舞の﹁夢あはせ﹂は﹁こゞに物のめでたきは﹂に始まり︑﹁盛長の
ぱ 夢物語︑大庭殿の︵夢の︶合せやう︑︵頼朝の︶末繁昌と聞えけり﹂
と結んでいる︒つまり祝儀物といえる作品である︒この作品は﹁盛衰
記﹂と非常に似たところがあるので︑﹁盛衰記﹂によったと考えるの
は至極尤もであろう︒﹁盛衰記﹂には次のようにある︒
或夜の夢に藤九郎盛長見けるは︑兵衛の佐足柄の矢倉が嶽に尻を懸
さ けて︑左の足には外の浜を路み︑右の足にては鬼界が島を踏み︑左
一つ
こがれじ 右の脇より日月出でて光をならぶ︑伊法法師金の瓶子を懐きて進み しろがね 出で︑盛綱銀の折敷に︑金の杯をすゑて進み寄り︑盛長銚子を取つ まゐ て酒をうけ進らすれば︑兵衛の佐三度飲むと見て夢は覚めにけり︒
盛長此の事兵衛の佐に語る︒景義申しけるは︑﹁夢最上の吉夢なり︑
征夷将軍として天下を治め給ふくし︒日は主上︑月は上皇とこそ伝
なら へ奉れ︒今左右の御脇より光を比べ給ふは︑これ国王猶将軍の勢ひ
につゞまれ︑東は外の浜︑西は鬼界が島まで帰伏し奉るべし︒酒は ゑひ これ一旦酔をなし︑終にさめ本心になる︒近くは三月︑遠くは三年に
たが 酔の御心醒めて︑此の夢の告が一として相違ふ事は有るべからず︒﹂
舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶
舞曲の研究Ⅲ
I祝儀物・常盤物・判官物等についてI
とぞ申しける︒
舞はこれを増補改訂したとみることも出来る︒しかし例えば舞が﹁
大庭のきそう法師が︑白き瓶子を︑蝶形に口包ませ︑さかなに九けつ
のあわびをもって︑わか君に参らする﹂とあるなど︑両者の関係が直
接でないことを思わせる︒微妙な食い違いがある︒夢を合せる人物も ︑︑︑︑︑︑︑ ﹁盛衰記﹂では懐島の平権の頭景義であるが︑舞ではおほばのへいだ ︑︑︑︑ かげよしとなっている︒﹁盛衰記﹂では一挿話として︑軽く扱われてい
るが︑舞では独立の一曲として︑題名通りの内容である︒﹁文学﹂の
占いとともに︑舞の特徴ある一面る示すものであろう︒先に述べたよ
うに︑﹁夢あはせ﹂は一種の祝儀物であり︑頼朝をことほぐという点
で︑﹁文学﹂とも一致する︒またそれは﹁馬揃﹂とも共通する特徴で
ある︒
﹁馬揃﹂の冒頭に︑
頼朝の御前に盛長をめされ・いかに盛長承れ︒此間の事どもは︒夢
うつゞの吉事︒文学のうらのさす所︒果報の花のつぼみきて︒匂ひ
かつがうの風情なり︒めいむうら方とも︒既漸時をうくる︒
室木弥太
一
郎
とある︒これは﹁夢あはせ﹂と﹁文学﹂を指していることは明らかで︑
﹁馬揃﹂はその続篇といってよい︒ ﹁夢あはせ﹂にしろ︑﹁文学﹂の卜占にしろ︑要するに頼朝の前途
をことほぐものであるが︑これも同様の作品とみてよい︒前半は頼朝
の判の付いた廻文を盛長が持って廻るのであるが︑後半は題名通り馬
揃である︒頼朝が伊豆の山で軍勢の着到をつけたところ三百五十三騎
となるが︑
︑︑ 頼朝御覧して︒これは佐︵頼朝︶が祝言のはしめなれば︒面l︑の
めされたる馬ともを︒一目見むとの御読なり︒
というので︑次が馬揃︵正確には馬具揃馬揃︶になっている︒内容的
には頼朝の旗上げなのであるが︑文中に﹁祝言﹂ということばを使っ
ているように︑祝儀性の強いものである︒
祝儀性という点からいえば︑﹁九けつのかひ﹂と﹁はま出﹂は一層
はっきりしている︒前者は頼朝の御詫で海中の貝を採ることになり︑
秩父の六郎が特に面目をほどこすというもの︒後者は先ず鎌倉の繁昌
を喜び︑ついで頼朝の右大将昇進を寿いで雑餉をかまえる︒殊に江の
島詣での浜出で︑舟の上に舞台を作り︑歌舞音曲を楽しむものであ
る︒両者とも﹁所知入とこそ聞えけれ﹂と結んでいるのも︑偶然かも
しれないが共通している︒
このような頼朝を寿ぐ祝儀曲︑あるいは祝儀性の強い曲はかなりあ
るのであるが︑これは舞の一面を示すものとして注目しておかねばな
らない︒頼朝は源氏の棟梁︑従ってまた武士の棟梁として︑室町時代
の武士が一般に無条件で尊崇したことが想像される︒その意味で右の
ような祝儀曲が︑特に武士の間でよく行なわれたということは当然考
えられる︒例えば﹁なすの与市﹂は﹁所知入﹂ともいっているが︑末 舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶
尾は﹁九穴貝﹂や﹁浜出﹂と同じである︒所知入は武士にとってめで
たいことであるから︑﹁なすの与市﹂も従って祝儀用として行なわれ
たに違いないが︑この曲で注目されるのは次のような結びである︒与
市が扇の的を射て源平の称讃をあびた後の文︒
大将︵義経︶は御覧して神妙なりとの御錠にてやかて御判を出さる
畠・去間与一はたくるノ︑とひむまいて︒あはのなるとををしわた
り︑岩やかせとをうち過︒花の都に着しかば︒関東に下って頼朝に
かくと申す︒神妙也との御読にて︑やがで御判をいださる■・ふた
つの御判給り︒一門のこらずひきつれ︑所知入とこそ聞えけれ
義経の御判だけでは満足できず︑あらためて頼朝の御判を頂いて所
知入している︒つまり所知入についていえば︑義経の御判は無価値と
みているのである︒﹁景清﹂の冒頭で﹁今度頼朝の御代を召れし由来
をくわしく尋るに︑御舎弟九郎御曹子御意たけく渡らせ給ふ由来なり
とそ間へける﹂とあるように︑義経を非とし︑頼義を立てる態度にそ
れはつながるものであろう︒また﹁合状﹂にみるように︑梶原の謹言
のせいとして︑梶原を討たしめ︑判官晶眉と頼朝尊重を両立させてい
る場合もある︒
頼朝を宗主として仰ぐのは当時の武士階層一般の意識であり︑それ
に乗じて右のような祝儀物が作られたとみることができる︒また頼朝
との関係からいって︑鎌倉の鶴岡八幡宮に奉仕した舞々の創作という
ことも考えられる︒しかしいずれにしても︑舞が当時の支配層である
武将に︑積極的に愛好されるようになってから︑つまり舞々が武将た
ちの庇護されるようになってから︑レパートリーに数えられるように
なったとみてよさそうである︒
尤も舞には本来そういう祝儀的面があってI例えば﹁日本記﹂は 一一
全く頼朝と関係がないが︑これも祝儀曲といっていいl舞の庇護者
として戦国の武将が登場した時︑舞のレパートリーに頼朝礼讃の祝儀
曲が加わったのであろう︒あるいは本来そういう曲ではなかったの
に︑その意味が加わったということも考えられる︒﹁なすの与市﹂を
﹁所知入﹂と呼ぶのもそのせいかと推測される︒ともかく舞には初め
から祝儀的な一面があって︑それが右のような結果をもたらしたので
