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曹 魏 屯 田 の 系 譜 試 論

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曹魏屯田の系譜試論曹魏屯田の系譜試論

 曹魏屯田制に関する最近の研究は活淡で︑特にその廃止問題をめぐっては論議が重ねられているようであるが︑それは漢代土地制度と均田法

的土地制度とをどうつなぐかという︑極めて基本的な問題につながって

いるからであろう︒この基本的課題に対する大筋の見通しについての意

見は︑周知の如く多くの発表があるが︑曹魏屯田以降に比して︑それ以

前︑即ち︑曹魏屯田の系譜ということになると具体的意見の展開は極め

て淋しいようである︒勿論︑品書︵26︶食貨志に︑ ﹁魏武生三日︒夫定

国之術︒在於強兵足前︒孝雪虫屯田定西域︒此先世良式也︒於是︒旧任

峻為典薬中郎将︒募百姓︒屯田雪下︒得穀百万鯉︒﹂と見えるところに

よれば︑曹魏屯田は直接前漢西域屯田にならって設けられたものと︑簡

単に考えることもできよう︒けれども︑後述する如く︑曹魏屯田1この

典農中郎将支配下にあるところのfは民屯であり︑西域屯田の如き軍屯

ではなかったのであって︑しかく簡単に割切るわけにもいかぬ︒

 さて︑この真書屯田の系譜については︑筆者の管見の故か︑具体的見解を述べたものは僅かに西嶋定生︑五井直弘両氏のみかと考えられる︒

西嶋氏は世界歴史事果翻祉版︶屯田の条に︑次のように述べられてい

る︒ ﹁後漢になると西域方面の屯田は断続しながらも存在した︒しかし

注目すべきは︑この時代から屯田が内郡に設けられ始めたことである︒

これは光武帝によって郡兵が廃止され︑従来無官︑騎士などの世職にあったものを安定させる必要があったこともその理由であろう︒この内郡

屯田の構造は︑明かでないが︑後の魏の屯田の遠因となったものと考え られる︒﹂氏によれば︑魏の大司農所属の民屯は︑後漢の内郡設置の屯田にその系譜を求めうるとされているようである︒更に西嶋氏は︑別に

﹁魏の屯田制﹂①なる論文において︑これら後漢内一列置の屯田が軍

屯であったことを指摘した後︑魏の屯田の性格について︑ ﹁主観的には

このような秦漢時代の屯田を系譜的に継承しながらも︑客観的には徳操

政権あるいは魏の国家の財政的基盤として︑むしろ漢代における公田の

ごとき役割をもちつつ︑魏王朝の滅亡とその運命をともにしたものであ

って︑当時の土地制度全般の中における屯田の比重は︑秦漢時代の屯田

のそれと比べて︑いなむしろその後の中国歴代王朝の屯田のそれと比べ

てすら︑きわめて高いものであった︒﹂と述べて︑魏の屯田は︑本質的

には漢代の公田の如き国家財政を支えるものであったので︑ただ屯田と

いう形式において秦漢屯田を継承するに過ぎないものとされている︒

 次に五井氏の主張をみるに︑魏の屯田は漢代の公田経営に連るという

説である︒氏によれば②︑魏の屯田は︑貧民︑流民等を強制的に屯田

に収容したり︑屯田の所在が漢代公田の集中的に存在したと考えられる

地方に多かったり③︑或は屯田民の負担の公田仮作者の負担の類似等

から考えて︑ ﹁してみれば︑国家権力の経済的基盤としての公田ならび

に屯田経営は︑それぞれの時代の一般郡県民との関係が考慮されねばな

らないとはいえ︑系譜的に関連するものであり︑公田経営の一形態とし

ての仮作制は︑屯田経営をうみだす祖型として位置づけることができよ

う︒﹂とされている︒五井氏は漢代公田仮作制の内容を検討しながらこ

の主張をされたわけであるが︑西嶋氏の︑財政的意義においては王代公

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田に連るごときものでありながらも︑形式的には漢代軍屯に祖型をもっという説に対して︑五井氏は︑形式︑内容共に三代仮作制に連るもので

