オ ー ス トリア ・ハ プ ス ブル ク帝 国 の 非 啓 蒙 的 絶 対 主 義 の経 済 政 策
一 皇 帝 フ ラ ン ッ2世 と皇 帝 フ ェ ル デ ィ ナ ン トの 時 代 の 経 済 と社 会 一
倉 田 稔
も く じ
序/ハ プ ス ブ ル ク 対 フ ラ ンス/神 聖 ロー マ 帝 国 の 滅 亡/
ウ ィー ン会 議/ブ ル ジ ョア 階 級 の 出現/初 期 産 業 革 命/
ビ ー ダ ー マ イ ヤ ー/農 民 解 放/む す び
序
オ ー ス トリ ア の 歴 史 学 で は,マ リ ア ・テ レ ジ ア ユ)とヨ ー セ ブ2世2)の 時 代 を 改 革,フ ラ ン ツ(Franz,在 位,1792‑1835)3)と フ ェ ル デ ィ ナ ン ト(Ferdinand.
在 位,1835‑1848)4)の 時 代 を 反 動,1848年 に 至 っ て 革 命,と し て い る5)。
マ リ ア ・テ レ ジ ア と そ の 長 子 ヨ ー ゼ フ ニ 世 は,啓 蒙 的 絶 対 主 義 の 立 場 か ら,そ の 重 商 主 義 政 策6)を 押 し進 め た7)。 次 代 の レ オ ポ ル トニ 世8)の 短 い 治 世 も,ヨ ー
1)Maria=Theresia(1717‑1780) 2)Joseph2.(1741‑1790)
3)Franz2.(1768‑1835.神 聖 ロ ー マ 帝 国 最 後 の 皇 帝 。1806年 以 来,フ ラ ン ツ1 世 と し て,オ ー ス ト リ ア 皇 帝 。)
4)Ferdinand1.(1793‑1875)
5)VgLErichZ611ner,Geschichteδsterreichs.VonAnfdingenbisgurGegenwart.5.
vermehrteAu乱,Wien.
6)拙 稿 「ハ プ ス ブ ル ク 帝 国 と 重 商 主 義 マ リ ア ・テ レ ジ ア と ヨ ー ゼ フ2世 の 経 済 政 策 」(『 三 田 学 会 雑 誌 』71巻5号,1979年10月)。 本 稿 は,こ の 続 き で あ る 。 7)GustavOtruba,既irtschaftsi)olitikMariaTheresiasund∫osei》hs2.Urien.
8)Leopold2.(1747‑1792)
〔1〕
ゼ フニ 世 の 啓 蒙 的 政 策9)の す べ てが 撤 回 され た わ けで は なか った の で,啓 蒙 的絶 対 主 義 の 時代 で あ っ た。 こ の ため ハ プス ブル ク帝 国 は一 八 世 紀 後 半 か ら,近 代 的 な経 済 の 変化 が行 わ れ た。 ヨー ゼ フニ 世 の啓 蒙主 義 的政 治 ・経 済 政 策 は,封 建 諸 侯 と教 会 の反 抗,同 帝 の 死(1790年),フ ラ ンス革 命 の勃 発 に よ って,フ ラ ンツ 皇 帝 の 時代 に は 阻止 さ れ,近 代 的 農村 作 りも挫 折 した。 マ リア ・テ レジ ア の時 代 に,オ ー ス トリア帝 国 は,厳 格 で 中 世 的外 観 の君 主 政 体 を とっ て い た。 ヨー ゼ フ ニ 世 に は男 子 が い なか っ たが,レ オポ ル トニ世 は子 沢 山で あ って,三 人 の男 子 が い た 。弟 二 人 は有 能 で,1人 は ヨハ ン大 公(1782‑1859),1人 は カ ー ル大 公(1791
‑1847)で あ り,ナ ポ レオ ン と対 決 した そ の カ ー ル大 公 は英 雄 とな っ た。 だが, ハ プ ス ブ ル ク の長 子 相 続 制 に従 っ て,凡 庸 の兄 フ ラ ンツが 皇 帝 に な っ た。 フ ラ ン
ツの即 位(1792年)を 境 に,オ ー ス トリア ・ハ プス ブ ル ク帝 国 は転 換 を迎 え,そ れ 以 降1848年 の三 月 革 命 まで の 半 世紀 余 りを,オ ー ス トリア の 非啓 蒙 的絶 対 主 義 の 時代 と言 う こ とが で き る。 そ して この フ ラ ンッ とフ ェル デ ィナ ン トの2人 の 皇 帝 の 時代 は,1848年 革 命 で 覆 え る。
1848年 の オ ー ス ト リア 革 命 は 市 民 革 命 と して は 失 敗 し た が,最 も重 要 な 成 果 ・変 革 が あ っ た 。そ れ は,農 奴 解 放 で あ っ た 。1848年9月7日 の 法 律 で あ る。
農 民 解 放 に よっ て 産 業 革命 の 本 格 化 の 条 件 が で て き た。 こ れ に よ り帝 国 中 で 産 業 が 発 達 した 。
こ う して フ ラ ン ツお よび フ ェ ル デ ィナ ン トの 時代 は,以 上2つ の 時 代 の 間 の 時 期 で あ る。
1792
1814&1815 1835 1848一即フ ラ ン ッ位 ウ イ ー ン会 議 フ退 イ ラ立 = ン死 ツ去 フ ェ ル デ ィナ ン ト時 代 革 命
9)こ の ヨ ゼ フ ィ ニ ス ム ス は,3月 革 命 後 復 活 し,1860年 代 ま で,帝 国 官 僚 の 指 導 的 イ デ オ ロ ギ ー で あ っ た 。
オ ー ス トリ ア ・ハ プ ス ブ ル ク帝 国 の 非 啓 蒙 的 絶 対 主 義 の 経 済 政 策 3
ハ プ ス ブル ク対 フラ ン ス
ハ プ ス ブ ル ク帝 国 は1800年 に,ヨ ー ロ ッパ の 人 口 の七 分 の 一 を擁 す る大 国 で あ っ た。 この 国 は依 然 と し て農 業 国 で あ っ た 。 こ の こ ろ オ ー ス トリア は,1万 人 以 上 の都 市 の 人 口が 全 人 口(1789年 に3100万 人)の4.4%で あ っ て,ハ ン ガ リ ー で はそ の比 率 は も っ と低 か っ た。 農 産 物 は ほ とん ど輸 出 され なか っ た 。 こ の時 代 の最 重 要 産 業 は 農 業 で あ っ た。 お お む ね 一 八 世 紀 ま で 三 圃 制 農 業10)が 支 配 的 で あ っ た 。 休 耕 地 に は ク ロ ーバ ー や 飼 料 植 物 が 植 え られ た 。 ア ル プ ス 地 方 で は,穀 物 と牧 草 を交 代 に 栽 培 す る,い わ ゆ る穀 草 式 で あ っ た 。 しか し,19世 紀 に 入 る と三 圃 制 は少 な く な っ た 。 オ ー ス トリア の 総 土 地 の う ち,37%が 農 業, 32%が 森,14%が 牧 畜,1%が ぶ ど う酒 業 で あ っ た。 食 糧 は 大 体 自国 で まか な
え た 。 農 産 物 の 商 品 流 通 につ い て は,羊 毛 や ワ イ ン を 除 く と,ほ とん ど輸 出 さ れ なか っ た 。 農 業 技 術 は,大 い に 進 歩 した。 だ が,そ れ に 貢 献 した の が,領 主 Grundherrや 農 民(=農 奴)で は な く,荘 園 と 国 家 の役 人 で あ っ た 。 鋤 が 改 善 され,大 鎌 の 代 わ りに 半 月 鎌 が用 い られ る よ う に な っ た 。 と こ ろ で村 落 に は 失 業 が 広 ま っ て お り,一 方 で 農 民 は 酷 く働 い た 。 帝 国 は,ル ス テ ィ カル ・ラ ン ト(帝 国 の土 地)と ドミニ カ ル ・ラ ン ト(貴 族 の 土 地)に 分 か れ て い た 。 多 く は,グ ル ン トヘ ル シ ャ フ ト(古 典 荘 園 制)で あ っ た。
ヨー ゼ フ2世 を例 外 と し て,オ ー ス トリア 人 は,思 想 や イ デ オ ロ ギ ー が 嫌 い で,新 思 想 を受 け入 れ なか っ た 。人 々 の 思 想 は カ トリ シズ ム で あ り,王(=帝) 権 神 授 説 で あ っ た 。 つ ま り神 が 皇 帝 を我 々 に与 え,君 主 は 国 を幸 福 に す る だ ろ
う と信 じて い た 。 実 際 この 国 の皇 帝 は神 聖 ロ ー マ 帝 国皇 帝 で あ っ た。
オ ー ス トリア 人 は,政 治 に無 関 心 で 受 動 的 で あ り,ウ ィー ン市 民 は権 利 ・主 張 をせ ず,生 活 を享 楽 した 。 フ ラ ンス 革 命 の勃 発 も 当時 オ ー ス トリア を混 乱 さ せ な か っ た 。 彼 らは暴 動 や 騒 乱 を好 まず,革 命 を恐 怖 の 目で 見 た 。 マ リー ・ア
10)ヨ ー ロ ッパ 中 世 で,8か ら13世 紀 に成 立 した 。 耕 地 を3つ に 分 け, と し,他 は そ れ ぞ れ,春 蒔 き,秋 蒔 きの 耕 地 と し,毎 年 交 替 し た 。
1つ を休 耕 地
