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投資信託証券は果して証券であるか

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(1)

投資信託証券は果して証券であるか

その他のタイトル Are Investment Trust Certificates true Securities ?

著者 今西 庄次郎

雑誌名 關西大學商學論集

巻 6

号 2

ページ 91‑112

発行年 1961‑06‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00021692

(2)

投資信託証券は果して証券であるか

西

一般的に云って証券共同投資組織においては︑投資参加者に証券が発行される︒若しこの証券が

真に証券であるならば︑証券価値論に於てはその価値のきまり方を︑又証券市場論に於てはその流通の現象を取上

げねばならない筈である︒私は既に証券価値論︑及び証券市場論を著作しているが︑その何れに於ても証券共同投

資証券には触れていない︒従って私の著書は何れも欠けているとみられないこともない︒併し私は証券共同投資証

券は証券として完全なものでないとみるものであり︑その故に敢えて夫々に於て取上げなかったのである︒然らば︑

それらは一体如何に証券として完全でないか︑本稿はその点に関する私の見解である︒

証券資本主義が発展すると多数の投資者が共同して証券投資をなそうとする組織が社会に発生する︒勿論︑証券

投資信託証券は果して証券であるか

今 西 庄 次 郎

(3)

92 

資本主義が非常に進んでいるのにそれほど成立しない社会もあれば︑それほど進んでいないのに早くも成立すると

いうような遅速の差や︑投資組織の形態そのものに趣の相違の生ずることは︑已むを得ない︒

うな共同投資組織が成立するかの事情は︑別の機会に譲ることにするが︑組織の生成は必然的と云ってよいところ

この証券共同投資組織を世間︑特に我国では一般に証券投資信託と呼んでいる︒つまり証券投資信託と証券共同

投資とは殆んど同意義として理解されている︒併し私はこの証券共同投資組織を証券投資信託と呼ぶことは当を得

一体︑世人が共同投資組織を投資信託と呼ぶのは︑大衆が証券投資をニキスパートに委託し投資の利益を確保せ

( 1 )  

んとする点を捉え︑それは信託制度の精神に立脚していると解するところにある︒この認識は必ずしも誤りとは云

えない︒けれどもこの命名では証券の共同投資という組織の最大の特色が表現されていない︒投資の信託には個人

がその証券投資を=キスパートに信託することもあり︑これも立派に投資信託である︒投資のニキス︒ハート機関が

各個人から別々に投資の信託に応ずるような制度も充分に考え得る︒併し︑いま一番大切なのは︑共同投資という

点にある︒つまり多数の投資者から資金を集め大量の資金となして投資するのである︒証券共同投資についてはこ

の特色を表現するように命名するが妥当なのである︒この意味で︑私は証券共同投資組織は共同投資組織と呼ぶべ

きだと主張するものである︒尚︑私の主張からは︑本論文の表題も共同投資組織証券と書くべきであるが︑それを

敢えて投資信託証券としたのは︑世人︑特に我国に於ては投資信託という言葉が深く染み込んでおり︑

同投資証券と云ってもよく理解されない恐れがありそうなので︑仮りに使用したものに過ぎない︒ ていないと考えるものである︒

投資信託証券は果して証券であるか

西

いきなり共 一体何が故にこのよ

(4)

投資信託証券ほ果して証券であるか︵今西︶

ない投資会社のあることをも考えているのである︒

(1

) 江口行雄氏﹁投資信託の意義︑類型﹂証券ハソド・ブック昭和三四年六一︱︱︱︱︱ー六︳︱‑八頁 さて証券共同投資組織はその組織の上から二つの形態に分たれる︒︱つは会社組織のものであり︑

他は組合組織

会社組織の共同投資とは︑多数の投資者が株式会社を設立し会社事業として証券投資を行うものであり︑勿論︑

組織は法律上独立の人格︑即ち法人格を有し︑経営担当者︑即ち取締役会が運営指揮を行う仕組である︒この仕組 に於て大衆投資者が株主となるのは︑直接に証券投資をやるよりも専門家に任かす方が得策という考に出ることは 確かだが︑取締役会が投資運営をやるのは彼等の代表として行うものである︒従ってそこには信託制度はーー間接

的︑漠然たる意味では兎も角

l

直接には働いていないのである︒株主と取締役の関係を信託というならば︑

の事業会社の場合も︑事業経営を信託していると云わねばならなくなり︑勿論これは通念に反する︒尤も︑今日︑

アメリカなどの例をみると︑取締役が自ら会社事業たる証券投資の管理︑運営をやるとは限らず︑専門の投資顧問

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r に委任して行わすことが少くない︒併し投資会社の本来のあり方は︑飽く迄︑取締役会が自 ら管理運営をやるところにありというべきである︒又︑仮令そのように投資顧問に委任するにしても︑最高の指揮

