曹操が屯田策を採用するに至つた事情について
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(2) . 北海道学芸大学紀要(第→部). 第9巻 第1号. 昭和3 3年9月. 曹操が屯田策を採用するに至った事情について 田. 中. 整. 治. 旭川分校史学研究室. ions o f Tぎao Ts‘aors t i TANAKA: 0n the condi Sei j ‘ i ion ofthe 1 un‐ t en pol cy adopt. 目. ・次. 策 採 用 の 屯 田 駆る. 1 序. 蝋聯恥 き 噺中の残党吸収 1. 序. ) それらの研究においては何 曹嬢の屯田策に関してはすでに若干の研究 が発表されているが1 , れも醜に屯田策が採用, 実施さえ るに至った事情については, 充分に論じ尽されていない嫌いがあ るため, 本小篇ではそれについていささか考察して見たいと思う。 後漢の 光武帝の漢室再興以来, 概 して国内には平和が保たれ, 主要な生産手段たる土地の集中 J ・作 が行われ, 郡国には豪族の拾 頭が生じ, 農村の階級分化が進行するにつれて, 農民の零細化, ノ 化乃至奴隷の発生が見ら れるとはいえ, なお農業人ロは耕作方法における若干の進歩特に牛耕の普 ) 農村に安住することが できたが, 宮廷を中心とする外戚・富官の闘争という 政治社 及によって2 , 会の腐敗が農業生活の上に 悪い影響を 及ぼし, 租税負担の重荷は農民をして貨幣経済に依存するこ とを大なら しめるに至り, 農民の窮乏は甚 しくなり, ついに農耕から離脱せしめるに至った。 漢帝 国の社会 機構においてその所を得なくなった人ロ集団は, 農業社会の被支配者層においては流民と むのおきどころとして, 道教の信仰を受容し, 呼ばれるが, この農村社会から離脱した流民が, その′ これによって合成されて集団的行動をとるに至るのが, 妖乱とか妖賊として記載される宗教的叛乱 ) の真相であり, 黄中の乱はこの最も顕著 な事例に外ならない3 。 1 黄中の乱と軍閥による黄中の残党吸収 1 鐘鹿(河北省平郷県) の人, 張角が黄老を奉事して妖術 を教授し, 太平道と号し, 郷里の河北省 地方の流民たちに, 自己の罪過を告白し, ざんげさえすれば, 霊験のある呪説と符 水によって病気 が治癒することをしきりに説いたのは西紀170年代からであるが, そのために非常な信仰を集め, 不安定でかつ無方向な流民の集合は, 張角という指導者の人物と脆拝首遇・符 水治病の宗教的実修, )とによって教団を形成す るに至った 太平経の社会思想4 。 さて張角は弟子を四方に分遣 して, その宗教を説き回り,10余年間に数十万の信 者を獲得する に至ったが, その範囲は華北大平野の青・徐・幽・巽・荊・揚・ 発・像の八州に及 び, これらの地 方の人民は自己の財産を悉く売り払って彼のもとに集って来た。 即ちすでに流亡した無一文の農民 でなくても, 流亡の一歩前にある零細の貧農とか, 或いは乱を思って反 政府的態度に傾いていた地 方の有力者さえも, その教団に加入 し, 財政的基礎を与えたことは想像に難くない。 張角の勢力が - 54 一.
(3) . 曹操が屯田策を採用するに至った事情について. 高まり世間の注意を ひくようになると, 張角は一時不穏なる人物として検挙されたが, 表面上巧に 治病を装い, その革命性をかくしていたため放免された。 地方官キ張角の真意を解 し得ず,「善道」 を以て流民を教化していると解釈し, 彼らのもつ行 政的能力では最早処理できない流民を郷里に帰 還せしめる施策を怠った。 問題の根源は流民に あることを見抜いた司徒楊賜は 「刺史二千石に命じ て流民をその本郡に帰らしめてその教 団を弱く し経済安定策を講じたら, 張角の徒衆 は自然に解散 5 )と上言 し 司徒縁の劉陶も同じ趣旨の上言を繰返 し し, 大 よう」 ,乱の発生を阻止することができ, , , たが, 実行には移されなかった。 張角の一味は初めは直ちに革命的行動を起きなかったが, その勢力が急に増加し, 社会上層部 に若干のつながりが生じて来ると, 政治的野心を 抱し ・て, その宗教の説く理想社会を武力に訴えて 実現しようと謀るに至った。 張角は天下に散布している信徒を36方に編成し, 方毎に各渠帥を立 て, 大方は約1 方, ・方は6~7千の衆を指揮させた。 そ して 「蒼天己に死す, 黄天当に立つべし, 歳は甲子に在・ り, 天下大吉ならん」 との流言を放ち, 信者を使って洛陽の寺門や地方の官庁の壁面 184 に白土で書かせた。 この年は霊帝の中平元年( )甲子の年である。 この起兵の計画者は大方の馬 元義で, 彼は先ず荊・揚の流民数万人を率いて郷(河南省臨滝県西目こ至り, ここを根拠地として洛陽 の中常侍, 封謂・徐方等と内応する手筈であった。 