ン トワ ネ ッ ト(フ ラ ンス 王 妃,か つ て オ ー ス ト リア 皇 女 で あ っ た。)11)がギ ロ チ ンの 露 と消 え た1793年 に,フ ラ ンス 革 命 に対 す る ウ ィ ー ン市 民 の 怒 りは 燃 え 上 が った 。 こ れ が 反 動 の 時代 の 始 ま りで あ っ た 。 革 命 のパ リに 反 革 命 の ウ ィー ンが 対 立 す る 。 ブ ル ジ ョア 革 命 対 正 統 主 義(=君 主 主 義)の 対 立 が 現 れ た 。 ウ ィー ン市 民 の 間 に亀 裂 が 生 まれ,こ れ が 次 第 に深 く広 く な っ て い っ た 。 「そ れ は 同 時 に階 級 闘 争 の 曙 で あ り,貴 族 とブ ル ジ ョア の 和 気 あ い あ い た る共 存 関 係 は,こ の フ ラ ンス 革 命 の頂 点 に お い て 崩 壊 しは じめ る の で あ る。」12)
1792年4月,革 命 フ ラ ン ス の 立 法 議 会 は オ ー ス トリア に宣 戦 布 告 を した 。1792 年8月10日 に,フ ラ ンス の 王 権 が 停 止 し,共 和 国 に な っ た。1795年 に フ ラ ンス は 再 び オ ー ス トリ ア領 ベ ル ギ ー に侵 入 し,ベ ル ギ ー 領 の オ ー ス トリ ア軍 と戦 っ た 。 しか し停 戦 し,和 平 を し た。
こ う してハ プ ス ブ ル ク帝 国 の 政 策 は 挙 げ て一 切 を フ ラ ンス 革 命 の 二 の舞 い の 防 止 にお い た 。 この 政 策 は3月 革 命(1848年)ま で 続 い た の で あ る。 こ の 時 代 は また,経 済 的 に は依 然 と して 重 商 主 義=カ メ ラ リズ ム の 時代 で あ り,ほ と ん どマ リ ア ・テ レ ジア と ヨー セ ブニ 世 時代 の 経 済 的構 造 が 基 本 的 に 貫 徹 した 。 だ が これ は 同時 に 産 業 化 時 代 へ の 過 渡 期 で もあ っ た 。 た だ し,ヨ ー セ ブ の寛 容 令 に よ り,ユ ダ ヤ 人 は 経 済 的 に活 躍 で き,進 出 した 。
18世 紀 末 か ら19世 紀 初 頭 に か け て,オ ー ス トリア 社 会 は ナ ポ レ オ ン(1769‑
1821)13)戦 争 に よ って 震 憾 し た。 フ ラ ンス 革 命 の 後,ナ ポ レ オ ンが ヨー ロ ッパ に登 場 した。 彼 は,革 命 の 輸 出 を考 え た の だ っ た 。 彼 は世 界 共 和 国 を望 ん だ 。 奇 妙 な こ と は,そ れ が 武 力 で 行 わ れ る こ と だ っ た 。 そ して共 和 制 の 輸 出 に 対 し て,国 際 君 主 国 が 恐 怖 した の で あ る 。
ナ ポ レ オ ンは ヨー ロ ッパ を支 配 し よ う と し,長 い ナ ポ レ オ ン戦 争 が 行 わ れ た 。 この こ ろ のハ プ ス ブ ル ク皇 帝 が フ ラ ン ツニ 世 で あ った 。 ち な み に彼 は,名 君 で
11)MarieAntoinett(1755‑1793)。 マ リ ア ・テ レ ジ ア の 息 女,ヨ ー セ ブ2世 の 妹 。 伝 記 ツ ヴ ァ イ ク 『 マ リ ー ・ア ン ト ワ ネ ッ ト』 岩 波 文 庫 改 訳 上 下1980年 。 12)ブ リ ヨ ン 『ウ ィ ー ン は な や か な 日 々 』 音 楽 の 友 社13ペ ー ジ 。
13)ナ ポ レ オ ン(NapoleonBonaparte,1768ま た は9年8月15日 〜1821セ ン ト ヘ レ
ナ)。
オ ー ス ト リア ・ハ プ ス ブ ル ク 帝 国 の 非 啓 蒙 的 絶 対 主 義 の 経 済 政 策 5 は なか っ た 。 フ ラ ンス革 命 の 継 承 者 を 自称 す る ナ ポ レオ ンは,共 和 国制 度 と民 主 主 義 を,戦 争 に よ っ て ヨー ロ ッパ に 広 め よ う と し た。 そ の た め,フ ラ ンス 以 外 の ヨ ー ロ ッパ 諸 国 王 は,ナ ポ レオ ン を恐 れ た の だ っ た 。
神 聖 ロー マ帝 国 の滅 亡
ナ ポ レ オ ン は,コ ル シ カ 島14)に 生 まれ,フ ラ ンス 本 土 に留 学 した 。 当 時, 将 校 は貴 族 の独 占で あ っ た 。1784年,彼 はパ リ士 官 学 校 に 入 る。 そ して 貧 乏 小 尉 に な る。 ヴ ォル テ ー ル,ル ソ ー,マ ブ リー,レ ー ナ ル,ユ ス テ ィニ ア ヌ ス 『法 典 』,モ ンテ ス キ ュ な ど,非 系 統 的 に18世 紀 啓 蒙 主 義 を読 ん だ。 ス タ ン ダー ル と議 論 した こ と も あ る。 彼 は フ ラ ンス 革 命 よ りも,コ ル シ カの 革 命 に情 熱 を も っ て い た。 だ が コ ル シ カ独 立 の英 雄 パ オ リ と対 立 して,ボ ナ パ ル ト家 は コ ル シ カ島 を引 き上 げ た 。1793年5月,ジ ャ コバ ン=モ ン タニ ア ー ル の独 裁 と な っ た。
この 時 代 に つ い て は文 学 で はユ ー ゴー の 「93年」 が あ る 。 トゥー ロ ンだ け が反 革 命 軍 の手 に あ り,砲 兵 第4連 隊 大 尉 ナ ポ レ オ ン の部 隊 が,そ こ を攻 撃 した 。 1894年 テ ル ミ ドー ル 反 動 で,ロ ベ ス ピエ ー ル が 処 刑 され,ナ ポ レオ ン も捕 ま っ た 。 国 民 公 会 は 危 機 に ひん し,国 内 最 高 司 令 官 バ ラ ス は,ト ゥー ロ ン攻 撃 の 名 指 揮 官 ナ ポ レオ ンを副 官 に採 用 した 。 彼 は ヴ ァ ンデ ミエ ー ル の反 乱 を鎮 圧 し, 1794年,国 内 最 高 司令 官 に な っ た 。 彼 の 軍 事 戦 略 は 天 才 的 だ っ た 。1795年 に フ ラ ンス は 再 び オ ー ス トリ ア領 ベ ル ギ ー に 侵 入 し,ベ ル ギ ー 領 の オ ー ス トリア 軍 と戦 っ た 。 しか し停 戦 し た。 だ が,フ ラ ンス の 王 権 廃 止 後,11月 に ジ ェ マ ップ の 闘 い で オ ー ス トリ ア軍 を破 っ た 。
1796年 に イ タ リア 遠 征 軍 司 令 官 に な っ た ナ ポ レオ ン は,同 年 オ ー ス トリア 攻 撃 三 軍 の 一 つ を司 令 し,イ タ リ ア ・オ ー ス トリ ア連 合 軍 を うち破 った 。 ま た パ ルマ 公 国 に進 軍 し,ロ デ ィの 戦 い で 大 勝 し,1796年5月 に ミ ラ ノ に入 城 した 。 6月 に,マ ン トヴ ァ を攻 撃 した 。1797年 に は イ タ リ ア北 部 か らオ ー ス トリア に 14)コ ル シ カ につ い て は,文 学 で は,そ こ を 舞 台 に し た メ リ メ の 「マ テ オ ・フ ァル コ
ネ」 が あ る 。 か つ て,ル ソ ー は 「コ ル シ カ 憲 法 草 案 」 を 書 い て い る 。
進 撃 し,4月 に レオ ー ベ ンで 休 戦 協 定 を え,10月 に カ ンポ フ ォル ミオ 条 約 に よ っ て,フ ラ ンス は ロ ンバ ル デ ィ ア を 占 領 した 。 こ う して ナ ポ レオ ン は イ タ リ ア に,フ ラ ンス の衛 星 共 和 国 を建 設 した 。 ロ ンバ ル デ ィ ア を トラ ンス パ ダ ナ共 和 国,モ デ ナ公 国 と法 王 領 北 部 をチ スパ ダ ナ 共 和 国,も と ジ ェ ノ ワの リグ リア 共 和 国 をチ ル ピ ナ共 和 国 と して作 っ た。第1次 対 仏 同盟 戦 争 の 時 代(1793〜7年) で あ っ た 。 こ の 時代 に,オ ー ス トリア は,ベ ル ギ ー お よ び イ タ リ アの ロ ンバ ル デ ィア 地 方 を失 っ た 。
1799年11月9日(ブ リュ メ ー ル18日)の ク ー デ タ に よ っ て,第 一 執 政 とな っ た ナ ポ レ オ ンは,そ の 後 オ ー ス トリア に奪 還 さ れ た イ タ リ ア を奪 うべ く,1800 年 に オ ー ス トリア に 対 し開戦 す る。こ の 第 二 次 対 仏 同 盟 戦 争 の 時代(1799〜1802 年)に は,オ ー ス トリ ア は,奪 回 した北 イ タ リア が再 び 奪 わ れ た 。
ナ ポ レ オ ンは1804年 に皇 帝 と な っ た 。 この 年,ナ ポ レ オ ンは,同 盟 国バ イ エ ル ンに 侵 入 した オ ー ス トリア 軍 を ウ ル で 撃 っ た。 そ の 後,ミ ュ ンヘ ン,リ ン ツ か らウ ィー ンへ 向 い,入 城 す る。12月2日,彼 は オ ー ス トリア ・ロ シ ア連 合 軍 を ア ウ ス テ ル リ ッツ の 会 戦 で破 っ た。 プ レス ブ ル グ の 講 和 条 約 に よ り,オ ー ス トリア は,ヴ ェ ニ ス,イ ス トリ ア,ダ ル マ チ ア を割 譲 し,人 口 の 七 分 の一,国 庫 収 入 の 六 分 の一,五 千 万 フ ラ ン を失 っ た 。 第 三 次 対 仏 同盟 戦 争 の 時 代(1805 年)で あ っ た。 オ ー ス ト リア は,ア ウ ス テ ル リ ッツ の 敗 北 後,よ うや く回復 期 に入 っ た 。