あるとされているわけであろう︒

 筆者は︑先ず西嶋氏の主張を手掛りとして後漢内郡列置の屯田の性格

を考え︑更に︑前漢公田経営の種々相を考察しつつ︑両氏の意見に対し

て多少の私見を展開してみたいと思う︒

e

さて︑西嶋氏の黒甜よれば︵魏Y魏の屯田には︑大司農所属の典

豊満所管の屯田−臨監と︑都督︑刺史︑度支等所管の屯田一軍屯とがあ

り︑前者は中原の地にあり︑後者は対外︑対蜀︑或は東北︑西北等の前

線基地にあったとされる︒このうち︑後者の如き軍屯が前漢︑後漢共に

存在していたことはいうまでもないが︑西嶋氏の主張されるのは︑前者

の如き民屯の祖型は︑後漢初頭の内郡列置の軍屯であろうというのであ

る︒そこで︑先ず後漢初頭に内郡に設置された屯田について史料を求むるに︑概ね次表の如くである︒

 建武 四年︒  拝諌虜将軍︒一二憲︒憲平︒遣︵劉︶隆屯田武当︒

      ︵後漢書︵52劉隆伝︶︶

 同 四年頃︒  三明因将家属︒随︵院︶三帰洛陽︒⁝⁝援三三旧地

         鑛土沃︒三所将賓客狼多︒乃上書求屯田上林苑中︒

      ︵後漢書︵54馬援伝︶︶

 同  五年︒   ︵張純︶拝太中大夫︒概評頴川突騎安集荊︑徐︑揚

         部Q 都督三吟脳〇 一斗諸将営0 後知将丘ハ屯一閏南陽︒

      ︵後漢書︵65張純熟︶︶

 同  六年︒  六年夏︒⁝⁝公孫述野壷赴救︒ ︵李︶通等与戦於西

         城破之︒還屯田順陽︒時天下略定︒︵後漢書︵45李通雨︶︶ 同年︒︵王覇︶屯田新安︒八年屯田函士関︒撃榮陽中牟

曹魏屯田の系譜試論 同  七年︒

 これらの史料によるに︑

これら屯田の設置は建武初頭のことである︒

屯田したことについては︑

もないが︑内郡におかれたこれらの屯田は︑

は全く史上にみえないものである︒

 次に︑馬援伝にみる屯田は特殊事情に基ずくものであるから論外とし

て︑他のものについてみるに︑屯田した人々はみな兵を速いて屯田した

もので︑一鎖であって三三ではないことである︒

 いま︑これらの点について検討を加えよう︒表によって明かな如く︑

屯田は建武初頭の天下一統のための戦の中で行われている︒屯田の行わ

れた場所は︑なるほど内郡といってもよいであろう︒けれども︑後漢当

初の戦闘継続中に於いては︑それらの場所と難も亦戦乱の中にあったわ

けで︑決して平穏無事ではなかったのである︒勿論︑建武六年頃ともな

れば︑蕾東悉平︒諸将還京師︒﹂誰轡下︶と見えるから︑一応山

東中原の地は平定をみたのであろうが︑なお蜀の公孫氏をはじめとして 賊︒皆平之︒九年覇与品等及横野大将軍王常︑建義大将軍北野︑南国将軍侯進等五万余人︒撃盧芳将頁覧︑閾堪於高柳︒旬奴遣騎助芳︒漢薄遇雨戦不利︒呉下還洛陽︒同朱漆屯常山︒王常屯琢郡︒侯進屯漁陽︒璽書論上谷太守︒領屯兵備故︒捕撃胡虜︒無拘郡界︒     ︵隷踏︵︐ov︶詔︵杜︶茂引兵北屯田晋陽︑広武︒必備胡憲︒⁝⁝時盧芳拠高柳︒与飼奴連兵︒数憲辺民︒帝患之︒十二年遣導者段忠︒将衆郡弛刑︒配茂鎮守北辺︒因発卒築亭侯︒脩峰火︒叉発委輸金吊繕紮︒供給軍士︒井賜辺民︒冠蓋薄層︒茂亦建屯田︒臆廻転運︒       ︵後漢書︵52杜茂伝︶︶   次の如き点を注目することができる︒先ず︑       所謂雪焼として西域方面に   明帝以来後漢末近くまで続いたこというまで       後漢初頭に属し︑それ以後

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曹魏屯田の系譜試論

地方小誌のあったことは光武紀に明かなところであり︑天下が安定した

姿となったのは︑甕+三年︑﹁時兵革羽黒︒天下少事︒﹂︵後漢書1下光武紀下︶

といわれるころであったであろう︒而も︑その頃においてすら︑対北辺

防備体制の整備に多忙であったことは︑天成伝︵後漢書︵52︶︶に︑﹁建武+四

年屯常山中山︒以備北辺︒満遍建義大将軍朱祐営︒叉代瞭騎大将軍杜

茂︒繕治障塞︒自西河至蝋梅︒河上至安固︒太原至井脛︒中山榔至︒皆

築帳壁︒起峰燧︒十里一候︒在事五六年︒帝以成勤労︒徴還京師︒辺人

多上書求請者︒復遣成還屯︒及南単子保塞︒北方無事︒拝中山太守︒上

将軍印綬︒領菊醤如故︒﹂とあるのを︑その一例としてあげることがで

きるが︑同様なことは前表引の王覇伝︑杜茂伝によっても伺えるであろ

う︒この馬成の場合は︑塩蔵論︵︵−︶︶本議笙に︑﹁故修書士︒鋒

燧︒屯戊暗索之︒﹂と旬奴対策を述べている如きで︑単に墾壁を築き峰

燧を起しただけでなく︑勿論屯兵を領して軍屯が行われていたというべ

きであろう︒とすれば︑上表に見える後漢初頭内郡設置の屯田というも

のも︑全く軍事的性格のもので︑上表中の張純伝︑王覇伝の如きはそれ

を端的に示しているといってよいであろう︒このことは︑西嶋氏は勿論

承知せられていること︑前述引用文で明かであるが︑筆者が改めてここ

に確認した所以のものは︑これら屯田が想出である以上︑形式的な面か

らであろうとも︑これを以て魏の屯田の祖型と認めることは困難である

ことを明かにしたいが故である︒

 而も︑後漢内郡屯田が既に早く建武四・五・六年頃に見えることは︑

六年末から七年初にかけて行われた郡上︑獄官︑騎士などの廃止によっ

て︑聖職にあったものの生活を安定せしめるためであったとし難いこと

を示すものである︒即ち︑これらの兵士の整理と屯田設置とは一応無関

係に行われたものであった︒

 では︑一体後漢初頭の内郡屯田は︑如何なる意味において設けられた

ものであろうか︒その手掛りを与えるものは︑後漢書︵︵−︶下︶光武紀下 に見える次の記事であろう︒ ﹁︵建武六年十二月︶癸巳︒詔日︒頃者師旅未解︒用度不足︒故行什一之税︒今軍士屯田︒下野差積︒其令郡国収見田租三十税一如旧制︒﹂と︒この詔の大意は︑このごろまで師旅の出動で用度不足し︑そのため什一の税を行ってきたが︑今や軍士が屯田して糧儲もやや充分となった︒そこで郡国をして︑田租は旧制によって三十に一を税することとせよというものであろう︒この屯田に注して︑李賢は﹁武帝初通西域︒始置校尉屯田︒﹂といっているが︑これはこの屯田をもって前漢以来の西域屯田も解したが故であろうか︒勿論これら軍屯は建武六年以前のものであるから︑後漢明帝以降に設けられた西域屯田ではなく︵後漢書︵18︶西域伝参照︶嚢初頭の内郡に設けられた︑三所引の如き軍屯を指すものであるこというまでもあるまい︒ 以上の如く︑これら軍靴が内郡列置のものであることを前提としてこの詔を考察するに︑建武六年以前においては用度不足の故に什一の税を用いたが︑今や減税の段階に達したとし︑その理由として︑ ﹁軍士屯田︒糧儲差積︒﹂といっているのは注目すべきであろう︒勿論︑建武六年という年は︑前述した如く天下のほぼ定まった時であるから

そのような消極的な理由の外に︑建武五年において︑﹁是歳︒野幌漸 (上ハ伝︶颪多大の軍費毒しなくなった時でもあるわけであるが︑

少︒田黒塗広蓋︒﹂︵漢漢書1配光武紀上︶といわれる如く︑後漢の支配力の及ぶ

範囲も漸く広く︑租税を徴すべき入力の把握も確立しつつあったことで

もあろうが︑更に詔にいう如く︑卑下による蓄積こそ減税の最も有力な

積極的理由であったと考えてよいであろう︒従ってそれほどの効果をあ

げたこの軍屯は︑史料的には上表の如く極く僅かであるとしても︑実際

には余程膨大なものが内郡に列置されていたというべきであろう︒

 さて︑前漢末後漢初頭の混乱によって︑光武帝時代の人口が激減した

ことは明かであるが︵後漢書︵29︶郡貴志︵19︶︶それは光武自身も︑﹁含姓轟︒戸・

耗少︒﹂︵叢轡下︶と認めているところである︒このような混乱によ

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って無主の地が相当に多かったことは想像に難くないが︑上述の如く膨

