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高校生の無気力に関する社会学的一考察 : 儀礼主義と冷却理論を中心として

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(1)学位言命文題目. 高校生の無気力に関する社会学的一考察. 一儀礼主義と冷却理論を中心として. 教科領域教育. 社会系コース. M945041 江口忠宏.

(2) 〈目次〉. 序章 第1節 本研究の動機・目的一・・一・……. 一p 1. 第2節本研究の方法一. p1. 第3節 本研究の対象一. 一p 1. 第4節 本研究における「無気力」の定義・………一. 〈序章注釈〉一一. p 1. ・p4. 第1章文化的目標 第1節学校アノミー一……一. ・p9. 第2節 文化的目標 第1項文化的目標=主要科目(知的教科)の偏差値(学業成績)・・p11. 第2項社会的状況…一・…・……一・. 第3項原因と背景…一…. p16. ・p22 ・p 28. 〈第1章注釈〉…一・ 第2章 儀礼主義. 第1節. 個人的適応様式の類型論と儀礼主義・. ・p 49. 第2節. 文化的目標が一(拒否)である原因・. p 52. 第3節. 制度的手段が+(承認)である原因・. p 62. 第4節儀礼主義と無気力・・. ・p 65. 〈第2章注釈〉…・…一・. ・p 71. 第3章冷却理論 第1節 定義…一・一・一・. 一・. @p 94. 第2節加熱…一…一一・……一. ・p 96. 第3節冷却と縮小一…. ・p 99. plO3. 第4節冷却理論と無気カー一 く第3章注釈〉…一・一一・…. 第4章モデルの構築. ・ plO7. ∼儀礼主義と冷却理論の複合化したメカニズム∼. 第1節前章までのまとめ・・. 第2節モデルの構築一一…. <第4章 注釈〉. p122 ・ p125 ・ p129. 終 法. 本研究の成果・一 治1節. ・ p130. 今後の課題一…一 第2如. 一 p131. 注釈〉…・一……・・ く終章. ・ p134. おわりにあたって,謝辞・. ・ p137.

(3) 序章 第1節 本研究の動機・目的. 教師として高校生と接していくなかで、いつも痛感することがある。それは、 学業や行事などで学校に向いていない生徒、なにを考えているのかわからない 生徒、反応のない生徒、すなわち、無気力な生徒の存在である。それも例外的 にではなく、全体的に蔓延しっっあるようにも思う。若くて張り切っているは ずの時期に、なぜ無気力に陥るのか。教師として、どのように接したらよいの か。次節で述べる分析・考察を通して、諸問題の再焦点化や明確化を試み、一. 般化することによって、高校生の無気力の解明および対策の一端になればと思 う。. 第2節 本研究の方法. 高校生が無気力にいたる過程(原因)および状況を、社会構造のなかでアプ ローチするため、社会学的(1)に、なかでも儀礼主義と冷却理論(2)で分析・. 考察しながら、帰納(もしくは「経験」)的一般化を試み、モデル(儀礼主義 と冷却理論の複合化したメカニズム)を構築する。. 第3節 本研究の対象. 職業(実業)高校には、技術機能主義的学力観(経済的に豊かでない労働者 階級において)や「低位同質的社会化」などがみられ、普通科高校とは異なっ ているという研究(3)、また、私立スポーツ校の例外性を述べた論文(4)など もあるが、これらも、文化的目標(5)の影響を受けていると考えられるため、 研究対象を全日制高等学校とする(6)。. 第4節本研究における「無気力」の定義. 本研究では、 「無気力」の定義を「学業をはじめとする学校文化に興味、関. 心を示さない。しかし、友人はおり(親友がいるかどうかは別)生徒指導の対 象になることもあまりない。欠席、遅刻、早退も見受けられるが、登校拒否ま. 一1 一一.

(4) ではいかない。」とした(7)。. それではなぜ、「アパシー」や「怠学」の語を用いないのか。これについて、 以下に説明したい。. まず、「アパシー」(apathy)についてであるが、ギリシャ語で「感情がな くなること」という意味である。国分は(8)、感情表出が乏しく、打っても響. かず、人を拒否・回避し、無気力・意欲減退・無感動・無関心・空虚感がワン セットになった心理状態のことであると定義している。笠原は(9)、その特徴 として、真面目で、傷つきやすく、屈辱感を強く防衛する結果、自分の感情す らわからなくなっており、自分が責任を取らなくてもよい領域では伸び伸びと ふるまえる(「垂直型分割」)などとしている。星野と阿部は(10)、回避性人. 格傾向(基底に日本的心性)が現代日本文化の影響をうけて、アパシーに陥る と述べている。稲村は(11)、かなり重度のケースをあげ、この対策として宿泊 療法を紹介している。小田(12)や鉄島(13)は、アパシーの定義のなかに、共通. して、対人回避の特徴をあげている。以上のように、「アパシー」は、対人回 避があり、どちらかといえば、大学生対象が多く、ほかに、政治的無関心で用 いられる場合やモラトリアムと絡める場合もあり、そして、心理学的、精神医 学的な意味合いが強いと定義できよう。よって、本研究の定義にそぐわないと 思われる。. 次に、 「怠学」についてである。小松原によれば(14)、文部省は昭和63年の. 調査より、怠学の実態を明確にするねらいで「遊び・非行型」と「無気力型」 に分割した。また、小林(15)や和田(16)は、共通して、問題行動を起こす前兆. として、これをとらえている。以上のように、「怠学」は、どちらかといえば、 非行・問題行動・逸脱と関わるニュアンスがあるととらえられる(17)。ここか ら、本研究の定義にそぐわないと考えられる。. 以上から、本研究では、「無気力」という語を採用することにした。「無気 力」については、総務庁によれば(18)、非社会的問題行動ととらえ、例として、. 学業や職業生活等への興味を失って、無為のままいつまでも日を過ごしてしま うものがあり、大学生の場合、スチューゲント・アパシーとして注目されてい ると報告している。原野は(19)、登校拒否に関して、その様態を、学校生活に. 起因する型、遊び・非行型、無気力型、不安などの情緒的混乱の型、意図的な 拒否の型、複合型、その他、に分類している。宮田によれば(20)、文部省の 「児童生徒の問題行動等の実態と文部省の施策について」 (昭和63年)で、何. となく学校に行かないという無気力型が29.9%と最も多い割合を示し、不安な. 一2一.

(5) ど情緒的混乱の型が29%であり、学年別にみると、小学生では後者の割合が高 く、中学生では前者の割合が多いのが特徴であると報告されている。 このように、 「非社会的問題行動」という語や登校拒否に関してではあるが、. 「遊び・非行型」「情緒的混乱型」とは分けて把握していることなどから、本 研究では、 「アパシー」や「怠学」よりも「無気力」を使用した方が適合性が 高いと思われる。. 次章では、まず、 「学校アノミー」と「文化的目標」から、考察、検討を行 いたい。. 一3一.