あろう︒本文の一部を抜き出して謡うというのも︑いつからの事か分
らぬが︑その表れというべきであろう︒
○
マ︑ 舞には﹁伏見常藥﹂﹁廃常盤﹂﹁常盤問答﹂﹁山中常盤﹂という︑常
盤物ともいうべき一系列の作品がある︒いうまでもなく常盤御前が主
人公であって︑彼女は美しく教養があり︑貴族的であって︑当代の理
想的な女性として登場する︒
マ︑ ﹁伏見常藥﹂の常葉御前は︑義朝の没落後︑三人の子供︵今若・乙
若・牛若︶をつれて都を出︑雪の夜小幡の里にたどりつく︒老夫婦の
住む賤が庵に宿をたのむのだが︑義朝方の落人と見られて断られる︒
その時常葉は﹁諸法の有為転変の理りをおほしめしつきけ﹂三人の
子供に次のようにいう︒
されは法花一乗の功力はたっとし︒一の巻の方便品に︒十方仏土
中︒唯有一乗法︒無二亦無三除仏方便説︒此文の心は︒十方仏土の
中には︒唯一乗の法のみ有て︒二もなくまた三もなし︒仏の方便の
説をのそく︒除くといつは二則妙なり︒されは妙とかける文字
クトキ は︒扁には女作りには少しとかけり此理りを聞時は只若共と自
は︒妙の一宇にあらすや︒さあらん時は十方の諸仏も︒なとか憐み
舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶ ふし なかるへきうらめしの浮世やな︒南無阿弥陀仏みたふっ と︒十返唱へ給ひつち︒又若達に︒うちかゞり泣涕こかれ玉﹂うた 時︑老翁はその念仏の声の尊さに感動して庵の内に入れる︒老夫婦は
︵請︶ ﹁持仏堂をこしらへ︒常葉をしやうし奉り︒吾をよみ詩を作り﹂し
て︑翌年の二月までこの伏見の里で過す︒
常葉は平治物語によると︑﹁都の中よりみめよき女を千人そろへて︑
そのなかより百人︑又百人が中より十人すぐりいだされける︒其中に
も常葉一とぞきこえける︒千人が中の一なれば︑さこそはうつくしか
りけめ︒異国に聞えし李夫人・楊貴妃︑我朝には小野小町・和泉式部
もこれにはすぎしとぞみえし﹂という美人である︒﹁義経記﹂︵巻一︶
でも同様にいい︑本篇でもまたこういっている︒
︹女力︺ 一年天下に母くらへの有し時︒眉目能女を千人揃へ・千人か中より
も三人撰み出さる畠︒一人はあやめのまへ︒一人はまこものまへ・
今一人はとつこのまへ︒
といい︑中でも﹁とつこのまへと申は︒只いつもの姿にて︒更にけし
やうはなけれ共︒世に勝れたる女なれは﹂常葉の前といったという︒
その常葉が︑前記の老夫婦や︑この都上臨を拝みに集った田舎女の前 では︑義朝の妻という自分を隠して︑長い身の上話をする︒大和宇多
郡の山里の女であるが︑都に出て結婚し︑三人の子供を儲けた︒しか
し夫の浮気のため︑未練を残しながら︑子供を連れて家を出︑実家に
帰る途中であると語る︒伊勢物語の高安通いを利用して︑卑俗な話を
優雅に語るところが面白い︒この常葉の長い物語の後に︑濁酒を持参
でやって来た女五人が︑歌をうたい︑舞をまうのである︒この女たち
は人の召使で︑出身は出雲・播磨・丹後・和泉・遠江とそれぞれ異な
り︑常葉を慰めるために田歌をうたうことになる︒しかし実際は最初
一一一
の出雲の女の︑
マ︑ 田うへよや︑たうへよ五月男女︒皐月の濃をはやむるはかんのうの
烏︒時烏山からこから四十雀︒此烏たにもさわたれは皐月の濃はさ
かりなり
は田歌であるが︑他はそうとも思えない︒すべて祝い歌のようであ
る︒それぞれの末尾は︑
唯今の御座敷の︒上臨にまいらせん︑あらめてたや
唯今の上臨に是を添てまいらせんあらめてたや
只今の上臨の若君様に参らせんあらめてたや
唯今の御座敷の︒上臨にまいらせんあら目出度や
唯今の御座敷の︒御肴にまいらせんあらみてたや
といった具合である︒常葉を中心に女たちの︑濁酒で賑わう遊興の場
を見せている︒それは語りと舞と歌である︒常葉も田舎女︑他の女も
人の下女である︒そういう農村の気易さがある︒
本篇は次のようなことばで始まっている︒
抑常葉御前の先祖を委く尋るに︒父は梅津の源左衛門︒母は桂の宰
相とて院につかはれ奉る︒︵﹁山中常盤﹂では常盤の父を大和源氏の
大将宇田のとうしとしている︒この点からも﹁山中常盤﹂は別系の
作品らしく思われる︶
しかし平治物語では︑常葉は九条院の雑仕であり︑大和国字多郡竜
門の牧岸岡の伯父を尋ねて行くことになっている︒梅津も桂もいうま
でもなく仮構であろう︒出身を尊くしたのであろう︒また梅津といい
桂といい︑京都の地名を思わせる︒梅津は説経﹁さんせう太夫﹂の梅
津院の梅津であろうか︒桂は桂女の桂であろうか︒常盤は貴賎の両端
に動いて︑浄るり姫のように︑作品の主人公とそれを語る芸能者の二 舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶
重写しである︒
常盤の理想化は﹁扉常盤﹂と﹁常盤問答﹂に一層明瞭に見られると
ころである︒﹁廃常盤﹂は﹁麦に物のあはれを尋ぬるに︑ときはの母
にてと畳めたり﹂で始まる︒常盤の母は﹁伏見常盤﹂でいう桂の宰相
であるが︑清盛が常盤母子の行方を突き止めるため︑捕えて拷問にか
ける︒それが不可とみると懐柔にかゞる︒しかし母は英雄的に耐忍抵
抗し︑清盛に対して︑次のように言い放つ︒
︵前略︶世をしらんとおほさは︑こはきをやはらけ︑よはきをなて︑
︵義︶ きをおもくすへきなり︑君ノ︑たれは︑しんノ︑たり︑御身の今の
ふる舞は︑まさかとの其かみ︑すみとものらふせき︑籾さたたうか
とうあく︑今のふよりかけきらんも︑これにはいかてまさるへき︑
今たにもかくあり︑まして平家一へむの御代ともなる物ならは︑君
の位をうはい取て︑天下はやみと成へき也︑さあらん時に︑清盛も
必ほろひはつへきなり︑末の代にこのあまか︑申すてし事のはを︑
思ひ出し給ふへし︑いけて物をいはせんよりも︑とくせめころせこ
れは一介の尼のことばではない︒
常盤は母が拷問を受けていると漏れ聞き︑﹁子をはまふけて又みれ
と︑親を二度みる事なし⁝三人の若子共を︑母うへの御命に取かへは
や﹂と思って上京する︒清盛は常盤に恋慕し︑日に二十三通の文を送
る︒常盤はこれを拒否したが︑母の説得で︑子供の命を救うために︑ ︑︑ 清盛に摩く決心をした︒その際常盤は﹁三人の若共を︑実子に御なし
有へきとの︑ちかひの証文﹂を要求した︒これは清盛だけでなく︑八
人の公達︑三十人の御一門︑十人の侍大将にも及ぶものである︒清盛
はこれを受諾したのである︒﹁扉常盤﹂は次のように結んでいる︒
籾こそ寿永の秋のころ︑平家都をおとされ︑ほろひはて給ひしも︑起
