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曹 魏 屯 田 系 譜 試 論 補 遺

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曹魏屯田系譜試論補遺

曹魏屯田系譜試論補遺

筆者はさきに盃.魏屯田系論試論L︵﹁長崎大学学芸学部社会科学論叢﹂12号︶を発表し︑苗︑魏

民屯田の祖型は︑後漢北辺一帯に設置され︑大司農支配下にあった典農

都尉管掌の公田屯田であり︑それら典農都尉管掌の屯田は︑前漢時代に

おける大司農支配下の農都尉管掌の公田屯田の系統であることを論証し

た︒但し︑その場合の推論にあたっては︑前漢︑後漢代の屯田形態の変

遷︑前漢農都尉と後翻倒農都尉との連続を論じて行われたもので︑前論

文の結語にも述べた如く︑誠に不十分なものがあり︑これを補う為には

それら公田屯田の土地経営の内容︑特にその特徴と考えられる方格地割

制について考察すべきことを指摘しておいた︒従って︑それら前論にお

いて不備であった点についての考察をなし︑前論の補充を行いたいと考

える︒    e

 さて松本善海氏は︑ ﹁北魏における均田三長両制の制定をめぐる諸問

題﹂︵東洋文化研究所紀要第十珊︶において︑始動の均田制は明かに所謂井田法を範とし

たものであって︑始めは︑恐らく井田法に関連ある丘井之式と呼ばれて

いたらしく︑ 而も方今地割とか︑ 溝渠を整備するとかの如きことがあ

り︑そこに北魏畿内における均田法の性格の特異性を考えることができ

るとされている︒若しそうであるならば︑北魏の均田法は︑同じく方格

地割をもち︑溝渠をめぐらした再建の屯田に遡ることができるのではな

いかともいえよう︵好並隆司氏﹁曹魏屯田における方格地割制﹂︵歴史学研究20﹄卜︒心︶︶︒たとえ︑直接的に掌ると

いうことはさしひかえるとしても︑米倉二郎氏が︑ ﹁東亜における方格 地割制の展開﹂︵﹁地理学評論﹂30の7︶で指摘されているように︑華北を中心として古代から玉代に連ってきた伝統的方格地割制と同様の考えのもとに︑北魏均田も亦実施されたであろうとはい︑尺そうである︒︵姫鱒か翻意L︑沽駄騨靴論灘の一︶︶ このように︑方格地割制は古代華北における伝統的︑特徴的土地制度であったと思われるが︑米倉氏︵前掲論文︶によれば︑ ﹁樋代には豪族の大土地所有が発達したので︑斜格地割は乱れていたであろう︒しかし︑辺彊の経営には屯田を行ったので︑それらの地域には方嘘字地割が設けられたであろう⁝:・:・︒漢末国内が疲弊し農村を荒廃した︒華北に添った魏後の晋は感気辺彊屯田を国内各地︑ことに二河の流域に連続して設置した︒﹂とされ︑それら准河流域屯田のうち︑郡交の計画したものは︑一人当り五十畝の︑ 整然たる地割の相連続したものであったとされている︒ 米倉氏によれば︑華北方格地割制には︑漢画における一時的断絶があったが︑その時代には辺彊屯田に方格地割が伝わり︑魏晋統一と共に又内地で行われたとするもののようである︒いま︑筆者が問題とする曹魏.屯田の源流という点から考えれば︑米倉氏は後漢の辺境屯田の方格地割制が曹魏以降屯田の方格地割制の源流であるとされているといえよう︒恐らく後漢時代の一般民有地においては︑既に水津氏も指摘された如く

(前

カ)

A当時売買された土地は不等辺四角形であって︑揖地形態の混乱

がみられるとすれば︑米倉氏のいわれる如く︑ 一般民有地では豪族の大

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(2)