大な軍旗が内郡に列置されることになれば︑これら無主の地を除いては

ない筈であるから︑前表の諸将は︑それぞれそれら無主の地に屯田し

たものであろう︒勿論︑それら諸将が勝手に屯田したものではなく︑

て派遣せられたものであろうが︑この劉隆の場合︑建武四年八月︑帝は (後T2︶︶劉隆伝に︑ ﹁遣隆屯田武州・﹂とある如く・光武帝の命によっ

わざわざ南方寿春まで進幸し︑九月李憲が諌せられてから冬十月に洛陽

に還幸しているのであるから︵叢町上Y隆が心当に屯田進められ

たのは︑寧ろ南方に対する抑えとしての意味があったと考えねばなるま

い︒すると屯田は︑必ずしも無主の地であるというだけではなく︑当時

の軍事情勢からみての要所に置かれたものもあったと考えざるを得な

い︒このように考えれば︑後漢初頭内郡の屯田は︑一には国内治安維持

の為と︑一には軍士糧食の確保という二面の意味をもって設置されてい

たと考うべきであろう︒即ち︑このころの軍屯は︑後漢政権が軍事的に

も︑財政的にも不安定の情態にあったのに対処する権宜の措置としての

屯田であったと考えざるを得ない︒

 以上の如く考え来れば︑内露悪置の屯田が︑前表の如く後漢初頭にし

か見えないのは︑それが権宜の措置であったことにもとずくものといえ

るであろう︒抑も後漢の財政整備計画は︑正式には建武十五年から着手

されたことは︑後漢書︵←光武帝紀の建武+五年六月の条に︑﹁詔

下国郡︒筆下墾田頃畝︒及戸口年紀︒﹂と見えるところで明かであり︑

それが厳重に実施されたことは︑十六年九月の条に︑ ﹁河南サ張傍及諸

郡守+余人︒坐業不実︒皆下獄死︒﹂︵後漢書1下光武紀下︶と見えるところで

明かである︒

 勿論このような財政健全化政策は︑山東が平定され︑天下一統の見通

しめついた建武六年の︑前陣田租軽減にも見られるところであり︑更

に︑前述の如く兵革既に息み︑天下事少しといわれた建武十三年頃から

曹魏屯田の系譜試論 も︑戸口︑田土の実態調査が行われていたことは︑ ﹁十三年︒⁝⁝三時天下墾田︒立論零雨︒叉戸旱紀︒互有鍍︒﹂︵後漢書︵52︶四竃伝︶と見えるところで明かである︒このような整備策が謎々軌道にのらなかったところがら︑前記十五年の詔となったものであろう︒而も十五年後においても正しく行われ難かったことは︑﹁十五年︒詔下州郡︒検藪其事︒而刺史太守多湿平均︒直様饒豪右︒侵刻鶉︒百姓嵯怨︒遮導呼︒ス胴︶と見える如き有様であったらしく④︑恐らくその為であろうか︑ ﹁郡国大姓及兵長群盗︒処処並起︒攻劫在所︒害殺長吏︒郡県追討︒到則解散︒去須焼結︒青︑徐輿翼四州忌事︒﹂︵叢轡下︶という如き農民の反抗が起っているのである︒併し︑それも一応十六年には治まって︑百是篤放牧︒邑門不閉︒﹂︵胴︶という状態となったというから︑財政整備策も軌道にのったものと考えられる︒ 然るに︑内郡軍屯は︑国内治安確保と財政的負担軽減の為の食糧確保であったことを考えるならば︑後漢の軍事面における不安の解消と︑財政整備に一応の見通しがついたならば︑漸次解消してゆくべき運命にあ

