ せ、 さらに、寡婦の 合有財産に対する持分を 半分 以 下に 削減することもできたが、校訂法 典の. 頃 か ら、妻への 嫁資の 返還と、それ と 並んで 一定の財産の妻への贈与の 慣行が生じるようになった。一方、 寡婦の 、. 夫の 生前の 債務に対する責任は、 子供の 有無によって異なる取扱いが なされた。 子供がいないの であれば、彼 女には. 原則として その 法的責任 はなかった。 しかし 子供がある場合、彼 女の 財産 は合 有財産に含まれるか ら、彼 女はその. 責任を 負 わねば な らなかった。 そこで彼 女には、 合有財産以上に は 責任 を 負わない旨の 一種の 破産手続きである. 具体 的にはザク センシュビーゲルの ー� 規定に準じていたが、 相続順位 については、ザク センシュビ ーゲ. 八 四一年 ) では、法定相続と遺言が 論究される。相続権者の 資格は、 認知制 度を除いて、 ほぼゲ ル マン. (. Bur gen11und Dachdi ng11 Auf t r agが 認め られ 、その責任を免れることができるようになった 。それゆえ 、この手続 8 きも夫婦の 一般財産共同制に基づくもの ではなか ったのである。第二 巻 は以 上である。. 第三巻 法的なI. ルに 規定された相続順位の 原則とは異なる法 原則が リューベック では形成 され た。その第 一順位に 位置するの は被相. 続人の 子供とその 卑属である。 子供とその 卑属の 間で争いが生 じた 場合に は、前者が優先し、十 六世 紀半ばま で孫の. - 68 -. ぢ(7). ら次第に合有財産に対してではなく、 親の財産に対してのみ向けられるようになった。な ぜな ら、 その 分割請求がな. 近畿大学法学 第39巻第 1 · 2号合併号.

(17) ⑨ 代 襲相 続は認めら れなかった。第 二順位以 下についての 紹介はここで割愛する。. 次に 、 「ヴ ェーレ (We 」 概念の相続への 影響が検討される。 この 用語は所 有概念としての「ゲヴ ェ ーレ」を 連 ) re. 想さ せるが、 。 ハウ リは全く 別の 概念と 理解 しているようである。 即ち、 ヴ ェーレは、本来ゲル マン法では―つの 閉. • Ill. der. e) を 示したが、都 市においては土地付きの 家屋、さら には具体 的な集 合財産 ell t s 鎖さ れ た 、 平 和的な家 屋敷 (Hof. ( Ve r mogens mas s e) へ と転意した。 従って 、 遺産の 分割がなされないままに 親と子供が 一緒にいる状 態は. me nde が使われる n) と表 現された。なお 、十 五世 紀頃から 用語に変化が生 じ 、 Were に代わって Sa ze t i Were(s. n へ と変わっていった。この合有財産に留まることが相続資格を も意 ze t ndes me m Sa i ように なり 、右述の 表現も i. ゜. はゲル マン法 では知られ ていないとさ れるが 、 遺言を死因贈与 と終意処分 に 区別するならば、前 者 は古い. づく相続 関係を 排除していった。 「遺 言 」. ゲ ル マン法にも存在した。 即ち、死因贈与は、贈与物に対するゲヴ ェーレを 受贈者 に移転した後も、贈与者 にその 死. 亡ま で用益権を 留保する方法として知ら れていた。後者の 終意処分は、十三世 紀頃から各都 市法に 登場す るように 、. 新たに、しかも独自 に創り出された法制 度である。これは特に死者の魂の 救済 と関連する。しかし、受贈者 に とって. は死因贈与の 方がより確実で有利であった。 なぜなら、それは贈与者の生存中の 処分行為であり、同人の 死後、彼 の. 最近 親相 続人から 異議を受けることは ほとん どないから である。 リューベックの都 市帳簿の 登記ではもっばら 死因贈. 与が 登場する。 法典類では終意処分 としての遺 言 も 登場する。それによれ ば、遺 言の 方式は市参事会員ないし一 定の. 人物の面前で行うこ とが必要であった。 聖職者の面前 で行うカノン法的な遺言は教会の 努力にもかかわらず 普及して. - 69 -. 味した。 その 結果、 既に遺産分割を受けている者 は相続から 排除されるこ とに なり、合有財産関係が従来の 血統に基. 19 · 20世紀におけるリュ ー ベック不動産法研究の展開.