土地所有の進展に伴って方格地割制は乱れていたのであろう︒そして︑

前代の方格地割制は辺境屯田にひきつがれたとされるのであろう︒しか

し︑そうだとしても︑豊代の辺境屯田とは一体何をさすのか︑或はそこ

で方格地割を行ったことが確認されるのであろうか︑という疑問がわく

が︑これについての米倉氏の説明は全くない︒

 さて︑曹魏の鄭における屯田は︑好並氏の指摘された如く︵前掲論文︶︑宋

会要稿水利雑録所牧の︑曹魏屯田遺構調査記録その他によって︑方格地

割制をとっていたと考えられるが︑その遺構は︑ ﹁挫骨漢魏以来︒郡信

臣︑杜詩︑杜預︑任峻︑司馬聖王︑郡交山颪墾開室地︒﹂︵﹁三会要水利雑録﹂の条︶と

指摘するところや︑或は語部政論に︑ ﹁魏州有史起︒引潭水灌郭︒民以

黒影﹂ ︵太目御覧75︶となし︑鉱産城故事に︑ ﹁西門若輩令︒造十二渠︒決潭

水︒戸出民田︑雲鳥戸口豊饒︒﹂︵上同︶とかいうところを考え合せれば︑

遠く戦国時代にまでも遡りうるものではないであろうか︒すると︑曹魏

によってこの地に民屯が経営された場合︑その屯田の地割に関しては︑

後漢辺境屯田の地割形態が直ちにその祖型となったとは︑必ずしも言い

難いようにも思われる︒

 では︑米倉説は全く一顧に価しないかというと︑必ずしもそうとは考

えられない︒若し前述の如く︑少くとも後漢時代一般民有地において古

代側方格地割制が相当乱れていたとすれば︑たとえ遺構は残存していた

にしても︑何等かの直接的祖型なしには甲兵の整然たる方格地割制は生

れ難かったのではなかろうか︒すると︑やはり米倉説をたしかめる為に

前述の疑問を検討してみる必要があるように思われる︒

 そこで筆者は︑先ず始めに漢代の辺境屯田とは一体どのようなものか

という点から検討しよう︒これについて︑米田賢次郎氏は︑次のような

意見を提出されている︵一陣唖雛懸盤羅押¢︶︒それによれば︑受話屯田

には二つの型態があり︑ ﹁回田墨守﹂型の趙充春型と︑特記分離型の居

曹魏屯田系譜試論補遺 延屯田型とあった︒但し︑趙充国風は純然たる軍屯であり︑従って権宜的なものでやがて居延型に移行すべきものであった︒このうち︑居酒屯田型が曹魏の鄭屯田型︵民屯︶に受けつがれ︑ 趙寒国型が准南郡交型

︵軍屯︶に引きつがれたものであったとする︒すると米田氏は別に方格

地割について言及されているわけではないが︑曹魏の民屯︑軍屯の祖型

を以上のように比定される限り︑これによれば米倉氏のいう漢代初境屯

田は︑二代のあらゆる屯田をさすということになりそうである︒

 ところが︑漢代に種々の性格の屯田があったことは︑既に筆者も指摘

したところであるが︵前掲拙稿︶︑筆者はその場合︑軍糧確保の目的をもつ屯

田を支配した︑北辺一帯におかれた農都尉或は墨磨都尉を内地富田官と

考え︑西城方面屯田に代表的にみる︑軍事行動を伴う且田旦守式の屯田

の田鼠を前線基地的田官として区別した︒米田氏が趙充国詰︑西諺屯田

型とされるところのものは︑筆者の指摘したところと一致する考え方で

ある︒このように︑北辺乃至は西北辺屯田には大別して二種のものがあったといえるが︑ではそれら前線基地藍田官支配下の屯田も︑内地的田

官支配下の屯田も︑すべて米倉氏のいう辺境屯田と解してよいかという

ことになると︑筆者はなかなかそうはいえぬのではないかと考える︒

 ところで筆者は︑翌翌屯田の祖型は︑漢の農都尉下の屯田︑後漢の典

農都尉支配下の屯田と考えたが︵前掲拙稿︶︑ それら屯田は︑筆者の明かにし

たところによれば︵前掲拙稿︶︑直接大司農の支配下にあり︑制度的に国家財

政を支えるものとしての性格をもち︑そこで耕作に従事する人々は︑服

役の形をとりながら殖穀に従っていたと考えられた︒ところがこれらは

戦闘の行われる前線における屯田ではなく︑即ち﹁旦田旦那﹂型のもの

ではなかったのである︒国家財政を麦えるものである以上︑専ら生産に

重点がおかれていたものであった︒従って︑少くとも本格的生産的屯田

は︑この内地的田官支配下の︑即ち農都尉或は法認都尉支配下の屯田で

あって︑西城方面にみる前線基地的屯田は︑生産には単なる補助的意味

しかなかったものと考えてよいであろう︒ということは︑米倉氏がどの 21

(3)

