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967

417 550 1,060 2,142

734 1.918 1.184 848 2.923 1.000 2,062 1.062 950 3.726

563 1.370

526 1.089 1.247 3.LOi4 1.857

1,522 2.892 1237 3.756 2.519

984 1.676 692 3.128 6.483 3.355 1,350 2.592 1.242 2.099 5.201 3.102

2811

886 1.425 3.441 7.902 4,461

354

334 20 1.514 3.090 1,576

327

329 1.521 2.627 1.106

931 1.635 704 1.906 4.401 2,455 506 1.597 1.091 2.859 7.084 4.225 336 761 425 6.166 2.869 5.703 620 1.687 1.067 1.478 5.200 3.722 1.149 2.448 1.299 2.543 6.591 4.048

1.494

668 826 405 1.681 1.276

847 3.424 2.577 445 1.839 894 415 1.003 588 2.917 5.690 2.773 781 1.773 992 2.784 5.991 3,207 712 1.495 783 392 1.942 1.550 554 1.049 495 219 1.300 1.081 羽地

大宜味

1.893 4,792 2,899 244 1.504 1260

433 1.167 734 106 327 221

69

1,647 1ユ44 469 704 235 表から註釈を加えると. 本釆名寄帳は竿入帳aj反別 を基 として, 村毎 にそ の土地 の所持者 と地積の広狭 を記載 した ものであ り,厳密な測量 によ るものであれば 両者の反別 は一致すべ きもので ある。に も拘 らず表示 され た通 りの差異が あっ た とすれ 塊 これ は明 らか に経済外的強制が烈 しかった こ とを証す る もので あ り, 明治17年以前 に整 った地積 を旧慣法に基づくという名目でこそのまゝ記録 したも のに相違filLbもっともこの竿入帳は事陳7(1722年)薩藩の命令に基づき.旧藩芋

於て元文

2

(1737

年)より全体の丈臣に着手し.寛廷

3

( 1750

年)に至って終了し T=ときに出来た帳で.各間軌 こ区分 し.田畑軍人帳・山野針竿振 ・田畑臣敷山野針竿帳,

惣方切並 宿直針帳,印土手帳の種類があ り土地 に関す る帳簿の 中の最 も粁 密 な るものである といわれてい る。 に も拘 らず検地の結果 反別が増大 した と称 して いるが, この表に示 す とお りの杜撰な竿人であって, 農民に承 服で きるもの で はあ り得な い〔のみな らずれによって増租を命 じて きた ので,思い余った首 里王庁 「これでは到底民力の堪ゆ る処 にあらず,

と抵抗を試みたので,薩摩 側で は 挿 話 の事実 は将釆改正すべ し,

とし,遂 に実施す る機会が なか った といわれてい る。 しか し農民 の心理 ばか りは全 くはか りしれ ない。首里王庁で 最 も正確に測量 したもの で あれ ば卒先 して増税に応ず るのが筋であ ると称 して, 首 里近郊の美和志間切,南風原間切,西原間切 では,早速測量通 りの地積 をも

とに して, 地割帳 がつ くられた形跡があ る。

註‑ (もっとも前記三間切は王庁の納 間切で あったからであろうか)

(拙著 南風原村史 ) しか もこの元文検地帳によ る と,薩摩の門割制度の用語を借用 して使 ったであ

うだ JWr) ろ うと思 われ る用語が多 い。たと えば斗立 についてみると, 本釆 三松 字は計の

lr̲l

草体か ら崩れた字 で,ih 升,合 の斗で はないか ら,斗立 も計立と続 むのが 正 しく,薩摩 では計立 と読みな らわ している.これは本石盛に込 米 を加 えた もの で,本 石余米 を入れて,石高が増 す場合 に限 られ ているの は, この実例であ ろ うと思 う。上木税につ して も本釆沖縄 にあ った もの ではな く,語句その もの も元 文検地の際使わ れた もの らしく,農政本論 に も 「上の立林の下 草を村方 に

{J(^L.