しかるに張角の弟子で済南(山東省歴城県東)の唐 周が密告したために, 馬元義は洛陽で処刑せられ, 朝廷の官吏や人民で張角と通謀する 者千余人も 課殺せられ, 翼州に令して張角を逮捕せしめんと した。 張角は事がすでに露見したことを知り, 諸 方に令して同時に起兵せしめたが, この際職徒は 皆黄中を目印としたので, 彼らは黄中の賊と称せ 184 られた。 時に中平元年( )正月の事である。 2月になると張角は自ら天公将軍と称し, 角の弟, 宝は地公将軍, 宝の弟, 梁は人公将軍と称す, るに至った。 賊徒は各地の官庁を焼き, 都市を攻略し, ついに州郡も支えきれず, 長吏の任を棄てて逃亡する者も多くなった。 旬月の間に天 下の流民の中 には黄中の賊に加わる者多く, 国都の洛陽はその脅威にさらされるに至った。 3月に入るや河南男 何進が大将軍となり, 左右羽林営の営兵を率いて洛陽の鎮守に任じ, 不運なる人物の出入を見張る ために, 洛陽の国都を固める八関, 即ち西部の函谷関, 東部の旋門関, 南部の広成関, 伊水南岸に ある, 東からいって, 暢醸関, 大谷関, 伊関関, 黄河に面する孟津関, 小平津関の8カ所に都尉を 置いた。 ・また党鋼の禁以来, 郷里に退去し朝廷に出仕を禁ぜられた土大夫が; その郷党の勢力を集 め, 賊に内応することを防止するため, その禁を解いた。 後漢末の政局を観ると, 上に幼少の天子 が在位するために, 外戚の権力が増大し, それを押えるために桓帝が寛官に頼ると, 富官が横暴を 極め, その反対派の党人の攻撃が始まったわけであるが, 今や朝廷は富官や豪族のうちで叛乱に内 通 して い る か, ま た は そ の お そ れ の あ る 分 子 を 見 出 さ ね ば な ら な か っ た。. 黄中の賊の中心地は張角兄弟 の指揮する河北省南部, 山東・河南の一部特に鐘鹿(河北省寧晋県 西)安平(同輿県)清河 に甘陵 山東省臨満県)の諸郡国, 波才らの率いる河南省平野, 特に頴川(霞県)汝 南・陳国(陳留}・南陽の四郡の二方面であり, 東北方と南方とから国都をはさみうちにせんとする態 勢にあった。 官軍でも左中郎将の皇甫嵩, 右中郎将の朱僧が各 4万の兵を率い, 頴川の賊を討った が戦利あらず, 退いて長社 (河南省長葛県) を保った。 出陣の際に西園の厭馬を出して兵士に班って 騎兵部隊を編成したが, これが馬匹の頭数の少なかった賊軍に大なる脅威を与え, 加うるに騎都尉 曹操が来って朱傷の軍と協力して奮戦するに及んで, 賊軍ついに敗れ, 汝南・陳国・頴川の三郡は 先ず平定した。 残る南陽(宛”こは10余万の賊軍が竪城に拠ったが, 朱傭は3カ月に及ぶ包囲の末 漸 く 之を 降 し た。 こ の 際, ′ 呉郡富春 (断江省富春県 } の司馬孫堅が功を立てた。 皇甫 嵩は東北へ転進 し, 東 郡r河北省大名県 ) の賊を下して後, 北中郎将・鹿植に協力し, 20余万の衆を率いる張角兄弟と. 広宗 {河北省威県東} 下曲陽(河北省晋県西) に戦って賊の大部分を殺すか捕虜とした。 首魁の張角まず 一 55 一.
(4) . 田 .中. 整 治. 病死し, その二 弟も課せられ, 彼らに同調した広陽, (河北省良郷県東北)の賊軍も平定さえ, 概 して 東 北方面の黄中の賊は数は多かったがもろく散発的であった。 その代りに破残の賊衆は河北′ 山西の山岳地帯に逃げ込み, 6~7千から2~3万の団体を 組ん でそれぞれ頭目に率レ ・られてゲリラ戦を続けたので, 黄中の賊自体は中平元年の 年内にほぼ平定さ れたにも拘らず, 地方の治安はよくならなかった。 こういった状態はひとり河北・ 山西方面のみで はない。 漢の農村社会からあふれ出て他郷に流亡する人ロは, 決して死亡してしまう のではなく, こう した盗賊の群に投じ叛乱の鎮定に従事した軍人も, 結局彼らを帰 順させ, 自己の軍隊に編 入し, 表面上は後漢の朝廷から平定の功を貸せられたが, こう して帰順者や, 或いは当初から官軍の兵士 に応募したやはり農村出身者よりなる私兵を多数吸収するようになると, 朝廷の集権政治の下で, 単に武官と しての地位に甘んぜず, 自らを軍閥化して, 独立の政権を得ようと志すようにな る。 そ れが三国時代の群雄を形成するすじみちである。 さて河北・山西山中の群盗の中では常山(河北省正定県) の張燕と博陵(同安平県) の張牛角とが有 エイ カで両者合同して後, 牛角推されて 総帥となり, 暖陶(同寧晋県)を攻めたが, 牛角が戦没すると張 燕がその後任となった。 張燕の部下は常山(同正定県)超霜 =(同郷廓県) 中山(同定県)上党(山西省長子県) ケイ 河内 (河南省武形県) 等の諸山谷に散布し, 瞳固・千毒らの頭目も彼に服属し, 直系の小帥にも孫軽・ ) こ れに 次 い で山 王 当 ら が あ り, 全 兵 力 は 100 万 を 越 え る. と い わ れ た。 