曹魏屯田系譜試論補遺

ような意味で﹁辺境屯田﹂といわれたかは明かではないにしても︑生産

に関するこのような問題を考察する場合には︑先ず内地鍵田官支配下の

屯田を中心として考えるべきであることを意味するものであろう︒ 而も︑実をいうと︑これら前線基地黒田官支配下の屯田にせよ︑内地

的田官支配下の屯田にせよ︑それらが黒眉地割を用いていたことの明か

なものなど一つもないのであり︑叉︑それを推察すべき直接的材料さえ

殆んどないといってよい︒従って︑この場合︑何れが方格地割制をとっていたか︑或はいなかったかを論ずることは︑実は不可能の如くでもあ

る︒しかし︑それにもかかわらず︑筆者が敢て内地豊田官支配下の屯田

をもってこの問題に関連させて考えようとするのは︑実にそれが大司農

直属の屯田であったからである︒というのは︑大司農支配下の屯田は︑

既に述べた如く︵前掲拙稿︶︑専ら殖穀に従い︑国家財政を支えるものとして

経営されたが故に︑更に叉︑それらは北辺或は西北辺の辺境地帯公田に

おいての︑ 政府の自由なる経営であったが故に︑ そこでは最も能率的

な︑大規模な経営がなされた筈であると推察されるからである︒

 では︑北辺或は西北辺の大司農直営の公田屯田︑即ち前漢の農都尉︑

後漢の典三尉支配下の屯田は︑どのような経営がなされていたかという

に︑後漢西北辺境の例によれば︵前掲拙稿︶︑弛刑徒をもって屯田したと考え

られ︑それと同様な屯田が北辺一帯にもおかれていたと推察される︒そ

の北辺屯田の一つに幽州におけるものがあったが︑幽州には後漢初頭多

くの軍屯田があり︵後漢書81垂幕伝︶︑それらが永元元年に大司農直営の屯田に切

換えられたと考えられる︵前掲拙稿︶︒けれども︑それらの屯田が方格地割を

採用していたか否かは全く不明である︒

ところが︑農都尉は置かれていなかったと推定されるけれども︵前掲拙稿︶︑・

農都尉支配下の屯田と同様に考えてよいと思われるものに居延城附近の

屯田がある︒居延は最前線の土地であるにもかかわ・らず︑その屯田経営 が西城方面の﹁湿田旦守﹂型とは異り︑居延では戌卒と田卒とは区別され︑屯田経営は専ら田卒が資していたようで︑戦闘従事者と耕作従事者とが一致していた西城屯田とは異り︑寧ろ殖穀のみの屯田たる農都尉支配下の屯田と相似たものといえよう︒即ち︑居延の屯田では︑居延都尉.は護田校尉或は護民田官という屯田官も兼ねて︑一般辺郡の農都尉支配下の内地的屯田とは異った形式であったと考えられる︵前掲拙稿︶にかかわらず︑屯田殖穀の専従者をもっていた点では農都尉支配下の屯田と異らないのである︒従って︑ その形式においてはとも角︑ 経営内容においては︑両者殆ど異るところはなかったのではあるまいか︒では︑この居延屯田ではどのような土地経営がなされていたであろうか︒ ここで想起されるのは︑漢書︵趾︶食貨志にみえる︑ ﹁︵趙︶過能為代田︒一晦一景︒誌代処︒故日代田︒古法也︒⁝叉教辺郡及居延城︒是後指城︑河東︑弘農︑三輔︑太常民︒皆便代田︒﹂という記事である︒これによって︑居延城や辺郡において︑ 河東︑ 三輔等の先進地帯と同様に︑新しい農法たる代田法が実施されたこと明かである︒この場合︑居延城や辺郡において︑河東︑三輔の如き前漢帝国の基盤地帯に先立って新農法が実施されたことは︑ 一体何を意味するのであろうか︒更に︑辺郡とは一体何を意味するものであろうか︒ さて︑漢書食貨志を読んで注目されるのは︑功過が代田法の実験を何度も繰返していることである︒而も辺郡︑蝋腺城で実施する以前はみな小規模の実験であるが︑最後の実験がこの辺郡及び居延城のもので︑始めて大規模の実験が行われたと考えられる︒この辺郡及び居意気までのものが代田法の実験であったことは︑ 前引記事の最後に︑ ﹁是後︒辺城︑河東︑弘農︑三輔︑太常民熟酢代田︒﹂とあって︑漸く代田法が普及し始めたとみえることから察せられるであろう︒従って︑この辺城というのは︑辺郡各地の城という意味ではなく︑辺郡及び居延城の略称と考うべきではなかろうか︒このように考えるならば︑辺郡とは実験の為

に用いられた政府公田︑換言すれば大司農直営の農都尉支配下の屯田を

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︵.

