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曹魏太極殿の所在について

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曹魂太極殿 の所在 について

は じめに

佐 川

英 治

2010年 にわが国の平城宮は遷都1300年 を迎 える。奈良では これ を記念 して遷都1300 た い ごくでん 年祭 が準備 され てお り、そのモニュメン トとして第一次太極殿正殿 の復原 が進 め られ てい る。太極殿 は古代 にお ける宮城 の正殿 であるが、それ をもって太極殿 と名付 ける ことが唐 の長安 の模倣であることは知 られていて も、その端緒が三国魂 の明帝が洛陽 たい きよ くでん に築いた太 極 殿 にあることを知 る人は少ないであろ う。 中国では明帝が この名称 を用いて以来、魂晋南北朝か ら隔唐 にいた るまで宮城 の正 殿 はほぼ一貫 して この名称 をもって呼ばれ た。 この ことは単 に名称 の問題 に止 まるも のではな く、宮城 ・都城 の設計プラン、ひいては政治構造 のあ り方 にも深 くかかわる 問題 とされてい る。それだけに、歴 史上最初 に築かれた明帝 の太極殿 が どの よ うな も ので あったかは非常に興味深い問題 である。 ただ し、曹魂 の洛陽はその後、西晋や北魂 の時代 にも改造が加 え られてお り、今 日 では、北魂 の太極殿 についてはその位置が確定 されているものの、いまだ本格的な発 掘 はお こなわれてお らず、 さらに遡 って曹魂 の明帝が築いた太極殿が どこにあったか とい う問題 になる と、文献 に大 きく矛盾す る記載があ り、その位置す ら末 だ明確 にな っていない。 しか も、 この十年 ほ どの間に、定説 は大 き く変わ りつつ ある。 そ こで本稿 では、曹魂 の明帝が築いた太極殿 の所在 をめ ぐって、今 日の研 究状況 を 紹介す るとともに、そ こにある若干 の問題点 を指摘 し、今後 の課虚 を示す ことに した い。 - 太極殿 の漢南宮所在説 について まず は じめに漢魂洛陽城 の宮城 の配置 について簡単 に述べてお こ う (図Ⅰ参照)0 漢魂洛陽城 の城塔 は洛水 に流 されて しまった南増 を除けば、多 くの箇所 で地上 に遺構 を留 めてお り、その規模 は文献 に記載す る ところの東西六里 (約2488m)、南北九里 (約

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3732m)の規模 にほぼ合致 してい る。 以下 これ を大域 と呼ぶ。 その中で遺構 によって 宮殿 区が明 らかになってい るのは、牝鶏 の宮殿 区であ り、大域 のやや西 に偏 った場所 にあ り、南北 に約1398m、東西 に約660mの南北に長い長方形 を してお り、天城 の約10 分 の1の面積 を占めてい る (1)0 これ に対 して、後漢 の宮殿 は、文献か ら復原す る ところでは、北宮 と南宮に分かれ、 南宮 は太城 の平城 門、北宮 は太城 の小苑 門 (後の宣陽門)に正対す るかたちで東西 に 位置 をず らして置かれ、両者の間には一里の距離があ り、復道で結 ばれていた とされ る (図Ⅱ参照)。 この漠 の北宮の場所 に北魂 の宮殿 区は築かれ、その中に太極殿 が築 かれ、太極殿 の正 門である問関門か らは銅舵街が真 っ直 ぐ南 に伸びて宣陽門に達 して いた。一方、北魂 の時代 に漢の南宮の場所 に何 らかの宮殿施設が置かれた形跡 はない。 そ こで改 めて曹魂 の太極殿であるが、かつては曹魂 の太極殿 は漠 の南宮にあった と す るのが通説 であった。 それ は 『三国志

巻二 ・文帝紀 ・黄初元 (220)年条 の 「十 二月、初督洛 陽宮、戊牛車洛陽。」に対す る南朝采 の裳松之の注 に、サ次 のよ うに記 さ れているか らである。 臣、松之が案ず るに、諸々の文献 によれば、時に文帝は北宮 に居 り、建始殿 で 群 臣 と朝会 し、その門は承明門 といった。陳思王権 の詩 に 「帝 を承明の鹿 に謁す」 と言 うのは これ で ある(2)。 明帝 の時 に至 って、初 めて漢 の南宮 の崇徳殿 の所 に 太極殿 ・昭陽殿等 の諸殿 を建設 したのである。 臣松之案、諸書記是時帝居北宮、以建始殿朝肇臣、門日承明、陳思王権詩 日 「謁 帝承明度」是也。至明帝時、始於漢南宮崇徳殿廃起太極 ・昭陽諸殿。 裳松之は具体的な典拠 を記 していないけれ ども、請書 を勘案 した結果 として、次の よ うに結論づ けている。す なわち、魂 の文帝が洛陽宮 を造営 した際、文帝は漠の北宮 に建始殿 と承明門を築 き、明帝 は漢 の南宮の崇徳殿 の場所 に太極殿 と昭陽殿 を築いた とO また同様 の記述は、北魂の鄭道元の 『水経注』洛水条 にもある0 魂 の明帝は洛陽の南宮を天の太極 に象 り、太極殿 を漠の崇徳殿 の政所 に築 き、 雄門を改め問関門 とした。 魂明帝上法太極干洛陽南宮、起太極殿干漠崇徳殿之改廃、改雄門島問関門。 さらに、太極殿 が南宮 にあった こ とを示す史料 としては、『後漢書

列伝第五十 下 ・寮監伝 に 「時に妖異が しば しば現れ、人々は驚 き恐れた。その年 の七月、帝は詔 し - 2(

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)-曹魂 太極殿 の所在 につ いて (佐川 ) て察 畠 と光線 大夫楊賜 ・諌議大夫馬 日揮 ・議郎張華 ・太史令単願 を召 して金商 門に至 らせ 、崇徳殿 に引きいれ た。 (時妖異数見、人相驚擾。其年七月、詔召 邑輿光線大夫楊 賜 ・諌議大夫馬 日藤 ・議郎張華 ・太史令単願詣金商門、引入崇徳殿。)」とある記事 に対 す る唐 の李 賢の注に、 『洛 陽記』 に 「南宮 に崇徳殿 ・太極殿 があ り、西 に金商門がある」 とある。 洛陽記日 「南官有崇徳殿 ・太極殿、西有金商門」也。 とある。 ここに崇徳殿 と太極殿 を並記す るのは正確 とはいえないが、 これ らの記事 は いずれ も曹魂 の太極殿 が漠 の南宮にあった ことを明 白に伝 えてい るのである。 ところが、それ にもかかわ らず、近年 これ を疑 う研 究者 が現れ てい る。 例 えば、中 国の郭湖 生民 は、一九九一年 の論文で、 「もし西晋が完全 に漢魂 の南北宮 を継承 して いた とすれ ば」 とい う仮 定の下で、以下の よ うな疑 問を提起 してい る(3)0 ①西晋 の懐帝の永嘉五 (311)年 に、劉曜 ・王漸 ・呼延鼻が洛陽 を攻 めてい る。 こ の とき呼延鼻 は平昌門を攻 めこれ を焼 き払 ってい るが、南宮 に入 った とは言 って いない。平昌門は漢 の平城 門で あるが、平城 門は南宮 と接 し、他 の城 門 とは別 に 独 り宮 門の扱い を受 けていた よ うに、平城 門 と南宮の門は密接 していたはず で あ る。 に もかかわ らず 、呼延鼻が平昌門を陥れてお きなが ら南宮 に入 った とす る記 述がないのはなぜか。一方、間 もな く、王鮪 と呼延妾 は再び洛陽 を攻 め、今度 は 宣陽門 を破 り、「南宮 に入 り、太極前殿 に升 る (入干南宮、升太極前殿)」

