91 -研 究 ノ -ド
舞姫第二作説について扮疑問
嘉
部
嘉
隆
森鴎外の﹃舞姫﹄が'鴎外の処女作ではなく第二作であるとする 説が'嶺近では定説化しっつあるようである。たとえば本年(昭和 55年) 三月発行の景山直治民の著「鴎外文学入門」吉川書房)に は、「制作の噸序は﹃うたかたの記﹄が先で﹃舞姫﹄﹃文づかひ﹄と 続くので」とあ-、また河合靖峯民著「森鴎外」(センチュリーブ ックス'清水書院昭4 1・10)でも「実際の執筆の順序は﹃うたかた の記﹄﹃舞姫﹄﹃文づかひ﹄の頻であった」と書かれてお-,このよ ぅな啓蒙書でも'﹃舞姫﹄が第二作であると断定的に書かれるよう になっている。 この'﹃舞姫﹄第二作説を定説化したのは、多分、長谷川泉民の ﹃舞姫﹄(「森鴎外論考」∧昭3・uV明治書院)であろう。長谷川 民は次のように書いている。 留学土産の三作のうち'「舞姫」が最初に執筆されたものでは なく、「うたかたの記」が最初だと言い'あるいは「文づかひ」 をもって最初だとするのは、主として与謝野寛・森潤三郎およ び森於菟の説による。鴎外全集刊行会から出された「鴎外全葉」 第五巻(昭和二・八)の後記'与謝野寛の「編纂者の辞」によ れば「うたかたの記」について「曇れが先生の小説の処女作で ある。」とあり'また「舞姫」については 「是れが先生の小説 の第二次の作である。」と記されている。しかしながら、目下 のところ、いずれが最初に執筆されたものであるかを決定的に 断定するには資料が乏しい。とにかく「舞姫」が創作の文壇処 女作ではあったが、最初に執筆されたものではないとする推論 をもって満足しなければならない。 長谷川民の説は'あ-まで「推論」であって'断定ではないにも 拘わらず、以後、「舞姫」第二作説は断定的に記述されることが多 く な っ て ゆ く 。 ﹃舞姫﹄第二作説に気づいていたのは'長谷川氏が最初ではない。 平野謀についてはへ長谷川民も紹介しているが、他に岸田美子民も、 その著﹃森鴎外小論﹄に' 書かれた噸序からいへば、「うたかたの記」は「舞姫」の先で あったといふ。(森潤三郎民著「鴎外森林太郎」四二貫) と記している。この「鴎外森林太郎」は、昭和1 7年丸井書店版で, その四二貢には'「﹃うたかたの記﹄の方が前に書かれだと開いてゐ る」と、根拠を明らかにせず伝聞の形式で書いている。この書物の 元版である昭和9年昭和軍歴版に拠れば、その二四頁に,「掲載は 前後するが'員の魔女作は﹃うたかたの記﹄で'﹃舞姫﹄は第二次- 92 -ヽ である。」とある。 きて'長谷川氏の﹃舞姫﹄第二作説の根拠となった「鴎外全集」 の「編纂者の節」であるがへこれがどれくらい信頼できるものであ るかを検討してみる必要があるのではなかろうか。「編纂者の鮮」 に明らかな誤りが多げれば、﹃舞姫﹄第二作説も虚妄である可能性 も出て釆るというものである。そこで「編纂者の節」を調査したと ころ、次のような、明らかな誤りが見出せた。誤-の部分を引用し てみる。 「舞姫に就きて気取半之壷に与ふる書」は相樺諌言と云ふ署名 を以て嘗時の雑誌 「しがらみ草紙」に審かれp 「再び覇取軍之 l 壷に与ふる書」は同じく相躍諸富と云ふ署名を以て常時の「報 知新聞」に出されたものである0後に「つき葦」に収められた。 私は「報知新聞」の切抜を賀苗鶴研究生より拝借してゐるが' 其れには気取半之壷の「舞姫評」の切抜も併せて添へられてゐ る。但し其れは「江湖新聞」に載せられたもので'「舞姫評」、 「舞姫再評」'「舞姫三評」の三回に裁って出た事が分かる0 気取半之蚕は巌谷か波民の匿名と云ふ事である0 以上の引用だけでもい-つかの誤りが見られる。「再、菊取半之 壷に与ふる書」は「報知新聞」ではなく、「囲民新聞」 に出たもの であり'気取半之魂の﹃舞姫﹄評(「舞姫詐」ではない) は'「江湖 新開」に出たのではなくへ「国民之友」に出だのである0「江湖新開」 に掲載きれたのは「舞姫再評」以後であ-'かつ 「舞姫四評」まで 掲載されている。