於 て刈取る役永,前 々よ り定納 と成 る小物 成の内也

とあ る。 (南島風土記 )

‑ 70 ‑

。物成というのは付力脱のことで役永は銭で納める税のことである,すなわち 立木の下草を農民に与えて,その代り若干の下草税を徴収するということで,

この立木の下草が刈敷と同様肥料となり,牛馬の飼料となったので,農民にと っては若干の下草税を納めて収穫を増すことができた。これは文字通り浮動税 すなわち臨時の課税で、その数量なり,有無なり.変動の多いものに対する課税 である。舟網塩等の加きがその対象である。例えば長禄(1457年~59年)の頃iiI物蝋i

できプ功御|勿城からつづく壷Ⅱ|村の漁民が泉崎の仲島d堀に漁類を養殖して,那覇里主

や御物城の用度にあてて,年間4百50貫文の浮得分をあげたことがあった。

この頃は河海の漁獲物にも十分一課税をしたということであるから,十分一税 で4百50貫文を得たということは,この付近の漁獲が大変なものであったこと が想像されろ。また旧慣地方制度6項の海中取締りの部によると,間切,村の沿 岸の漁拷区域を海方切といい漁携の境界が村々に設定されていたことが明らか

である。

L海方切(間切所轄の近海)内に於て他間切の者漁業する者は舟網,道具等 引揚げ科銭申付,以後右様の漁業不致段証文を徴収の上舟綱具等差返す。

1,他間切の者海方切に於て魚貝類を採取する者は逮捕し,直ちに本籍の村屋 へ引渡し科銭申付く。とあり,またオモロ15巻49と14巻17にはそれぞ れ,次のように唄われていろ。

じゃなのひやりよぃ、

いぢへきひやりもい かなであんじにおもわれて

又うみt,お雲やもん だきやむおやもん

うみちへえれ,おかちへえり おなりあじ

うみらへまは,おかちへまは えけりあじ

とあり,海も桜司の所有である,だから漁獲場にも領主があって,その領主に 貢物を差上げていろ。ということであるから,その領有権を譲渡するという事

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が行なわれていたに違いない,,この事実はおそらく検地以前の地分耕作時代の 沿岸の海分け方法であったし,検地とは直接関係はなかった、その結果であろ

うみIMIえ

うか,沿岸漁業での十分一税を納めていた間切,村で|j耕地の年貢から,うみが

なえを差引いて納付するという機構があった。すなわち耕地と同様に沿岸をも つ村々では村単位の地割(海方切)があったことはほぼ明らかである。例えば 兼城間切糸満村,具志頭間切具志頭村佐敷間切古波津村,仲伊保付大里間切与那 原村b中城間切津波村b美里間切泡瀬村,勝連間切平敷屋村等にその形跡が残

っている句

第3節斗桝

検地に伴う貢租問題について,新里恵二は次のような問題を提起されたことが ある。(考える沖繩史)

①琉球王国の石高は籾高で,これを米高に換算すると目録高の2分の1強に

なる。

②薩摩への仕上世米ZD運賃はいわゆる3分8運賃で非常に高額である。(3

分8とは貢租額の3割8分の意)

③俵装の際1石につき1斗9升の増米があり,貢租額に加算するので薩摩へ

の貢租が高率であったことを証する。

④運賃増米を加えろと,負担額は1万4千8百石にあたる、

この負担額は貢租全体でみろと僅少のようにみえるが,その収取と計量によっ てみると実に莫大な額に達した。(里積記一比嘉春潮氏蔵本)まず斗桝について みろと,寛永以後次のような桝が使われ,収奪の具に供せられていろ、

1,京桝 2,-合桝 3,弦掛桝 4,7合5勺桝 5,宮桝 6,公桝 7,2斗8升桝

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8,細口桝

このうち京桝は内法4寸9分深さ2寸7分,坪数6万4千827坪あり,坪は1 分4万6面の坪という。しかし本土の京桝に比べると遙かに大きい。すなわち内 法を5寸深さ2寸7分5厘の桝であるから,坪数においても幾分大きく,その 京桝を使えという厳命であるから,琉球側の損失ははかり知れないものがあっ

た句

--合桝は京料の十分一の坪数というから,本土の標準一合桝より量目が大きか ったことは明らかである、これについて里積記は【欠のように記している。「こ の桝寸法の儀本分の通り,或書物より写置候処,現桝にて肋b合候えばl合

