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『更級日記』と『栄花物語』

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﹃更級日記﹄と﹃栄花物語﹄

小 

島 

明 

はじめに   現在、平安朝の女流日記研究は、全般的には残念ながら必ず しも活況を呈しているとは言い難いように思われる。しかしな がら、その中にあって﹃更級日記﹄研究は別格と捉えるべきで あるかもしれない。直近の十年ほどに限定して見回しても、研 究書としては和田律子 ﹃藤原頼通の文化世界と更級日記﹄ ︵新 典社 、二〇〇八年︶ 、深沢徹 ﹃都市空間の文学︱藤原明衡と菅 原孝標女︱﹄ ︵新典社新書、二〇〇八年︶ 、小野谷純一﹃更級日 記への視界﹄ ︵新典社、二〇一〇年︶ 、伊藤守幸﹃更級日記の遠 近法﹄ ︵新典社 、二〇一四年︶などが挙げられる 。また 、論文 集として福家俊幸 ・ 和田律子 ・ 久下裕利編﹃更級日記の新世界﹄ ︵武蔵野書院 、二〇一六年︶が近年の研究動向を提示し 、注釈 書では福家俊幸 ﹃更級日記全注釈﹄ ︵角川学芸出版、 二〇一五年︶ が最新の研究成果を盛り込み、両書は後続の研究を導く新たな 指標となり得ている。   研究史を振り返れば 、﹃更級日記﹄への評価は ﹁平安後期中 流貴族の家に生まれた一女性の魂の告白。⋮︵中略︶⋮光源氏 のような貴公子が実在するものと信じ、その出現を夢見て、年 長︵た︶けるまでうっとりと年月を過ごしてしまった、その純 情女の悔恨の回顧録という体裁の書﹂ ︵﹃日本古典文学大辞 1 典﹄ ︶ というようなものが一般的であったことについては贅言を要さ ないであろう。   これに対し、上述した近年の﹃更級日記﹄研究が求めるとこ ろは大きく一線を画している。例えば、日記の首部にあたる上 洛の記に独立性を認め、その成立の基盤を同時代の歌壇と孝標 女の宮仕え先である祐子内親王家の状況に求める方 2 向、あるい は物語作者としての孝標女の文学的素養・文学表現の志向を従 前以上に重視して日記を読み解く方 3 向があろう。日記に書かれ た内容は、孝標女の体験や思考、性格がそのまま反映されたも のではなく、文学的作為の結実であるという大前提の上に、精 査がなされる段階に至ったと総括することができるだろうか。   本稿ではこうした研究動向の中で、これまで﹃更級日記﹄と の関わりが言及されることが少なかった歴史物語である﹃栄花 物語﹄に着目し、その相互関係について検討する。これによっ て﹃更級日記﹄の特質の一端を明らかにすることを期するもの である。

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一  ﹃更級日記﹄の叙述傾向   本旨に入る前に、まず近年の諸研究を踏まえた上で﹃更級日 記﹄の叙述傾向を確認する必要があろう。本章はその点を見て ゆくが 、﹃更級日記﹄を虚心に読んでみて 、最初に気づかされ るのはこの日記の記事群は大きく二分できるという点であろう。 ﹁和歌とその詞書とみなしても自然な比較的短い記事﹂と、 ﹁物 語として読むことが可能な比較的長い記事﹂がそれであり、後 者には、和歌が含まれる場合と含まれない場合の両様がある。   そして、 後者﹁物語として読むことが可能な比較的長い記事﹂ に目をやると、その特徴を最もよく表すものが夢に関わる記事 群であると思われる。既に今関敏子氏によって、非常によく整 理された論が示されてい 4 るのであるが、さらに稿者なりに表に してみると以下のようにな 5 る。   ﹃更級日記﹄中では十一の夢が描かれるが 、他の人が見た夢 である③⑤の二つと、孝標女自身が見た夢の九つが混在してい る。また③⑩に関しては、孝標女の人生そのものに啓示を与え る夢とは言い難く、表中では網掛けをして区別し、除外して考 えたい。   表にしてみると、⑥と⑦の間で孝標女が夢を見た当座の反応 の描かれ方に大きな落差が生じるように設定されていることが 一目瞭然である。前半の夢︵①②④⑤⑥︶は孝標女の内面に何 らの変化をもたらすことなく、 やり過ごされるが、 後半の夢︵⑦ ⑧⑨⑪︶は大きな意味をもって孝標女の中に位置づけられたと 夢の概要 作者年齢 夢の場 日記に記載される 当時の反応 ① 黄なる袈裟の僧、法華経を読む ことを促す︹十九︺ 十四歳 不明 人にも語らず 、習はむ とも思ひかけず。 ② 天 照 大 神 を 念 じ る よ う 促 す ︹二十︺ 十四歳 不明 人にも語らず 、なにと も思はでやみぬる、 ③ 姉の夢 =猫 、大納言の姫君の 化身であると告げる︹二十一︺ 十五歳 不明 いみじくあはれなり。 ④ 青き衣の別当、よしなしごとを のみ思うことを諌める ︹四十三︺ 二十六歳 清水寺 ﹁かくなむ見えつる﹂と も語らず 、心にも思ひ とどめでまかでぬ。 ⑤ 代参の僧の夢 =気高い女 、吉凶 二つの未来を暗示する ︹四十四︺ 二十六歳 長谷寺 いかに見えけるぞとだ に耳もとどめず。 ⑥ 別当、作者の前世が仏師であっ たと告げる︹五十三︺ 三十二歳 清水寺 詣で仕うまつることも なくてやみにき。 ⑦ ある人、中堂より麝香を賜った と告げる︹六十三︺ 三十八歳 石山寺 う ち お ど ろ き た れ ば 、 夢 な り け り と 思 ふ に 、 よきことならむかしと 思ひて、行ひ明かす。 ⑧ 高貴で清らかに美しい女、宮中 で暮らすさだめがあるので、博 士の命婦と相談せよと告げる ︹六十七︺ 三十九歳 石山寺 参詣途上 う れ し く 頼 も し く て 、 いよいよ念じ奉りて、 ⑨ 御堂の方から、稲荷のしるしの 杉を賜る︹六十七︺ 三十九歳 石山寺 う ち お ど ろ き た れ ば 、 夢なりけり。 ⑩ 筑前に下向した、同じ心なる友 と 、かつて同様に宮家で会う ︹七十四︺ 四十二∼ 七歳の間 不明 う ち お ど ろ き た れ ば 、 夢なりけり 。⋮ ⋮覚め ざらましをと 、いとど ながめられて、 ⑪ 阿弥陀仏、来迎し、後日の迎え を約束してくれる︹八十︺ 四十八歳 自邸 う ち お ど ろ き た れ ば 、 十四日なり 。この夢ば かりぞ後の頼みとしけ る。

