魏の屯田制度について
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(2) . 第8巻 第2号. 北海道学芸大学紀要 (第一部). 昭和32年12月. 醜 の 屯 田 制 度 に つ い て 田. 中. 整. 治. 旭川分校史学研究室. Se i i TANAKA: j. on t i Dynas he T‘un‐rien system under the wre ty. 184 後漢の霊帝の中平元年( )黄 中の乱が勃発Lてよ り天下は乱れ、 人民はその土地を離れて農業 を棄て諸軍が並び起って、 食糧が乏しくな り、 終歳の計とてなく、 飢えれば冠掠 し、 飽けば余りを 棄てる有様であった。 蓑紹が河北にいたとき軍人は食糧がないため、 桑椎を食 べた ことも あり、 衰 術が江淀 にいたときには、 蒲嵐を食 べたこともあり、 終には人互に相食み、リ 村里講条となったので ] ) あるが、 食糧の窮乏を告げた後漢末に当って、 権力の保 持を 図るには、 軍隊の力によるよ り外は ないので、 これに支給する食糧を得 る計画 を是非立てね ばならなかった。 曹操が克州にいたとき、. 治中従事の毛翰が曹操に 「それ兵、 義な る者は勝っo 位を守るに財を以てせよ。 宜 しく天子を奉じて、 以て不臣に令 して 2 ) 耕植を修め、 軍資を 畜え しむ べ し。 かくの如くんば覇王の業成るべ き也」 と語っているのによっても分 るように、 権力保 持のた めの解決策 を進言する者もあったが、 建安元 196 年( )喪紙、 韓浩等の議によって屯田を興 し、 任峻を典農中郎将と し、 民を募って許下 (今の河 南省許州附近) に屯田を行い、 州郡に田官を列置して各地に穀物を貯蔵させた。 そのために魂の武 3 ) 帝が四方を 征 伐するに際 して食糧輸送の苦労がなかったのである。 麹志巻十六任峻伝注に引いている麹武故事によると、 養紙の計画 した屯田策は人民を募集 して、 これに一定面積の土地を与え、 農官が主となって官牛を貸与 し、之によって一定の率の租税を課し、 かねて人民に賦与 した土地は公有地の形式をとるものであ ることが知られる。 素敵の屯田策には反 対者が多く、 その論議の起った点は次の如くである。 屯田を興立するに当り、 時に議者皆言う。 当に牛を計り穀を輸 し、 佃料は以て定むべ しと。 施行 後、 紙白して以為らく、「牛を・ 蹴りて 穀を輪 すは大収なるも 穀を増さず。 水早の災ありて除けば大 に不便な り」 と……(中略)……時に故軍祭酒侯声言う。 「科は官牛を取り、 官田と為すの計、 紙の 議の如くんば、 官 に おいて便な るも、 客においては不便なり」 と。 ……(中略)……紙猶自ら信じ、 計画に拠 りて選び、 分用の術を執 らんことを白す。 孤7 ち之を然 りとし、 屯田都尉となし、 田業を 施設せしむ云々。 北支那の内地に官田を設けて、 官牛を貸与 して人民を屯兵とすることは、 政策実行の初めに当っ て、 官に便利ではあるが屯田客には不便という非難があったように、 人民の自由を拘束する制度で あ り、 また屯田民を募集する時に、 強制の行われたことは塊志巻十一蓑換伝に、 〔哀換〕 拝 して満南部都尉となる。 この時新に民を募 りて屯田を開くも、 民楽わずして逃亡多し。 換、 太祖に白 して日く 「宜 しくその意に順う べ し。 之を楽う者は乃ち取り、 欲せざる者は彊うる勿 れ」 と。 太祖之に従う。 百姓大いに悦ぶ。 とあるのによって知られる。 これによると、 魂の屯田策 はその初めよ り評判の悪かったことが察せられるが、 魂が北支那を統一した後でも、 農民の大半は - 40 -.