(6) 〈序 章 注釈〉. (1)〈教育〉心理学では、盛んに研究されている。最近の動向について、以下 に簡潔にまとめておく。. 宮本は、代表的なものとして、達成動機づけ(やる気を実行に移す傾向). の研究と成功と失敗の帰属理論(または原因帰属)の研究をあげている。前 者は、成功接近の動機と失敗回避(不安)の動機の分析が主眼であり、後者 は、内的統制として能力要因と努力要因、外的統制として課題の困難度や運 などが重要であり、この理論の形成に寄与したのがセリグマン、その克服に 寄与したのがドウェック、ロッターであると述べている。. (宮本美沙子「第7章 意欲を育てる」磯貝芳郎編著『教育心理学の世界』 福村出版、1994年). なお、セリグマンは、「学習性絶望感」という概念を提案した。これにっ いて、斎藤は「逃げられない状況の中で理由のない攻撃にさらされた動物が、 逃げられるようになってからも腰を抜かしたようにその場から去れなくなつ てしまうという現象のことである。」と平易に説明している。. (斎藤学『「家族」という名の孤独』講談社 1995年p84) 水口は、 「無気力症候群」と名づけ、これは、不平や不満が、行為(努力). と成果(成功)の間の関連性(随伴性)の欠落を生じさせ、消極的・受動的 行動につながり、動機づけの低下を引き起こすことによって現出すると論じ ている。. (水口禮治「無気力化傾向の子ども」『教育心理』1990年8月 p33) 金光は、無気力感を絶望感としてとらえ、無気力感測定尺度・内発的動機. づけ・SPI(下田式)性格検査の相関性を考察している。 (金光玲子『子どもの無気力感についての研究』 兵庫教育大学修士論文. 平成5年度) 蓑内は、 「自己効力劇の定義や先行研究を明瞭にまとめている。最近は、 この研究が盛んである。. (蓑内豊「課題の重要度の認知が自己効力の般化に及ぼす影響」 『教育. 心理学研究』1993年3月p57) 桜井は、改訂学習性無力感と無気力発生に関する新たなモデルの検討を行 っている。. (桜井茂男『「無気力」の教育社会心理学 ∼無気力が発生するメ三尉ズ. 一4一.

(7) ムを探る∼』風間書房 平成7年) 関連して、小此木は、臨床社会心理学(小此木は「精神科医とか心理臨床 家などが、本来、診断や治療の目的で現代日本人の方々と接する、その過程 の中で観察し、理解した知見をもとに、その背後にある社会心理の動向につ いて、一定の認識と仮説を提示する学問」と定義している)の立場から、小 学生や中学生の登校拒否多発の背景として、戦前の日本社会に確立していた 断言的、絶対的な社会規範が、戦後、大幅に弱まり、価値観が多様化したこ と。また、欧米と比較して、子供本位家族と評価される家族状況があること と分析し、このような登校拒否現象の延長線ヒに、いわゆる学生無気力症が あらわれるとして、これは、回避的な傾向のあらわれとも言えるし、既成の 社会の仕組みの中に取り込まれることをできるだけ引き伸ばそうとする心理 とも言える。さらに、自分を越えた社会とか歴史とかの価値観と一体化する ような意味での自己を超えた理想とか目標を持つことができないために、あ くまでも自分本位のナルシズム(自己愛)を中心とし、:それを傷つけまいと. する。このナルシズムのとらわれのために人と自分、集団と自分との深いか かわりに入ることができない心理も働いていると分析し、この背後にモラト リアム人間化現象(小此木は「自分を超えた国家、社会、歴史的な流れに自 分をかけて自分を滅ぼすよりは、こうしたアイデンティティを確立すること を避けることによってあくまでも自分が生き延びようとする心理を有した人 間で、現代人共通のものである」と説明している)が作用していると述べて いる◎. (小此木啓吾「5 人格形成と精神衛生 ∼臨床社会心理学の立場から」 祖父江孝男編『日本人はどう変わったのか ∼戦後から現代へ』. NHKブックス535昭和62年 pp.94∼102) (2)当初、「学校アノミー」(第1章第1節)について調べるなかで、マート ンの「儀礼主義」が無気力の解明に寄与できるのではないかと考えた(第2 章第4節で詳述)。しかし、これだけでは、オリジナリティを出すのが困難 なため、比較的新しい理論である「冷却理論」に着目し、無気力との関連性. を考察した(第3章第4節で詳述)。そして、この両者を結びつければ、よ り鮮明に、無気力にいたる過程や対策を解明できるのではないかと考えた次 第である。. (3)竹内洋. 「職業高校の学校内過程 ∼X職業高校調査から∼」 『京都大学. 教育学部紀要』XXX皿 1987年p24 一5一.

(8) 参考までに、竹内は他著(「選抜社会 ∼試験・昇進をめぐるく加熱〉と. く冷却〉∼』メディアファクトリー 1988年p120)で上記の説について、 アール・ホッパーの「規範的期待水準」という概念(E. Hopper, Social Mo−. bility, Basil Blackwe11,1981年)をもちいて説明している。この「規範的. 期待水準」については、第3章第1急く注(2)〉で取りあげる。. なお、この論文については、第3章第3置く注(42)〉で、異なった角度か ら取りあげる。. (4)「高校部活動,いま」. 『モノグラフ高校生Vo 112』福武書店 1984年. 私立スポーツ校〈2校〉、私立進学校〈3校〉、公立進学校〈3校〉を比 較調査く例. 「高校の部活動は就職や進学する時、有利になる」に対して、. 私立スポーツ校78%、私立進学校52%、公立進学校20%〉した結果、私立ス ポーツ校は、勉強は:二の次になっており、それを許容する雰囲気が学校にも あると結論づけている。. (5)本研究では、第1章第2節第1項で論じるように、文化的目標を主要科目 (知的教科)の偏差値(学業成績)とおいた。. なお、この(上記で述べた、本研究における)文化的目標と職業(実業). 高校との関連性については、第1章第2節第2項で取り上げる。 (6)本研究では、文化的目標を、注(5)で述べたようにと.らえたため、あえて、. 定時制・通信制高等学校を対象からはずした。. なお、場合によっては、連続性のある小学校・中学校を扱う場合があるこ とを、ことわっておく。. (7)この定義は、現場の教師たちへのインタビューも参考にしている。よって、. 現場における視点や思いが付与されているものと考える。また、斎藤の「私 は臨床家として、登校拒否ができない子がいっぱいいることに危機を感じて いる。 『登校拒否不能症』である。」という文章にも(斎藤は、中学生を対. 象にしており、引用文のあとでは、おもに「いじめ」について言及している にもかかわらず)影響を受けた。(斎藤学『「家族」という名の孤独』講談. 社 1995年p171) なお、この定義は、「学校ぎらい」と重複するように思われるが、久冨は 「『学校ぎらい』とは『他に特別の理由がなく心理的な理由から登校をきら って長期欠席した』とされた者で、このなかには、長欠の主な理由を『病気』 や『その他』と判断された者はふくまれない。」 (久富善之編著『調査で読. む学校と子ども』草月文化、1993年 p110)と定義しており、文部省も、. 一6一.

(9) 年間30日以上の欠席についての調査を開始した結果、「学校ぎらい」の急増. が確認された(文部省『平成4年版 学校基本調査報告書』)と報告してい る。よって、本研究の「無気力」の定義よりも、欠席、遅刻、早退の頻度が 多いような感がある。しかし、森田は「(大阪市立大学社会学研究室による、. 公立中学2年生の生徒約6,000名対象の調査から 一引用者)現代の生徒た ちの中には、登校への回避感情ないしは忌避感情を感じたことのある生徒が、 幅広く分布している。」 (森田洋司 前掲書 1991年 p26)と述べており、. 厳密に区別することはあまり意味がないように考えられる。したがって、本 文では、「学校ぎらい」を取り上げなかった。. さらに、参考までに、本研究の定義と関連していると思われる対談を紹介 しておく。. 森「一三一いまは、ほとんど高校に入っちゃう。そういう状況のなかで少 数の下のほうはハミダシとして非行グループになっている。上のほうは上の ほうで、それには無関心でエリート化している。そういう輪切り体制のもと で、その体制自身のストレスをもろに受けてるのが、多数派である真ん中の 部分。その真ん中のストレスの歪(ひず)みの現われじゃないかという気が するのね、一炬、略」. 斎藤「保坂展人さんは、非行するごく一部の子どもと、非行さえできない 大多数とに分化したんだっていう説なのね。あとのほうは無行派。一後、略 一]. (斎藤次郎、貝母『元気が出る教育の話∼学校・世の中・自分∼』中公新書 1982年 p112). (8)国分康孝. 「アパシー ∼その原因と対策」『青年心理』 金子書房. 1985年 50 pp.30∼36) なお、 「うっ状態」とは区別している。. (9)笠原嘉 『アパシー・シンドローム ∼高学歴社会の青年心理∼』. 岩波書店 1984年 (10)星野仁、阿部裕 「回避性人格障害とアパシー・対人恐怖」. 『社会精神医学』第10巻1号 1987年 pp.102∼107 (11)稲村博 『若者・アパシーの時代』 NH:Kブックス 1989年 (12)小田晋 「子どものアパシーとは何か」 『教育心理』1991年2月 p6 (13)鉄甲清毅. 「大学生のアパシー傾向に関する研知 『教育心理学研究』. 1993年6月 p200. 一7一.

