投資信託証券の価値
その他のタイトル Value of Investment Trust Certificates
著者 今西 庄次郎
雑誌名 關西大學商學論集
巻 8
号 6
ページ 485‑505
発行年 1964‑02‑29
URL http://hdl.handle.net/10112/00021610
企業に対する自己資本証券の代表的なものが株式であること云うまでもない︒その価値︵投資価値︶の決まり方
については︑企業としてのよさ︑つまり実体資本の収益体としての価値によってきまるという収益力価値説︵企業
価値説︶︑実体資本の財産としての価値できまるという資産価値説等もあるが︑矢張り︑通説は実体資本の挙げた
利益の分配即ち配当を資本化してきまるという配当価値説である︒たゞ世間一般に行われる配当価値説は︑配当と
して実際配当を用いるとともに︑資本化歩合を会社株式毎に加減した大いさとするやり方である︒併し会社のやる
実際配当は随分政策的なものが多く︑それを基礎としての価値は信頼出来ないものとなり︑資本化歩合を実際配当
の確実さを考えて加減すれば︑価値の信頼性を回復するようであるが︑実際配当の不確実さに応じ幾許資本化歩合
を加減するが正しいかの決定が極めてむつかしく︑結局︑出来上る価値大いさは粗雑なものとなる︒更に︑資本化
歩合は株式に対する投資対価歩合たること云うまでもないが︑確実性を本質とする価値の立場に於てはそれは本来
凡ての株式を通じ同一たるべきであり︑従って株式によって変えるというやり方自体︑理論的でないと云われる︒
尚︑最近︑我国に於て株式利回り革命説なるものが唱えられ︑公社債や定期性預金の利回りより小なる対価歩合を
投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
序 論
投 資 信 託 証 券
の 価 値
今
西
庄
次
郎
486
R
註 ①投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
以て株式の資本化を行うことが行われんとしているが︑上と似た批判がなされる︒即ち株式からの収益が配当のほ
かに増資プレミムヤ益のあることを考えると︑配当だけなら公社債等より小なる対価歩合でよいようだが︑いくら
少くてよいか正しい大いさが決められないのみならず︑だいいち配当以外のプレミヤム益なるものは単に予想され
る収益たるに止まり確実性をもたず︑ このような投機的な収益を基としては価値評価は成立しないのだ︒結局︑株
式価値は配当価値説によって評価してよいとしても︑それは会社利益の株式に対する適正配当をその社会のその時
に於ける資本需給全体のうちで株式資本の需給関係によってきまる対価歩合を以て資本化する方法で与えられるべ
きである︒私はこれを適正配当価値説乃至配当力価値説と呼んでいるが︑これこそ株式価値を決定する最も正しい
方式だと考えている︒而してその適正配当とは︑会社の現在挙げている営業利益を会社の企業実力︵会社の営んで
いる事業の安定性︑会社の資本構成のよさ︑会社の生産性の三者の綜合できまる︶に応じた分相応な配当である︒
又資本化歩合は株式によって凡て等一であると共に︑それは株式資金の性質上︑当然︑公社債資金や定期性預金の
対価歩合よりも幾分大となっている︒
拙著﹁証券価値論﹂昭和三四年四六ー五一頁
図
な お
株 式
は 上
来 の
収 益
価 値
の ほ
か に
市 場
性 価
値 を
も つ
︒ つ
ま り
二 つ
の 価
値 が
複 合
し て
株 式
と し
て の
投 資
価 値
を 形
成 す
る ︒
け
れ ど
も 主
た る
価 値
は 収
益 価
値 で
あ る
の で
︑ こ
こ で
は 市
場 性
価 値
の 方
に は
触 れ
ぬ ︒
拙 著
﹁ 上 掲 書
﹂ 四 一 ー 四 四 頁
以上︑投資信託証券︑ 一般的に云って共同投資組織証券の価値を論ずるに先立ち株式の価値に就いて触れたのは
共同投資組織への出資も自己資本に該当するからである︒自己資本証券である以上︑価値のきまり方にも似た所が
ある筈だという考の下に︑自己資本証券の代表であり︑価値の決まり方についても既に研究されている株式を取上
も︑先ずオープン・エンド型から入ってもよいとなる︒ 券らしくないとしても︑
ま, '
資証券は株式であり︑ 果して真の証券であるか疑わしいのである︒共同投資組織が投資会社︑即ち株式会社形態をとっているときは︑出 げたというわけである︒処が︑共同投資組織への出資は自己資本たる形態だとはいえ︑それを表現している証券は
これは普通の事業会社の株式と等しく︑
エンド型の場合には︑ その株式は擬制資本を現す証券であるかややこしくなる︒共同投資組織が投資信託の形態を
とる場合には︑クローズド・エンド型︑オープン・エンド型を通じ︑本質的に証券と云われる証券であるか一層疑
間となるのである︒これらの点に就いては既に別の機会に一部触れたところであるが︵そこでは︑その故に共同投
資組織証券の価値や市場現象は一般の証券の価値論や市場論から別個に取上げてよいとしたのであるが︶︑今︑そ
れら証券の価値の決まり方が一般事業会社の株式のそれと特異なことが想定されるとすれば︑それは如何にしてき
まるかを論ずる必要があるわけである︒而してその究明であるが︑共同投資組織の諸間題の従来の取上げ順序とは
逆ながら︵従来は我国に行われているというところから投資信託の方を先に取上げて来た︶︑先ず投資会社株式そ
れもクローズド・エンド型の株式から始めるのが適当となる︒蓋し証券として普通の事業会社株式に殆んど似てい
るところから︑価値のきまり方も似ていると想定されるからである︒クローズド・エンド型投資会社株式に次いで
等しく表面上株式形態であるオープン・エンド型投資会社株式を取上げるべきである︒投資信託受益証券の