四
請ゆへとそ聞えける︑かのときわの心中をは︑貴賎上下をしなへ︑
かんせぬ入はなかりけり
常盤とその母は剛勇無双であり︑道義と愛情の鑑である︒そういうふ
うに理想化されている︒
﹁伏見常盤﹂﹁扉常盤﹂﹁常盤問答﹂そして﹁笛の巻﹂は一連の作品
である︒﹁常盤問答﹂の常盤は︑鞍馬寺の別当東光の阿闇梨と論戦に
及び︑﹁いかにや東光︑物をしらすは無言あれ﹂と︑阿闇梨の無智を
激しく攻撃する︒これは常盤が鞍馬寺を訪れ︑礼堂の高座に上ったと
ころ︑阿闇梨が﹁はかいむさんの女なり︑おなし人間といひなから︑
女人はさはりおほぐして︑きよき霊地をふむ事なし﹂と非難したので
ある︒これに対して常盤は経文を引用して反駁するが︑例えば次のよ
うにいう︒
経の説との給は臼︑一切経の惣一︑法花経をもってほんとせり⁝彼
経のはしめに妙法蓮花経とよむ︑その第一の筆たてに︑女といへる
文字をかく︑へんには女︑作りにはおさないと書てこそ︑妙とは是
をよまれたり︑めうと書ける文字の︑よみ数おほしとは申せとも︑
先たへなりとよまれたり︑六万九千三百八十余字のもんノ\は︑別
の事をはほめすして︑妙をほめむかため也︑妙と書ける心は︑詞に
ものへかたし︑筆にもいかてつくすへき︑言語道断なる問︑しんき ︑︑︑︑︑︑︑︑ やうしよめつなりとかや︑麦をもって案するに︑万法のいた畠きは ︑︑︑︑︑きわ必︑︑ 女をもって極たり
さらに﹂女高座へあかるなといましめ給ふもんはなし﹂と極め付ける︒
幼稚な論理ではあるが︑阿闇梨を屈服させるには十分である︒阿闇梨
だけではない︒当時の女性に対する偏見に︑激しい反撃を加えたもの
であることは間違いない︒常盤の女丈夫振りは︑フェミズムヘの志向
舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶ を示していて︑当時の新しい空気を反映したものであろう︒
このことは常盤に限らず︑静についてもいえることである︒﹁ほり川﹂
や﹁四国落﹂における静御前の活躍もさることながら︑特に﹁しつか﹂
の静に注目しておきたい︒﹁しつか﹂は︑﹁伏見常盤﹂や﹁扉常盤﹂
が間接的に﹁平治物語﹂に深く関連しているように︑﹁義経記﹂に直
接的ではないにしても︑関係の深いことはいうまでもない︒しかし作 ひじり 品の傾向という点では非常な違いがある︒﹁しつか﹂には浄土寺の聖
が五戒の謂れについて長々と語る部分がある︒﹁しつか﹂はそういう
面がかなり濃厚で︑その点で説教とみることができる︒この作品は題
名通り静がヒロインであるが︑頼朝が鎌倉の御所に呼び寄せた時︑
折節ありあふ大名小名︒かゞる時にこそ︑みゞをうたする学門の候 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ へ・しづかはきこふるがくしやうなれば︒いざや参てちやうもむせ
んと︒内さふらひ︑とうさふらひに︑所せきなくなみゐたり︒
という状態である︒
頼朝の北の方は﹁かのしつか御前と申は︒ないでむ︑げてんぐらか
らす︑しかもわかてうの︑ふうそく和寄のみちはたっしやなり︒いざ
やしづかによりあひて︑源氏いせ物かたりの心をたづねむ﹂と提唱し
て︑ほかの北の方とともに︑静が語る伊勢物語の謂れを聞く︒
静が例の﹁しづやしづ﹂の歌をうたった時︑頼朝は御簾をおろして
しまったが︵こゞは﹁義経記﹂も同じであるが︑以下が異なる︶︑秩
父殿のとりなしで再び御簾をあげる︒これを見た静は︑
こくらくじゃうとのたますだれ︒かむじゆまむしゆの︑たまのはた
あくれは︒いよノ︑光ます︑玉躰つゞがなふして︒あめが下こそ︒
のどかなれ
と三遍踏んで廻ったところ︑頼朝は感にたえかね︑踊り出て︑ともに
五
かいなをさし︑大名高家は︑庭上に転び落ち︑声をあげておめいた︒
静は頼朝から駿河の国蒲原八十余町をたまわり︑大名から山の如き俸
禄をもらったが︑すべて鎌倉の寺社に寄進した︒
静はただの白拍子ではなく︑父は伏見の中将という藤原氏の公卿で
あり︵浄るり姫の父も伏見の源中納言である︶︑常盤と同様出自を尊
くし︑貴族の娘らしく美化し理想化している︒浄るり姫と異なるとこ
ろはない︒常盤の母を桂の宰相として︑桂女との関係を暗示している
かの如くであるが︑静が伏見と深草の境にある︑浄土寺に庇護されて
いたというのも注目されるとこである︒﹁義経記﹂ではそれが法勝寺
となっているが︑わざわざ浄士寺としているのは︑浄土宗に属する女
性唱導者が︑この静の物語を語ったのではなかろうか︒舞曲はそこか
ら素材を得たのであろう︒
女性の語り物を採ったと思われるものに﹁烏帽子折﹂がある︒﹁烏
帽子折﹂は舞の中でも人気のある大曲である︒その内容を要約すると
次のようになる︒
一牛若︑五郎太夫に烏帽子を作らせ︑代りに刀︵こむねむとう︶
を取らせる︒
二五郎太夫の妻︵鎌田の妹︶は︑その刀を故主︵牛若︶に返す︒
三牛若︑ひとりで元服︵吉次︑京藤太と命名︶︒牛若︑吉次の刀
をかついで下る︒ ︹以上鏡の宿のこと︺
四牛若︑吉次に辱しめられる︒牛若︑蝉折を吹き︑君の長︵義朝
の妻︶ら感動する︒
五君の長︑草刈笛のいわれを語る︒
六牛若・君の長︑その身の上を明かす︒義朝の亡霊の告げ︒ 舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶
︹マ︑︺ 七熊坂長半ら盗賊が青野が原に集る︒やげ下の小六︑吉次の館を
偵察︑牛若の衣裳について詳しく語る︒
八熊坂ら牛若に討たれる︒ ︹以上青墓の宿のこと︺
いうまでもなく牛若中心の作品である︒従って牛若︵義経︶が登場
する多くの作品と同様︑これも貴種流離證ということになろう︒しか
し﹁義経記﹂の牛若は︑鞍馬を下る前に︑吉次に義朝の子であるこ
とを告げている︒だから吉次は牛若に十分敬意を表している︒﹁烏帽
子﹂の場合はそうではない︒牛若は鞍馬を出︑吉次と近江の野路の宿
に落ち合い︑その日鏡の宿の菊屋に泊った︒遊屋は雑餉かまえて吉次
をもてなし︑吉次をもてなし︑吉次は酒盛に打興じたが︑﹁あらいた
はしや牛若殿は︒人目をつゞませ給ふ間︒切戸のわきにすごノ︑と唯
一人た蚤すみ給ふ﹂という状態であった︒
また﹁義経記﹂の牛若は︑熱田の大宮司より烏帽子をうけ︑明神の
前で元服し︑左馬の九郎義経と名をかえた︒﹁烏帽子折﹂では︑平家
の追手からのがれるため︑やむなくひとりで元服し︑吉次から京藤太
という名を付けられている︒牛若は吉次の刀をかづいて下るという屈