(10) (14)小松原忠治 「怠学の実態と原因を探る」『教育心理』1990年9月 p12 (15)小林正稔. 「怠学の早期発見法」 『教育心理』1990年9月 p29. (16)和田迫子. 「交流分析から登校拒否の予防を考える」 『教育心理』. 1990年11月 p13 (17)森田によれば、「アメリカでは、『虞(ぐ)犯』としての補導要件になる. ため、伝統的に非行問題の領域に位置づけられ、一後、略一」とあるが、ア メリカの影響があるのかもしれない。なお、森田は同著で「この観念は部分 的には妥当しているが、すべての『怠学』にこの観念をあてはめることは、. 生徒の不登校をこじらせることにもなりかねない。」と述べ、「生徒指導上 注意を要するところである。」と危惧している。さらに関連して、「怠業」 という用語について、同著で「登校しながらも特定の授業だけ欠席したり、 遅れたり、途中で抜け出す」と定義している。 (森田洋司『「不登校」現象の社会学』学文社 1991年p2,p42,p42,p15) (18)総務庁青少年対策本部編 『平成元年版 青少年白書』 pp.27∼28 (19)原野広太郎「登校拒否の心理と指導」『児童心理』金子書房 1990年44 pp. 11’v26. (20)宮田加久子 『無気力のメカニズム』 誠信書房 1991年 p25. 一8一.

(11) 第1章文化的目標 第1節 学校アノミー. まず、学校教育とアノミーに関する研究を紹介しておく。米川は「(四年制 大学の)入学志願者率と入学者率との逆数をかけて、社会的アノミー度を計算 してみると、社会的アノミー度は、男女とも、昭和50年代前半までは著しい上 昇がみられたが、50年代後半には下降傾向に転じたことがわかる。しかし、50 年代後半の社会的アノミー度も40年掛までのそれと比較すれば男女とも著しく 高いこと、62年には男女とも再び上昇に転じていること、なども指摘される。 なお、性別にみれば、男子のアノミー度は、一貫して、女子のそれよりも高く なっている。(1)」と述べている。また、他書で「学歴アノミー」という用語 をあげ「学歴アノミーとは、より高くより良い学歴の達成が、けっしてすべて の児童・生徒にとって可能とはならないにもかかわらず、すべての児童・生徒 にたいし、最大の努力をもって追求すべき目標として、文化的に一とくに社会 の集合意識や常識によって一価値づけられ、強調されているような学校社会を 中心に形成された社会状況を意味している。」(2)と定義している。. 次に、マートンのアノミー理論を取りあげたい。マートン自身はアノミーに ついて(3) 「制度的規定の衰耗過程が続くにつれて、その社会は不安定になり、. デュルケームのいわゆるアノミー(無規制状態)が出現する」さらに「アノミ ーは、文化構造の崩壊と考えられるのであって、とりわけ、文化的な規範や目 標と集団成員がこれらに応じて行動する社会構造上の能力との間に甚だしい食 い違いがある場合に生ずる。」および「文化構造と社会構造がうまく統合され ないで、文化構造が要求する行為や態度を社会構造が阻んでいるとき、規範の 崩壊、すなわち、無規制状態への傾向が生ずる。」などと述べている。なお、 米川は、マートンのアノミー論について(4)「社会的アノミーとよぶことがで きる。それは、個人的・心理的アノミー(アノミア)に対比しての社会的アノ ミーという意味とともに、日常の社会生活の全般的過程で現象する一般的アノ ミーという意味を含んでいる。」および「マートンのアノミー論は、緊張理論 の代表として通常あげられる」これは「性善説の人間観に立って、人々が犯罪 や非行を犯すのは、人々をして犯罪や非行を犯すように駆りたてる一定の圧力 ないし力が社会的に生じているからだと主張する理論のことである。」と説明 している。. 一9一.

(12) ではなぜ、本研究でマートンのアノミー論をとりあげるのかを説明していき たい。. まず、麻生は「学歴社会の延長線上にある高学歴社会では、進学者に対して、 良い成績をとり良い上級学校へと進学することが画一的に望ましい目標として. 課せられる。だが、この目標を実現できる生徒たちは、せいぜい1∼2割に過 ぎない。ここに、アメリカの社会学者マートンが、アノミー的逸脱と名づけた 現象が生まれる。つまり、学校では、共通な一定の成功目標(=良い上級学校 への進学)を何にもまして賞賛しながら、他方でこれらの目標に到達するため に是認された手段(=高い学力など)獲得のチャンスは、大部分の生徒にとっ て社会構造上厳格に制限されてしまっているのである。一三一これを、高学歴 社会における学校アノミー的病理とよんでおこう(5)」と述べている。. さらに、竹内は「学校はよい成績による能力開示を生徒の重要な目標として 内面化させながら、相対的評価をし、『勉強ができない』生徒を作り出す一略 一こういう目標(よい成績)の内面化と現実の達成水準との落差がさまざまな ストレスを呼びおこす。一霞一学校の『マッチポンプ』的構造に帰因する能力 剥奪感による生徒のストレスがもっとも大きなものであろう。ストレスが内攻 すれば、精神的疾患やそれにともなう身体的症候となる。ストレスが外回すれ ば、攻撃的行動になる。社会学者マートンの一眼一アノミ・一一論は、一眼一成績. という単一価値が支配しがちな学校では決して古い理論ではない。一瞬一学校 の『マッチポンプ』的構造とは構造化された(『構造化された』に傍点 一引 用者、注)学校アノミーにほかならない。(6)」と論じている。. 以上のように、学校の病理をアブm一チするのには、マートンのアノミー理 論が有効であると思われる。単一的な(ならざるをえないのかもしれないが) そして、制限的(ここでは、希少性という意)な目標に対して、高校生は、ど のように対処するのか。ここから、無気力が生じるのではないかと考えた次第 である。. 春節では、このマートンのアノミー理論のなかの文化的目標から考察したい。. 一10一.