価値は更にそのあとで取上げるべきこと最早云う迄もないが︑投資信託受益証券そのものが証券らしからぬとすれ
ば︑その価値は︑クローズド・エンド型︑オープン・エンド型と分ち別々に取上げるまでもないとなる︒たゞオー
プン・エンド型は途中参加自由であるのに対し︑ クローズド・エンド型ではそれが出来ず︑この点から︑両者は証
クローズド・エンド型は一層然りとなる︒従って両者別々に取上げるまでもないとして
投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
一応証券とみてよい︒併し投資会社でもオープン・
ク ロ ー ズ ド
・ エ ン ド 型 投 資 会 社 株 式 の 価 値
前段に触れた如く︑クローズド・エンド型投資会社は︑営む事業は証券投資であり一般の事業会社に比べ特異で
るが︑企業組織としては共同投資組織のうちで最も一般の事業会社に似ている︒従ってその株式の価値のきまり方
も一般の事業会社の場合に多分に似ていることとなる︒既に知れる如く︑
その適正配当を株式一般対価歩合で資本化したものであるがゆえ、クローズド
•H ンド型投資会社株式の価値も基
本的には同様に適正配当が基礎となってきまるとなしてよい︒
処で︑こ
Aで間題となるのは︑共同投資組織の配当方針と適正配当との関係である︒吾人は嘗て共同投盗組織の
配当方針を述べ︑無期限に存在する投資組織を投資目的本位のものと投機兼投資目的のものとに分ち︑前者は配当
本位の方針をとりインカムとキャビタル・ゲインの全部をカ一杯配当してよく︑後者は配当本位の方針をとっても
よいが︑又一部をリザープする方針をとりキャビタル・ゲインの一部をリザープすることにしてもよいことを論じ
た︒投資会社組織は︑勿論︑無期限存在の共同投資組織であり︑それに投資目的本位のものと投機兼投資目的のも
とが存在するのも既定の事実である︒この場合︑その投資目的本位のものは利益を全部配当してよいとすれば︑適
正配当という観念は起り得ないということにもならんとするのだ︒蓋し適正配当は会社利益を全部配当に向けず︑
或る部分を留保するところに成立っ事態であるからである︒若し投資会社︑いまクローズド・エンド型投資会社株
式については適正配当の観念が起り得ないとすれば︑その株式の価値は適正配当を基とする一般会社株式の価値と
異った決まり方をすると想定されることになろうとする︒ ①拙稿﹁投資信託証券は果して証券であるか﹂
投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
本誌第六巻第二号
一般の会社株式の価値︵収益価値︶は︑
マ ー ニ ニ 頁
四
てねばならぬこと附吾する迄もない︒
一 ー ニ ニ 頁
五
然らば︑クローズド・エンド型投資会社株式については適正配当という観念は存立し得ないであろうか︒否︑投
資会社の場合にも矢張り適正配当は存立し得るとしなければならないのだ︒先に共同投資組織の配当方針について
述べた所では︑凡ゆる共同投資組織を一般的に取上げたのであり︑謂わば会社組織の特殊性を棚上げにしたのであ
る︒共同投資組織が投資信託の如く連営が投信委託会社に一切任かされているときは︑先に述べたことはそのまま
生きるが︵但し投資信託組織では無期限存在のはオープン・エンド型となり︑クローズド・エンド型は存在しな
い︶︑投資会社組織では会社としての基礎造りを考慮しなければならないのだ︒投資会社も会社である以上︑自己
の建物など物件が多少必要となる厄か︑特にスタッフの充実が必要となり︑これらに要する費用は勿論経費として
会社収支計算に入れられるとしても︑尚︑利益金から諸種の厚生的基金を設けることが有意義となるのである︒こ
のため利益に応じその一部を積立てねばならないとなる︒クローズド・エンド型投資会社のうち投機兼投資目的の
もので分配の変動を均らすため利益の一部をリザープする主義のものにありては︑別にこれを考慮した分をも積立
さて︑クローズド・エンド型投資会社の利益分配にも適正配当ということが考えられる︑否︑考えるべきだとし
て︑それが普通の事業会社の場合と相当に趣を異にすることは当然である︒先ず︑投資会社の場合︑一般的に利益
をリザープすべき額は普通の事業会社の場合に比べずっと少くてよい︒改めて云うまでもなく︑普通の事業会社に
ありては︑技術や生産性研究のための基金積立︑人材確保或は従業員厚生のための積立金など会社の基礎を強固に
する施設︑設計は広く又深きに入らねばならず︑おのずから利益のリザープは手厚くしなければならない︒従って 優良会社といえども利益の少くとも三
0ー四0バーセントを積立てる(つまり配当分は七0—六0バーセントとす投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
① 拙 稿 ﹁ 投 資 信 託 ︵ 証 券 共 同 投 資 組 織 ︶ の 配 当 政 策 ﹂
本誌第七咎第四号投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
る︶のが︑多くの国に於ける常例となっている︒処が︑投資会社にありては︑そのような根を張った基礎造りをな
す必要はなく︑延いて積立ては利益の少額でよく︑大体五
l‑0
パーセント見当でよい︵配当分は九
O I 九
五 ︒
ハ ー
セント︶となる︵これの妥当な具体的な大いさはその国に於ける投資会社事業の多年の経験によりおのずから与え
られるところである︶︒次に適正配当という以上︑投資会社の場合も会社の企業実力によって異らざるを得ない
が︑その相迩は普通の事業会社間ほどに甚しくない︒一般の事業会社の利益の適正配分をきめる企業実力は︑会社
の営んでいる事業の安定性︑会社の資本構成のよさ︑会社の設備や従業員の生産性の三者の綜合によって与えられ