ったことは当然であろう︒即ち︑これら屯田は︑内群に列置されたとは

いえ︑一種の軍屯であったことは間違いなく︑それらが内郡に置かれた

ことは寧ろ書芸異例の措置であって︑実質的には前漢以来の西域方面軍

費と類似のものであったといえよう︒そのことは︑例えば前表引王覇伝

にみた如く︑王覇が内地に屯田しながら︑遂に上谷に移って屯田兵を領

し︑﹁慰事胡虜︒無学郡界︒﹂という命令を受けて行動したところのも

のは︑完全な対北辺軍配といえる如く︑漸次内地から北辺へと移動して

いったものと考えられることによって推察できるであろう︒

 以上の如く考え来れば︑建武初頭に相当数設置されたであろうと考え

られる内郡屯田が︑早く姿を消したことも理解されるであろう︒即ち︑

国内治安の確立と軍士糧食の確保の為におかれた内郡屯田は︑それら不

安の解消と共に内郡から姿を消し︑後述の李悔伝︑祭彫伝にみる如き対

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曹魏屯田の系譜試論

北方民族の軍屯となったのであった︒

 さて︑以上によって明かな如く︑財政未整備時期における軍士食糧確

保の為の屯田であったという点においては︑これらの軍屯は魏の典農部

屯田とほぼ同様な性格のものであったが︑勿論︑これは一時的軍屯であ

り︑魏の屯田は常置的上段である点︑全く相反するものであったので︑

これを以て魏の屯田制の源流と見ることは出来難い︒それでは︑魏の

屯田の祖型と見るべきは五井氏のいう如き漢代の公田仮作制であろう

か︒

さて︑後醸酒のことであるが︑後漢書︵301︶公孫連月によれば︑

﹁興平二年︵薄志︶破︵公孫︶遊者飽丘︒⁝⁝贋者黒羽京︒開置屯田︒

蓋置自麦︒﹂とて︑公孫贋が易京に屯田を開いたことを記している︒こ

れは︑後漢末衷紹によって公孫曖が攻められて大敗した後の︑贋の戦後

処置を示したもので︑屯田開門は曹操が許に屯田する前年のことであ

る︒贋が屯田を開いて梢自らの勢力を囲えることができたというのは︑

いうまでもなくその軍糧が確保されたことを意味するものであろう︒と

ころで︑贋は何を祖型としてその屯田を下めたものであろうか︒勿論︑

西域軍屯や︑後漢初頭の内三軍屯︑或は北辺軍職もあったことであるか

ら︑彼がそれらを祖型として屯田を開いたと考えられないことはない

が︑併し︑もっと彼の身近かに何かもとずくものがあったのではなかろ

うか︒そこで想起するのは︑後漢初頭に内郡から北辺に移動した軍屯

が︑或は後漢末まで引続き存在して贋の屯田の祖型となったものではな

かろうかということである︒

後漢書︵18︶李悔伝によれば︑﹁辟司徒桓虞府︒後拝侍御史︒持節

使幽州︒宣布恩沢︒慰撫北狭︒所過皆写山川︑屯田︑聚落︒百余巻︒悉

封上奏︒粛宗嘉之︒﹂と見える︒桓虞が司徒となったのは︑心添建初三 年︵ρ78A︶︶のことであるから︵離緩3︶︶︑李禦幽州に使したの筆の後のことであるが︑そのころ甲州に屯田があったこと︑而もそれは山川︑聚落と並べてかかれている以上︑相当多数の︑重要な施設として考えられていたことを示している︒これら屯田は︑次に引用する占形に関する記録を参照すれば︑前に指摘した北辺黒黒であること間違いない︒ところが︑これら篭は実は和葉元元年︵289A︶︶の頃には廃止されたものの如くである︒その間の事憧ついて︑祭遵伝︵後漢書︵50︶︶の形の条によるに︑ ﹁当是時︒旬奴︑鮮卑及赤山烏桓︒連和彊盛︒数入塞︒殺略吏人︒朝廷以為憂︒益増縁辺兵︒郡有数千人︒叉遣諸将分屯障塞︒帝以形為能︒建武十七年拝遼東太守︒⁝⁝永元元年彫之威声三三北方︒西自武威︒東尽玄菟及楽浪︒胡夷皆紅附︒野無風塵︒乃悉罷縁辺屯兵︒﹂と述べている︒この記事によれば︑前述した如く︑内郡列置の軍屯は漸次北辺に移動し︑幽州にもそれらが多数あったが︑和帝初年に至って罷められたものと解してよいであろう︒とすれぼ︑公孫曖が祖型としたところのものは︑それら北辺軍記であったとは考え難い︒では︑その祖型となったものが何か他に見出せるであろうか︒ この問題を解決するために︑話を少し遡らせて︑前漢代の公田について考えてみよう︒塩鉄論︵−︶園地︵娼︶の条によれば︑﹁是以県官開園池︒総山海︒致利以助他動︒修溝渠︒立動農︒広田牧︒盛苑圃︒太僕︑水向︑少府︑大農︒二巴諸入︒田牧之利︒池D之仮︒及北辺置任︒任田官︒二二諸用︒而猶未足︒﹂と見えるが︑これによれば︑前漢昭帝頃の公田には︑県官所属と︑太僕以下の中央諸官所属と︑北辺田官所属との三種があったようである︒県官所属のものは︑漢書︵−上︶高帝紀二年十一月の条にみえる如き︑秦から引きつがれたものや︑秦漢交代に当って発生したであろう無主の地などがその主なもので︑最も早くから存したものであったであろう︒

次の太肇中央諸官所属のものは︑史記︵−0︶平準書に詳細に述べ

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(6)

ている︑商賀から没収した田土であったので︑そのことは︑﹁流水衡︑

少府︑大農︑太僕嵩置観官︒往往即郡県比没収田︒田之︒﹂と見えると

ころで明かである⑤︒これら武士による没収田は︑若し平準書のいう

如くであれば︑その数量は全国的には極めて大きく︑且つその範囲も経

済的に発達した中原を主として︑地方の経済的中心に亘る広いものであ

ったであろう︒舌鋒以後㍉漢書︵68︶震光伝に︑ ﹁︵窪︶山伝︒今丞相

用事︒県官信之︒尽変易大将軍時法令︒以公田賦与貧民︒発揚大将軍過

失︒﹂というところの貧民に仮貸された公田は︑以上の両者を含めたも

のであったであろう︒

 ところで︑第三に北辺田官所属の公田があったわけであるが︑北辺田官とは一体どのようなものであったであろうか︒従来︑学者によって論

ぜられ︑重視され来ったところのものは︑君主の家産としての公田であって⑥︑北辺田官及びその所管の公田については︑何等説かれるとこ

ろがなかったといえよう︒従って︑筆者は多少詳細に論じてみたいと思

う︒ 先ず︑北辺田官の性格を知る為に︑前漢の田官設置の趨勢をふり返っ

てみよう︒田官の設置は︑前述の塩鉄論の記事によるも︑又︑同じく塩

鉄論︵−︶復古第六の文学の言に︑﹁孝皇帝穣九夷︒平百越︒師旅数起︒

糧食不足︒故立田官︒置銭入穀︒判官救急︒贈不給︒﹂と見えるところ

によるも︑直接的には北辺地帯軍糧の不足を補う目的であり︑間接的には国家財政を支えるためのものであったわけである︒従って︑田官は

北辺経略の進展と共に漸次設置されたものであることは想像に難くな

い︒ さて︑史記︵m︶旬奴伝によれば︑漢が積極的北辺経営を始めたのは

武帝の時からであって︑それは皆伝に︑ ﹁乾乳漢己得渾邪王︒則陸西︑

当地︑河西益少胡竃︒徒関東貧民︒配所奪旬奴河南新秦中︒﹂というと

ころで明かである︒ところが︑史記︵30︶平準書によれぽ︑同じ事件に

曹魏屯田の系譜試論 ついて記して︑ ﹁衣食皆仰県官︒零歳仮予産業︒使者分書護之︒﹂とあるので︑或はこの使者というのは掛官に当るものかとも者えられるが︑この記事につづいて︑ ﹁於是県官大空︒﹂とあるのをみれば︑この使者は県の使者で︑特別の下官ではなかったものといえよう︒これ元素三年のことである︒ 然るに︑それから五・六年の聞に︑漢の経営は河南から河西方面へ進出し︑元鼎二・三年の交に河西郡が置かれた⑦︒それと共に田部の設置があったことは︑﹁是後︒勾奴遠遁︒而幕南無三庭︒漢度河︒自朔方以西至令尾往鑑渠.置畳睾五六万人︒﹂︵    史記︵1飼奴伝︶︶と見える如くである︒更にそれから三・四年を経て︑酒泉郡が設置されるに至っているが︑昆野氏によれば︑史記︵−0︶平準書に︑﹁初置張抜︑酒泉︒而上郡︑朔方︑西河︑河西開田官︑斤塞卒六十万︒門田之︒﹂というところのものは︑この時のことであるとされている⑧︒この開田の官というのは︑旬奴伝の田官と同じ事情のもとに置かれたものであるから︑所謂田官と考えてよく︑この時第二次の大規模の開地に伴う田官の設置︒かあったといえよう⑨︒ 周知の如く︑これにつづいて漢の本格的な西域経営が姶まるわけであるが︑それと共に田斜なる名称も屡々見えるようになる︒例えば︑ ﹁都詰莞爾城︒下畑関二干七百三+八里︒与渠深潭近︒﹂︵漢書︵96︶上西三三上︶とか︑ ﹁車師眉墨近漢田官︒至適曝露︒亦安楽翌翌︒⁝⁝三歳元康四年也︒﹂︵漢書︵96︶下西域三下︶とか見えるものである︒この漢の署というのは︑漢書西域伝によれば渠日田官を指すものであるから︑渠黎に田官が置かれていたこと明かである︒然るに︑漢書︵︵96下︶︶西域伝上の序によれば︑

﹁弐師将軍伐大量寸志︒西域震催︒多遣使来貢︒⁝⁝三嘆自敦守旧至塩

沢︒往往起工︒而輪台︑渠黎皆有田卒数百人︒置使者校尉領護︒以給使

外国者︒﹂と見え︒同書︵︵96回目︶西域伝下薬黎の条に︑百幕初日西

域︒置校尉︒屯田渠摯︒﹂と見えるところによるに︑輪台にも田官が置

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曹魏屯田の系譜試論

かれたことが察せられると共に︑西域の逆馬︑田官とは︑具体的には田

卒を領窪して屯田経営に従っていた校尉を指すものであろう︒然らば︑

西域伝に︑屯田を経営するものとして見える屯田校尉︑或は戊己校尉の

如きも亦田官であったわけである︒以上の如く考え来れば︑漢の田官

は︑漢の北辺経営進展につれて︑大体三段階に分って設置されたといえ

るであろう︒

 けれども︑所謂北辺田官という時これら総てを含むものであろうか︒

筆者は︑西域方面田官は多少その性格を異にするものかと考える︒北辺

田上は前述の如く軍糧補給がその任務であったと思われるのに︑西域方

面の田官については︑﹁以給使外国者﹂と記されており︑或は屯田経営の畢についても︑多きも三千吾入︵追憶下西域雫︶から︑少き

は︑﹁吏士四丈︒田伊二障擬之︒﹂︵難雛上西域伝上︶と見える如く︑その屯田経営は大規模に展開されたとも思えない︒それというのが︑西域における田官︑田卒︵田士︶については︑田地経営の外

