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次
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は じ め に
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社会史の現状
︵ 小 論 の 目 的 実証主義史学の成立
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敗者の歴史と勝者の歴史 口 教 育 改 革 と 歴 史 学 の 革 新
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高等教育の実態と歴史学の状態 四 フ ュ ス テ ル と ラ ヴ ィ ス む す び
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四七
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一 丁5‑4 ‑553 (香法'86)
のか﹂︵第三二巻第一
0
号 ︑や﹁社会史と民衆史﹂の小特集︵五三二号︑ ︑ こ ︒
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一九
八三
年︶
一九
七九
年︶
社会史の現状
歴史学の分野において︑社会史の隆昌を見るにいたったことは旧聞に属する事柄である︒わが国においても︑七
0
諸論孜の翻訳と紹介が︑ 年代の中期からアナール学派のリュシアン・フェーヴルやマルク・ブロック︑ツ社会構造史のヴェーラーやコッカ︑イギリス労働史研究協会のホブズボームやトムスンらの歴史学方法論に関する
(1 )
それぞれの国の歴史を専攻する研究者によってなされてきていた︒
この動きに拍車をかけたのは︑雑誌﹃思想﹄の社会史特集︵六六三号︑
ら﹃思想﹄が社会史特集を編んだことは︑社会史という歴史学方法論の流れに悼さすことになったのである︒それは
﹃思想﹄が社会史特集を出す前後に︑わが国の代表的な歴史学雑誌が社会史の特集を編んだことにも示されている︒﹃社
会経済史学﹄︵第四四巻第四号︑
向﹂
︵三
五四
号︑
と題して社会史に触れ︑
マルクス主義史学を代表する﹃歴史学研究﹄も近年にいたって︑社会史の﹁批判と反省﹂︵五二
0
号 ︑
の発
達﹄
︵同
文舘
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一九
七九
年︶
一九
八三
年︶
一九八四年︶を編むにいたった︒﹃経済評論﹄も﹁いま︑なぜ︑社会史な
の特集をくんでいる︒また角山栄・速水融編﹃講座西洋経済史
一九七九年︶は︑各国の社会史研究の動向を紹介し︑国によって社会史の方法と位置づけが異なる
ことを明らかにしたタイムリーな﹁比較社会史﹂ >経済史学
の企画であった︒このような社会史への関心は︑賛否両論を伴いつ
は じ め に
一九七八年︶がアナール学派の紹介に努め︑﹃歴史評論﹄は﹁ヨーロッパ史学の新動
一九八二年にも﹁社会史をめぐって﹂︵三八一号︶特集をくん である︒中間総括的な観点か ル・ゴフやル・ロワ・ラデュリ︑
四八
ドイ
5 ‑ 4 ‑554 (香法'86)
(2 )
つも今や趨勢となっている︒それは一九八五年度の日本西洋史学会が︑特別部会﹁﹃社会史﹄の現状と反省﹂を設けた
しかし明治以来の輸入学問の旧套を蝉脱しえないわが国では︑
究動向の紹介と翻訳の域を抜けだせないのが実状である︒新しい学問領域の開拓なり新しい方法論の展開といったと
きには︑先学の研究の祖述や紹介︑
これまでの社会史の紹介がはたしてヨーロッパの学問史︑
のかという点で︑筆者は懐疑的たらざるをえないのである︒ドイツの史学史については研究の蓄積もあり︑岸田達也
﹃ドイツ史学思想史研究﹄︵ミネルヴァ書房︑
フランスの経済史学史を整理した宮本又次﹃フランス経済史学史﹄︵ミネルヴァ書房︑
(5 )
文献がないという事実に︑研究の貧弱さは如実に示されているのではなかろうか︒今日の社会史の紹介がフランスを
中心にして行なわれ︑
︵機
能・
構造
的歴
史︶
および翻訳からその学問が出発することを︑筆者も十分に承知している︒しかし
なかんずく史学史との関連においてなされてきた
アナール史学がギリシア時代の教訓的歴史と一八世紀以降の発展的歴史につぐ第三のパラダイ
(6 )
と位置づけられているだけに︑この状態はゆゆしきことと思われる︒フランス史学史の研究
総じて現在の社会史の紹介は︑技術論的ないし方法論的な解説に偏りがちであって︑
的アプローチが誕生したことの必然性についてまで論及して︑紹介がなされてきたとは言いがたいのではなかろうか︒
根づかないで枯れるか
( 1 1
一時
的流
行に
終わ
るか
︶︑
社会史を一本の植物に管えるなら︑地上部分の花にのみ目を奪われ︑根の部分︑さらにはこの植物を育んだ土壌を閑
却してきたのではないだろうか︒土質の吟味を忘れるなら社会史という植物をわが国に移植しても︑最悪の場合には
せいぜい切り花ないし鉢植え程度のもの
( 1 1
好事家の風俗史︶で が要請されるゆえんである︒
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︑