(13) 第2節 文化的目標 第1項文化的目標=主要科目(知的教科)の偏差値(学業成績). まず、文化的目標の定義から始めたい。. マートン自身は「社会的文化的構造の種々の諸要素のなかで、さしあたり二 つのものが重要である。一略一第一の要素は、文化的に規定された目標や目的 や関心からなり、社会の全成員またはさまざまな地位を占めている成員に対し て正当な目標として掲げられたものである。一略一いずれにせよ人々の抱く志 望のフレーム・オブ・レファランスをなしている。それらの目標は『努力に価 する』ものである。」(7)と述べている。. また、米川は(8)「万人に対し正当な対象として提供され、かっ、文化的に 定められた目標、目的、関心からなり、アスピレーションの準拠枠組を内包す るところのものである。」とまとめ、この定義は二つに区分されるとし、前者 の「万人に対し正当な対象として提供され、かっ、文化的に定められた目標、. 目的、関心」という部分からは、文化的目標の価値実体(目標価値)としての 側面が明らかであると述べ、後者の「アスピレーションの準拠枠組を内包する」 という部分からは、文化的目標の価値規準的側面を示しているとしている。こ の意味で、文化的目標とは「社会の成員としての達成目標を一般的なかたちで 規定している理想価値」 (宮島喬「アノミーと自我統合の危槻 『現代社会学』. 七、第四巻第一号、1977年、p73一筆者、注)でもあるとしている。さらに、 この二つの側面をもってすべてであるというわけではなく、いま一つ、規範的 側面が認められると述べている。ここでいうところの規範的側面とは、文化原. 理の承認の命令(ロバート・K・マートン『社会理論と社会構造』森東吾顧 みすず書房 1961年 pp.128∼129一筆者、注)、あるいは、万人への期待と して捉えられるところの目標達成努力の文化的、規範強調(自著 p154一筆者、 注)であると言う。. さて、マートンは、1文化的目標を具体的に「アメリカでは、金銭的成功の目 標が文化に深く浸透している。」(9)と主張して、「共同的価値の在庫目録の なかには、これく金銭的成功〉に代るべき選択的目標がある。」(10)と述べて. いるが、このことをふまえたうえで、本研究では、文化的目標を主要科目(知 的教科)の偏差値(学業成績)(11)とおきたい。. これに関して、藤田は「競争的でメリトクラティックな教育システムとそこ. 一一. P1一.

(14) での成功が極度に重んじられる社会では、教師や親の権威と価値もその側面に 限定されがち」であり「学校社会における人間評価の尺度として普遍的に通用 しているのは、いうまでもなく業績主義的な価値に基づいて人間を序列化する 尺度であり、その象徴が学業成績のよし悪し、すなわち『勉強ができる一でき ない』という尺度である。制度的理念のレベルにおいてこの尺度がどれほど限 定的に位置づけられようとも、試験制度と進級制度に拘束される現実の制度的 活動が総体としてこの尺度に排他的な重要性を認める方向に傾くことは否定で きず、それは子どもたちの価値意識に明確に反映されることになる。」(12)と. 論じている。また、苅谷は「学校のなかでは、学業達成がもっとも代表的なメ リット==業績であり、これを基準に将来の進路が決まる場合をメリトクラティ. ックであるということができる。」そして「学校は、日常的にも、生徒の能力 と努力の成果である業績を高く評価する場である。この章の冒頭で見たように、 (日米の高校生の比較調査〈1980年〉と日本の中学生に対する調査<1987年>. pp3∼8一引用者)日本の子どもたちは、学校で評価される業績一学校での 成績を、将来の成功を占う重要な決め手であると見なしていた。」(13)と述べ. ている。さらに、秦は「学校で評価される業績がともすれば学カー辺倒になり がちな傾向が生じてきている。つまり、業績といっても、それは知的教科に限 定され、しかもテストによって評価可能な部分だけが強調されるといった傾向 が顕著になってきているのである。」および、「人間の能力は学力・知的能力 に限定できるものでもないし、ましてや職業的能力は学力・知的能力だけに依 存できるものではない。いうまでもなく、学校こそがこうした多様な能力の開 発にっとめるべきであり、学力・知的能力以外の多様な能力にも正当な評価を 与えるべきであろう。」(14)と述べている。. そして、高等学校の場合、米川は、人びとが学歴を(ほかに、地位・富・業 績)実際に文化的目標として認知しているか否かについて、成人、大学生、高 校生および中学生のそれぞれを対象として調査を行っているが、そのなかで、 学歴について「今の社会は、学歴が、何らかの目標を達成するための手段とし てだけでなく、学歴そのものとしても価値あるものだとされている社会だ。」 という質問に対して、高校生のうちで、学歴を文化的目標として認知している (「そう思う」と「どちらかといえばそう思う」の合計、以下同じ)者につい ては、75.7%(なお参考までに、成人・中学生も7割をこえているが、高校生 の認知がもっとも高い。また、高校生で、地位は85.6%、富は73.7%<男子の. 方が高い〉、業績は認知も否定もされていないくそれでも、女子の方が高い〉). 一12一一.

(15) という結果を導いている(15)。また、北沢は「底辺校といういい方が、非難を. 受けながらも浸透していったのは、高校の入学難易度を偏差値によって表わす ようになってきてからであろう。朝日新聞社『いま学校で』によれば、偏差値 が威力を発揮しはじめたのは1974(昭和49)年からであるが、(朝日新聞社編. 『いま学校で 4』1976年p229∼248一筆者、注)この年に高等学校進学率 が全国平均で初めて90%を越えたということは、偶然とはいえ、なかなか興味 深い事実である。」(16)と述べているが、これに関連して、佐田が、ある高校. 生の『「いまの世の中、江戸時代みたいだよ。昔はどんな親のもとに生まれた かによって、士・農・工・商、と身分が決められたように、いまは、テストの 点数によって“身分”が決められ、どうあがこうと、その“身分”以上には動 けない。手足をもがれたダルマみたいだ。表の世界では身動きとれないから、. みんな、裏の世界に走る。車、万引き、セックス・・。一事、略一(引用者)』 という発言を紹介し「『いまは江戸時代みたいだ』という彼のことばは、私の なかでトゲのようにひっかかった。というのも、取材を通じて多数の中・高生 と会うなかで、似たような感情をいやというほどぶっけられていたからだ。ご く普通の日常会話のなかにも、彼らの閉塞感情や序列意識を表わすことばがポ ンポン飛びだしてくる。」(17)と報告している。さらに秦は、高校生の意識・. 態度調査から抽出した勉強重視一勉強軽視の軸と、学校への適応一不適応の軸 を組み合わせて、高校での教育活動に対する高校生の四つのタイプを設定し分 析した結果、学校に対して適応的・肯定的で、しかも勉強を重視するタイプ、 つまりこれまでの伝統的な高校教育にふさわしい高校生は、全体のわずか24% で、残りの76%は高校での教育活動に対して反抗的、あるいは不適応であり、 とくに全体の29%を占める、学校に不適応で勉強軽視のタイプに属する高校生 は、勉強をやる気がなく、授業や教科書も十分には理解できない。また彼らは 教師に相談に行くこともなく、授業の他に、ホームルームや生徒会活動など学 校生活のすべての側面に不満を感じているが、さらに彼らは学校生活だけでは なく、家庭生活や社会生活にも不適応で、社会的な逸脱志向に陥りやすい特性 を示しており、非行や自殺などの問題行動と隣り合わせにあると報告している (18)。また、授業や勉強に対する意識と同様に、学校生活に対する評価が生徒 の学力に規定されているという議論(19)もある。. さて、それが具象したものとして、習熟度別(能力別)クラス編成(20)とコ. ース(類型)制クラス編成についてみてみたい。まず、太田は「能力別学級編 成の問題をみてみよう。能力別の編成にはいろいろなやりかたがあって、ボー. 一13一.