こ れ が 黒 山 の 賊 で あ る が6 ,. 186 西省西河{紛陽県) の白波谷に拠る郭大は有名で白波賊という。 中平3 年( )以後洛陽北方は群盗 の巣窟になったが, さらにこの頃山西省にその部衆を率いて移住し来り, 農耕民化していた南国奴 の於夫羅という酋長は後漢の政府の施政に快からず, 群盗と機脈を通ずるようになった。 郭大らが ) 188 した張燕を平難中郎将に任 じ, 河 )白波谷に起ったからである7 中平5 年( o 朝廷ではさきに投降・ 192 北諸山谷事を領せしめ, 名目上この地域が政令下にあることを主張した。 初平3 年( )曹操は河 北省南部の黄河流域で, . これら諸賊の進出を阻み, 次いで山東省に余勢を保っていた青州黄中の平 定に向った。 その留守に黒山の余賊や於夫羅らは封丘(河南省河北道属)に拠る哀術を助け, または醜 郡 (都に治所あり河南省臨海県一帯} の郡兵の自立行動に応じて鄭城を陥れたりした。 曹操と並んで後 漢末献帝時代の兵権をその手に収めた哀紹は朝歌(河南省漠県東北)の山中にその屯壁を破り, 数万の 賊を斬り, 次いで勇猛なる呂布を北上させ, 常山郡の地で張燕の数万よりなる歩兵部隊および数千 に上る騎兵部隊と戦を交えた。 河北省に拠る衰紹の敵, 公孫讃は黒山の賊と連絡した。 要するに黄 5 中の余党の活動は軍閥の政争の中で次第に重要な位置を占めて来た。 建安10 年 鑑0 )に至り, 張燕 は 10余万の部下を率いて曹操に降参し, ,.今後彼らの活動は曹操軍閥の活動の中に吸収されるに至 る。. .. . 、. 1 88 黒山賊の余衆と共に, 曹操の軍隊の中心勢力となったものに青州黄中がある。 中平5 年 ( ) 10月, 青・徐2 州に黄中の賊の余波がまた起り, 翌々年の初平元年( 1 90 )青州刺史の焦和が 董卓を 討つため, 州兵を率いて西に赴いたすきに, 黄中が侵入し, 翌2 年には30 万の黄中は翼州に属す る勘 海郡を攻めたが, 公孫讃の率いる歩騎2万の軍に大破され, 死者3方, 捕虜7万余に上った。 同年徐州黄中は陶謙に討ち滅ぼされ, 陶謙は平定後流民をその本籍地に送り帰えす方針をとった。 しかし賊勢は 一向に衰えず, 豪州に侵入して任城 (山東省済寧県) の 相 の 鄭 遂 を ,殺 し, 転じて東平 (山東省東平県西北)に乱入し刺史の劉岱を殺 した。 これよりさき済北(山東省長清県西南)の相, 飽信が 劉岱にひとまず要害の地に避けよといったのにも拘らず, 劉岱がき きいれずして失敗したが, 飽信 は州事を掌って東郡太守の曹操を迎え, 勝手に尭州牧に推薦した。 曹操は諸一 等を率い各地に黄中の 賊を破り, 特に寿張(山東省東平県西南)の東方では, 訓練の十分になされていない新兵を激励 して賊 00 余万口あったといわれているが, こ の大軍を破った。 その後黄中の降る者, 戎卒30余方, 男 女1 - 56 一.
(5) . 曹操が屯田策を採用するに至った事情について. ) とにかく曹操は黄中を自己の軍隊に吸収してその精鋭を青州 れは誇張した数字であるとはいえ8 , ) 兵 と 称 した9 。 .. 1 さて汝南・頴川でも黄中の余党が盛んで, 建安元年( 96 )汝南・頴川の黄中の賊帥, 何儀・劉 0余万の衆を率いて哀術を助け, 曹操と戦ったが, 破れて投降した 群・黄部・何曇らが1 。 後に濁 漢を建てた劉備の軍隊にも黄中の 一味がまぎれこんだこともあった。 呉の孫権も東南の黄中を討ったことがあり, 呉桓・匡奇らの名が史書に見えている。 ま ・た涼州の賊, 馬相・超紙は綿竹県{四川省綿竹県) において自ら黄中と称し, 疫病になやむ人 民数千人を集め, 先ず綿竹令の李升を殺 し, 旬月のうちに万余人を加え, 進んで誰県 (四川省広漢県) ’ . ゲキ ケン を破り, 更に益州を攻めて, 刺史の御倹を殺 し, 濁郡(四川省成都県)・檀為(同彰山県)・広漢(同広漢県) の三郡, 即ち成都平原の要地を略して, 馬相は天子と自称した。 馬相の一派は結局 益州の地方官吏 のために屈服せしめられ, この地方には劉馬の半独立政権の成立を見るに至る。 これまで述べてきた所でも明かになったように, 流民・盗賊・妖賊などと呼ばれるものは, 後 漢の農村からその本来の生業である農耕をすてて離脱した浮動的人ロであり, 農業社会内に存 在す る諸矛盾のために, これらの人口を農村より析出した次第であるが, 農村人ロが更に減少したこと は農産物の減産となり, 農村を離れて流亡 した人口を配下に収めた地方軍閥も, 自己の軍隊の軍事 的行動を円滑ならしめるために, 食糧の確保に は種々の方法を講じ, 農産物特に穀物の増産には腐 心しなければならなかった。 