Title
琉球経済史の諸問題
Author(s)
大井, 浩太郎
Citation
沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 1(1): 31-123
Issue Date
1975-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6641
琉球経済史の諸問題
大井浩太郎
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KotaroOoi目次
第1章序説……・…・………..…………..…52
第2章土地制度・………・…・…・…………・・……46
第1節地割制度..………46
第2節検地………・…・………・57
第5節斗桝.J……….………72
第4節原山勝負………・………・………・…76
第5章資本主義経済の発達・……….…、………81
第1節商業資本の流入・………・………..…….…J、56..'81
第2節土地整理………86
第5節、通貨制度の変遷…………・………..………102
第4節資本主義経済の発達……….….….………109
31第1章序説
沖縄の経済社会を歴史的に瞥見すると、まず文献に見られる限りでは南西諸 島(沖縄を含めて)が、大和朝廷と接触した最初は615年(日本書記)で、 その年の3月被玖人が3人、5月に7人、7月に20人都合30人が帰化して いる。また阿麻弥は683年に、度感は698年に信覚と球美が714年帰化 している。その間702年には多{執が命に従わなかったので、大和朝廷は武力 で制圧した上で、戸籍を作ったり、役人を置いたりし、707年の7月には使 者を太宰府に派遣して、南島人に位を授けたり、物を与えたりしている。(続 日本紀)ところが沖縄本島だけは独立していて、13世紀ごろに久米と奄美が 沖縄に朝貢し、14世紀に宮古、八重山が朝貢して、その領地となっている。 にも拘らず沖縄は14世紀前半に、三国に分裂していて互いに相争っていたが 1429年佐敷の小按司尚巴志によって統一され.1430年には明の皇帝か ら尚という姓を授けられ、中国との進貢を続けている。ところが1441年 (嘉吉元年)になって、薩摩の島津忠国が、室町将軍足利義満から琉球を与え られたと主張し、琉球に対する干渉が始まるのである。当時琉球は1372年 (供武5年)明に入貢して以来、1389年(元中5年)には朝鮮と、140 4年(永楽2年)にはシャムと、いずれも対等の形でそれぞれ通交交易を開始 して、貿易の利を得ていたので1407年(永楽5年)に足利幕府は、琉球に 親書を贈り、1441年には対中国貿易、対朝鮮貿易、対東南アジア貿易によ る利益を横取りしようと狙い始めたのである。しかもこの侵略的な意図は16 09年に決定的な行動となって現われプピ。すなわち徳川家康は、琉球侵略の許 可を島津家久に与えたので、島津は兵船100隻、兵3,000人を繰り出して 琉球を一気に制圧した。それ以来1879年(明治12年)に至るまで、島津 藩・や明治政府は、朝鮮・中国・東南アジアなどとの流通過程において、徹底的 な収奪を敢行したのである。にも拘らず当時まで沖縄の産業は殆んど言うに足 りない程の僅かな生産であって、たまたま新石器時代の貝塚人が持ってきたと 思われる豚が山に逃げて猪になっただろうと考えられるものと、鹿ゴモ類、そ れに後から入ったと思われる粟・麦・豆・米位のものであった。 32「この猪の飼育を可能ならしめた条件として、イモ作が可能であったと考えら れている。そして若しあったとすればヤマイモ、サトイモの類であろうと思わ れる」国分直一b南島の古代文化31ページ。そこへややおくれて粟・麦・豆 ・黍が入ってきて、粟作が複合されたというようにみられている。(琉球国由 来記)つまり先史時代にはヤムイモと粟・麦・豆等が想定されているが、稲作の 導入はどう考えられるか。稲については宝貝を求めて、江南から来島した者が 斎らしたものであろうとする柳田国男氏の想定がある。(稲の日本史海上の道) 15世紀済州島の漁民が漂着したとき、与那国島では米を作り、牛もあったと 記録している。そのとき済州島の漂民が牛の肉はうまいといったら、与那国の 島民は胸が悪くなったものか、ツバを吐いたという。(李朝実録)とすれば、 牛はいても島民は牛肉を食べなかったであろう。それもそのはず、牛は人間に かわって労働するから肉を食べず、神聖なタブーとしていたに違いなし、稲の 籾の跡の残った土器は、石垣島の山原遺跡から発見されている長い籾で、それ が青磁と一緒に出士している。また14世紀末宮古島の人々が.東南アジアに も進出していたことは温州府志に記録されているから.南方系の稲が南方から 入ってくる可能性は十分にある。「しかも沖縄農村の発達過程から見て、それ 程早い時代に稲が宝貝との関係で登場するとは考えられない」(国分直一、南島の 古代文化41ページ)そうすると米も麦・粟b豆も」坊から入るチャンスがあったのではな ”0もそれは須恵器が導入される時期であろうと考えられる。8世紀頃、籾跡のrついた須 恵器が奄美まで発見されているからこのI寺期に稲作力滝美・沖縄に持ちこまれた可能{生力栃 為つまり、7it縄の稲作文化ま南北両文化の融合として理解されねばならぬ。とか く8世紀頃に漸く稲が入ったという想定のとおりであれば、イモとアワの文化 はそれ以前に見られなければならない。与那国島や西表島では、15世紀に済 州島の漂民の記録どおり「スキを造らずコヘラを用いて、田をホジクリ、草を 去けて以て粟を植う」とありd掘棒耕作が営まれていたことが明らかである。 同漂流記によると、西表島には巨大なヤムイモが作られていたことが書かれて いる。「ヤムイモあり、そのP長さ尺余人の大きさに如し<、両の女子が共に1 本を載つ、斧にてこれを断ち烹て之を食う」とある。この田園風景から判断さ
れるように、素朴でおおらかな沖縄の島々の人々に経済活動はどのように展開
33されていっただろうか。もちろん経済とは金を儲け金を増殖するための手段や 人間活動だと称されてきた。これが各地域においてその手段や活動力澳なって いた。西洋の古代社会では大家族経済の中で、奴隷を巧みに操縦し、使いこな す一種の技術が経済と呼ばれていた。中世社会でも経済と貨殖の道とは同義で あり.従ってカトリック教会は利子の収受を禁じ、営利によって導かれる経済 活動はいやしむべきだとされてきた◎にも拘らず商品経済の発展はこうした宗 教的抑制をはねのけながら、営利のための人間活動に次第に広い活動分野を拓 いていった。いわば奴隷を使いこなす技術から貨殖の術へ、また近世国家の徴 税技術への発展は、商品生産の発展にそったものであった。どうしたら速やか に金を殖やし、利子を生むことができるか、また国家の場合は、どうしたら多 額の祖税を人民の反抗なしに吸い上げることができるか、人々の関心はそこに 向けられた。そして近世の宗教改革は、人間の営利的活動に対して、宗教的な 認容を与えたのであった。少くとも己れの日々の職業に没頭し、それに全身を 打ち込むこともまた、神によって救われる道だと考えたことは、人々をして始 めて現世の営利活動にいわば大手を振ってとびこむことを可能にしたのである。 こうして資本主義の精神は何も資本家だけに限られた精神ではなく、労働者の 場合もまた彼等が近代的な労使関係のもとにおかれた賃金労働者である限り例 外ではあり得ないのである。すなわち現代の経済生活は消費を媒介として.不 断に繰り返され循環するもので、しかもこの循環は人間と物、或いは人間と自 然の直接的な交渉や関係を中心とするものではなく、むしろ物を中心として結 ばれる人間集団と人間集団との関係といわねばならぬようになる。例えば、農 民が自分の土地を持ち、それを自分の一家で耕作している場合をみると、沖縄 の場合は一戸平均四反であるから、貧農ではあるが、土地が自分のものなので 生活はどうやら安定している。播種から施肥除草刈入れまで全部自家労働で行 なわれ、収獲物は若干の種籾を除いて.翌年の収穫期までの食糧にあてられる。 麦も豆も野菜もすべてが目家消費にあてられる。だが今日では完全に 外部との交渉が断ち切られ、封鎖された農家の生活は事実上存在しな い。とすればそれに応ずろ現金支出があるわけであり。貧農であつ’ ても現金支出に見合う現金を農産物を売って準備しておかねばなるまし、農家 34