(

晋書』 巻一百二劉聴載記) とある。 す なわ ち、晋 の南宮 は宣陽門か ら入 ってい った場所 にある。 この ことか らすれ ば、晋の南宮 と漢 の南宮が同 じか ど うか疑わ しい。 ②晋 の武帝 は太康八 (287)年 に太廟 を改営 し十年 に完成 した。『末書』巻十六 ・ 礼志三 には この ことを 「太康十年 に至 って、改 めて宣陽門内に改築 し、壮麗 を極 めた。 (至十年、乃更改築於宣陽門内、窮極壮麗。)」と記 してい る。太廟 は当陽の 位 、す なわち宮門の南方 にあるべ きである。かつ 「左祖右社」は礼 に明文がある 規定で あ り、 もし史書がい うよ うに太廟 が宣陽門内にある とすれ ば、南宮の前 の 正門が平城 門である事実 と符合せず 、かつ太廟 が左方す なわち宮殿 の東方 にな く てはな らない原則 とも符合 しない。 この点 も晋 の南宮 と漠 の南宮 を同一視 しえな い理 由の一つである。 ③趨 王倫が貫后 を廃 したクーデ ター は太極殿庭 で実行 され、かつ 間に入 って后室 に到 った際 、華林令 の賂休 が内応 してい る(4)。 も し太極殿 が漠 の南宮 にあ る と

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すれ ば、華林園 とは遠 く、 ど うして華林令 の藤林が クーデターに内応す ることが 可能だろ うか。華林園は宮城 の北にあ り、北宮 と接 しているか らこそ賂休 は内応 で きたのである。 この ことか らすれば、華林園 と南北宮 は南北 に連 なって一体の もの となっていた と考 えなけれ ばな らない。 ④ 『晋書』巻五十三 ・懸懐太子伝附子戚伝 に 「五月、蓬王倫 と太孫 は ともに東宮 -行 き、太孫 は西液 門 よ り出たが、車服 を供す る侍従 はみな懸懐太子 の 旧臣であ った。銅駐街 に至 り、宮入 は果 し、侍従 はみな声 を殺 して泣 き、路傍 の人 は涙 を ぬ ぐった。 ・-・・(五月、倫輿太孫倶之東宮、太孫 自西液門出、牽服侍従皆懸懐之奮 也。到銅舵街、宮入巽、侍従者皆畷咽、路人授漠蔦。 ---)」とある。銅 舵街 は宮 門端 門前の御道であ り、端 門の北は太極殿 である。西か ら東-向か うので宮殿 の 前 を過 ぎることになる。 もし晋 の太極南宮が漠の南宮の遺虻 にあるとすれ ば、東 宮 に移動す るのに銅舵街 を経 る とい うことはあ りえない。 都民 は以上の よ うな疑問を提起 した うえで、一つの仮説 を提示す る。 す なわち、晋 の南宮は漠 の南宮 にはな く、北魂 の宮城 と同 じ位置 に南北 に連 なっていたはずである。 かつ銅駐街 が曹魂 に始まることを考 えれ ば、曹魂 の宮城 もす でにそ うなので あって、 晋 はそれ をそのまま継承 したに違いないO とすれ ば、明帝の太極殿 が漢 の南宮 にあっ た とす るのは疑 わ しい と。 このよ うに郭氏 は、漢の南宮 と晋 の南宮 とは別物 であ り、 その位 置 は現在 明 らかになってい る北魂 の宮城 に南北宮連 なるかた ちで築 かれ てお り、その設計は曹魂 に始まっていた可能性 が高い と推論す るのである0 実 はこ うした議論 は、独 り郭氏の ものではない。賀業錐氏 も一九九六年 の大著 『中 国古代城市規画史

の中で、この間題 を取 りあげてお り、次のよ うに述べ てい る (5)0 もともと魂 の文帝は洛陽に遷都す る と、まず大夏門内に北宮 を営んだ。 これ を 継いで明帝 は鄭城 の三台に倣 って金境域 を築造 した。 こ うした配置 は明 らかに鄭 城 の 「市南宮北」の設計プランに倣 った ものである。 この後明帝 は大々的に宮室 を造営 し、南宮に太極殿等 を建 てた。 しか し、 ここにい う南宮は恐 らぐ漢 のそれ とは異 なるもので、文帝の造営 した北宮 を南 に広げた ものであろ う。 雨宮は連 な ってお り、漢 の時にあった よ うな一里の距離 はな くなったはずである。 この改造 は、実際上は二宮を一宮に集 中 し、それ を南北両部分 に分 けただけの ことである。 こ うした改革 を経て、漢の南北宮の弊害が克服 されただけでな く、宮城 の前 に広 大な空 き地ができ、城 の中軸線一銅舵街 に沿って、官署や廟社 な どの施設 を配置 できるよ うになったのである。

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-22-曹魂太極殿 の所在 について (佐川) も う一人、実際 に漢魂洛陽城 の発掘 にたず さわってい る中国社会科学院漢魂洛 陽工 作 隊 の銭 国祥 氏 に よる二

〇〇

二年 の論文 の議論 を紹介 してお こ う(6)。銭 氏 も賀 氏 と 同様 、魂晋の南宮 は、漢の南宮ではな く、北宮 に新たに築かれ た宮殿 の北側 の後宮 と 南側 の正殿 を指す ものであるとす る。そ して 『河南志』魂城 閑古速 に引用す る陸機 『洛 陽記』 に 「承 明門は後宮の出入 の門であるが、私 はいつ も曹植 の詩 に 『帝 を承 明の鹿 に謁す

とあるの を怪 しんでいたので、張公 に問 うた ところ、公 が言 うには、魂 の明 帝 が建始殿 を築 いた際、朝会 はみ な承明門でお こなわれ た とい うことで あった。 (承 明門、後宮出入之門。吾常怪曹子建詩、謁帝承明産。問張公、公云、魂明帝作建始殿、 朝会皆 由承明門。)」とあることか ら (7)、承明門は西晋 の時の後宮の門であ り、建始殿 が築 かれた北宮 とは後宮 を指す に違 いない としている。 この こ とか ら 『水経 注』 にい う漢 の崇徳殿 と維 門 とは漠 の北宮の崇徳殿 (もしくは徳陽殿 の誤 り)・とその南 門なの であって漢 の南宮 ではない とし、裳松之が南宮の崇徳殿 に太極殿 を築いた とす るのは、 史料 の引用 に何 らかの間違 いが生 じた もの とす るのである。 銭 氏が崇徳殿 を徳 陽殿 の誤 りとす る根拠 は後 に改 めて取 りあげるが、以上 の ごとく 近年 の主な議論 はいずれ も漢北宮所 在説が支持 されてお り、裳松之の説 は否 定 され る よ うになってい る。近年 出版 され た李久昌氏の著書で もほぼ上記 と同様 に漢北宮所在 説 が支持 され てい るこ とはい うまで もない (8)。 なお、漢 の崇徳殿 を南宮 の宮殿 とす る上記 の史料 の他 に、北宮 にあった ことを示唆す る史料 も存在す る (9)。 そ こで銭氏 は南宮 に崇徳殿 が存在 したか ど うか について も疑義 を提 出 してい る (10)0 以上の よ うに、太極殿 は漢の南宮 に建て られ た とす る裳松之 の記述 には様 々な疑問 が寄せ られ、今 日ではむ しろそれ に従わない説 が有力であ り、襲松之の説 は何 らかの 誤記や誤解 に基づ くものである可能性が指摘 され るよ うになってい る。 まず は この点 を確認 した うえで、太極殿 の所在 をめ ぐる次の議論- と進 んでい くことに しよ う。 二 太極殿 の所在 をめ ぐる考古学的アプ ローチ 以上の ご とく、裳松之や鄭道元の明 白な記述 に もかかわ らず 、今 日では太極殿 の漢 南宮所在説 が否定 され、漢北宮所在説が支持 され るよ うになってい る。実 は これ を強 く後押 ししているのが近年 の考古学的な調査 ・研究 の成果 なのである0 1962年 の夏 に中国科学院考古研究所洛陽工作隊によって漢魂洛陽城 内に対 して大規 模 な調査がお こなわれ、城塔や宮城遠地、主要 な街路 な どについて調査 と実測がお こ なわれ た (ll)。 その結果 明 らか となったのが、漢魂洛 陽城 の北側 に位置す る縦長 の宮

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城 区 と建築群 の基壇 の配置 である (図Ⅲ参照)。 ただ し、 これ らは発掘 によるもので はな く、ポー リング調査 によるものである。 報告書 によれば、宮城 を取 り囲む宮塔 は地上には遺構 を残 さないが、地下の保存状 態 は よ く、宮城 の規模 を正確 に知 ることができる。 宮城 の面積 は南北 に約1398m、東 西 に約660mの広 さがあ り、太城 の約10分の1の面積 を占める。宮増 の西噂 の全長 は139 8mあるが、宮増の西南角か ら約750m北上 した ところに、約25mの幅 をもつ門 口(l普門) があって宮城 を二分す る横街 が走ってい る。 この横街 は太城 の