るのに対し︑投資会社の場合は︑三つのファクターのうちの事業の安定性に該当するのは会社の運営目的となる
が︑これの利益分配への働きかけは別に取上げられるのであるがゆえ︑企業実力のファクターから省かれ︑資本構
成のよさと生産性の二つによって与えられることとなる︒然もその生産性は︑会社の投資述用スタッフの運用の上
手下手︵投資顧間を利用するときはその適当な顧間を選択する能力が加わる︶がそれとなり︑これは過去の運用実
績によってそのレベルを与えるべしとなるが︑事業会社の生産性の如く幾階級にも分つまでもなく︑上︑中︑下の
三階級に分ってよいところである︒資本構成の方は︑投資会社の積立金は会社によりそれ低ど開きがないであろう
から︵投資会社の多くは今日ノンレペレイジ
N o
n ,
L e
v e
r a
g e
が本則とされていることをも合わせ考えてよい︶︑投
資会社の企業実力の段階別は︑結局︑生産性を中心とし︑大体︑上︑中︑下となるわけである︒投資会社の適正配
当を決める企業実力はこのように比較的に単純であるのみならず︑更にそれが利益分配を規定する力も性質上それ
探どでない︒普通の事業会社の場合︑企業実力の利益分配を規定する力は相当なものであり︑企業実力の優れた会
プするが適当とせられるというふうである︒ 社では利益の七 0 パーセントを適正配当としてよいが︑それの劣った会社では三 0 パーセント︑時には全部リザー
これに対し︑投資会社の場合は︑投資目的本位で配当平均を行わない 六
投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
七
ものにつき︑或る国で︑平均︑利益の五パーセントリザープ︑九五パーセント配当が椋準とせられるというとき︑
企業実力上のものでニー三パーセント︑実力中のもので五パーセント︑実力下のもので七 ‑10 パーセントリザー
プすべしとなる位のところである︒
以上は投資会社株式の収益価値を決定する公式の分子たる適正配当について論じたのであるが︑価値論としては
公式の分母たる資本化歩合の事が残っている︒而してその資本化歩合たる対価歩合は︑投資会社株式も株式たる以
上︑それは公社債や定期性預金の対価歩合よりも或る程度大なるぺきこと当然である︒間題は︑それは普通の事業
会社の株式の対価歩合と如何なる関係に立つか︑つまり普通の株式の対価歩合と同じでよいか︑それより大なるべ
きか︑将た小なるべきかである︒然らばこれに対する答は如何︒一部の人々は︑その対価歩合を投資目的本位のも
のと投機兼投資目的のものとに分ち︑後者については普通の株式と同じ対価歩合となす一方︑前者については株式
よりも幾分小なる対価歩合を主張する︒前者につき普通の株式以下の対価歩合を主張する根攘として︑投資会社は
直接的な株式投資に於ける収益不確実性を解消せんとする仕組であり︑投廣会社であるからには或る程度以上それ
一般投資者としても︑普通の株式以下の対価歩合にて満足する筈である︑と彼等は は確実となっている筈であり︑
挙げる︒而して投機兼投資目的のものについては普通の株式並みとするのは︑これも直接株式投資以上に確実性を
期するも︑普通の株式よりも大きい対価を要求する結果︑確実性はそれ殷ど実現出来ず︑結局普通の株式並みとせ
ざるを得ないというのである︒併しこの見解に対し対立的な見解がないではない︒それは︑投資目的本位のものに
は普通の株式並みの対価歩合となす一方︑投機兼投資目的のものについては普通の株式以上の対価歩合を主張する
ものである︒この主張の根拠となる考は︑投資目的本位のものは普通の株式よりも収益の確実性を増すのは事実と
しても︑投資会社である以上︑投資者は少くとも普通の株式並みの収益を要求するがゆえ︑結局︑普通の株式並み
492
投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
の対価歩合とならざるを得ず︑ 一方投機兼投資目的のものは飽く迄普通の株式以上多い収益を追求する仕組であ
り︑勿論この多い利益追求のため確実性は或る程度犠牲にせざるを得ないが︑それも最低普通の株式並みに止める
ところで︑結局普通の株式に比べ或る程度多い収益要請が残り︑延いてそれだけ高い対価歩合が至当となるという
の で
あ る
︒
思 う
に ︑
これら二つの見解は何れも一理があるが︑又難点もある︒先ず投資会社株式の対価歩合を投資目的本位
のものと投機兼投資目的のものとに分つことは正当である︒而して投資目的本位のものの対価歩合は︑普通の株式
投資の楊合より幾分小となすべきで︑この点第一の見解の方が正しい︒第二の見解では︑投資目的本位の投資会社
組織も直接株式投資よりも大なる収益を要求するがゆえ︑対価歩合は普通の株式の場合より大でなければならぬと
なすのは︑虫がよ過ぎると云わねばならない︒直接株式投資よりも収益の確実性を増すからには︑投資者として少
い対価で満足してよい筈である︒これに対し︑投機兼投資目的の投資会社株式の対価歩合は︑第二の見解の如く一
般の株式対価歩合より幾分大となすが正しい︒第一の見解では︑投機兼投資目的のものは︑収益の確実性を期する
も大きい収益要求のためそれが犠牲となることを取上げるのであるが︑卑しくも投資会社組織である以上︑収益の
確実性を犠牲にするといっても一般の株式投資以下とすることはあり得ず︑ つまり最も悪くても普通の株式投資並
みの確実性をかち得る筈であり︑収益の大を相殺することとはならないのである︒従ってその対価歩合を直接株式
投資の場合よりも幾分大とすることは正しいとなさざるを得ないのである︒
上に投資目的本位の投資会社株式の対価歩合は一般株式の場合よりも幾分小とすべく︑又投機兼資投目的のもの
は幾分大にするが正しいことを述べたが︑尚その幾分小とし又大とすべき大いさは如何低どであり︑