ところにも窺知しうるのである︒
一九七六年︶といった労作も存在するが︑
四 九
ヨーロッパの歴史学に社会史 一
九六
一年
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外に
︑
この種の フランスの史学史に関しては︑ いくつかの例外はあるが︑斯学においても海外の研
5 ‑ 4‑555 (香法'86)
しかないであろう︒
みではあるまい︒わが国の人文地理学の泰斗である飯塚浩二氏は︑すでに三
0
年以上も前に﹁方法論の吟味は当然︑学説史の反省によって裏打ちされているべきだ﹂と記しておられる︒
われの眼前に展開されている社会史という方法論の素性を理解し︑
欠な作業と言いうるのである︒ここに学説史︑史学史の存在理由があるのであろう︒
小論の目的
本稿
は︑
に)
アナール学派などの紹介論文を読むにつけ︑
われわれが従うべき方法論を検討するために不可 かかる問題意識に基づいて執筆されている︒筆者の究極的なテーマは︑実証主義史学とアナール史学の関
係の再検討であるが︑
まず本稿では︑
その予備作業として︑フランスの実証主義史学の成立にいたる背景を跡づけて
おきたい︒なぜならアナール学派が誕生する知的土壌を理解するうえでも︑それは不可欠な作業といいうるからであ
る︒なお続稿において︑実証主義史学の大御所であったシャルル・セーニョボスの歴史学方法論を分析することによ って︑実証主義史学とアナール史学との弁証法的関係を検討する予定であることを付言しておきたい︒筆者の作業仮
(8 )
説をあらかじめ述べるなら︑ここにいう両史学の関係とは︑勿論︑方法論的な関係である︒これまで﹃経済社会史年
報﹄(‑九二九年創刊︑以下﹃年報﹄と略記︶のポレミックな性格に眩惑されてか︑実証主義史学とアナール史学との
断絶ないし切断を強調する見解が多かったように思われる︒実証主義史学の素朴な科学信仰を︑現在の視点から批判 することは容易であろう︒しかし一九世紀後半になってやっと歴史的批判の手法が確立され︑歴史学が科学としての
(9 )
品質証明を得たことなどを忘れてはならない︒詳細は第二章以下に譲るが︑筆者はソルボンヌ史学とアナール史学の 関係を︑断絶ではなくて︑方法論上の発展ないし展開と捉えたい︒認識論的切断は︑両史学の間にではなくて︑実証
つまり社会史の来歴を知ることは︑現在︑
われ
このような印象を禁じえないのは︑単に筆者一人の
五 〇
5 ‑ 4 ‑556 (香法'86)
それから従来︑看過されがちであった点について言及しておきたい︒すでにビュルギエー'ルや杉山光信が指摘して
( 1 0 )
アナールいることであるが︑﹃年報﹄創刊までのフェーヴルとブロックは︑決して孤立した周辺的存在であったわけではないし︑
またエスタブリッシュメントたるソルボンヌ史学によって迫害されていたわけでもなかったことに︑われわれは注意
の遡垣の場となったストラスプール大学は︑
ドイツに対するフランス・アカデミズムの﹁ショーウィンドー﹂として
位置づけられた重要な大学であり︑他の地方大学と同列に論じえないのである︒﹃年報﹄に依拠したかれらの﹁歴史の
ための闘い﹂が始まったばかりの一九三
0
年代に︑ブロックがソルボンヌに︑祖のポレミックな発言をも︑歴史学の対象として扱うこと︑すなわち堅実な批判精神によってそれを位置づけること
それでは次章において︑ が今や必要となったのである︒ スに迎えられたことは︑二
0
年代までに︑
員の一人であったのである︒これらの雑誌は︑ せねばならない︒その頃のプロックは
﹃史
学雑
誌﹄
五
一九世紀フランスの史学史を跡づけることから作業を開始し の定期的投稿者であり︑
ともにソルボンヌが中心になって編集していたものである︒また両者
フェーヴルがコレージュ・ド・フラン
アナール
かれらの名声が確立していたことを物語っている︒ともあれ﹃年報﹄の鼻
アナール学派が誕生する前史であり︑
合評論﹄(‑九
00
年創刊︶を生みだす原因ともなった︑
( 1 1 )
よう
︒
かつアナール学派の胚芽として評価される﹃歴史総
( 1
)
翻訳の量からいえば︑フランス社会史への関心が高いという印象を筆者はもっている︒七
0
年代に翻訳された代表的文献を列挙してお
く︒
L・フェーヴル﹃歴史のための闘い﹄長谷川輝夫訳︵創文社︑一九七七年︶︑M.プロック﹃比較史の方法﹄高橋清徳訳 フェーヴルは﹃近現代史評論﹄の編集委 主義史学とそれ以前の歴史学との間に存在したのである︒
5‑4 ‑557 (香法'86)
︵創文社︑一九七八年︶︑ジャック・ル・ゴフ﹁歴史学と民族学の現在ー│l歴史学はどこへ行くか││̲﹂二宮宏之訳﹃思想﹄︵六三
0
号︑ 一九 七六 年︶
︑
E・ル・ロワ・ラデュリ﹃新しい歴史ー│歴史人類学への道﹄樺山・木下その他訳︵新評論︑一九八
0
年 ︶ ︑
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1 1ウルリヒ・ヴェーラー﹃近代化理論と歴史学﹄山口定その他訳︵未来社︑一九七七年︶︑ヴェーラー﹁ドイツ帝国主義一八
七一ー一九一八﹂早島瑛訳﹃思想﹄︵六三六号︑一九七七年︶︑ユルゲン・コッカ﹁社会史の概念と方法﹂早島瑛訳﹃思想﹄︵六六
三号︑一九七九年︶︑ハンス・ローゼンベルク﹃ドイツ社会史の諸問題﹄大野英二その他訳︵未来社︑一九七八年︶︑E.