号城 門 (北魂 の問関 門) と

号城 門 (牝鶏 の建春門) を貫 く横街で もある。 この よ うに して南北 に縦長 の 宮城 は大域全体 を貫 く横街 によって北側 と南側 に二分 されていた。 また この宮城 の北 側 に位置す る最 も大 きな版築の台基 には、南北方向に幅約6m、長 さ約140mの一本 の道 が作 られ ていた。 この道 は宮城 の南 に位置す る最 も高 さのある台基、そ してその南 に 位置す る宮城南増 の宮門遺虻 と南北 に一直線 に連 なってお り、 これが宮城 の中軸線 を 形成 していた とされ る。 宮城 内には版築 の台基が二、三十カ所発見 されてお り、なかで も宮城南側 には地上 に約4m、地下に6m以上、東西長 さ約100m、南北幅約60mの大型台基があ り、古 くか ら 「金堂殿」 と呼ばれてい る遺構 がある。金堂殿の南側 には 「日」の字 のかたちを した 版築の基地 があ り、北は金堂殿 、南 は宮城 門 と向かいあってお り、 これ らの建築群 は 宮城 の殿堂の基礎 と推定 された。 このよ うに宮城 は南北 に長 く、横街 に貫かれて南北 に分かれ、その南側 に殿堂が築かれ ていた ことがわかったのである。前節 で取 りあげ た諸氏が論 じる魂晋以降の南北宮のイメー ジが、 この考古調査 を下敷 きに した もあで あることはい うまで もない。 もっ とも、上記 の調査では北魂 の宮城 の配置が判 明 した ものの、それが魂晋 の建築 を継承 した ものか、新たに牝鶏が築いた ものかはわか らなかった。 これ に対 して、20 01年11月∼ 2002年6月 にかけて銭 国祥氏の指揮の下、中国社会科学院洛 陽漢親 政城 隊 によってお こなわれた宮城南門の発掘調査 は、曹魂太極殿 の所在 を論 じる うえで新 た な根拠 を提供 した(12)0 この発掘 によって明 らか となった南門の規模 は、南北110m、東西120mあ り、東西 に 並 んだ三つ の門道 と二つの閑をもち、それぞれの閑は宮城 の南塔 に接続 していた (図 Ⅳ参照)O またその地層堆積 か らこの門は北魂時代 に建設 され、北周時代 に若干 の修 築 を経た ものであることが明 らかになった。門の南 に伸び る大道 はかつての宣陽門に 通 じる御道 であった と考 え られ、また門の北にはす でに述べた よ うに大型 の建築基壇 が南北 に並 んでい ることか ら、この門は北魂 の宮城 の正門である問関門 と比定 され た。 この発掘 によって、1962年 の発癌 によって明 らか となった宮城 区が、明確 に北魂 の宮 --2′1

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--曹魂太極 殿 の所在 につ いて (佐 川 ) 城 区 と立証 され た ことの意義 は大 きい。 加 えて、 この発掘の も う一つの重要な成果 は、 この北魂 の遺構 の下 に、 さらに魂晋 期 の建築遺構 が発 見 され た ことである (図Ⅴ参照)。報告書 によれ ば、北魂 問関門の 門、開、院培 、宮塔等の基礎部分 はすべて魂晋期 に築かれ ていた ことが明 らかであ り、 さらに宮塔 の下 には東周以来の古い文化層 が存在 し、漠代 を下 らない版築の遺構 も確 認 され た。 この ことか ら銭 氏 は、北魂 の問間門は魂晋 の聞関門を修築 して築かれ た も のである としてY、る。 さらに銭氏 によれ ば、80年代 にお こなわれた試 掘 によって、金 堂殿 と呼ばれ る大型の台基 も魂晋期 にその前身があることが明 らかになっていた (13)。 これ らの こ とか ら銭氏は、問関門のみな らず太極殿 も魂晋期 の太極殿 を継承 した もの と断定 してい る(14)0 ここで改 めて北魂 にお ける太極殿 、問関門、宣陽門の位置関係 を確認 してお くと、 北魂 の楊街 之 の 『洛陽伽藍 記』巻-城 内 ・永寧寺条 に 「永寧寺 は、照平元 (516)午 に霊太后胡氏 が立てた もので ある。 宮城 前 の閣間門の南一里 の御道 の西 にある。 (永 寧寺、照平元年塞太后胡氏所立也。在宮前閣間門南一里御道西。)」 とあ り、またそ の 自 注 に 「その寺の東 には太尉府 があ り、西 は永康里に対 し、南 は昭玄菅 に接 し、北隣は 御 史茎である。闘間門の前 の御道 の東 には左衛府 がある。府 の南 には司徒府 があ り、 -- (其寺東有太尉府、西封永康里、南界昭玄菅、北隣御史茎。閣閣門前御道東有左衛 府。府南有司徒府、---)」とあ り、宮殿前 の正門が問関門であ り、問間門か ら南 に伸 び る御道 の両脇 に太尉府や 司徒府 な どの官署が置かれ ていた ことがわか る。 また 『水経注』洛水条 には 「穀水 はまた東 に向かい、宣陽門の南 を経 る。故の小苑 門である。洛陽に遷洛 してか ら、移 して ここに置 き、問間門 と対置 させ 、南 は真 っ直 ぐ洛水 の浮橋 に至 るよ うに した。 (穀水又東、逗宣陽門南、故小苑門也。皇都遷洛、移 置干此、封閣関門、南直洛水浮桁。)」とあ り、闇関門 と宣陽門は正対 していた こ とが わか り、 さらに同 じく洛水条 に城 内の渠水 を述べて 「渠水 はまた枝分れ し、路 を爽 ん で南 に流れ 、太尉 ・司徒 q)両坊の間を経 る。 これ を銅舵街 とい う。 旧 くは魂 の明帝が 銅舵 の諸獣 を開聞南街 に置 いたのである。 (渠水又枝分、爽路南出、逗太尉 ・司徒爾坊 間、謂之銅舵街。奮魂明帝置銅舵諸獣手間闇南街。)」とあ り、開聞門 と宣陽門が御道 で 結 ばれ、かつての銅舵街 で あった ことがわか る。 宣陽門は 『洛陽伽藍記』序 に 「南面 には四門あ り、東 の最初 の第- 門を開陽門 とい い、そ の西 を平 昌門 といい、その西 を宣陽門 といい、その西 を津 陽門 とい う。 (南面 有四門、東頭第-門日開陽門、次西 日平呂門、次西日宣陽門、次西 日津陽門。)」ノとあ る よ うに、大城 の南増 に築かれた四門の内、西か ら二番 目の門であ り、今 日では漢魂洛 陽城 の南培部分 はすべて洛水 に流 されてい るため遺構 が存在 しないが、1962年 に発掘

