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資本主義経済の発達

第3章 資本主義経済の発達

第4節 資本主義経済の発達

明治12年廃藩置県後の糖業のかなり急速な発達によって,農村経済にも貨 弊経済の浸透する条件が準備されてきたと。一方那覇,首里の都市地区に形成さ れた商業市場を媒介として都市を農村の経済的結合が強められ,県経済と全国 経済との結合を促進する条件も準備された。いわば県経済の内部に貨弊の流通 を前提とした資本主義的要素が緩慢ながら形成されていった。明治15年の國 庫支出總額62万5千7百90円のうち勧業貸下金として6万8千8百67円 が糖業保護遂行資金となったことなどは資本主義的要素を形成する上に大いに 役立った。この模様について1878年(明治11年)沖繩を訪れた渡辺重綱 は,那覇市場の概況を次のように報告している。「市場は西村東村の間にあり,

50間4万余,縦横に区分し,衣類・食物は勿論風百の有用什器を売却す,商 人は悉く女子なり、小技なる者多く老婆少なし,従来この地の婦女言う。夫1人 を養い兼ねる者は世にあるまじと,実に然り、機織行商、農耕.勤苦して生を営 tRo驚くに堪えたり,通貨は寛永銭に限り金,銀貨,紙幣を用いず,故に高物 価を購入する人,馬を以て其の鳩目銭を運輸す。従来女子に文字を学ばせず,

且つ算数を知らず只胸記のみ而して分量の差なし,其の販売所は地上に藁莚或 は流球莚をしき,前に小机或は箱をおき物品を並ぶ,毎日午前9時より午後9 時に至る雑沓甚だし-(琉球漫録)

この報告によると那覇ではかなり商業市場を媒介とした交換経済に依存してい たことが窺える。交換手段としての貨幣も,日本本土の新貨や紙幣は流通せず 専ら旧銅銭が流通していたようである。明治16年沖繩における商業及び貨幣 流通の状況を,日本金融史資料によって摘記すると,「市中の景状は漸次旺盛

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に赴くが如く,商店回を遂うて増加し殆ど其面目を一新したり,是他なし、内地 商業衰頽の余6其方向を樽じて,手をこの僻遠孤島に下したる者多きに依らん。蓋し 内地との交通未だ全く遍からず,随って商業世界の変動を受くること甚だしか らずと錐も,重要の物産たる砂糖反布の類は非常の低落に逢い,農工共に其の 困難を訴えざるなき今日にして,独り商業旺。盛なるを得んや、況んや弾丸黒子の 地に数多くの商店を開き各々その利老競はんとするに於ておや,故に其の旺盛 なるが如きは,徒らに外見に過ぎずして其実内地は一般の状勢に沈愉せり,之 がため市中の金融甚だ緩慢の徴あり,然れども田舎地方に於ては非常の逼迫を 告げ随って資金の需要多しと雛も,是唯地方の一部分に過ぎず,概して閑況に 在りと謂うべし,この緩慢なろに拘らず金利は日歩常に5,6銭の間を往来せ り。又貨幣流通の景況を察するに客年と反対の情況を顕出し,従来紙幣を嫌忌 せしもの今反って之を欲望すろを以て市中は新旧銅貨充満し,取引上授受の不 便を訴え、ために銅貨と紙幣の間その差を生じ,交換歩合は百分一以上に達する に至れり」。と。即ち置県後数年にして本土と同一の貨幣紙幣が流通したわけ であるが,このことは商業の展開に有利な条件を展開しまた不利な条件が形成 されたことを意味する。このような傾向を促進したのが寄留商人たちであった。

太田朝敷氏は県政50年史166頁に次のように述べられた。「明治15年、6 年の頃から本土の商人及び役人となってくる者年々増加し,警察官の如きは殆

ど鹿児島商人が占領するという有様であった。こうして明治20年頃からは寄 留商人といえば,社会的にも頗る権威のある団体であったが,その寄留商人と いうのはすなわち鹿児島商人の別名であった。いわば沖繩の商業はこの寄留商 人に握られているような観があった。また流球見聞雑誌によると,「那覇の重 なる通り町には相応に大なる商店あれども,是れは何れも内地商人の店にて,

土人の店とては更に一軒もあるなし。元来士人は店を張らざる習慣にて,如何 なる商人にても皆行商に非ざるなし,近時内地人の風を見習イ,間に裏通りな どの窮巷に小店を張る者なきに非ずと錐も、,何れも荒物屋などにて,名物の飛 白,反物,朱塗物の如き更に商店あることなし。既に商店の設けなし,是を以 て之れに代うろに市場なるものあり。」とある。そして那覇市場の概況を次の 如く報告していろ。「市場は港中に2か所あり,其の1を那覇東村なろ沖繩病

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院の横通りとし,其2を塩浜とす。塩浜の市場は,全く薩摩芋の如き植物市場 にして見るに足らず,只盛なろは東村の市場なり。是は東京日本橋とも云うべ き所にして,先ず以て那覇の中心と見えたり。さてここに露店を張て商う品々

は青物あり,古手あり,呉服あり,紙あり,豆腐,瀬戸物,米穀,稗餅,傘,草j

霞,豚肉,馬尾,袋物,キセル,線香,雑菓子,塩,油,笄,轡,生難,

其他枚挙に邉あらず,而して、この露店商人は更に1人男子あるなく,總ベてこ れ老若の婦人のみなり。この婦人が更に規制もなく,-面の広場に或は前向き に或は後向きに,或は横向きに,或は数人並び或は三々五々離れ,勝手次第に