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0
年代以前のイギリスにおける社会運動﹂近藤和彦訳﹃思想﹄︵六六三号︑一九七九年︶︑ホプズボーム﹃匪族の社会史﹄斎藤三郎訳︵みすず書房︑一九七二年︶︒
( 2 )
伊藤貞夫氏は︑わが国の研究者の社会史に対する態度を︑積極的肯定派・条件付賛成派・懐疑派のトリコトミーによって整理され
ている︒伊藤貞夫﹁歴史理論﹂﹃史学雑誌﹄第九三編第五号︑一九八四年︑七¥
1 0
頁 ︒ ( 3 )
筆者は排外的な自民族中心主義
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の立場から︑こう論じているのではない︒古代中国や近代ヨーロッパの文化的影
響下にあったわが国にとって︑翻訳による外国文化の摂取はいわば宿命であった︒日本人の﹁総じて﹃本性﹄をうしなわなかった
その同化力と包容力のたくましさ﹂を評価される増田四郎氏に︑筆者も賛同を覚える︒増田四郎﹃社会史への道﹄︵日本エディタ
ースクール出版部︑一九八一年︶︱︱︱五頁︒
( 4 )
伊藤貞夫﹁歴史理論﹂﹃史学雑誌﹄第九二編第五号︑一九八三年︑六¥
1 0
頁 ︒ ( 5 ) 二宮宏之氏の精力的な紹介は敬服に値するが︑二宮宏之﹁歴史的思考とその位相実証主義歴史学より全体性の歴史学へ﹂﹃フ
ランス文学講座﹄第五巻︵大修館︑一九七七年︶も︑やはり不十分さを免れていない︒
( 6 )
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( 7 )
飯塚浩二﹃人文地理学説史﹄︵日本評論社︑一九四九年︶ご頁︒
もっとも本稿では︑アナール学派の歴史学方法論についても論じない︒これらについては︑
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( 8 )
五
5 ‑ 4 ‑558 (香法'86)
もたらすものであった︒
一九
四一
年に
︑ 学校の講師であった﹁エミール・ブルジョアの
(l )
まった﹂と︒
このように当時の歴史学が優秀な学生を退屈させていることは︑
(2 )
ョボスの認めるところでもあった︒そこでかれらは一八九八年に﹃歴史学入門﹄を発表し︑
実証主義史学の成立
﹃外
交史
概論
﹄
の繰り言を聴くうちに︑
五
﹁歴史的批判﹂の徹底を主 実証主義史家たるラングロワとセーニ 歴史家になる気をなくしてし かれはその当時の心境を次のように回想している︒フェーヴルは︑高等師範 一九世紀末の歴史学は︑かれに幻滅を
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XXXVIII,
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(1 97 8) , 5 8‑ 76 . を 参 ︱ 照さ れた い︒
(9
)G
・バラクラフ﹃歴史学の現在﹄松村赳・金七紀男訳︵岩波書店︑/九八五年︶七\九頁︒本書は一九世紀から二
0
世紀にかけての︑世界大での歴史思潮のアウト・ラインを教えてくれる文献である︒
( 1 0 )
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13 49 , 13 53 . 杉山光信「『社会学年報〗から『経済社会史年報』へ」『思想』六八八号(/九八一年)→六ニ
\一六三頁︒またビュルギエールは︑フェーヴルとブロックの政治的価値観は論敵のセーニョボスや﹃史学雑誌﹄に近かったとも
記し
てい
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13 58 .