(16) ム・ルームは能力別にせず、英語、数学など特定の科目ごとにA、B、 Cなど と能力別の授業がおこなわれる場合と、クラスそのものが「学力」や成績によ ってっくられる場合とがある。つぎに紹介するのは、後のほうの例だ。私の高 校は、入学と同時に、入試の成績によってクラスが能力別に編成される。よい 方から一組、二組… 五組という具合でした。私は一組に入りましたが、最 初のうちは“進学組だ”と優越感にひたっていましたが、そのうちに私はいや だと思うようになりました。それはまず、能力別編成であるので、当然のよう に、四、五組は世間の目にはバカだと思われ、そして彼らは劣等感をもつよう になります。そのしわよせが一、二組にきて非難されるようになり、とくに一 組は孤立するようになりました。私はこのような能力別編成が高校生活にあっ てよいものだろうかと疑問に思います。高校というのは視野を広げるとか、ほ んとうの親友を得るところだと思います。そういう意味で高校は絶好のところ であるべきです。そういう意味で孤立しているいまの一組では、視野の狭い、 そして他のクラスの人の名前さえ知らないという高校生活になっています。学 校側では、その編成で授業のやりやすさ、大学進学率の上昇を目的としている ようですが、反面マイナスの面があるということをわかってほしいと思います。. (千葉・私立・男子)つぎに、普通科のコース制(類型性)の問題がある。二 年時から、文科・文理・理数と三つに分けられるのだが、私は数学が苦手だっ たことと、受験科目以外の理数系の科目で苦しみたくなかったので、文科にす すんだ。しかしそこには、就職志望の人など多様な進路希望をもつ人がおり (じつは四年制進学志望の人は理数などにあつまる)、とても勉強する雰囲気 ではない。勉強すると『マジメー』、『勉強ばっかりして』、『他のコースに いけばいいのに』とかいわれる。私は、クラブの関係で文理の友だちが多いの で、クラブに走っている。クラス分けをするのなら、個人の志望に応じて、科 目の選択をさせてくれればいいのにと思う。授業をバリバリやる(それがいい のか悪いのかわからないが)先生が他のコースをうけもち、タラタラやる先生 が学習意欲の低い文系の授業をやっているような気がする。 (和歌山・女子). このコこス制というものは、いま全国の普通科高校の七、八割でおこなわれる ようになっている。しかし、コース制をとらず、自由選択制の教育課程を実施 しているところも少なくないのだ。その選択制を経験した大学生の文章をよん でほしい。三年次の選択授業は、生徒一人ひとりの進路に応じ、各個人が希望 する科目を選べたという点において、いま思えば理想的な制度だった。それに 加え、能力別ということはまったくなく、生徒の自主的選択で行なえたのがう. 一14一.

(17) れしかった。『苦手な科目だから… 』という不安は少しもなく、懇切てい ねいな進路指導だった。事実自分の場合は受験を考えて、意識的に不得意な科. 目一数1、生物、地学、体育実技一を組むことができたのである。その組合わ せは何百通りになったか想像を絶するが、先生がたのそんな配慮がうれしかっ た。それ故、八クラスという組も、国公立と私立、理系と文系という別なく、. 一つのクラスに理系もいれば、体育系、芸術系、当然ながら文系もいた。灰色 に近いはずの三年次もそんな個性の集まりで、相互のユニークな進路選択をわ かちあうことができた。序列化させない学校側の姿勢であった(東京・男子)」 (21)と報告している。さらに、高校生の投書には「『高校受験が終わったら、. 遊び遊びの楽しいことばかり、勉強からすっかり解放されて、伸び伸びできる と思っていた。でも志望校に入れてうれしいけれど、気持ちが晴れない。思い あたることの一つは、高校に入ってから、一部の教科が習熟度別クラスになる、 ということではないかと思う。一筆者、略一習熟度別クラスを私は疑問に思う。. 一筆者、略一確かに今は学歴社会である。だからといって、生徒を頭のよい順 に並べてプレッシャーをかける方法には、賛成できない。』(『朝日新聞』 1990年4月1日朝刊、町田市の高校生の投書)」(22)とある。. このように、高校生には、上記の文化的目標が重くのしかかっているので はないだろうか。その社会的状況については次項で、その原因や背景について は第3項で考察したい。. 一15一.

(18) 第2項 社会的状況 高校生の高学歴志向が進んでいる。NHK放送文化研究所の世論調査(23)を みると、この10年間に「大学(4年制)以上まで」が39%から48%へと増え、 ほぼ半数になっている。また、文部省の統計(24)でも、1991年の短大も含めた 現役高校生(新規高卒者)の志願率は、50.2%(前年度49.2%)で、初めて5 割を超えたと発表している。. 親については、総理府の調査(25)の「親が自分の子どもに受けさせたいと考. えている教育程度」をみると、男子を持つ親は、「高校」が7.8%、「短期大 学,専門学校,専修学校」が4.5%、「大学」が53.9%となっており、女子を 持つ親は、 「高校」13.6%、「短期大学,専門学校,専修学校」が23.7%、. 「大学」が22.5%となっている。これを1985年の同調査結果と比較し、「大学」 のみについてみると、男子で5.4ポイント、女子で11.アポイント上昇している。. また、近藤は、厚生省人口動態統計と国勢調査をもとに、親の学歴構成をコー ホートで検討し、子ども(15歳が中心)に対する期待や教師に対する圧力を論 じている(26)。. 親の子に関する統計としては、「『実力があっても学歴がなければ認められ ない』と感じている親は七割を越えている一方、高校生の間には、社会的な達 成の意欲の減退がみられる。」という注目すべき調査結果(27)もみられる。関. 連して、宮崎は「学歴社会の社会的強制力が親に作用し、生徒の意志よりも、. 親の意志で高校進学が動機づけられる。とくに低学力の生徒ほど本人よりも親 の意志がつよく働く。」(28)と述べている。. 親の教師に関する調査では、父親の49.1%、母親の40.1%が、「サラリーマ ン化した無気力な教師が多い」と思っており、父親の59.7%、母親の56.3%が、 「教師の質は昔と比べて低下していると思う」であった(29)。関連して、河上. は「学歴偏重の社会意識は、教師の指導能力に対する不信を原因とする権威の 低下ばかりでなく、教師の社会的地位の下落による権威の低下をもたらす。学 歴偏重の意識をもった人びとは教師の地位をその学歴や学校歴の高さによって 決定する。社会全体が高学歴化するなかにあって教師の相対的地位は低下する ばかりであり、偏差値によるランキングにおいて必ずしも上位に位置ついてい ない教員養成大学は、父母や生徒の教師に対する評価をいっそう下落させる。」 (30)と論じている。. 以上のように、親側の「高学歴志向への後押し」(31)がみられ、生徒や教師. 一16一.