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され た宮城 南 門か ら真 っ直 ぐ南 に伸び る道路遺構 は、ま さに西か ら二本 目の大街 であ り、す なわ ち宣陽門に到達す る銅舵街 である と考 え られ る。 これ らの こ とか ら、まず第一 に、発掘 され た宮城南 門を北魂 の問関門 と比 定す るこ とは正 しい と考 え られ る。 そ して この間関門の北 にある大型 台基 も太極殿 と見 ること に問題 なか ろ う。 そ こで問題 は、 これ ら北魂 の太極殿 ・開聞門遺比 の下にあ る魂晋期 の版 築遺構 をそれ ぞれ曹魂 明帝 の太極殿 ・聞間門遺虻 に比定す るか ど うかで あるが、 今 日の研 究者 はほぼ これ を疑 わない といって よい。実 はそれ には も うーっ、曹魂 明帝 の太極殿 が漠 の北宮 にある とす るこ との重要 な根拠 が存在す るか らで ある。 そ こで次 には この根拠 につ いて検討す ることに しよ う。 _lll.・..一■ _ A 『文館詞林』 「魂曹植 穀郵城 故殿令一首」の理解 をめ ぐって 今 日、曹魂 明帝 の太極殿 が漢 の北宮 にあった ことの有力 な証拠 とされ てい るのが、 『文館詞林』巻 六百九十五所収 の 「魂曹植 穀郵城故殿令一首」である。 これ は曹植 が 郵城 に封 じられ た際、老朽化 した漢 の武帝 ゆか りの もの とされ る故殿 を壊 して官舎 を 整 え よ うとした ところ、たまたま重 い病 を得 た。 この とき盛 医が武帝 の崇 りと診断 し た こ とに対 して、その迷信 なることを宣言 し、改 めて故殿 を壊す よ う命 じた令 であ る。 以下 には羅 国威 氏 の句読 を参考 に しなが ら、全文 の訳 出 を試 み るこ とに したい (15)。 令す。郵城 に故殿 あ り名 を漢武帝殿 という 。 昔、武帝 が遊行 を好み、行 幸 した はり たるき むね のき 場所 とい う。 梁や 柄 は傾 き、棟 と字 は崩れ かけ、 これ を改修 して も良 き邸宅 と はな らず 、放置すれ ば倒壊す ることにな る。 そ こで完全 に取 り壊 して官舎 を備 え よ うと した。 ところが余 はその時になって病 に確 り、 あっ とい う間に病魔 に冒 さ れ 、つ い に数 日の間意識不明 となった。後 に病 が癒 えて医盛 が勝手 な こ とを言 う には、漢 の武 帝 の魂 が この病 を生 じさせ たのだ と。 これ こそ小人 の無知 であ り、 人 を惑 わす もので ある。 昔、湯 王の段 が興 る と夏 の王館 は跡形 もな くなった。武 うて な たるき 王の周 が興 る と段 の 台 は遺跡す ら残 らなか った。周 が亡ぶ と伊洛 には一片 の 橡 もな く、秦が滅 ぶ と阿房宮 には一尺 の椙 も残 らなかった。前漢 の道 が衰 える と建 章宮 は撤去 され 、後漢 の霊帝が崩ず る と南北二宮 は焼 かれ た。高祖劉邦 の魂 も未 央宮 を守 るこ とはできず、後漢 明帝 の霊 も徳 陽殿 を救 うこ とはで きなか った。天 子 は生 きてい る ときは必ず名 邦 に住 んで天 下 を治 めるが、死んでなお意識 があれ ば都 を離れて もとの場所 に霊魂 を留 めるはず である。す なわち甘泉 の通天 の台、 雲陽の九層 の閣 こそ霊魂 を育む に足 るので あ り、 ど うして下級 の県 に恋 々 として - 26

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-曹魂太極殿 の所在 につ い て (佐川 ) 朽 ちた故殿 に霊 を住 まわせ るこ とがあろ うか。生者 の感 覚 で死者 を論 じて さえあ り得 ないのに、ま してや死者 の ことを ど うして知 ろ うかO かつ聖帝明王 も豪華 な 宮 閑や寮沢な苑 圏で、その時 に重い負担 とな るものであれ ば、 これ を省 いて人 々 に恵 み を垂れ るこ とがある。 (しか し、いまはその よ うな時ではない し、) ま して や漢氏の天命 は尽 き、大塊 は盛 んに興 り、一入 の人 ・わず かな土地 とい え ども二 度 と漠 の所有 に戻 るこ とはない。故 にいまや威 陽は魂 の西都 とな り、伊洛 は魂 の 東京 とな り、朱雀 門は更地 にな って 「開聞」が建て られ 、徳陽殿 は壊 され て 「泰 極」が築 かれ たのである。況や 下級 の県の朽 ちた故殿 で狐や狸 の穴蔵 になってい るものな ど、何 の価値 があろ う。今 ま さに故殿 を撤去 し殿舎 を修築せ よ。 ただ無 知 の人が勝手 に疑念 を生ず るで あろ うか ら、 この令 をつ く り、戸惑いや疑 い を解 くこ とにす る。 令、郵城有故殿名漢武帝殿、昔武帝好遊行、或所拳慮也。梁栴傾頓、棟字零落、 修之不成良宅、置之終於穀壊、故頗撤取、以備 官舎。余時獲疾、望風乗虚 、卒得慌 惚数 日、後疹而瞥盛妄説、以島武帝魂神生姦疾疾、此小人之無知、愚惑之甚者也。 昔湯之隆也、則夏館無線跡。武之興也、則殿姦無遺基。周之亡也、則伊洛無隻橡。 秦之滅也、則阿房無尺椙。漢道義則建章撤、塞帝崩則雨宮播。高祖之魂不能全未央、 孝明之神不能救徳陽。天子之存也、必居名邦敵 士、則死有知、亦嘗遵造於華都 、留 神於啓室。則甘泉通天之蔓、雲陽九層之関、足以緩神育塞、夫何懸於下願、而居塞 於朽宅我。以生論死則不然也、況於死者之無知乎。且聖帝明王顧宮閑之泰、苑固之 移、有妨於時者 、或省以番人、況漠氏絶業、大塊能勢、隻入尺士、非復漠有O是以 威陽則魂之西都 、伊洛鳥貌之東京.故夷朱雀而樹問関、平穏陽而建泰極、況下鯖腐 殿盛狐狸之短慮者乎。今格撤壊以修殿舎、恐無知之人、坐 自生疑、放鳥此令、亦足 以反感而解迷蔦。 さて、ここで注 目され るのが 「朱雀 を夷 らげ開園 を樹 て、徳 陽 を平 らげ泰極 を建っ」 の一文 であるO『後漢書

孝霊帝紀八 ・中平六 (189)年条 に、 八月戊辰 の 日、 中常侍 の張譲 ・段珪等が大将軍何進 を殺 したた め、虎資 中郎将 の蓑術 は東西 宮 を焼 き、諸 々の宵宮が攻撃 した。庚午 の 日、張譲 ・段珪 等 は少帝 お よび陳留王 を脅 して北宮 の徳 陽殿 に行幸 させ た。何進 の部 曲将 の呉匡 と車騎将 軍の何苗 は朱雀 の閣下で戦 い、苗 は され を破 り斬 った。 八月戊辰 、中常侍張譲 ・段珪等殺大将軍何進、於暴虎貴 中郎絡哀術焼東西宮、 攻諸富者。庚午、張譲 ・段珪等幼少帝及陳留王事北宮徳陽殿。何進部 曲絡呉匡輿車

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騎将軍何苗戦於朱雀閣下、苗敗斬之。 とあ るごとく、徳 陽殿 は北宮 にあ り、朱雀 門はその南門で あ るO『続漢書』 百官志二 ・衛尉条には、 宮液 門は門 ごとに司馬一入 を置 く。 比千石。本注に日 く、南宮の南屯司馬 は平 城 門を主 る。宮門蒼龍 司馬 右耳東 門を主 るo 玄武司馬 は玄武 門を主 る。北屯司馬は 北門を主 る。北宮の朱爵司馬 は南液門を主 る。克明司馬 は東門を主 る。朔平司馬 は北門を主 る。凡て七門ある。 宮液門、毎門司馬一入、比千石。本注 目、南宮南屯司馬、主平城門。宮門蒼龍 司馬、主東門。玄武司馬、主玄武門。北屯司馬、主北門。北宮朱爵司馬、主南液門。 東明司馬、主東門。朔平司馬、主北門。凡七門。 とあ り、また梁 の劉昭の注 に 「古今注 に日 く、永平二 (59)年十一月、初 めて北宮に 朱爵南 司馬 門を作 る と。 (古今注目、永平二年十一月、初作北宮朱爵南司馬門O)」とあ るよ うに、後漠 の洛陽の南北宮 には合わせ て七っの門があったが、朱雀門は北宮の南 門であった。す なわち、上記の曹格 の文は、曹魂 の太極殿 と問関門が、漠 の北宮の徳 陽撃 とその南門である朱雀 門の場所 に建て られた ことを明示 した史料 と理解 できるの で ある。 ところで、『文館詞林』 は唐 の許敬宗が編纂 した一千巻 の文集 であるが、 中国では 早 くに滅び、 日本 の高野山な どに部分的な抄本 が伝 わるのみであったため、一般 に普 及す ることは遅 く、1969年 に 日本 の古典研究会が出版 した

影弘仁本文館詞林』 によ って初 めて広 く利用 され るよ うになった。曹樽 の 「穀郵城故殿令」は 『文館詞林』以 外 の文献 には収録 されていなかったため、 これが史料 として都城史研究者 の 目に止ま ることも遅 くなった もの と思われ る。 目下筆者 の知 るところでは、 日本では渡辺信一 郎氏が二〇〇〇年 の論文で、中国では銭国祥氏が前掲の二