( 1 1 )
本稿が﹁フランスの現代歴史学の成立にたちいった研究がない﹂という︑井上幸治氏のわが国のフランス史学への苦言に対する回
答となれば幸いである︒井上幸治﹃歴史を語る1学生との対話﹄︵二玄社︑一九七九年︶︱ニニ頁︒
日 敗 者 の 歴 史 と 勝 者 の 歴 史
幼少時より歴史研究を天職と考えていたリュシアン・フェーヴルにとって︑
5‑4‑559 (香法'86)
があるのである︒
のちのアナール学派によって﹁事件史
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(6 )
歴史
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﹂と批判されたのは︑前述のようにエルネスト・ラヴィス
︵一八五四ー一九四二︶らのソルボンヌを中心とした実証主義史学である︒しかしゲルハルト・リ
(7 )
ッターの指摘にもあるように︑
では疑問なしとしない︒今日︑
J
・ル・ゴフやベルナール・グネに代表されるように︑(8 )
正当な評価を求める声が出はじめていることはその証左といいうる︒アナール史学を﹁勝者の歴史﹂に終わらせず︑
歴史学方法論の継受発展という長期的視野のなかに位置づけるためにも︑ ル・セーニョボス ル
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うに
︑
アナール学派内にも政治史の
アナール学派が実証主義史学の全体を把捉して批判の矢を放ったのかどうかという点
一九世紀のフランス史学史を回顧する必要
︵一
八四
ニー
一九
二二
︶
やシャル フェーヴルの批判は︑年とともに鋭さを増すばかりであった︒第二次大戦後には︑の歴史学を論難するにいたるのである︒かれによれば︑当時の歴史学は﹁一八七
0
年の敗者の歴史﹂であり︑﹁総合の放棄﹂と﹁勤勉ではあるが知的には怠惰な﹃事実﹄崇拝﹂と﹁外交史偏重﹂を特色としていた︒このようにフェーヴ
ヽとカ﹁歴史のための フェーヴルはさらに手厳しく当時 これら隣接領域の学問の成果を歴史学に導入して歴史
学の革新を計らんとする若い世代にとって︑旧世代の歴史学は唾棄すべき対象と映ったのである︒
こうしてフランソワ・シミアンのセーニョボス批判︵一九
0
三年
︶や
︑
(4 )
フェーヴルのセーニョボス批判が始まる︒ 張して歴史学の活性化を図らんとするのである︒しかし史料批判や解釈批判を中心としたかれらの方法論は︑アンリ・
(3 )
ベール主宰の﹃歴史総合評論﹄に集まる歴史家を満足させなかった︒おりしも社会学︵デュルケーム︶︑人文地理学︵ヴ
ル・ボン︶などの新しい学問の誕生のときである︒別稿で述べイダル・ド・ラ・ブラーシュ︶︑集合心理学︵タルド︑
セーニョボスの目は隣接科学にも開かれていたが︑ 五四
5 ‑4 ‑560 (香法'86)
教育改革と歴史学の革新 一九世紀のフランス史は︑政治的振幅の激しさによって知られている︒この世紀のフランス史学も︑このような現
実を反映して︑大革命の評価を中心とした政治的性格の濃いものであったことは︑
慨嘆したところにも表われている︒確かに一九世紀前半のフランス史学は︑フランソワ・ギゾーやジュール・ミシュ
(9 )
レの著作に代表されるように︑政治的・哲学的・文学的性格にその特色を求めることができるのである︒つまり一九 世紀前半のフランス史学は︑事実の批判や確定に︑すなわち史料批判に欠けていたのである︒この点でニーブールや
ランケを生み︑史料学
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が発達したドイツ史学とのタイム・ラグは歴然としていた︒このことをフランス
の歴史家にはっきりと自覚させたのは︑普仏戦争の敗北であった︒
( 1 0 )
の知性と性格の敗北であると捉え︑教育改革を提言したように︑ラヴィスやセーニョボスにとっても︑
( 1 1 )
敗北はフランスの知性の敗北︑とりわけ教育制度の敗北であったのである︒
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に︑凝結していたのではないことに注意すべきであろう︒対独復讐が政治的シンボルとな るのは︑ブーランジスムに表わされるようにもっとのちのことである︒少くとも一八七
0
年のフランスの知的エリー
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︑
トにとっては︑敗北の責任はドイツにではなくてフランスにあるのであり︑ドイツを非難するというよりは︑むしろ
( 1 2 )
ドイツから学ぼうという態度をかれらは示したのであった︒すでに帝制期に︑彼我の大学の格差を知った文相ヴィク
( 1 3 )
トール・デュリュイは︑ドイツ留学を制度化していたし︑この時期の思想的リーダーであったシャルル・ルヌーヴィ
( 1 4 )
ドイツから学ばねばならないと主張していた︒ラヴィスが一八七一年から七五年にかけて︑セーニョボスが七
ところで一八七
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年のフランスが︑ る︒それは普仏戦争の直後に︑(二)
五五
のちに主張されるような対独復讐