(4)

指し︑居延城とは居延都尉の兼ねた護田校尉支配下の屯田を指すものと

いえよう︒とすれば︑前掲拙稿では説き及ばなかったけれども︑居延城

屯田も亦大司農直営であり︑居延護田校尉は大司農の支配下にあったのかも知れない︒何れにしても︑その経営内容において異らないところの

これら屯田が︑政府の代田法実験の場としてえらばれたものであること

は間違いなかろう︒そのことは︑既に多くの論者が指摘する如く︵吠鴫荊

髄畑既賦潤澄鹸の藻畑煎流星船辮娚端畑田︶居延城で代田法が実施されたと考え

られることによって裏付けられるのである︒

 では︑代田法というのは︑一体どのような特徴をもつ土地経営法であったかというに︑いま我々の問題に関係ある点に限っていえば︑代田法

は大体五三単位の面積をもつ大農経営方式であったということで︑内地では兎も角︑政府直営の屯田ではそのような経営が実施されたであろう

と推定されている︵大島利一氏﹁屯田と代田﹂︵東洋史研究14の一・2合併号︶西鵯定生氏﹁代田法の新解釈﹂︵野村博士還暦記念論文集﹁封建制と資本制﹂所牧︶︶す

ると︑言書城や辺郡屯田においては︑このような五頃単位の︑二本のすき

先をもつ綱型・と二牛︑三人を用うるハ厭鱗翫観取誠隔獅鞭手心糊蹴肱︶大農経営が

行われたものであろう︒ 勿論︑これには異説があって︑ 伊藤氏によれ

ば︵﹁代田法の一考察︵史学雑誌69の11︶﹂︶︑居延屯田の経営は牛を用いたものではなく︑労働

力の十分に確保された居延では︑人力による人区点が用いられたであろ

うという︒しかし︑そう考えたにしても︑五三単位の経蛍が行われたこ

とに変りはなく︑筆者が以下問題とするのはその点であるから︑今は牛

力︑人力の問題にはふれないこととする︒

 このような大規模な経営が行われたとき︑実際にはどのような地割が

行われたであろうか︒そのことを解きほぐす手掛りとして︑先ずこれら

屯田がどのようにして開拓されたかを考えてみよう︒というのは︑その

開拓の実況によって︑それら屯田の土地経営の実態を推測することがで

きると思うからである︒既に前掲拙稿に指摘した如く︑前漢屯田は武帝

以来西北方面の新開拓地に順次設置されていったと考えられる︒この場

曹魏屯田系譜試論補遺 合注目されるのは︑興しく得られた土地には︑先ず田官田卒が派遣されて開拓が行われ︑その後に恒久的屯田経営がなされたことである︒その恒久的屯田経営の責任者が農都尉があった︒ところでこの開拓にあたっての作業は︑史記︵m︶旬奴伝に︑−﹁自二方以西仮令居︒往導通渠︒置田官︑吏卒五六万人︒﹂という如く︑溝渠を通じ灌概の便を設けての開拓であったらしい︒特にここで通渠が記されているのは︑開拓にあたっては︑それが最も重要な仕事にあったからに違いない︒ところで︑このような新開地に渠が通ぜられる場合は︑古い土地経営の遺構などは全くないわけであるから︑自由な立場での開渠であったわけである︒ではそのような場合︑どのような溝渠がつくられたであろうか︒そこで想起されるのは︑古来中国で行われてきた方格方式のつくり方である︵紬㈱敵萩既論感慨諌止鐘肘壷学研究︶︶︒ 小竹文夫氏の研究によれば︑ 古代中国では新しく土地を開く場合︑ 方格方式に道路を開くと共に溝渠をつくったという︒とすれば︑西北辺屯田であろうと︑北辺屯田であろうと︑或は居延城屯田であろうと︑旬奴勢力を逐うて新開地に形成されたものである以上︑方格方式の道路︑溝渠が先ず作られ︑それらの上に土地経営が行われたであろうと考えるのは無理ではあるまい︒ 若し以上の如く考えうるとすれば︑方格溝渠によって区切られた土地も亦方格であるべきであり︑所謂方格地割制による経営が︑政府直営屯田における一般方式であったと考えてよいのではなかろうか︒ この推定は︑代田法が居延城屯田や辺部屯田で行われたということからも裏書きされるように思われる︒大島氏によれば︑代田法の特色の一つとして︑ ﹁みぞ︵一畝に三本の剛が作られる︶は基準として畝の全長に及ぶ長いみぞにすること﹂︵前掲論文︶があげられている︒この一畝が当時の幅一歩︑長さ二四〇歩の広さとすれば︑みぞの長さは三百メートル強の長きに及ぶであろう︒そこで伊藤氏︵前掲論文︶は︑ ﹁二四〇歩制の一二の長さを二四〇歩と想定すべき根拠は見当らず︑むしろ二四〇歩制の地形.