(18) ~ " " hu-. こ の リューベックの 遺言制 度は、 ロー マ法の それとは異なり、受贈者 間に法的な相違を 認めず、最 近親相 続 人も ィ. ン グラン ド法の 残余財産受贈者 (r esi dua egat ryl ees ) の地位に立 たさ れ た。 終意処分の 対象となるの は獲 得財産で. あり、相続財産は除外され た。 遺言は妻の権 限 や 合有財産に よ っても制 限を受けた。「遺留分」については、十 五世. 八 紀末頃から 実子相続人の 有無にかかわらず、最近 親相続人 ヘ一定額を 留保する慣行として発生し、 やがてこれは 「. シリンク と 四プフェニッ ヒ」 の 額に限定され た。 これも ロー マ法とは異なる独自の法制 度であ った。 法 典類 に よれ. ギ6ヽ 教 会 」 は 不 動 産 の 受 贈 者 と な る こ と を 禁 止 さ れ た が 、 校訂法 典では、この禁令はも は や採録されなか った。 な . 9 「 . 四 ぜなら、教 会も宗教改革以 後は納税義務 を負 ったから である。. 最後に、婦 人の 遺 言が言及される。 リューベックでも、他の都 市 同様に、婦 人の 遺言はーー 後見 人や最近 親相 続人. の 同意を 必要とするがー— 許されてい たが 、校訂法典では 「女商 人」を 除いて、その ような遺言は禁止さ れているよ. hu. ` `. うに見え る。 しかし、これも編纂者 の 誤解 であり、リュ ーベ ックでは相変わら ず、婦 人の 遺言が禁止されることはな か ったの である。第三巻 は以上である。. 。ハウリの一連の 研究の 最後の 第四巻 ( -八 六五年 ) では定期 金売買が論究される。ここでは、第一に、この制 度が. 地代権の 売買から 展開 し たこと、 そして法史 料的に見れば‘ 土地の 所有権者 が、次第に、地代権の 設定され た土地の. 地代収取 権者 と 表記される ようになる一方で、 地代支払い義務者 はその 土地に対して自 由な所有権 (fr gen, ei es Ei. t hum)を有するようにな ったこと 、その 結果 、 土地所有者に は土地の 換金可 能性が 、 無資産者 に は土地取得の可 能. 性が生まれ、 間もなく資産家 は定 期金売買を 資本の 投下手段に利用し たこと、 ― 二 七六年 の 大火災の 後、従来の 、買. - 70 -. いない。遺言に よ って処分しうる額は銀一〇 マルク以下に限定されてい た。. 近畿大学法学 第39巻第 1 · 2 号合併号.

(19) ^. " " -. 「 古い定期金」に代わって、 売買価 格で定期金関係が解 消されう る定期金、 即 戻しの困 難な永代金的な定期金、 即ち 、. ち、「新しい定期金」が導入されたことが論 じられる。. 次に、定 期 金の法的性 格が言及される。定 期金は不動産ではあるが、定 期金の所 有のみでは、そ の所有権者は完 全. な市民 とは見なされない点と、定 期金は相続財 産である不動産と代位する場合のみ 相続財産となり、そ れを除けば‘. そ の所有者の自由な処分に委 ねら れる 点で本来の不動産とは異なっていた。定 期金売買は、法 典類によれば、一回限. り とされているよう に見えるが、都 市帳簿によ れば、 同一人 物に、あるいは複数の人物に同一不動産の複数の定期金. が帰属していることもある。これは最 初の買主 の 同意に基づ くか、あるいは彼の定期金が第一 順位にあることを宣言. 在するだけとなっている。質入れされた 不動産についての定期金の設定 は禁止さ れているが、しかし家族間や特 段の. 事 情の存 する場合には、こ れも 認容 されていた 。. 定 期金売買の 当事者の法 的関 係では、 買主である定期金権者は 定 期金のみ を請 求しえ、 そ の他 の財貨を請求した. り、あるいは定期金債務者に人的に請 求することはできなかった。た だし、定 期金権者は、当 該定期金が設定された. 不動産に対して先買権を有しており、また購入した定期金権を転売することもできた。他 方、売主である定期金債務. 者は、―二七 六 年の大火災後、定 期金の買戻し権を持つことが許 された。定 期金権者には解 約のた めの告知権は認め. られてお らず、オ ー バー都市帳簿でも 例外的に三事 例があるのみである。しかし、この告知権の欠如は第 三者 への定. 期金権の 転売によって実質的に補わ れた 。こ の定 期金権の転売には本来、定 期 金債務者の同意が必要であったよう で. あるが、登 記によ れば、その慣行も十四世紀中には廃 れ、そ れは定期金債務 者の ネー エルレヒト、 即ち 、単なる先買. - 71 -. することによって 可能と なったのであろう 。しかし十五 世紀には、例外 なく‘ ―つの家 屋について単独の定期金が存. 19 · 20世紀における リ ュ ー ベ ック不動産法研究の展開.