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という排外的ナショナリズム
一八
七
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年の マルク・プロックが一九四0
年の敗北をフランスフュステル・ド・クーランジュが過去半世紀のフランス史学の党派性および政治性を
つとに指摘されているところであ
5‑4‑561 (香法'86)
いての論争がなされた背景には︑ 七年から七九年にかけて︑ドイツ史の研究やドイツの教育制度の視察に赴いたのもこのような理由によるのである︒
従って帰国後のかれらの目が︑教育改革に注がれるのはコロラリーといいうる︒状況もかれらに有利であった︒共
和主義的で愛国的な国民感情を作典するという政治の要請は︑歴史学に新たな任務を与えていたからである︒しかも
学制改革は︑議会共和政の安定とともに焦眉の課題となっていた︒かれらはこのような教育制度の革新の一還として︑
歴史学の革新を位置づけていたのである︒それは歴史学を︑哲学や文学から独立した学科目とする努力として表わさ
れた︒このためにはデカルトによって否認された歴史学を︑科学として措定する必要があったのである︒かくして歴
史学を独立科学として制度化するための認識論的切断こそ︑かれらの尽力すべき目標となったのである︒このような
歴史学内部からの科学性追求という認識論的要求は︑時代の必要に応ずるものであった︒第三共和政が何よりも︑反
教権的共和政として誕生した事実を忘れてはならない︒反教権主義とは︑理性と科学の崇拝と同義であったからであ
る︒フランスは︑デカルト︵合理主義︶と啓蒙︵理性主義︶とコント︵実証主義︶
することは︑歴史学を大学の主要講座とするためにも不可欠のことであった︒
の国
であ
った
︒
既述のように一八七
0
年の敗北は︑結果的に︑歴史学方法論の重要性をフランスの歴史家に認識させる契機となった︒歴史学の科学性を担保するものとして︑方法論の科学性が重視されるにいたる︒歴史学が科学たるゆえんを証明
つまり教育制度全体のなかで︑歴史学
の地位向上に資するものとして歴史学方法論の革新が要請されたのである︒第三共和政の前期に︑歴史学方法論につ
このような事情があったのである︒二
0
世紀はじめの歴史学と社会学との方法論争M e t h o d e n s t r e i t
も︑このような文脈に位置づけてこそ︑その意義を十全に評価しうるのである︒社会学者と歴史家の
フォーラムであり︑﹁新しい歴史﹂の胚芽となった﹃歴史総合評論﹄もこのような状況のなかから狐々の声をあげたの
( 1 5 )
であ
る︒
五六
5 ‑ 4 ‑562 (香法'86)
曰
主義史学の成立のプロセスをフォローすることにしよう︒ 以下において︑ 育
環境
︑
従ってラヴィスやセーニョボスの学制改革運動と︑
だし両者の業績を回顧すれば︑
カデミックな学問としての歴史学の確立に努めたのであるが︑
論の革新に努めたのはセーニョボスであったといいうる︒
それ
ゆえ
︑
( 1 6 )
かれらの実証主義史学とは密接に結びついているのである︒た そこには意識的ではないにせよ機能的分担があることが諒解される︒両者はともにア
その制度化に努めたのはラヴィスであり︑歴史学方法
セーニョボスの歴史学方法論を検討するためにも︑
するのである︒今︑少しくそれを説明しよう︒
五七
フュステルからセーニョボスにいたる実証
セーニョボスその他の実証主義史家が︑
いかなる研究状況のなかで自らの歴史研究を進めていたのかを明らかにする必要があるであろう︒それでは
( 1 7 )
一九世紀フランスの教育制度や高等教育の実態を概観し︑
高等教育の実態と歴史学の状態 個としての人間が人生の節目にたちいたったとき︑自己の過去を振りかえるように︑集団としての民族も︑国家的 な大事件に遭遇したとき︑自民族の歴史を振りかえるものである︒普仏戦争に敗れたときのフランスが︑まさにそう であった︒敗戦という民族的な共通体験によって︑歴史意識の覚醒がみられたのである︒既述のように敗戦によって 喚起された歴史意識は︑歴史学をも含めた教育制度へと収飲した︒ここにわれわれは︑第三共和政の当初より︑歴史 と教育が深く結びついていたことを︑換言すれば︑共和派の政治家と改革派の歴史家との同盟が存在したことを看取 普仏戦争の敗北による第二帝制の崩壊から︑パリ・コミューンにいたる激動は︑国民の士気を萎縮させ国民の間に
分裂をもたらした︒意気阻喪した国民に一体感と和合をもたらすことは︑焦眉の課題となった︒この使命が︑教育に
いかなる教
5 ‑ 4 ‑563 (香法'86)
^
要請されたのである︒共和派にとって︑理性的で非宗教的な教育制度は︑王党派との政治闘争に勝利するという見地
からのみならず︑国民作興の見地からしても緊要であったからである︒かくて初等教育の義務化・非宗教化・無償︵中
等教育の無償は︑一九三
0
年に実現された︶を三原則とするフェリー法をはじめ︑さまざまな改革がなされるのである︒奨学金制度の拡充もその︱つであり︑この制度は国民に社会的上昇の夢を与え︑共和政のシンボルとして統合の
( 1 8 )
機能をいかんなく発揮したのである︒第三共和政が揺藍期の危機を切りぬけ︑フランス社会に自己を定礎してゆく過