(5)

曹魏屯田系譜試論補遺

はたとえば広さ二歩と長さ一二〇歩︑あるいは広さ二・四歩と長さ一〇

〇歩のように︑ 条播法にふさわしく想定さるべきであろう︒ なぜなら

ば︑播種すべき一条ないし播種溝は︑土地の利用︑作物の生育︑栽培管

理の上からいって真直ぐなことが望ましく︑そのためには長さ二四〇歩

の直線的列条ないし播種溝は長すぎる上に︑その作成にも技術上の困難

を伴うと思料されるからである︒しといわれて︑みぞの長さが必ずしも

三〇〇メートル強に及ぶ長大なものではなかったであろうとされる︒し

かし︑地理学者のいうところによると︑そのような長さは必ずしも経営

不可能な長さではなく︑ヨーロッパ中世にもその例はあるという︵鰍騨紙文︶︒ このみぞの長さが三〇〇メートルにも及ぶか否かは別としても︑

更に角代田法では長いみぞがほられ︑そこに播種されたことは間違いな

い︒ところがそのようなみぞをつくっての土地経営は︑伊藤氏も指摘さ

れた如く︑真直ぐであることが望ましい筈であり︑又︑みぞを作ること

自身︑脱力によろうと人力によろうと︑真直ぐであるものが一番掘り易

いはずである︒とすれば︑代田法においては︑真直ぐなみぞを掘って経

営するのに最も適当と思われる方格的な地割を用いたであろうと推定す

るのは不思議ではあるまい︒

 更に大島氏によれば︵前掲論文︶︑代田法の一特色として︑ ﹁深耕して幅︑

深さ共に一尺のみぞを作り︑そこに種をまく耐早耐風農法であること﹂

を指摘されているが︑これは必ずしも代田法が湿地農法である意味とは

考えられず︵水津氏前掲論文︶︑最近の研究によれば︑むしろ︑ ﹁代田法は灌慨を

前提とする農法で︑乾燥地に施行された︑反当牧穫量の低い農法ではな

い﹂︵米田賢次郎茂﹁漢魏の屯田と晋の占田課田﹂︶といわれている︒従って︑前述の如き先ず溝渠が

通ぜられ︑灌概の設備ができた屯田は︑代田法が施行される為の条件を

備えていたといわねばなるまい︒居延城附近においても︑そのような灌

慨が行われていたであろうことは︑ 例えば居延漢簡の中に︑ ﹁出麦二

石︒以康水門卒田安︒八月国︒﹂︵紬贈匹鋸藤雛鴨︶とみえ︑或は︑ ﹁河渠卒 河東皮氏母子里三乗杜建年廿五L 禽灘詠躍一一︶とみえる如く︑居延城附近に水門の卒や河渠の卒がいたことによって推察できるであろう︒ 以上の如く考えてくれば︑居延払附近や︑北辺地帯の公田屯田において︑方格地割制が採用されたであろうと考えても無理ではあるまい︒而も︑それらが大司農直営であるからには︑最も能率的な︑而も大規模の経営がなされた筈であり︑その為にも最も能率的な方格地割制が採用されたであろう︒ このような前漢農都尉下の公田屯田の経営方式は︑後漢においても採用されたと考えてよいであろう︒例えば︑前掲拙稿に述べた如く︑前漢農都尉のおかれた上河の地に︑後漢の典農都尉がおかれ︑前漢農都尉がおかれたと推定される酒泉の地に後漢典農都尉がおかれたこと等から推定される如く︑前漢公田屯田は︑後漢によって継承︑復活されたものが多かったであろうと思われるからである︒ 以上の如く考えてきた場合︑ 前掲拙稿で指摘した如く︑ 後漢和帝以降︑典農都尉下の公田屯田が北辺一帯に存在し︑それらが曹魏屯田︵民屯︶の祖型となったとすれば︑そこに施行されていた方量地割制が︑曹魏屯田経営に直接的に引き継がれたとしてよいであろう︒いわんや︑戦国以来の遺構が残存し︑方術地割制の受入れに都合のよい状態があったところも少くなかったとすればなお更である︒       ︵昭和38年10月21日受付︶

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