辱をしのばねばならない︒﹁なみたの雨は︒玉かつらむかしはかけて
見し物を﹂と歎く︒
︑︑ さらに大はか︵青墓︶の長者の館では︑吉次に命ぜられて︑君の長
にお酌をするが︑失敗してひどく叱られる︒牛若は顔をまつ赤にし
て︑
ぶしのおまへの御しやくは︑是かはじめにて候に︒いかにもをしへ
てつかはれ候へ︒
という︒吉次は﹁さやうの事をもわたくしにてこそ申せ︒是は人のお
前そ︑罷立﹂と叱る︒牛若は自分が武士であることを忘れたかのよう 一ハ
に︑卑屈なほど従順な態度をとる︒
その牛若が︑目を見はらせるようなことをやってのける︒一つは蝉
折の笛を見事に吹いたことであり︑一つは熊坂らをやっつけたことで
ある︒つまり芸能と武勇において超人的な力を発揮し︑以前の弱々し
い牛若の印象を払拭してしまう︒そこにこの作品の劇的といえる一面
がある︒特に牛若のイメージが︑高貴で美しく︑しかも武勇と巧知に
たけ︑弱いようで強く︑不器用なようで器用な︑そういう矛盾が魅力
になっている︒武将的なスケールに欠けているが︑庶民的な親しみは
ある︒
﹁笛の巻﹂で常盤が﹁夫児のもてあそひには︒何ノーと申共︑くわ
けんにすきたる事はなし︒其中にとっても︒笛は一の名物なれは︒よ
からんふえをもとめ︒牛若にとらせはやとおほしめし︒﹂淀の津の弥
陀次郎から買ったのが青葉の笛である︒そういう母とか姉とかが︑愛
情をかたむける少年のイメージが︑この牛若にあるように思う︒
この作品では二人の女性が牛若の前に現れて︑尊敬と愛情の真心を
傾ける︒一人は五郎太夫という烏帽子作り︵烏帽子折の太夫︶の妻で
ある︒彼女は義朝の御内鎌田の妹︑主君に離れて︑身の置き所のないま
ゞに︑五郎太夫と契りを結び︑九年になるという︒このことを始めて
夫に打明け︑﹁九年の情に其刀︵こむねむとうといい︑牛若が烏帽子
の代として置いていったもの︶を︒みつからにたへかしなふ︑わか君
︹マ︑︺ のわうしうへと︒はるj︑御下︒ましノ︑に︑奥はなむけに︒参らせ
ん﹂と︑夫から刀を譲りうけ︑牛若にそれを贈る︒
五郎太夫の妻が鎌田の妹であるというのは︑注目してよいことだ思
︑
う︒絵巻の﹁しやうるり﹂︵赤木文庫蔵︶では︑浄るり御前の侍女み
︑︑︑たわう御前は︑鎌田兵衛のひとり姫だといっている︒また﹁義経記﹂
舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶ によると︑鎌田の子三郎正近が出家して︑太宰府の安楽寺にいたが︑ 都に帰って四条の御堂︵金蓮寺︶に移って行い澄ましていたが︑法名 を正門坊といい︑また四条の聖といった︒これが鞍馬の牛若に︑しき りに謀反を進めたという︒四条の御堂は有名な時宗の寺で︑そこから は唱導者が各地を歩き廻っていたのである︒芸能とも深く関係してい る︒従って右の些細なことが見逃しがたく思われる︒
もう一人の女性は︑青墓の宿の長者︵君の長︶である︒彼女は義朝 ︑︑︑︑ の妻であって︑万寿の姫という忘れ形身があり︑いらたか寺の麓に出
たち 家している︒また長者の館には︑一間四面の光堂を建てている︵吉次
は金十両・馬十匹を寄進した︶︒娘の出家といい︑光堂の建立といい︑
義朝の菩提のためであろう︒﹁平治物語﹂によると︑青墓の宿の長者
大炊の娘延寿は義朝と深い仲で︑夜叉御前といって当時十歳になる娘
がいた︒義朝が都落ちしてこゞに来た時も︑なのめならずもてなされ
た︒大炊のことは﹁吾妻鏡﹂にも出て来て︑実在らしく思われる︒し
かし右の万寿姫とその母とは合わない︒従って﹁烏帽子折﹂はフィク
ションであろう︒万寿の名も女性唱導者にはありふれた名である︒
青墓の長者が義朝の妻女で︑義朝の死後熱心にその後世を弔い︑特
にその娘が尼となったという︒その万寿の姫は︑義朝の一家一門が︑こ
の東海地方に残したものを︑生きj︑と語ることのできた人ではなか
︑︑ ったろうか︒その母の長者も︑ごせ︵遊女︶たちの前で︑草刈笛のい
われを丁寧に語っているが︑彼女もそういう専門家であったと想像さ
れる︒
これは全体の四分の一を超える長い話であるが︑牛若を中心とする
ストリーには直接関係はない︒しかも君の長にわざノ︑これを語らせ
たのは︑恐らく話の人気によるものであろう︒
七
用明天皇が絵女房を書かせて后をさがす︒その絵姿になったのは︑
︑︑ ︑︑ 豊後の内山の正観音の申し子で︑まの殿の娘玉よの姫であった︒天皇
は豊後に下って︑長者の家の牛飼となり︑山路と称していつも草刈笛を
︑︑ 吹いていた︒ある時宇佐八幡の放生会の流鏑馬を機会に︑玉よの姫を
后とすることができた︒この話は東海道筋に相当流布したことは︑こ
の地方に絵女房塚のあることでも分る︒﹁三河剛補松﹂︵安永四年孟夏
林自見正森著︶によると︑額田郡明大寺︵岡崎の大平川を隔てて南︶
に絵女房塚があり︑﹁往古従内裏絵姿ヲ以テ美女ヲ求玉フコトァリ︑其
頃当所ョリ出シ女宮中二入︑没後麦二葬ルト云﹂と伝えている︒﹁三
河堤﹂にも﹁哩諺二云︑何レノ吃ノ天子ニャ︑御夢二御覧セサセ玉フ
女房ヲ︑絵二画セ玉上御尋アリシニ︑三河国明大寺ノ里二絵二似ダル
女アリ︑是ヲ召テ后トシ玉フ︑此后遺言シテ︑我死セハ三河国明大寺
二葬ルベシトナリ︑依テ麦一一埋ム﹂と伝えている︒これは青墓の君の
長が語る︑山路の草刈笛の一部と非常に似ている︒山路の方は豊後の
話であるが︑その話をこの地方で語るとすると︑当然土地に結びつく
ことになる︒しかも明大寺に結びついたのは︑浄るり御前の話を語っ
た女性たちと深い関係があったであろう︒岡崎及び明大寺は︑浄るり
関係の遺跡といわれるものが非常に多い︒岡崎城内の浄るり堂︑明大
寺の成就院に浄るり姫石塔があり︑同村に姫の父兼高長者の古屋敷︑
姫が遺した凄香の塚等である︒絵女房の話も浄るり物語同様女性の語
り物であったのであろう︒
用明天皇のこの話も貴種流離證であるが︑牛飼の山路が草刈笛を吹
くのは︑吉次の刀持である牛若が︑蝉折を吹くのと同工異曲である︒
そこに両者の高貴なるゆえんがある︒いずれが先で後であるかは分ら
ないが︵どちらかといえば山路がモデルになったように思うが︶︑い 舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶
常盤物の中で﹁扉常盤﹂は︑笹野堅氏が﹁幸若舞曲集﹂に翻刻され
たものが一つあるきりで︑ほかに本のあることを聞いていない︒この
唯一の本は︑平瀬露香旧蔵︵天理図書館蔵︶本で︑曲節やごま節が付