、、、、、、

桝にて内法2寸1分3厘有之,深さ縁共l寸4分2厘9毛有之,坪数は当り候

故向赫走法にそ候補当禾串侯」とあり,京桝が薩藩の命によって使用され

ていた頃これと殆ど坪数の同じ桝が琉球農村に使われていたらしいことが明 らかである。表示すると次のとおりである。

京桝の一合桝①内法2寸2分7厘4毛

②深さl寸2分5厘3毛2シ

③坪数型83坪7分 琉球一合桝①内法2寸1分3厘

②深さ1寸4分2厘9毛

③坪数M82坪7分

絃掛斗桝は一盃で1斗l升5合,2盃で2斗3升也。それに京桝5升入都合2 斗8升にてl俵の積り也然、u飛入の時は2盃に小桝5升入侯得ば,入実小桝に て2斗9升5合有之,夫に2合5勺は船中乗せ卸し,次に〆相加へ都合2斗9

-。●

升7合5勺入実に〆御国許え上納米届,運賃とも相渡申院然共飛せ入の儀手

功次第其上にも入込祷枕,但この桝は御国許より差下し被置間切々々両先

島へは写を以て御渡被置候,尤j卸当地中にての取払には用い不申候也,

御当地田舎々々に於て7合5勺満す相用い侯|義も有之由焼この」ELと乏上、盃 と言い,40盃にて3斗先1俵の積也,39盃までは,何十何盃という。40盃に

成候は管,俵と言い40盃に余り申すときは'俵(可盃と言う也,議雛Iこそほ

無之候」。すなわちこの絃掛斗桝Iま沖繩でできた桝で,形を京桝に似せて造I),

●、b

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手功次第によって量目に大きな差をつけるため絃掛を行ったものといえる。

官斗は唐人へ向けて用いる枡で,京桝の5合の積りという。察するところ中国 や中国向けの進貢物資を換算するため,中国貿易公枡とは官斗と同じく、5 合桝といわ松内法8寸8分9厘9毛。深さ2寸1分3厘2毛1シ6才。坪数

にして32,413坪5分で,すなわち標準桝である京桝の半分にして,専ら沖縄 内で使われたものらしい。また「2斗8升満すといって田舎に有之侯。この満

すにて28升をはかり。起は京枡にて8斗也」とあり,だから京桝で[京満す

’升7勺1才4分2厘8毛5シ7才入る」というから,国法ではないというこ とが明らかである。おそらく3斗8升桝というのは,田舎の米産地で使われた

桝であったと考えられろ。

細口斗枡というのは1盃で1斗2升5合入、2盃では2斗5升それに小枡3升を 入れて,都合2斗8升でl俵となる。「5振すれば2盃で2斗8升であるが,

手功次第によってはそれ以上も入るといわれていろ。但しこの枡は御国元に申 出て許可を得。沖繩で製作し,当地中に用いる枡であるが,沖繩内で使うもの であるから自家製造のものであったらしく,結局量目に大きな差異が出るよう になり,次のような指令まで出すようになった。「御当国中相用得候斗之儀□

広く有之手功次第升目相替候付,引落斗之法様相立置候得共,夫;1h段々手功有 之,不憲法取納致し,百姓疲入由候,升目之儀は別て正道に無之候て不叶儀侯 処,手功出働有之儀甚以不宜候,依之御国元御伺之上入実の儀は振込入にして 先掻1斗4升込之p細き斗に相改,国中取締仕候様,雍正7年酉年被仰渡候納

附端物払之儀小升可相用侯也

(明治7年)原宮古島仕上世座公事帳

さらに貢租納入順序として次のように指令されていろ。「仕上世米俵入出義康 熈55年仕上世座附衆東郷三右衛門跳久保田善右衛門並座検者我那覇親雲上、

阿嘉親雲上其外相携候役々又は諸船頭出合相例,錨轆にて飛川盃に小升

5升入実先掻2斗9升7合5勺船中乗せ卸入鉄迄相込。右の升目にて船頭落着 之上相究届。運賃共相渡其以後右例相定置候間向後其取払可仕事

附康熈52年新米立船起年に付積穀取納方之義積入候時渡付置侯升目之通可

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