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記される。初出仕は⑥の少し前の︹五十︺になされているので、 宮仕えの有無は前半の夢と後半の夢との相違の背景とは言えな いだろう。とすれば、前半・後半の間で孝標女の身に生じた大 きな変化の要因は結婚と考えざるを得ない ︵︹五十五︺章段に 記事あり︶ 。夫を持つ身になって 、後の ︹七十九︺章段で種明 かしされるような乳母願望が現実味を帯び、夢を頼む気持ちが 生まれ出でたと解釈するのが妥当であるように思われる。   むろんこれは、現実の孝標女がそのように夢を捉えていたか 否かが問題となるものではない。あくまで﹃更級日記﹄が夢を 通じて主人公・孝標女をいかに人物造型したか、という点が問 われるところであろう。また同時に﹃更級日記﹄がきわめて強 い構成意識のもとに描かれているという点を基盤にして、この 作品を読み解く必要性があらためて認識されるのである。   ここまでが作品の大きな枠組みから見て取れることであるが、 続いて個別の記事のいくつかを取り上げ、叙述の特徴を押さえ てゆくことにする。第一に、孝標女︵三十五歳︶が祐子内親王 家に宮仕え中の時雨の夜 、源資通と春秋の優劣を語る場面 ︹六十二︺を見たい。 ﹃更級日記﹄の当該記事は、祐子内親王が 養育されていた頼通の高倉殿での出来事と読み取ることができ、 孝標女とその同僚女房、資通の三名のみで、親密かつ風雅に春 秋の優劣を語り合ったとされる。描写は長大なもので、資通の 語る春秋論、特に彼が伊勢の斎宮に勅使として赴いた際の冬の 想い出がこまやかに描かれる。また、孝標女が詠じた﹁あさみ どり花もひとつに霞みつつおぼろに見ゆる春の夜の月﹂歌を資 通が﹁かへすがへしうち誦じ﹂たことも記される。   ところが、 この孝標女の歌は ﹃新古今和歌集﹄ に採歌され ︵歌 句の異同はない︶ 、そこには次の詞書が付されることが夙に指 摘されている。 祐子内親王ふぢつぼにすみ侍りけるに 、女房うへ人など 、 さるべきかぎりものがたりして、春秋のあはれいづれにか 心ひくなどあらそひ侍りけるに、人人おほく秋に心をよせ 侍りければ ︵巻一・春歌上・五六番 6 歌︶ これによれば、孝標女歌が詠まれたのは宮中の藤壺であり、女 房・殿上人など多数の者が集う中、一種の遊戯として春秋論が 交わされた中でのことが窺い知れるのである。   周知のことながら 、﹃新古今和歌集﹄の編者の一人であった 定家は、他ならぬ御物本﹃更級日記﹄の書写者である。日記に 記載された内容を十分知りつつも、 ﹃新古今和歌集﹄の詞書は、 何らかの別資料に依ってい 7 る点は看過できないものがある。こ れについては、福家俊幸氏が﹁ ﹁あさみどり﹂歌が﹃新古今集﹄ の詞書にあるように、祐子内親王に供奉した藤壺で詠まれたと すると、その歌をもとに、さらに物語的な色彩を交えて作った のがあの春秋の場面であったということになろう﹂との見解を 述べるところであ 8 る 。﹁夢﹂を全編に構成的に配置したのと同 様に 、個々の場面の描出においても 、﹃更級日記﹄には意識的 な物語化・叙述の脚色という方向が見て取れる箇所があると言 える。   そうした視点で見ると、永承元年︵一〇四六︶十月、後冷泉

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天皇の即位に伴う大嘗会の御禊の日に、初瀬に出立したとする 記事︹六十四︺もその類例とみることができそうである。これ を第二に取り上げるが 、この ︹六十四︺は 、﹃ 蜻蛉日記﹄上巻 の末尾近くに描かれる道綱母の初瀬詣での記事の影響が従来よ り言われているところであり、その﹃蜻蛉日記﹄を引用す 9 る。 かくて年ごろ願あるを、いかで初瀬にと思ひ立つを、たた む月にと思ふを、さすがに心にしまかせねば、からうして 九月に思ひ立つ 。﹁たたむ月には大嘗会の御禊 、これより 女御代出で立たるべし。これ過ぐしてもろともにやは﹂と あれど、わがかたのことにしあらねば、忍びて思ひ立ちて、 ⋮⋮ 安和元年︵九六八︶の冷泉天皇の御禊であるから、 ﹃更級日記﹄ の当該記事より七十八年前のことであるが、道綱母は、夫・兼 家の制止︵傍線部︶を耳にも入れず、御禊の近づく中、初瀬に 出発する。右の引用箇所の後は、旅の実際の旅程や一行の行動、 目にする風景や人々の外貌、そしてそれらに対する道綱母の感 慨が続く。   これに対し 、﹃更級日記﹄が主として記すのは 、大嘗会の御 禊の当日に初瀬参詣に出立する行為に対しての人々の反応であ る 。︹六十四︺の箇所だけでも 、以下のように人々の異なる反 応が発話のかたちで順次示される。    ⓐはらからなる人⋮﹁いともの狂ほしく、流れての物語と もなりぬべきことなり﹂    ⓑ児どもの親なる人⋮﹁心にこそあらめ﹂    ⓒ行き違う馬・車・かち人⋮﹁あれはなぞ、あれはなぞ﹂    ⓓ良頼の兵衛督の家の人々⋮﹁月日しも世にこそ多かれ﹂    ⓔ同家の心ある人⋮﹁物見で、かうこそ思ひ立つべかりけ れ﹂ むろん発話の前後には 、ⓐ ﹁いひ腹立てど﹂ 、 ⓒ ﹁ やすからず いひおどろき 、あさみ笑ひ 、あざける﹂ 、ⓓ ﹁笑ふ﹂という否 定的な行為、 もしくはⓑ﹁いふに従ひて出だし立つる﹂ 、 ⓔ﹁ま めやかにいふ﹂との肯定的な行為が描かれる 。続く ︹六十五︺ にも 、﹁物の心知りげもなきあやしの童べまで﹂が ﹁あさみた ることかぎりなし﹂と反応したことが記され、その筆致は完全 に一貫しているのである。ただし、身内のⓐⓑならばいざ知ら ず、車に乗った孝標女に、ⓒ∼ⓔのようなそれ以外の人々の反 応が本当に見えたものか、また発言が十分に聞き取れたものか、 疑問が拭えない。   つまり 、﹁大嘗会の御禊の日を念頭に入れない初瀬詣で﹂と いう類似の場面を描きながら 、﹃蜻蛉日記﹄は一人称の語り口 に終始するのに対し 、﹃更級日記﹄は複数の人々の言動を全知 の視点にやや近いような語り口で描写をなしているのが特徴と 思われる。孝標女の行為が人々の注目を集め、かつ賛否両様の 声々が湧き上がるとする﹃更級日記﹄の描写は、やはり物語性 を強く帯びている、と言い得る箇所であろう。   さらに第三として、本章の始めに記した﹃更級日記﹄記事の もう一つのパターンである﹁和歌とその詞書とみなしても自然 な比較的短い記事﹂の場合に目を転じたい。既に言及した宮家

