• 検索結果がありません。

(58)麻生誠 「学校アノミー病12の療法」 麻生三編 前掲書 1983年 p232   この調査は、大阪大学人間科学部教育計画論研究室によって1980年に行わ

れた。なお、ここで麻生は、学力遅滞者(犀「落ちこぼれ」)と表現し、さ  らに、「学力遅滞率(=「落ちこぼれ」)は、5%程度であれば一応ノーマ  ルとみなされるが、10%となると一斉授業の効率は著しく低下し、20%とな  るとその機能は麻痺に近くなる。」(同著p232)と述べているが、この  「学力遅滞」については、第2章第2節で論じたい。

(59)京都大学教育社会学研究室 『教師と生徒の構成的現実一高校における   かくれたカリキュラム の調査研究から一No.3』 1985年

  なお、大学進学率から、進学校・非進学校の区分をしている。

(60)T.ローレン 前掲書 1988年 p251

(6 1) lbid. plO6

(62)このことについて考えてみたい。偏差値は、現代の教育問題の諸悪の根源 のように言われている。確かに、そのような面もあるが、これがないと進路 指導がはなはだやりにくくなるのも事実である。高等学校の場合、生徒が志  望したり、実際に受験する上級学校は全国(最近は外国の場合もあるが)千  差万別である。よって、偏差値が存在しないと遠方の志望校などでは、合否  の見当もっかなくなってしまう。それでは、高校の進路指導の存在意義がな  いように思われるかもしれないが、生徒本人と保護者の意思を確認したり、

対策を練ったり、悩みを一緒に考えたり、などなどやるべき事(実際に現場 で行っている事)は、いくらでもあるのである。また、業者の偏差値に依存  するだけでは、あまりにも他力本願的であるので、自校独自の偏差値と併用  しながら進路指導を進めていくのは、当然のことである。それはともかく、

現場で偏差値を持ち出すとき、生徒や保護者に、「偏差値、偏差値と言いた  くないのですが、現実にはいたしかたないので… 」などと言いながらも、

何かやりきれないものがあるのである。それは何か。近藤は「学力取得競争 がゼロサム・ゲームである(ある人が得をすれば他の人が必ず損をする)と  はよく指摘されることである。」 (近藤博之「学歴社会の新しい段階」 前

掲書p6)と述べ、また竹内く克好〉は、「偏差値は、平均値からの隔たり を相対的に表す数値であるから、例えばあるテストで満点を取っても、全員 が満点を取ったのでは、偏差値はアップしない。要は他人よりもどれだけ高 い得点を取ったかということである。そこで、無限の競争が行われることに なるのである。」(竹内克好「なぜ偏差値重視の教育がダメなのか」『青少 年問題』平成5年10月号青少年問題研究会 p20)と述べているが、まさ

しく、これなのである。例えば、私が、学年集会で進路担当として偏差値に ついて話すとき、言葉を選びながら話していても、何かわだかまりを感じる のは、この偏差値の不可避な性格ゆえんなのである。

  また、上述のゼロサム・ゲームについて、竹内く洋〉は、現代の青年がア レルギーをおこすものであり、獲得や達成を目指した競争の時代から、ダイ レクトに他者のまなざしのなかに自己確認しようとする競争の時代になりっ っあると述べている(『競争の社会学一学歴と昇進一』世界思想社 1981年 pp.176〜180なお、竹内は、「ゼロ・サム型競争」と表現している)。

 さらに、参考までに、西部と三田の対談を紹介する。

 西部「偏差値の中身の問題を議論する必要がある。国語とか数学とかとい った教科ごとの偏差値はあってもいいけど、『会話能力』とか『討論能力』

一40一

 とかの偏差値もあっていいですね。」

  三田「偏差値の中身がシンプルすぎますよ。」

  西部「学業の世界はある程度は問題の解き方をマニュアル化できる。そう  いう意味では、『確実性の世界』なんです。ところが、実社会はマニュアル

化できないことにこそ重要なことが含まれているし、だからこそ実社会で必 ずしも優等生だけが活躍できるわけではない。実社会で生きるとは、いわば  『不確実性の世界』をどう生きていくのかの問題になってくる。そのとき、

やはり重要なのは自己表現能力とかユーモアのセンスとか、企画能力なので すね。そうした訓練や教育は、主として家庭の責任とも言えるでしょうが、

学校教育の場で軽視していい問題ではないと思うのです。ちょっと教育関係  者たちが時間をかければ、その審査基準は見つかると思うし、事実、欧米の

学校ではかなりの程度はそうした教育の重要性が認識されています。私は家 族を連れてイギリスで暮らしたことがあるのですが、そのとき、子供たちを 公立学校に入れた。そうしたら小学校の段階から、詩の朗読をさせたり、自  分の意見をきちんと言わせる授業があったりと、日本とはずいぶん違いまし  た。人間は大人になれば仕事につくわけです。仕事というのはグループワー  クですから、そこでは人間関係を生きていくうえでの表現能力が大変重要に  なってくる。だからこそ、ただ単に各科目の知識を教えるのではなく、その 授業を通して、社会的な場で応用できるような能力を自然と身につけられる  ような教育がもっと日本でも考えられていい。」

  三田「たとえば『あなたのお子さんは弔事 としてはきちんと頭に入っ  ているのですが、皆の前できちんと 発表する能力 には欠けます。ですか  ら、合格点はっけられません』という基準があってもいい。事実、ヨーロッ パなどではこうした考え方が強いようですが、日本はどうも知識の詰め込み  に比重がかかりすぎている。一撃、略一」