( 1 9 )
程において︑教育が国民の共和主義的統合にあずかって力があったと称されるゆえんである︒
また愛国的な国民感情の涵養に役立つ学科とされたのは︑地理学と歴史学であった︒とりわけ敗戦という現在の恥
辱を︑過去の共和主義的栄光によって慰撫し︑国民に衿侍を取りもどさせることが︑歴史学に要請されたのである︒
つまり歴史教育の必要性が︑政治的にも痛感されたのである︒第二帝制末期に︑歴史研究の道にはいった若き歴史家
の考えも同様であった︒ガブリエル・モノーは︑﹁フランスの過去の研究は︑今や国民的重要性をもつにいたった﹂と
率直に表明している︒ドイツの大学の歴史学者が︑ドイツ国民の精神的統一に貢献したことは︑フランスの若き歴史
家にとって亀鑑となったのである︒ラヴィスやセーニョボスの手になる一連の教科書は︑このような目的で執筆され
たのである︒勿論︑このような政治的機能を有するかれらの﹁教科書は通常科学︵となった実証主義史学ー筆者︶を
( 2 1 )
永続化させる教育上の武器﹂としての機能をも合わせもったのである︒教科書ではないが︑第一巻にヴィダル・ド・
ラ・ブラーシュの﹃フランスの地理一覧﹄を配するラヴィス編著の通史︑﹃フランス史ーーー始原より大革命までー││﹄
( 2 2 )
一 九
OOI
一九︱一年︶は︑このような状況の所産といいうる︒かくして歴史家が共和主義的な国民作興
に協力し︑共和政府が歴史学の革新に貢献するという相互依存関係が生まれたのである︒
ところでセーニョボスが中等教育用の一連の教科書を執筆したのは︑ソルボンヌに職をえてからのことである ︵
全一
八巻
︑
五八
5‑4 ‑564 (香法'86)
育が財政の面でも教育内容の点でもお粗末であり︑ドイツより劣勢であったことを示している︒法学部や医学部は研
究機関ではなくて︑いわば職業訓練センターであり︑文学部は学位や教職の免状の授与と大学入学資格試験の審査委
員の養成を目的としていた︒しかも学部はおのおの孤立して存在し︑ 1人間と自然に関する全体的な知の蘊奥をきわめ
一八八五年の時点においてすら︑学部の科学の実験設備は一八四七年のものと殆ど同じで
あっ
たし
︑
パリの法学部でも一八六九ー七
0
年の図書費は一000
フランであり(‑八七一年のパリの文学部教授の
年収は︑七五
00
フランである︶︑外国の定期刊行雑誌をもたないという状態であった︒これは高等教育に費される予
算が中等教育のそれの二分の一から三分の一の額であり︑初等教育の一
0
分の一以下であることの論理的帰結であろう︒教育内容の貧弱さは︑おして知るべしである︒とくに地方の大学では︑教授陣の不足から開講される講座も不十 る所ではなくなっていた︒ の改革がなされるまで︑ 八八三年︶︒この時期は︑フランスの教育制度の改革が矢継ぎばやになされていたときでもあった︒この一八八
0
年代フランスには高等教育は存在しないといわれる状態が続いていたのである︒今日的意味での
一八九六年のことである︒フランス革命によって二ニの大学
u n i v
e r s i
t e s
が廃止され︑ナポレオン
一世によって独立した学部
f a c u
l t e s
制度︵単科大学︶が設けられて以降︑
五九
厳密な意味での大学はなかったのである︒ラヴィスも起草に加わった九六年七月の総合大学設置法によって︑学部群
c o
r p
s d
e s
f a c
u l t e
s が大学
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に改称されたのであった︒すなわち高等教育の分野では︑第一帝制の時代に作
P r
a t
i q
u e
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s H
a u
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s E
t u
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s を設置(‑八六八年︶
られた構造が殆ど変化することなく存続していたのである︒第二帝制期の文相デュリュイが︑高等学術研究院
E c
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e
したのも︑既存の大学
f a c u
l t e
に教育改革を期待しえなかったか
らで
ある
︒
この事実︱つをとってみてもフランスの高等教育の立ち遅れは明白であるが︑以下の諸事実は︑
大学ができたのは︑
一八
九六
年七
月ま
で︑
フランスの高等教 フランスには言葉の
5 ‑ 4 ‑565 (香法'86)
な実験室をもたないありさまであった︒著名な自然科学者でさえ︑ に気晴らしを与えること︵公開講義︶︑学生に国家試験の準備をさせること︑学位を授与することの機能しか果たしていなかったのである︒ラヴィスが一八八
0
年にソルボンヌに招聘されたとき︑ソルボンヌには研究者を養成する制度( 2 3 )
一八七八年までソルボンヌには︑歴史学の講座は二つしかなかったのである︒このような劣悪な教育環 境のなかで︑ラヴィスやセーニョボスの活動は︑大学を真に教育研究機関たらしめる努力であったといいうる︒