と外部社会との経済的なつながりを断ち切っておれば.やれ価格の変動だの、 物価高騰だの、米価対策、肥料の値上がりや.農業組合の動向など、日常の,最 大関心事であるようなことも、封鎖された農民とは直接関わりをもたない。 ただ自然条件である天候が、病害虫、早魅鴎風だけが気にかかり、それらだけ が最大の関心事である。すなわち人間と自然との直接的な技術的つながりがす べてだといえる。しかしこうした経済生活は、廃藩置県のころまではどんなに 経済外的強制が強烈であっても、どうやら可能ではあった。しかし今日の資本 主義経済における経済生活を理解するには正しい考えといえまし、現代の経済 生活の物は単に自家消費用の農産物ではなく、最初から商品として販売の目的 で生産され、市場で売られなければならない生産物ということである。そして 生産された物が商品である場合には、それは交換されなければならず、市場で 貨幣と引換えに販売される。そのうち生産財は企業によって、消費財は家計に よって買いとられなければならぬ。つまり生産した生産物が商品の形をとると 人間と人間との集団的な関係として、登場するようになるのである。仮に小作 農の場合を見ると、収獲の約半分は地主の所有となるが.地主はもちろんこれ を全部自家消費するのではなく、売り払って金に替える。この売られた収獲物 は商品である。すなわち小作農の場合には、士地の賃借料として収獲の半分が 地主の倉庫に納入されるから、米という商品をめぐって.地主と小作農民とが 土地の賃借料地代の支払いという形で関係づけられ、地主集団と小作農集団と の関係が-つの社会関係としてつくりあげられていく。また小作農も地主に納 めた米の残りの一部を売却していくから、小作農と商人とのつながりが生じて くる。このように商品によって結ばれた広大な社会は、その生産と流通と分配 と消費によって結ばれる社会であり.それ自体が一つの秩序である。 そこで農民が生産手段としての土地を持っているかいないかがすべての経済生 活の幸不幸の岐れ目になるのである。言わば地主にどれだけの小作料地代を払 わなければならないかが、農民の生活を左右するし、米一袋が幾らで売られる か、野菜.魚がいくらで売られるかが、地主又は網元の懐具合を決定するので ある。他方では1kgの米が幾らするか、野菜や魚がいくらするかが、又賃金労 働者や俸給生活者を貧乏にもし、生活を楽にもする。実際に生産物が商品にな 35
ると、その流通は貨幣によって媒介され、地正や農民が充h払った生産物の代 金が、農村に入りこみ、或いは肥料代となり、或いは農具の購入資金ともなり 税金や借金の支払いにあてられる。裕福な地主なら株券や社債を買い入れたり それを足場にして地方銀行の役員におさまったりする。要するに、貨幣経済の 農村への侵入は、自給自足の農家総済を分解するだけでなく、資本主義産業の ための広大な市場に転化するのである。 一般に、資本主義緤済の場合には零細農民は一家をあげて農村をあとに、農地 を喪い、耕作権をすてて都市に流出するのが普通である。そこで彼らは都市の 賃労働者となり、さまざまな苦労を経て、漸く一家をかまえるようになるので ある。すなわち農地をすてた労働者は近代工業の発展するにつれて、次第に自 由な賃労働の給源になっていくのである。ところが沖縄の場合は農民離村が本 来的な形で遂行されるのでなく、いわゆる農奴的な農民はそのまま狭い土地に 小作農や零細農として、しばりつけられたまま、独特な土地制度や薩摩と琉球 王府からの二重搾取によって身動きがとれないままに、商品経済の中にとびこ んでしまったために、農村の近代化がおくれてしまったのである。すなわち、 農業経営の近代化や合理化がおくれた上に、他方では工場工業のための自由な 賃労働が変則的な形でしか提供されなくなったのである。
「今日では、工場労働者は過剰な農民ではなく、賃金労働者であり、資本との
雇用関係の下におかれており、大企業の場合でも彼等を計画的に技術養成を行ない、長期雇用の形で企業に結びつけるよう労務対策をするのである。また資
本主義生産の初期の段階においては、農村では零細農民を追放した後には、地
主と貧困な日雇労働者とが現われ、資本主義的農業がはじまり、都市では問屋 制家内工業が支配的な生産様式となるのであるが、この段階では生産力はまだ道具と職人労働者の技能に依存している。」(大内力著経済学参照)
道具を手にして働く職業的労働者の技能または経験がすべてを決定している。
にも拘らず、沖縄の資本主義的生産が著しく、たちおくれて停滞性を長く続け破行的であったのには幾らも要因があった。すなわち①独特な士地fl;{渡であり、
シ②溺掌侵入以来の極端な収取政策であり.また農民の天災による③諦観的な生活や
④資本が皆無の状況下Iとあったことであった。こうした沖縄の経済社会を歴史的
36に見ると「171ft紀以後農業生産力の発展の結果.農村内部に発生した商人層 を商業から遠ざけることによって、貢租の基礎としての農業生産の維持と分解 の阻止を目的として、さまざまな指令を出してきた。 このように、役人層や薩摩藩の指令は農民を商業から完全に遮断し、自らは都 市生活を営ん焔そしてその都市生活を維持するためには、貨幣にたよらなけ ればならなかった。」(第3章参照) そのためには現物として農村から徴収した年貢を貨幣にかえねばならなかった。 もっとも貢租のおもなものは米・粟・麦。豆・上布等であるが、これを給地か ら貢納されると、まず那覇や泊に廻送する。また貢租や夫役の布達令をもたら すには交通機関の整備も必要である。だから各間切番所には、官馬の制度があ り、馬番という役職がおかれるようになった。その結果宿道の整備が行なわ れ、また山原や地離れの貢納は年2回廻送され、先島には春立廻船、仲立廻船 が通航するようになった。それでもその公務が余りにも重要であったために、 廻船の船頭役の星功は実に大きかった。 このように、貢租の商品化の機構ができあがり、商品流通が拡大していくと、 農民は自然に商品経済の中にまきこまれていくのである。 このような過程をへて那覇の商業町を中心に市場が著しく拡大していくのであ るが、この那覇市場の創設はおそらく明初36姓(1392年壬申)が渡来し てからのことであろうか。彼等の多くは舟航に従い、その家族が留まって、市 販に従事したようで.これらのものが、市塵(店)や露店に顧客をまって、那 覇町の濫傷になったものと思われる。 李朝実録によると「江南人・南蛮人皆来商販。往来不絶」とあり、その上市中 で販売される物貨には縁段絵帛芋麻布、生布.楠剪刀、針、蔬菜、魚、塩、南 蛮詞斑絵6斑綿布も檀香、白経黒緯綿布、藤唐.青黒白綿布磁器をあげている。 また同書によると、「唐人の商販のために来り居る者あり、その家は皆瓦を蓋