1806年 に,バ イ エ ル ン以 下16の ドイ ツ 領 邦 が ラ イ ン同 盟 を結 成 し,ナ ポ レ オ ンを保 護 者 に戴 い た の で,さ し も の神 聖 ロー マ 帝 国 も こ こ に滅 亡 した 。 こ う し てハ プ ス ブ ル ク は負 け て,神 聖 ロ ー マ帝 国 皇 帝 の位 を失 っ た 。1806年 以 来,フ ラ ンツ ニ 世 は そ の 帝 位 を退 き,フ ラ ンツ ー 世 と して,単 に オ ー ス ト リア皇 帝 と 名 乗 る ば か りで あ っ た 。
イ タ リ ア は フ ラ ンス の 手 に 落 ち た。 ナ ポ レオ ンの 軍 隊 は 強 か っ た 。 そ れ は 彼 の秀 で た 戦 術 に よる し,闘 争 精 神 を鼓 舞 す る彼 の う ま さ に もあ っ た が,根 本 的 に は フ ラ ン ス の小 土 地 所 有 農 民 が 新 しい フ ラ ンス の 政 治 体 制 に 利 益 を持 ち.そ れ を 守 ろ う と した か らで あ っ た 。
オ ー ス トリ ア ・ハ プ ス ブ ル ク帝 国 の 非 啓 蒙 的 絶 対 主 義 の 経 済 政 策
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第 五 次 対 仏 同 盟 の 時 代(1809年)に ワ グ ラ ム の 戦 い で,オ ー ス ト リ ア は 敗 れ, ナ ポ レ オ ン は ウ ィ ー ン に 入 城 す る 。 シ ェ ー ン ブ ル ン の 和 約 で,オ ー ス ト リ ア は
イ タ リ ア 地 方 と8500万 フ ラ ン の 賠 償 金 を 失 っ た 。 こ う し て ナ ポ レ オ ン は,ド イ ツ,ロ シ ア の 一 部,イ タ リ ア の 一 部,ス ペ イ ン な ど を 占 領 し,ハ プ ス ブ ル ク を 敗 北 さ せ た 。
だ が1812年 の モ ス ク ワ 遠 征 の 失 敗 に よ っ て,ナ ポ レ オ ン帝 国 は 瓦 解 し始 め る 。 ク ト ゥ ー ゾ フ 将 軍 に 打 撃 を 受 け,ナ ポ レ オ ン 軍 は 退 却 す る 。 そ の 間,諸 国 民 の 解 放 戦 争 が 始 ま っ た 。 そ の 後,反 ナ ポ レ オ ン 連 合 国 は ナ ポ レ オ ン と戦 い,1813 年 に オ ー ス ト リ ア は フ ラ ン ス に 宣 戦 す る 。1814年 に ナ ポ レ オ ン は 退 位 し,1814 年 と15年 に,か の ウ ィ ー ン 会 議 が 開 か れ,ナ ポ レ オ ン戦 争 の 時 代 は 終 り を 告 げ る の だ っ た 。 チ ロ ル で は ア ン ド レ ア ス ・ホ ー フ ァ ー エ5)の対 ナ ポ レ オ ン の 闘 い が な さ れ た 。
ウ ィ ー ン会 議
イ ギ リ ス,ド イ ツ,オ ー ス ト リ ア,ロ シ ア,こ れ ら の 王 国 の 反 ナ ポ レ オ ン勢 力 を 政 治 的 に 指 導 し た の が,メ ッ テ ル ニ ヒ(Metternich,1773‑1859)で あ っ た 。 彼 は,オ ー ス ト リ ア の 外 務 大 臣 で あ っ た 。 ド イ ツ 生 ま れ で,若 い 頃 フ ラ ン ス 大 使 を 務 め,国 際 情 勢 に 明 る か っ た 。 彼 は,ロ シ ア と ナ ポ レ オ ン の フ ラ ン ス の 問 に た っ て,ハ プ ス ブ ル ク の 勢 力 温 存 を は か っ た 。 そ し て 彼 は,完 全 な 反 ナ ポ レ オ ン主 義 で は な か っ た 。 英 雄 ナ ポ レ オ ン を 敬 愛 し て い た し,フ ラ ン ス 革 命
よ り も ナ ポ レ オ ン の 方 が ず っ と よ い と 考 え た 。
ヨ ー ロ ッ パ の 諸 国 王 は,戦 後 処 理 を 決 定 し よ う と し た 。 そ れ を ウ ィ ー ン 会 議 (1814‑15)で 決 め た の で あ る 。 ナ ポ レ オ ン 敗 北 後 の ウ ィ ー ン 会 議 で 活 躍 し た の が,ま た メ ッ テ ル ニ ヒ で あ る 。 メ ッ テ ル ニ ヒ は ヨ ー ロ ッ パ 政 治 の 勢 力 均 衡 を 理 想 と し た 。 そ し て も ち ろ ん 革 命 を 嫌 っ た 。 会 議 に 集 ま っ た 君 主 た ち は,正 統
15)AndreasHofer,1767‑1810.リ ケ ッ ト 『オ ー ス ト リ ア の 歴 史 』 成 文 社 第2刷 。
主 義 を 唱 え た 。 正 統 主 義 と は君 主 主 義 の こ とで あ る。 ヨー ロ ッパ で は まだ 王 権 神 授 説 を 持 って い た 。 ウ ィ ー ン会 議 に ょ っ て,欧 州 は ほ ぼ,フ ラ ンス 革 命 とナ ポ レオ ン時 代 以 前 の領 土 を 回復 した 。 ハ プ ス ブ ル ク は,再 び 北 イ タ リア を領 有 す る と とが で き た。 ウ ィー ン会 議 とい っ て も名 ばか りで あ っ て,会 議 体 を な し て い た の で は なか っ た 。 ウ ィ ー ンで,国 王 や 大 臣 や 外 交 官 が そ れ ぞ れ 各 個 独 自 に協 定 を しあ っ た。だ か ら,な か なか 戦 後 処 理 は決 ま ら なか っ た 。「会 議 は踊 る, さ れ ど会 議 は 決 ま らず 」,と 言 わ れ る が,毎 晩 行 わ れ る舞 踏 会 の合 間 に,政 治 的 交 渉 や,か け引 きが お こ な わ れ た の で あ る 。 そ れ は五 強 国 に よ る 領 土 の 分 ど
りが 重 要 な任 務 で あ っ た 。
ドイ ツ は従 来200近 い 国 に分 か れ て い た が,会 議 以 後40程 度 に 整 理 され た。
メ ッ テ ル ニ ヒ はハ プ ス ブ ル ク の外 交 を有 利 に も っ て い っ た 。そ して 後1821年 に, オ ー ス ト リア 宰 相 と な る の で あ る。 ウ ィ ー ン16)会 議 は,フ ラ ン ツ 皇 帝 の 生 涯 の 画 期 で もあ る。
ブル ジ ョア 階級 の 出現
企 業 家 に つ い て一 つ の 皮 肉 な現 象 が 発 生 した 。 マ リア ・テ レジ ア と ヨー ゼ フ ニ 世 の意 図 は帝 国 の統 一 と中央 集 権 化 に あ っ た し,上 か らの 産 業 育 成 政 策 に よ っ て貴 族 の 資 本 家 化 が 行 わ れ た の で あ っ た 。 彼 らの重 商 主 義 政 策 に よ っ て工 場 の 設 立 が 促 され た が,ほ とん どの 工 場 は貴 族 に よ っ て起 こ され,特 に ベ ー メ ン
(=ボ ヘ ミア)に 集 中 した 。 一 八 世 紀 の 末 に は,主 に繊 維 業 ・ガ ラス 業 ・鉱 山 業 で 工 場 数 が 増 大 して きた 。 フ ォ ア ア ー ル ベ ル グ は繊 維 業 が 盛 ん で あ っ た。 ガ リチ ア とブ コー ヴ ィナ は,1772‑75年 に帝 国 に併 合 され た 。
と こ ろ が 一 九 世 紀 とな る と,上 か らの 産 業 育 成 政 策 が 進 め られ な くな っ た。
16)ウ ィ ー ン。 一 九 世 紀 中 ば ま で,ウ ィ ー ンは,城 壁 に 囲 まれ,都 の 周 囲 は堀 で め ぐ ら さ れ,城 門 が あ っ た の で あ る 。 ウ ィ ー ン は ドナ ウ 川 沿 い に あ り,ド ナ ウ は よ く 氾 濫 し た か らで あ る。 ウ ィー ンの 人 口 は,近 郊 を ふ くめ て,1796年 に23万5千, 1810年 に22万5千,19c.中 ご ろ43万 で あ っ た 。(VgLZ611ner.)ウ ィー ンの 人 口 は マ リ ア ・テ レ ジ ア の 治 世 に,8万8千 人 か ら17万5千 人 に 増 加 し た 。
オ ー ス トリ ア ・ハ プ ス ブ ル ク帝 国 の 非 啓 蒙 的 絶 対 主 義 の 経 済 政 策 9