(3) . 醜の屯田制度について. 流亡 したり、 豪族の下に 走っているため、 その人口は 漢代の一郡にも 及ばなかった と言われてい る。 このような時に中央政府の収入に確実な財源を与えた屯田は時宜に適 した妙法と言えるのであ る。. 魂の屯田をその性質によって分類 すれば、 辺境の軍屯と内地の民屯の二種となるが、 辺境の屯田 4 5 ) 裏城、 ) 均隙 は軍事上重要な地点か、軍隊に必要な糧食の補 給に 適 した根拠地 に設け られ、許昌、 、. G ) 院、7 ) 漢 中、8 1 0 I I ) 長安 9 、) 清 浜、 ) 上圭B ) 等 の 屯 田 が そ れ で、 都 文 の 創 め た 准 水、 穎 水 の 屯 田 や 晋. 書の食貨志 に見えるものも多くは軍屯に属するものである。 内地の民屯は比較的潅繊の便が あり地 ] 2 3 4 5 ) 頴 川、1 G ) 魂 郡、1 ) 部、1 ワ 9 ) 汲郡、I ) 河 内、1 8 ) 河 東、1 ) 柿1 ) 洛 味 肥 沃 な 地点 が 選 定 さ れ た が、 、. 0 ) 等に設けられた ものがそれであ る また時には必要 な食糧を供給するため 交通の要地に屯田 陽2 。 の特設を見た こともあった。 建安十八年( 2 13 ) 部都の宮殿を造営 した時に、 上党の木材を使用 した が、 特別に沿道に屯田都尉二人を置き、 屯田客 六百人を領せ しめて穀物を供給せしめた如きがそれ 2 1 ) で あ る。. 屯田を掌る官吏の最高のものは典農中郎将であって、 その次に典農校尉及び典農都尉がお り こ 、 の二官は夫々屯 田校尉とも屯田都 尉とも称せられ、 品秩の上から言えば、 中郎将は二千石であり、 2 2 ) これらの官吏は郡県とは別 典農校尉は比二千石であり、 典農都尉は六百石或いは四 百石である。 系統のもので政府直属のものである。 黄初中 (22 0~22 6 ) に至って、 初めて郡県と同様に貢挙を通 3 2 ) 魂末の成無元年( ずるようになり農官任用の道が容易に開かれるようになった。 64 2 )に至って屯 田官が廃されると 典農中郎将は 郡の太守となり、 典農都尉は 県の令長と なった2の が、 それ以前に 2 5 ) 叉時には司農度支校尉が品秩比二千 は典 農校尉或いは典農都尉は郡の太守の兼任となっていた。 2 6 ) これは軍屯を掌る官吏であり 前述のものは民屯の官吏で 石の官と して諸軍の屯田を掌ったが、 、 ある。 実際上諸軍の屯田を指揮 したものは各軍の将校或いは農官であった。 典農官等は魂の時代には官名に地名をかぶせて用いたが、 それはその駐在地を示すものではなか 2 7 った。 例えば洛陽典農中良 ) 典農官 B将が洛陽に駐在せず して洛陽附近に駐在 していた如きである。 2 8 ) の駐在地とその管轄区域が郡県とは別であったた めに之を改めて郡県にすることも出来た。 このような民屯を掌る官吏の部下と して数多の属官がいたが、 典農綱紀、 典農功曹、 農司馬.など 2 9 ) 掌憤人、 守叢草吏などのように一見 してその職務の明らかなものも あった 3 0 がそれであり、 。) 各 屯田においては、 晋の屯田法から推 して考えると、 屯田毎に一人の司馬がおり、 屯田夫は五十人で 3 1 ) 軍屯は五里毎に一営が記 けられ 一営には六十人の屯田兵を収容 していたのである 3 2 あった。 、 。) 屯田の構成員は、 軍屯で は軍人であり、 彼等は一朝事ある時は戦闘に従事 し、 戦争のない時は耕 3 3 3 4 5 ) 農民、 ) 屯田客3 作に従事 したのである。 民屯では耕作に従事する者 がおり、 典農部民、 ) など と称 した。 屯田客は初期に之を募集 した時は往々強制的に移住せ しめたため、 人民は郷 里に帰らん ことを願い、 屯田に止ることを希望 せず、 逃亡者まで出たので、 之に懲りて人民の意志に従って募 3 G ) 屯田客は初め良民であり 3 7 集するようになった。 、 ) 彼等は水田を開いた りしたが、 麹末には部の 笑官奴蝉の如き奴隷を以て之に充て耕作せ しめたこともあった。 魂の時代辺境の居住民を関中、 洛 3 8 ) これらの地方が大屯 田区であり 移住せ しめられた 陽、 郭都などに移住させた記事が見えるが、 、 人々は恐らく屯田客にされたであろうと考えられる。 醜の時代に屯田客が国家に納めた租税の税率は晋の偉玄が極めて合理的なる税 率と認め E P 、 ) 五胡 4 十六国時代の慕容戦の部 下たる 記室参軍の封裕も亦妥当なる税率と認 め ている。 の 魂では屯田客 の 租税を規定 した初期に当っては、 各方面で耕 作能力を重要視 したので、 曹操をはじめ 多くの人々 、 l l ) ことを主張 した。 耕作に必要な牛 は黄中の乱後のこととて殊 はすべ て 「牛を計りて、 穀を車 諭すi - 41 -.