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での春秋の定めの記事の少し前、結婚生活の傍らで、時折、宮 家に出仕する孝標女が、水鳥に寄せて同僚女房と歌を詠み合う 場面︹六十︺を引用する。 御前に臥して 聞けば 、池の鳥どもの、夜もすがら声々羽ぶ き騒ぐ 音のするに 、目も覚めて、 わがごとぞ水の浮き寝に明かしつつ上毛の霜をはらひ わぶ なる と 一人ごちたる を、かたはらに臥し給へる人 聞きつけて 、 まして思へ水の仮寝のほどだにぞ上毛の霜をはらひ わ びける この記事に関しては 、﹃ 紫式部日記﹄寛弘五年 ︵一〇〇八︶年 を描く以下の二つの場面が踏まえられていることが夙に指摘さ れてい 10 る。   ●︹二四︺ ﹁行幸目前の土御門邸での紫式部の水鳥の詠﹂ 明けたてば 、 うちながめて 、水鳥どもの思ふことなげに 遊びあへるを 見る 。 水鳥を水の上とやよそに 見む われも浮きたる世をす ぐしつつ   ●︹三四︺ ﹁里居の紫式部と土御門邸の大納言の君との贈答﹂ 大納言の君の 、夜々は 、御前にいと近う臥したまひつつ 、 物語したまひしけはひの恋しきも、なほ世にしたがひぬる 心か。 浮き寝せし水の上のみ恋しくて鴨の上毛にさへぞおと らぬ かへし うちはらふ 友なきころのねざめにはつがひし鴛鴦ぞ夜 半に恋しき ﹃紫式部日記﹄ で詠み込まれている、 傍線を付した ﹁水の上﹂ ﹁浮 き﹂ ﹁浮き寝﹂の語が 、﹃更級日記﹄でも ﹁ 水の浮き寝﹂ ﹁水の 仮寝﹂と形を変えて用いられる。また、二重傍線を付した﹁上 毛﹂ 、波線を付した ﹁はらふ﹂も 、﹃紫式部日記﹄ ﹃更級日記﹄ 共通で使われている。 ﹃更級日記﹄の当該記事は、 ﹃紫式部日記﹄ の二つの場面の歌の語を巧みに組み替えつつ、相似の場面を描 出しているのである。   しかし 、両日記が大きく異なるものもある 。﹃紫式部日記﹄ ︹二四︺の水鳥の歌が ﹁うちながめて﹂ ﹁見る﹂ ﹁見む﹂と繰り 返されるように視覚によって導き出された感慨を詠むのに対し て、 ﹃更級日記﹄は﹁聞けば﹂ ﹁音のするに﹂の語や、伝聞推量 の﹁なる﹂が示すように聴覚から喚起された感慨が詠まれるの である。   加えて ﹃紫式部日記﹄ ︹三四︺は 、居所を異にした紫式部と 同僚の大納言の君との歌の応酬であり、大納言の君は紫式部の 歌を文によって目にし、その﹁かへし﹂もまた紫式部は目で読 むのである 。 片や ﹃更級日記﹄は 、孝標女が ﹁一人ごちたる﹂ 歌を﹁聞きつけて﹂ 、同僚女房が歌を詠じている。ここにも、 ﹃ 紫 式部日記﹄の視覚を、聴覚に転じた﹃更級日記﹄のずらしが見 て取れよう。   ﹁和歌とその詞書とみなしても自然な比較的短い記事﹂であ