(20) Q. 。. 権 に後退 した。. さら に、定 期金権と他 の人的な請求権 の関係 が論 じられ、 後者 の請求権 に基づ く債務者 の不動産 の差 押え の場合 で. も、定 期金権者 の権 利が留保さ れねばならなかった こと が指摘される。そして、定期金売買と利息付消費貸借と の関. 係 が検 討され、 利息付 消費貸借が中世 に登場 しな い のは、 カノ ン法 の利息禁 止令 のためではなく、当時は定 期金売買. の方 がよ り適 切な手段と見なされたからである。 しかし、 ほと んどすべて の市内 の不動 産に定 期 金が設定されて しま. うと、そ れ以上 の定 期金設定は、― つ の不 動 産 への複数 の定期金 の設定 禁 止という禁令 に抵触する ので、次第 に利 息. 五 八六 年 の校 訂法典では、定 期金 の役 割は低下しており、十七 世紀 には 利 付消費貸借が導入される よう になった。 一 問 息付消費貸借が定期金売買を 駆逐するか、 両者 は同 一視されていった のである. 最後 の補論では、 ま ず、質権 が、 アウ フラッ スングを伴う 「買戻しを 留保した 売却」 、古質、新 質 に三 つ に区 分さ. れ、法典類 に登場する のは新質 のみ であるとされる。これ に対 して、 古質は、都 市 帳簿 によれば、 農地等 の市外 の不. 動産 に設定されていた 。さら に質権 の執行 では、質物 によっ て債務 の弁 済が十分でない場合 に初めて人的責任 の問 題 e が生 じ、 近代法 のよう に債権者 に債務 執行 につ いて 選択権があったわ けではないとされる。. これら の論述 の後 に、史料 としてオー バー都市帳簿と ニーダ ー都市 帳簿等から の抜粋、 全部で約五 一0例 の登 記が. 収 録さ れ同書は 閉じられている。彼 の四巻からなる古典的な 作 品 の内容 は ほぼ 以上 に尽きる。 こ れら 四つ の著作 に共通する特 徴 につ いて 指摘しておこう。. 第 一に、 彼 が検討 の対象とした のは、 主 に都 市帳簿 に残された登 記であったと言ってよい°確か に法 典類 の条文も. 登 場する が、それは個 々の条文 のみである°漸く第 四巻 にいたって法典類 が検討 の対象 に加えられる が、そ れは 校 訂. - 72 -. 第39巻第 1 · 2 号合併号 近畿大学法学.

(21) 法典 とそれ以 降の 法令である。それ以前の 法典類に対する検討、 即ち、法 典類の 時代確定、条文の 系統関係、法典の. 全体 的な 構造の 中での 関係条文の 位置関係等の 論究はなされていない。 おそらく 、 パウ リはそのよう な作業を 同僚で. 八 五一年 に彼 が 死亡したの で、その後ハ 。ウリ自 身もその 検討 あるハッハに 委ねていたの ではなかろうか。しかし、 一. に手を 染めざるをえず、彼 は、第四巻 においてその成 果を部分的に披 露した とも考え られる。いず れに せよ、彼 の研. 究に おいては、十 六世紀までの 法典類は、彼 が目指した中世リューベッ ク法の体 系 的な把握の ための 主たる素材 とは. されなかったの である。. 第 二 に、「 人」について見る と、中世には、婦 人、 特 に配偶者 である「妻」の 地位が、夫婦関係あるいは夫の 死亡. は、妻 はそれ以 前 と同様に取扱われていたとす る。ただ し、このこ とは 、夫婦関係において両者が同等の 立場に 立っ. ていたことを 意味するもの ではなく、両者 の 間では夫が優先し、リ ューベッ クでは夫婦財産共同制 ぱ成 立しなかった. と パウリは考 え る。. に、 「不動産」の 帰属を示す 所有関係について、彼 は基本的に 二 つの 学術的用語で 説明する。 即ち、所有権 一 ― 第一. we r e ) である。 ただ し 、彼 はこれについて特に頁を割いて説 明を加え ている訳では m) とゲヴ ェー レ (Ge gentu (Ei. なく、むし ろ場合に応じて使い分 けていると思われる節もある。 しかし、あえ てそれ らの 用法を 拾い上げて み る と、. 所 有権とゲヴ ェーレは対 立的な概念とは見なされていず、両者が相互補完的な説 明用語として利用されているこ とが. 判明する。 即ち、 後者のゲヴェーレは、 当該不動 産に本来の 所有者が存在するもの の 、 その 財産に第三者 の 部分的. な、 物権的 な支配が 及ぶようになった場合に、 あるいは、 物権が 売買等によって第三者 へ移転する過程にある場合. - 73 -. 後の 親子関係に おいて高く評価されていたと彼 は考え る。確かに 校訂法典では妻の 地位が後 退しているが、法実務 で. 19 • 20世紀 に お け る リ ュ ー ベ ッ ク 不動産法研究の展開.