いていない︒笹野氏は﹁大頭舞の系統に属する正本のやうに思はれ
る︒﹂といわれるが︑確かではない︒﹁満仲﹂や﹁伏見常盤﹂は︑大頭
系になく︑幸若系にあるが︑平瀬旧蔵本にそれがあるから︑大頭でな
く幸若だといえないこともない︒﹁摩常盤﹂は文禄二年七月十四日︑ 注1 上山与兵衛宗久の写本として残っているが︑市古貞次氏﹁幸若舞・曲
舞年表稿﹂をみてもこの曲目は出て来ない︒従って幸若でも大頭で
も︑あまりやらなかったのであろう︒ひょっとしたら全くやらなかっ
たのかもしれない︒
しかし冒頭は︑ ずれにしても女性の好みに合致した話といえるだろう︒﹁浄るり物語﹂ が本来女性の語り物であると考えられるのも当然である︒
矢作宿で牛若は︑大和竹に目をあけた草刈笛だと謙遜しながら︑持 ︑︑︑︑︑︑ 参のたいたうまるをさっと吹き上げて︑浄るり御前を感動させた︒こ
の方は﹁烏帽子折﹂とは違って恋物語になっている︒それだけ﹁烏帽子
折﹂より新しいともいえるが︑必ずしもその先後関係を明確にできな
い︒例えば牛若の衣裳について精細に述べるところは︑両者非常に似 ︑︑︑ ている︒しかし﹁烏帽子折﹂でやげ下の小六が︑熊坂の前で長々と語
るのは︑いかにもとってつけたようである︒﹁津るり物語﹂の方はま
だ自然である︒恐らくああいう語りが先にあって︑用明天皇の話のよ
うにそのまま取込んだのであろう︒﹁烏帽子折﹂はそういう点で消化
不良な作品である︒
八
麦に物のあはれを尋ぬるに︑ときはの母にてとゞめたり
とあり︑終りは﹁かのときわの心中をは︑貴賎上下をしなへ︑かんせ
ぬ入はなかりけり﹂とあり︑明らかに語り物である︒この曲などは舞
曲以前の語り物の姿を︑そっくり残しているのではなかろうか︒
市古氏の右の年表稿によると︑﹁上井覚兼日記﹂天正十三年九月十
六日の条に﹁此日於御宿︑松大夫舞申候︒みな鶴︑裏野合戦二番舞
候︒勿論装束にて舞候也・﹂とある︒右の二曲は舞曲の正本として︑
写本も板本もない︒ただし﹁みな鶴﹂は︑﹁幸若舞曲集﹂中に︑清水
泰氏蔵奈良絵本﹁みなつる﹂が翻刻されている︒しかし舞曲のテキス
トではない︒文中﹁ざるほとに﹂﹁その畠ち﹂﹁さるあひた﹂という冒
頭語があり︑﹁いたはしや御さうしは・・・﹂といったことば遣いがあっ
たりして︑﹁浄るり物話﹂に似た語り物であったことがうかがわれる︒
また﹁家忠日記﹂文禄二年閏九月十五日の条に﹁会下二ふる舞二て越候︒
女舞々こし候て舞候︒ふしみときわ︑芳野落︑持氏三番﹂とある︒右
の三曲のうち﹁芳野落﹂﹁持氏﹂は本来の舞曲の中にないものである︒
これも前の二曲と同様︑当時の語り物をかりて︑舞の曲節で語ったの
ではなかろうか︒﹁扉常盤﹂はそれと逆の意味で︑本来の舞曲ではな
い語り物という推測も成立ってくるのである︒
﹁山中常盤﹂は平瀬旧蔵本のほかに大頭左兵衛本がある︒横山重氏
は寛永十年︑江戸の本問屋の刊行した﹁山中常盤﹂を得たといってお
られるが︑非常に本が少い︒しかし﹁廃常盤﹂と違って︑詳しい曲
節︑ごま節の付いた大頭系の本もあるのだから︑まぎれもなく舞曲で
ある︒しかし市古氏の年表槁には上演記録がない︒行われることが少
かつたとみてよい︒むしろ浄るりとして行われることが多かったので
はないか︒これも舞以前にそういう語り物があって︑浄るりは直接そ
舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶ れを受けたかもしれない︒
注1﹁日本女子大学国語国文学論究﹂所収
﹁山中常盤﹂も本が少い︒笹野氏旧蔵︵天理図書館蔵︶の︑大頭左
兵衛・笠屋但馬筆写本のグループに︑題策がなく︑従って筆写名のな
い一本がある︵﹁幸若舞曲集﹂に翻刻︶︒また平瀬氏旧蔵本に文禄二年
七月廿一日︑上山与兵衛尉宗久筆写のものがある︒しかし幸若三家の
正本にはない︒舞の本としては︑横山重氏が所蔵する︑寛文十年︑本
間屋板行の江戸板が知られているだけである︒ともかく本が少い︒
浄るり本としては次のものが知られている︒
一故幸田成友氏蔵の正本零葉︵﹁古浄瑠璃正本集・第匡口絵︶
元和末l寛文初年刊︵横山説︶
二絵巻﹁山中常盤﹂︵箱根美術館蔵︑古典文庫二二l﹁古浄
瑠璃集﹂︶
三写本﹁やまなか﹂四段︵小野幸氏蔵︑﹁古浄瑠璃正本集・第ご
寛永ごろ書写︵横山説︶
四仮題﹁常盤物語﹂中仮に九段目十段目とした部分︵反町茂雄氏︶
蔵︑﹁古浄瑠璃正本集・第二
横山氏が﹁古浄瑠璃正本集・第ご及び古典文庫︵二二︶﹁古浄瑠璃
集﹂の解題で︑詳しく述べておられることは大凡妥当と考える︒ただ
一・二の点について私見を加えたい︒横山氏は右の﹁一ことコーこに
ついて︑﹁共に寛永初年の正本﹁やまなか﹂を取って文章にしたとい
へる﹂といわれるが︑両方の文を比べても︑ほとんど同じである︒し
かも舞曲に非常に近い︒特に﹁二﹂の絵巻にそれを感ずる︒恐らく舞
を浄るりで語ったのであろう︒
また﹁四﹂については横山氏は︑
九
舞の本の﹁山中常盤﹂から取ってゐることは明白である︒が︑ある
程度︑浄るり調にこしらへてゐる︒そして︑寛永初年の正本﹁山中
常盤﹂より︑や■古いやうに見える︒文章をくらべて見ても︑寛永
初年の正本と大差はないが︑小異がある︒
といっておられる︒これも舞によったものであり︑.浄るり調にこし
らへてゐる﹂というより︑全くの浄るりと思われる︒﹁二﹂﹁三﹂より
﹁や揖古いやうに見える﹂が︑﹁二﹂﹁三﹂に比べて︑舞から遠のいて
いるように思われる︒
例えば牛若が山中の宿で母常盤の敵討をした後︑三年たって大軍を
率い再び上京の途中︑母の廟所に参って孝養し︑宿の太夫に三百町の
地を賜った︒そして文章は次のように結んでいる︒
た賢人は情あれ︑情は人のためならす︒終にはそのみのとくとな
る︑是につけても女房の情ゆへとぞ聞えける︒其後御ざうし︒打て
のほらせ給ひて︑天下をおさめ給ひけり︒
﹁二﹂﹁三﹂もこの部分はほとんど変りはない︒しかし﹁四﹂は大い
︑
に異なっている︒一旦奥州に帰ることなく︑その場で太夫︵よ一︶夫
婦に所領をとらせている︒そして次のように結ぶ︒
山中のしゆくに︑てらをたて︑みやうたいしと︑かくをうち︑ほそ
んにみたを︑つくりすへ︑くやうには︑万ふのきやうをあそはし
て︑みやこをさしてそ︑御のほりある
︑
ひとりぼっちでやって来た牛若が︑よ一夫婦に所領を与えるというの ︑︑︑︑︑︑ は道理に合わない︒また山中の宿にみやうたいしという寺があるかど
うかは確めていないが︑あるいは浄るり御前で有名な︑岡崎の方の明