政 府 の経 済 へ の作 用=影 響 が だ ん だ ん少 な くな っ た の で あ る。 そ こで 企 業 設 立 の 担 い 手 は,徐 々 に 貴 族 か ら非 貴 族 へ と移 っ て い っ た 。 ブ ル ジ ョア 的 企 業 家 が 増 大 して き た。 伝 統 的 な貴 族 の 経 営 者 で は な くな っ た 。 オ ー ス トリア に と っ て 重 要 な事 実 で あ る が,こ の ブ ル ジ ョア ジー の 由 来 が また 興 味 を ひ くも の で あ る。
オ ー ス トリ ア で は荘 園 管 理 人 か ら資 本 家 に な る例 が 多 か った と,ブ ル ー サ ッテ ィ(AloisBrusatti)は 述 べ て い る。
18世 紀 の 終 りに オ ー ス トリア の 自然 条 件 と社 会 的歴 史 的 条 件 は,帝 国 の 経 済 が 成 長 す る に は都 合 が よ くな か っ た 。 経 済 の 発 展 の水 準 は,帝 国 の 主 要 産 業 部 門 で は,西 ヨー ロ ッパ に くらべ て極 端 に後 進 的 で あ っ た。ドイ ツ に比 べ て も オ ー ス トリア の 体 制 は企 業 家 に不 利 で あ っ た。 また 官 僚 が 実 権 を握 っ て い た 。 工 業 化 を始 め る条 件,す なわ ち 資本 ・企 業 精 神 ・専 門労 働 者 は 確 か に あ っ た 。 ま た ウ ィ ー ン盆 地 とア ル プ ス 地 方 が伝 統 的 な手 工 業 の 中心 地 で あ っ て,ア ル プ ス 地 方 の森 林 業,ベ ー メ ン(ボ ヘ ミア)・ メ ー レ ン(モ ラ ビア)の 鉱 山 は,好 い 条 件 が あ っ た 。 しか し工 業 の た め の 資 源 は,新 しい 技 術 に よ って 急 速 に 経 済 を成 長 させ る の に不 都 合 で あ っ た 。特 にハ ンガ リー が そ うで あ っ た。帝 国 の 弱 点 は, 石 炭,特 に コ ー クス 用 石 炭 の埋 蔵 量 が 不 足 して い た こ とで あ り,そ の エ ネ ル ギ ー は木 と水 で あ っ た 。
つ い で,帝 国 の 発 展 した 地 域 で も商 業 活 動 が 低 く,市 場 の 発 達 が 遅 れ て い た。
18世 紀 の終 りに オ ー ス トリ ア の 商 業 ・金 融 に は,外 国 の 資 本 と企 業 が 大 い に入 り込 ん で い て,ド イ ツ人,ス イ ス 人,イ タ リア 人,ギ リ シ ャ人 が,内 外 の 商 業 で 著 し く活 躍 して い た 。帝 国 は ヨ ー ロ ッパ の商 業 に 余 り参 加 して い なか っ た し, 輸 送 水 準 も低 か っ た 。 ドナ ウ川 は 雨 期 に は い つ も氾 濫 した 。
生 産 は工 場 制 手 工 業 よ り も手 工 業 が 支 配 的 で あ り,ド イ ツ に比 較 して も,低 賃 金 で 高 利 子 で あ っ た 。 冶 金 生 産 で も西 欧 に劣 っ て い た 。 オ ー ス トリア の 工 場 は軍 隊 や 金 持 ち の た め に生 産 した 。
以 上 の状 態 は,帝 国 の 意 識 的 な 政 治 ・経 済 政 策 の結 果 で もあ っ た。 帝 国 は 資 源 の 開発 や 大 規 模 な 輸 入 を行 わ な か っ た し,行 な え な か っ た 。 とい うの は帝 国 の 政 治 目標 は,帝 国 の 維 持 保 全 と,ヨ ー ロ ッパ の 権 力 政 治 の 中 で帝 国 を主 人 公
に して お くこ とで あ った か らで あ る。 実 は この 政 治 目標 は ます ます 実 現 しな く な っ て ゆ くの で あ っ た 。帝 国つ ま り君 主 制 を維 持 す る主 勢 力 は,貴 族,教 会(=
カ トリ ック),軍 隊 官 僚 で あ っ て,彼 らは 資 本 主 義 化 とそ の 急 速 な工 業 化 が 自分 た ち を危 険 に す る と考 え た 。
帝 国 は,ト ラ ンス ・ラ イ タ ニ エ ン(ハ ン ガ リー 側)17)の 低 生 活 ・低 生 産 水 準 を有 利 だ と見 た。安 い 食 料 品 と原 料 品 を チ ス ・ラ イ タニ エ ン(オ ー ス トリ ア側) に確 保 で き るか らで あ る。 こ の体 制 を温 存 す るた め にハ ン ガ リ ー の封 建 勢 力 と の 同盟 が 必 要 と な っ た 。 一 方,オ ー ス トリア の ドイ ツ 人系 有 産 階級 あ るい は有 力 ブ ル ジ ョ ア ジ ー は,帝 国 の維 持 と政 治 的安 定 を最 上 位 に お き,ま た 議 会 主 義 と 自 由貿 易 に反 対 し,保 護 関税 に賛 成 した 。
民 間部 門 の 発 展 に よっ て の み,急 速 で長 期 の 経 済 成 長 が 可 能 に な る の で あ っ た が,帝 国 の 民 間部 門 は か な り遅 れ て い た。そ し て競 争 市 場 を欠 い て い た た め, 生 産 力 の 配 分 が 正 常 で な くな っ た 。 ま た技 術,資 本,企 業 家 の 流 入 ・導 入 の 点 で 不 利 とな っ た 。 こ う して 帝 国 の 政 策 は,初 め の 目標 に反 して オ ー ス トリ ア の 国 際 的 孤 立 を もた らす と同 時 に,工 業 化 目的 と一 致 しな か っ た の で あ る 。
初期産業革命
ナ ポ レオ ン戦 争(1796〜1815年)に よ っ て新 しい 様 相 が 生 まれ た 。 と くに イ ギ リス の ロ ス チ ャ イ ル ド商 会 は,ナ ポ レ オ ン や 各 国 政 府 ・王 朝 に巨 額 の 軍 費 を 貸 し付 け た。 ヨー ロ ッパ の 貿 易 は ち ぐは ぐに な っ た 。 商 品 と労 働 力 に対 して 巨 大 な 軍 事 的 需 要 が 生 じ,物 資 不 足 とイ ン フ レー シ ョン とを ひ き起 こ した 。 そ の た め に こ の時 期 に,西 ・中 欧 諸 国 に初 期 産 業 革 命 が 広 が っ た。 特 に機 械 利 用 の 大 木 綿 工 場 が 起 きた 。 ハ プ ス ブ ル ク帝 国 に とっ て も,ナ ポ レオ ン戦 争 は工 場 制 手 工 業 を導 入 す る一 因 とな っ た 。 ハ プ ス ブ ル ク帝 国 内 で 機 械 が使 用 さ れ た初 め
は1787年 で あ る が,イ ギ リス の,そ れ も水 力 に よ る紡 績 機 で あ っ た 。
17)ウ ィ ー ン と ブ ダ ペ ス トの 問 に,ラ イ タ 川 が 流 れ て い て,ラ イ タ川 よ り も こ ち ら(チ ス),あ ち ら(ト ラ ンス)と 呼 ん だ 。
オ ー ス ト リ ア ・ハ プ ス ブ ル ク 帝 国 の 非 啓 蒙 的 絶 対 主 義 の 経 済 政 策 11 19世 紀 前 半 で は,自 営 業 者 は家 族 を除 い て,1831年 に60万 人,1847年 に78万 人 で あ っ た 。 工 場 資 格 は 一 万 未 満 で あ った 。 工 場 と営 業 の違 い は,経 営 の 大 き さ と形 態 に もあ っ たが,さ し あ た り権 利 の 違 い で あ っ た。
ハ プ ス ブ ル ク帝 国 の最 重 要 生 産 部 門 は繊 維 業 で あ り,総 価 値 の45%を 占め た。
木 綿 製 品 産 業 は,端 緒 的工 業 化 の寵 児 で あ っ た。 原 綿 の輸 入 は 一 九 世 紀 第2・
四 半 期 の 問 に7倍,そ の 加 工 品 は2倍 に増 えた 。オ ー ス トリア の 木 綿 生 産 は1800 年 ご ろ に ヨー ロ ッパ 大 陸 の 中 で 顕 著 な 地 位 を 占 め,1840年 に 紡 錘 の 数 は ドイ ツ 関税 同 盟 の そ れ を越 え た。 ウ ィ ー ン盆 地(ポ ッテ ン ドル フ)や 北 ベ ー メ ン(=
北 ボ ヘ ミア)の 多 くの工 場 は,ヨ ー ロ ッパ で 最 大 の も の の 一 つ に数 え られ た 。 しか し太 糸 生 産 に片 寄 っ た こ と と,1835〜40年 の 不 況 で,帝 国 の 木 綿 工 業 は 停 滞 し,ヨ ー ロ ッパ 諸 国 の競 争 に負 け て しま っ た 。 綿 布 業 は1840年 後 ま で,確 実 な 家 内 工 業 で,農 民 が 副 業 と して極 め て 安 い工 賃 で 働 い て い た 。 そ の と き大 紡 績 業 者 は 問屋 の 役 割 を した 。1840年 に機i械の織 機iが応 用 され て,工 場(例 え ば,ウ ィ ー ン,シ ュ ヴ ァー ドル フ,ク ラ イ ン ミュ ンヘ ン,北 ボ ヘ ミァ)に 生 産 物 が 集 積 さ れ た 。 安 価 な生 産 物 を作 る 綿 布 工 場 が 設 立 さ れ て,家 内 工 業 は衝 撃 を 受 け,こ う して 工 業 時 代 に初 め て社 会 的 騒 乱 が,工 場 労 働 者 で な く家 内 労 働 者 に よ っ て起 こ され た 。 シュ レ ジ エ ンの 例 で あ る が,こ の事 件 をハ ウ プ トマ ン