〇二年 と二〇〇三年 の論 文 で太極殿 の漠北宮所在説 を唱 える-根拠 とされ たのが畷矢 と思 われ る価 O 近年 で は安 田二郎氏が改 めて渡辺氏や 曹氏の説 に基づ く議論 を展 開 され てお り (17)、筆者 も かつて同様 にこの史料 を用いた ことがある (i8)0 しか し、いま改 めて この間題 を考 えるにあた り、筆者 は安 田二郎氏の論文 を介 して 『曹植集校注』 を編 まれた逮幼文民の説 を知 り、上記 の史料 をもって漠北宮所在説 の 根拠 とす ることに疑問をもつ よ うになった。逮幼文民の説 は 「平穏陽而建泰極」の一 句 に付 され た注釈 で述べ られ てい るが 潮、それ に よれ ば、曹魂 の明帝 が大 々的 に洛

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-28-曹魂太極殿 の所在 について (佐川 ) 陽宮 を造営 し、昭陽殿や太極殿 を建設 したのは青龍三 (235)年 の ことであ るが、曹 樽 が郵城 に封 じられたのは黄初三 (222)年 のことであ り、その間十三年 の差 がある。 しか も曹植 は太和六 (232)年 にな くなってい るか ら、明帝の太極殿建設 の こ とは知 り得 るはずがない。 このこ とか らすれ ば、 ここでい う泰極 とは文帝が建てた宮殿 の こ とで、明帝の太極殿 を指す のではない、 とい うのである。 安 田氏 は逮氏の説 を批判 し、 「該 『令

の専 らの主 旨はあ くまで も故殿 を穀 した こ とにあ り、新殿 の建築 には及 んでいない ことか ら」(19頁)、上記史料 の問題 の箇所 は 「現 に大塊 の都洛陽では、問関門を樹てるために後漢王朝の朱雀門あ とを地均 しし、 泰極殿 を建 てるべ く徳陽殿 の跡地 を更地 に してい るが、何ひ とつ崇 りな どないではな ▼ いか」(7頁) と理解すべ きである とし、む しろこの史料 は 「黄初三、四年 の時点で、 後漢洛陽宮城 の北宮 あ とに曹魂宮城 を建設す る全体的プランが、基本 の コンセプ トを は じめ として建立すべ き宮殿 ・門閥の名称 と配置 にわたって既 に策定 されていた こと を確認 させ て くれ る」(7頁) と理解す る。曹魂 明帝の宮殿建設 は、曹操 ・文帝期 に定 め られたプランを忠実 に実行 した ものであるとい うのが、安 田氏の力説す る ところで ある。 一方、銭氏 はこの問題 について、曹格 の文章が明帝の太極殿建設 よ り早い ことか ら、 必ず しも完全 に太極殿 と問関門が漢 の徳陽殿 と朱雀門の跡 に建て られた ことを証 明 し ないが、すでに曹格 が大体 において建設 のプランを了解 していた ことを示す と、安 田 氏 と似 た見解 を示 してい る(20)0 しか しなが ら、曹格 の文章は単に将来のプランを述べただけの ものなのだ ろ うか。 ここで曹柊 は明 らかに郵城 の故殿 を壊す うえで何 の崇 りもあ り得 ない ことの明 らかな 証拠 としてあげてい るのであって、単にプ ランを述べたのでは意味がない。 また安 田 氏 の よ うに、建物 を造 るために更地 に しただけと理解す るのも文面か らは無理 がある よ うに思われ る。令 の 目的が故殿 を壊 して新 しい殿舎 を建てることにあるこ とか らす れ ば、具体的に故殿 を壊 して新殿 を建てた事例 を挙 げな くては説得力 をもたないであ ろ う。 よって筆者 はや は り文面の とお り、 「朱雀 門を壊 して 『問閤

を建 て、徳 陽殿 を壊 して 『泰極』 を建てた」と理解 したい。 問題 は ここでい う 「開聞」と 「泰極」を直ちに固有名詞 としての開園門 と太極殿 に 理解すべ きか どうかである。 逮氏が指摘す るよ うに、曹植 がは じめ郵城侯 に封 じられ たのは黄初二 (221)年 の ことであ り、黄初三 (222)年 には郵城 王 とな り邑二千五百 戸 を封 じられ 、黄初 四 (223)年 には薙丘王 に改封 され てい る。 上記 の令 は この頃の ものである く2°。一方、明帝の太極殿建設が青龍三 (235)年 の こ とであるこ とは動 か ず 、それ以前 に太極殿や問関門の建設が準備 されていた とす る史料 は存在 しない。文

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帝時代 にす で に太極殿 と閲関門の建設 が予定 され ていた とす る安 田氏 の説 も令 中の 「開聞」 と 「泰極」を固有名詞 と理解 して初 めて成 り立っ議論である0 しか し、 「開聞」と 「泰極」は果た して固有名詞 で あろ うか。例 えば、『文選』巻 二 に載せ られ た張衡 の 「西京賦」に、漢 の長安の末央宮 とその宮門を論 じて 「紫宮 を末 央 に正 し、峻 関を開聞に表す。 (正紫宮於未央、表暁閑於閣聞。)」とあ り、呉 の静綜 の 注 に 「天 に紫微 官 あ り、王者 は これ を象 る。 紫微 官 の門名 は開聞 とい う。 (天有紫微 官、王者象之。紫微官門名 目開聞。)」とあるよ うに、紫宮 は天 の中心である紫微 官 で あって泰極 に同 じであ り、開聞は紫微官の門名 であれ ば、泰極 ・開聞は王者 の宮殿 と その門名 の代名詞 に他 な らない。す なわち曹植 の令 は 「朱雀 門を壊 して新たに魂 の宮 門を築 き、徳陽殿 を壊 して魂 の宮殿 を建 てた」とい ってい るに過 ぎないのであって、 逮氏がい うよ うに、明帝 の太極殿 ・問関門 とは別物 と見なす のが よいのである。 であれ ば、曹植 のい う 「泰極」と 「開聞 」は具体的 に どの建物 を示す のであろ うか。 与 筆者 は北宮 の建始殿 と承 明門を指す と考 える。建始殿 は曹操が建 てた ものであるが(22)、 最初 に引用 した裳松之注 に見 られ るごとく、文帝 の時 にはこれ を正殿 として用いてい た。 同様 の ことは 『三国志』巻十六 ・王朗伝 に引 く王朗の上疏 に も 「今、建始殿 の前 庭 は朝会 を列す るに足 ります。(今昔建始之前足用列朝倉。)」とある。 文帝の時代 、「泰 極」と称す るに足 るのは この宮殿 を措いて他 にない。承 明門はその宮門 として 「問閣」 に比せ られ るであろ う。 「泰極」 と 「開聞」 もそのイ メー ジが令 の読み手 に 自ず と想 起 され な けれ ば意味がな く、曹植 の令 としてはむ しろこれ を先例 として取 りあげた と 考 える方 が適 当である。す なわち、朱雀門 と徳陽殿 の跡 に築いたのは、闇間門 と太極 殿 ではな く、承明門 と建始殿 であった と考 えるべ きである。 さらに 「夷朱雀而樹開聞」の一句 には も う一つ の問題 がある。それ は北魂 開聞門の 発掘 によって北魂 の門閥の下に曹魂期 の遺構 があることは明 らかになった ものの、そ の下 に漢代 の遺構 は発見 されていない ことである。 も し北魂 の問関門が曹魂 の問関門 を継承 し、曹魂 の問関門が漢 の朱雀 門の跡 に建 て られ た とす るな らば、曹魂 の遺構 の下に漢代の遺構 がな くてはな らない と思われ る。 この よ うに考 える と、北魂 の問間門遺虻 の下にある魂晋期 の門閥の遺構 は魂晋の問間 門ではないか、あるいは反対 に魂晋期 の開聞門であって もそれ は従来 門閥がなか った ところに新 たに宮塔 を破 って作 られ た と考 えるのが適 当である。 そ していずれ の可能 性 を考 えてみた場合 に も、曹植 の 「魂曹植穀郵城故殿令」は、明帝 の太極殿や問閣内 の所在 とは無関係 の史料 となるので ある。 そ していま、 この史料 を上記 のよ うに認 め た場合 、明帝 の太極殿 と問関門が漢 の北宮 に建て られた ことを明確 に示す史料 は存在 しない とい ってよいのである。 - 30

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-曹魂太極殿 の所在 につ いて (佐川) 四 魂晋洛陽 と北魂洛陽の連続性 について 以上のよ うに、曹棟 の 「魂曹植穀郵城故殿令」が明帝の太極殿 の漠北宮所在説 を証 明す る根拠 とな りえない とすれ ば、その場合改 めて問題 となるのが、裳松之の注や鄭 道元の 『水経注

