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第1節 個人的適応様式の類型論と儀礼主義

 マートンは、「個人的適応様式の類型」について、「ここに、われわれは、

五つの適応類型を考察するが、これらを図式的に示すと、つぎの表のとうりで ある。 (+)は『承認』、(一)は『拒否』、 (±)は『一般に行なわれてい る価値の拒否と新しい価値の代替』をそれぞれ意味する。

  適応様式 1 同  調 皿 革  新 皿 儀礼主義 IV 逃避主義 V 反  抗

文化的目標   十

  十

±

制度的手段   十

  十

  ±        (1)J

と述べ、「ここで検討しているのは、文化的社会的構造の矛盾に対する適応諸 様式であって、性格とかパースナリティの類型に焦点をおいているのではない」

(2)と確認している。

 さて、前章で論じた文化的目標と上記の類型(とくに適応様式)を、教育に 関する現象にあてはめて考察してみよう。

 まず、同調についてである。例えば、「偏差値を熟知していた者ほど、将来 の目標をはっきりともち、その目標に向かって努力をしているという結果を示

している」そして「『今勉強しておけば、将来必ず役に立つ』という勉強に対 する積極的評価は、偏差値熟知者ほど高い」という研究(3)があるが、これは、

同調を示しているものと思われる。

 同調以外(4)は、宝月が「社会全体(もしくはく特定〉他者)が個人に課す る(相互作用を伴って)『課題』及び(もしくは転化して)『問題』となる。」

(5)とまとめているように、様々な問題を引き起こすのであろう。以下、非行 と高校退学を例にあげて考察しておきたい。

 まず、非行について考察したい。第一に、清永の少年の再非行化についての 研究(6)を紹介したい。これに及ぼす学校・家庭環境の諸要因の影響に関し、

その被説明変数としては再非行歴を説明変数としては学業成績・怠学状況・高

校不進学・保護者職業・家庭の経済的状況・両親(そのいずれか)の欠損の6 要因を用いて、パス・モデルによる分析を行った。結果は、学業成績の不振が 直接最も大きな影響を持つことが示されたと論じている。第二に、秦の論文

(7)をあげたい。秦は、「非行・問題行動が、主としてどの程度の学業成績を とっている生徒から発生しているのか、高校生についてみておこう。すでに周 知のように、現在、中学校から高校への『輪切り選抜』によって、高校間には、

大きな学業成績水準の格差が生じている。そこで、一略一高校を一応四つのタ イプに分け、高校タイプ・学業成績別の非行・問題行動発生率を示しておいた。

また、多くの非行・問題行動のなかで、無断外泊、万引き、暴走行為の三つを とりあげたのは次のような理由による。これら三つの行為はいずれもそれ自体 悪質であるうえ、しかもこれらは他の非行・問題行動と結びつきやすいという 特性をもっており、極めて問題状況の大きい行為だからである。例えば、無断 外泊は、喫煙、ボンド・シンナー、怠学、暴走行為、無免許運転といった行為

と結びつきやすく、一人の生徒がこれらの行為を重複して経験していることが 多いのである。これら三つの高校タイプ・学業成績別発生率をみてみると、い ずれも高校タイプ、そして学業成績と明らかに関連していることがわかる。つ まり、高校タイプによって発生率に差異があるうえ、同一の高校タイプであっ ても学業成績によってまた差異が生じていると結論づけている。以上の2論文 から、非行は、学業成績という文化的目標が関連していることがわかる(8)。

また、上記の適応様式については、逃避主義か反抗であると考えられる。

 次に、高校中退(9)については、「『進学率の高い高校ほど、退学者が少な い』 『高校時代に学校をやめたいと思った者の特徴として、成績下位者と非進 学校生に多い(なお、男子が女子より約10%多い)』 『やめたいと思った理由 は、勉強が嫌いが、49.9%で第1位』」という統計(10)や「中退問題=学力問 題」と結論づけている調査結果(11)もある。さらに、宮崎は「怠学による退学 というのは、現級留置(いわゆる落第)や学力不振などの『落ちこぼれ』が大 半である」(12)と述べている。ここから、高校中退も、学業成績という文化的

目標が関連しており、適応様式については、逃避主義(場合によっては反抗)

であると推測される。

 以上、非行、中退と考察してきたが(13)、本研究のテーマである無気力と儀 礼主義についてはどうなのであろうか。マートン(14)は、儀礼主義(RITUALI−

SM)について「高遠な文化目標を放棄するか、または切り下げて、そのかぎり で自己の志望を果すことである。一挙一制度的規範は、なお依然としていやお

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うなしに固守されている。恐怖のために無気力(原著では、inaction p20419 57年)となり、もっと的確にいえば、型にはまった行動を生じる」および「大 望を抱くと欲求不満や危険が生じ、志望を引き下げれば、満足と安全が得られ るということである。」と述べている。この定義の前半部に、「高遠な文化目 標を放棄するか、または切り下げて」とあるが、そもそもの原因は、マートン のいうところの「脆弱性(vulnerabi l ity)」(15)、ここでは、学力格差(遅 滞)であろう。

 それでは、なぜ、文化的目標が一(拒否)であるのか。すなわち、なぜ、学 力格差(遅滞)が発生するのか。これは、儀礼主義だけではなく、逃避主義や 反抗にも関連があることだが、次節で、これについて考察することにする。