かかる傾向は黄中の乱後, その戦災の及んだ地方では土地の荒廃甚だ しく, 加うるに早害・水害・虫害等による鰻鰹の続発のため, 流民を形しく .離郷せしめた地方にお いて特にその必要を痛感するものであるが, まだその必要を感ぜず頗る富裕であり, かつ食糧事情 の極めて良好であった地域も二三あった。 例えば徐州・青州・幽州の如き地域がそれであ る。 三国 志熱志巻八陶謙伝に 「この時, 徐州の百姓股盛にして, 穀米豊膳なり, 流民多く之に帰す。 」 とある 1 8 9 のは徐州に黄中の賊が兵を挙げると, 平定のために中平6 年( )以来刺史として, その任にあっ た陶謙の支配下の徐州における有様を述べたもので徐州が潅水流域の米産地であるため, その南半 と. 一 サク. に属する広陵(江蘇省江都県)・下郡(同郷県)・彰城{同銅山県)の三郡は糟運の要地であり, 窄融が運糧 を管理していたの であるが, 陶謙が赴任 して後,, 悪徳を施して他地方からの流民を収容 したことを 示 す も の で あ る。. 1 次に青 州についてであるが, 資治通鑑巻五十九の初平元年( 90 )3月の条に 「青州素より股実 にして, 甲兵甚だ盛なり」 とある。 これは青州刺史の焦和が軍閣の 董卓を討っため, , 酸素(河南省延 津県) の諸将と兵を進めて西行した際に, 州の警備が手薄となった時の有様を述べているものであ り, 黄中の賊がこの地方に侵入したのは, 富裕なこの地方が食糧事情の良好であったために, この 地方を獲得せんと欲 したがために外なら ない ので ある。 次に幽州の 場合で あるが, これ につ いて 後漢書巻百三劉虞伝に 「 〔劉〕 虞, 務めて寛政を存し, 農植を勧督し, 上谷に胡市の利を開き, 漁陽 に塩鉄の錠なるを通ず。 民悦び, 年登り, 穀は石ごとに三十, 青徐の土庶, 黄中の難を避くる者百 余方ロ, 虞皆収視, 温劇 ~し, ために生業に安立し, 流民皆その遷碑を忘る一 とあるのは幽州牧劉虞・ の任地たろ幽州の地方はその施政よろしきをえて, 農業を奨励し, 上谷(河北省昌平県西北)にては異 民族との交易を開始 し, 漁陽(河北省葡県)にて塩・鉄を豊富に生産し, 穀物が豊作のため, その価 格が廉く, 黄中の乱を避けて青・徐の豪族を初め, 人民の来るもの100 余万口の多きに達し, 劉虞 また後漢の伝統的政策をとり恩恵を以て撫存し, 之を温かく扱ったので, 流民が僑居にて業に安ん じ, 他地方への移住を忘れたことを知らし、 めるものであるが, この地方が富裕であり, 食糧豊富の ため, 青州徐州地方よりの流民にとって楽土であったことが察せられよう。 黄中の乱後, 特に董卓 0 )例でも判るように これらの地方に流 の乱によ り, 洛陽の避難民が東 して影城の間に流れ込んだ1 , - 57 1.
(6) . 田 中 整. 治. 民が食を求めて流入するにつれて, その食糧事情も窮屈となり, 加うるに黄中の賊が掠奪によって 1 ) 軍糧の保持をはかったために 穀物の豊富な産地において掠奪を行ったり 穀物の入手に努め1 , , , また黄中の賊を討伐した官軍が随時必要に応じて, 徴発を行ったりした結果, 食糧の貯蔵量が少な 2 ) 次いで黄中の余賊やそれらを吸収した軍閥の くなり, 先ず一般人民が鱗鰹に苦しむこととなり1 , 軍隊にも度重なる徴発の後には, 軍糧の確保 が保証せられなくなったために, 江北においては, 通 3 19 鑑巻六十初平4 年( )正月の条によると, 蓑紹が公孫繋の任命した青州刺史の田摺と2年にわた って交戦した際に, 蓑 紹の軍の将兵が疲労その極に達し, 食糧尽きたため, 桑の実を食べたとある のや, 後漢書巻百五表術伝によると, 江准の間にあって麦術が曹操の軍と戦った際, その部将の橋. スイ .. ラ. 塾 が戦死し, 張勲が敗走したが, 時に江准の地方には何ら穀物らしきものなく, やむなく蒲露を食 べ, ついにはそれさえも尽きて民が互に相食む有様となったという。 かように悲惨な状態に立ち至 ると数多の軍閥の中にはこれに対する応急策, 即ち一時的にもせよ農業の奨励による穀物の増産を はからんとする者が現われるに至った。 穀物の生産量が著 しく減少し, 他の軍閥の打倒に充分な戦 闘行動のとれなくなった事態に陥って, すでにこのことあるを予想して, 穀物の貯蔵をなしえたも のはいざしらず, 穀物の増産こそが自己の軍隊の戦闘行動を円滑ならしめ, ひいては覇業達成の道 に も 通 ず る も の が あ っ た か ら で あ る。. 1 1 1 曹操による屯田策の採用 これから後漢末の軍閥が覇業を達成するために, 如何にして軍隊用の穀物を貯蔵し, 穀物の増 産をはからんとし, 更に穀物の増産のみでなく天子を奉じて屯田を行わんとしたかを若干の史料を 引用して考察を試みて見よう。 