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る ﹃更級日記﹄ ︹六十︺であるが 、この和歌が実際に詠み交わ された時点においては、上述のごとく﹃紫式部日記﹄ときわめ て精緻な対照関係をもっていたと考えるのはかなり難しいので はないか。むしろ、本章で既に言及した箇所と同じく、日記執 筆時に整えられたとみる方が蓋然性が高いように思われるので ある。   本章においては 、﹃ 更級日記﹄の物語性の強さ 、脚色の強さ が顕著に表れる箇所を検討してきた。これらほど顕著ではなく とも、同様の傾向が認められる箇所はさらに指摘できると考え る 。ひとまずは 、﹃更級日記﹄の叙述傾向の一つの側面を以上 のように捉えて、次章に移ることとする。 二  行成女の死をめぐる表現   それでは、 ﹃更級日記﹄ ﹃栄花物語﹄との関係の検討に入るが、 これについては高橋由記氏の指摘箇所が既にあ 11 る。孝標女が祐 子内親王家に出仕後、宮に供奉して参内した際に、後朱雀天皇 の女御・藤原生子︵教通女︶が清涼殿に召されるのを見るとい う以下の場面︹五十八︺がそれである。 またの夜も、月のいと明きに、藤壺の東の戸を押し開けて、 さべき人々、物語しつつ月をながむるに、梅壺の女御の上 らせ給ふなる音なひ、いみじく心にくく優なるにも、故宮 のおはします世ならましかば、かやうに上らせ給はましな ど、人々いひ出づる、げにいとあはれなりかし。 これに対応するものが 、﹃栄花物語﹄巻三十四で後朱雀天皇の 内裏のさまを描く︹三六︺の記事であ 12 る。 内裏わたりいと今めかしくをかし。殿の宮も入らせたまへ り。昔おぼえて女房などものあはれなり。梅壺の女御など の上らせたまふを見るにも、思ひ出づること多かり。四五 日ばかりおはしまいて出でさせたまひぬ。 ここに描かれた﹁殿の宮﹂は関白頼通が養育する祐子・禖子内 親王姉妹である。 なお ﹃更級日記﹄ の記事は、 長久三年 ︵一〇四二︶ 孝標女三十五歳と思われるところに置かれ 、﹃栄花物語﹄もそ の年次に右の記事を配している。   ただし 、﹃栄花物語﹄は巻一∼三十までの正編 、巻三十一∼ 四十までの続編に分かれることに留意する必要があろう。正編 は万寿五 13 年 ︵一〇二八︶までを描き 、 道長没後の長元年間 ︵一〇二八∼三七︶の成立と考えられている 。続編はさらに 、 長元三年︵一〇三〇︶∼治暦四年︵一〇六八︶を描く続編第一 部 ︵巻三十七まで︶と 、延久二年 ︵一〇七〇︶∼寛治六年 ︵一〇九二︶を描く続編第二部に区分される 。﹃更級日記﹄は 、 最終記事の康平二年︵一〇五九︶以後、ほどなくして書かれた と考えるのが一般的であり、当該の﹃栄花物語﹄巻三十四の記 事は、その内容的な相似から﹃更級日記﹄を素材として描かれ た箇所とみてよいと思われる。つまり、ここは﹃栄花物語﹄続 編の﹃更級日記﹄摂取を示す箇所と言えるのである。   他方、福家俊幸氏は﹃更級日記﹄が﹃栄花物語﹄正編と関連 があると考えられる箇所として、治安元年︵一〇二一︶の行成

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女の死去の記事︹十八︺と、翌年、孝標女邸に迷い込んだ猫が、 姉の夢中で行成女の化身である旨を告げ、姉妹はこれを愛しむ という記事︹二十一︺を挙げる。そして、これに関わる﹃栄花 物語﹄の記事として、次のものに言及す 14 る。 ㋐巻十四︹八︺ ﹁道長男長家、行成女と結婚﹂ ㋑巻十六︹二二︺ ﹁長家室の病悩、逝去﹂ ㋒巻十六︹二三︺ ﹁長家室の葬送﹂ ㋓巻十六︹二四︺ ﹁長家、母君らの追悼歌﹂ ㋐∼㋒はかなり長大で詳細な描写がなされる記事であるので引 用は控え、比較的短い記事である㋓のみ以下に引いておく。 中将の君、思ひ寝に寝たる夜の夢に、女君の見えたまひけ れば、中将殿、 夢のうちの夢の宿りに宿りしてわが身は知らで人ぞ恋 しき また、 死ぬばかり恋しき人を恋ふるかな渡河にてもしやふ やと 母北の方、 ちがへても君に見せばや見るほども泣く泣く覚むる夢 の悲しさ これを聞きて、尾張権守、 別れ路はつひのことぞと思へどもおくれ先だつほどぞ 悲しき ﹁中将の君﹂すなわち長家の夢の中に、その室であった﹁女君﹂ が現れたことを詠んだのが 、長家の一首目の歌である 。また 、 母北の方も、自分の夢に亡き娘が現れたのを長家に見せてやり たいと思ったものの、はかなく夢は覚めてしまったと詠み込ん でいる。この㋓の記事を見ると、 たしかに ﹃更級日記﹄ ︹二十一︺ 記事との関係を推測するのは妥当であろうと考えられてくる。   ただし、 福家氏は﹃更級日記﹄ ︹十八︺ ︹二十一︺記事が、 ﹃栄 花物語﹄㋐∼㋓記事を直接目にして書かれたとすることには慎 重で、以下のようにこれを評してい 15 る。   ○孝標女もこの行成女の臨終の様子を耳にしたことであろう。   ○このような話が孝標女や姉の耳にも伝わり、この後展開さ れる変化の猫の物語につながったことが十分想定されよう。 行成女の臨終の様子や、その夫の長家および母北の方らの哀悼 歌は、行成女が逝去した治安元年︵一〇二一︶当時、ある程度 貴族社会に広まったことは推察できる。しかしながら、宮仕え にさえ出ていない十四歳の受領の娘に、親族でもない上流貴族 女性の死去の状況がどれほどまで詳しく伝わるのかという疑念 も生じてくる。伝わるとすれば、漢文日記が記す程度の簡単な 情報であったのではないか。例えば、 ﹃小右記﹄ ︵治安元年三月 十九日 16 条︶が行成女の死を次のように書き記すことも参考にな ろう。 権大納言如今暁亡、年来病者之中、為 二 長宗室 一 ただし 、この本文には誤りがあるらしく 、傍線を付した ﹁如﹂ は﹁女﹂の、 ﹁宗﹂は﹁家﹂と考えられている箇所である。   むしろ 、﹃更級日記﹄の行成女に関する記事は 、孝標女が日