い宏麗内には丹朱を施し、堂中には皆文椅を譜<」とあり、久米村の唐栄人が
支那風の店舗をかまえていたことが知られる。慶長以後の冊封使張学礼の記事によると「天使館の前に百畝ばかりの空地あり、
毎日午后になると、婦女、老少筐を携えて筥を掌げてここに集り、貿易をなすとあ
37いしげえまち b」これが据筐町であり、向象賢の時代にはこの据筐町の外にも、汪揖の記録 によると「大勢の婦人が頭に物を載せて集まってきて、地面に列んで売ってい る。その商品は油・塩・野菜の類で、中にも豆腐蕃薯が多く、紙扇、木楴.糸、 煙草、草履があり、米は売っていない」とある。すなわち汪揖渡来の頃には米 はすべて上納物となっていて、一般の常食は蕃藷であったことを物語っている。 また徐葆光の記録によると、市は辻山の沿岸坂上にあって朝夕2次の市がたち 集るのは女ばかりで、商品としては魚・蝦・薯・豆腐・木器・磁陶木硫、草報だ けとある。しかし宝暦6年(1756年)に来琉した周煙の記録によると、商 品は魚・塩・米・蔬菜。冬瓜芭蕉布、綿布とあり、米が商品として市場にあら われていることは注目すべきことであって.おそらく士分の者が禄として得た 米を商品として市販していたことを知るべきであろう。 また土地については.沖縄は穀物の収獲高から土地を計ったとの考証もあり. (南島論叢、宮里栄輝論文)これからすると、慶長以前には厳密な検地と可土 地を基準にした貢租のとりきめがなかったことはほぼ確実である。にも拘らず 薩摩人によって実測されたという慶長検地が.検地条目を度外視した杜撰なも のであるだけに、薩摩への貢納は殆んど不能であった。従って慶長18年(1 613年)には代銀32貫目にかえられたが、これとて琉球王庁では借入など してやっと支弁している始末である。すなわち、竿入当初の琉球の知行が8万 9千86石と定められてから、10年後の元和6年(1620年)に米で貢納 することになったが、それも「高一石に対して9升2合の高を納めよ」ときめ ていながら、分量については年々きめることとすることに落着いている。 そして更に十余年後には「知行高を増し、ついで先島には人頭制を原則とする ようにせよ」という。薩摩藩にしてみると、各島各間切毎に検地はしてあると 言った手前もあり、これまで地割替制度によって、ムラ毎に徴していた穀物の 納額を据置にして、ただ各村の草高に割って、高一石に対する税率を定めてい るところに大きな手落ちあるのである。これによってみると、慶長検地とは地 割制度によって地積の広さを知り.検地条目による間竿の長さに換算して、高 を定免法によってし、収奪を厳にするという姑息な方法であったと見ることが できる。何故に検地の目標通りに竿入をしなかったか.これについて奥野彦六 38
郎氏はほN次のようなことを言わう、たことがある。「沖縄では人間社会の内面 的繋がりが、それに照応する程分化整備されていなかったからだ」一南島の原 山勝負制の構成24頁。そうして労働促進を厳格に法制化することによって、 共同体社会の崩壊を企てたのである。例えば1680年(延宝8年)詮議綴の 覚によれば「諸間切の百姓中、上納や地頭の作得について不足し、他から借物 し、利が重なり、身売したいという者があって、間切の被れになるから.この 際は地頭代から両惣地頭に申出て、次書を申し受けて借りるように定められた い」とし、又「百姓が常々耕作を油断し、造作がましき儀共があって、そのよ うになるのでいよいよ油断のないよう仰付けられ、後日身売するような者が出 れば、不足分はその所の百姓中に割当すれば、互いに差引し油断なく調えると 存じられる。右引合のため田地奉行が折々見届けるよう仰付けられたい」旨上 申されている。これらの指令はすべて薩摩藩の命によって、琉球王府でつくっ たもので.いわば同族団によって結成された組の責任を強化する方策であった のである。すなわち「向後組中にて相糺し早々申出候、若致油断大分成立候ハ ハ.組中迄其科可由付事」といい、さらに山野の仕明も許可されていながら次 のような指令も出すのである。「山野大粧仕明候ハ、採薪木、牛馬飼之不如意 罷成意諸人之為不罷成」といっては差止めてしまう。にも拘らず、国頭中頭 地方については「焼山仕開して用材も達しかねているから、位持の中から山当 を定め巡回せしめ、空間があれば、男女1人につき小松1本宛を植付けさせる よう厳達」している。こうして1682年(天和2年)には耕作の指令のため 「諸間切主取立置候弥無油断毎々作場致見廻、田畑之耕大方仕告於有之、高 奉行方披露可仕事」とする一方、間切からの身売の訟が絶えないので「向後は 所の捌理、耕作当で新米を判らぬ前に、出来米を見立て上納差引するよう」と 命令している。つまりこの頃までは納税も検見注と定免法を折衷して、採用し ていたことが明らかである。そして宝永6年(1709年)から島津藩に対す る貢納がほ蟹確定してしまうと「高一石に付運賃を加え、1斗1升四才を添え て計1万3百69石余の年貢ときめている。にも拘らず以後は島津藩の御都合 次第で「砂糖焼酎上布等もすべて米に換算して代納差支なし」ときたり、大阪 市場の砂糖相場が高くな島と、特に砂糖のみを代納高にきめて、貢納を命じた 39
bすることもあった。なお、享保7年(1722年)島津藩内で最後の大々的 な検地が行なわれたが、その際も沖縄に対しては、従来の杜撰な検地帳を土台 にして.それに耕地面積の増加と、農耕技術の向上6人口の増加を見越して、 琉球の知行を94230石余に増額してしまった。(内所帯高55,092石、 給地高39,037石途)つまり薩摩に対する貢納額も418石増加しているが、 なぜ所帯高に5,092石の増加をしているか、これに対して増加高は「知行の 増加による比率である」といっているが、この知行の増加の内訳については殆 どふれず、ひたすら耕地面積の増加によるものというところに政策上の押付が あったことを知らねばならぬ。そのために百姓も-石につき4合7勺2才の掛 増をされることになった。これではどう立働いても貢納は覚束ない。間もなく