1 90 第 1の史料は軍閥の董卓に関するものである。 三国志嬢志巻六董卓伝によると 「初平元年( } ヒi ・シ. 二 月 天 子 を 遷 して 長 安 に 都 し…‐ ‐ (中略} 郡鳩を築くや, 高さ長安城と蒔く し, 精殻は三十年の儲を な す。 英雄記に日く,、郡は長安を去ることニ百六十里 事 成 ら ば 天 下 に 雄 拠 し, 成 ら ず ん ば, こ こ を 守 り て. 老を畢うるに足らん。 」 と見えているが, 董卓なる人物は甘粛方面の充族の叛乱を平定するのに功績 結局投降したチベ があり, ッ ト族を多数部曲となし, 中央政界の腐敗に乗じて, 漢室の運命を制す るまでに勢力を伸 し, あわよくば天子とならんとして権力保持のために穀物の貯蔵を行った武人で 誓雌島を以て天下を征服した場合の根拠 地. とし, 万一それが ある。 この史料によって軍閥の董卓が, { 不首尾に終った節は, ここで余世を送らんと考えていたことを知りうると共に, 黄中の乱後, 食糧 不足の際に権力保持のため,30 年の長期間にわたって貯蔵しうる程の, 莫大な量の穀物を所有して いたことを知りう ,るのであり, 当時権力保持のために食糧の貯蔵に関心の持たれていた一例を董卓 に見出すことができる。 しかしながら間もなく 董卓その部下の呂布に殺さ れ, その貯穀はその都鳩 に宝蔵する金銀の財宝と共に空しくなった。 第2の史料は表紹の部下で田豊という者が蓑細に進言 し た も の で あ る が, こ の 人 は 衰 紹 を して, 後 漢 の 皇 帝 を 助 け さ せ よ う と 志 して い る 名 義 派 の 一 人 な. のである。 醜志巻六の衰紹伝に 「初め紹の南するや, 田豊, 紹に説いて日く, 曹公善く兵を用いて 変化方なし, 衆少 しと難も, 未だ軽んずべからざるなり。 以て之を久持するに しかず, 将軍, 山河 の固めに拠り四州の衆を擁し, 外は英雄に結 び, 内は股戦を修めよ。 然る後その精鋭を簡び, 分ち て奇兵とな し, 虚に乗じて迭出し, 以て河南を摂し, 右を救えばすなわちその左を撃ち, 左を救え ばすなわちその右を撃ち, 敵をして奔命に疲れしめ, 民, 業に安んずるを得ず, 我まだ労せずして ス クル 彼すでに困 しむ。 二年に及ばず, 坐して克つべ し。 今廟勝の策を釈て成敗を一戦に決するは, 若 し 志 の 如く な ら ざ れ ば, 悔 ゆ と も 及 ぶ な か ら ん。 」 と 見 え て い る。 こ れ は 田 豊 が 用 兵 の 妙 を 得 て い る 寡. 勢の曹操軍に対抗するには持久作戦に出る外なく, そのためには, 要害の地を占め, 四州の兵を擁 - 58 -.
(7) . 曹操が屯田策を採用するに至った事情について. して, 対外的には群雄と連絡を保ち, 対内的には富国強兵の基盤になるべき農業の奨励を行って食 糧の増産に努め, 兵士の訓練を施し, 然る後に精鋭の兵を選抜し, 奇襲戦法を以て敵を奔命に疲労 せ しめ れ ば, 2 年 た た な い う ち に, い な が らに して, 曹 操 の 軍 に 対 して 勝 を 制 す る こ と が で き る こ と を 述 べ て い る も の であ る が, 持 久 作 戦 に は 農 戦 を 修 め る こ と の 必 要 な こ と を 力 説 して い る。 こ れ. は寡勢でありながら強力なる曹操の軍隊に対抗する上から, この頃になって補給の充分にえられな くなった穀物を確保するため, 農業の奨励を考えている点に当時食糧の増産が権力確保のために必 要となって来たことを察せしめるものがある。 これはその穀物増産の方法については知るに由ない が, 当時の状態から察すれば, 恐らく屯田によってそれを実現せんとしたものであろうことは想像 に難くない。 何れに しても, このような進言に耳をかさなかった点に蓑紹の失敗の一因が存する。 次に同じく ,醜志巻八公孫路伝に 「蓑紹また麹義および虞子和を遣わ し兵を将いて 〔鮮千〕 輔と讃を 合撃す・るや, 讃軍しばしば敗れ, 乃ち走りて易京に還り, 固守 し, 囲塑をつくること 十重。 塑裏に お い て 京 (人工の丘)を 築 く, 皆 高 さ 五 ・ 六 丈 に して 楼 を そ の 上 に つ く る。. 中塑 に 京 をつく る も 特に. 高さ十丈にして, 自らこ れに居り, 穀を積むこと三百万鮎なり。 破E ,く 『昔は天下の事, 指麗 して 之を視るに 我の決する所に非ず 兵を休め田に力めて 定むべしと謂うも, 今日 , 穀をたくわうる , 。 にしかず。 兵法に百俵 攻めずと。 今吾の楼櫓千重にして, この穀を食い尽さば, 天下の事を知るに ツカ. 」 足らん。 