また、気取半之丞は巌谷小波でなく、石橋忍月で あるOこのことは'伝聞でな-とも'例えば「再'菊取半之垂に与 ふる蕃」の中に、 足下は堂々たる批評家らしき言を出して其識言、殆ど明治の忍 月を圧するものゝ如く とあるので、ちょっと注意すればわかる筈であろうOそればかりで な-、「気取単之寵に与ふる審」(ちなみにへ 「しがらみ草紙」に掲 載されているのは「舞姫に就きて気取半之毎に与ふる書」という題 名にはなっていない) において、 足下は何人ぞや白ちりめんの致巻、ちりめんの羽蹟p相撲取に 似たる下駄を穿き三百代言といはれ番内接と呼ばれて自ら覚ら ず書を痴女に寄せて郡けられ俵を負ひて商賢の群よ-逐はれだ -といへ-(露子姫」を見よ) という書き方がなされており、さらに忍月の小説に登場する人物が ずら-と引き合いに出されているのであるから,ちょっと知識があ れば'間違うはずのない石橋忍月を'巌谷小波と誤まっているよう では'この「編纂者の鮮」の信頼度の低さが推測できるであろう。 誤まっているのは以上の部分だけではないoたとえば、 「膏薬門」は明治四十三年の雑誌「心の花」に出た。 と書いているが'正し-は明治四十年1月の「心の花」である。_さ らに、「知ズイスチカ」を ﹃滑滴﹄に入っているかのように書いて いるが、﹃分身﹄に収められているのが正しいというようにへ いさ さか誤りが多すぎるのである。もっとも'与謝野寛は'この「編纂 者の鮮」の最初の部分で'
- 93 -} b t J T J 「 J 〓 L ■ 上 . , ′ 、 一 1 7 ' 掲載されている。また、気取準え丞は巌谷小波でなくへ石橋忍月で 者の静」の最初の部分で、 此の「編纂者の鮮」を書く資料を小嶋先生と船越政一郎先生と から御親切に敦へて頂いたので'英等の資料を1括して置いた のであるが'此の一月に、いつも大切にしまって置く所から机 達に出した記憶があるのにへ一遇日の中に何かの書き物の中へ 紛れ込んだらしく'驚いて繰返し大掃除をして書斎の中を探し ても'まだ今日まで見出ださない.(中略)右の理由で、玄に 書く事が簡単になった。また多少の愚ひ違ひの混じて居ないか を恐れる。 と書いているので'「有築門」や 「カズイスチカ」 については思い 違いと解釈できるであろう。しかし'資料がまざれこんだために誤 りが多いという「編纂者の静」の中で、﹃舞姫﹄が 「第二次の作で ある」という記述だけを正しいと断定はできかねるのである。与謝 野寛は﹃うたかたの記﹄について、 明治甘三年の雑誌「しがらみ草紙」に出て、後'明治甘五年七 月刊行の「水沫集」に収められた。足れが先生の小説の魔女作 である。私は此年の八月に初めて東京に出だが'九月の初めに' 落合直文先生の駒込鳶嘉町の家の内玄関の横に有った書棚で' 鴎外先生から贈られた清酒な水色の表紙の'しかも厚-重い新 本を見付けて、幾日も絹けて讃んだ事を記憶してゐる。 と書いている。﹃うたかたの記﹄は「美奈和集」冒頭に置かれてい ること、「うたかた」と「水沫」の連想などから、与謝野寛が「う たかたの記」を処女作と思い込んだという考え方も可能ではなかろ うか。 森潤三郎の「鴎外森林太郎」 (昭和書房版)は、「﹃舞姫﹄は第二次 である」と書いているように「第二次」ということばの共通性、ま た、「巌谷か波氏が覇取半之壷の匿名を以て書いた評に封し」 と石 橋忍月を巌谷小波と誤まっていることなどから、与謝野寛の「編纂 者の節」の記述を引継いでいることが明らかである。 以上のように見て来ると'﹃舞姫﹄第二作説は'きわめて根拠に 信頼の置けない考え方であ-、やはり﹃舞姫﹄は鴎外の処女作と考 える方が穏当な判断ではないかと思われて来るのである。 鴎外に関する親族の回想の類については'かつて成瀬正勝氏が' 「閑却してはならぬことは'その信溶性に関するきびしい吟味であ る。(中略)鴎外におけるこれらの証言には'従来ほとんどその程 の吟味が行ほれてゐない憾みがある。」(「舞姫論異説」﹃国語と国文 学﹄昭節・4) と書いているが'単に回想の類だけではなく、昭和 三十年頃までの鴎外に関する研究等は、もう1度厳密に吟味してみ る必要があるのではなかろうか。筆者は「諸家の鴎外論に対するい ささかの疑念」として試み始めている。 ∧ 本 学 教 授 ∨ ︹追記︺旧字体の漢字が新字体で植字されている場合がある。 時間的余裕がないので'そのまま放置した。