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身の法司であるところから、薩摩の察温に対する風当りがいやに強い。 そこで享保17年(1732年)には、各方面の分限道義を知らせるために、 御教条を出し、翌々年1734年には農務帳を出して生産の増加を計って窮場 を凌ぎ、一方あきらめの思想をふきこんで精神革命をなしとげようとした。 註一(国書問題とは,察温が法司官になったとき所謂和漢不偏の政策をとって、漢文組 立方の役職を新たに置いて、漢称の書式を奨励した。それが元禄以後の風尚にも応じて、 幕府や薩摩向の書式にも貴国、大君、台聴などの文句が使われるようになった。 その結果、正徳の新井白石の目にとまり、散々警告を与えられて、やっと幕府向の書式は 先例通り、和様にすると申開きをして事なきを得た。そこで察温は直ちに豊川親方、惣慶 親方を薩摩に派して、薩摩の裕筆日高治右衛門為一について、曽我流の書式を学ばせるこ とになった。これが国書問題といわれるものである) こうした社会,情勢のもとにあっては、規範もとかく冷厳化し易い。察 温が御教条を出した直後には、耕作当が月に巡検下知をし.農民がそ れを受けつけぬようであれば、總耕作当.地頭代に申出るよう指令さ れたりしている。 さらに、明和5年(1768年)には、文字通り鞭による耕作駆立 40を敢て訓令せねばならなくなった。(南風原間切耕作働方締方帳)、先島に は従前通り本島とそっくりの厳達がなされ、1768年(明和5年)には特に 検使を派遣して(検使与世山親方)宮古、八重山規模帳がそれぞれ通達されて いる。この規模帳の土地に関する指令によると、宮古、八重山とも「田畑の持 不足の者には持過の者から配分するか、近辺の山野を切開くかして親疎なき ようにせよ」といい八重山規模帳の第]条では「頭懸の上納地であるから正 道に配当せよ」とし.頭はずれや、死生ができ次第「年々配置替してば手むづ かしくて永続しまじく……」などとあり、また宮古規模帳によると.年令によ る上・中・下の各1人分の畑の広さを定め、年々の配置替を差留めて、過不足 の調整だけにとどめている」とあるから.ごく一部の例外を除いて地割制度は なかったと思われる。(八重山では田は毎年割替える定めで論った) このような旧経済制度から脱皮して、産業の近代化に進んだのは明治10年代 からである。そうして緩慢ながら資本主義経済が成立しはじめるのが明治32 年から着手された土地整理事業を契機としておこったものであった。 その導入に大きく貢献したのが寄留商人と尚家を中心とするそれを取巻く首里 士族層であった。しかも彼等が最も注目したのは沖縄における砂糖生産に関る 各種の企業であった。 それでは砂糖製造に企業家が注目した要因とは何であった力も先ず砂糖の来歴 からみてみよう。1623年(元和9年)はじめて製糖法が沖縄に伝わってき た。この製糖業はその後急速に発展の一途をたどり.製糖法が伝来後24年目 の1647年(正保4年)には貢糖として、島津藩に黒糖を納めるまでになっ た。糖業が急速に発達したのは沖縄の気候風土が蕨作に適していたのと、甘薦 にかわるべき換金作物がなかったためと考えられる。貢糖は最初王府が島津藩 に対する借金償還策として考え出されたものであったが、島津藩は黒糖の利が 莫大なものであることに着目し、借金償還にあてるための、島津藩に納める黒 糖を一時的なものでなく、これを永続させるため貢米の一部を砂糖で代納させ ることにした。これがすなわち貢糖である。 その他、王府は雑石代の租と相殺して砂糖を徴収し、残余があると一定の代価 で買上げる買上糖の制度をも設けることにした。王府は財政補強源として.砂 41
糖に目をつけ、王府の手による買上げが終るまでは自由に販売のできないよう な仕組みをつくった。つまり、王府は農民から砂糖を不当に安い値段で買い上 げ、それを転売してその格差からくる利潤によって王府の財政を補強したので ある。にも拘らず王府の経済政策はどこまでも自給自足にあって、食糧を確保 することはもっとも大切なことであったのである。従って、甘薦作付面積の増 加によって食糧確保に与える影響禿考え.王府は1697年(元禄10年)に
沖縄の甘薦作付反別を制限し、凡そ1,500町歩内外におさえたのである。
そして糖業に関する監督機関を詔け、甘薦栽培砂糖製造の取締りをきびしくし
た。例えば、貢糖に適しない黒糖が製造されると.他の間切から貢糖に適する
砂糖を購入してでも納めろとおどしをかけるのである。だから農民は貢糖納入
のために砂糖前代をかり受け、借金を背負い込むようになる。いわば貢糖買上 糖の制度は王府の財政補強のためであり、ひいては島津藩の財政建直しのため の手段に他ならなかったのである。この慣例は法令にすりかえられて、明治30年代の砂糖の取引法には前代法と
入札法、競売法となったのである。前代法とは、小生産者が砂糖製造資金に堪えられないからということで、次の
製糖の季節が来る前に、高利貸や砂糖商人から製糖を引当てに金を借りるので あるが、これが極端に高利である。そのために産を破るものが続出する有様で あったo入札法とは、村や組の生産者が製造した砂糖を競争入札によって取引きをする
方法である。 また競売荘iとは.砂糖商人の仲介人(明治35年頃には約200人の商人手先がWと)力製糖期にHd糖屋をかけめぐり、僅かの日用品と砂糖を交換したり買い集めたりした。
この仲介人の中には鹿児島から移住したおちぶれ士族が多かった。(第3章参 照)前代法は、18世紀初頃からすでに行なわれていたらしく、1735年(享保
20年)の西原間切公事帳には次の通り記録されていろ。「諸上納の現品を調 べるのに差支えの節は.砂糖前代を下さるよう願い出れば砂糖代価の3分の1 程の前代を下さるようにする」とあるように王府時代の砂糖は農民にとっては 42殆んど「1由に允寅のできない仕組みになっていたようである。 文久・ソL治ごろになると、大和商人が砂糖売買に介入していて、大和商人から 砂糖を引当に砂糖前代をかし〕る農家が多かったことは、1870年に記録され た南風原問切惣耕作当日記にも「砂糖前代を借りるときには御所帯方、御用意 力から借りるようにせよ」とあり.また’877年(明治10年)に間切役人 の申渡証文にも「百姓どもが焼過砂糖を引当てに、大和商人から前代を借り受 け、返済ができないため間切の上納糖までも大和商人に引取られ、与や親類、 村が弁償する破目になり、なかには家内離散に及ぶものも段々あるので、大変 困った奉句その取締りについて内務省出張所に相談する始末になっている。 同じころ.東恩納村締向条々によると「焼過糖を引当てに内々に砂糖前代をう けとるときは流刑に処す」としてある。ときには上納糖まで砂糖前代の抵当物 として大和商人に引取られることがあった。つまり大和商人を厳重に取締れな かった王府は.全く逆の方法で砂糖前代を借りる百姓を取締るという手のこん だ悪策を敢てとったのである。もとより砂糖前代の借手貸手の関係が王府時代 から同定されたものではなく、経済の発達につれて変化している。すなわち王 府時代の砂糖前代は王府と農民間の関係があったのに、幕末から明治にかけて は、百姓と大和商人の関係になり、廃藩置県の頃から高利貸や地方資産家が加 わった。その上農民は納税に必要な貨幣を得るために換金作物を作らざるを得 ないから、大損をすることを覚悟の上で砂糖前代を借りる外なかった。 砂糖の利廻りが多くなると.商人はこの砂糖前代の貸借方法をいろいろ考えた。 例えば、
(1)-挺6.7円の砂糖相場のとき、3,4円の前代を貸し‘製糖期には相場
と関係なく、一挺をひきとる。(2)製造される砂糖を引当てに、前代を貸し与え、元利とも製造された砂糖で
清算する方法。(3)元金拾弐円を貸し、それに対する利子として砂糖一挺を提供させる方法o