して把握すべきかが問題として残る︒勿論このより小︑又より大の度合は狸論的に与えられるものでなく︑
八
それは如何に
その国
の証券共同投資組織の発達とともにおのずから社会的に標準とする所が生まれるのであり︑それを把握すればよい
のである︒ただ︑現実の問題として︑共同投資組織の発達が末だ不充分な国では︑普通の株式に比ぺより小なる又
大なる大いさははっきりせず︑把握は容易でない︒更に︑困難な事態となるのは︑共同投資組織の未発達の国で
は︑その運営が投資目的本位のものか︑投機兼投資目的のものか︑旗織を明瞭にしないものが多いことである︒我
国など︵我国は投資会社組織でなく︑投資信託組織であるが︶その著しい例である︒斯かる国に於ては︑結局︑証
券共同組織の運営が明瞭に分化しないものとして︑その対価歩合はその国の株式一般対価歩合と同等となすの外な
しと云わねばならない︒蓋し一面に於ては株式直接投資よりも或る程度確実性を増す筈であるので普通の株式の場
合より対価歩合を小にしてもよいが︑他面より多い収益を要求するものとして普通の株式場合より歩合を大にすべ
しとなるがゆえ︑双方相殺して一般株式並みとなるとみられるからである︒
投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
オ ー プ ン
・ エ ン ド 型 投 資 会 社 株 式 の 価 値
九
オープン・エンド型投資会社も多数の投資者が資金を出し合うて証券投資をなすのに法人格をもつ組織︑即ち株
式会社をつくっているものである︒それが株式会社組織をとるのは存在を恒久的となすがためであり︑従ってここ
でも全体の運用財産は出資者以外の会社の所有とせられるとともに︑投資者のためそれに対する主張権としての投
資分が存在することとなる︒そしてその投資分が他人に移転し得るものとなっていることは︑クローズド・エンド
型投資会社の場合と変わりはない︒併しこれは株式会社組織となっている点だけをみた話であって︑それにはオー
プン・エンド型に基づく性情が加わることになるのだ︒つまり投資者は自己の出資を何時にても会社に向って売渡
すことが出来る一方︑新規投資者は何時にても会社から買入れることが出来ることとなっているのである︒いま︑
投 資
信 此
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
この機構を︑会社が投資者の売渡す投資分を一時手持ちし︵勿論法律上会社が自社株式の所有を認められているこ
とが前提となっている︶︑やがて新しい投資者にそれを転光するものとなすことも出来る︒この場合︑投資会社は
一種の証券業者みたいな立場に立つわけである︒オープン・エンド型の機構をこのように働かす場合︑若し買入れ
と転売の間に時日がかかるならば︑買入価格と転売価格の間に差額を生ずることがあり︑投資会社は投機的危険を
負担することとなるわけである︒会社がこの危険を回避せんとすれば︑投資者の申出でに応じ買取った分に見合う
だけ︑実体資本︑つまり運用財産を処分し︑同時に会社資本を減らすことを行うぺしとなる︒オープン・エンド型
の機構をこのように運用することは︑前の投資分移転媒介のやり方が投機的危険があるので回避するということを
別にしても︑立派に︱つのゆき方として成立つところである︒
オープン・エンド型投資会社のオープン・エンドという資本機構には二つのゆき方のあることを述ぺたが︑彼が
二つのゆき方の何れをとるかは︑彼の株式の性格に根本的な相違を齋すことを知らねばならない︒投資会社が移転
希望の株主から株式を一時買取りそれを新しい投資者に転売するやり方の下では︑実体資本には影響はなく︑それ
は崩し得ない︱つの財産の碗たるを続け︑その代わりそれに対する主張権の一部としての投資分が成立し︑然もこ
の投資分は第三者への移転が可能となっている︒ただ第三者への移転は投資者たる株主が直接に市場を通じて売る
のでなく︑投資会社を通ずるのである︒併しその株式は移転し得る投資分としての擬制資本を表現するものたるを
失わず︑一般の事業会社の株式とーークローズド・エンド型投資会社の株式とも
1異る所はない︒これに対し︑
投資会社が買入れた株式に対応する連用財産を処分し会社資本を消却するやり方の下では︑会社の株式は本来の株
式であるか疑問となる︒いま更繰返すまでしなく︑株式は擬制資本︵自己資本たる擬制資本︶を表現するものであ
り︑擬制資本は実体資本︑即ち法人格の下に置かれ投資者が自由に回収の出来ない運用財産の存在を前提とする︒
1 0
註 ①
然るに︑右のやり方では株式全体の出資が︱つに融合した財産の碗となっていないこととなる︒それは株主即ち投 資者が自己の資金を個々バラ/\に投資していては効率ある運用が出来ないので︑互に集合さす︑つまり手をつな いでいるだけで︑都合によっては何時でも自分の分を取返し得るという仕組となっているに過ぎない︒勿論︑そこ には︑投資者の出資が自由に取返し得ない︱つの運用財産の碗となったがため各投資者はそれに対する主張権を存 在ささねばななぬという意味と余地はない︒結局︑彼等の株式は︑出資に基づく主張権︑即ち投資分を表現するも
それぞれ自己の運用財産即ち実体資本の一部をそのまま表現しているものとなる︒
のとしての本来の株式でなく︑
拙著「前掲書」二四—ー三三頁
オープン・エンド型投資会社の資本機構が第二の行き方をとるときは︑投資者の出資財産は融合した一体をなさず投資者各
個の資産の集合となるに過ぎないとすれば︑その集合財産を別個の独立した人格︵法人格︶の所有とする必要はなく︑又そ
のようなことをすれば投資者各個の資産は更に所有者をつくることとなり︑不自然︑不当である︒然らばオープン・エンド
型投資会社は会社組織をとる必要︑余地はないとなるのであろうか︒これは必ずしもそうでない︒蓋しその行き方に於て