に︑ ﹁王自請天子日︒⁝⁝願漢遣一将︒屯田積穀︒令臣依三訂重︒﹂

(鞭ェ上西域伝上︶とか︑﹁︵鄭︶吉上書言︒図師獣毛野望︒豊

河山︒北近袈︒属兵演練薯︒勢不能鰻︒願藷卒︒﹂︵醸.職㎡

唖籟︶と見える如く︑悲運の設置によって漢威を借るとか︑軍事力として旧卒を用いるとかの如きが主であったことは西域伝を通じ明てかな

ところである︒ということは︑同じく田官といいながらも︑軍糧不足の

故に立てられた所謂北辺田官とは︑実質は異っていると考えざるを得ない︒即ち︑同じく廃官であっても︑北辺田官と西域田官とは︑夫々異

った任務をもっていたものといわねばなるまい⑩︒

 では︑北辺田楽とは︑第一次︑第二次開発に伴う田官を指すものであ

ろうか︒さて︑前述の第一次︑第二次軍官設置に関する記事をみるに︑

共通した事実がある︒それは前記の如く︑﹁往往通渠︒置田官︑耳印五

六万人︒﹂といい︑ ﹁開田官︑斤塞卒六十万︒﹂という表現に明かな如 く︑当然のこととはいいながら︑それらが漢の勢力滲透地域における開発の任務をもっていたことである︒従って︑これら田官の任務は︑そこに定着して屯田を経営するというよりも︑寧ろ屯田の為の開発にあったと考うべきであろう︒その開発が一段落したところで︑正式の定着的屯田経営が行われたと菱ることは︑漢書︵︵96下︶︶西域無下にみえる︑武帝末年の桑弘羊の献言に見る開発から定着経営に移行する方法を参照すれば︑決して不当な考ではないであらう︒即ち︑前の田方は開発の為の臨時的な田官であり︑その後に恒久的な田官の設置が制度化されたであろう︒このよう塵地から前︑後漢書を検討するに︑漢書︵︵19上︶︶百纂一一︵鵬七︶に︑影戯︑属国都尉︒皆幕初冠︒しと見え︑後歩︵83︶喜志︵銘︶には︑﹁幕辺郡翼都尉︒主屯田殖穀︒﹂と見えている︒即ち︑辺郡の屯田殖穀を主る農都尉なるものがあったわけである︒漢書︵下28︶鐘志︵師︶によれば張抜郡番小県の条に︑﹁農都尉治︒﹂と見えて︑それが辺郡に置かれていたことを確認することができる⑪︒とすれば︑この農都尉こそ︑開発された地方に常置されたところの︑前記塩鉄論にいう北辺田官そのもの︑少くともその一つであったことは間違あるまい︒以上の如く考え来れば︑酒泉方面までの田田i所謂北辺田官は︑軍糧確保の目的をもつ内地的田官であり︑西域方面のそれは前線基地的野官であったわけで︑同じく田官と称しながら︑ここに二つの性格の異った田官を考えることができよう⑫︒

さて︑この農都尉の実例については漢書︵97︶漏奉世伝に︑陽難中︒

中山王来朝︒ ︵漏︶参擢井上河農都尉︒﹂と見えて︑成帝の頃に上河に

設置されていたこと明かであるが︑これについて︑水受注︵3︶河水の

条には︑﹁智北過黒地富平県西︒﹂に注して︑﹁河水陞進典農城東︒世

謂之胡城︒等号進上河城東︒世謂之漢城︒醇離日︒上身魂西河富平県︒

即是也︒薦参迫上運勢農都尉︒所治也︒河水叉北蓬典農城東︒俗名営為

結城︒皆参所も以事農砒︒﹂と見えている︒ここにいう下戸都尉が農都

60

(8)