(G.Hauptmann)は,『 織 り工 』(DieWeber)で 描 い た の だ っ た。
羊 毛 品 の 生 産 は 木 綿 工 業 よ りも大 規 模 で あ っ た 。 オ ー ス トリア は1840年 まで 世 界 で 最 大 の羊 毛 生 産 地 で あ っ て,帝 国 の全 輸 出 額 の五 分 の 一 が 羊 毛 で あ った 。 牧 羊 は 特 に重 商 主 義 者 の 寵 児 で あ っ て,そ の た め 広 範 な織 布 業 が 発 生 した 。1830 年 後 まで 布 や 他 の 羊 毛 品 は 商 業 的 に生 産 され,ま た これ を工 場 が 行 う よ うに な
っ た 。しか し布 を 織 り毛 を刈 る職 人 の 数 は 減 少 した 。1831年 に1万1千 人,1840 年 に8千3百 人,1847年 に6千4百 人 で あ っ た。 これ と 同時 に そ の 工 場 数 は急 速 に増 大 し た。 と りわ けベ ー メ ン(=ボ ヘ ミア)や メ ー レ ン(=モ ラ ヴ ィア)
で あ っ た 。 ベ ー メ ン は羊 毛 生 産 の 中心 に な り,羊 毛 品 生 産 物 価 額 の45%を 占 め た。 ブ リ ュ ン に あ っ た あ る企 業 は,1000人 を雇 い,ヨ ー ロ ッパ 大 陸 で 最 大 の 一 つ とな っ た 。
亜 麻 布(=リ ンネ ル)産 業 は,北 ベ ー メ ン と シ ュ レ ジエ ン,後 に ガ リチ エ ン が 中 心 に な っ た 。 絹 工 業 は,ロ ンバ ル ダ イ ー ヴ ェ ネ チ ア 王 国 の特 産 で,中 心 地 は ヴ ェ ロー ナ,ブ レス チ ア,ベ ル ガモ,コ モ で あ っ た。 オ ー ス トリア 帝 国 は そ の た め,ヨ ー ロ ッパ で 原 絹 の最 大 生 産 地 とな っ た。 絹 製 品 の 生 産 は フ ラ ン ス に次 い だ。
ミラ ノ(帝 国 内)と ウ ィー ンは,精 巧 な 品 の40%を 生 産 した 。 ウ ィー ン は, 他 の 奢 嗜 品,例 え ば精 巧 な 皮 製 品 の 中 心 で もあ って,工 場 が50で あ っ た,だ が 最 大 の工 場 は40人 しか 雇 っ て い な か っ た。
19世 紀 の 前 半 は,寄 木 細 工 の よ う な近 代 工 業 の 中 心 地 は,農 家 経 済 ・職 人 経 済 の 中 で成 長 した 。 農 民 や 職 人 は,市 場 向 け 生 産 の 誘 因 が増 大 し たが,制 度 と 技 術 の 保 守 主 義 が 強 か っ た 。 自 由放 任 の 島 々 が 前 資 本 主 義 的伝 統 と諸 関 係 とい
う大 海 に 囲 まれ て い た。
三 月 前 期 の 主 な経 済 的 矛 盾 の 一 つ は,か の厳 密 な保 護 主 義 的 関 税 政 策 で あ っ た 。 こ れ は歴 史 的 に継 続 され て い な けれ ば な ら なか っ た し,ま た オ ー ス ト リア 工 業 の 保 護 を 目的 と して い た 。 と ころ が 逆 に,こ れ が 工 業 上 の 速 い成 長 と技 術 革 新 を妨 げ た。 ドイ ツ 関税 同 盟 との合 併 を準 備 した1841〜43年 の 改 革 計 画 は, メ ッ テ ル ニ ヒ に支 持 さ れ た が,こ れ は主 に ウ ィー ン とア ル プ ス 地 方 の 産 業 的 既 得 権 に よ っ て 反 対 さ れ た 。
初 め の オ ー ス トリ ア鉄 道 は,私 企 業 に よ っ て,計 画 さ れ 資 本 調 達 さ れ た 。3 つ の 銀 行 家 が 宮廷 と結 び付 い て,会 社 を起 こ した 。1825年3月,85万 フ ロ リ ン が 大 衆 に よっ て 応 募 さ れ た 。 路 線 は モ ル ダ ウ=ブ ル ダ ヴ ァ と ドナ ウ を 結 ぶ も の で,つ ま り北 海 か ら黒 海 まで 結 ば れ る こ とに な る 。 建 設 は初 め の 見 積 りよ り時 間 と費 用 が掛 か っ た。 グ ム ンデ ン まで 延 長 す る の は利 益 だ と考 え て,ロ ー トシ ル トが 加 わ っ た 。 帝 国 で は,ブ ー トヴ ァイ ス ー リ ンツ 問鉄 道 は,長 距 離 軌 道 と して は,大 陸 で 初 め て の鉄 道 で,1832年 に は130㎞,1836年 に は200kmに 達 した。
オ ー ス トリ アで は じめ て の 主 要 な近 代 化 ・機 械 化 の波 は1830年 代 に や っ て き て,三 月 革 命 直 前 ま で続 い た。 この 時 期 の 主 要 産 業 は繊 維 と鉄 で あ っ た 。 と く に 木 綿 と銑 鉄 が 最 も重 要 で あ っ た 。紡 績 は 機 械 化 さ れ,30年 代 終 わ り まで にニ ー
オ ー ス ト リ ア ・ハ プ ス ブ ル ク帝 国 の 非 啓 蒙 的 絶 対 主 義 の 経 済 政 策 13 ダ ー ・エ ス テ ラ イ ヒの 木 綿 紡 績 は 実 際 す べ て 機 械 で あ っ た 。 ベ ー メ ン(=ボ ヘ ミア)の 木 綿 工 業 の 中 心 は北 部 で あ り,ラ イ ヘ ンベ ル グ の 周 りで あ っ た 。 重 要 な印 刷 企 業 は プ ラハ に あ っ た。
イ ギ リス で1769年 に ワ ッ トが 蒸 気 機 関 の特 許 を取 っ て い た こ とを 考 え る と, ハ プス ブ ル ク帝 国 で の 機 械 の利 用 は き わ め て 遅 い 。1801年 に イ ギ リス 人 ソー ン
トンが,ベ ー メ ン に機 械 化 木 綿 紡 績 工 場 を 設 立 した 。 この種 の 水 力 繊 維 工 場 は 1807年 ま で に,な お6ケ 所 建 て られ た 。 紡 績 行 程 の機 械 化 につ づ き,織 布 行 程 の 機 械 化 が は じ ま っ た り,ウ ィー ン近 郊 で フ ィ リ プ ・ ド ・ギ ラ ー ル が,1816年 に 亜 麻 布(リ ン ネ ル)織 布 工 場 を設 立 した18)。
三 月 革 命 前 で は,オ ー ス トリア で 産 業 革 命 の 端 緒 が 形 成 され た と言 え る。 工 業 の 中心 は繊 維 業 で あ っ た 。地 帯 構 造 か ら言 え ば,帝 国 の 西 方 つ ま りハ ン ガ リ ー で は ない 側 が,主 な担 い 手 で あ っ た 。 機 械 制 工 場 が 出現 した が,は じめ は 水 力 で あ り,蒸 気 機 関 は イ ギ リス の技 術 と技 術 者 に依 存 し,イ ギ リス か ら購 入 した 。
しか しそ の後 オ ー ス トリア 独 自 の 生 産 が 急 速 に 可 能 に な っ た 。 とは い え,蒸 気 機 関 の 生 産 は イ ギ リス に 遅 れ る こ と半 世 紀 で あ る。1810年 代 に輸 入 され た 蒸 気 機 関 が,ゆ っ く り と普 及 し,40年 代 に は最 も広 汎 に な っ た 。
ベ ー メ ン(=ボ ヘ ミァ),メ ー レ ン(=モ ラ ヴ ィア),ニ ー ダ ー ・エ ス テ ラ イ ヒで は,紡 績 と先 駆 的機 械 へ の必 要 が お き,国 内 の 技 術 産 業 に刺 激 を 与 えた 。 事 実,大 陸 で 最 大 の紡 糸 工 場 の一 つ が,イ ギ リス の 機 械 工 の 経 営 に よ りウ ィ ー ン近 郊 の ポ ッテ ン ドル フ にで きた 。 中 央 ヨー ロ ッパ の相 当 数 の 活 動 的 で 前 進 的 な 企 業 は,1820年 代 の停 滞 期 を生 きの び た 。 西 ヨー ロ ッパ よ り もコ ス ト高 で あ っ た 繊 維 機 械 も,諸 地 方 で 設 置 され つ づ け た 。
紡 績 機 は べ ー メ ンで は,ニ ー ダ ー ・エ ス テ ラ イ ヒ よ り小 さか っ た が,蒸 気 機 関 を 早 く採i用した 。 第 三 の 木 綿 工 業 地 帯 は フ ォ ア ア ー ルベ ル グ で あ っ た 。1828 年 に 木 綿 紡 錘 数 は帝 国 で43万5千 で,う ち22万5千 が ニ ー ダ ー ・エ ス テ ラ イ ヒ, 11万8千 が ベ ー メ ン に あ っ た 。1841年 に は帝 国 で100万,ニ ー ダ ー ・エ ス テ ラ
18)D,Long,PhillipdeGirardandtheIntroductionofMechanicalFlaxSpinningin Austria.in:∫ournalofEcono〃zicHistory.N「Y.ユ959.