は︑投資者は欲するま4に自己の出資を回収し得るとしても︑それが一斉に行われることは考えられず︑更に新規加入者も
あるので︑常に彼等の財産集団は存在することとなり︑こ4に多数の投資者に代わり彼等の財産を保管する番人が必要とな
るからである︒進んで云えば︑オープン・エンド型投資会社が会社組織とされるのはこの番人を独立の人格者としたものに
外ならず︑普通の会社ー̲'クローズド・エンド型の投資会社もーに於て財産の所有者として法人格がつくられるのと大い
にコントラストをなすのである︒尚︑オープン・エンド型投資会社に於けるこの番人たる法人│ー勿論これは投資者が選ん
だ者がその機関となるーが同時に財産の運用という仕事を営むことは︑附言する迄もないと思う︒
上来︑吾々が改めてオープン・エンド型投資会社株式の性格を吟味したのは︑勿論その性格の如何によって価値 のきまり方が異るからである︒若し彼の資本機構が第一の行き方をとるのであれば︑その投資会社株式は完全な株 式であるので適正配当を資本化した収益価値によってきまることとなる︒蓋し一般に株式の価値は適正配当を資本
投資信託証券の価値︵今西︶
496
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信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
化した大いさによってきまるからである。併し若し彼の資本機構が第二の行き方をとるのであれば、既述の如く~
制資本は成立せず︑その株式は擬制資本を表現する真の株式でなく︵従って株式と称するのは本来適わしくないと
も云われる︶︑会社の下に置かれた連用財産そのものの一部を代表するものとなるがゆえ︑その価値は連用財産の
価値によってきまることとなる︒連用財産の価値といえば︑それが収益的に活動するよさ︑即ち収益力を資本化し
た価値か︑運用財産の資産としての価値︑即ち資産価値となる︒換言すれば第二の行き方の場合には投資会社株式
の価値は収益力価値か資産価値を以て評価すぺしとなるところである︒
これまで述ぺたところにより︑オープン・エンド型投資会社株式の評価においては︑そのオープン・エンド型の
資本機構が如何なる行き方をするかが根本問題となり︑先ずこれを確定するが出発点となることが知られたと思
う︒処が︑実際問題として︑投資会社の中にはその何れかの行き方を厳しく守るものもあれ︑多くのものは両者を
折衷した行き方をとらんとするのである︒投資会社が株式の移転を仲介する行き方をとらんとしても︑一時に多量
の売却申出でがあるときは手持ちが危険︑困難となり︑一部分を運用財産売却によって消却するのを無難とし︑又
一 方
︑
一々運用財産を売却して株式を梢却する行き方をとらんとしても︑間もなく新しい買手即ち投資参加者が現
れるときは取敢えず買収り手持している株式をそのまま売渡せば事は簡単となるからである︒斯して︑オープン・
エンド型投資会社株式は既述の二つの性格を併せもっとみてよいとなり︑延いてその価値も︑適正配当を資本化し
た収益価値と運用財産の該当分の価値が並行的に存立することとなる︒二つの価値を並行的にもつとは何れの価値
を以て評価してもよいということである︒処で︑速用財産の価値の方は︑先に述べた如く︑収益体としての収益力
価値か純資産としての資産価値の何れかによってみられるのである︒一体︑適正配当を資本化した配当力価値と実
体資本の収益力を資本化した収益力価値とは︑必ずしも同じ大いさになるとは限らないとしても︑共に資本価値で
て脱退は少く︑ あり価値としては同性質に属する︒従って︑オープン・エンド型投資会社株式には配当力価値と運用財産の収益力
それは配当力価値又は収益力価値と資産価値が競行するとなして大過がな く︑然もオープン・エンド型投資会社株式の証券性を多く取上げるならば︑強いて配当力価値又は収益力価値とす るに及ばず︑それを配当力価値のみとなして十分差支えなしとなるところである︒
以上︑オープン・エンド型投資会社株式については配当力価値と資産価値が荘行的に存立する︒配当力価値の算 出は前のクローズド・エンド型投資会社株式について述べた所が殆んどそのまま当てはまる︒又資産価値の方は会 社の時価による純資産額を総株式数で除した価額が一株当りのそれとなること云うまでもない︒何よりはっきりさ さねばならないのは︑両種の価値が並行的に存立する点である︒前にも一言した如く︑並行的とは何れの価値を以 て評価してもよいことであるが︑何れを以て評価してよいというのにも種々なやり方が考えられる︒単純なのは︑
配当力価値か資産価値の何れか一本で凡ての場合を通じ評価するやり方である︒併しこれらには何れも特徴がある 一面︑難点がないでもない︒例えば資産価値のみを用いるときは︑実質上収益価値が資産価値より大なる場合には 新規加人を進め脱退を少くする作用を発揮するも︑収益価値が資産価値より小なる場合には加入が少く脱退を多く する作用を伴うこととなる︒これに対し収益価値のみを用いるときは︑実質上それが資産価値より大なる場合には 脱退分に資産価値以上を支払うため残存者が不満を感じ︑又それが資産価値より小なる楊合には新規加入を妨げな い作用はあるも運営者の無能を公然と表明することとなる︒斯くて︑考えられるのは︑姿産価値と配当力価値を組 合わせて川いる方式である︒例えば配当力価値と資産価値をそれぞれ算定し︑より小なる方を用いるやり方であ る︒このやり方の特徴は︑配当力価値が資産価値より大なるとき資産価値を採用するがゆえ︑新規加入が剌戟され
一方配当力価値が資産価値より小なるとき配当力価値を用いるがゆえ︑新規加入は妨げられず脱退
投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
価値か資産価値が並行するというも︑
四
投 資
信 .