これを以て紹を弊れしめんと欲す』 と紹の将を遣わして之を攻むるも, 連年抜く能わず。 とあるが, これは衰紹と幽州刺史劉虞の部下でしかも実権を握っていた公孫讃との間に戦の交えら れたことを述 べているものであるが, 蓑紹の軍にしばしば敗北をなめた公孫蹟がその根拠地の易梁 (河北省雄県西北) に還って後, 丘陵を築いて, その上に楼観を営み, 穀物を300万鮮貯蔵し,「昔は天 下の事は指揮した だけで定まったが, 今日では自分の指揮のみにて之を解決することは できぬ。 兵 士を休養させて, 農耕に努め, 穀物を貯蔵するにこしたことはない。 兵法にも百楼は攻めないとい っ ているが, もっともなことである。 今自分の築いた棲観は千を数え, この穀物を悉く消費して しま えば, その時に至って初めて天下の事を知るに足ろう。 こういった情勢になり持久戦を用いて蓑紹 」 と述べている。 公孫費の言葉の中に, 昔は天下の統一は武力のみにて の軍を疲労困億せしめよう。 充分に実現可能であったが, 今日は状勢が一変し, 農耕を奨励 して穀物の増産に努め, それを貯蔵 するにしかないことを強調しているのは, 黄中の乱後, 農民がその本籍地の土地を離れて他郷に流 浪し, 地方の軍閥また彼らをその配下におさめて, 食糧の乏しくなった時に, 権力維持のためには 農耕に努めて, 穀物貯蔵の必要なることを認めていたことが知られるのである。 この場合も田豊 の 時と同じくその方策と して, 屯田を考えていたか どうかは明らかではないが, 恐らく当時の状勢よ り推量すれば, 屯田の方法を実施せんとしていたと考えて差支えない であろう。 最後の史料は醜志 ワカ カイ 巻 十二毛玲伝に見え るものである。 それは即ち 「毛玲, 字は孝先, 陳留平丘の人なり, 少く して県 吏となるも, 清公を以て称せられ, 将に荊州に避けんとし, 未だ至らず, 劉表の政令明らかならざ メ るを聞き, 遂に魯陽に住む。 大祖, 尭州に臨むや群されて治中従事となる。 玲, 太祖に語りて日く, 『今天下分崩し, 国主遷移して, 生民廃棄せられ, 織鯉流亡し, 公家に経歳の儲えなく, 百姓に安 固の志なし, 以て久しきを持し難し。 今蓑紹・劉表, 土民衆彊と難も, 皆経遠の慮なく, 未だ基を樹 て本を建っる者あらざるなり, それ兵, 義なる者は勝っ。 位を守るに財を以てせよ。 宜しく天子を タクワ. 奉じ以て不臣に令して, 耕植を修め, 軍資を畜えしむべし。 かくの如くせばすなわち覇王の業成 る べきなり。 」 とあるのがそれである。 毛玲が曹操に召されて治中従事とな 』 と大祖その言を敬納す。 1 92 ったのは, 資治通鑑(巻六十) )の年であり, 黄中の乱勃発後9年目に当る。 土 ,によれば初平3 年( 地の荒廃, 流民の激増による穀物の生産の減少は, 徴発に頼る軍閥にとっても悩みの種となり, そ れが寡兵ながらも強力であった曹操の軍とてもその例外 ではなかったのであるが, 先見の明ある毛. - 59 -.
(8) . 田 中 整 治. 玲は曹操に覇王としての権力を保持するための方策を進言 したのである それを説明して ・見れば「今, 。 後漢の世は群 雄各地に割拠して王朝は崩壊寸 前にあり 末帝の献帝は国都洛 陽 よ り 蒙 塵 し て 人 , , 民は廃棄の憂目に遭い, 連年 の織鰹のために その本籍地を離れて他郷に流亡 している このような 。 状態であるから, 国家には 1年支えきれるに充分な食糧の貯えとてなく 人民またうち続く戦乱と , 織鰹のために, その土地に安住して生業を楽まうとする意慾を欠いて いる このようなことでは持 。 久戦に耐えることはとても困難である。 今河北に勢力 を占めている表紹は荊州刺史の劉表と同盟を 結んで, 南陽の蓑術や幽州北辺の武官, 公孫費の勢力を除か んと しているが 彼らは多数で精鋭な , る将兵を擁 しているものの, 皆惜しいかな経遠の慮がなく, 権力を保持するための基礎をつくって いない。 義兵を挙 げる者は勝利者となるが, 今の場合王位を保持するには是非とも財力を以てする のがよい。 この際よろ しく漢の天子献帝を奉じて, 不臣に命令して農耕を奨励し 軍隊に必要な糧 , 食 を 貯 蔵 せ し め な さ い。 か く して こ そ 初 め て 覇 王 の 事 業 が 成 就 す る の で あ る」 と 言 つ た と こ ろ 部 ,. ・. 下の意見を広く採用する英 明なる曹操はこれを納れたことを示している この史料が前にかか げた 。 史料と異なる点は, 毛跨が漢室 を奉じて屯田を行えと献策していることである しかし曹操は屯田 , 。 を直ちに実施 しなかった。 軍隊に必要な糧・ 食の獲得は切実な問題ではあったが, 後漢の献帝を奉ず ることができなか ったからである。 