(22) に、 利用される。前 者 の例は、 夫の妻の嫁資 に対する支配II 処分権とし てのゲヴ ェーレ、 あるいは定 期金 に対 する ゲ. にレ ヒテ ・ゲヴ ェーレ を 取得するといった用法である。 所有権とゲヴ ェーレとの 違い につい ては、 わずか に第 四巻. ,. で .土地 に関し て言 及されるのみである。 即ち、 土地の所有権者は市 民集 会 に出席する権 利があるが、 ゲヴ ェーレ 権. 者 には出席権がないということである。また、 ゲヴ ェーレが所有権 にいつ転化するのか につい てもは っきり しない。. おそ らく、 彼は、 名義書 換え等 による登 記行 為 によっ てゲヴ ェーレ が異議のない 所有権 に変化すると考え ていたので tll はなかろ うか。 以上が 。 ハウリ研究の特色である。. 本節では、 ゜ ハウリの研究の内容 を主 に紹介し てきたが、 最 後 に、 ハッ ハと 。 ハウリのリューベック不動産法 研究の方. 法 論 的な特徴を要約し ておこう。. 第一 に、 パウリの研究 に顕著 に現れ ていることであるが、 その論理構造 に ―つのはっきり した 枠組み があるよう に. 思われることである。 即ち、 まず、 伝統 的なゲ ルマン法とその、 言わば、 現象形 態と し てザク セン シュ ビーゲ ルが論 四 理 の出 発点 にあり、 中世リュ ーベック法 が その 発展形 態とし て理解 され ていることである。しか もそ の発展 は独自の. 創造の結 果とし て もたらされたものであり、 外国法、 特 に、 ローマ法 の影 響はここでは見られないということであ 8 る。このことは、 さ ら に前述の フレ ンスド ルフによる バウリの人 物評でも看取 される。 即ち、「彼の研究は、 単 に、. ( 11. リューベックの 現行法ー筆者)の法 制度の改 革. そ の歴史的な検 討と 並んでのみ ならず、 まさ にそ の中 に ―つの実務 的な 目的を追究する。それは、十 六 世紀のローマ. 的な校訂が 及ぼした有害な影 響を除去するという意味での、 前者 8 と い う目的である 」. - 74 -. ヴ ェーレ とい った用法である。後者 の例は、 ア ウ フラッス ングの結 果ゲヴ ェーレ が買主 に移転し、彼は一年と一日後. 近畿大学法学 第39巻第 1 · 2 号合併号.

(23) 第 二 に、 。 ハウリ は、 自 ら の研 究 を当時 の学 界 の研 究 動 向 の中 に位 置 づ け ては い な い の であ るが、 フ レ ン スド ルフの. 評 が 正 し いと すれ ば 、 彼 の研究 も、 そ し て ハッ ハの研 究 も 、 基 本 的 に歴史 法 学 派 、 特 に、 ゲ ル マニステ ン的潮 流 の中 ⑳ に位 置 づ け られ る こと にな る。 前 述 のご とく 、 彼 ら は、 一八O Oー 一0年 代 の フラ ン スの占 領 と解 放 戦 争 によ る政 治. 彼 ら によれば、 法 的 な 混乱 も. 的 な混 乱 と、 そ の後 の民族 主 義 的 な ド イ ツ統 一運 動 の渦中 で活 躍 し て いた。 も し彼 ら が単 な るリ ュー ベ ック法 制 度 の. 再 建 を越 え て、 歴史 に基 づく 統 一的 な ド イ ツ の諸 法 典 の制 定 ま でも 構 想 し、 中 世 のI. な いー—' リ ュー ベ ック法 制 度 へと 回 帰 し た の であ れ ば ‘ ま さ に彼 らも ゲ ル マニステ ン に 属 し てい たと言 え る。 し か. も、 こ の こと は、 彼 ら の研 究 が外 国法 、 即 ち、 近 代 的 な フラ ン ス法 、 最 終 的 には ロー マ法 に対 す る反感 と いう法 感 情. 提 に立 って い る こと自 体 が本 来 的 に、 彼 らも ま たゲ ル マニステ ンであ ったと いう こと の証明 かも 知 れ な い。 も う 一っ. の傍 証 は、彼 ら の主要 な研 究 書 が 一八 四 0年 前 後 に集 中 的 に出 版 さ れ たが、 こ の時 期 には、 例 えば ‘ 一八四七年 九 月. Jakob Gri mm) の司 会 の下 に第 二回ゲ ル マ ニステ ン集 会 が開 催 さ れ 、 当 時 は こ のよ う にリ ュー ベ ック市 でグリ ム (. erke) によ れ ば、 パ ウリ は 既 に第 な学 問 的 な潮 流 が 最 も 盛 り 上 がり を 示 し て いた時 期 であ った。 