註一(この12円中には肥料を与えて肥料代の残高を貸したので実際の現金受取高は5 円であった。) (4)旧8月頃を返済期限として金を貸す。その際2円貸すときは利子の分40 43銭を差引き、農民には1円60銭渡す。期限がくると2円を返させる。旧8 月は農村の金づまりの時期で、返済不能になるから、それを見越して返済元 金を2円40銭として証文を書きかえさせる。それに月3分という不当な利 子をつけるから製造した砂糖はごっそり持去られるという手法である。 以上は、貸付方法であるが、どれもみな農民を零細農としてくぎ付けにする 経済外的強制であった。おまけに沖縄の砂糖取引をめぐる農民を保護する施策 は殆どなかったといってよく、その結果、農民は糖商高利貸の毒手にかかり、 砂糖前代の名ですっかり買いとられて[まった。糖商は糖商で、彼等の手先と なる仲介人を地方に入りこませ、砂糖を買いあさり、その上農家の金融逼迫の 時期をみはからい、農民に砂糖前代を貸しつけるという有様である。 明治34年琉球新報の記録によると「伝聞するところによれば糖商の資金は少 くとも、其の2割は所謂前代に投入せらるるならんと云う。而してこの前代な るものは世界無比の高利にして、本県産出糖の5分の1はこの狡猪なる方法を 以て買いとられ、農家の迷惑甚だしきものなり、この情勢近年漸次盛なるとの 事なれば.…..」というように、明治30年代には砂糖前代が汎<行なわれてい た。当時島尻郡の砂糖月報第2号によると、産糖高に応じた戸数は次のとおり であるo
iJii巽壽ij二
1675戸 一一 2挺 1挺 3挺 5挺iLrii器-回
6~10挺 21~25机 26-30モ 31~35挺 20 11戸 9P 5挺以下の生産農家と全糖農家との割合には50%に近い数字となり、多く の小生産が高利の砂糖前代の取引によって利を奪われていたのである。その結 果小農は高利の金を借りて税金を納め.砂糖の全生産を収奪されるという悲惨 な情況に陥るのである。 44また5挺以上の生産者と雌も金融逼迫の時期になると、砂糖前代を借り受けな い者はないという有様である。それをよいことにして、糖商以外の地方資産家 シェーキモチ (この多くは仕明地持である)は、4.5人で組合をつくり.己れの地所抵当 に銀行から借金をし.その金を5割以上の高利で農家に賃付けるのであるから 土地整理以後の仕明持というのはおよそ高利貸の類いであったといわれても仕 方があるまい。これが明治期の農村社会でもあったのである。 註一沖縄の歴史を書きかえた薩摩の徒15条(慶長16年)(1609年) 1.薩摩下知の外唐之銚物停止たるべきこと。 (唐貿易の利を一手に掌握しようとする野心が歴然としている) 2.由緒ある人と錐も御用に立たざる人に知行をやるな。 (久米人を優遇するなという野心がありありと読みとれる) 3.女房衆に知行をやるな。 (巫女や王女に知行をやるな、神官として土地を官給マリ筍rしばよい) 4.私の主頼るべからざる事。 (主従関係を結ぶな。琉球の人民はすべて貢柤納入の農奴である) 5.寺を多く建てるな。 (寺調制度をたやすく施行するためには、薩摩の如く-宗派を信仰せよ。禅宗以外の異 教は一切法度である。キリスト教禁令のためには各間切毎にキリシタン帳を作製せよと いう意である) 6.薩摩の御印判なき商人を許すな。 (中国、南方との貿易を禁じて、薩摩が貿易の利を独占するという意である) 7.琉球人を買いとって日本へ渡るな。 (沖縄人を奴隷と心得ての徒であると同時に、土地に緊縛して貢租納入の具に供すると いう規定である) 8年貢公物の奉行置目の如く取納致さるべきこと、 (年貢公物や収納は徒通りとし此にも取納を違えるな) 9.三司官以外の命をきくな。 (三司官は薩摩の番犬であるぞという規定である。さればこそ国王をも国司と唱うべき ことというのである) 10.押売押買をするな。 (薩摩の命による物価統制策に追随せよという意に外ならない) 11.喧嘩口論をするな。 (もの言わぬ農民をつくって、ひたすら農耕に精出して働き、貢納を遅滞なく収行な えという意である) 45
12.百姓、町人に規定の諸役の外無理非道をするな。 (農民から過分の収奪をして、疲弊せしむるなという意である) 13.琉球より他国へ商舶一切遣るまじきこと。 (琉球人は南洋、中川への貿易は一切法度であるぞという意である) 14日本の京桝の外用うべからず。 (京桝は標準桝であるに拘らず、在来の細口闘桝よりiii目が多い) 15.ばくち僻事有るまじきこと。 (農村行事は一切やめて、ひたすら農狐とはげめよという意である) 右条々違犯の輩あるに於ては厳科に処すべきもの也。 慶長16年卒亥9月19日兵部少輔伊勢貞昌
第2章土地制度
第1節地割制度
おもろ時代初期の社会は10数戸単位で、丘陵の小高いところにマキヨと称 せられる集落を形成し、その集落は根屋を中心とする血縁集団によって維糠さ れていた。従って祭礼も農耕儀礼と密接に結びついていた。彼等の信仰の対象 はセジ或はケとよばれる不可視の霊力やお嶽、泉川、火の神などのようなもの であった。すなわちこのマキヨが地割の単位であったことは、次の史料によっ て知られようC l皇方47,419坪5合 但跡々地割替之時東江地、西江地打込(組合)を以ておひや(統肋帳にて 利折取究(差引)被置候得共今般地謝'1替之儀両方相分り候に付、東江地は總て 村近候上下畑勝にて坪相増、西江村之地者上畑多候故坪相縮候に付、役々島中 末々迄熟談を以て本行之増坪東江村下畑之内よ'')西江村越、利折同断之筋相庁 付受取申候事、従来この島では東江、西江の両村共同で地割を行なってきたが 今回特に土地を区分して各村別に地割したという意で、以前は両村一単位で地 割していた。-1829年(道光9年)西江村畝寄帳 従って地割の原初形態は、各一村に限られ、地積の広狭によって、削当地の広 狭も異なり、久高島の如きは久高、外間の2村より成立せるに拘らず、2村共 同して地割を行ない.また慶良間島も渡嘉敷、小繊の2村で共同地割そしてい 46る。これは血族共同体による村毎の地割が、人口の繁栄につれて、割当の面倒 さ加減を考慮しての処置であった。この傾向は1899年(明治32年)士地 整理令が出て、最後の地割替の際に顕著にあらわれている。このとき沖縄本島 の村は563村あったがど゛の村も数個の地組に分かれ、組の成員が一門又は 親族に限られていることによって実証される。この地組は集落成立の当初、草 分の本家を中心として、一門のもの同志が開墾された地積を平等に区分し、共 同労作によって耕作したのに始まるのである。ところが17世紀初頭思いがけ い薩摩の侵入をうけて、従来の制度が改められ、その機構が班田制類似の形態 をとるようになったのである。すなわちこのころになると土地制度は、百姓に 土地を配分し、時々その割替改易を行なって、人口の移動及収益の均等に対応 するよう制度化されたものといえる。旧制度によると沖縄では本来土地の私有 は認められないようになっている。人民は一定の規格の下に土地の使用を認可 されるだけであって、勿論売買譲度質入等の権利はない。唯僅かに開墾地に対 して私有が認められ、その売買譲度質入の自由を与えられたに過ぎない。 士地の大部分に当る百姓地は農民に対し、人口又は貧富の差、耕地の遠近、交 通の便等の諸条件を斜酌してこれを割賦配当し、耕作収益をせしめたのである。 従って収税の法も村が連帯責任をとり.賦課された税額をその間切が村へ、村 がその住民へ頭割に負担させる仕組になっていた。 以上の性格から考えて薩摩入後はその計算による總石高に対する納税額が定 められ、その後農耕地の増加を見越して.税額を引きあげられたため、頭割の 負担額を確保する必要にせまられて、余儀なく従来の素朴な地割をも.変革せ ねばならなくなったのである。だから血縁同志でできた地組でも.薩摩入後は 王府の公認とし、税収を強化する機関に化してしまったのである。 こうなると、地組の組織も機構も変革され.マキヨによる地組の観念は台なし になる。1734年(擁正12年)の農務帳によると、「百姓組合を以田畑相 授置候付而は.其与合之者共常々睦敷取合.相互に農事談合致、各助力を以可 相働候、年貢及不納者於有之者、其与中弁に申付置候故、致大形候は冒厄害に 相成与合之詮も無之侯間万事熟談致、相互に引進可相勤事」つまり百姓地は与 合単位に割当ておるから互に農事を相談して励まし合い、年貢不納者が1人も 47