毛玲の屯田についての献策の行われた翌々年の 興平元年( 1 94 ) になると 馴志巻一に「興平元年冬十月, 大祖, 東阿に至る この歳, 穀一解五十余万銭 人相食む 。 。 。 乃ち吏兵の新に募れる者を罷む」 とあるのや同巻十萄 或伝に 「興平二年夏 太祖 乗氏(山東省曹県 。 , 東北)に軍す。 大に機う。 人相食む一 とあるのや 「興平二年夏, 〔吊〕布, 藤蘭・李封を将と して 錘 野 (山東省鐘野県“こ屯せしむるや, 太祖之を攻む。 布, 蘭を救うも蘭敗れ 布走る (中略) 布復, 東婚 , 。 (山東省金郷県東北} より陳宮と方余 人を将いて来戦す 時に太祖の兵少きも 伏を設け 奇兵を 縦 っ 。 , , て 撃 ち 大 に 之 を 破 る。 魂書に日く 「是において兵出でて麦を取り 在る者千人なる能わず 」 と あ る の に よ っ , 。. て, 曹操の軍にとっても, 食糧の不足を告 げること甚 しく, 萄或伝による‐ と, 呂布の攻撃を受けて 3 ) 越えて 建安元年( その屯営の守備よりも 食糧の確保に忙 しかったことを察せ しめる1 96 1 )9月曹 。 操が献帝を許都に擁立するや, 初めて屯田を興すことになったが, これはいうま でもなく毛 玲の献 策を実施 したものであり, 麹志巻 ー建安元年の条に 「それ国を定むるの術は兵を彊め 食を足らし , 4 ) これ先代の良式なり」 むるにあり, 秦人は急農を以て天下を兼ね, 孝武は屯田を以て西域を定む1 。 5 ) その許都の属する頴川郡が戦乱を 蒙り土地 とあるのは 直接的には後漢の献帝を許都に擁立 して1 , の荒 廃著・ しかったため改めて康成, 韓浩等の議により屯田を興さんとした時に発した言葉である。 葉顧の屯田の議について・ は後に述べることにして, 先ず韓浩について述べると, 漢末に乱が起るや, 〔河内〕(河南省港陽県) 県近 ,辺の山薮に群盗の来襲が多かった時に, 韓浩が徒衆を集めて防衛に 努め たため, 太守の王匡が従事と した。 後董卓に招かれたが応ぜず, 蓑術が之を聞いて騎都尉と したと ころ, 夏侯惇が之を招き兵を率いて諸方を征伐せしめた時に, 浩が屯田の急に必要なることを説き , 曹操が之を善 しと したことが醜志巻九の夏侯惇の中の彼の付伝に見えて いる。 素就については, 訓 志巻十六任峻伝によると, 初め義兵を挙げて征伐に従事して いるうちに, 翼州に拠る蓑 紹が之を招 かんと したのに応ぜず, 東阿令を領 したが, 呂布の乱に尭州が州を挙げて叛 したのにも拘らず, 苑 (山東省花県東南)・,東阿 ( 司東阿県西) が完きをえたのは, 紙が兵を率いて城に拠り防戦し た お 蔭であ ‘ り, 後曹操の大軍に糧食の欠乏を告げた時にも, 東阿を確保 して,.糧食の 中継を可能ならしめたの は, 紙の功績に負うところ多く,.黄中の賊を破るに至って, 賊の資業を得て屯田を興す議を奉った という。 かくて訓志巻ー建安元年の条に,「是歳, 康成・韓浩等の議を用いて屯田を興す」 と見える ものは曹操の多年の宿願で あった献 帝の許都擁立を実 現し, 大将軍に任ぜられて権力をその掌中に 収め, て後, 初めて毛玲・ トならなし ・ ,案紙・韓浩等の献策を実行に移したものにタ 。 - 60 一.
(9) . 曹操が屯田策を採用するに至った事情について. 所でいよいよ屯田を設置・ して穀物を生産するに当って, その屯田を掌る文官の最高の官吏たろ 典農中郎将に騎都尉 の任峻が任ぜられ, 屯田都尉には羽林監の裏紙が任 ぜられたの であるが, 任峻 が典農中郎将に任ぜられたのは彼が中牟 (河南省中牟県) の張奮と郡を挙げて, 彼の宗族および賓客・ 家兵数百人を率い曹操に従ったため, 曹操の信任をえ, その従妹を要るに至り, 曹操が四方の群雄 6 ) を 征伐する毎に常に 守りに 居って, その軍隊に糧食を供給 した経験を買われたものである1 d 典農 . 中郎将.典農都尉の屯田官が任命せ られて先ず手初めに, 一般人民中より希望者を募集して, 許下 に屯田を行ったところ, 百万鮎の穀物を得る程の好成績を収めたので, ついで州郡に屯田官を設け て屯田を行わしめ, 各地に穀物を貯蔵したところ, 数年に して各地の倉薬には穀物が充ち溢れた。 そのために曹操が各地の軍閥を征伐す ,ろ際に, 食糧運送の苦労がなく, ついに軍閥を次第に滅ぼし ことができたが この屯田策により後になって醜では毎年数千万難の穀物の生産 て天下を平定する , を得たというから, それが一時的な施策であるに しても, 屯田が国家の重要な財源を生ずるに至っ た こ と は 看過 す る こ と は で き な い。 IVr 結. び. 