の記述 の信頼性である。 実は裳松之 も鄭道元 も決 して文献 のみによって この説 を構成 したわけではない。襲 松之 については 『三国志』巻 四 ・三少帝紀 ・斉王芳 ・景初三年二月条 に 「臣、松之は 昔、高祖劉裕 の北伐 に従軍 して洛陽 に至 り、史跡 を見学 して歩いた。 明帝が作 らせた 典論石 は太学 にまだ存在 していた ものの、太廟 の門の外 にはなかった。諸々の長老 に 尋ねた ところ、晋は初 め魂 の太廟 を用いたが、のちにその石 を太学に移 したのであっ て、二箇所 に建 てたのではない とい う。 しか し、思 うに この説 は正 しくない。 (臣松 之昔従征西至洛陽、歴観啓物、見輿論石在太学者尚存、而廟門外無之、問諸長老、云曹 初受縛、即用魂廟、移此着手太撃、非南廃立也。霧謂此言為不然。)」とあるよ うに、41 7年 に劉裕 が一時的 に洛陽 を回復 した際、 これ に従軍 して洛 陽 を訪れ 、史跡 を巡 って い るO しか もこの とき太極殿 の基祉 はまだ残 ってお り、牝鶏 の孝文帝が太和十六 (49 2)年二月 に平城 の太華殿 を壊 して太極殿 を建設 しよ うとした際の こととして

『親書

巻九十一芸術 ・蒋少済伝 に 「後 に平城 では太廟 ・太極殿 を建設 しよ うとし、蒋少源 を 早馬 に乗せ て洛陽に送 り、魂晋 の基蝕 を測 らせ たO (後於平城絡督太廟 ・太極殿、遣少 添乗樽詣洛、量準魂曹基虻。)」とあるよ うに、蒋少薪 を洛 陽 に派遣 してその基蝕 を測 らせ てい る。 この ことか らすれ ば、嚢松之 も実際にこれ を 目に したに違 いない。その 上で襲松之 は諸 々の文献 に基づいて明帝の太極殿 が漢の南宮 に建て られ た ことを記 し てい るのであるO 鄭道元 もまた北魂 の洛陽遷都後に河南声 まで務 めた入物であって、洛陽の史跡 に精 通 していた ことは、例 えば 『水経注』洛水条 に 「栄の左 は魂晋の故廟 の地である。今 は悉 く民居 とな り、 も う遺構 はないo (渠左是魂曹故廟地、今悉民居、無復遺塘也。)」 な どと述べてい ることか らもわかる。 この よ うな裳松之や鄭道元が、漢 の南宮 と魂晋 の南宮が仮 に別物であった として も、それ を単純 に混同す るよ うな過 ちを犯す とは思 えない。 に もかかわ らず、両者 が ともに南宮に築かれた と明記 してい るのは どうい う ことであろ うか。 もっ とも、『水経注

の場合 、裳松之の注に 「漠南宮」 とあるの とは異 なって 「洛 陽南宮」と書いてあるので、 これ を近年の研究者 が論 じてい るよ うに、漠 の北宮跡 に 築いた宮城 の南部分 と解釈すれ ば問題 は解決す る。 しか し、同 じ洛水条 に 「宣陽門の

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東 は洛 陽池の所である。池 の東 はかつての平城 門の所在である。今 は塞 がれ ている。 北 は洛 陽の南宮 に対す る。 (門左即洛陽池廃也、池東、奮平城 門所在桑。今塞。北封洛 陽南 宮 。 )」とあるのは明 らかに漢 の南宮を指 してい る。 さらに

漢官典職

に候師 は洛 陽か ら離れ ること四十五里、朱雀閑を望む に、その上 は欝然 として天 と連 なると いい、その高峻なることは明 らかである。 また 『洛陽故宮名

に朱雀閑 ・白虎 閑 ・蒼 龍 閑 弓 ヒ閑があ り、 これ らは南宮 の閑である。 (『漢官典職』髄節去洛四十五里、望朱 雀閑、其上密然輿天連、是明峻極桑。『洛陽故宮名』有朱雀閑 ・白虎閑 ・蒼龍閑 ・北開、 南宮閑也。)」とあるの も漢 の南宮 をい うもので あ り (23)、『水経注』洛水条 にい う 「南 宮」 は明 らかに漢 の南宮 を指す のである。 この ことを踏まえた上で改 めて問題 の史料 を引用すれ ば、 魂 の明帝は洛陽の 「南宮」 を天の太極 に象 り、太極殿 を漢の崇徳殿 の政所 に築 き、矩門を改 め問関門 としたO 昔、漢の世 では、洛陽の宮殿 の門題 の多 くは大家 で書かれてお り察 邑 らの諸子 の書 といわれ ている。董卓 が洛陽の宮殿 を焼いたの ち、魂 の太祖 曹操 は荊州 を平定 したが、その際に降服 した漢の吏部 尚書 の安定の 梁鵠 (字は孟皇)は、師宜官の八分体の書法 に熟達 していたので、太祖 のために 書 に勤 めることで死 を購 った。太祖 はその書法 を善 しとし、常に帳の中に懸 けて おいて愛翫 し、師宜官 の書 に勝 る と思

ってい

た。 「北宮」 の傍題 は、み な梁鴇 の 筆 である。 「南宮」が建 て られ ると、

明帝は

侍 中の京 兆の葦誕 に古家で もって こ れ を書かせ た。 魂明帝上法太極干洛陽南宮、起太極

殿干漢

崇徳殿之改廃、改維門馬問関門。昔在 漢世、洛陽宮殿門題、多是大家、言是察

邑諸

子。 自董卓焚宮殿、魂太祖平荊州、漢 吏部尚書安定梁孟豊、善師宜官八分鰻、

求以

購死。太祖善其法、常仰繋帳 中、愛翫 之、以盛勝宜官。北宮捧題、威是鵠肇O南宮既建、明帝令侍中京兆葦誕以青家書之。 とあ り、問題 の箇所 に続 けて さらに 「北宮」

南宮」の記述 が見 えるが、上述 の ごと くこれ らを漢 の 「北宮」「南宮」 と解 して支障 はな く、む しろ文脈 か らしてその よ う に読むべ きである。 そ して、そ うであるとすれ ば、 この史料 にははっき りと曹魂 の明 帝が漢の南宮 を再建 した ことが記 されてい るのである。 以上の ことか ら考 える と、上述の漢の 「南宮」 と魂晋の 「南宮」が混同 された とす る説 は、あま りに安易 に裳松之や鄭道元の記述の信頼性 を否定 した ものであ り、十分 な史料批判 に基づ く議論 とはい えない。それ どころかむ しろ 『東経注

の記事 によれ ば、明帝が漢の南宮 を再建 した ことが明かであ り、漢の南宮 に太極殿 を築いた とす る 32

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-曹魂太極殿 の所在 について (佐川) 記事 はこれ と十分な整合性 をもっている。すなわち、裳松之や鄭道元の記述 の信頼性 は極 めて高い といわねばな らないのである。 さて、すでに述べた よ うに、近年 の研究では北魂 の宮殿配置 を曹魂期 にまで遡 らせ る考 え方が有力であるが、果た して魂晋 と牝鶏の洛陽の間には どれ ほ どの連続性 があ るのだろ うか。 孝文帝が洛陽に遷都 したのは平城 にその二年後 の太和十八 (494)年 の ことである。

洛 陽伽藍記』序 に 「太和十七 (493)年 、孝文帝 は洛陽に遷都 し、司空公 の穆亮 に 命 じて宮室 を造営 させ た。洛陽の城 門は魂晋の啓名 のまま とした。 (太和十七年、高 祖遷都洛陽。詔司空公穆亮営造宮室。洛陽城門、依魂普啓名。)」とあるよ うに、孝文帝 自身 は洛陽の宮殿建設 にはほ とん ど着手せず、基本的には幾晋の洛陽城 をそのまま継 承 し、 自らは天城西北隅の金塘城 に居住 した。洛陽遷都 の孝文帝 は南朝征服 に精力 を 傾 けてお り、宮殿建設 を喫緊の課題 としていなかったためである。 しか し、孝文帝の死後、皇位 を継承 し本格的な洛陽城建設 に着手 した宣武帝 は、本 格的 に洛陽城 の建設 に取 り組み、有名 な東西二十里、南北十五里 の外郭城 を建設 した。 その際に壷武帝 は、根本部分で魂晋の洛陽城 に新たな設計 を持 ちこんだ と考 え られ る。 その一つ は、囲丘 を伊水の陽に移 したことであるo は じめ孝文帝 は曹魂 の明帝 にな ら って委栗 山に囲丘 を築いたが、宣武帝 は景 明二 (501)年 の十一月 に囲丘 を伊水 の陽 に移築 した。 これ に前後 して外郭城や太極殿 を建設 している。 そ して これ とかかわって も う一つ の重要 な点は、宣陽門も移築 され た ことである。 先 に引いた 『水経注