第2節 文化的目標が一(拒否)である原因

 前節で触れたように、本節では、文化的目標が一(拒否)である原因、すな わち、学力格差(遅滞)の原因を検討したい。この問題は、現場の教師であれ ば誰でも、ふだんから多大な関心、疑問を抱いているものであろう。まず、個 人的レベルとして、井上の説を紹介したい。

 井上は「知能には個性がある、ということに気がっかない大人が、勉強の嫌 いな子を『無気力』や『非行』に追いやっている。まことに恐ろしいことだ。」

(16)と述べているが、それでは、「知能には個性がある」とは、どういうこと なのであろうか。井上によると、ひとつのタイプは、「具象思考型(派)」で、

これを「何ごとも実体を背景にしないと、物ごとの理解が困難な直感型」(17)

と定義している。そして「日本の教育そのものが受験志向であるため、いわゆ る主要教科(英・数・国・理)を重要視し、他の教科がいくらできても、その 価値はゼロに等しいという現実が、なおさら、具象思考派の無気力の増大に拍 車をかけている。」(18)としている。これに対して、もうひとつのタイプを、

「抽象思考型(派)」とし、これを「教材を自らの力で理解し受容してゆける だけの資質のある抽象思考能力を(もつタイプ)」(19)と定義している。この 二つの型について、井上は、G.ヴィオ・一一とアンドレ・ル・ガルの説を紹介し ている。G.ヴィオーについては「前者のスタイル(行動思考く具象〉一引用 者)を、G・ヴィオーは実用的知能と呼び、後者のそれ(言語思考く抽象〉一 引用者)を合理的知能といっている。一罪一この二つの知能を二つのグループ に分け、次のようにいう。『一.実用的なく知能の諸形態〉、これは人間にも 動物にも認められる。二.〈高級な〉知性、これは人間に特有であり、組織化 された概念によって操作され、言語その他の象徴を使用する概念的・論理的・

合理的知性である。人間特有の思考様式と、人間にも動物にも共通な思考様式 とを区別する境界線は言語が存在するかどうかである「(『知能』ガスマン・

ヴィ下馴著、村上仁訳 文庫クセジュ・白水社一筆者、注)実感というか実体 的なもので心象を確かめないと嫁ごとを考えられない人の知能が、いかに学校 の勉強に適性がないか、その結果、落ちこぼれになってしまうという事実は、

もっと大きく問題にされねばならぬと思うのだが、どうであろうか。生徒のう ち三分の一はこういうタイプであるだけに、ことは深刻である。『無気力』と いっても、このように知能のタイプが違うと、そのあらわれ方にも事情が違っ てくる。」(20)と述べ、アンドレ.ル.ガルについては「彼は、学業不振の学

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習心理について研究しているフランスの学者であるが、次のように分類してい る。(『勉強できない子ども』アンドレ・ル・ガル著、関計夫訳、文庫クセジ

ューM者、注)

(1)具体的一直感的知能

(2)想像的知能

(3)言語的一概念的知能

 第一の具体的知能の働きは、一略一直接経験を通じてイメージされたさまざ まの具体的観念を、直感的に複合化することである。また第二の想像的知能と いうのは、そういった視聴覚的に捉えた直接経験を、現実から分離させて、象 徴的な心象へと展開させるのにふさわしい知能であり、第三の知能は言語操作 を主体とする概念化の働きである。誰にでも、その程度はともかくとして、こ の三種類の知能が備わっているのであろうが、実際には、このうちのいずれか に属する場合が多いように思われる。私が具象思考型というのは、(1)と

(2)のタイプを合わせて考えており、抽象思考型は文字通り(3)のタイプ ということになる。」(21)とまとめている。そして、「(具象思考難く派〉に ついて)実際は、いわゆる抽象的学問体系を頭に入れてゆくさいの、論理的認 知力が出てこないだけである。その代り、このタイプの人間は、抽象思考派の ような理屈つぼく考えることはしても思い切った決断や選択のできにくい安定 志向型の秀才とは異なり、混乱に強く、現実にへばりついて生きようとするバ イタリティがあって逞しいといえよう。だが、困ったことに、この逞しさも、

こと学校でとなると発散する場面がないのか、得てして非行問題に転じてしま っている現状も、否めない。」(22)とし「学校で必要とされるのは、われわれ 人間のもっている能力のある一部分だけであるのに、それがすべてであるよう

に思ってしまっている。まことに恐ろしいことだ。人の頭の回転ひとつにして も早い遅いがあるのに、学校はその個人差すら待とうとはしない。これではで きにくい子が学校がいやになり、授業にアレルギーを起こしても当り前であろ う。現今のように、生徒を集団で教育する限り、教材を自らの力で理解し受容 してゆけるだけの資質のある抽象思考能力をもっていない者は、落ちこぼれに なってしまう◎これは、落ちこぼれでなくて、『落ちこぼし』である。」(23)

と述べ、さらに「私の頭が具象思考型だったので、理数系の学問には向かなか ったことも、勉強の意欲を喪失させていたのだと思う。日本の学校は算数や数 学ができないと、もうそれで『あれは頭が悪い』と速断するところがあって、

本人もはじめから「俺は駄目』と思い込んでしまう。それに例えば、記憶力ひ

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