此 証
券 の
価 値
︵ 今
西 ︶
も増えず︑結局投貨会社の規模が維持︑拡大される作用を発揮する︒たゞこのやり方では配当力価値が資産価値よ
り小なるとき︵運用の拙劣に基づくこと云うまでもない︶︑配当力価値を以てするため脱退者に拙い運用を与えた
上に更に資産価値以下の脱退を強いることになり︑謂わば踏んだり蹴ったりの感じを与える弱点を伴う︒吾々とし
て最も妥当だと思うのは︑配当力価値と資産価値の並用を︑新規加入については配当力価値︑脱退分については資
産価値を用いるやり方である︒このやり方では︑上記︑配当力価値が資産価値より小なるとき︑脱退がより小なる
資産価値を以てせられる不利は改善せられる︒尤も資産価値での脱退が認められると脱退が増え投資会社の規模が
縮少する危険がありそうに思われるが︑一方に新規加入は資産価値以下の配当力価値とせられ加入が進められるの
でその危険は少い︒たゞ迩営が拙く資産価値以下の配当力価値を発表することは︑自ら運営の拙劣なことを公表す
るがようになるが︑これは已むを得ないとしなければならない︵成績の良くない事業会社の株価が額面以下となる
のと同じように見ればよい︶︒
オ ー プ ン
・ エ ン ド 型 投 資 信 託 受 益 証 券 の 価 値
序論で︑投資信託受益証券はオープン・エンド型︑クローズド・エンド型とも︑証券らしくないので︑それらの
価値については両者を別々に取上げるまでもないことを述べた︒いま︑投資信託受益証券は何故証券らしくなくな
るのであろうか︒この決め手となるのは︑投資信託に於ては投資者の出資が真に融合した財産集団とならない所で
ある︒改めて云うまでもなく︑投資信託制は多数の投資者が資金を出し合うて投資組織を形成するが出資者と別個
の法律上の人格を作って財産をこの者の所有とせず︑たゞ運用者︵投信委託業者︶の斡旋で実質的には投資財産の
番人である信託会社を名儀だけの所有者とする仕組である︒而してオープン・エンド型は勿論︑クローズド・エン
一 四
ド型にありても︑投資者は何時でも投資組織から脱退し得るとせられるのであるがゆえ︑彼等の投資財産は単に集 合体をなしているだけで︑融合体としての財産集団とはなっていないわけである︒従って︑
であ
る︒
し別個の人格の所有となっているため︑代わりに投資者としてもつことになる財産集団に対する主張権︑即ち投資 分は存立しないのである︒投資分が存立しない以上︑その移転し得るものとしての擬制資本の存立しないこと勿論
このように︑投信受益証券の表現するものは投資財産そのものの一部であって擬制資本でないにおいて︑
四ー—一四頁 上来︑投資信託に於ては擬制資本が存立しないことを︑投資分が成立しないことから説明した︒併し投資分という概念は︑財産集団に対する部分的主張権という直接財産集団以外のものに用いられる牡か︑直接︑財産集団全体の部分を指すものとして用いられないではない︒投資分を後者のように用いるならば︑投資信託にも投資分は存立することとなるが︑然もこの投資信託の投資分は流通移転性を欠いているがゆえ擬制資本とはならない︒吾人が嘗て投資信託構造論でそれの証券性を否定するに当りこの考に立ったこと︑記憶せられると思う︒併し今︑投信受益証券の価値を明かにするためには︑一層徹底した前者の見解をとる方が合理的となるので︑それに従うた次第である︒①拙稿﹁投資信託証券は果して証券であるか﹂本誌︑第六巻第二号 慮で︑序論では︑投資信託受益証券の価値論はオープン・エンド型︑
いが矢張りオープン・エンド型から取上げた方がよい︑それはオープン・エンド型では途中の新規加入を認めるの で幾分証券らしくなるからであると述べたが︑その事情は如何であろうか︒つまりオープン・エンド型の途中加入 の自由はどうして幾分証券らしくするのであろうか︒これはオープン・エンド型投資会社株式について述ぺたとこ ろと殆ど似ている︒要言すれば︑投信委託業者が脱退せんとする者から受益証券を買取るとき︑直ちにそれに見合 う資産を投資財産から消却する!ーー投資財産を処分して脱退受益証券を買戻す
I
ことをなさず︑註
投資信庇証券の価値︵今西︶ それは真の証券でないとなるのである︒
一 五
そこには︑融合体をな クローズド・エンド型と区別するまでもな
一時自己の手許
投資
信託
証券
の価
値︵
今西
︶
資金で買取って謹き︑後に新規加入者にそれを販売することが行われるからである︒この限りに於ては︑投資財廂
は集団のままで︑恰もそれに対する部分的な主張権が委託会社を通じ流通移転した事態となるわけである︒
こAで想起してよいのは︑前のオープン・エンド型投資会社株式の性格論に於て︑オープン・エンド型投資会社
は形態は会社組織であるが実質は組合組織に近く︑
性格をももつと述べたことである︒オープン・エンド型の両者を較べた場合︑確かにオープン・エンド型の共同投
資組織は投資信託制を採るも投資会社制をとるも︑根本は同じものとなることに気付く︒併しオープン・エンド型
の共同投資組織は投資信託でも投資会社でも根本的には同じで︑