の記事に、 穀水 はまた東 に向かい、宣陽門の南 を経 る。故の小苑 門である。洛陽に遷洛 し てか ら、移 して ここに置き、問関門 と対置 させ 、南は真 っ直 ぐ洛水 の浮橋 に至 る よ うに した。 穀水又東、蓬宣陽門南、故小苑門也。皇都遷渚、移置干此、封閣関門、南直洛 水浮桁。 とあ り、牝鶏 は洛陽遷都後 に宣陽門を問関門 と対置す るよ うに移築 してい るのである。 これ によって太極殿- 問関門- 宣陽門一洛水浮橋一 囲丘は一直線 に並ぶ ことになった のであ り、恐 らく太極殿や 囲丘の建設 と一連 の工事 として宣武帝時代 にお こなわれた と考 えるのが適 当であろ うO このよ うに北魂 では、太極殿 と囲丘を結ぶ都城 の中軸線が形成 され たのであるが、 この よ うに中軸線 が整序 されたのは北魂 の時代であって、それ以前 に遡 るものではな

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い。見方 を変 えるな らば、魂晋期 にはまだ中軸線 に対す る執着がそれ ほ ど強い もので あった とは思われ ない。北魂 の宮殿配置 は この中軸線 に沿った もので あるか ら、 これ を魂晋の宮殿配置 にあま り強 く反映 させ て考えるべ きではないのである。 一方 、上記で述べた よ うに、北魂 の問関門の前身 に何 らかの魂晋期 の建築があった ことは明 らかである し、また西晋の南宮が宣陽門内にあった とい う郭湖生民の議論 は かな りの説得力 を もつ (24)。上記の 『水経注』の記事 も、問関門につ いては旧来 の も のをそのまま北魂 が継承 した と読む ことが可能である。同 じく『水経注

洛水条 に 「渠 水 はまた枝分れ し、路 を爽 んで南に流れ 、太尉 ・司徒 の両坊 の間を経 る。 これ を銅駄 街 とい う。 旧くは魂 の明帝が銅舵の諸獣 を問閤南街 に置いたのである0 (渠水文枝分、 爽路南出、蓬太尉 ・司徒爾坊間、謂之銅舵街。啓幾明帝置銅舵諸獣手間閣南街。)」とあ ることか らすれ ば、牝鶏 の問関門は明帝 の時代 に遡 る と考 えることもできるOまた 「渠 水 は銅舵街 の東か ら司馬 門の南 を経 る。魂 の明帝は始 め閑を築 こ うとし、崩れ、数 百 人が圧殺 さため、二度 と築 かれ ることはなかった。故 に閑がないのである。 ほ 銅舵 街東、蓬司馬門南。魂明帝始築閑、巌、燈殺数百人、遂不復築O故無閑。)」とあ り、問 関門の東 の司馬 門 も明帝時代 に築かれた ことを示 してい る。以上の ことは漢北宮所産 説 の有力な傍証 とな りえるか も知れ ないo しか し、明帝の洛陽建設 は多方面 にわた るものであったか ら、上述 の建築 を直 ちに 明帝 が青龍 三 (235)年 に築いた ところの太極殿や 問関門に結びつ けて よいか ど うか は疑 問である。 『水経注』 の洛陽城 に関す る記事 は、基本的には当時の渠水 に沿 って 建築物 を紹介 し、その由来 を辿 るとい う記述になってい るため、当然牝鶏が継承 した 部分の記述 が多 く残 り、継承 しなかった部分の記述 は疎かになるo北魂 の問関門や 司 馬 門が明帝 にゆか りがあるか らといってそれがそのまま曹魂 の問関門であったかはな お疑 う余地があろ う。いま可能性 として高いのは晋 の南宮 と太極殿 が宣陽門内にあっ た とい うことであるか ら、我 々は魂晋の間に太極殿 の所在 に何 らかの改変があった可 能性-す なわち南宮か ら北宮に移 された可能性- も考 えてい く必要がある。 因み に、『三国志』巻九曹菓伝附爽伝 に 「大 司農 の沖 国の桓範 はクーデ タ- を聞 く と、太后の召集 に応 じず、偽 の詔で平昌門を開き、剣や戟 を抜 き取 り、

候 を従 え、 南 の曹爽 の もと-奔 った。 (大司農挿図桓範閲兵起、不慮太后召、矯詔開平昌門、抜取 剣戟、略将門候、南奔爽。)」 とあることか ら、段鵬埼氏 は曹魂 の時代 にはまだ漢 の 旧 南宮 は機能 していた と見 る (25)。西晋末 の八三の乱あ 渦 中で も王鮒 と劉聡 は平 昌門 を 攻撃 していた。一方、北魂 の時代 になる と、先 に引用 した 『水経注』洛水条 に 「池 の 東 はかつての平城 門の所在 である。今 は塞がれている。(池東、奮平城門所在桑。今塞。)」 とあるよ うに塞がれて しま うのは、南宮が完全 さこその機能 を喪失 した ことと関係 があ 34

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-曹貌太極殿 の所在 につ いて (佐川 ) ろ う。 この よ うに魂晋 と北魂 の間で も洛陽城 の機能 には変化 があ り、洛 陽の宮城 が二 宮制か ら一宮制- と完全 に移行 したのは牝鶏時代 とすべ きであって、ーこの点か ら見て も北魂 の宮城 配置 を直 ちに魂晋 に遡 らせ ることには慎重 でな くてほな らない ので あ る。 おわ りに 以上、曹魂 明帝の太極殿 の所在 をめぐって、やや迂遠 な考察 を重ねてきたが、 もと もと当初の 目的は、洛陽の建設 をめ ぐる明帝 と高堂隆の立場 を比較 して論ず ることに あった。それ は明帝の宮殿建設 をめ ぐる近年 の研究動 向にひ とつの疑問 を感 じるため である._∫ 明帝 の 宮殿建設 については、近年 、太極殿 の建設 な どをもって魂晋以降の新 しい宮 城 のプ ランの端緒 とす る評価 が高まってい る(26)。 これ は従来賓惨 と決 めつ け られて きた明帝の宮殿建設 の評価 を大 きく転換す るものである。 しか し、明帝 の宮殿建設そ れ 自体 に本 当に新 しい宮城 のプラン とい うよ うなものがあったか どうか筆者 には疑問 に思 える。 その際、 ど うして も避 けて通れないのが、明帝が築いた太極殿 の所在 をめ ぐる問題 である。つ ま り、今 日有力な説 となってい るよ うに、明帝の太極殿 が漠 の北宮 にあっ た とすれ ば、古代都城 プランの二宮制か ら-官制-の発展 の中で、その建設 が画期的 な意味 をもった ことになるが、果た してそのよ うに断定 して よい ものだろ うかoむ し ろ筆者 は、近年 の研究傾 向 とは反対 に、曹魂 明帝の太極殿 は漢の南宮 に築かれた と考 えるのである。 最後 に、本稿 で考察 した課題 を簡単に整理すれ ば、以下の よ うになる。 1.曹樽 の 「魂曹植穀郵城故殿令」は、明帝の太極殿 と開園門が漢の北宮 にあった こ とを証明す る史料 とはな りえない。 2.裳松之 も鄭道元 も実際に洛陽の史跡 を見てお り、史料 としての信頼性 は高い。 3.北親閲関門が魂晋の営門を継承 してい ることは認 め られ るに して も、直 ちにそれ をもって明帝 の問関門 と断定す ることはできない0 4.太極殿 を含む曹魂 の宮殿配置 を考えるには、曹魂 ・西晋 弓 ヒ魂 の間の洛陽城 の連 続性 をさらに検証す る必要がある。 5.太極殿 のみに焦点を当てるのではな く、明帝の宮殿建設 の全体像 を明 らかにす る ことが必要がある。