尉の誤であることは︑漏奉書伝及び次に61用する漢書︵㎜上︶叙伝によ

って明かである︒

 では︑辺郡に農都尉が置かれたという辺郡とはどの地方であろうか︒

漏参の農都尉となった上河の地について︑顔師古の漢書上引記事の注に

は︑ ﹁上河在西河富平県︒急場為農都尉︒﹂とあるが︑寝溜謙の補注

や︑水受注の本文によってみれば︑北陸富平県にあったと見るべきであ

ろう︒この上河三二ξいては︑漢書︵㎜上︶叙伝に︑﹁︵班︶況挙

孝廉為郎︒積功労︒至上河農都尉︒大司農奏課連最︒﹂あるが︑これ成

帝の頃と推定される︵    漢書︵0叙伝︶上︶︒而も農都尉は一計和県にもおか

れていたことからみて︑上河︑番和以外の北辺地帯にも設けられていた

と推察して無理ではない︒そのことを明かに証明する記録が居延漢簡に

見える︒ ﹁守大司農光禄大夫臣調昧死言︒守受簿丞慶前強請詔乾乳軍屯

食守部丞武図以東至西河郡十一三都尉官上調物銭卜転漕為民困乏腎調有余給﹂︵螺貧的噂警とあるものが・﹂れである︒この簡は譲の

考証によれば⑬︑元帝永元二︒三年の時のことというから︑元帝の頃

に西治郡より西方に︑少くとも十一の農都尉がいたこと明かである︒そ

れでは︑何処に農都尉が置かれていたかということになるが︑前述番

和︑上河の二農都尉以外は明かでない︒

ところが︑後漢書︵46︶梁統伝によれば︑﹁︵建武︶八年−拝︵梁︶

騰酒泉典農都尉︒﹂と見える︒これは勿論後漢のことではあり︑且つ典

農都尉であるけれども︑後述する如く︑典農都尉は農都尉の系統をひく

と考えられるから︑前漢代には酒泉にも農都尉があったのではあるまい

か︒前述の如く︑酒泉方面に大量の斥塞の卒が投入されたことを考えれ

ば︑定着的屯田経営がここで行われ︑農都尉があったとしても不思議で

はない︒ その他に︑居延与国に見える︑ ﹁□下領退校︑居延︑属国︑郡︑農都尉︑県官承書□﹂ ︵六五.一八︶とか︑﹁三月丙午︒張抜耳蝉延行太守

曹魏屯田の系譜試論 事︑居延倉長湯兼行丞事︒下属国︑農都尉︑小回︑県官承書従事下当用者︒如詔書︒/守属宗︒助府佐定︒﹂︵一〇.三三︶という如き記録によれば︑宛も釣虻城にも農都尉があったかの如くであり⑭︑従来そのように解されてきたようである⑮︒けれども︑この農都尉が直ちに居延農都尉であると断定するのは少し早計のようである︒というのは︑同じく居延漢簡の中心に︑﹁二月戊寅︒張抜太守福︑庫丞恵兼行丞事︒敢告張抜農都尉︑護田校尉︑府郵貯謂県︒﹂ ︵四・一︶とあって︑張抜農都尉なるものが見えるが⑯︑これ︑は果して何処におかれていたものであろうか︒ところで︑既に番和県尉に農都尉があったこと明かな以上︑これこそ張抜農都尉であったと考うべきであろうが︑更に居回にも農都尉がおかれていたとすれば︑同郡内の両者を区別する為に︑単に農都尉と呼ぶことなく︑夫々を区別できる称呼があって然るべきである︒然るに︑謬言書簡には︑単に農都尉︑或は張抜農都尉としか見えないことは︑張抜郡に二つ以上の農都尉が置かれていなかったことの証拠であろう︒すると︑この張抜農都尉は番黒磯に治したものを指すとして誤あるまい︒従って居延には農都尉はなかった筈であるが︑では︑居坐漢簡に数多く見える三宅は何に所属したものであるのか︑居延には全く田官はなかったものであるかの疑問が起るのである︒ これに解決を与えるものは︑前記心延漢簡に見える護田校尉であろう︒更に︑居延漢簡には︑ ﹁十二月辛未︒将兵護民田官居延都尉債︑城倉長禺兼行図﹂︵二七八.七︶という記事がある⑯︒筆者は︑この護田校尉と将兵護民田官とは同一のものであり︑それは遷延都尉の兼任するところであったと考える︒ この点を明かにする為には︑前述した北辺田官と西域方面田官との区別︑即ち内地的野官と前線基地的田野との区別について考えねばならぬ︒前述の居延漢簡に明かな如く︑張抜太守支配下には張抜農都尉と護田校尉とがあったわけであるが︑護田校尉というのはその名称から考えても西域方面の田官と同じ性格のものかと推定される︒然るに︑西域方 61

(9)

曹魏屯田の系譜試論

面の田官は隊士︵旧卒︶を偉いて戦闘にも従ったおけであるから︑実際

には︑﹁将兵田官﹂であったわけである︒然らば︑護田校尉と将兵護民

田官とは同じものを指すとも考えられ︑居延都尉は︑護田校尉を兼ねて

いたと考えられるのではなかろうか︒更に︑居皆野簡には他の顕官の名

称も見えている︒例えば︑ ﹁謹案属丞始元二年成新卒千五百人為野馬田

官営雪餅︒廼正月己酉光陽童言﹂ ︵五一三︒一七︶と見える⑯︒篇章というのは肩水都尉下の漸名であるが⑰︑この地にも下級田官一勿論その

具体的な名称はわからないので︑或は居着漢簡に見える農令︑例えば

﹁侯農令督蓬墜裂離遠□﹂ ︵五一六・二六︶の如きかとも思われる⑯i

がいたことになる︒米田氏もこの辟馬田官が如何なるものかについて断

定をさけられている如く⑲︑これだけの資料では何とももいい難いが︑

居延都尉が田官を兼ねていたとすれば︑肩水都尉も田官を兼ねていたと

考えてよく︑その下級田官として辟馬田官があったと考えることもでき

よう︒兎に角︑これら護田校尉︑下級田官の下に︑西域方面におけると

同様の田卒があって︑代田法の実施等からみて︑武帝時代からこの地の

屯田経営に従っていたと考えうるのではなかろうか︒勿論︑米田氏が指

摘されている如く⑬︑戊卒と田卒とは明確に区別されていたらしいが︑

そのことは米田氏が指摘されたことの他に︑官給品をみても︑田卒は殆ど衣服類であるのに︑戊卒は衣服σ外武器を所有していることが極めて

多いことからも察せられる⑲︒即ち︑居延都尉は護田校尉を兼ねて︑

軍事系統と屯田系統とを支配していたものであろう︒この場合︑西域方

面では田卒はそのまま軍事力であったわけであるが︑ここでは戊卒と田

卒との任務が区別されていた点︑西域屯田と多少の相違をみせている︒

これは恐らく︑同じく前線基地的田下でありながら︑居延は西域に比し

て入員動員の余裕をもっていて︑その区別をを可能にしたが故ではある

まいか︒ 若し︑以上の推論の大筋に誤がないならば︑ ﹁ここに置かれた倉︵註農耕地目屯田︶も叉農都尉の指揮をうけた可能性が強い︒﹂という米 田氏の考には従いかねるので⑳︑筆者は居八重田校尉は張抜農都尉とは独立した一つの屯田官であり︑背延附近以外の張抜郡屯田は張抜農都尉の支配下にあったと考える︒趙過の代田法が辺郡及び居延城に実施された時︑居松城の名が辺郡と区別してあげられているのは︵漢書︵24食貨︶上︶︑

一般辺郡の農都尉麦配下の内地的屯田とは異った︑別形式の屯田経営が

居延において行われていたことを裏書きするものではないかと考えられ

るQ

ところで︑漢書︵−︶元帝紀初元五年夏四目の条によるに︑寵角

抵︑上林官希御幸者︒斉三服官︑北柏田官︑塩鉄官︑常平倉︒しと見

え︑北仮の地にも田官があったという︒この北諸については︑地名では

ないとの説もある︒史記名誉列伝の︑ ﹁又考課︒拠陽山北書中︒﹂の集

解によれば︑ ﹁駅案︒北仮北方田官︒逆歩田仮与貧入︒故云北仮︒﹂と

あり︑元帝紀記事の念書注には︑ ﹁主工賃見官田与民︒収其一雨也︒故

置田農之官︒﹂と見えている如きはこれである︒これらの説は︑北辺地

帯における公田を貧民に仮与し︑仮税を収めるのが北仮田官であったと

いうわけで︑前述塩選書園池の条の北辺に田官を任じたというものに当

るが如くである︒併しながら︑北仮は明かに地名であることは︑漢書

︵99︶王葬伝に︑﹁︵趙並︶還言︒雪原︑北仮膏壊殖穀︒異讐四四︒乃

以並為田禾将軍︒発戌卒︒屯田北仮︒以助軍糧︒﹂と見える如くであり︑

前漢代に田官があり︑前漢末には既に廃止されていたという︒叉︑水経

注︵3︶河水の条に︑﹁至河目県西﹂に注して︑ ﹁河水⁝⁝南屈蓮河目

県︒在北仮中︒地名也︒自口髭以東︒爽山帯河︒陽山以後︵朱謀埠云宋

本匠西︶︒皆皆仮也︒史記日︒卸和熱気将十万人︒北撃胡︒度河取高

闘︒拠陽山北仮中︒是也︒﹂というのによるも地名に相違ない︒即ち︑

五原河目県附近の高闘以東陽山以西の地が北仮とよばれ︑ここに元手初

元五年まで田官が置かれ︑その廃止後は前漢末までは何等の施設もなか

った如くである︒

62

(10)