グランド•ゼコール
ところでフランスの高等教育が衰退した原因でもあり結果でもあるのは︑高等専門学校の存在である︒フランスで
立︶やコレージュ・ド・フランス は︑学問研究は大学にではなくて高等専門学校に任されていたのである︒歴史研究も︑高等師範学校︵一七九五年創
︵一
五三
0
年創立︶︑古文書学院E c
o l
e d
es
Ch
a r
t e
s
(一八ニ︱年創立︶などで行な
われていたのである︒
高等師範の卒業生である︒
しかし第二帝制までの高等専門学校も︑大学同様︑劣悪な研究環境をよぎなくされていた︒パスツールすら︑満足
( 2 4 )
こんな状態であったのである︒歴史家の状況も推 察しうるであろう︒この研究環境から生みだされる歴史学は︑批判的歴史の研究からはほど遠いものであった︒高等
師範学校は歴史学の講座を二つしかもたなかったし︵文科系の講座は全部で一︱︱で︑そのうちの半数は文学の講座で は
なか
った
︒
このような事態は︑
分で
あり
︑
ので
ある
︒
フュステル・ド・クーランジュ︑ラヴィス︑ ソルボンヌとて例外ではなかった︒
セーニョボス︑
それにフェーヴルやブロックは皆︑
一八
七
0
年までのソルボンヌは︑退屈しきったブルジョア
リセの教授が学部の教授を兼任することも珍しくなかった︒
おいてよりドイツでよく研究されていたため︑
さまであった︒普仏戦争に勝利したのはドイツの大学であるというルナンの言葉は︑このような文脈から発せられた フランス語の歴史についてすら︑
フランス語を研究するためにはドイツ語を知る必要があるというあり
六 〇
フランスに
5 ‑4 ‑566 (香法'86)
たが︑この時期の歴史学にとってロマン主義の思潮は看過しえぬ重要性をもっている︒
四
既述のように︑一九世紀前半のフランスの歴史学は︑政治的・哲学的・文学的性格にその特色を求めることができ フュステルとラヴィス ある︶︑ドイツ的な歴史学方法論への敵意において他の教育機関に劣らなかった︒高等師範の教育は︑研究者の養成にではなくて︑教育者の育成に主力が注がれたのである︒またコレージュ・ド・フランスは正規の学生をもたなかったし︑そこの教授に就任することは︑過去の偉大な業績に対する論功行賞的意味しかなかった︒ンスは︑未来に向けての学問研究の発達を担う機関ではなかったのである︒これに比して古文書学院は︑古文書学や古文書保管方法︑史料批判などの歴史学の補助科学を教授したが︑中世の史料の分析が中心であり︑総合の努力はなされなかった︒しかも古文書学院は小規模な学校であり︑余りに専門的なカリキュラムゆえに︑その卒業生(二0
人︶は歴史家になるというより︑公文書保管人や司書になることが多かったのである︒従って︑ゼミナール制度や講師の制度が導入され︑歴史学の学術雑誌の刊行をみるまで︑フランスの高等教育機関( 2 5 )
は旧態依然たる状態にあったといいうる︒そこでは学生に客観的な歴史学が講義されることもなく︑
家も育たなかった︒ただしガブリエル・モノー︑アルフレッド・ランボー︑
'
ノ
コレージュ・ド・フラ
学年
ガストン・パリを擁する高等学術研究院 は例外であり︑歴史学の新しい時代を照らす微光であった︒第二帝制の末期に︑デュリュイ︑モノー︑ラヴィスらの 手で始められた歴史学の方法や歴史教育の近代化という課題は︑第三共和政に解決を委ねたのである︒第三共和政が
始まり︑ラヴィスやセーニョボスが歴史研究の道に踏みだす頃のアカデミズムの状況は︑以上のようなものであった︒
この状況こそが︑すなわち当時の政治の危機と歴史学の危機こそが︑歴史思想のパラダイム転換を促進したのである︒
フランスのロマン主義は︑ド いきおい︑歴史
5‑4 ‑567 (香法'86)
ための弁明﹄
のな
かで
︑
ロー
デル
は︑
歴史の基礎を築いたといってよい︒﹁ノルタルジアの歴史叙述と復古の歴史叙述﹂を内包するロマン主義史学は︑﹁啓
( 2 6 )
蒙主義と大革命が戦いまた斥けたところの過去﹂を︑すなわち﹁中世的なるもの﹂を氾濫させたのである︒このロマ ン主義史学が︑
さて
今日
︑
その後の中世史研究はもとより︑歴史研究全体の展開に影響を及ぽしたことは言うをまたない︒それ
ド・クーランジュ シスモンディ︑ラマルティーヌ︑オーギュスタン・ティエリ︑ギゾー︑
の歴史家の名を列挙するだけで十分であろう︒
この伝統を継承しつつも︑より客観的で科学的な歴史へと進んだのが︑第一世代の実証主義史家たるフュステル・
︵ 一
八 ︱
︱
‑
O │
︱八
八九
︶
であ
った
︒
かれは一八七
0
年に高等師範学校の講師となり︑七七年にソル 一時︑高等師範の校長を務めるほかは︑幽明境を異にするまでソルボンヌに勤務したのであ
フュステルはアナール学派から高い評価を得ている︒
マルク・ブロックを﹁第二のフュステル・ド・クーランジュ﹂と呼んでいるし︑ブロック自身︑﹃歴史の
( 2 7 )
フュステルをミシュレと同列において何度も讃えているのである︒それにアナールの母胎と
なった﹃歴史総合評論﹄
ド・クーランジュに好意的であった﹂し︑
またフュステルに批判的なセーニョボスも︑﹁どんな学者も彼ほどしばしば史学の方式をかたり︑それに適合するため
( 2 9 )
に努力をかたむけたものはいない﹂と︑科学的な歴史学を樹立するフュステルの努力を評価するのである︒このよう