(18)

な か で も筆者 は 、5に挙 げた よ うに、明帝 の宮殿 建設全 体 を論 ず るな か で 改 めて太 極 殿 の位 置づ け を論 ず る こ とが重 要 で あ る と考 え る。従 来 の研 究 ではや や もす る と太 極殿 に焦 点 が 当た りす ぎ、 明帝 の宮殿建設 の全 体像 が論 じられ ていない よ うに思 われ る。 そ もそ も明帝 が様 々 に取 り組 ん だ宮殿 建設 の 中で、果 た して彼 が殊 更 に太極殿 を 中核 に据 え る よ うな意識 を もってい たか ど うか は疑 問で あ る。 本稿 はそ の前 段 階 と し て の太極殿 の所在 をめ ぐる研 究整 理 に終 わ った が 、 この間題 は改 めて次稿 で 取 り組 む こ と と して、本稿 はひ とまず こ こで潤筆 す る こ とにす る。 注 (1) 中国科 学院 考古研 究所洛 陽工作隊 「漢魂 洛 陽城初歩勘査 」 (原載 『考 古』 1974年4 期 、杜金鵬 ・銭 国祥 主編 『漢魂洛 陽城適地研 究

科学 出版社 、北京、2007年 、506-519 頁 、所収)0 (2)曹樽 の この詩 は、『三国志』巻十九陳思王権伝 の襲松之注 に引 く 『魂氏春秋』お よ び 『文選』巻二十 四に 「贈 白馬王彪 」 として載せ られてい る。 (3)郭湖生 「魂 晋南北朝至階唐 宮室制度沿革兼論 日本平城 宮的宮室制度」 (山田慶見編 『中国古代科学史論 続篇

京都大学人文科学研 究所、1981年 、753-805頁)。 (4)『晋書』巻五十九趨王倫伝 に 「倫又矯詔 開門夜入 、陳兵道南 、遣喝寧校尉 ・牽王同 格 三部 司馬 百人 、排 閣而入。華林令藤林島 内鹿 、迎帝車乗 堂。 遂廃 質后為庶 人 、幽之 干建始殿。」 とあ るO (5)賀業錐 『中国古代城 市規画史』新華書店 、北京、1996年 、45仁452頁。 (6)銭 国祥 「漢魂洛 陽故城 沿革与形制演変初探」 (原載 『21世紀 中国考古学与世界考古 学』 中国社 会科 学 出版社 、2002年 、前掲 『漠貌洛陽城適地研 究』、396-411頁 、所収)0 (7) 同記事 は 『文選』巻 二十 四 「贈 白馬 王彪 」 に対す る唐 の李善注 に も引用 され てい る。 (8)李久 呂 『国家、空間与社会一 古代洛 陽都城 空間演変研 究』三秦 出版社 、西安 、200 7年、253頁。 (9)『文選』 張平子 「東京賦」の 「乃新崇徳、遂作徳陽」 に対す る呉の辞綜 の注 に 「崇 徳 ・徳陽、皆殿名也。崇徳在東 、穂陽在西、相去五十歩。」とある。徳 陽殿 が北宮 にあ った こ とは 『後漢書

に明証 が あ るか ら、 この史料 は崇徳殿 が北宮 にあった こ とを示 唆す る。 (10)銭 国祥 「由問関門談漠魂洛 陽城宮城形制」 (原載 『考古』2003年7期 、前掲 『漠魂 洛 陽城遠沈研 究』所収)、420頁。 36

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-曹魂 太極 殿 の所 在 につ い て ,(佐 川 )

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前掲 「漢魂洛陽城初歩勘査」。

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中国社会科学院考古研 究所洛 陽漢魂故城 隊 「河南洛陽漠魂故城 北魂 宮城 閣間門遺 祉」 (原載 『考古』2003年7期、前掲 『漢魂洛陽城遺祉研究』、685-713頁、所収)。 また 近年 の漢魂洛陽城 の発掘成果 を紹介 した ものに、郭暁涛 (江川式部訳) 「漢魂洛 陽故城 の考古発掘 と研 究の新たな進展」

(

『明大アジア史論集』12号、2008年)がある。 (13)前掲銭氏 「由閣間門談漢魂洛陽城宮城形制」、420頁。 (14)ただ し、`段鵬碕 『漢魂洛陽故城』 (文物 出版社 、北京、2009年)、82-83頁では、北 魂 太極殿遺虻 と魂 晋期 の太極殿 に関係 があるか ど うかはなお明 らかでない として慎重 な態度 を とってい る。 (15)羅国威整理 『日戒弘仁本文館詞林校証』 中華書局、北京、2001年。 (16)前掲銭 氏 「漢魂洛 陽故城 沿革与形制演変初探」お よび 「由閣間門談漠魂洛 陽城 宮 城形制」。渡辺信一郎 「宮閑 と固林-3-6世紀世紀 中国にお ける皇帝権力の空間構成-」 (原載 『考古学研 究』47巻2号、2000年 、『中国古代 の王権 と天下秩序一 日中比較 の視 点か ら-』校倉書房 、2003年、146-180頁、所収)0 (17)安 田二郎 「曹魂 明帝の 「宮室修治」をめ ぐって」(『東方学』111輯 、2006年)0 (18)拙稿 「北魂洛 陽 の形成 と空間配置一 外郭 と中軸線 を中心 に-」

(

大阪市立大学東 洋史論叢』別冊特集号、2005年)。 (19)趨幼文校注 『曹植集校注

人民文学出版社、北京、1998年、250頁。 (20)前掲銭氏 「由閣間門談漢魂洛陽城宮城形制」、420頁。

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21

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『文選』巻 二十 四 「贈 白馬王彪 」の 「謁帝承 明度 、逝格蹄奮垂。」 に対す る唐 の李 善 の注 に 「時植 錐薙丘、鵜居郵城。」 とある。 ただ し、『三国志』巻 十九陳留王伝 には 「六年 、帝東征 、還過薙丘、幸植 宮、増戸五百。」 とあ り、 この時には薙丘に移 ってい た。 (22)『三国志』巻一武帝紀建安二十五年番正月条の裳松之注 に 「世語 日、太祖 自藻 草至 洛陽、起建始殿 、伐濯龍両面樹血 出。」 とある。 (23)『続漢書』 百官志二に 「南宮南屯司馬 、主平城 門。宮門蒼龍 司馬 、主東 門。 玄武 司 馬 、主 玄武 門。 北屯司馬 、主北門。」 とあ り、劉 昭注 に 「案錐 陽宮 門名馬蒼龍 開門。」 とある。 (24).『水経注』洛水条 によれ ば、南宮内に も宣陽門があったが 、 これ は宣陽氷室の門で あ り、『晋書』 にい う宣陽門は大城 の門を指す と考 えて よいであろ う。 (25)前掲段氏 『漠魂洛陽故城』、64頁。 (26)上記 で紹介 した議論 の他 に、明帝 の太極殿建設 を論 じた近年 の研 究 として、吉 田 歓 「漢魂宮城 中枢部 の展開」 (原載 『古代文化』52巻4号、2000年 、『日中宮城 の比較研

(20)

究』 吉川 弘文館 、2002年、18-54頁、所収)があ る。

(21)

-曹 魂 太 極 殿 の所 在 に つ い て (佐 川 ) 図Ⅰ 漠魂洛 陽城平面実測 図

(

漢魂洛 陽城遠地研 究』507頁)

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(22)

図Ⅱ 後漠雄 陽城平面概念図

(王仲殊 『漢代考古学概説』 中華書局、1984年 、18頁)

(23)

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図 Ⅱ 後漠雄 陽城平面概念図
図 Ⅳ 開園門遺地平面、断面実測 図 ( 『 漢魂洛 陽城適地研 究』690頁) 奔噂 職域 柵坑 変革 A A′北▲T十111 Jg取掛 西 手 柄 ' ・地 l L ̲ ̲ ̲ ● ̲ 下 ̲ ‑ 茎 ̲ ̲ 磯 一 ● 奔 一 一 土碍一一一一 一 碁 一 一 拘 一 一 I ̲ 」 碑基拘包碑 。 包碍 京子弼; 持碁拘 地下茎拙奔土 jL̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲+J 亡3 1 0 25 5 0 米 石 庖君増殖q:首線壌坤茸U照射‑ 西図Ⅴ 門地 と閑台 の三期補修使用遺跡関係 示意

参照

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