要するに黄中の乱後, 天下が乱れ, 農民がその郷土を離れて流亡 し, 農耕は行われず, 耕地は 荒廃にまかせられ, 各地に群雄・群盗が蜂起して, 互に食糧の争奪に終始し, ために各地の穀物は 著 しく欠乏を告げ, 遂には諸軍隊に1年間必要なる糧食の貯蔵もなく, 兵士は飢えれば専ら掠奪を 事, と し, 飽食すれば余分を棄て, 漂浪 し, 河北の遠紹や江准の蓑術の軍には, 糧食の欠乏特に甚し く, 人互に相食む識条たる様相が各地に現われてくると, 群雄の中には消極的な方法として, その 根拠地に30 年の長きにわたって軍隊を支えうる穀物を貯蔵したり, また積極的に農耕によって穀 物の増産をはかる者も現われるに至ったが, それら多くの群雄の中から漢の天子献帝を許都に擁立 して, 大将軍に任ぜられ, 部下の毛玲・韓浩・葉厳等の屯田についての献策を賢明に採用し, 一時 的にもせよ 効果をあげえた曹操が覇業を達成するに至ったのである。 1 ) 鞠 清遠 食貨半月刊第三巻第三期 「曹拠的屯田」3 9頁。 岡崎文夫 南北朝に於ける社会経済制度所収 「捌の屯田策」18 7頁 (安那学第五巻第二月J 。 西嶋定生 「醜の屯田制-- 特にその廃止問題をめ ぐって--」{土地所有の史的研究所収) 。 2 ) 後漢の初に会稽太守となった第五倫が人民の牛を以て神を祭ることを禁じたのは, 耕牛の屠殺を禁じず こ一例で ある(後漢書巻七十一) 。 後漢末の例としては曹操が征伐に従った将士の親戚の者に, 土地を授け耕牛を官給し て学師を置き教え よ と命令した (弧志巻一) と あ る の や, 地方長官の牛耕を奨励した例が晋書食貨志に見え る。. 3 ) 黄中の乱については 大淵忍爾 「太平道の発生と五斗米道」(加藤繁博士還暦記念東洋史論集所収) 。 「中国における民族的宗教の成立」( 同 1 2 )(歴史学研究1 1 79 )( ) ,18 。 福井康順 「原始道教の研究第ニ章太平道」(道教の基礎研究) 。 宮川尚志 「六朝史研究第一章黄中の乱より永嘉の乱へ」 ふ 秋月観嘆 「黄中の乱の宗教性」(東洋史研究第十五巻第一号) な ど が ある。 本小篇 の 皿. ±宮川氏の 「六朝史研 究」 に負うところが多い。 4 ) 宮川尚志 「六朝史研究」( 3~4頁) 。 5 ) 中平元年。 黄「 1 ]賊起。 賜被召会議。 詣省閤切諌件旨。 因以題賊免。 先是黄中帥眼角等執左道。 称大賢以証擢百 姓。 天下細負帰之。 腸時在司徒。 召橡劉胸告日。 張角等遭赦不悔而梢益滋蔓。 今若下州郡捕討。 恐更騒擾。 速 成其患。 且欲切勅刺史ニ千石簡別流人。 各護帰本郡以孤弱其党。 然後誌其渠官 P I 。 可不労而定何如。 陶対日。 此 孫子所調不戦而屈人之兵廟勝之術也。 賜遂上書言之。{後漢書巻八十四楊震伝付伝楊賜伝) 。 6 ) 三国志熱志巻八 張燕伝。 7 ) 熱志巻一初平三年の条。 資治通鑑巻五十九, 中平五年ニ月および十月の条。 1- -6.
(10) . 田 中 整 治 8 ) 魂志巻十一国淵伝には 「破賊文書。 旧以一為十。 及淵上首級。 如其実数」 とあり, 宮崎市定博士は 「読史劉記」 (史林第ニ十一巻第一号所収) に当時の公文書には実数を10倍に誇張する習慣ありとして指摘され, 宮川尚志 氏も 「六朝史研究」1 0頁に同じく指摘さる。 9 ) 籾志巻一初平三年の条。 1 0 ) 曹臓伝云。 目京師遭董卓之乱。 人民流移東出。 多依彰城間。(割志巻十萄或伝) 1 1 ) 黄中の賊が穀物の掠奪を行ったことは, 捌志巻一初平三年夏四月の条に見える飽信の言の中に 「観賊衆群輩相 随。 軍無縄重。 唯以秒略為資。 」 とあるのによって察せられ, また宮川尚志氏の 「六朝史研究」8頁にも指摘き る。 官軍が賊軍の軍糧をねらったことは熱志巻十六任峻伝に見えている。 12 ) 後漢末黄中の乱後には一般人民の流民のみならず, 豪族も移動した事情は岡崎文夫博士の 「熱晋南北朝通史」 ( 4 44~4 46頁)に見えているが, また魂志の列伝に名を列ねている人が乱を避けて他郷に避難した例は多く, こ れらの豪族が小作人や奴隷としての農民を抱えこんでいたために, その移動も先住地にての耕作が放棄せられ た 様 を 察す る こ と が で き よ う。. 13 ) 魂志巻十四程星伝の注に 「世語日。 初大祖乏食。 星略其本県。 供三日根。 頗難以人胴 〔乾肉〕」 とあるのはそ の年代が判明せぬが恐らく奥平一, ニ年の頃のことであろう。 1 4 ) 漢代の屯田については大島利一 「屯田と代田」{東洋史研究第十四巻一, ニ号合刊号) の研究がある。 1 5 ) 曹操が献帝を許都に擁立した事情については資治通鑑巻六十ニ建安元年の条に詳 しい。 1 6 ) 魂志巻十六任峻伝。. 62 -.
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なお、 『李文忠公事略』は『近代中国史料叢刊』 (第 071 輯、沈雲龍主編、文海出版 社、 1971 年)や、