(19) に期待や圧力がかかっているのであろう。. さらに、象徴的なものとして「私立人気」があげられる。東京都における小、 中、高の生徒総数に占める私立の生徒数の割合を83年と93年の10年間でみても、 小学校で2.6%から4.0%へ、中学校で11.1%から20.8%へ、高校(32)で54.1. %から56.1%へとそれぞれ増えており、進学競争は、高校選びから中学選びへ と移り、いまや幼稚園段階での選択と競争になっている(33)感がある。久冨は、. この現象をく競争の低年齢化〉とく特権的ルート形成(中・高一貫私学受験高) 〉(34)と称している。さらに、小川は、高等学校における私学ブームについて. 「東大進学者を出すことで有名な私学のみによって生まれたのではない。むし ろ、このような(筆者は、私立高校の一部で、目標とする大学名を基準として 募集枠を細分化したり、大学入試に関連する学科の学力のみを問う選抜をする 傾向があることをあげている一引用者)多様な進学に対応する私立高校が、ブ ームの裾野を形成しているのである。現在の公立高校のコース制は、これらの 私立高校が展開してきた多様化を追うものになっている。」(35)と論じている。 そして、表出するのが「通塾」(36)である。調査(37)によれば、幼稚園で塾. や家庭教師を受けている子どもは、1987年では4%だったが、1991年は22%に アップしている。小学校低学年では、同28%から36%に上昇、中学校2年では 67.1%が塾に通っている。高校生の場合は9%から16%へとこの10年間でほぼ 倍増である(38)。深谷は「子どもが成長する過程で、勉強が必要なのはいうま. でもない。しかし、こまかな知識を系統だてて学習していくのは中学・高校か らで十分で、小学校段階は基礎的な学力を身につければ良いのではないか。小 学生のうちから塾通いをしながら、大学生になるとマンガを読みふけるという 状況はどう考えても正常ではない。一盛一生物的な発達をふまえ、そして、中 学から高校への成長を視野に入れ、小学生のうちに身につけるものは何かを明 確にし、子どもの成長に見合ったハードルをひとつひとつクリアさせていく。 そうした発達課題をふまえた成長を大事にすべきなのである。」(39)と述べて いるような状況を呈しているのかもしれない。. 以上の諸現象から、背後には「学習のテスト目的化と競争刺激とが悪循環を 深めていき」(40)、モティベーションについてみても、教師の指導意欲も、生. 徒の学習意欲も、競争に勝つために外発的に動機づけられている面が大きい (41)のではないだろうか。なお、ドーアは(42)、教育そのものが「仕事とする. ための学問」から「仕事を得るための学問(学歴稼ぎ)」へ転化したと論じて いるが、卓見であろう。. 一17一.

(20) くわえて高等学校の場合、特筆すべき現象がある。それは、ローレンが「日 本の教育が何を生み出しているかを一言で表現しようとすれば、それは『矛盾』 としかいいようがない。つまり、一方で義務教育は、平等で統合的な体験を子 どもに与えるが、他方で高校教育は、変更不可能なほどはつきりとした序列化 と相互隔離という根源的な体験を与えているのだ。」(43)と述べた、いわゆる 「偏差値輪切り」(44)、換言すれば「高校が多様化というよりも、 “多層化”」. (45)した現象である。そして、今津が「高校では“銘柄”大学進学率を基準に. した威信の序列構造が明確化し、本来系統が異なるはずの職業高校さえもこの 序列のなかに組み入れられ、職業高校の教育目標は現実には矛盾をかかえこむ ことになった。80年代に入ってからも増加し続けた『高校中退』者の背後には、 こうした教育目標に関する混乱が存在している。」(46)と論じたり、宮崎が. 「急速な高校の新設は、当然各高校間の格差を生じるわけである。その点から みると、学力差に応じての進学が比較的容易になるはずであるから、中退者が. 増加するのは意外ともうけとめられるのだが、現実には、一略一中退者は増加 しているのである。この高校増設、進学率の向上と同時にいわゆる『落ちこぼ れ』が増加してきたことは、一舟一『不本意就学』とかかわりが深いと考えら れる。」(47)と述べた「高校中退者」や「不本意入学生、動機不純入学者」 (48)の増大である。. これらの現象に関連して、高校にも大学進学率の多寡に応じた異質の生徒文 化が存在し、それが生徒の行動を規定するよう機能していることを明らかにし た研究(49)や、高校生の進路決定に関する研究で、進学か就職かの決定は、生. 徒本人の出身高校が強い規定力を持ち、成績や性格の規定力は弱いと結論づけ ている(50)論文もある。小島は、高校生に対する国民教育研究所の調査を引用. して「『自分の能力は“偏差値”で決定づけられているとは思わない』(59.0 %)、『勉強ができるできないで人のねうちを考えるのはよくない』 (88. 9%). 『学校の成績だけが能力ではない』(90.1%)というように、『偏差値』だけ. で人間の価値がきめられてたまるか、といった気持ちが反映した回答が示され ている。しかし、もう一方で、『能力が“偏差値”で決定づけられるように思 う』層が17.8%、つまり二割近くいるという事実も見すごせない。また、『能. 力は生まれつきで努力してもムダだ』という項目について、『そう思う』が 7.5%、『思わない』が25.2%なのに対して、『わからない』が67.5%もいる. ことは、この問題が一連一そう単純ではないことを示しているのではないだろ うか。一画一『偏差値』にとらわれるという答えが二割近くいることについて. 一18一.

(21) は、つぎのように考えることもできると思う。一略一『上位進学校』に入る高 校生は、日本全体の二割前後だろう。この層の学校の高校生は、大半が共通一 次を受け、あるいは有名私大を受験する。中学までは、ほぼトップクラスにい つづけて、ほとんどが学力で挫折を経験したことがない。また、これからも、 『学力』をたよりに世の中へでていこうとしている人が多い。一疋一だから、. 『偏差樹にもっとも深くとらわれるのは、上のほうの二割くらいじゃないか と思うのだ。一方、(それ以外の全日制にすすんだ人たちは一引用者、注)小 学校高学年のころからのテスト体制のなかで、なしくずし的に免疫をつくらさ れてきているんじゃあないだろうか。つまり、小学校から高校にかけての『で きる・できない』の序列化にならされてくるなかで、『俺たちの学力はこの程 度だから』とあきらめさせられてくることが多いと思える一略一これが高校生 の多数派だ。ここには、深刻なコンプレックスは表面化していないかわりに、 学校の勉強にかんしては、『まあ、こんなものじゃない』といったわりきりに 近い感覚があって、それが、「能力は生まれつきで努力してもムダだ』という 項目に対する、あの、あきらめとも反発ともいいきれない反応と関連している と思うのだが一後、略一」(51)と分析し、また、同調査の「高校生の七割が勉. 強はしかたなくてやる『苦役』だといっている」の調査結果を紹介しながら、 「学校が“これを学んだ”という手ごたえのある、主体的な学びの場になって いない、ということがあるんじゃないかと思う。」(52)と述べている。. 高校進学の目的は、どうなのであろうか。江原は「『高校ぐらい出ていない と困る』 (29%)、『大学進学のため』(24%)、『みんなが行くから』(9. %)が多く、いわば流れに身をまかせて進学した者が60%をこえており、現在 通っている高校を選んだ理由の31%は、『親や中学の先生にすすめられるまま』 (26%)、『友だちにいわれて』(5%)といった受動的なものである(大阪 府下のある学区の15校の府立高校長が1979年に実施。2000人の男女学生を対象 とするアンケート調査一筆者、注)また不本意就学の増加は、学校の雰囲気や 生徒文化を変えることにより、学校コミュニティの統一性をおびやかし、教育 活動を阻害する下位文化(sub−culture)を生み出す。」(53)と述べているよ. うな状況なのであろう。先走るようだが、儀礼主義を生み出す土壌のようなも のを感じるのである。. さらに、小島は「多くの大学生から出身進学校の様子をきかせてもらってい て、気になったことが二つある。ひとつは、これらの高校の生徒たちが、学校 の授業を非常にきびしい目でみていたことだ。一略一ある女子学生は、大学で. 一19一.