ギ ー ルケ ( 0.V•Gi. 一回集 会 の フラ ンク フ ルト集 会 の際 に呼 掛 け 人 の 一人と し て登場 し ており 、 こ の第 二回集 会 でも リ ュー ベ ック法 に基 8 づく 婦 人 の遺 言 能 力 が議 題 に採 り 上 げ られ、 彼 の学 説 が姐 上 に載 せられ た よ う であ る。 し か し、 筆 者 は パ ウリ が そ の. 際 ど の よ う な役 割 を 果 たし た のか を 確 認 す る こと は でき な か った。 いず れ にせよ、 彼 ら、 特 に パウリ が、 ド イ ツの統. 一的 な 法 典 編 纂 作 業 に中 世 のリ ュー ベ ック法 が役 立 てられ る ぺき であ る と 考 え て い た こと はま ち が いあ る ま い。. 第 三 に、 こ のゲ ル マ ニステ ン的 潮 流 も 含 め た、 ド イ ツ法 学 界 に対 す る彼 ら の影 響 に つい て であ る。 後 世 のリ ュー ベ. - 75 -. を 伴 ってい た こと か らも 推 測 しう る。 パウリ のご とく 、 ゲ ル マン法 か ら リ ュー ベ ック法 が発 展 し たと いう論 理的 な前. 19 · 20世紀におけるリュ ー ペ ック不動産法研究の展開.

(24) ック法 研 究 への彼 ら の歴 然 と し た影 響 に比 較 す れば、彼 ら のド イ ツ法史 での貢 献 と そ の評 価 はあ まり 高 く な いよ う で. ぁ 5。 ほと ん ど のド イ ツ法 史 の概説 書 にお い て彼 ら の名 前 を 目 にす る こと は な い。 お そ らく、 そ の理 由 は、彼 ら が大. 学 に籍 を置 く研 究者 では なく、 基 本 的 に法 実 務 家 にと ど ま ったが た め に、 ―つの法 学 派 を形 成 す る にい た ら なか った. こと によ る も の であ ろ う。 ま た彼 ら は学 界 の法 的 な論 争 に積 極 的 に関与 し た節 も な い。 し かも 、彼 ら が活 躍 し た四 都. 市 上 級 控 訴 裁 判 所 も ま た、 一八七 七年 ド イ ツ帝 国議 会 が定 めた裁 判 所 構 成 法 によ って、 七九 年 には廃 止 さ れ た の であ. ー. ー. る。 こ こ にい た って、 リ ュー ベ ック法 研 究 は法 実務 と の関係 を 絶 たれ る こと になり 、 同 法 研 究 の拠 点 も 再 び 同 市 を 離. ー. ー. れ る こと にな る の であ る。. ー. 註 . ,S.I9 ,! il e erThe ht m Lti henRec c s bi nausde unge 山 Abhandl .ここでは他に、相続財産と獲得財産 の 一種の 「 ., 切 i bi d s.1 010 2 添附」の問題も取り上げられ、また、都市帳簿上 の登記でも 両者 の区分が決して容易ではな いことも指摘されている。 ,s.10 . 0· 2 d 31 bi ③ i . なお、黒生江親炉g . , ④ i 21180 bi d 鈷5 人に不動5 産 の買取りを提示せず に、やむをえざる事由に基づく有償処分として売主が買 s.1 主に当該不動産を売却する場合、。 ハウリは買主( Kauf e r ) が追奪担保保証の責任を負えな いことを誓約するとしているが、 これ . . ,s.1 は売主 ( Ve r kaufe r )の誤りと思われる。i bi d 5 6 . , . 0 0 2 d s.1 81 bi 固 i ,S.16 . ,2 m Lti ⑥ Abhandl unge nausde il 4 ht e bi s c henRec erThe . . , 51 m i s.6 bi d 7 7 . . ,s.1 ⑧ i 7 8 -236 bi d . , . ⑨ Abhandl unge m Lti nausde S bi s c henRe T h e i l, c ht e 1 3 e 8 r 8 .さらに、具体的な相続手続きが第三節 ( , 叩 i bi d. s.8 91 3 0 Dr it t er Abs c hni t t ) として論説されているが、 これも割愛す る。. - 76 -. 第39巻第 1 · 2 号合併号 近畿大学法学.