(4) . 田. 中. 整. 治. に 少なく、 農耕に使用する家畜のうちでは最も重要なものであるため、 人々は 「屯田客の使用 して いる牛の頭数を計って、 それに応 じて穀物を納め しめる」 ことを主張 し、 税額を耕作能力に相応 さ せ よ う と した の で あ る。 L か しかかる方法は、 豊作の場合でも租税を増さず、 また水害、 早魁の際. には、 租税 を減免 して屯田客の困 窮を救うものであるた め、 魂の屯田制度の創設者茶瓶は かかる措 置は国家にとって不便なるものであると考えた。 彼の主張は 一方では一定の租税の税率を決定する ことに反対すると共に、 他方では、 屯田客が所有 している牛が官牛であるか私牛であるかによって 4 2 ) 収穫物 を按分比例せよということに あった。 元来収穫物を按分比例 して分配する小作制度は秦漢以来私有の田に おいて見 られる。 後漢の馬援 4 3 ) 棄紙の主張は何も彼が創めて考案 したものではなく、 の行った甘粛の屯田は中分制 を採用 した。 当時私有地において盛んに行われていた制度であり、 彼がこれを国家的制度の中に採用 したにすぎ ない。 塊の時代の屯田客がその収穫物を如何なる割合で政府と分配 し合ったかと言えば、 晋書の偉 玄伝によると、 政府より牛 を貸与せられた 者 は収穫物の六分 を政府に納め、 残 りの四分を自らの所 4 4 ) 得と し、 牛 を 所有 している者の場合には、 収穫物を政府と五分五分に分配 したという。 屯田客が耕作する土地に制 限が あったかと言うと、 何 ら制限はなく、 唯耕作に精励することが要 G 4 ) 5 4 ) 故に郡文が上郡にいた時、 早害のために区田法 を実行 したことも ある。 求されただけである。 しか し晋初には田卒の 耕作は漸く集約的になり、 耕地面積の広い割 合に収穫が少ない場合には、 そ の弊害 を 指摘 する者も出るに至つた豹) 屯田客は単に土地 を耕作 して穀物を収穫 したばかりでなく桑を栽培 して養蚕にも従事 したo 何鼻 等が洛陽・野王典農部の桑田を私有 していたのはその 一例である 斧) 一 方政府では典農官に 負担を 4 9 ) 課 したために、 典農官は常に屯田客より収奪 した り、 商業を経営することもあった。 屯田客は一般農民とは異な り、 多くの街役を免除され る特典を与えられていたので、 司馬氏は広 く屯田客 を招いたのであるが、 このことが母丘倹の司馬氏 を討っ機文の中の罪名の 一つを構成 して 5 0 ) 明帝が洛陽の宮殿を造営 した時に、 典農部民 を徴用 したために、 典農中郎将が抗議 した こ いる。 5 1 ) と も あ っ た。. 最後に魂の屯田制度の重要性を述 べて見よう。 魂の屯田制度は公有地 を人民に耕作 させることが 極めて有利であること を示 し、 黄中の乱後所有主のな い広大な土地を耕作する屯田方式が農村を安 定する最良の方法であることを証明している。 たまたまこの機会を利用 して古の井田制度 を恢復 し 5 2 ) 魂の屯田における土地分配の精神は悉くは井田制度のそれとは一致 ようとはかった者もあるが、 しない けれども、 確かに似ている点 も少 しはある。 屯田は当時に あっては、 実情に 適応 しない井田 制度の代替 を なすものと考えられよう。 魂の屯田は人民 の中より希望者を募って、 それを屯田客と した けれ ども、 租税を課する点で少 し 耕作 を強制 する精神がないでもない。 然るに晋代になると土地に制限が加えられて、 土地制限のな い強制 耕作は廃止 されるに 至った。 屯田中の課耕制度が一般農民に まで拡げられて、 占田の最高限 度を示 したものが 晋の占田課田制度である。 ・かな り苛酷な収 奪と末期には屯田官の私慾を充たすた 之を要するに、 魂の屯田は臨戦体制に伴う 斗 ・の収入を国 めの搾取も 加わり、 次第に行き づまりを見せるに 至つたが、 魂は屯田によ り年数千方角 庫に収めて、 之 を鎚の財政の中心とな したがため、 国家による小作制度では、 中国の土地制度史上 重要な意義 をも っているといえるo 参 考 文 献 鞠 清遠 曹麹的屯田 「食貨半月刊」 第三巻第三期. - 42 -.