出ないようにし、若し不納者があれば、連帯責任を以て弁償するようにせよ。 と示達している。この精神は血縁組のように利害関係をぬきにしては、相互扶 助の実はあがらないと考えたからに他ならない。そして年貢を完納するために
は「ユイ組を結成するに加かず」と考えてそのように指令を出すのである。
1768年(乾隆33年)南風原間切耕作働方締帳一によれば. 百姓中耕作方之儀ユイ組を以相働候得者、別て奮い出殊に不働之者迄引勧め、 過分為に罷成候処、至頃年緩怠之儀有之侯様子見及申候間向後右之通りユイ組 を以て不断可相働させ候事。 1.ユイ組人数之内より頭取1人宛相立、右候而村々耕作当並位所、居分賦 り合を以村出口出口に罷出。何れも未明に原出可仕させ候・若ユイ組仕事不仕 者は科鞭15,且又日出候而原出仕候者は同10宛可打付乳 位所並耕作当共右下知方相狼候はご位所は科銭拾胃文宛無官之耕作当並ユイ組 頭は科鞭10宛打付候也。1.老人又は病者などは頭々究めを以て右ユイ仕事可差免候也。
1ユイ組人数之内.病気之時は日出不申内に耕作当へ暇乞可仕侯、左候は 嘗見届之上可差免候.若暇乞不仕者は科鞭15宛可打付候也。1.人々起立時分又は原出之時分耕作当にて日に2度宛打可申候也。
右通りユイ組を以て相働不申、10人にて1日に1時油断仕候はⅦ人6分6 厘百人にては16人6分、千人にては166人、千人にて1個月には4,980 人、1年には59,760人、一時之油断、件之頭数に相及何之下知方よりも別 けて肝要成る義に付て此段申渡候也。以上を要約すると、百姓どもの耕作はユイ組で働けば皆が奮いたち、殊に働
かぬ者まで励ましてよい成績をあげるのに、この頃ではこの方法を怠っている。
今後は左の通りの方法でふだん働かせるようにせよ。1.ユイ組人数のうちから頭取を1人づつ立て、各村の耕作当ならびに有位
者が、それぞれ分担して各村の出入口に出て、全員を夜の明けぬうちに田畑に
出させるようにせよ、もしユイ組仕事をせぬものがあれば、科鞭15,日が出
てから田畑に出た者は鞭10づつ打ち付けよ。1.ユイ組人数の中病気の者がおれば、日の出ぬ中に耕作当へ届けでて許可
48を得よ。届出があったら、見分けの上田畑に出るのを免ずる。届出ない者は鞭 15づつ打ちつける。
右のユイ組で10人で1日に一時油断すれば、1人6分6厘の油断になる。
百人では16人6分、千人では166人、千人の1カ月では4,980人、1年
では59,760人という具合に、-時のiM]断がこういう頭数になる。 すなわち、この指令通りであれば10人で2時間油断すると.1人6分6厘と いうのだから.1人では1分6厘6毛であって.つまり1日12時間の耕作労働というのがきまりである。もちろんこの外に田畑から帰った後の夜なべ仕事
がまた背負いきれないのである。こういう次第であるから、百姓耕作の直接の
指揮者である村々の耕作当の勤務も厳をきわめている。天保6年(1835年)
羽地間切万定方之条々によると、1.村耕作当勤方之儀毎日朝晩百姓中仕口之首尾承届、月に5度宛原々走廻
作場見届、就中作毛時節不取後様致差引、家内家内へも無間断走廻.諸仕付方
又は塗取扱等能々入念侯様ロ丁寧可致下知候、若大形相心得、不念の稜有之者は
惣耕作当にて則々科策取行其首尾可申付侯乳1.農業方之儀至て大切成物にて農務帳等被成下候上毎年田地奉行御回勤被
仰付事候得共、夫程励之体不相見得甚不可然事候間以来村耕作当にて百姓中引
励.毎日卯時限為致原出、帰宅之殉は茅薪木又は牛馬之草其外窒相成候等可持
帰候、若右様之働無徒に罷帰候者は屹糺付科策10宛申付侯乳
1毎年明替畑之儀飯料次ロ第一之事侯間耕作当共常々其心得以、来年之明
替畑は兼て致見分何原より何万坪明侯段惣耕作当引合之上書而にて年々8月中
限可申出候、9打栫之剛にも日限等相立堅取締致、耕作当にも不断走廻致不知、
11月内に相仕廻させ、是又其首尾可申出、自然下行届者有之候は蟹惣耕作当
へ申出則々科策可召行事としている。こうして農民の不幸は連日鞭打によって耕作労働に駆りたてられるばかりでな
く、自分の田畑に自分自身の計算で自由に作物を作ることすらできないまでに
制度が変り果てたのである。この重租の打開策として、正保2年(1646年)首里王府は砂糖とうこんの
専売制をはじめたのである。これは砂糖や鯵金の全製品を私売を禁じて王府で
49買いあげ、王府はこれを薩摩におくl')、その利益を薩摩藩への負債の償還にあ
てたのである。しかし専売制になってから砂糖生産額が急上昇すると、元禄1
0年丁丑(1697年)に砂糖、うこんの生産制限令を発してきた。
すなわち「百姓頭高に応じ作りたてられ、砂糖は百姓1人につき4斤60匁、
うこんは2斤30匁ずつ」とさだめた。つまり産額を制限して人頭に割、あて
たのである。それ以後王府は砂糖生産と甘蕨裁培を厳しく監督し、制限以上の
栽培があると、切角植えつけたものも容赦なく抜きすてさせた。これは砂糖増
産によって大阪市場の相場変動が、鹿児島での買上価格の低下をまねくのをおそれたためである。実際に当時の沖縄の砂糖生産額は3百万斤程度であって、
王府は農民からこれを百斤で銀20匁で買いとり、薩摩藩へは銀35匁でおさ めていた。(薩摩国史)大阪市場の相場は平均して百斤70匁から80匁だっ た。いわば薩摩藩と首里王府は共同謀議の上、砂糖による大きな財政上の利益 を得ていたのであって、農民にしてみると全く踏んだり蹴ったりで、グウの音も出させぬというのがいつわりない'情況であったのである。
このように砂糖の収穫をあげるのもみな組の機構がもたらしたものであった。
だから村は村内の各組を統制し、村には間切から徒なる公吏を1人配置して監督させ、徒の下には村民から選んだ耕作当山当、頭が居て、普段村屋に詰め
ていて、耕作、営林、納税風紀、その他の行政事務を処置し、重要事項につい
ては、番所役人の外に与頭.位所筆算人等が集合して協議し、最も重要な地割
配当協議とか、村内法作製の協議は村民15才以上の男子全部が集合し、村揃
(村吟味)で決定した。村又は組の集合とか召集は各村民に一々通知するので
なく、村屋に備付けの太鼓を打ちならし、或は法螺貝を吹き鳴らして周知させ
ていた。年貢が重んでくると、それを完納するためには、村内法によって法規
を定め、村民が他村に移住することや、他村から嫁をもらうことまで禁止して
しまったo康煕36年(1697年)に制定された中頭法式帳によると、「諸間切諸島百
姓諸所へ致中宿侯儀素より不相成候事に付、時々取締申置候趣も有之候処、其
守無之千今致中宿居候者段々罷在由相聞甚不可然事侯、百姓は国土大切成産業
相授候付随分入居令繁栄、産業無油断様不引励候而者不相叶候処、連々諸間切