(25) 19 • 20世紀における リ ュ ー ベ ッ ク不動産法研究の展開. ー. ー. ー. ー. ー. . 7 2 -2 56 d.,s.1 bi uv i 8. この他にも遺言に係わる諸問題が検討され、最後に具体的な遺言の事例が紹介され ている。なお、 ここで 6 83 2 d.,s.2 bi ⑫ i の遺言に ついての論 述は、第 二巻 の場合とは幾分 異なるようにも思える。 . ,s.36 ul i bi 3 d. 946 ,4erTheil . ,S.1-26 e chenRecht s ungenausdem Lubi ⑭ Abhandl . 8 ⑮ i d.,s.26-5 bi . 877 d.,s.5 bi ⑯ i ウ リ は十九世紀ま での関連法 規の変遷を跡 づけ ている が、 ここでは割愛する。 ハ 28.。 d.,s.811 bi 闘 i . ,s.1 291 47 d. bi i ,s.3 3. d. bi i. ⑲. um. oo. . ,s. d. bi 1 10 定期 金権者 が、登記上 での名義書換えによ って所有権を取得すること が指摘 され て いる。i ⑳ 例えば、第 一巻、序 の十— 十五頁°個別的な問題もザク セン法との対比に お いて論 じら れている。第二巻の夫婦財産制の問題 も分析道具は基本的にザク セン シュビーゲ ルの諸規 定である。第 三巻でも、ゲ ルマン法 の相続体系に対するリ ュー ベック の独自 。 四 一頁以下) の体系の解 明と いう論 理が貫徹し ている (. 四 第三巻の遺言に ついての論 述は、ま さに ロー マ法 の遺言との違 い、前 述のカ ノン法 による遺言形式の普及の挫折 に見られるご とく、 ロー マ法に対するリ ュー ベック法 の独自性 の強調である (-五六頁以下)。 さらに 、 第四巻で は、前 述の利息付消費貸借. w.. の普及も カノン法と無縁である ことが 述 ぺら れている 。質制度に ついては ロー マ法的 な視点 からの法分析がなされており、 この 限 りでは、 それと同様の法制度をリ ュー ペック法 が創造したと いう こと であ ろうか。 ,S.26 . ,Bd.25 4 e aphi ogr cheBi s eDeut gemein All. �. ⑳ 。 ハ ウ リ が、ゲ ル マン法に関してで はあるが、彼 の著 作 の中 で、例えば、遺言に ついて綸述する際、引用する主要な研究 は、 ,...1JG.Bes ,1 ,DieGewer ,Die Lehr E.Al undl agedesal brecht eal er t sGr endeut 828 henr s ec chenSac ht el er e von den. I. 5. .で*3 ,a ,S.1 ,3Bde ,1 ,3er Theil . .さ・ る。C.W.Pauli にわた って引用されて 8 3 5 -4 0 Er bv er t r agen 56f a. O. りに、同事 の全比亡 . である°抽らは周知のごとくゲ ル マ ,Deut ,4Bde ,1 いるのは、K•F•Ei chhorn s cheSt aat s 1undRecht s ge s chic ht e 8 0 8 -23 ニス テンで ある。. ,i ,1 ,Anm.65und 7 ,DieHis Ei Ot t ovonGi er ke mani s t en eGer s s chul eunddi 0 t ori s cheRecht 9 03 n Neudr uc kaus gabe. - 77 -.