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記執筆時に﹃栄花物語﹄を目にする機会を得てから、かなりの 物語化や脚色がなされたとみなす方が自然ではないだろうか 。 ﹃栄花物語﹄正編は道長の死後 、あまり時を置かず摂関家嫡流 の中で編纂されたと考えられている。孝標女が断続的にではあ るものの、頼通の庇護下にあった祐子内親王に、その文学的才 能をある程度評価されるかたちで宮仕えをしていたのであれば、 それを閲覧・利用することは十分考え得る。当然ながら﹃栄花 物語﹄は編者の歴史観に基づいて情報の選択と整理がなされ 、 脚色された事柄が描出される。近年の研究で重視されている頼 通文化圏の中での﹃更級日記﹄という側 17 面を考えてみても、孝 標女が間の噂ではなく 、﹃栄花物語﹄記事の影響を受けたと 考える方が蓋然性が高そうである。   そして、それは㋐∼㋓記事にのみ留まらないと稿者は考えて いる。例えば、 ﹃更級日記﹄ ︹二十一︺で、姉の夢に行成女の化 身の猫が現れ 、﹁ おのれは侍従の大納言殿の御むすめの 、かく なりたるなり。さるべき縁のいささかありて、この中の君のす ずろにあはれと思ひ出で給へば 、ただしばしここにあるを ⋮⋮﹂と語るというあたりは、先に引用した﹃栄花物語﹄㋓と は大きな隔たりがあることが気になるのである。㋓は夫・長家 や母君の夢に行成女が現れたという、受容しやすい展開である が 、﹃更級日記﹄は他人である孝標女の姉の夢に行成女が現れ るというもので、その差異は小さくはな 18 い。   これについては、㋐∼㋓記事だけではなく﹃栄花物語﹄正編 全体を視野に入れると、他人の夢に現れる死者の記事が見出さ れる。それは教通室が逝去して二三日の後に、平孝義が故教通 室の夢を見て教通に告げる、という巻二十一︹七︺の以下の箇 所である。 かくて二三日あるほどに 、前相模守孝義といふ人参りて 、 ﹁夢に見えたまひつることこそさぶらひつれ 。なほこの御 有様は、人の仕まつりたることにこそあべけれ。御前の御 座の下などを御覧ぜば、楊枝にてなん置きたると見えはべ りつるなり。⋮⋮﹂と申せば、 平孝義については 、﹃新編日本古典文学全集﹄が頭注で 、教通 の家司であったかとの推定をなしている 。﹁ 夢に見えたまひつ ること﹂と敬語を使用していることから 、教通室が夢に現れ 、 何らかの示唆を孝義にしたと考えられ、そこから孝義は教通室 の死の原因が呪詛であると訴え出たらしい。これを受けて人々 が探索してみると、その言葉通りに楊枝が見つかったことが記 される。   教通室の死去は 、治安四年 ︵一〇二四︶一月であるが 、﹃更 級日記﹄の記述では、孝標女の姉の死去も同年の五月とされる。 かつ、両人ともに複数の子どもたちを残しての夭逝である。そ うした符合から、この記事は孝標女が﹃栄花物語﹄を読んだ場 合、注視される可能性は低くないと思われる。   また 、﹃栄花物語﹄のこの前後には 、教通室の死後の記事が さらに散見される。先の記事の直前の︹六︺では、教通室の母 ︵公任室︶が巫覡による口寄せを行い 、そこに教通室が憑き 、 母君や乳母に声をかけるというものである。 また、 少し後の ︹九︺

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では、教通の夢に故室が現れて歌を詠み、それを故室の父であ る大納言公任に﹁かうかうと聞こえたまひて、所どころに御灯 奉らせたまふ﹂と描かれている 。すなわち ﹃栄花物語﹄には 、 故人が親族に何らかのかたちでメッセージを送るくだりと、故 人が親族以外の他者にメッセージを寄せるくだりの双方が存在 するのであった。   治安元年 ︵一〇二一︶の行成女の死去を描いた ﹃栄花物語﹄ 巻十六には、先に㋓として引用した︹二四︺に行成女の夫・長 家と母北の方が行成女を夢に見たことを示す和歌が書かれてい た。ここに﹃更級日記﹄孝標女の姉が見た夢が加われば、両作 品によって、故人の親族への夢の告げと、親族以外の他者への 夢の告げの両者のモチーフがやはり揃うことになる。孝標女が ﹃更級日記﹄を書く際にこうした点を念頭に置いたと考えるこ ともできるのではないか。   さらに言えば、行成女の手跡を持っていた孝標女が、それを 見て行成女を偲ぶという ﹃更級日記﹄ ︹十八︺の次の箇所も 、 世間の噂にのみ依拠したと見るべきではなかろう。 ﹁これ手本にせよ﹂とて、 この姫君の御手をとらせたりしを、 ﹁さよふけてねざめざりせば﹂など書きて、 ﹁鳥辺山たにに 煙のもえ立たばはかなく見えしわれと知らなむ﹂と、いひ 知らずをかしげに、めでたく書き給へるを見て、いとど涙 を添へまさる。 この箇所についても、以下の﹃栄花物語﹄記事そのものが参照 されたと考えることができると思われる。   ●巻十四︹八︺ ︵先に㋐として提示︶ 大殿御覧ずるに、いとど中納言の御手を若う書きなしたま へると見えて、えもいはずあはれに御覧ぜらる。   ●巻十六︹二三︺ ︵先に㋒として提示︶ 女君の 、御年のほどよりはいとうつくしうととのほりて 、 御手を書きたまへるさま、尽きもせず思さる。   ●巻十六︹二五︺ ﹁長家室の法事﹂ 年ごろこの姫君の御手すさびに、書きたまへりける御経も、 今日ぞ供養したまひける。   もっとも、この三つのうち巻十四︹八︺と巻十六︹二三︺が 伝える情報だけに限れば、行成女の手の見事さという点で、行 成女の生前あるいは死去当時にも話題になったことであろう 。 しかしながら、巻十六︹二五︺の記載で、享年十五歳であった 行成女が手すさびに書いていた御経を残していたこと、そして それを親族が供養したことの二点は看過できないものがある 。 ﹃更級日記﹄ ︹十八︺においても、行成女が死を予感させる和歌 ︵他詠︶を書き残していたこと 、それに親族ではないが孝標女 が涙したこと 、の二点が描かれている 。﹃ 更級日記﹄が ﹃栄花 物語﹄を踏まえつつ、描写をずらして展開したとも考え得るの である。   最後に蛇足ながら付け加えれば 、﹃更級日記﹄では行成女は 死去の翌年に変化の猫として孝標女邸に現れ、さらにその翌年 の四月、 邸の火災で焼け死ぬが、 この記事は治安三年 ︵一〇二三︶ 四月に位置している 。他方 、﹃栄花物語﹄には火災の記事が少