 さて︑この同じく北辺に置かれた北仮田打と農都尉とは︑一体どのよ

うな関係にあったのであろうか︒漢書︑後漢書の職官関係の記録には︑

所謂辺郡屯田管轄者としては農都尉以外には見えないのであるから︑北

仮田官も具体的には農都尉ではなかったかと推測されるのであるが︑今

少し詳細な検討を加えよう︒筆者は既に︑農都尉は内地的田平であると

その性格の一端を明かにしたが︑その屯田は一体どのようなものであっ

たであろうか︒当室兵志︵廿五史断編所収︶によると︑﹁農都尉︒武節婦置︒領

内平冠︒屯田塞下︒因以備虜︒﹂と見え︑この屯田は武力をも兼ね備え

ているかの如き説明を加えている︒然るに漢官儀には︑ ﹁司馬︑侯︑農

都尉︒皆不治兵︒不給衛士︑材宵楼般︒﹂︵平津館底本︶と記されていて︑

補漢兵志の説とは反対である︒では果して︑どのようなものであったの

か︒ 先ず︑前漢時代屯田の形式について簡単に考えてみよう︒勿論︑その

分け方には色々の観点があり得るわけであるが︑ここでは︑その目的に

よって︑軍屯︑民二七且つ軍屯的︑民屯という三つの形式を考えてお

く︒ 第一には純粋の軍屯で︑虻田且守式のものである︑これについては殆

ど説明を要しないであろうが︑例えば︑趙充国が宣帝に献言して実行

しだところの︑ ﹁吏士万人︒留目以為武備︒因田沼穀︒威徳並行︒一

也︒﹂︵漢書︵69︶紅藍国伝︶の如きがこれであるが︑西域の前線議官屯田は殆ど

これで弩たとしてよかろう︵漢書︵96︶下西域伝下参照︶︒

 第二には軍事・的意味と人民の生活安定との両面を含んだもので︑これ

には早く文帝の頃に器錯によって建言され且つ実施されたところの軍事

的意味の強い場合︵漢書︵49最錯伝︶︶と︑漢書︵雫︶西域伝下覧える桑弓羊

の︑屯田に関する武帝への献議に於けるが如き︑生活の安定を主とした

ものがあった︒桑弘羊の議は武帝には用いられなかったが︑昭帝に至っ

て・弘羊の議によって輪台竃若した︵漢書︵94︶下西域伝下︶とあるから︑西下

曹魏屯田の系譜試論 面にもこの種のものが行われたこと間違ない︒ 第三には純粋の民習で︑既に早く清水博士によって強調されたところのもので︑これらに対しては政府の保護指導はあったとしても︑何等軍事的意味をもたなかったものである⑳︒ 以上のものに対して︑第四の形式として︑大司農監督下の屯田︑換言すれば︑直接国家財政に連るところの屯田があった︒それは軍事力をもたないが︑軍糧補給という点において間接的に軍事に漁る意味では軍屯的であり︑財政官庁たる大司農監督下にあったという意味では︑寧ろ民屯的であったといえるところのものである︒勿論︑第二形式の屯田の如きも︑議錯が食糧等の輸送の費が少くなったとしているところによれば

第四の形式のものは︑制.度的に国家財政を支えるものとされていた点に (漢g伝︶︶︑大きく見殺凝財政の蔓となったものには違いないが︑

おいて︑前者と全く異ったものである︒筆者は︑農都尉麦配下の屯田

は︑正にこの第四形式のものであったと考える︒

 農都尉麦配下の屯田が大司農管轄下にあったことは︑前引漢書叙伝に

みえる如く︑上河農都尉たりし班況の成績が大司農によって評価されて

いることが明かである︒灌︑毒︵−0︶三四婆父王行状音の叢目

注引漢書によれば︑ ﹁侃︵児?︶寛為農都尉︒大司一回同罪連︒﹂と見

えて⑳︑前記班況の場含が特殊の場合ではなかったことを示している︒

この二例によれば︑農都尉が大司農の管轄下にあって︑直接監督をうけ

る立場にあったことは否定できない︒若しそうであれば︑農都尉麦配下

の屯田は︑直接国家財政に湿るものであったといえるであろう︒而も農

都尉は軍糧不足を補う為に辺郡に設置された田官であったのであるか

ら︑制度的に︑国家財政を支えるものとして設けられたものであったと

いえる︒ 然るに︑ここに農都尉の所属に関して難解な記録である︒それは前引

延漢簡にみえる︑ ﹁三月丙午︒張抜長史延行太守事︑肩水倉長湯兼行丞

63

(11)