(26) .なお、上山安敏 「 ,1 、みすず書房、三 一九頁以下も参照o 法社会史」 d n 3 m Ba ne i 7 e 9 n i e v e s )が。 ハウリの文献と外見的によく似た研究書 『ハンプ ルク相続法論集、第 凶 一八四四年、 ハンプ ルクでドレフェス ( L•Dr ,Er bg i.i t e r ) 」を出 b r e c ht e s t erBa mb u E r g i s c h e n r n d;Da m ha rEr 一巻、相続財産の法 ( Abha n dl u n g e na u sde c htde sRe 版したが、これは彼の ―つの影響と言えるかも知れない。. 四、 今世 紀 三0年 代 ま での リ ュー ペ ック 不動産 法 研究 の 動向. 第二次世 界大戦前のリュー ベッ ク法研究の特 徴 は、前世 紀までと は決定 的に異なって、法実務的な契機が 基本 的に. 失 われたこと にある。 一 八 七七年 の 刑事訴訟法典、九六年 の民法典の制 定等の一 連の 統一 的なド イツの 法典編纂 によ. って、たとえ リュー ベック法の 一部が その 中 に採用されようとも、 リュー ベック法の 現行法としての存在 意義は原則. 的 に否定されることになった。経済あるい は政治的に見ても、リュー ベック市 は その 重要性を 一層喪失 していった。. 即ち、経済 的に は、中世 以 来、同市の 北海 への出 Dとしての 役割を果たしていた ハンプルク市が、既に エル ベ河航 行、. 大西洋航 路の 拠 点としてリュー ベックよりも はるかに 経済的な繁栄を きわめていった一方、バル ト海 側 でも、 キー ル. 市が一八 七 一 年 ド イツ帝 国海軍の 軍港都 市に指定されること により、経済的な中心 はキー ルに 移り、リュー ベッ ク は. 一 地方都 市に衰 退 せざるを 得なくなったの である。法形式的に は、 リュー ベック は、ナ チ スの支 配下の 一九三七年 、. 「大 ハンプルクと その他の 領域の 整 理」 に関する法律によってプ ロイ セン (シュレ スヴ ィヒー ホル シュ タイン) に 併 山 合され、 その独立性を 最終的に失うことになる。. 従って、 リュー ベック不動産法研究 は、も は や法実務とは基本 的 に一線を画した、いわゆる 法制 史的な研究に取っ. - 78 -. 1· 2号合併号 第 巻 39 第 近畿大学法学.

(27) て代わら れることになった。それ は、多様な法史 料を 発掘し、それに論理 的な分 析を加え 、リ ューベック法の 全容の. 解 明す るこ と、そして、 その 結論を他の 中世 都 市法と比較し、その 関連性を 探ること、あるいは全体 としての ドイツ. 法史 上での その 歴史 的な意義を考 察することであった。また、 これとは異なって、 全く別の視角、 例え ば、社会 経済. 史 的な視角から リ ューベック法にア プ ロー チすること、 即ち、中世 遠隔地商業、特に、 ドイツ ・ハンザの 展開と リ ュ. ーベック法制 度の それ との 関連を 論究する研究も 登場して きた 。これまでの 研究を、 「リ ューベック市のためのリ ュー. 最初の 人物がレー メ (Paul. ベック法」 研究であったとすれば、これ以 後の 研究は「 ドイツ 中世 都 市法の一 っとしての リ ューベック法」 研究と言. うこ とができよう。 一 ). 法源と不動産法の 歴史への 一寄稿ー. (DasLii bec ker O berSta dt buch.Ei , n Bei t r agzurGeschi. 彼 の リ ューベック不動産法に関す る主要な作品は、一八 九五年 に ハノーフ ァー で出版 した rリ ューベックの オーバ. ー都 市帳簿I. s Li cht ederRecht squell e nund de egensc haf t sr ec ht es)」 である。当時、彼 はキー ル大 学の私講師 であった。 同. L. Go l dsc hmi dt ) に献 呈されたように 、レー メ自身は最 書が彼 のベ ルリン時代からの師であるゴ ルト シ ュミット (. 初は商 法あるいは商法史研究者 であったが、その 研究の 過程で次第に中世 都 市の都 市帳簿、特に不動産 登記簿の 研究. に接 近したの である。 従って、彼 は本来的に リ ューベック法に関心を有していた訳ではない。. 同書の 題名が示すごと く、彼 は、。 ハウリがその研究の素材の一 っとしたオーバー都 市帳簿に様 々な法 学的な視角か. ら 徹底 的な分析を加え た。同帳簿の 中から 不動産に関する 登記を十 三世 紀末から十 九世 紀前半ー —↓止確には、 登記制. - 79 -. (. 今世 紀の 、このような 方向での ーー血雨話ば な 「法制 史 研究者」 としてのi ② 1)である。 Rehme1867ー194. 19 · 20世紀における リ ュ ー ベ ッ ク 不動産法研究の展開.