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なくないのであるが、巻十八に同年の二月、長家が火災に遭う という次の記事︹一八︺がある。 中宮大夫殿の大炊御門の焼けにし後、この桟敷殿に中納言 殿住みたまふに、二月二十余日、にはかなる火出できて焼 けぬ。 ﹁中納言殿﹂は長家で 、行成女の死後 、中宮大夫斉信の女と結 婚 し 、 斉 信 邸 で あ る 大 炊 御 門 に 住 ん で い た が 、 治 安 元 年 ︵一〇二一︶十一月に焼亡し︵ ﹃栄花物語﹄巻十六︹三六︺ ︶、 そ の後移り住んだ桟敷殿もさらに焼けてしまったとの記事である。   ﹃栄花物語﹄ ﹃更級日記﹄を読み合わせれば、月こそ異なるも のの 、同じ治安三年 ︵一〇二三︶ 、火災が長家とその室であっ た行成女の変化の猫の両方を襲ったことになる 。 しかし 、﹃ 栄 花物語﹄は長家の無事を語り 、﹃更級日記﹄は変化の猫の死を 描く 。﹃栄花物語﹄を参照しつつ 、一度は死別した二人が今度 こそは幽明を完全に隔てる、という設定を﹃更級日記﹄が作り 出したのではないかと想像を廻らしたくなるところである。 三  ﹃栄花物語﹄を踏まえた﹃更級日記﹄の読み   では、 ﹃更級日記﹄において、 行成女に関する記事にのみ﹃栄 花物語﹄が参照されたのであろうか。おそらくは、そうではな かろう 。以下 、﹃ 栄花物語﹄との関連が窺われる箇所をさらに 検討してみたい。   まずは、治安元年︵一〇二一︶孝標女十四歳の︹十九︺記事 で 、﹁おば﹂から念願の ﹃源氏物語﹄一揃いを贈られ 、耽読す るという著名な描写に続く部分がある。 夢にいと清げなる僧の、 黄なる地の袈裟着たるが来て、 ﹁法 華経の五の巻をとく習へ﹂といふと見れど、人にも語らず、 習はむとも思ひかけず。 法華経の五巻の最初には﹁提婆達多品﹂があり、龍女の変成男 子・成仏が説かれる。夢告が孝標女に﹁習へ﹂と啓示するのも 首肯される巻であるが、孝標女はこれに従うことはなかったと されている。   ﹃栄花物語﹄ 巻十六を見ると、 この治安元年 ︵一〇二一︶ の八 ・ 九月には 、皇太后 䭰 子 ︵道長女︶に仕える女房たちが発願し 、 分担して書写した法華経を無量寿院で供養する行事がなされて いる 。︹ 二九︺ ﹁ 䭰 子方女房の法華経書写﹂ 、︹ 三〇︺ ﹁ 経典供養 の準備﹂ 、︹三一︺ ﹁経巻の有様﹂ 、︹三二︺ ﹁経典供養﹂ 、︹三三︺ ﹁永 昭の説法﹂と﹃栄花物語﹄の記事は詳細である。   この催しは 䭰 子を通じて道長の耳にも入り、道長・ 䭰 子の後 援を得て華やかで盛大なものとなった 。︹三一︺では華麗な装 飾をなした経典のさまが描かれる 。﹁提婆品はかの竜王の家の かたを書き現し、あるは銀、黄金の枝をつけ、いひつづけまね びやる方もなし﹂との描出もあり、当然ながら女人成仏を説く ﹁提婆達多品﹂は取り立てて言及されている。   また︹三三︺では講師の永昭の説法が長く描かれるが、その 一部を引いておきたい。 法華経書写供養の者、かならず忉利天に生る。いかに況ん

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や 、この女房のいづれか法華経を読みたてまつらざらん 、 兜率天に生れたま て 、娯楽快楽したまふべし。 この行事を営んだ女房たちと、同じ都で同じ時間を生きていた のではあるが、十四歳の孝標女は上述の行事とはまったく無縁 であったと思しい。あるいは当時、風聞程度にそれらを耳にし たことはあるにせよ、後年あらためて﹃栄花物語﹄に接し、そ の詳細を知り得たとすれば、その思いはまた格別であった筈で ある。   加えて、 ﹃更級日記﹄ ︹三十七︺に、自身の若き日々を顧みる ように﹁このごろの世の人は十七八よりこそ経よみ、行ひもす れ、さること思ひかけられず﹂と書かれるのもここに想起され る 。︹十九︺とやや離れた記事ではあるが 、やはり上如の感慨 が読み取れると思われるのである。   次に、先に挙げた︹十九︺記事の直後、やはりきわめて有名 な︹二十︺記事に目を移す。 ﹁このごろ皇太后宮の一品の宮の御料に 、六角堂に遣水を なむつくる﹂といふ人あるを、 ﹁そはいかに﹂と問へば、 ﹁天 照大神を念じませ﹂といふと見て、人にも語らず、なにと も思はでやみぬるを、いといふかひなし。春ごとに、この 一品の宮をながめやりつつ、 咲くと待ち散りぬと嘆く春はただわが宿がほに花を見 るかな この箇所では、言及される﹁皇太后宮の一品の宮﹂が誰に比定 されるのかが、これまで問題となってきた。可能性があるのは、 一条天皇と定子︵道隆女︶の間に生まれた脩子内親王と、三条 天皇と 䭰 子︵道長女︶の間に誕生した禎子内親王の二人である。   脩子内親王の場合は、この夢告があったと考えられる治安元 年︵一〇二一︶当時、孝標女邸の東隣の三条の宮に居住してい る点、一品に叙せられたのが寛弘四年︵一〇〇七︶であるので、 ﹁一品宮﹂の呼称に問題がない点は、 ﹃更級日記﹄記事と整合す る。ただし、その母后 ・ 定子は長保二年︵一〇〇〇︶に﹁皇后﹂ の位で崩御しているため 、﹁皇太后宮の一品宮﹂と呼ばれるこ とは不審である。   一方、禎子内親王は、孝標女邸の西隣の三条院を父帝から相 続したものの 、治安元年 ︵一〇二一︶当時は一条殿に居住し 、 翌治安二年︵一〇二二︶四月に新造の枇杷第に遷御、そこに住 み続ける。そうした場合、三条院を禎子内親王の邸宅とみなす ことができたのかという点がやや疑問視され 19 る。さらには、禎 子が一品宮となるのは治安三年 ︵一〇二三︶ 四月である点も、 ﹃更 級日記﹄記事と齟齬をきたすことが当該説の難点とみられてい る。   しかしながら 、﹃栄花物語﹄は禎子内親王が一品に叙せられ る数年前から禎子に﹁一品の宮﹂の呼称をあて続けているので ある。以下、いくつかの例を引く。   ●巻十三︹六︺ ﹁三条院の遺産処分﹂ ︵三条院が⋮稿者注︶おはしまししをりも 、姫宮をいかで と思ひきこえさせたま て、かくいと幼くおはしますを、一 品になしたてまつらせたまひしも⋮︵中略︶⋮この三条院