大寺ではないかという感じもする︒つまりこの作品﹁四﹂は相当古く
から浄るり化し︑舞曲から相当離れてしまっていることが分る︒舞曲 舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶
﹁笈さかし﹂は﹁とかし﹂の続篇で︑二つは一続きのものである︒
義経主従の北国落ちはこの二篇で尽されている︒﹁富樫﹂の冒頭は︑
去程に判官山伏の姿をまなび︒下らせ給ひける程に︒十三日と申に ︑︑︑︑︑︑ は︒加賀の国に聞えたるあたかのまつに程なくつかせ給ふ︒
︑︑ とあって︑安宅に始まる︒そして次の﹁笈さかし﹂は︑義経等がなを
︑︑ いの津から海上に出たところで終っている︒﹁笈さかし﹂の次といえ
ば﹁屋嶋軍﹂になろうが︑その冒頭は︑
去間判官山伏の姿をまなび︒下らせ玉いけるほどに︒七十五日と申 ︑︑︑ に︒遥奥佐藤しのぶにつかせ玉ふ︒
とあるから︑舞における北国落は︑安宅から直江津の海上までのこと
に尽き︑その前後について語ることはない︒それは﹁義経記﹂と違
って︑主従の足取りを追うことにさほどの熱意はなく︑旅の中の極め
て緊迫した事件のいくつかを取上げ︑劇的な趣向で興味深く語ろうと
したからである︒
右の二篇における義経主従の経路は次の通りである︒︵Iは陸路︑
Iは海路︶ ︑︑ す正 安宅の松l藤づか・手取l富樫の館I宮の腰佐良嶽大明神Ⅱ珠洲の によって浄るりが江戸時代以前から︑いくつも語られていたのであろ う︒恐らく浄るりに圧れて︑舞の方で語ることが少く︑本も少なかつ
舞の本の﹁山中常盤﹂から取ってゐることは明白である︒が︑ある
程度︑浄るり調にこしらへてゐる︒そして︑寛永初年の正本﹁山中
たということであろうか︒市古氏の年表稿を見ても﹁山中常盤﹂は出
て来ないのである︒
○
一
○
みさき︑︑︑︑ 岬1石勤山六動寺の渡りlはうしづ︵放生津か︶l岩瀬の渡り1
打出の宿Ⅱなをいの津Ⅱ︹海上︺
注佐良嶽大明神は大野湊神社
これに対して﹁義経記﹂の場合は次のようになっている︒
しら 安宅の渡りI根上の松l岩本l白山l劒の権現I林I富樫l宮ノ腰
l大野の湊I竹ノ橋I倶利伽羅山l如意の渡り六動寺l奈呉l岩 ︑︑︑︑ 瀬l黒部l市振・浄土・歌の脇・寒原・なかはしl岩戸の崎l直江ノ
津︵花園の観音堂︶Ⅱ︹佐渡の島︺Ⅱ︹珠洲が岬︺Ⅱ寺泊
注如意の渡りは五位の渡りか︵岡部精一氏説︶
両者を比較して最も大きな相異は︑﹁義経記﹂の主従がわざわざ白
山比曄神社︵石川県石川郡鶴来町︶に参詣しているに対し︑舞の場合
はそれはないが︑その代り遠く珠洲の岬︵石川県珠洲市︶に立寄って
いる︒逃亡者がなぜそういう無駄な回り路をするのか理解に苦しむの
であるが︑これには相当な理由があったと見なければならない︒
しら ﹁義経記﹂についていえば︑主従は白山に向う前に︑すでに平泉寺
︵福井県勝山市︶に寄り道をしている︒平泉寺も白山同様本道から遠
く逸れたところにある︒義経が︑ 横道なれども︑いざや当国に聞えたる平泉寺を拝まん
という︒観光旅行の気分である︒﹁各々心得ず思ひけれ共︑仰なれば
さらばとて︑平泉寺へぞかゞられける﹂とある︒﹁心得ず思﹂った予感
の通り︑ひどい目に会ったが︑弁慶の気転で九死に一生を得て脱出し
はく た︒その後また遠く白山の麓まで足を運んだのである︒
平泉寺はいうまでもなく白山比曄神社の別当寺である︒従って忽々
の中で︑一行をわざわざ両所に向わせれのは︑勿論白山信仰のせいと
いわねばならない︒﹁義経記﹂の編修者の心情に由来するのであろう︒
舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶ しかし舞の﹁笈さかし﹂にはそれがない︒主従が安宅に着いた時︑
判官は一つ松を見て︑
あらゆふちやうなる姿哉︒四国西国都にて︒其かずまつを見てあれ
ど︒かほどゆうちやうなるすがたはなし︒名のなき事はよもあらし
尋てまいれむざし という︒誠に悠長な観光気分であるが︑それが根上の松だと分って
も︑﹁義経記﹂に︑
しら ほつ 是︵根上の松︶は白山の権現に法施を手向くるところなり︒いざや
白山を拝まんとて︑岩本の十一面観音に御通夜あり︒明くれば白山 によこう に参りて︑女体后の宮を拝み参らせて︑その日は剣の権現の御前に
み 参り給ひて︑御通夜ありて︑よもすがら御神楽参らせて︑
とあるほどに︑白山を思うことは全くない︒ ︑︑︑︑︑︑ 舞の﹁笈さかし﹂ではす■のみさきへ向って舟出した事情について︑
かなり納得のいく説明をしている︒判官以下が宮の腰︵金沢市︶の佐
良嶽大明神に一夜通夜した時︑宮人が次のようにいったのである︒
越中へのお下向は︒おもひもよらぬ事にて候︒それをいかにと申
に︒くりからがたうげには︒となみ︵砺波︶の七郎か︒七百余騎に
てさシへ︒山伏を通し申さず︒下みちの間をば︒加賀と能登の堺
マ坐 を︒しほ︵志雄︶の小大郎かふさぎ︒さらノ︑山伏をとをし申さ
ず︒越中への御下向は︒おもひもよらず
それを聞い弁慶が︑浜に下って舟を捜したところ︑丁度珠洲の岬へ下
る舟があって︑それに便船したというのである︒しかし北国落の全コ
ースを考えた場合︑この大迂回はやはり不自然である︵例えば珠洲の
岬から直江津の方へ︑なぜ舟で直行しなかったのか︶︒それは﹁義経
しら 記﹂の平泉寺・白山詣でと同じく︑能登の奥︑珠洲のあたりまで行か
一一
ねばならない事情があったと見なければならない︒
﹁笈さかし﹂の作者は岬のあたりをこう言っている︒
石岸が畠とそびへ︒風ちどんたる万木は︑絵に書たるがごとくな
り︒西の沖ははてしもなく︒さうかひ雲をひたし︒ろかいをわたる
こしぶれや︑なみまに︒かづきうきしづむ︒水にはふれてとふかも
め︒汀の岩に︒なみかけて︑底あらいその岩間にも︒くだけて見ゆ
る︒うつせがい・人の心はあらいその・かたおもひなるあわひ貝︑
みるめ︒なのりそとらんとて︒あまともうみに︒おりひたり︑かつ
きのためにうきしつむ
偶然かもしれないが︑今日もなおこの描写は生きている︒当時の珠洲
の岬も恐らくこの通りであったろう︒
去間弁慶は︒とある岩間よりも︑にし︵螺︶にみるめのついたる
を︒取あげて︑御前にまいらする︒にしはいきてうごきけれは︒み
るめもともにぞうごきける︒判官御覧じて︒御前みやこにましまさ
ば︒いきたるみるめをは︑なにとしてかは御覧すへき・遠国のはて
︹めいよ力︺ にても︒義経かとくにより︒か出る見いよのもてあそひを︒御覧す
るよと仰ければ︒御前とりあへざせ給はす︑