50一統疲勝成果、前々相替入居も格別相減、百姓共地方致持過、定納物等調兼及 難儀侯由、右体中宿之者共猶細密相糺、早々令帰郷候様取計候」とあって、組 員の移住(この中には商業を試みるものもいた)をすっかり差止め、商業との 交渉をすっかり中断せしめている。この精神は組又は村は納税、風紀、勧業. その他の行政機関であって、その成員たる農民lま完納をするための存在であるか ら他所への移住を遮断して、不納者や貧困者の救済にあたるべきだと解釈した のである。こうして地割制度は18世紀になると、百姓が地割地を受けて、租 税を完納するための貢納機関にまでなりさがっている。従って農民は村吟味に よって自治的協議を行ない、地割地もつとめて過不足がないように、或は疲弊 しないよう'こと、家族の多少、交通の便否.地位の如何などつぶさに勘案して 配当する方法をとったのである。 享保19年8月に制定された農務帳によると「田畑之儀時々割亘、為指究主付 無之、模合持之筋に仕置に付而、地方之格護致大形、地位漸々薄相成不宣候、 依之地割申付、永々授置候条堅得其意.此心得専大切に存格護可之有事」とあ り、地割替の結果土地に対する恒久の観念を失わしめ.土地を荒廃させるおそ れがあるから、今回の地割を最後に永世これを私有させるという意であるが. 農民の虚をついているといえ、考える農民の総意を捉えることは不可能であっ た。また農務帳にみえる「地広明候を専に存候儀甚不可然候、牛馬飼採薪の不 自由迄に而茂無之、手隙費取実少無益の仕形候、随分用璽致手入致候はぎ、地 方僅2而茂取実格別相増、勝手可罷成候間、専其心得可有之事」は、寛文9年 (1672年)3月16日羽地仕置にあるように、羽地摂政が「薩摩の増税に 応ずろため、その同意を得て諸地頭地並に百姓に墾田を奨励し、百姓でも仕明 次第私有を認可する」という法令に基づくもので、これ以来土地の開発が進み 間切の新譜もつぎつぎに行なわれたが、この法令を受けた察温の施政方針は、 むしろ土地の開発よりは、農事改良や施肥、水力酒養、殖林にあったから、こ の際土地の開発に制限を加えて墾田の永久私有にふみきったのである。 そうして農耕の改良によって収約的農業をすすめ、生産の増殖を図ろうとした のである。この意味からすれば前掲の資料は、農民に組合をつくらせ、その組 合に-定量の土地を配当して、地割替なしに耕作させようとする意図が明らか 51
である。しかし源初以来行なわれてきた地割の慣行が、そう易々と一片の指令
で以て廃止されるものではない。各村々では依然として地割を続行したために、察温の令達は自然消滅の形にな
ってしまった。従って19世紀にも入ると早々から首里王府は地割制度を再び
公認して、その監督取締りに躍起とならざるを得なくなった。道光12年(1
832年)恩納間切仰渡日記によると「諸間切百姓地之儀各家内之有無見合、
不便之者共不痛様地割可致之地之処、地面広村々は家内有付居候者共地方少〈
持、不加意之面々は致持過、且地面少き村々は家内有付候者共地方多、不如意
之者共は少相持候故、上納物調兼及迷惑候等も有之由、右之通段々親疎之取行
故.威勢有之面々は猶々余財相増.困窮之者共は自然衰微之者に成行、追年疲
増候振合之由相聞得甚如何之儀候余屹と右執行引改家内之厚簿に応じ致地割候
様可被取計候、此旨御差図にて候以上」またその翌々年道光15年(1835
年)に制定された「羽地間切万定之条々」にも同様の趣旨が定められている。
「村々地割之儀段々被渡趣有之候付、家内厚薄に応じ一統無親疎配当仕置候に
付毎年村々、地割帳差出させ、侍過持不足之所能々吟味之上永々共少無親疎可
申付事」と為って、地方の狭い村々では、家族の多い者共が土地を広くもって
いて余財を多く積んでいっていると考えている。だから地主をつくらむいため
にも、親疎なき配当をせよという。結局平等に土地配当をなすべきだとする意
識が為政者にはつねに持たれていた。威豊3年(1853年)恩納間切御手入
日記によると「村々地割之儀田畑共上中下差分け組々銭取を以致割付、於組々
も右同断鋼攻を以て家内之厚簿、人居之多少見合せ分々に応じ持地可相授事」
とあり、地割の理想としてはどこまでも平等に地積を配分するということにあ
った。そのために首里王府でもその方針を堅持するために、監督取締の方針が
厳達されている。即ち、幕末期には「地割とは百姓の労力、資力に応じて耕地
を配分し、貢租の負担を公平にし.併せて土地の生産力を増進せしむるを目的
とする、というふうに変質している。従ってこの目的が源初時代からあったは
ずはなく、最初は同族団が平和な生活を営むために.草分の大屋から分家に対
して、己れの開墾地を平等に区分し、同族団が共同耕作によって食糧を生産し
た慣習が.時代の流れに従い、入居が繁栄するにつれて、地縁共同体にこの慣
52習は引きつがれ、特に17世紀以後は、薩摩の政略とからんで、貢租負担のた めの方便や機構に変っていったものと思われるのである。(この例は南風原間
切本部村照屋村や大里間切南風原村・西原村にその形跡がある。地割は前述のように、
百姓地のみに限られたと思われるが.実際には百姓地のみでなく、村の共同管
理に属した土地すべてを対象としたものであった。にも拘らず百姓地が村民共同の用益権を有したから記録も殆ど百姓地に限られている。この共同管理に属
した土地には百姓地の外に.地頭地.おえか地、のろくもい地.村の共有に属する仕明地等すべて地割の対象であるべきであるが、大方前記の地積を村が借
受けて地割地の中に入れ、地割したところもある。(大里間切大城村、羽地間
切真喜屋村がその例である)地割地には、田・畑・原野。山林・宅地等があり、このうち宅地は持主が一定
しているので、地割換がある毎に叶米を査定するだけに過ぎない。山林は村の共同管理(村山という)で、その収益は割当地の地積の広狭によって百姓に分
配した。ただ国頭地方には杣山という官林が多く、村々でこれを分割管理して使用収益を許可されていた。威豊5年(1855年)諸間切勤職帳によると、
「田畑之儀恰個年振には厚薄段々出来致其上混乱之儀も可有之候間、其心得を
以而田方者4,~5年畑方者8~9年振.時節見合せ無親疎割直させ候割とあ
って、10年以内に割替を行なうよう指示されていた。しかし実際には、地割替の期限は全く村々の自治に一任されていたので、村に
よって差異があったことは次表のとおりである。 8丘Flp 53'111J北F]」ルイ
地割期 島尻 田 畑 111林 中頭 田 畑 山林 国頭 田 畑 山林年年年年年年年年年年年年時 901234568050 11111111223臨 881233 2 1 2 811645 6 1 2
11帖二