(5) . 醜 の屯 田制 度に つ いて 岡崎丈夫 魂の屯田策 「支那学」 第五巻第二号. 注 1 ) 2 ) 3 ) 4 ) 5 ) 6 ) 7 ) 8 ) 9 ) 10 ) 11 ) 1 2 ). 3 1 ) 14 ) 15 ) 1 6 ). 三国志麹志巻一武 ,帝紀建安元年の条に引用せる醜書の記事。 資治通鑑巻六十二建安元年の条。 三国志魂志巻十二毛玖伝。 三国志麹志巻一武帝紀建安元年の条に引用せる醜書の記事。 醜志巻十六任峻伝。 〔黄初中〕 是時車駕徒許昌。 大興屯田。 欲拳軍東征。(魂志巻十三王朗伝) 黄初中。 為長吏。 遷長安令。 会喪母不赴。 復為郷令。 遷裏城典農中郎将。 (魂志巻二十三斐潜伝) 村郡県長吏。 開巧酸屯田。 (魂志巻一武帝紀) 〔建安〕 十四年。 置揚り 醜使瞳江謝奇為断春典農。 屯院。 田郷数為辺冠。 (呉志巻九呂蒙伝) 叉遣民田漢中。 無逃亡者 (翻志巻十六鄭揮伝) 至青龍中。 司馬宣王在長安。 立軍市。 而軍中吏士。 多偏侵県民。 斐以白宣王。 宣王乃発怒。 召軍市候。 便於 斐前杖一百。 時長安典農与斐共坐。 以為斐宜謝。 (醜志巻十六倉慈伝) 食貨半月刊第三巻第三期、 鞠清遠氏の 「曹魂的屯田」 注 大和四年於是表徒糞州農夫佃上郡。(晋書巻一謙紀)叉以関中連遭賊冠。 穀吊不足。 遣糞州農丁五千屯於上都。 (晋書巻三十七安平献王手伝) 太祖欲広置屯田。 淵典其事。 淵屡々 陳損益。 相土処民。 計民置吏。 明功課之法。 五年中倉臆豊実百姓競勧業 業。 (醜志巻十一国淵伝) 女帝践昨徒黄門侍郎。 出為済陰相・梁謙二郡太守。 帝以譲旧郷。 故大徒民充之。 以為屯田而譲土地朝椿。 百 姓窮困。 節慾之。 上表徒民於梁国就沃桁。 失帝意。 難聴鯨所表。 心猫恨之。 遂左遷銃。 使将徒民。 為膿陽典 心在利民。 卵白臨視。 沢居美田。 百姓頼之(翻志巻二十二慮硫伝) 農校尉。 硫′ 女帝践昨。 歴謙相・平陽安平太守・頴川典農中郎将。 所在著称。 賜爵関内侯 (醜志巻二十七徐選伝) 女帝践酢。 入為散騎常侍。 出為醜郡・頴川典農中郎将。 奏通貢挙。 比之郡国。 由是農官進仕路泰。 (醜志巻二 十三斐潜伝) 従業 8典農中郎将。 時嬢世王侯多居郷下。 筒書丁説貴傾一時。 並鼓時利。 萄奏列其事。 由是益見称。 (晋書巻三 十三石葡伝) 雛明帝初為平原侯。 曾為女学。 及即位。 累遷散騎侍郎・汲郡典農中郎将・船事黄門侍郎。 (晋書巻三十三何曾 伝) 累遷黄門侍郎・汲郡・典農中郎将・参大将軍軍事 (晋書巻四十貫充伝) 後出為河内典農。 賜爵関内侯。 (晋書巻三十七司馬学伝) 女帝即王位。 為侍中。 頃之。 拝騎馬都尉。 領河東太守o典農中郎将。 (醜志巻二十三逸機伝) 市南部都尉。 是時新募民開屯田。 民不楽。 多逃亡。(醜志巻十一蓑淡伝) 太祖深納鴬。 斧為? 〔昭〕 景初二年封新城郷侯。 正始初為洛陽典農中郎将。 (晋書巻二丈帝紀). 1 7 ) 8 1 ) 1 9 ) 20 ) 21 ) 醜志巻十五梁習伝 22 ) 醜志日。 曹公置典農中郎将。 秩二千石。 典農都尉。 秩六百石或四百石。 典農校尉。 核比二千石。 所主如中郎。 部分別而少為楼尉丞。 (後漢書巻三十六百官志) 23 ) 麓志巻二十三菱潜伝 24 ) 炎為晋世子。 是歳 〔成無元年〕 罷屯田官。 以均政役。 諸典農皆為太守。 都尉皆為令長 (醜志巻四陳留王奥) 25 ) 〔孟康〕 正始中。 出為弘農。 領典農校尉 (醜志巻十六杜畿子恕伝注引翻略孟康伝) 再選弘農太守領典農校尉。 (晋書巻四十七樽玄伝) 26 ) 司農度支校尉。 黄初四年置。 比二千石。 掌諸軍屯田。 (太平御覧巻二四二引雛略) 臣叉案。 豪州界ニ度支所領佃者。 州郡大軍雑士凡用永田七千五百余頃耳。 (晋書巻二十六食貨志) 巴陵男相晋武帝大康元年立。 属長沙。 本領度支校尉。 立郡省。 (宋書巻三十七州郡志) 27 ) 魂略日 〔桓〕 範謂義日卿別営近在開南。 洛陽典農治在城外。 呼召如意。 (魂志巻九曹爽伝) 28 ) 食貨半月刊第三巻第三期、 鞠清遠氏の 「曹醜的屯田」 注 29 ) 後為典農綱紀。 上計吏。 因使見大尉司馬宣王。 世語日。 後為典農功曹奏便詣宣王。 (魂志巻二十八都文伝) 故時人為之語日。 石仲容。 鮫無嵯。 県召為吏給農司馬。 (晋書巻三十三石萄伝) 3 0 〕 為都尉学士。 以口吃。 不得作幹佐。 為稲田守叢草吏。 (醜志巻二十八郡交伝) ) 〔郡女 , 〔交〕 本屯田掌糟人。 宣皇帝抜之於農吏之中。 (晋書巻四十八段灼伝) 31 ) 晋書巻二十六食貨志 32 ) 晋書巻二十六食貨志。 33 ) 世語日郡交少為裏城典農部民。 (醜志巻二十八部文伝) 先是諸典農各部吏民。 未作治生。 以要利入。 (魂志巻十二司馬芝伝) 34 ) 明帝即位。 為筒書郎。 遷羽林監。 以東宮之旧。 甚見親侍。 出為洛陽典農。 時飯農民。 以治宮室。 (醜志巻二十 八母丘倹伝) 35 ) 屯田客呂並自称将軍。 票党拠陳倉。 (醜志巻二十三越億伝). - 43 -.
(6) . 田. 中. 整. 治. 時故軍祭酒侯声云。 科飯官牛。 為官田計。 如厳議。 於官便。 於客不便。(醜志巻十六任峻伝) 麹志巻十一蓑換伝。 巻二十二瞳銃伝。 醜武子是募良民屯田許下。 (晋書巻二十六食貨志) 晋書巻二十六食貨志。 旧兵持官牛者。 官得六分。 土得四分。 目持私牛者与官中分。 施行来久 。 衆心安之。 (晋書巻四十七樽玄伝) . 且醜晋難道消之世。 猶削百姓不至於七八。 特官牛田者。 官得六分。 百姓得四分。 私牛而宮田者与宮中分。 百 姓安之。 人皆悦楽。 (晋書巻一〇九慕容麟載記) 41 ) 魂志巻十六任峻伝引魂武故事。 42 上 ) 同 43 ) 食貨半月刊第三巻第三期、 鞠清遠氏の 「曹麓的屯田」 注 44 ) 晋書巻四十七億玄伝 45 )・ 魂初課田。 不務多其頃畝。 但務修其功力。 故白田収至十余解。 永田収数十解。 (晋書巻四十七億玄伝) 46 ) 解秋道之囲。 留屯上部。 〔中略〕 文欲積穀彊兵以特有事。 是歳少雨。 叉為区種之法。 手執来報。 率先将士。 所 統万数。 而身不離僕虜之労。 (晋書巻四十八段灼伝) 47 ) 晋書巻四十七億玄伝。 48 ) 〔何〕 鼻等専政。 共分割洛陽・野王典農部桑田数百頃。 及壊湯林地。 以為産業。 承勢縞版官物。 (麹志巻九曹 爽伝) 49 ) 麹志巻十二司馬芝伝。 50 ) 倹欽等表日……多休守兵。 以占高第。 以空虚四表欲檀彊勢。 以選姦心。 募販屯田。 加其復賞。 阻兵安忍。 壊 乱旧法。 (麓志巻二十八母丘倹伝) 51 ) 明帝即位。 為筒書郎。 遷羽林監。 以東宮之旧。 甚親特。 出為洛陽典農。 時飯農民。 以治宮室。 倹上疏白臣愚 以為天下所急除者二賊。 所急務者衣食。 誠使二賊不滅。 土民鱗凍。 難崇美宮室。 猶無益世。 (翻志巻二十八母 丘倹伝) 52 ) 魂志巻十五司馬期伝。 36 ) 37 ) 38 ) 39 ) 40 ). - 44 -.
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