都より︒なみのよるひる︒うかれきて︒道とをくして︒うき目み
るかな︒
判官きこしめされて︒あら面白の御ゑひかや候︒いてノ︑義経も御
返寄申さむとて︑
うき目をは︒もしほと友にかき捨て︒よるこひとなる︒すきのみ
さきや
この二首の唱和に望郷の感がしみじみと深い︒
これとよく似た趣向は﹁義経記﹂にもある︒ 舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶
岩戸の崎といふところに着きて︑あまの苫屋に宿を借りて︑夜とと
もに御物語ありけるに︑浦の者ども︑かちめといふものをかづきけ
るを見給ひて︑北の方かくぞ続け給ひける︒
よもの海なみの寄るj︑来つれもどいまぞ初めてうきめをぱ見る
弁慶これを間きて︑いまノ︑しくぞ思ひければ︑かくぞ続け申ける︒
浦の道なみの寄るノ︑来つれどもいまぞ初めてよきめをぱ見る
当然なことながら舞は﹁義経記﹂によったと思われ勝ちであるが︑
両者を比較してみると︑直接の関係のないことが分るであろう︒﹁笈
さかし﹂の︑義経と御前との唱和は自然であって︑前途への祈りをこ
めた心境はうなずけるものである︒しかし﹁義経記﹂では︑弁慶がな
ぜ﹁いまj〜しく﹂思わなければならぬのか︑また﹁いまぞ初めてよ ︑︑︑ きめをぱ見る﹂というが︑どういうよきめに逢ったのか一向分らない︒
﹁義経記﹂の編修者は︑この一対の歌を消化しきれなかったのである︒
それというのも﹁義経記﹂の編修者を動かすほどの魅力ある素材であ
って︑恐らく舞のように︑義経夫婦の唱和であったにもかかわらず︑
義経を弁慶に改めるという作為を行なったためであろう︒﹁義経記﹂
の北国落では︑義経を影のうすいものにし︑代って弁慶を大きく登場
させているのである︒
﹁笈さかし﹂の歌物語の方が︑むしろ元の語りに近いと思うのであ
るが︑しかしこの歌のためにわざわざ義経主従を︑奥能登の果てまで
旅行させたとも思われぬ︒それよりも別は述べる通り︑奥能登一円に
義経関係の伝説が非常に多いことと深い関係があろう︒つまり中世の
当時︑奥能登を巡る多くの遊行者が︑判官主従の語り物を︑都を初め
各地にせっせと運んでいたに違いない︒舞の作者はそれをよく聞いて
いて︑能登を無視して北国を通過することに堪えなかたつのであろう︒ 一一一
280
﹁義経記﹂にもその気持があって︑直江津を出て︑佐渡に向い︑目前
にして風波のため船を着けることが出来ず︑珠洲の岬に方向を変えて
いる︒これも風のために東の方へ逆に流され︑寺泊にうまく着いてい
る︒奥州の方へ行こうというのに︑何のために西の方珠洲の岬へ逆行
しなければならなかったのか︒恐らく無視して通過しにくいことがあ
ったに違いない︒今も岬に近い須々神社には︑義経の蝉折の笛といわ
れるものを蔵し︑附近には関係の伝説がいくつかある︒
舞の二作はそれぞれ急迫した場面を構成し︑それぞれ趣向に工夫が
ある︒つまり劇的である︒﹁とかし﹂では弁慶が富樫の館へ偵察に行
き︑かえって弁慶と見破られて窮地に陥る︒しかし弁慶は持ち前の度
胸と気転で︑偽りの勧進帳を読謂して危機を脱する︒また﹁笈さかし﹂
では直江津で題名通り笈の検査を受け︑義経主従の所持品であること
が暴露されようとする︒しかし義経の冷静な申し開さと弁慶の気転で
これも難をまぬがれる︒続いて海上に出た後大暴風で難船し︑その上
平家の亡霊が立ち現われるが︑これは弁慶の引導で平静になる︒
以上のような趣向は︑いずれも﹁義経記﹂にそれと類似のものが︑
また種になるものがあって︑両者の関係の深さを察することが出来
ブ︵︾o
﹁義経記﹂の弁慶が︑義経一行から別れて一人富樫の館に乗込んだ
のは︑平泉寺詣でを主張した義経と同様無謀である︒わざわざ敵地で
目立つ行動をする必要は全くなかったのである︒しかし﹁義経記﹂の
編修者は︑この一行をして易々と北国落ちをさせるつもりはないので
あって︑真に九死に一生を得るような危機を作って︑読者をはらはら
させたい魂胆である︒あるいはこの一行が北国落ちに当って︑各地で
強い詮議に逢い︑義経なりの勇気と機智でそれを突破したという語り
舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶ が︑いくつも編修者の耳に入っていたのかも知れない︒今日も義経主 従のやや他愛のない物語の断片が︑この地方に点々と残っているとこ ろをみると︑そういうふうに考えてもよさそうである︒
富樫の城にやって来た弁慶は︑挑戦的とも受取れるほど不遜な態度
であった︒鬼面人を嚇して︑機先を制しようというやり方である︒む
しろ富樫の方が穏かで︑弁慶が﹁これは東大寺勧進の山伏にて候﹂と
いうのにすっかりだまされ︑一家をあげて寄附を申出る︒これは富樫
の完敗である︒舞曲﹁とかし﹂の作者が︑弁慶と富樫の間に︑丁々発
止の激しいやりとりをさせ︑最後は勧進帳で締括ったのは︑﹁義経記﹂
より一層面白く劇的である︒特に舞の他の例から推しても︑勧進帳は
最も力を入れたところであろう︒これは舞の方の創作と考えるのが︑
﹁義経記﹂との関係からいえば順当であるが︑疑問は大いに残る︒
﹁硫黄が島﹂の祝詞︑﹁木曽願書﹂の願書︑﹁腰越﹂の腰越状︑﹁文覚﹂
の勧進帳の如さ︑いわゆる読み物はことごとく他から借りて来たもの
である︒その例からいえばこの勧進帳も舞曲の創作ではないような気
がする︒それが借り物だとすれば︑むしろ﹁義経記﹂が棄てたもの
を︑舞の方が拾い上げたことになろう︒従づてその場合︑舞曲は﹁義
経記﹂によったというより︑﹁義経記﹂の素材となった語り物による
ところが多いということになろう︒
舞の﹁笈さかし﹂が﹁義経記﹂巻七の︑流布本等でいう﹁直江の津
にて笈探されし事﹂と深く関連していることはいうまでもない︒笈さ
かしは勿論︑海上の難船もそうである︒﹁義経記﹂では︑直江の津花
︑︑ 園の観音堂に︑判官がただ一人いた時︑浦の代官らう権の守以下二百
余人が押し寄せ︑判官が問答の最中に弁慶が飛ぶようにやって来る︒
あとは弁慶の活躍で危機を脱す︒しかし舞の方はやや異なる︒義経一
一一一一
︑︑︑︑ ︑︑︑︑ 行が海からなをいの津に着き︑なおいの太郎の宿所にとまったとこ
ろ︑浦人七百人が弓矢を持って押し寄せるという知らせを︑弁慶が情
深い宿の女房から受ける︒それを聞いた義経は︑
御辺たちは山伏の・みれのこぎとるにまなびして︒上の山に入給へ・
よしつれ一人のこりゐて︒問答してみむずるに︒ちむじそむずるも