9 111 5355 1 4317 2 5 1 0229 610 1 24 21111111 「地割替の方法」 地割の期限が近づくと.村の耕作当山当、頭、組頭、位所及び筆算人等が 集合して、地人会議の期日.議案を協議作製し、その期日に地人總会を開く。 地人総会(村揃、村吟味ともいう)には番所や村屋の役人の外各戸の戸主が参 集し、下記の事項を協議する。 ①地割配当を受けるべき者の数、受けるべき地又は分の数。 ②地割をなすべき土地の種類。 ③地割地の現坪数の測定、又は各筆の小作料を見立てて評価すること。 ④-地、又は一分の組み合せ方法o ⑤地割配当地の過不足に対する矯正の方法。 ⑥地割をしない土地(竿はづれ地)の処分方法 ⑦地割地受渡の方法.期日 ①項のうち協議すべき事項は居住人のうち地人に編入すべき者の選定や、百 姓子弟の分家者の数調査.家族数.地人の勤怠状況等苛も地割配当の要素は細 大洩さず調査決定するo 542項.3項、4項までは役人の調査によってほぼ決定され、地人が介入する余 地は殆どない。土地の過不足分の矯正方法は割合に簡単にすまされるが、若し宅 地に不足があれば、畑から補充し、田に過剰があれば、山野の配当を免ずるよ うにする。僅かの過不足であれば統並を行なう。例えば地人總会前に役人は、 「土地一坪について宅地は何程、田・畑・山野であれば何程とその比率(小作 料に換算する)を決定しておく。だから地人總会になっても地人はおしだまっ ていて、小作料の如きも殆んど役人まかせである。 毎年村で過剰の配当を受けた者から、その過剰分の小作料を徴収して、不足の 配当を受けた地人に給付するという具合である。 地人總会で前記の各項が協議決定すれば、各戸主は現地調査を行ない、調査が 終ると村で地割帳を作製し、期日を定めて再度地人会を開き、抽銭によって、 各組に土地を配当し、各組はさらに組中の地人を集めて、組に配当された土地 の割当配当をすることになっている。たまたま組の配当地の中から幾分かを割 いて、組中の特定のものに小作させ、残余を平等に配当する組もある。 この場合は小作地からの小作料はあげて、組中の年貢支払いや、組の諸経費に 充てることになっている。摩文仁間切小渡村の実例をあげると、 ①明治29年5月1日地割期限がきたので、村役人(徒・頭・耕作当・山当 ・筆算人)が村屋に集って協議し、来る5月14日を地人總会の期日と定め 總会の日には、各戸の戸主又は代理人が参集して地割に関する事項老協定した。
②地割協議が終ったので、各地人は直ちに村持の田、畑、山野を一々踏査し
てその坪数を帳面に記載し、各筆についての小作料を見積って評価した。③評価が終ると村所に集まり、地割帳を作製し、名筆の縞評価を26地に分
割し、更に1地を8等分し、その8分1地を1分2厘5毛と称えた。
④畑はその地名(原名)により、上原嶽下原、たう原、あたい原の4つに
区分し、-区分の畑を各’0等級に細分し、水田、山野は村全体として上中
下の3等に分け、1分2厘5毛づつの組合せをした。⑤土地の組合せが終れば抽銭で各地人に分配し、分配が終れば地割帳に各持
主の記入をする。(この村は組に配当するようなことはなく直ちに各個人に 配当する1村1血族の集落であった) 55⑥各地人は従来の持地数の多寡に拘らず.村から一様に46筆の配当を受け るが.配当後は各地人の便宜上互いに交換分合を行ない地割帳を訂正するこ とにした。 ⑦地割地の受渡しは地域毎に期日を異にし、上原と嶽下原は8月までに受渡 すものとし、たう原とあたし、原は翌年の1月までに受渡しするものとする。 (このことはきわめて融通性があるが.親族のことであるし、話し合いによ って作物の収穫後にするのが普通であった) ⑧村役人が地割作業をするのに8日間かかったので、その間の薪炭、雑費を 含めて2円70銭を支給することにした。 この例は、全琉略同様の方法であったらしく、琉球経済資料には、その精神 が明らかに読みとれる。道光12年(1832年)恩納間切仰渡日記による と、 「諸間切百姓地之儀各家内有無等見合、不使者共不痛様地割可致之処、地面広 村々は家内有付居候者共地方少持不如意之面々は致持過且地面少村々は、家内 有付侯者共地方多、不如意之者共は少相持候故.上納物調兼及迷惑候等有之由 右之通段々親疎之成行故、威勢有之面々は猶々余財相増.困窮之者共は自然と 衰徹之方に成行追年疲増侯振合之由相聞甚如何之儀候条右屹と執行引改、家内 之厚簿に応し致地割候様可被取計候此旨御差図にて候」とあり、これによって 地割替えの目的が明らかとなり、威豊3年(1853年)11月17日恩納間 切御手入日記によると、 「村々地割之儀、田畑共上中下差分け.与々クジ取を以割符.於与々も右同 断クジ取を以家内之厚薄入居之多少見合、分々に応じ持地可相授事」、これに よって地割替の方法がわかる。さらに威豊5年(1855年)8月兼城間切役 々勤職帳によると、 「田畑之儀拾ケ年振には厚薄段々出来致し.其上混乱之儀有之可候間、其心 得を以田方は4.5年.畑方は8.9年振時節見合、無親疎割直候事」によっ て地割替の周期を察知することができる。宮里筑登之親雲上幸孝日記によると 割替方法を次のように述べている。 地割仕様右之通り 56
1.地144地 大割地頭18人(但1組にて8地組合、98地組にては144地に相成候 右地割之仕様は1番配より、18番配迄.地方等分に置クジ取様は1番より 18番迄札書調.此札数置候て、地頭18人へ右札クジ取らし、番次第番之通り、
本仕手付原各村坪入仕置候帳に新にクジ当候面付相定申候.尤新帳には新に取
置候面付を以て新帳組立置申偽 但仕様右之通、此通18人組合帳相作得候事 1組 6地何某 1地5分何某 5分何某 1組 7地何某 1地何某 1組 8地何某 1組 3地何某 3地何某 2地何某 この記録によると、まず1村の土地を144地に等分し、さらにそれらの土 地を8地づつに組合せて.均等な18の組をつくる。これに1番から18番ま での番号をつける。そのうえで18人の地頭(地与頭ともいう)が、各組を代表 して銭を引き割当地を決定する。そうして組々ではさらに銭引によって、各戸 の割当地を決定するということである。第2節検地
検地とは、農業国家における重要な租税源としての土地について田制を統一
し、隠田をなからしめ、その確実な把握によって財政的基盤を確立するために
57行なう大規模な土地の測量評Ⅲである。その手順は土地の境界を正し、面積を 測定し、田畑の品位を定め石盛を行ないその土地の石高を定め、これを村毎 に集計して村高が決定されるのである。すなわち首里王府においては、土地が もっとも重要な収入源であり、これを耕す農民が主要な租税負担者であったか ら、慶長検地の際も徳川家康の意図をついだ島津氏も、豊臣秀吉の文禄検地の 際の間竿6尺3寸を1歩としていたきまりを6尺に改め、3百歩1段の制を用 いたo ところが.元文の頃になると間竿6尺のきま、を6尺5寸1分としたために、 1反の地積が著しく拡張するようになった。 検地を行なうにはまず、検地奉行がその地に臨んで土地を側通し、その面積と 境界とを明らかにする。これを竿入と称した。 註文禄検地条目 1.6尺3寸の棹を以、5間60間3百歩一段と相定事。 1.田畑並在所之上・中・下能々見届斗代相定事。 1口米1石2付弐升宛其外役米一切出すべからざる事。 1京升を以年貢を納入いたすべし、売買並同桝となすべき乳 次に検地奉行は土地の肥溶乾湿の度を察して、上田・中田・下田・下々田の 等級をつける、これを位付という。 次にその土地の収益を米に換算し、斗代の法によってその分米をはかり数字 で表示する。これを石盛という。当時上田一反の収穫は籾で三石と基準をきめ ていたから、5合摺の法に従って米に換算して、上田一反の分米は一石5斗が とれ、これを15と表示して上田の石盛とした。中田以下の石盛は俗に2つ違 いと称し、上田の石盛よ'')2つ宛逓下するのを原則としたから、中田は13、 下田が11.下々田は9であった。畑地の石盛は中田の石盛を以て、上田の石 盛に准用た。 以上は、検地の一般原則とされたものであるが、琉球検地は慶長16年9月 19日の御目録によると、「御当国之儀慶長14年御国元御下知に相成候に付 て、同15年初御検地被仰付竿入奉行14人携之役々168人被差渡、地下諸 58