(22) やりたい学問のきっかけをむしろ予備校の授業でつかみえたと語っていた。」 (54)と述べているが、勉学や授業の状況はどうなのであろうか。. 「偏差値50以下の生徒が大半を占める高校で、現在のカリキュラムをこなし ていくことはかなり困難であり、大学進学の可能性もきわめて低い」(55)とい. うことであるが、関連統計をみてみると、普通科高校の高校生で「授業で教え られる中身が多すぎる」が45.9%、「授業の進み方がはやすぎる」が43.8%. (それぞれ、そう思う+どちらかといえば)、「あなたは今、何か打ちこんで やれることをもっていますか」に対して「勉強」は11.2%(ちなみに「もって いない」は38.1%、「わからない、無回答」は3.2%)というデータ(56)や、. 高校2年生に対して「勉強や成績について満足している」者は、7.9%であり、 「21世紀(10年∼20年後)に実現していると思うもの」のなか(合計20項目) で「受験競争が今より楽になる」(複数回答可)に答えた者は、39.3%である という調査(57)もある。. 教師の意識については、高校生の21%が授業についていけない生徒であると 判断しているという調査結果(58)や「生まれつきの能力がなければ、いくら努. 力しても成績はあがらない」(38.8%、進学校との差+8.9%)、「高校段階 では生徒の能力・適性はほぼ固定的なものとなっている」(46.6%、同+5.9 %)など、 “あきらめ”ともとれるかなり否定的傾向の強い指導観がみられる もの(59)などがあり、ローレンも「高校生の三分の一を占める職業高校の生徒. は、一々一職業高校で『主要五教科』を担当する教師たちは、もっとも簡単な 教科書でさえむずかしすぎると思っている。」(60)と報告している。. 以上、考察したように、高等学校には、ローレンが「ある地域の高校間の序 列は、全国の大学間格差と同じくらい、その地域に住む人びとにとってはっき りしたものである。それぞれの地域社会では、どの高校を卒業したかというこ とが、一生涯つきまとうことになる。さらに、個々の生徒がどのような特性を もっているかについて、ことこまかにステレオタイプがっくりあげられ、それ が彼らの自己イメージに、ぬぐいさることのできない刻印を押している。」 (61)と述べるような状況があるのであろう。. 以上、述べてきたように、学校内だけではなく、学校をとりまく社会で高学 歴志向が拡大されている以上、学校だけを批判しても無意味であると思われる。 外部から圧力があるがために、いわゆる「偏差値教育」もせざるをえないので はないか(62)。. なお、今まで頻出してきた「高学歴志向」(63)とあいまって「高学校歴志向」. 一20一.

(23) も重要であると考えられるが、とにかく、その原因や背景は何であろうか。次 項で考察していきたい。. 一21一.

(24) 第3項原因と背景 まず、「学歴」という用語の意味についてからはじめたい。新堀は、1)実質 的な学歴(学歴を獲得するということは、ある教育を受けることを意味するか ら、その結果として、個人は新たに知識や教養を身につけるはずであり、こう して身につけたものが実質的学歴である)と、2)レッテルとしての学歴(学歴. を尊重する、評価するという場合、学歴獲得の結果たる実質的な内容ではなく て、獲得された『学歴』自体がものをいうことがある)の二種類があるとの観 点から、学歴をこの両面を備えるものとしてとらえている。そして、『人間の 能力の評価、判定、したがってその地位の割り当てや待遇の基準として、形式、 肩書き、レッテルとしての学歴を過度に重視するという傾向や制度』を『学歴 主義』と定義し、この学歴主義によって生まれる社会を学歴身分制社会(=学 歴社会)と呼んでいる(64)。. 次に、前項で断ったように、「高学歴社会」と「学歴社会」という用語につ いて、検討してみたい。福田は「学歴社会は明治以後の日本、戦前の日本に著 しい特色であって、ある意味では当時の方が現代よりはるかに露骨な形でそう であったが、それは日本社会の成員の一部をとらえていた現象にすぎず、それ に対して今日の『高学歴化』を『学歴社会』と呼ぶときには、高い進学率(35 %)が示すように、社会成員の大部分をとらえる広範な現象を意味している。 なぜ学歴社会が戦前に著しいにもかかわらず部分的現象であったかというと、. 戦前には学歴にかかわりなしに人間が生きていく、そういう領域や余地がいま よりも広く存在したからだ」(65)と指摘している。. このように、現代は「高学歴社会」であるといえよう。ここに、高学歴志向 者の増加にたいする受け皿不足の現状が問題化してくる。米川は、 「文部省の. 『平成3年度 学校基本調査報告書』を利用して、以下に簡単に考察するにと どめる。まず、大学・短大の入学定員をみてみると、合計で大学が414,680人、. 短大が182,630人、両者合わせて597,310人となっている(ただし、『日本教. 育年鑑1992』による平成2年度の数値)。これにたいして、同年3月の高等学 校卒業者数1,803,221人のうち、現役の実入学志願者数一実際に大学・短大へ の入学志願をした実人員数一は、対大学が630,890人、対短大が274,009人、 両者合わせて904,899人である。したがって、さきの入学定員にたいして現役 の実入学志願者数のみでも、大学・短大とも:L5倍となり、大学入学志願者の 34.3%、短大入学志願者の33.3%、両方で34.0%が入学定員の枠からはみ出し. 一22一.

(25) ていることになる。また、5月1日現在でみた入学者数を入学可能人員とみれ ば、大学で521,899人、短大で249,552人、両者合わせて771,451人となるが、 それでも、現役だけに限っても、大学入学志願者の17.3%、短大入学志願者の 8.9%、両者合わせて14.7%が(だだし、浪人を加えてみると、大学入学志願 者の42.8%、短大入学志願者の13.2%、両者合わせて35.7%が)大学または短. 大への入学を実際に志願しながらも、受け入れ側の大学・短大の収容能力との 関係で入学できない状況にある。さらに、大学・短大への入学希望をもちなが. らも実際には入学志願をしなかった者をも含めた現役の進学希望者を平成3年 度の時点で推定してみると、1, 182,913人前なる一この推定進学希望者数は、. 高校卒業者で就職しなかった者を便宜的に大学・短大進学希望者とみなして、 就職率34.4%を100%から差し引いた非就職率65.5%を高等学校卒業者総数に 掛けることによって得られる一。この推定進学希望者数とさきの入学可能人員 とを対比してみると、大学、短大合わせて、推定進学希望者の65.2%が入学可. 能な状況にあるにすぎず、大学あるいは短大への進学希望をもつ者の3分の1 が進学を断念せざるをえない現状が、この点からも明確になる。」(66)と指摘. しているが、このような現状は、ますます、受験競争に拍車をかけるものと思 われる◎. さらに、米川は「こんにちでは最終卒業学校種別の意味よりも『どこの大学 に入学し卒業したか』という特定の『学校歴』が含意されることも多く、この 概念の異同の不明確さが学歴社会論を複雑にしていることもある。」(67)と論. じているが、関連して、深谷は、10年前の高校生の意識と比較して、全般的に みて、高校生の意識はそれほど大きく変わっていないとしながらも、1)一流大 学の値打ちはますます上がり、自分はそれらの大学に入れそうもないから、入 れそうな大学に入って、大きな希望を持たず地道に生きていこうとする傾向が 強まっていること、2)家庭生活を大事にして、夫婦で力を合わせて幸せな家庭. を作ろうとする者が多くなっていること、の2点がわかったとし、その結果か ら、社会的な達成への関心の弱化と家庭志向の強化が示唆されているとして、. 筆者は、こうした高校生の変化について、私生活の充実を求めようとする現代 社会の動向を反映するものなのかもしれないが、未来社会を作る高校生には、 社会的活躍や自己実現に意欲を燃やし、自分の生き方にもっと自信を持っても らいたいと提言している(68)。. 以上のような「高学歴化(特定の「学校歴」を含む)」(69)が、なぜ蔓延し てきたのかを考えてみたい。. 一23一.