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は 、一品宮の御領にぞ 、そのをりよりのたまはせければ 、 せさせたまひけれど⋮⋮ 寛仁元年︵一〇一七︶五月に三条院が崩御して後、道長がその 遺産を三条院の意志を考慮しつつ、宮々に配分した記事である。 この年に禎子内親王は五歳で 、これまで ﹃栄花物語﹄は若宮 ・ 姫宮・女宮の呼称をあててきたが、ここで一品宮になされたこ とが語られる 。実際に一品となるのは上述のごとく治安三年 ︵一〇二三︶で、 ﹃栄花物語﹄の作為的な改変が認められる記載 となっている。同時にこの箇所には、三条院︵邸宅︶が禎子内 親王に贈与されたことが記されているのも注目すべきであろう。   ●巻十五︹四︺ ﹁道長の述懐﹂ ﹁今年五十四なり 。⋮ ⋮ただ飽かぬことは 、尚侍を東宮に 奉り、皇太后宮の一品宮の御有様、この二事をせずなりぬ るぞあれど⋮⋮﹂ 病を得た道長は寛仁三年︵一〇一九︶三月に出家するが、その 直前に自身が生涯でやり残したことを述懐する場面で、禎子内 親王を ﹁皇太后宮の一品宮﹂ と呼んでいるところは、 ﹃更級日記﹄ の︹二十︺記事の呼称とまさに重なり合う。   ●巻十六︹三三︺ ﹁永昭の説法﹂ ﹁⋮ ⋮かつは頼み仕うまつりたまふ皇太后宮 、並びに一品 宮の御息災を祈りたてまつり、かつは私の二世の大願相叶 ひ⋮⋮﹂ これも先に触れたが、治安元年︵一〇二一︶九月、皇太后宮の 女房たちが書写した法華経を供養する際の説法の一節である 。 皇太后宮とその女・一品宮が並んで取り上げられる。   その後も 、巻十六 ︹四三︺ ﹁ 䭰 子 、枇杷殿遷御﹂で皇太后宮 䭰 子とともに一品宮も遷御し 、巻十七 ︹四︺ ﹁三后はじめ女性 達の参集﹂でも、法成寺金堂供養に﹁皇太后宮の御車には、一 品宮おはします﹂と二人は同車して参加するさまが描かれる 。 つまり 、﹃栄花物語﹄の世界では ﹁皇太后宮の一品宮﹂は 、疑 いなく禎子内親王への呼称として定着していると言えるのであ る。   これに対して脩子内親王は、まず長和四年︵一〇一五︶を描 く巻十二︹七︺ ﹁隆円僧都逝去﹂記事に﹁一品宮 、帥宮なども、 いみじう思し嘆く﹂とあり、 叔父にあたる隆円︵定子の同母弟︶ の死を弟の帥宮・敦康親王とともに悼むさまが描かれる。また、 その敦康親王が寛仁二年 ︵一〇一八︶に薨去すると 、巻十四 ︹二一︺ ﹁人々の悲嘆と道長の出家の志﹂記事で﹁一品宮 も明暮 の御対面こそなかりつれど﹂とその嘆きが描出される。これら は身内の死という記事内容から、脩子内親王が禎子内親王と混 同されることはあり得ない箇所である。   しかし 、巻二十一 ︹一五︺ ﹁脩子内親王の出家﹂の記事に至 るとその呼称は異なるものに変わる。 かかるほどに、一条院の一品宮 、年ごろいみじう道心深く おはしまして⋮⋮ 治安四年︵一〇二四︶三月の記事であるが、ここに至るまで既 に﹃栄花物語﹄は禎子内親王を一品宮として高い頻度で描き出 していた。他方、脩子内親王の方は数年ぶりに物語世界に描写

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されるのであり 、両者を明確に区別するために 、﹃栄花物語﹄ は脩子内親王に父帝の名を冠し﹁一条院の一品宮﹂とするので あった。   前章 ・本章で見てきたように 、﹃更級日記﹄が ﹃栄花物語﹄ を摂取していることは疑いなかろう 。また 、﹃ 栄花物語﹄にも 親しんだ頼通文化圏の人々に﹃更級日記﹄を提供すると考える 場合、受容されやすい呼称を選択するのが当然であろう。した がって ﹃更級日記﹄ ︹二十︺記事の ﹁皇太后宮の一品宮﹂は 、 禎子内親王と比定してよいと考える。   福家俊幸氏は、 ﹃更級日記﹄ ︹二十︺に描かれる孝標女歌﹁咲 くと待ち散りぬと嘆く春はただわが宿がほに花を見るかな﹂に、 ﹃源氏物語﹄幻巻の源氏の詠歌 ﹁わが宿は花もてはやす人もな しなににか春のたづね来つらむ﹂が踏まえられているとの見解 を示 20 す。孝標女の隣家の﹁この一品の宮﹂邸もまた﹁花もては やす人もなし﹂の状態であることから、禎子内親王の三条院を さすのがふさわしい、との説得力のある言及であった。本章は、 その福家氏の説を﹃栄花物語﹄の参照によって裏付け得たと思 う。 おわりに   以上、本稿では一章で把握した﹃更級日記﹄の叙述傾向を糸 口に、二章三章において﹃栄花物語﹄正編と﹃更級日記﹄の関 わりを分析してきた。   ﹃更級日記﹄ に ﹃栄花物語﹄ の記事が影響を及ぼしているのは、 治安元年︵一〇二一︶から三年ほどのごく短い期間であると思 し 21 い。それは、東隣に脩子内親王邸があり、西隣には居住こそ されないが禎子内親王の領有となる三条院が位置する邸宅に孝 標女が住まうことができた期間を描く。孝標女の人生の中で特 筆すべき一時期の記事群であった。   福家俊幸氏は、こうした箇所に対して﹁有名な悲劇︵行成女 の死⋮稿者注︶とゆかりをもっていたことを基軸にして、自ら の人生史を語ろうという意識が見て取れる﹂ ﹁ニュース性の強 かった話題に自らを参入させる、その読者意識をも見てゆくべ きだろう﹂と述べてい 22 るが、その見解には大いに賛同したい。   ﹃栄花物語﹄ が描く、 皇族や摂関家、 そしてそれを取り巻く人々 が織り成す歴史に、少女時代の自らの生活もささやかながら接 点をもっていたことを書き留めるのが 、﹃更級日記﹄の当該箇 所であったと言えよう。むろんそこには相当の虚構化がなされ ていたことは疑いない 。﹃更級日記﹄がまさしく摂関家 ・頼通 の文化圏に育まれた文学作品であることが、本稿の検討によっ て従前以上に確認できたと考えている。 注 ︵ 1 ︶第三巻︵岩波書店、一九八四年︶ 。 ︵ 2 ︶久保木秀夫﹁ ﹃更級日記﹄上洛の記の一背景︱同時代にお け る 名 所 題 の 流 行 ︱ ﹂︵ ﹃ 更 級 日 記 の 新 研 究 ﹄ 新 典 社 、