(28) � にわたって採集 し、こ れに基づ いてリューベック不動産法 の構 度 が改 革された一八 一八 年六月六日 の都市 帳頷令' ③ 造と特 徴を描き出そ うとしたのである。 同書 は四部構成からなる。第一部 では登 記の形 態について簡 略に概観さ れ、. そ して第 二部では登 記の内容 について論じら れ、 以上が総論部分を構成する。続いて、言わ ば、各 論部分が始まり、. 第三部 では、市参事会の面前 での不動産の移転行 為であるアウ フラッス ングと こ れに係わる諸問 題が 、最後の第 四部. ― 1 0 例以上の登 記が付けられた 。 では、登 記と、こ れに関 係する諸問 題が扱 わ れた 。その後に、補遺として四 一. さて、同書 の特徴を、前節で述べた パウ リの見解と対比させ ながら、要 約すれば 以下のよ うになるであろ う。. 第 一に、「 人」について見ると、 彼は、 バウ リと異なって、「 妻」が最近親相続人と同等の 地位にあったとは見な. い。そ して両者の相違は、 後者の最 近親相続人には、所有者の処分行 為に無条件の異議権があり、彼らは彼らの同意. のない処分 を無効にすることができたが、前者の 「妻」 の場合、彼女が理由な く同意を拒否 するのであ れば 、市参事. ) が こ れに代位しえたことである。 た だし 、妻は夫婦関 係 (Gemei hl Befe sbung i e hr n, 会の名義害換え命 令 (Zusc ぃ )に対しても一 定の権限 を有していた。 gut ) に基づ く権限を有し、子供と 共 同で 所 有する合有財産(Samt t haf sc. 「不動産」について問 題とされる のは heredi ta sという表現である。 。 ハウリはー— ただし、 以 下はレー メ 第 二に 、. の 引用であるがI この表現が店舗付きの家 屋のみ ならず、 家 屋や土地等からなる集合体も 意味し、 こ れは 、 最 初. .v .Schauenbur g) そ し て ザクセン公 ハイ ン リ ッ ヒ lf2 の都市君主であった ホル シュ タイン伯アドル フニ世(Ado. ge nt hum)とともに市の植民 者に付与された不動産であ り 、第三 nr i c h) 獅子公によっ て、完 全な所有権(vollEi i (He. 者の土地の上にある家 屋(domus)とは区 別されていたが、この法的な区 分は十 四世紀初めには消滅した と主 張して. s は最初から不動産の最も ta いた。こ れに 対してレー メは 、このような法 概念 的な対立は本来的に存 在せず 、heredi. - 80 -. 1 · 2 号合併号 第 巻 39 第 近畿大学法学.

(29) 一般 的な表 現 であり 、そ の中に家 屋や土地 も 含まれていたとする。 な ぜなら 、 十三世紀末の登 記に her edi ta s が頻. 繁に売却されたことが知られており 、 も し 。 ハウ リ説が 正しいの であれば、この時期に巨大 な家 屋群が頻繁に売買 の対. 象 となったことになるが、実際には、 そ う ではなく、そ れらは同じ家 族の所有 の下に留まって いた と 考えられる から. である。 む しろ 、 展開の流れは 逆 であり 、 そ の頃からより 個 別的 で正確な表 現が求められるよう になり 、 その結 果 固 her e di ta sは大 きな所有地 ( 唇 sit z ung)だ けを意味するになったとレ ー メは言うの である。. 、ノゥリは、 第 一 巻 で相続財産 しか し、 筆者は、 レ ー メ説には 賛成しがたい。 な ぜなら、 前 節 でも 見たよう に、 °. edi ta s も 、レー メの主 張とは異 なって、 最 初から不動産一 般を示 ある。 従って、この言葉と語 義的に類似する her. していた と 。 ハウリも|ー た だし、彼 が 後に見解を 変更させない限り ー� 考えていた の ではなかろう か。. 第 三に、「所有関 係」 では、 レ ー メは、 パウ リとは異なり 、 不動産の帰属関 係を説明するに際して、 も っぱら 「所. ゲヴ ェーレ」を 原則 と して使 用していない。 例えば、定 期金売買の成立に関 して、これが地 有 権」 概念 を使 用し、 「. 代権売買から発展 した 点 では ゜ ハウ リと 同 じ であるが、そ の際の不動産の帰属関 係についての説明は異 なっている。地. 代権者 の土地 に対する権限 は上級 所有権 ( Oぽ r ei ge ntum)、地 代支払い義務 者の当該土地に対する権限 は下級 所有権. ( Unt er ei gentu rn ) と され、 地 代権の売買の展開の中 で、前者が定 期金権者となり、彼の権限 が次第 に地代収取 権に. 後退 する一方、 後者は後に定期金債務 者となり、彼の権限 は地代支払い義務 を伴う 所有権に転化したとされる の であ 囮 る。 しか し、 当時の地代関 係をこのよう に説 明 しえないことは明らか である し、 後者の地代支 払い義務 者の権限 は別. ,j ) とされており 、この権限 と下級 所有 権の相 bel der ec ht t ari um,wic の個 所 では世 襲借地 権 ( Erbl ei he us her edi. - 81 -. a) を論 じた 際に、 後者がラテ ン語 法典 では不動産一般を 意 味していたことを指摘していたか ら で ri ta naheredi bo (. 19 · 20世紀における リ ュ ー ベ ッ ク不動産法研究の展開.

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