イ ヒが38万8千,べ ・・一一・メ ンが35万5千 で あ った 。1847年 に は 合 計 で134万6千 で あ っ た。オ ー ス トリ ア の紡 績 は荒 糸 に 集 中 して い て,織 布 は手 作 業 で あ っ た 。
羊 毛 生 産 工 業 は1830年 代 と1840年 代 に 急 速 に発 達 し,そ の 中心 は ウ ィ ー ン, ブ リ ュ ン(メ ー レ ンの 首 都),ラ イ ヘ ンベ ル グで あ っ た 。
石 炭 は オ ー ス トリ アで は 高価 だ っ た 。グ ロ ス氏 の 算 出 に よれ ば 石 炭 消 費 量 は, 1831年 に15.2万 トン,1850年 に74万6千 トンで あ っ た 。 銑 鉄 生 産 は 石 炭 の そ れ よ り少 くな く,1828年 に7万3千 トン,1850年 に15万4千 トンで あ っ た 。1830 年 に錬 鉄 法 が,1844年 に蒸 気 槌 が 導 入 され た 。
蒸 気 機i関は高 価 で,燃 料 供 給 も むず か しか っ た。1841年 に工 業 生 産 総 額 が8 億 フ ロ リ ンで,そ の 四 分 の三 が 比 較 的大 き な工 場,四 分 の 一 が 小 企 業 あ る い は 職 人 に よっ た 。 ハ ンガ リー は そ の 入 分 の 一 だ っ た。
紙 産 業 の 工 業 化 も同 じ く ぐず ぐず して い た 。 ベ ー メ ン(ボ ヘ ミア)の 有 名 な ガ ラ ス生 産 は,恐 慌 後1835年 か らフ ラ ンス 流 の 方 法 を利 用 して 恐 慌 を 回避 した 。
シ ュ タイ エ ル マ ル ク と ケ ル ンテ ン は,鉄 工 業 の 中心 で あ っ た。 ケ ル ンテ ンの 工 業 は前 進 した 。 錬 鉄 法 や 初 め て の 鉄 道 軌 道 が 入 っ た 。 この 分 野 で 工 場 が 設 立 さ れ て,小 営 業 経 営 が や め させ られ た。
1841年 統 計 に よ れ ば,オ ー ス トリ ア,ベ ー メ ン,ロ ンバ ル ダ イ=ヴ ェ ネチ ア 王 国 の大 規 模 産 業 の 総 生 産 額 の う ち,繊 維 産 業 が43.5%,冶 金 ・機 械 両 産 業 が 合 わせ て11.1%で あ っ た 。
1830‑32年,コ レラ で 人 口が 減 っ た。 ニ ー ダー ・エ ス テ ル ラ イ ヒだ けで 死 亡 率 が15%だ った 。1830年 に は,生 まれ た子 が1年 以 内 に2/3が 死 ん だ 。19世 紀 は じめ か ら産 辱 熱 が 起 き,ウ イ ー ン で は10%の 母 親 が 死 ん だ。
オ ー ス トリ ア は,宰 相 メ ッテ ル ニ ヒ を戴 く,ヨ ー ロ ッパ 反 動 の牙 城 と な っ た 。 メ ッ テ ル ニ ヒ は しか し,ハ プ ス ブ ル ク帝 国 に あ っ て有 能 な 政 治 家 で あ っ た 。 彼 は 自 由主 義,つ ま り フ ラ ンス革 命 に至 る で あ ろ う急 進 主 義 を,撲 滅 し よ う と し た 。
ウ ィ ー ン会 議 に よ っ て 再 びハ プ ス ブ ル ク は,北 イ タ リア を 占領 した 。 だ か ら イ タ リア で 民 族 主 義,オ ー ス トリ ァか らの民 族 解 放 の運 動 が 起 きて い た 。 イ タ
オ ー ス トリ ア ・ハ プ ス ブ ル ク 帝 国 の 非 啓 蒙 的 絶 対 主 義 の 経 済 政 策 15 リア 人 民 は オ ー ス トリア絶 対 主 義 とそ の 厳 しい圧 迫 の も とに苦 し ん だ。 秘 密 結 社 カル ボ ナ リ党(炭 焼 き党)が で き た。オ ー ス トリ ア の警 察 に 捕 ま っ た 人 々 は, ブ リ ュ ンに近 い シ ュ ピ ー ル ベ ル ク の監 獄 に入 れ られ た 。 こ れ は オー ス トリア で 最 も恐 ろ しい 有 名 な監 獄 で,「 メ ッ テ ル ニ ヒ の 監 獄 」 で あ っ た 。 例 え ば,カ ル ボ ナ リ党 員 シ ル ヴ ィ オ ・ペ リ コが こ こ に入 れ られ た 。1820年 に ナ ポ リ で カ ル ボ ナ リ党 の 反 乱 が起 き,立 憲 制 をか ち え,そ の後 倒 され た 。 だ が 後 に カ ブ ー ル, マ ツ ィー 二,ガ リバ ル デ ィが 登 場 し,三 月 革 命 以 後,イ タ リア を オ ー ス トリア か ら分 離 し よ う とい う,イ レデ ン タ運 動 が 実 現 され て 来 る。
ウ ィー ン会 議 で ハ プ ス ブ ル ク はベ ル ギ ー を オ ラ ン ダ に与 え た 。 そ の後1830年 に,ベ ル ギ ー は オ ラ ン ダか ら独 立 した 。ポ ー ラ ン ドも,ウ ィ ー ン会 議 で ロ シ ア ・ プ ロ イ セ ン ・ハ プ ス ブ ル ク に 分 割 さ れ た 。
フ ラ ン ツニ 世 の 時 代 は,ナ ポ レオ ン戦 争 の時 代 で あ り,皮 肉 な こ と だ が,そ の た め 戦 争 景 気 が 起 き た。1830年 代 か ら初 期 の 産 業 革 命 が 発 生 した 。
1821年,メ ッテ ル ニ ヒ は 宰 相 に な っ た 。 彼 は抑 圧 した。 彼 は 主 に外 交 を 行 な っ た 。 フ ラ ンツ は 凡 庸 で あ っ て,す べ て を メ ッテ ル ニ ヒ と官 僚 に任 せ た 。1826 年,コ ロ ヴ ラ ー ト19)が,内 閣 大 臣 に任 命 さ れ,国 内 政 策 ・財 政 を任 せ られ, メ ッテ ル ニ ヒ と対 立 し,か な り自 由主 義 的 で あ っ た 。1831年 以 来,コ ロ ヴ ラー
トが 官 僚 と して地 位 を え,官 僚 が 権 限 を持 っ た。帝 国 は 自 由経 済 制 度 に反 対 し, 重 商 主 義 的 で あ っ た 。 ハ ンガ リー は独 自の 関税 が あ った 。 オ ー ス ト リア で は 商 業 と市 場 の 発 達 が 遅 れ て い た 。18世 紀 の 終 りに は,外 国 の 資本 と企 業 が入 り込 ん で い た 。 企 業 設 立 の担 い 手 は貴 族 か ら徐 々 に非 貴 族 に移 っ た 。 産 業 は 後 進 的 で,手 工 業 が 支 配 的 で,エ ネ ル ギ ー手 段 を欠 い た 。 工 業 化 が 支 配 層 に は危 険 に 見 え た 。 オ ー ス トリ ア で は 産 業 的 発 展 は 上 か ら促 進 され た。
「小 営 業 者 は ,中 世的 同業組合 の狭 い枠 の 中に閉 じこめ られてい たが,こ れ らの組 合 は,… … そ の 強 制 的組 合 の構 成 員 に,一 種 の 世 襲 的 安 定 を与 え て い た 。 最 後 に,農 民 お よ び 労 働 者 は,単 な る課 税 物 件 と して と り扱 わ れ て い た 。」20)
19)コ ロ ヴ ラ ー ト(FranzAntonGrafKolowrat,1778‑1861).