にフュステルの歴史論は︑アナール史学からは絶讃され︑実証主義史学からも留保つきではあれ評価されるのである︒ る ︒ ボンヌに転出している︒ はシャトーブリアン︑
のな
かで
︑
イツのような哲学をもたなかったとしても︑
キネー︑ミシュレなど
アナール学派の第二世代を率いたフェルナン・ブ
アンリ・ベールも総合を重視したフュステルを讃え︑﹁本誌の精神はフュステル・
( 2 8 )
かれの末刊の草稿は﹁本誌の性格に合致する﹂と述べて草稿を掲載していた︒ ロマン主義史家はナショナリズムと結合することによって︑ 六
フランスに
5 ‑ 4 ‑568 (香法'86)
かわる科学こそが歴史学であったのである︒ いかなる点でかれの歴史観は︑アナール学派から共感をもって語られ︑
( 3 0 )
と位置づけられたのであろうか︒次にこれを検討しよう︒
第一
に︑
'
ノ
どの点で実証主義史学の成立に寄与するもの
かれの歴史の科学化への努力を指摘しうる︒科学的歴史といっても︑それは歴史法則の探求とか歴史の自
然科学化を意味しない︒あくまでも文献の分析から事実を引きだすという科学性である︒かれは先入見を排した方法
的懐疑や比較の方法こそが︑科学的方法であると主張する︒それには当然︑解決すべき問題を発見する柔軟な視点が
求められるのである︒われわれはこれらの主張のなかに︑アナールの比較史や問題史
l ' h i
s t o i
, pr e
ro
bl
em
という歴史e
把握の原点を見ることであろう︒またかれは︑過去と現在を峻別し︑あるがままの過去を理解せよと主張することで
ロマン主義史家と歩を一にするが︑主観的文学的歴史に反対して︑党派心をすて︑史料に基づく歴史を主張すること
でロマン主義史家を凌駕したのである︒﹁一日の総合のためには︑数年の分析が必要である﹂というかれの言葉は︑総
合のための史料の分析こそが科学であるというかれの歴史観の表明であろう︒セーニョボスも﹁文献の分析と解説﹂
という領域では︑
フュステルが﹁史学の一巨星﹂たることを承認するのである︒
第二に︑人間主義的な歴史認識である︒かれにとって歴史の対象は︑人間および人間社会であった︒しかも生活し︑
信仰し︑思考し︑意欲し︑行動する具体的な人間であった︒かれにとって人間生活における多様性・変化・持続にか
第三に︑全体性志向である︒かれは全体としての社会・全体としての文化を重視する︒従ってかれは個人に興味を
もたないし︑個々の行為や動機を説明せず︑偉人や大事件についても語らない︒﹃古代都市﹄(‑八六四年︶に見られ
るように︑ただアテナイ人やローマ人の一般的風貌や社会全般に共有される習慣だけを示そうとしたのである︒しか
し全体を通観するための︑細部に対する長い綿密な観察を決して忘れない︒歴史研究は単なる事実の編集ではなく︑
5‑4‑569 (香法'86)
帰国したラヴィスは︑ まず高等師範においてセーニョボスの師であり︑
事実と事実の間の関係こそが歴史であるというかれの捉え方のなかにも︑総合を重視するかれの歴史観を垣間みるこ とができる︒政治制度と宗教の関係を論じた﹃古代都市﹄は︑全体的歴史把握の好個の例であろう︒
フュステルを素朴実証主義の弊害から救ったのである︒モンテスキューの手法を意
以上のようなかれの歴史観が︑
識した﹃古代都市﹄
のな
かで
︑
もっともグーチも指摘し︑ かれが用いた方法︵家族・神話・儀式の比較等︶
は︑デュルケームにも影響を与えた し︑日常性や心性を重視する﹁新しい歴史﹂にかれが迎えられることにもなったのである︒
セーニョボスも批判するように︑
( 3 1 )
料批判の点で不十分さを免れてはいない︒﹃歴史と文学の批評誌
Re vu e c r i t i q u e d ' h i s t o i r e e t e d li t t e r a
t u r e ﹄
︵一
八六
六年創刊︶によって︑﹃古代都市﹄の参考文献の不十分さを指摘されたフュステルは︑一八六六年に︑﹁私はライン川
の近くに住んでいるが︑少くとも左岸に住んでいる︒⁝⁝私はフランス的方法で︑すなわち単純かつ明晰に執筆した
( 3 2 )
ドイツ的歴史学を拒否したのである︒
い﹂と応酬し︑
かくしてフュステルによって端緒が開かれた文書研究に基づく歴史の科学化という課題は︑
こされることになった︒ソルボンヌでフュステル教授︵中世史講座︶
師範学校においてフュステルの教え子の一人であったセーニョボスは︑先述の課題といかに取りくんだのであろうか︒
( 3 3 )
のちに協力者となったラヴィスから検討しよう︒ドイツ留学から
一八七六年に母校の高等師範の講師として迎えられ︑
ソルボンヌの近代史講座の教授となったかれは︑
いては独創的な業績を残してはいない︒
の助手を務めたエルネスト・ラヴィスや︑高等
八
0
年にソルボンヌに転じた︒八八年にドイツとフランスの近代史を専門としていたが︑歴史学方法論につ かれは学生には︑未解決の歴史問題を認識し科学的方法による解決をめざす よう鼓舞したが︑自らそのような研究をすることは余りなかった︒教え子のセーニョボスやラングロワは︑研究者と
一八
七
0
年以降にもちフュステルは厳密な文献考証をしたわけではなく︑史
六四
5 ‑ 4 ‑570 (香法'86)