(26) まず、山口の説(70)を紹介したい。三項目を挙げている。第一に、技術革新. に伴う高度成長経済社会の学校教育に対する期待感。第二に、幸福追求の条件 として学歴が高く評価される傾向が、国民一般に生じたこと。これについては さらに、「精神的価値を高く鼓吹して物質的貧困に甘んじさせた戦前の道徳は、. 敗戦という惨めな結果を生みだした。その反動として戦後はもっぱら物質的ゆ たかさのみが幸福の内容とされ、物質的豊饒に到達する手段として学歴が有効 であるという認識が国民の間に普及したのである。」と説明している。第三に、 親が果たせなかった夢を子どもに投射したこと。これについては、「戦前は階 層差が激しかったので、有能な者でも上級学校に進学することができず、逆に 富裕な家庭の子どもはそれほど有能でなくても上級学校に進学することができ た。」と述べている。. 次に、米川は「種々の国家的な資格制度が社会的選抜機能として重要な役割 を果たしているイギリスや、企業や産業界において、学校卒業後も、個人のア チーブメント(業績)に基づいて、きびしい選抜が制度化されているアメリカ などに比べて、わが国では学校教育歴のもつ社会的選抜機能と地位配分機能は、 近年その力を相対的に低下させっっあるとはいえ、まだまだ強くはたらいてお り、こうしたことから日本は学歴社会であるということができる。」(71)と論 じている。. さらに、久冨は「日本の教育における競争の激化が、1960年代に本格的には じまり、70年代半ば以降その激化の度を一段と加えてきた過程は、日本の民間 大企業における能力主義労務管理(労働者相互の競争の仕組み)の成立(60年 代)と、オイル・ショックを減量経営で乗り切るなかで、企業が、『労働者の 職業生涯を徹底した競争として組織するのに成功した(70年代半ば以降)その 過程にぴったり重なっている。二つの世界での競争の並行的激化には、相互の 関係があることは間違いないだろう。」(72)と述べ、「学力・学歴獲得競争の. 秩序が、『正統的』な、つまり誰もが承認せざるを得ない秩序にのし上がって きているというのが現代日本社会の特徴である。そして、この問題は、近年、 「企業社会』とも『会社中心』ないし『会社本位主義』とも総称されている、 日本社会全体の支配秩序と深いっながりをもっている。」(73)としている。ま. た、久冨は、1975年以降を「閉じられた競争」と称している。この特徴として、 「ゼロ・サム・ゲーム(いくら激しく競争しても間口の広がらない競争)」や 「(日本の子どもたちに対する)閉塞的状況」などの語で示され、さらに、こ こから逃れることが事実止難しく、社会における「格差拡大・固定化」に対応. 一24一.

(27) するとしている(74)。さらに、「閉じられた競争」では、「その上部では『卓. 越化(少しでも他に抜きんでて差をつける)』の競争が、下部では振り落とし (『周辺化』)をめぐる争いがうちつづくことになる。総じて上から下まで幾 段にもわたって、ちょっとした差が優・劣の等級づけとなる果てしない『差異 化』が展開されるのである。」(75)と述べている。. 続けて久冨は、「『教育は元来競争的ではないのに、企業社会から教育の世 界に競争が持ち込まれた(波及した)』と理解するならば、それは一面的であ ると思う。近代学校制度はもともと競争的なものである。だから、教育の世界 における学力・学歴獲得競争の固有にして独自の姿が展開してきたのである。」 (76)と論じているが、ここで、学校社会と企業社会の関連性が、あらためて問. 題になるものと思われる。ほぼ同様に、桜井は、「学校という空間は、まさに 余計なもの、秩序をみだすものを排除する規範の支配する空間なのであり、か っまた、数量的差異化によって序列づけが実施される空間でもある。そして、 このような差異化イデオロギーは、いうまでもなく、社会的階層化の原理を強 固に支えるものなのである。一華一もとより、教室のなかで価値をもつ能力は、 単に一定の枠のなかでの問題処理能力にすぎない。そのようなきわめて一面的 な能力が、数量化され、合理的な論理をもつ科学によって裏打ちされてゆくこ とによって、『俗知の聖知への化体の公的承認』 (マルクス)が実現する。ま. さに、試験制度こそは、社会総体を支配するのであり、社会そのものの『学校 化』が完成するのである。」(77)と述べている。これらの論に対して、長谷川. は「近代化が進むにつれて、国家は国民をその能力に応じて、適材適所に配置 することによってさらに能率をあげようとする政策がうちだされる。そして学 校は、いわゆる『人づくり』のための機関として活用されることになり、近代 教育は国家の近代化を推進するエンジンのような役割を果たすことになるので ある。このことは、教育本来の意図、すなわち子どもを『善く』するというこ とから、微妙にズレてくることになり、近代学校での教師にとっては、粘土細 工や植物栽培(同機p144のルソーの箇所で説明している一引用者)による教育 の考え方と相まって悩みが深くなってきたという状況がでてきた。」(78)さら. に「一人ひとりの個性の伸長という大事な教育の中身よりも、どれだけ学校の ステップをふんで社会に出てきたかが問題にされるようになったのである。そ のような状態をつくったのは学校ではない。むしろ学校の外側、とくに人材を 確保しようとして躍起となった企業サイドにあったといえよう。その外部の人 々がいま、学校教育についてあれこれと多くの非難をしているというのだから. 一25一.

(28) 皮肉なものである。一略一学歴偏重は、学校の外側で仕掛けられたものの結果 であり、学歴社会が真の能力主義から脱線し、学歴による処遇差や賃金差をつ くりだしたのも官公庁や大企業であった。」(79)と述べている。・(80). 最後に、竹内の論を紹介する。竹内は、現代日本社会について、 「他人との 共通性が多いほど『人はそれだけ鋭く他人との相違を感じる」 (ジンメル『社. 会分化論』一筆者、注)ということが他面での事実であることを想起すれば、 中間層の膨脹にもかかわらずではなく、それゆえにこそわずかな差異をめぐっ ての競争が激化するともいえる。」(81)や「特に、差異を『異』(異質性)よ りも『差』 (序列性)に力点を置いて理解する精神構造が存続するぶんだけ、. 中間層の膨脹はあらたな地位競争の激化をもたらそう。しかも、ここに世間並 み圧力が加わると、それは加速化する。特に日本人にとっての世間並みは平均 値に置かれたわけではなく、平均値をやや上まわるところに置かれ、全体のレ ベルアップとともに次々と上がっていく、ということに注意したい。」(82)と 述べ、受験戦争の激化について、 「将来の生活様式の高値安定志向に駆動され た面が大きい」(83)としている。そして、戦前と比較して、「戦後の民主化と. 学校の単線化、そして経済の高度成長とともに生じた中流意識の蔓延とともに、 教育アスピレーションはひたすら膨脹し、その階層間格差はほとんど消滅した」 (84)とも述べている。次に竹内は、教育アスピレーションの構造について(85)、. 「投資としての学歴」の観点と「(街示的)消費としての学歴」の観点を指摘 している。前者については、「宝くじ付定期預金」と特徴づけ、これについて、. 安定(「定期預金」)を確保したうえでのくもしかしたら〉アスピレーション であるとしている。またこれは、単純な学歴万能観ではなく、学歴有意観とし ている。後者については、民族的、言語的、文化的に同質社会である日本社会 においては人種や宗教、言語などが人々を類別する一般的カテゴリーになりに くいとし、そのぶんだけ学歴や年齢が類別カテゴリーとして大きな位置をしめ ると述べている。日本では「生物的出生」によって階級が決められるわけでは ないが、各段階の入学試験による「社会的出生」によって階級が決められるの であり、よって、親が子供の学力や学歴を物差しにして「エラサ」を競いあう 風潮になるとしている。さらに、竹内は、各種データでもって、学歴社会の実 態を大企業における昇進と学歴で考察した結果(86)、高学歴が出世や昇進に 「決定的」に有利というわけではなく、「能力」 「実績」もかなり重要な要因. であるということで、前述した学歴有意観を導いている。 ここで、高等学校について、現代史的にみてみたい。,「もともと、第二次大. 一26一.

参照

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