曹魏屯田の系譜試論

事︒下属国︑農都尉冥府︑県官⁝⁝しの記録である︒これが︑労幹の考

証にいう如く太守より属吏に詔書を転身するの文であるとすれば⑳︑

農都尉は張抜太守に属したということになる︒これは︑農都尉が大司農

管轄下にあるということと︑如何なる関係にあるものであろうか︒班況

が上河農都尉となったのは叙伝によれば成田の頃と推定されるが︑この

居延漢簡の年代は不明である︒時代によって官職の帰属に多少の変化が

ありうるのは当然で︑これはそのような場合の一つと考えられないこと

もないが︑筆者は次の如く考えてみたい︒即ち︑農都尉は他の都尉と同様一応張液太守の麦配下にあったとしても︑北辺田官として軍糧生産と

いう財政上の重要任務をもち︑且は大司農所管の公田−今まで屯田との

みいってきたが︑これらが公田における屯田であることはいうまでもな

く︑これらは北辺田官所属の公田である一を管理するのであるから︑特

に大司農の監督をうけ︑且つ大司農によってその成績が判定されたもの

ではあるまいか︒兎に角︑農都尉が大司農と太守との二元的麦配下にあ

った特殊の性格のものであったことは否み得ないのではなかろうか︒こ

のような見解一即ち二重統属を認める見解は一見不可解の如くでもある

が︑そのような事実は既に米田氏も指摘されたところで⑳︑漢の官制

上では決してあり得なかったことではなかった︒とすれば︑農都尉は一

応大守の支配下にありながら︑財政面におけるその任務の重要性からみ

て︑大司農管轄下にもあり︑寧ろこの方が実質的な統属関係であったと

いえるであろう︒

 若し以上の如く考えうるとすれば︑農都尉は専ら政府公田の屯田経営

に従ったものであり︑好漢兵志にいうが如き︑ ﹁因以備虜︒﹂という軍

勢の経営官でなかったことは明かである︒けれども︑農都尉が全然武力

をもつていなかったわけではないようである︒屯田民を守り︑且つは屯

田の秩序を保つ為に︑いくらかの武力は備えていたのではなかろうか︒

というのは︑水里注︵6︶熱水の条︑﹁叉西南過安邑県南﹂の註に︑

﹁本司塩都尉治︒領兵千馬入守之︒﹂とて︑塩官が警備の兵力をもって いたことが伝えられている︒これは農都尉の場合についても考えられるからである︒とはいえ︑この司塩都尉は何時以のものかははっきりしないがしかし︑前漢時代にここに五官が置かれていたことは明かであるから⑳︑この司塩都尉は前漢時代にもあったとしてよかろう︒勿論︑それだからといって︑農都尉以下の屯田を軍屯というを得ないことはいうまでもない︒ さてそれでは︑農都尉下の屯田はどのような内容のものであったであろうか︒それは軍糧不足を補うものであるから︑相当大規模に︑叉︑能率をあげうるように考えられていたであろうが︑その内容を伝える記録は見出せない︒ただ︑漢書︵96下︶西域伝下にのせた︑武士末年における桑弘羊の献言は注目すべきであろう︒雪解の献言の要点のみを引用すれば︑ ﹁臣愚以為︒可遣屯田卒詣故輪台以東︒⁝⁝田一歳︒有囲穀︒募民壮健︒有累重敢徒者︒詣田所︒就量定為本業︒﹂と述べている︒即ち︑屯田卒による開拓がすんだ後に︑家族ぐるみの壮健なる民を募って入植せしめ︑生産に専従せしむべしとするものであろう︒この献言は恐らく従来の屯田経営の実績に徴しての献言であろうと思われるが︑その経験というのは︑令居︑酒泉方面に開田官を置いて屯田を開き︑農都尉を設けてその後の経営をさせたというものに当るのではなかろうか︒勿論︑この献言が従来の経験そのままを奏したものか否かはわからないのであるが︑所謂発奮的要素と昏昏的要素とを分離することが望ましいという点にその趣旨があったことは明かである︒然るに︑従来の西域方面の前線基地的屯田は︑既に指摘した如く︑調書旦講式の軍士であったのに対し︑農都尉下の屯田は軍糧生産が目的であって︑少くとも直接的には武力とはならなかったものであった︒このように考えるならば︑桑弘羊献言の背後には︑辺郡一帯に開発︑設置された農都尉支配下の︑公田屯田の経営の経験が考えられていたのではなかろうか︒ 若し以上の如き推定が可能ならば︑農都尉下の屯田は︑国家機関の管

理下にあったとはいえ︑内容的には応募移民を入植せしめたものもあっ

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(12)

たかも知れず︑兎に角︑食糧生産に専従する人々によって能率的な経営

が行われていたに違いない︒勿論︑内容上は民屯的であったとしても︑国家直営の屯田である以上︑屯田に従事する人々は一応服役の形をとっ

ていたのではあるまいか︒縄延漢簡に︑ ﹁二月戊寅︒張抜太守福︑庫丞

葱兼行判事︒敢告張工農都尉︑護田校尉︒府墨入中之︒律日︒蔵官物非

評者︒以十月平井計︒案島田卒昏冥抱衣物︒⁝⁝﹂︵四・一︶⑳と見える

如く︑旧卒も戊卒と同様官抱衣物をうけているのは︑それを推定せしめ

る︒ 一方︑北越における田官はどのようなものであったであろうか︒漢書

(24

縺j讐上をみるに︑﹁元臨位︒天下大水︒⁝在位諸儒多言︒塩

鉄官磁北弓田官︑常平摩可罷︒母与道志利︒上塗其議︒皆罷之︒﹂と見える︒この結果が前述初元五年の北流議官を罷めたものであったのであろう︒この記事で注目すべきは︑北越田遊は塩鉄官や常平倉と共に︑民

と利を争うものであるが故に廃すべしといわれていることである︒この

民と利を争うということについては︑後漢書︵m上︶暮伝に︑﹁延元

元年嘆美郡太守︒郡旧有内外園田︒常与人分筆︒収穀歳数千斜︒香日︒

田令︒商者不農︒王制仕者不適︒伐泳食禄門人︒不与百姓争利︒乃悉賦

人︒課令耕種︒﹂と見えるものによって且ハ体的な姿を見ることができ

る︒即ち︑この記事によれば︑魏郡には昔から多くの公田があったが︑

その経営は郡の直営と人民への一部公田の貸与という形式をとり︑歳に

数千態の収入を挙げていたが︑五香が着任してから︑百姓と利を争うべ

からずとして︑すべての公田を入善に割宛てて耕種せしめたというもの

であろう︒すると︑百姓と利を争わずというのは郡の直営を指すもので

あるが︑これからみれば︑同じ理由を以て廃止された北仮田官も︑政府

直営の公田における田部を指すものといえるであろう︒

 では︑政府直営の公田経営たる北仮田官の実態はどのようなものであ

ったか︒これについての明丈は何もないので︑はっきりしたことは述べ

難いが︑金然手掛りがないわけではない︒先ず︑民と利を争うべからず

曹魏屯田の系譜試論 として罷められたとはいうものの︑廃止の理由はそれだけであったろうか︒さて︑前後漢を通じて行われた公田の貧民への仮貸は⑳︑昼飯によっても行われたこと︑漢謹÷︶元帝紀によって明かである︒ところで元帝の政治は︑初頭から貢禺の興言を侮れて節約の政治で姶まったことは明かであり︑先述斉三服官の眉墨も貢禺によって指摘され︑その廃止が決定されている︵漢書︵72貢萬伝︶︶︒従って︑これら含の仮貸も︑﹁以三朝隔日︑郡国盆︒発可尋者︒振選民︒﹂︵漢書︵9元帝紀︶︶とか︑﹁下詔︒令鷲宮館希御幸者︒勿繕治︒太犠馨馬︒水温滅肉食獣︒﹂︵全上︶とか見えるところが推察されうる如く︑節約第一の考からでているのではなかろうか⑳︒これを裏から言えば︑公田経営は必ずしも帝室財政︑或は国家財政にプラスとならないものもあったのであろう︒北仮田官の廃止が︑前述の如く︑﹁上林宮館希御幸者︒斉三弁官﹂と共に行われたことは︑その設置が節約第一の方針に反したこと︑換言すれば︑掛釣田官が表面的には民と利を争うものであったと同時に︑実質的には︑何等その経営が財政的に有利なものでなかったことによるのであろう︒従って︑その廃止によって︑一面国家による人民の直接把握に役立てながら⑳︑他面政府の経営負担を軽減するという意味があったのではあるまいか︒併し︑表面上︑民と利を争わずという形において罷められたとすれば︑それは入民への仮貸を前提として罷められたもので︑廃止後は公田仮作が行われたと推定して誤ないであろう⑳︒その場合仮封を受けた人々は︑必ずや北仮田官の下に公田経営に参加していた人々であったであろう︒若し︑官奴.碑による経営が行われていたとしたら︑田無廃止と共に大量の奴碑解放が行われたであろうと思われるが︑元帝紀には貧民への公田仮貸は数多く述べても︑奴碑解放の如きには全然ふれていないから︑北仮公田が資財による経営であったとは考えられない︒従って︑そこに従事した時々は︑政府直営という点から考えて︑服役者たる輸卒によるものではなかったろうか︒若しそうであれば︑北仮公田の経

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