のならば︒あいづの貝をふかうず︒其時おりくだって︒友に腹をき
り給へ︒ ︑︑︑︑ となをいの太郎以下の多勢に立ち向う︒太郎が︑
判官とのと申は︒せいちいさういる白く◎むかふぱそってさるまな
こ︒あかひげにましますと承るが︒只今さやうに物仰らるゞ御坊の
ぎやうさうちつともたかはず︒
という図星にもたじろがず抗弁する︒﹁義経記﹂と比べて︑細かい点
の相異はともかく︑義経のあり方がすっかり違っている点が重要であ
ろう︒﹁義経記﹂は前にも述べたように弁慶を大きく登場させ︑義経
を陰に隠してしまった︒舞曲と比較すると︑義経が活動すべきところ
抗弁すべきところも︑弁慶が引き取って︑弁慶の働きになっている︒
これは恐らく﹁義経記﹂編修者の作為であろう︒
笈さがしでは舞の方がずっとスリルがあって面白い︒﹁義経記﹂の弁
慶は︑自分で手当り次第投げ出す二つの笈l判官と片岡の笈lについ
て尋問を受けるにすぎない︒舞の義経は︑八つの笈について一つずつ
取り調べを受ける︒そしてその都度言い逃れをする︒しかし最後の自
分の笈と御前の笈に至って最も窮するのだが︑巧妙至極の言い訳で切
り抜けるのが面白い︒北の方の笈からは︑五尺のかずら︑七尺のかけ
おび︑唐のかごみ︑十二のかけどの入った手箱を取り出し︑これは山
伏の道具ではあるまいといって責めると︑判官はちっとも騒がず︑ 舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶
あふ面ノ︑の不審尤理なり︒さりなからかけおび︑かづらしやうぞ
くのゆらひは︒此法師がおばごにてましますは︒羽黒の権現の一の
みこたるによって︒いまむかふ三十かうの︑みこしの御供申さむた
め︒都へあつらへてかひくだし給ふなり︒
といい︑またかけご手箱は︑越中の水橋殿の姫君の大病を加持した験
によって寄進されたものだという︒﹁義経記﹂では権の守が判官の笈
から八尺の掛帯︑五尺の鬘︑紅の袴︑かさねのきぬを取り出して尋問
すると︑弁慶が﹁法師が伯母にて候者︑羽黒の権現の惣のいちにて候
が︑鬘袴色よき掛帯買ふて下せと申候程に︑今度の下りに持ちて下
り︑喜ばせんがためにて候ぞ﹂という︒両者は非常に似ているのであ
るが︑この部分を比較しただけでも︑舞が﹁義経記﹂に直接依って︑それ
を脚色したとは思われない︒舞の方にかえって古めかしいところさえ
うかがえる︒あるいは素材となった語りを端折ったという感もする︒
舞の方では︑弁慶が終りに登場して︑﹁舟の着け所﹂について物知り
ぶりを発揮し︑浦人たちを煙にまく︒これは﹁義経記﹂にないところ
である︒﹁笈さがし﹂の一件はここで落着するが︑その後海上に出て
風波の難に逢う際も︑弁慶と伊勢の舟路の心得が大いに物を言う︒﹁
笈さかし﹂は笈さがしそのものもさることながら︑後の三分の一に相
当する海上の場面はとりわけ迫力がある︒これは舞の作者の舟につい
ての知識や関心が大いにあずかっているといえる︒あるいは舞が素材
とした語りがそうであったのかもしれないが︒それに比べると﹁義経
記﹂の同じ場面は全く迫力がない︒風に任せて佐渡の島へ向いへさら
に珠洲の岬に方向を転じ︑逆に寺泊に吹き流されるというのも無目的
で他愛がない︒大暴風のさ中に︑
あまの釣舟の浮きぬ沈みぬを見給ふにも︑わが舟もかくぞあらめと
一
四
といって︑波の底に入ると︑風波は静まったのである︒二位殿が︑弁
慶を﹁昔はかたき︑今は導師﹂と仰ぎ︑輪廻の絆を断って成仏すると
いう結末に︑﹁とかし﹂﹁笈さかし﹂の底流を見るのであって︑それは
初期の能の主想と共通するものであろう︒いわば中世の保守的な思潮
といえよう︒だからといってこの作品が説教より取材したというわけ
にはいかないが︑﹁義経記﹂から取材して︑こうした発想が生れるは
ずがない︒﹁義経記﹂と比べると︑大筋からいっても︑細かい点でも
相当似通っているのであるが︑﹁義経記﹂から直接素材を得たという
より︑﹁義経記﹂が材料とした語りlその中には当然説教もあろうし︑
宗教性の強いものが多かったろうlから得たものが多かったと推測す
るのである︒
次に謡曲の﹁安宅﹂﹁船弁慶﹂に触れる︒小林静雄氏が両作とも観 注1 世小次郎信光の作としたのを受けて︑能勢朝次氏は︑﹁安宅﹂につい
て︑ 少くとも現行の安宅は小次郎作と断じて少しも差支はないであら
う︒自家伝抄の説︵世阿弥作説︶を折衷して妥協的な考方をすれ
ば︑世阿弥作の安宅に︑新工夫を加へて︑現行曲の如く改作したの
が小次郎ではないかと思はれる︒
注2 と言い︑﹁船弁慶﹂も小次郎作としている︒また北川忠彦氏は﹁船弁
慶﹂は小次郎作とするが︑﹁安宅﹂は﹁能本作者註文﹂が作者不明の
部に入れていることを重くみて︑小次郎作とすることを疑問としてい
ブ︵︾O
注3 小次郎は小林氏の研究によると︑永享七年争珊︶に生れ︑永正十三
年︵一畑︶に死んだと考えられる︒また世阿は小次郎九歳の年に八十一
歳で死んでいる︒私の考えでは世阿全盛期に影のうすれた舞︵曲舞︶ 舞曲の研究Ⅲ︵室木弥太郎︶
も︑彼の晩年には明らかに再生し︵資料の上からそう推定する︶︑小
次郎の一生はそのまま舞の興隆の歴史であるといってよい︒勿論幸若
舞は早くより台頭していた︒当時の舞のレパートリーは明らかでない
が︑後のように固定していたのではなく︑その数も多かったと思われ
る︒一方﹁義経記﹂は世阿の生前︑おそくとも小次郎の壮年時までに
成立していたのであろう︒またその素材となった語りは︑なおその頃
まで生きていたとみてよいだろう︒﹁船弁慶﹂や﹁安宅﹂は︑それが
小次郎作であろうが︑世阿弥作であろうが︑﹁義経記﹂︵素材となった
語りを含めて︶や舞曲の影響を受けないわけがないのである︒謡曲﹁
安宅﹂の場合︑﹁義経記﹂の如意の渡りで弁慶が義経を打つ趣向︑﹁と
かし﹂の富樫の館で勧進帳を読む趣向︑また﹁船弁慶﹂では︑﹁四国
落﹂及び﹁笈さかし﹂の︑海上の風波の中に平家の亡霊があらわれる
趣向等︑その関係の深さは容易に推測される︒
例えば勧進帳は︑謡曲が舞曲にヒントを得たのであろう︒舞のそれ
はかなりの長文であるが︑これは能では冗慢にすぎる︒聖武天皇が夫
人の死を嘆いて大仏を建立したという︑当時の俗説をそのまま生かし
て︑現行でみるような簡潔な文を創作したのであろう︒舞はこういっ
た読み物を得意としていたので︑丁度世阿がやったと同じように︑舞
の面白いところを吸収しようとしたのであろう︒これは小次郎の才で
あろうか︒﹁安宅﹂が小次郎作といわれる所以はこのあたりにありそ
︾っである︒