ない性格をもつとしても︑両者全く同じとまでなせば又過ぎていると云わざるを得ないのだ︒蓋し投資会社は形式
上︑つまり主たる部分は法人格をもった財産集団であり︑
し︑投災信託は形式上︑
幽集団であり︑ その株式は実質的な証券たる株式であると共に︑又証券でない
それらの株式︑受益征券は証券たる性格と証券で
その株式も証券たる性格の方が前而に押出されるのに対
つまり主たる部分は法人格をもたない︵番人たる信託会社が所有者とはなっているが︶財
その受益証券は証券でない性格の方が前面に押出されるからである︒斯くて︑オープン・エンド型
投資会社株式の価値が︑株式たる点に於ける適正配当価値と実体資本を表現する点に於ける資産価値又は収益力価
値が並行するも︑適正配当価値は収益力価値を吸収してしまい︑結局︑適正配当価値と資産価値の並行となったの
に対し︑オープン・エンド型投信受益証券の価値は︑殆どそれが表現している実質資本の資産価値又は収益力価値
となるのである︒
浚産価値の計算方法は比較的簡単であり︑詳しく述べるまでもない︒
した資本価値である︒ これに対し収益力価値の計郷方法は稲々複
雑である︒云うまでもなく︑収益力価値は投資組織の収益力を評価するのであり︑収益力を甚準対価歩合で資本化
これにありては︑先ず収益力を如何にして把握するかであるが︑現在に至るまでの一カ年純
一 六
一 七
益を用いるべきである︒収益力という以上︑恒常的な収益をみるべきで︑最近の或る期間の利益だけでは恒常性が
欠けることになるのは事実である︒併し投資信託では︑挙げた利益は殆ど分配する立前のものであり︑その意味で
つまり利益の恒常性を求める必要はない︒殊に我国などで事業会社の決算期間は半 それほど長期間に亘ってみる︑
カ年制が多く︑いま投資信託が過去一カ年の利益を取上げることは必ずしも最近のみに偏した収益状態とも云えな
こ れ は オ ー プ
いのである︒収益力の把握は上の如くとして︑次にそれを資本化する基準的な対価歩合であるが︑
ン・エンド型投資信託の運用目的が投資本位であるか投機兼投資であるかにより︑当然異らざるを得ない︒その理
由はクローズド・エンド型投資会社株式の配当力価値算出の際の資本化歩合について述べたのと︑全く同じであ
る︒而してその大いさであるが︑これもクローズド・エンド型投資会社株式の配当力価値の算出の場合の対価歩合
と同じとなしてよい︒即ち投資本位の投信受益証券の価値の場合は株式一般対価歩合より幾分小なる大いさ︑投機
兼投資目的の投信受益証券の価値の場合は同じく株式一般対価歩合より幾分大なる大いさとすべきである︒これら
の具体的な数字はそれぞれの国について把握すべきこと勿論である︒尚︑その国のオープン・エンド型投資信託の
発達が不充分で︑投資目的本位のものと投機兼投資目的のものとの分化がはっきりしない場合の対価歩合はどうす
ペきかが問題となるが︑この場合はその国の株式一般対価歩合を用いてよいとなる︒この理由も既にクローズド・
エンド型投資会社株式の価値論に於て述た所がそのまま当てはまる︒ ォープン•エンド型投資信託受益証券の価値決定につき、最後に残されているのは、それは実体資本の収益力価
値又は資産価値で定まるという︑その二者を如何に採用するかである︒この問題が元来重要なことは云うまでもな
い︒併し今吾々としては多く述べる必要はない︒蓋しオープン・エンド型投資会社株式の価値決定に於て︑並行す
る配当力価値と資産価値の二者を如何に採用すべきかとして述ぺた所が殆ど通用するからである︒要言すれば︑収
投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
クローズド・エンド型では︑
投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
益力価値又は資産価値の何れかを以て評価することも許されるが︑吾人としては新規加入の分については収益力価
値を︑又脱退分については資産価値を採用するのが最も妥当と考えるものである︒
ク ロ ー ズ ド
・ エ ン ド 型 投 資 信 託 受 益 証 券 の 価 値
クローズド・エンド型投資信託と云っても途中からの参加を認めないだけで︑解約脱退の途は残されており︑そ
の意味ではセミ・クローズド・エンドであること︑又それは性質上有期限の組織であることは︵我国では通称ユニ
ット型︶︑最早周知のところと思う︒而してこのクローズド・エンド型投資信託の受益証券が︑その組合的な投資
組織から証券たる性質を欠くことは︑既に前のオープン・エンド型投信受益証券の所で詳説した︒オープン・エン
ド型に於ては証券らしくなる場合もあったが︑このクローズド・エンド型では途中の新規参加を認めないがゆえ︑
又はとは二種の価値が並行的に存立し得ること︑ そのような事態は全く現れない︒従って︑その受益証券は証券という名称で呼ばれるが︑擬制資本を表現する真の 証券でなく︑実体資本︑即ち投資組織の投資財産の一部分を表現するものたるに過ぎない︒延いて︑その価値もそ の実体資本の価値︑つまりその資産価値又は収益力価値となるところである︒