店を張り,何か訳の分らぬことを八釜敷く鴎り居る景況は実に人をして一見奇

具に堪えざらしむ。予が当地に滞在中此市場の景況程奇を感じたるものもし。

この市場は早期より夜8時ごろまで継続し,大抵の雨天にても休むことなし。

日中は東京縁日商人の如く大傘老立つるものもあり,反物屋の如きは,風そ戸

板2枚位の大きさの土間店なりと錐も,大抵紙屋小間物屋の如きは5尺2尺位

商業戸数の推移

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卸売商 仲買商 ノLI 売商

年次 總数 那覇首里總数那覇首里其他UUUUU0■GI、 總数 那覇 首.里 其他

年年年年年年年年年年01254567892222222222 0115511111 80591525 098005111 79182155 25555555釦 25751089122222222546 2921 4222 7511 17982524 455557100111 11b、、、弓■IO二br1▲24

1702 2027 1406 2446 2992 2897 5601 5580 5759 5916

460 492 565 576 752 665 1002 869 1459 1255

806 1076 541 1070 1086 1155 262 1005 908 996

456 459 497 1100 1174 1079 1557 1508 1412 1667

の小さき箱をおき其上に物品を陳列したろものなり」と,ある。明治20年代 の商業戸数の推移は次表の通りである。これによると,卸売商,仲買商は次第 に増加しつつあったが,殆ど那覇・首里に集中していろ。

これらの商業従事者を媒介として農村へも徐々に貨幣経済が浸透しはじめ,

商品流通網が形成されるに至ったことは明らかである。前述のように農村の生 活は自給自足を原則としながらも次第に商品経済への依存度を深めつつあった わけで,主食副食物以外の品用雑貨に至っては,その傾向は益々顕著になりつ つあった。こうして県内に一定の商品流通網が形成され,都市と農村を結合す る条件が準備されろと,他県との移出入交易が促進され,貨幣経済の拡大が必 然的な傾向となったのである。輸移出入物の価格を表示すると次の通りである。

輸移出物の価格

叩目|明22年25年’24年25年

]/5-688

F-L

4611 6b6[

91AdZ

6.168

164 466

112

品目 明22年 25年 24年 25年 26年

糖し参草貝耕布布布布筵盛器他人鰯光綿紬上上地蕉砂フ海海夜木紺白白芭藺泡漆其

265548 6427 1,918 1,241 12854 52j56 12M16

52P24

2206 4p22 ROO5 45705 4255 228280 871,057

605159

2;150

5618 14804 112587 4p81

26565

1,757 2852 ス570 85129

11,856 886266

922966 5288 1,441

4β94 Z904 88814 5548 2875

1,142 2294 6506 72841 4651 5R147 1180,420

472,195 4,584 1,001

5,600 52,487 95,579 1,285 75,579

4,249 65β55 5,411 41,551 796,754

1075,688

1,520

5,460 6,560 91,544 5,525

6,168.

72,715 2,942 10,647 1274,565

価格

輸移入物 ロ加

廃藩置県後沖繩に資本主義的生産様式をとり入れて,諸企業が成立するのは日 清戦争後とりわけ土地整理以後のことである。しかし明治10年代にはすでに 一定の貨幣経済の基礎の上に,個々の産業部門に於て資本主義的要素をもった 諸企業が形成され始めた。すなわち商業,金融,海運,製造業などの部分にわ ずかながら資本家による新式の企業が形成されていた。これらの企業は資本主 義企業としてはあまりにも零細で,むしろマニユフアクチユア段階の企業とい った方が正しいかも知れない。例えば明治23年12月調査の企業の状況をみると,

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ロロ 明治22年 25年 24年 25年 26年

米米米豆麦麦麦油酒布總コン

パ→錫の計

玄白糯大大小裸石清昆洋タソ

442970 191,151

5167 4j22 5424 12178 2β82 55PO7 54460 20,740 41,541 5,521 15Z512 4る85 1ス505 6400 165681 1178644

860476 212205 Z565 1ス875

8P61 1,470 85J670 22172 8p39 48465 5,556 8Z840 1,754 12β48 5198 1606167

29Z659 254178 4276 52;151

200 18867

51,307 15520 12542 66β41 4799 52578 5850 21,560 2945 1015β99

185455 198641 6,91 42221

15215

1,217 66508 50209 71,675 6621 45PO8

6155 4ス024 6785 855151

1081698 522206 5540 62j58

1ス892

51,475 105618 8J67 78665 Z452 90712 スD70 26552 18715 112ス515

上のうち沖繩織工場の労働者が比較的多いのはこの工場が明治政府によって,

失業士族の救済手段として設置されたものであり,勧業政策の見本ともなるべ きものであったからであろうか。なお明治27年の調査によると,マニユフアクチ

ユア的工場の代表的なものは次の通りである。

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社名 資本金 営業

沖繩社 沖繩物産会社 海運会社 広運社 同興店 共保幹 沖繩産業会社 製造工場 (沖繩織工場)

紙製紙所 沖縄産業会社 (醤油・藍)

円円〃〃〃〃〃〃〃〃0000059209000001500500000550255qq50a4Xt42871

反布監定 蕪腿製造 海運業

貸金・預金

味噌・醤油藍 職工

25,400人

252人

4,400人

工場名 種類 製品数重

米田塗器 鋳物舎 沖繩織工場 織工所 エキス製造所

⑧組 巴組

塗器 鉄車、鍋 紺地耕布、白地耕布 木綿紺地耕

エス

ニニス

楊梅皮エキス 楊梅皮エキス

21,100 1,550 1,86110 1,500 15,500ポンド

2570 55,000 15,000

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