20)エ ン ゲ ル ス 『 革 命 と 反 革 命 』 岩 波 文 庫1961年,48ペ ー ジ 。
[オ ー ス トリ ア は,ウ ィ ー ン会 議 の]「 講 和 後 に は,た ち ま ち ヨー ロ ッパ の 大 金 融 市 場 にお け る そ の 信 用 を 回復 した 。 … … ヨー ロ ッパ の す べ て の大 金 融 業 者 は,そ の 資 本 の か な りの 部 分 を,オ ー ス トリ ア の 公 債 に投 じて い た 。」21)国 の 財 政 は い つ も赤 字 で あ っ た。 政 府 は い つ も ロー トシ ル ト(Rotschild)か ら借
りた 。22)
ハ ンガ リー は独 自 の 関 税 が あ っ た 。 帝 国 に は 関 税 と と もに 検 閲 が あ り,こ れ は1815年 か ら30年 間続 い た 。 ヨ ー ゼ フニ 世 の政 策 を廃 止 した の で あ っ た 。 オ ー ス ト リア は ヨー ロ ッパ に,ヨ ー ロ ッパ は オ ー ス トリ ア に知 られ なか っ た 。
フ ラ ンツ皇 帝 の 時 代 は,初 め は対 フ ラ ンス,対 ナ ポ レオ ン戦 争 の 時 期,後 は, ウ ィー ン会 議 以 降 に 区分 され る。 初 め は,フ ラ ンス 革 命 へ の恐 怖,そ して ナ ポ
レオ ンへ の 恐 怖,そ して,後 に は,自 由 主 義 ・民 主 主 義 ・民 族 主 義 へ の 反 対 が, 根 本 に な っ た 。
この 時 代 の政 策 は,重 商 主 義 の後 退 した 一 変 種 で あ る。保 護 関税 政 策 を と り, 工 業 化 ・近 代 化 を恐 れ た 。エ ネ ル ギ ー,市 場,輸 送,民 間経 済 で,劣 っ て い た。
産 業 の 中 心 は繊 維 業 で あ っ た 。 輸 入,資 源 開 発 を行 わ なか っ た 。 近 代 工 業 は, 大 海 の 中 の 島 で あ っ た。 基 本 は 農 業 で あ っ て,荘 園 が 中 心 で あ っ た 。 帝 国 は, 旧秩 序 を頑 固 に守 ろ う と した 。 機 械 製 工 場 は,マ ニ ュ フ ァ ク チ ャー よ り少 な か っ た が,そ の マ ニ ュ フ ァク チ ャ ー も少 な か っ た。 プ ロ レ タ リア ー トは い な か っ た。 労 働 者 とは,ほ と ん ど職 人 で あ っ た 。 フ ラ ン ッの 時 代 は産 業 奨 励 政 策 を と らず,ま た 保 護 関税 政 策 を しい た 。 輸 入 や 資 源 開発 も行 わず,農 民 解 放 も廃 止 した 。 そ の た め,工 業 化 ・近 代 化 は立 ち 遅 れ た。
[メ ッ テ ル ニ ヒ は,人 民 の]「 こ れ らの 階 級 に つ い て は,た だ1つ の 政 策 し か もっ て い なか っ た,す な わ ち,彼 らか らで き る だ け 多 くの もの を租 税 の形 で しぼ りと る と同時 に,彼 らを お と な し く させ て お く こ と,こ れ で あ る。 商 工 第 3階 級 は,オ ー ス トリ ア で は,遅 々 た る発 展 を示 して い た にす ぎな か っ た。 ド ナ ウ河 の 貿 易 は比 較 的 重 要 で は なか っ た 。 また,こ の 国 は,海 港 と して トリエ
21)同,46ペ ー ジ 。
22)Zδ11ner.
オ ー ス ト リ ア ・ハ プ ス ブ ル ク 帝 国 の 非 啓 蒙 的 絶 対 主 義 の 経 済 政 策
ヱ7
ス トを もっ て い た だ け で あ り,し か も この 海 港 の 貿 易 は は な は だ 限 られ た も の で あ っ た。 製 造 業 者 に つ い て い え ば,彼 らは か な り手 厚 い保 護 を受 け て お り, そ れ は,多 くの 場 合,あ ら ゆ る外 国 の 競 争 を 完 全 に排 除 す る 程 度 の もの で さ え あ っ た 。 だ が しか し,こ う し た優i遇は,主 と して 彼 らの租 税 支 払 能 力 を増 大 す る とい う見 地 か ら与 え られ た も の で あ って,製 造 業 に対 す る 国 内 的 制 限 や,政 府 の 意 図 と 目的 と を妨 げ な い 限 り慎 重 に擁 護 され て い た 同業 組 合 そ の 他 の 封 建
的組 合 の特 権 に よ っ て,著 し く減 殺 され て い た 。」23)
1830年 代 か らハ プス ブ ル ク帝 国 で は,初 期 の産 業 革 命 が発 生 した。 これ は,フ ラ ンツ1世 に と って は,晩 年 で あ る。
「メ ッテ ルニ ヒ公 の 政府 は ,2つ の軸 を 中心 として 運 営 され て い た。 … … 第1 に は,オ ース トリ アの 支 配 下 にあ る異 種 の民 族 の各 々 を,同 じ よ うな状 態 に あ る 他 のす べ ての 民 族 に よ って 牽制 す る こ とで あ り,第2に は … …封 建 的地 主 お よび 大 証 券 取 引 資本 家 とい う2つ の 階級 にす が っ て そ の支 持 を求 め る こ と,」24)で あ っ た。 「さ らに加 え て,[メ ッテ ル ニ ヒは]絶 対 主 義 の あ らゆ る 目的 の た め に これ 以 上 うま く組 織 す る こ とが で きな い よ うな 軍 隊 と官 僚 とを持 っ て い た。」25)「 ふ
る い,既 成 の,伝 統 的権 威 が,国 家 の 権 威 と同 じ よ うに維 持 され て い た。」26) 帝 国 の経 済 政 策 は,ハ プ ス ブ ル クの 中心 勢 力 を守 ろ う と した もの で あ っ た。 そ の ため 経 済 的停 滞 を招 い た。 こ う して そ の 目的 が 矛盾 に お ちい った 。
ビ ー ダ ー マ イ ヤ ー 文 化
ウ ィー ン会 議 で,ナ ポ レオ ン時 代 が 終 わ り,経 済 発 展 に よ り小 市 民 に よ る ビー ダ ー マ イ ヤ ー 文 化 の時 代 が 始 ま っ た。 ビー ダー マ イヤ ー 文 化27)が,ナ ポ レ オ ン 戦 争 の 高 景 気 以 降 の 富裕 さか ら,発 生 した。1815年(=ウ ィー ン会 議)以 来,一
23)同,48ペ ー ジ 。 24)同,45ペ ー ジ 。 25)同,47ペ ー ジ 。 26)同,49ペ ー ジ 。
27)こ の 項 は,『 事 典 家 族 』(弘 文 堂)の 拙 稿 を 利 用 す る 。
部 の,裕 福 な ブ ル ジ ョア ジー が 生 成 した。 彼 らの富 を もと に,こ の文 化 が 生 まれ た 。小 市 民 の生 活 様 式 が 出 来 て きた。オ ース トリ アで は そ の代 表 的 文 学 者 に詩 人 ・ 小 説 家 アー ダ ルベ ル ト ・シ ュ テ ィフ ター28)が い る 。彼 ら は,政 治 に は 関 心 を示
さず,自 分 の文 化 生 活 を大切 にす る,小 市 民 で あ る。 この 時代 は,ヨ ー ロ ッパ 革 命(1848年3月)ま で の 間 と され る。 美 術 工 芸,文 学 を含 む,30年 間 の文 化 史 の 時代 で あ る。 特 に1830年 代 に典 型 的 な,小 市 民 で あ り,ド イ ツや オ ー ス トリア の そ れ で あ る。
ビー ダ ー マ イ ヤ ー 家 族 は,国 民 の 中 で 少 し生 活 が 豊 か な層 で あ り,そ の た め, 家 庭 内 で 美 しい 家 具 ・調 度 品 な どを整 え,愛 好 し,服 装 に意 を 用 い,好 み の 収 集 を し,独 得 の 文 化 を享 受 し よ う と した 。 家 族 や 友 人 ・仲 間 の 親 睦 が 大 切 だ と さ れ た 。 そ れ が で きた の は,初 期 産 業 革 命 の お 陰 で あ る。 ナ ポ レオ ン戦 争 の 影 響 で,逆 に,ヨ ー ロ ッパ に は産 業 が 栄 え た の だ っ た。 ドイ ツ で は関 税 同盟(1834 年)が で き た。 鉄 道 も作 られ 始 め た。