前のオープン・エンド型投資信託受益証券の価値も︑実体資本の資産価値又は収益力価値によって決まり︑その
つまり資産価値一本で評価してもよく︑収益力価値一本で評価し
てもよいが︑両種の価値を組合わして評価してもよいというのであった︒組合わして評価するやり方には色々あり
得るが︑吾人は新規加入には収益力価値︑脱退には資産価値を採用するのが最も適当であるとなした︒今︑クロー
ズド・エンド型では途中の新規参加はないのであるがゆえ︑上の吾人の主張のような評価はあり得ない︒然らば︑
﹁又は﹂は資産価値一本の評価か︑収益力価値一本の評価となしてよいのであろう 五
八
503
一 九
この点につき何より考えねばならないのは︑クローズド・エンド型投資信託︑延いてその受益証券が有期限的存
在であることである︒これから出てくる問題は︑収益力価値が生きるかである︒収益力価値は資本価値の一種であ り、資本価値なるものは収益を基準対価歩合で資本化したものであるが、この資本化という手続は、収益ー—大い さそのものは勿論変化するがー~が一応将来に亘り繰返されるという前提に立ったものである。従って存在が有期
限︑殊に短期である低どその事は行い難いのだ︒然らばクローズド・エンド型投信受益証券については収益力価値
は成立せず︑それは結局資産価値一本を以て評価すべきことになるのであろうかというに︑これ又必ずしも納得出
来ないところが残るのだ︒既に知れる如く︑クローズド・エンド型投資信託は殆ど投機兼投資目的を立前とする︒
これによりその受益証券は運用者の投資エキスパートとしての手腕にかかり︑その意味で収益力価値が大いに物を
云うことになるからである︒但し存在期間が限られているのでその収益力価値の発揮は伸び伸びとは行われない︒
それにしても︑クローズド・エンド型投資信託受益証券は︑矢張り資産価値と収益力価値とを組合わして評価する
のが妥当となるのである︒
既に知られるところと思うが︑公社債の価値は︑その確定的な支払利子を発行者の格に相当する対価歩合で資本
化した収益価値が基本となるも︑償還期限をもつ有期限的存在であるので償還価額という資産価値も働き︑前者に
これが加味されて決まるのである︒クローズド・エンド型投信受益証券は資産価値と収益力価値を組合わして評価
するのが妥当だと云えば︑公社債の価値に似ているように思わすが︑両者の間には矢張り相当な開きが存在する︒
蓋し公社債にありては収益価値たる資本価値が基本となり資産価値がそれに加味される︵但し償還時に近附くに従
い資産価値の割合が大となる︶形であるのに対し︑クローズド・エンド型投信受益証券に於ては資産価値が基本と ̀ ,
0
ヵ
投 資
信 託
証 券
の 価
値 ︵
今 西
︶
504
減し︑六カ月以上一カ年以内には一0
パーセント︑決めるべきことを明かにしたが︑
①拙著﹁前掲書﹂
六六ーー七
0
頁 投資信託証券の価値︵今西︶なりそれに収益力価値が加味される形となるからである︒このような開きは︑公社債が立派な証券であるのに対し 受益証券は証券でない所から来ることは︑最早想知されるであろう︒
以上
︑ クローズド・エンド型投信受益証券の価値は実体資本の資産価値を基本としそれに収益力価値を加味して
一体その加味は如何になすべきであろうか︒まず収益力価値の算定であるが︑
こ
れは最近一カ年の収益をその国の株式一般対価歩合より梢々大きい歩合︵勿論具体的な大いさは各国それぞれ多年 の経験により社会的に与えられる︶で資本化して求むべきこと云うまでもない︒而してこの収益力価値の大いさが 資産価値より大なるときは︑
そのより大なる程度に応じ︑又残存期間の長短を考磁しつつ資産価値にプラスし︑一方 収益力価値の大いさが資産価値より小なるときは︑
そのより小なる程度に応じ︑又残存期問の長短を考慮しつつ資 産価値からマイナスする︒例えば償還期限まで一カ月以上六カ月以内では両者差額の五パーセントを資産価値に加
一カ年以上ニカ年以内では一五パーセント︑ニカ年以上では二
0
パーセント加減するというふうである︒問題は残存期間の長短による加減の割合と加減額の最大限の決定にある が︑この仕事の容易でないことは明かである︒それらの大いさは演繹的に決定されるものでなく︑当該社会に於け る多年の経験から割出されて定与されるところとなっている︒この点︑我国の如く投資信託の経験の浅い国では︑
その合理的な大いさを掘むことは容易でないと云われるであろう︒ただ︑現在我国では︑クローズド・エンド型投 信受益証券の評価は資産価値一本を以てなしているようだが︑
これは右の合理的な大いさを掘むことの困難からそ うしているというよりも︑其の種受益証券の正しい評価方法を知らないところから来ていると見るの外がない︒そ うだとすれば︑受益証券評価の正しい知識を養うことが先決となるが︑進んで右の合理的な大いさを獲得するため
二
0
投資信託証券の価値︵今西︶ あとがき 投資信託証券の価値については収益分配に対する課税のことを取入れて完壁となるが︑小稿では課税による影響は[
切触れないことにした︒
関係者一同の協力も大いに望まれるところである︒