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二〇〇四年︶ 、福家俊幸﹁ ﹃更級日記﹄冒頭表現と上洛の記の 成立︱候名と読者の問題︱﹂ ︵﹃早稲田大学教育・総合科学学 術院学術研究 ︵人文科学 ・社会科学編︶ ﹄六〇号 、二〇一二 年二月︶ 、福家俊幸﹁ ﹃更級日記﹄上洛の記と同時代の享受︱ ﹁ただ木ぞ三つ立てる﹂ を中心に︱﹂ ︵﹃平安時代の交響︱享受 ・ 摂取・翻刻︱﹄勉誠出版、二〇一二年︶ 。 ︵ 3 ︶中村文 ﹁孝標女の変容︱ ﹃更級日記﹄再出仕記事を読み 直す︱ ﹂︵ ﹃更級日記の新研究﹄新典社 、二〇〇四年︶ 、久下 裕利﹁孝標女の物語︱﹃夜の寝覚﹄の世界︱﹂ ︵同前︶ 、竹原 崇雄 ﹁﹃更級日記﹄ と ﹃夜の寝覚﹄ ︱物語の成立と日記︱﹂ ︵同 前︶ 、福家俊幸﹁ ﹃更級日記﹄天照大神の夢︱創作された時代 の言説として︱﹂ ︵﹃国語と国文学﹄八七巻八号、二〇一〇年 八月︶など。 ︵ 4 ︶﹁ ﹃ 更級日記﹄の作品空間と夢︱虚構と存在把握︱ ﹂︵ ﹃ 更 級日記の新研究﹄新典社、二〇〇四年︶ 。 ︵ 5 ︶﹃ 更級日記﹄の本文は 、福家俊幸 ﹃更級日記全注釈﹄ ︵角 川学芸出版、二〇一五年︶により、章段番号もこれによるが、 私に傍線などを付した箇所がある。以下同。 ︵ 6 ︶本文の引用は、 ﹃国歌大観   DV D −ROM ﹄ による。 ︵ 7 ︶﹃新編日本古典文学全集﹄頭注は﹁孝標女の歌稿ないし歌 集﹂とする。 ︵ 8 ︶注︵ 5 ︶﹃更級日記全注釈﹄解説、二四八頁。 ︵ 9 ︶本文の引用は﹃新編日本古典文学全集﹄による。 ︵ 10︶本文の引用は ﹃新編日本古典文学全集﹄により 、章段番 号もこれによる。 ︵ 11︶﹁孝標女の出仕記事に関する一考察︱﹃更級日記﹄と﹃栄 花物語﹄巻三十四から︱﹂ ︵﹃大妻国文﹄三六号、二〇〇五年 三月︶ 。 ︵ 12︶本文の引用は ﹃新編日本古典文学全集﹄により 、章段番 号もこれによる。 ︵ 13︶万寿五年は七月二十五日改元、長元元年となる。 ︵ 14︶注︵ 5 ︶﹃更級日記全注釈﹄解説、一一一∼一一五頁。 ︵ 15︶注︵ 5 ︶﹃更級日記全注釈﹄解説、一一三∼一一四頁。 ︵ 16︶ 本文は ﹃大日本古記録﹄による 。底本は 、前田本甲第 二十七巻︵略本︶ 。 ︵ 17︶妹尾好信 ﹁﹃蜻蛉日記﹄ と ﹃更級日記﹄ の執筆契機考﹂ ︵﹃ 王 朝和歌・日記文学試論﹄新典社、二〇〇三年︶和田律子﹃藤 原頼通の文化世界と更級日記﹄ ︵新典社、二〇〇八年︶など。 ︵ 18︶むろん女性が猫に変化して現れるというのは﹃栄花物語﹄ には見られず、 特異である。ただし、 鎌倉初期に書かれた﹃た まきはる﹄ には作者の夢の中に、 お仕えしていた春華門院 ︵後 鳥羽院皇女︶が猫の姿で出現する 。﹁ 唐猫のうつくしげなる にて、を はしける﹂ ︵本文は﹃新日本古典文学大系﹄による︶ と書かれるが、これは春華門院の生前で、作者は慌てて御祓 えをさせたとのくだりがある 。また 、﹃更級日記﹄の変化の 猫に関する論考としては、久我有生﹁ ﹃更級日記﹄ ﹁猫への転 生﹂ 段の位置づけ﹂ ︵﹃解釈﹄ 五八巻三 ・ 四号、 二〇一二年四月︶ 、 大槻福子 ﹁﹃更級日記﹄の構成意識︱転生した猫の出現から

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姉の死まで︱ ﹂︵ ﹃ 立命館文学﹄六三〇号 、二〇一三年三月︶ などがある。 ︵ 19︶小野谷純一﹃更級日記全評釈﹄ ︵風間書房、一九九六年︶ 。 ︵ 20︶注︵ 5 ︶﹃更級日記全注釈﹄解説、一三一頁。 ︵ 21︶﹃更級日記﹄は、 ﹃紫式部日記﹄を宮仕え記事で、 ﹃蜻蛉日 記﹄を結婚の記事で、それぞれ敷衍しながら自身の記載をな していたが 、﹃栄花物語﹄もまた ﹃更級日記﹄の限定された 箇所の描写において、踏まえられたと言える。 ︵ 22︶注︵ 5 ︶﹃更級日記全注釈﹄解説、一一四頁。 ︵こじま   あきこ・本学教員︶

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