そ の 文 化 は,し か し,メ ッテ ル ニ ヒ反 動 政 治 で政 治 的 に は萎 縮 せ ざ る を得 な か っ た 。つ ま り1809年 か らの オ ー ス トリア の 外 相,後 に 宰 相 の メ ッテ ル ニ ヒが, フ ラ ンス 革 命=共 和 制 革 命 の 再 発 を恐 れ,共 和 主 義,自 由主 義,民 族 主 義 を弾 圧 した の で,人 々 は,政 治 的 ・社 会 的 発 言 は で き なか っ た 。検 閲 も導 入 され た 。 メ ッテ ル ニ ヒが,ウ ィー ン会 議 か ら1848年 の 三 月革 命 まで,反 動 政 治 を行 な い, 進 歩 的 運 動 を弾 圧 し,ド イ ッ に もそ れ を 要 求 した。 こ う し て,検 閲,抑 圧,国 家 の干 渉 の 体 制 が 続 い た 。 この 間,ド イ ツ,オ ー ス トリ ア の小 市 民 に とっ て, 政 治 に 参 加 す る こ とは 危 険 で あ っ た。 間違 え ば,メ ッテ ル ニ ヒ の恐 怖 の 監 獄 シ ュ ピ ー ル ベ ル ク 監獄 が 待 っ て い た 。 彼 らは,政 治 ・社 会 問 題 に 首 を突 っ込 ま なか っ た 。 こ う して穏 や か な文 化 の 時 代 が 続 い た。29)
人 々 は,政 治 的行 動 を と らな か っ た。 音 楽 で はベ ー トー ヴ ェ ンの 時 代 で あ っ
28)AdalbertStifter,1805‑1968.主 要 作 品 に,『 石 さ ま ざ ま 』,『 水 晶 』,『 晩 夏 』,『 ヴ ィ テ ィ コ ー 』 な ど が あ り,多 くが 邦 訳 さ れ て い る 。
29)前 川 道 介 『 愉 し い ビ ー ダ ー マ イ ア ー 』 国 書 刊 行 会1993年 。
マ ッ ク ス ・フ ォ ン ・ベ ー ン 『ビ ー ダ ー マ イ ヤ ー 時 代 』 三 修 社1993年 。
オ ー ス トリ ア ・ハ プ ス ブ ル ク帝 国 の 非 啓 蒙 的 絶 対 主 義 の 経 済 政 策19
た 。 劇 作 家 で は,ラ イ ム ン ト30),グ リ ル パ ル ツ ァ ー31),ネ ス ト ロ イ32)が で た 。 ラ イ ム ン ト は,ウ ィ ー ン 生 ま れ の 劇 作 家 ・俳 優 で あ る 。 彼 の 若 い 時 代 は,ナ ポ レ オ ン戦 争 の 時 代 で あ っ た 。 活 躍 し た の は,ウ ィ ー ン 会 議 後 で あ る 。1817‑30 年 に,レ オ ポ ル ト シ ュ タ ッ ト劇 場 の 喜 劇 俳 優 と し て 演 ず る か た わ ら,劇 作 と演 出 に つ と め,ウ ィ ー ン 通 俗 劇 の 向 上 に 尽 く し た 。 戯 曲 「百 万 長 者 の 百 姓 」1826 年,「 ア ル プ ス 王 と 人 間 嫌 い 」1828年,「 浪 費 家 」33)が あ る 。 当 時 の オ ー ス ト
リ ア 貴 族=大 地 主 は,勤 倹 ・貯 蓄 の 人 々 で は な く,こ の よ う な 殿 様 の 姿 を,ラ イ ム ン トは,『 浪 費 家 』 の 主 人 公 フ ロ ッ トヴ ェ ル と し て,誇 張 し て 描 い た 。
ビ ー ダ ー マ イ ヤ ー と い う 言 葉 自 体 は,19世 紀 中 ご ろ か ら使 わ れ 始 め た 。 だ か ら 当 時 の 言 葉 で は な く,後 世 の 造 語 で あ る 。 ビ ー ダ ー は 実 直 ・愚 直 の 意 味 で, マ イ ヤ ー は ド イ ツ で あ りふ れ た 姓 で あ る 。2つ の 語 を く っ つ け た も の で あ る 。
ビ ー ダ ー マ イ ヤ ー と い う 名 の 小 学 校 の 教 師 の 作 と し て,雑 誌 『フ リ ー ゲ ン デ ・ ブ レ ッ タ ー 』 に,1850年 代 後 半 に,詩 が 載 っ た 。 こ れ が 発 祥 で あ る 。 作 者 は, ド イ ツ の 医 者 ア ー ドル フ ・ク ス マ ウ ル で あ る 。
こ の 時 代 以 後 で も,こ う い う 生 活 態 度 を と る 人 々 は,ビ ー ダ ー マ イ ヤ ー 的 と 言 わ れ る こ と も あ る 。1848年 革 命 で,メ ッ テ ル ニ ヒ は ロ ン ド ン に 亡 命 す る し, そ れ 以 後 ド イ ツ や オ ー ス ト リ ア で は 本 格 的 な 産 業 革 命 が 始 ま る こ と に な る 。
30)FerdinandRaimund,1790‑1836.
31)FranzGrillparzer,1791‑1872,翻 訳 で,『 海 の 波 恋 の 波 』 岩 波 文 庫,『 ウ ィ ー ン の 辻 音 楽 師 』 岩 波 文 庫,『 ザ ッ フ オ 』 岩 波 文 庫,『 ゼ ン ト ・ ミ ー ル 僧 院 』 第 三 書 房,『 ベ ー トホ ー ヴ ェ ン の 思 い 出 』 大 学 書 林,『 グ リ ル パ ル ッ ァ ー 自 伝 』 名 古 屋 大 学 出 版 会,な ど が あ る 。
32)Nestroy,1801‑1862,翻 訳 で は,『 ネ ス ト ロ イ 喜 劇 集 』 ウ ィ ・ 一 ・ 一 ・ン 民 衆 劇 研 究 会 編 訳,行 路 社1994年,『 ウ ィ ー ン の 茶 番 劇 』 ネ ス ト ロ イ 研 究 会 訳,同 学 社1996年, が あ る 。
33)中 央 大 学 教 授 ・新 井 裕 氏 が 試 訳 を し た 。
農 民 解 放
1848年 に ヨー ロ ッパ で 革命 が お きた 。ハ プ ス ブ ル ク帝 国 で も,ミ ラ ノ,ウ ィ ー ン,ブ タペ ス ト,そ の 他 で お き た。 この 革 命 の さ中 に農 民 解 放 が 行 わ れ た 。
農村 住 民 は,1つ の 望 み だ け を知 っ て い た,つ ま り土 地 負 担 の 廃 止 とグ ー ッ ヘ ル=農 民 関係 の 解 体 で あ った 。 農 民 が 革 命 に参 加 した の は,ブ ル ジ ョ ア知 識 人 の 目標 の た め で な く,か れ ら 自 身 の 要 望 の た め で あ っ た 。
1848年3月18日 の 令 で,さ しあ た りベ ー メ ン ・メ ー レ ン ・シュ レジ エ ン に向 け て 公 布 され た の は,賦 役 仕 事 へ の約 束 は1年 以 内 に,遅 く と も1849年3月31
日に廃 止 せ ね ば な らな い こ とだ っ た。 この た め に有 資 格 者 に保 障 が 与 え られ ね ば な らな か っ た。 有 資 格 者 の規 定 は立 法 過 程 に任 され た 。 そ の 間,指 定 の 時 点 の前 に,賦 役 を廃 止 す る 内容 が 好 意 的 に 協 定 さ れ る こ とが,関 係 者 に任 され る はず で あ った 。 す な わ ちそ れ は,1846年12月18日 の宮 廷 布 告 に対 して,改 め て 指 示 さ れ た もの で,そ れ を補 完 す る た め に,つ ぎの2カ 月 の うち に 一 連 の さ ら な る指 令 が 発 布 さ れ た 。 負 担 償 還 を土 地 譲 渡 の 方 法 で軽 減 す る とい う もの で あ る。
導 入 さ れ た 措 置 は,全 帝 国 で な くべ ー メ ン王 国 だ け に行 われ た 。 そ の 後,シ ュ タ イ エ ル マ ル ク,ケ ル ン テ ン,ク ラ イ ンの,身 分 代 表 議 会 の 申 し入 れ で この
3つ の州 に も州 立 法 に よ っ て,同 じ こ とが 着 手 さ れ た 。
三 月 期 以 来,政 治 で も州 議 会 で も農 民 問 題 の 最 終 解 決 は 決 ま らな か っ た。
政 府 は3月 の 諸 事 件 に 完 全 に驚 い た 。起 きた こ と に準 備 な しで,助 言 な しで, 向 か っ た し,こ れ か ら何 が お きる か,分 か らな か っ た。 臣 民 的 な奉 仕 や 他 の農 民 負 担 の廃 止 へ の 要 求 が ます ます 大 き くな り,そ れ らを維 持 した り,一 層 の存 続 も可 能 だ とは,も う誰 も考 え な か った 。 政 府 は つ い に,農 村 住 民 の希 望 に譲
歩 し,賦 役 廃 止 を導 入 す る こ とを 決 め た。34)
こ う して 賦 役 問 題 は,州 議 会 で も,憲 制 議 会 で も,「 政 治 的 努 力 の 軸 点 」 を
34)KarlGrUnberg,Z)ieGrundentlastung.Wien1899,S,38.