  (西部逡、三田誠広 前掲書 1994年 pp.47〜48)

  なお、この偏差値をめぐるせめぎあいについては、第3章第4節の「ダブ ル・バインド・セオリー」においても、考察する。

(63)関連して、 「高学歴社会」と「学歴社会」の用語の差異については、次節 で扱うことにする。

*第2節第3項

(65)福田歓一  『世界』 岩波書店 1987年 pp.・58〜59

(66)米川茂信  「3 高学歴化の社会病理」 米川茂信・矢島正見編著

 前掲書 1993年p55

(67) lbid. p42

(68)深谷昌志 「高校生は変わったのか 一1980年調査と比較して一」

  『モノグラフ・高校生 92』福武書店教育研究所 VOL361992年10月

  15都道府県の高校1〜3年生2.354名を対象に質問紙調査(10年前と比較  するために、調査票は1980〜81年に行われた調査から項目を抜粋して作成)

 を行い、その内容は、高校生活、学校観、進路選択、幸福観、職業観、家庭 観など多岐にわたっている。

(69)天野郁夫は『教育学大全集5 教育と選抜』 (第一法規出版 1982年)に  おいて、資格を教育資格と職業資格に分けて論じており、学歴・学校歴を教

育資格としている。大学などの高等教育諸機関の入学も卒業も、資格(教育 資格)なのである。

(70)山口透  「第4章 学校の教育病理」 麻生誠編 前掲書 1983年  pp. 110tN・111

 なお、新堀は同著で、「より高い学歴、より有利な学歴を求めての進学競 争は戦後、単線型に教育制度が改革されていくとともに、上級学校が全国い たるところに増設され、また人びとの経済水準が向上したため、全国的な規 模で行われるようになった。」 (新堀通也「第1章 教育病理の構造」p33)

 と述べている。

 さらに、米川は「日本の高等教育は、1960年以降急速に進展するのである が、この背景について、文部省は『学制100年』のなかで以下の諸点をあげ ている。1)単線型の新学制で大学進学が容易になったこと、2)明治以来の学 歴尊重の風潮、3)国民生活が向上し、父兄の学費負担能力が高まったこと、

4)科学技術の振興と理工系を中心とする科学技術者養成の社会的養成が高ま ったこと、5)私大の、規模拡大によって大学の威信を高め、経営基盤の安定 を図ろうとする傾向が、進学希望者の増加を生んだこと、6)私大の設置・学 生募集が容易になったこと、等である。さらに付け加えれば、日本経済の高 度成長が『大学卒』の需要を高め、それによって生じた学生の就職状況の良 好さが、人びとの学歴信仰をいっそう強化したこともあると思われる。」と 分析している。 (米川茂信「3 高学歴化の社会病理」米川茂信・矢島正見 編著 前掲書 1993年 p47)

一42一

(71) lbid. p45

  関連して、矢島は「学歴社会の病理は、いまさら申すまでもなく、過激な  受験競争を導き、学校を選抜機能そしてふるい分け機能の貫徹する場と化し、

 多くの落ちこぼれ生徒を排出させ、そうした少年が非行や問題行動に走ると  して、社会問題になっているものである。学校教育がこうした学歴の病理を  出現させるその根底は、知育への偏重でも教師の生徒への無理解でもなく、

 学校教育が教育資格を与える唯一の機関であり、かっ、この教育資格が職業  資格と連動しているからである。言い換えれば、明治以来こんにちに至るま  で、社会的成功・立身出世の制度的手段を学校教育がほとんど独占してきた  からである。」と述べている。(矢島正見「9 資格化の病理」米川茂信・

 矢島正見編著前掲書1993年p199)

  参考までに、このことを「価値観」からみれば、以下のように考えられる  と思われる。

  「価値の多元化に関していえば、これは社会的分化にともなって次第に現  われてはきているが、その実態はかなり限定されたものである。すなわち、

 価値の多元化といっても、必ずしも個人個人の価値観が個人の生活史等に立 脚して十分に多様化しているわけではなく、むしろ、いくつかの限定された  価値観が多くの人に共通して志向されていたり、また、たとえば同世代とい  つたような一定の社会的属性を共有する社会集団や社会的成層において、ひ  とつの価値観が大多数のメンバーによって志向されるといった傾向にあり、

 それゆえ個人主義が確立するほどに集合的価値の拘束から個人が自由になつ  ているわけではない。」 (米川茂信「1 成熟化の社会病理」米川茂信・矢  島正見編著 前掲書 1993年 p22)と論じ、さらに三田は「世の中の価値

観は多様化してきたなどと言われますが、私はそうは思わない。むしろ、そ れとは逆に価値観はシンプルになっているのじゃないかと思うのです。だか  らこそ、偏差値に過剰反応する人が多く、偏差値の肥大化を許してしまって  いる。」(西部逼・三田誠広前掲書 1994年pp.45〜46)と語っている。

  価値観の多様化(多元化)と画一化をめぐる議論は、盛んに行われている が、本研究では扱わない。

(72)久冨善之 前掲書 労働旬報社 1993年 p7

  久冨は、ジラーールの「欲望の三角形」(R・ジラール『欲望の現象学』

古田幸男訳 法政大学出版局 1971年目を紹介して、次のように述べている。

  「『欲望の三角形』、つまり人間の目標物への欲求・欲望は、他者がそれ

関連したドキュメント