権が彼等にあることは確かである︒

私は先に証券共同投資組織を凡て証券投資信託と呼ぶのは妥当性を欠くと述べ︑その事由として共同大星投資の 特色が表現されていないことを強調したが︑更に︑共同投資組織の中に︑信託制度を直接に応用しているとみられ 次に組合組織の共同投資は︑多数投資者が投資資金を出し合い集団的に投資するのであるが︑法律上の人格︑延

いて組織の内部に運営担当者をもたず︑常に︑集団組織の発起人が投資専門家と委託契約して投資管理を行わす仕

(5)

組である︒多くの場合︑発起人︑つまり組合設立者そのものが投資の専門家であり︑之等の者は投資財産の保管︑

計算のみを銀行機関に信託するやり方をとる︒何れにしても組合組織の共同投資は信託制度をまともに利用すると

ころで︑それは当に投資信託と呼ぶに相応わしいものである︒従って︑私も︑この組合組織のものを投資信託と呼

ぶと共に︑投資信託という共同投資組織はこれのみとなすものである︒

証券共同投資組織を凡て投資信託と認識する人々は︑この組合型のものを契約型

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となし︑会社型

( 1 )  

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の投資信託と並べるところである︒この分類はそれとして悪くない︒併し既に述べた如く︑投資会社まe

で投資信託となすことは理論上納得し難いのであり︑矢張り共同投資組織という上位概念の下に︑

として投資会社と投資信託をおくのが最も妥当と云わざるを得ないのである︒

( 1 )

江口氏﹁前掲書﹂

証券共同投資の一形態としての投資信託については前に要言した︒併しそれは定義の程度に止まり︑それが如何

なる組織であるかを明らかにするには︑もっと内容に立入って説明しなければならない︒

既に知れる如く︑投資信託の特質は組合組織の共同投資であり︑信託制度をまともに取入れているところにある︒

即ち投資信託は大衆投資者が資金を出し合うて組成した集団︑

して組合を造る設立者が委託者となって投資をニキスパートに委託するのである︒これが投資信託組織の基本構造

右の組合設立者は文字通り組合設立の仕事だけを行い︑投資の委託は出来た組合集団が内部から代表者を選んで 投資信託証券は果して証券であるか

︵ 今

西 ︶

つまり投資組合が中核となり︑それら投資者を糾合

つまりその分類

(6)

︵ 今

西 ︶

とせざるを得ないこと︑最早贅言を要しないであろう︒ 行ってもよいわけである︒しかし投資信託では設立者が常に委託者となるところである︒これは設立者は単に組合を造るだけでなく︑適当なニキスパートを見出して投資の委託までしてやるのが寧ろ親切であるという理由もあろう︒が︑更に実際上の理由が働いていることも見逃せない︒

てなす方式のほかに︑設立者が予め自己の所有証券や現金を以て作り上げこれを甚として投資証券を大衆に売出す

ーこの場合若し価値以上に売却すればその額だけ収益となるーー方式も充分認められてよいのである︒今日︑之

等二つの方式は実際にも行われているところであるが︑後者の方式を自由に行わさんには︑当然︑設立者を委託者

投資信託に於ける設立者︑即ち委託者は投資をニキス︒^ートに委託するのであるが︑こ

4

に一つの問題が残って

いる︒それは投資ェキスパートは投資技術には長じているであろうが︑その何れもが常に信用絶大と限らないこと

である︒この事態を克服するには︑投資運用はニキス︒^ートに任すが投資財産の管理は銀行の如き信頼せられる機

関に任すというやり方をとるべしとされる︒然らばこの原則を活かすため︑委託者は投資の運営を=キスパートに

ニキス︒^ートとの連絡の下に投資財産の管理を銀行信託機関に委託することが行われるかというに︑この

やり方はそのまま現実化しない︒というのは︑多くの場合︑投資信託の設立者︑即ち委託者たるものは投資のエキ

スパートがそれとなるからである︒即ち投資のニキス︒ハートが委託者となれば︑投資の運営は彼等が引受けること

となると共に︑投資財産はこれを銀行機関に信託する方式とならざるを得ないのである︒斯くて︑一般に︑投資信

託組織に於ては設立者は委託者

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r大衆投資者即ち証券購入者は受益者

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銀行信託機関は受託者

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とせられるが︑これは法律上の認識であり︵信託制度は財産について成立するという考えに立っている︶︑ 一体︑投資財産の設定には大衆からの出資を積み上げ

(7)

96 

( 2 )  

(3

) 

( 1 )  

れることとなり︵昭和二十八年設立者は免許制と改められた︶︑ 呼ばれていることは︑既に周知のところであろう︶︑我国では専ら投資信託組織が行われている︒我国に於ける上 経済実質的には委託者たる投資ニキス︒^ートは︑投資財産の管理に就いてほ委託者であるが投資運営については明らかに受託者たるのであり︑従って委託者兼受託者と認識してよいのである︒

今日︑投資信託が比較的盛んなのは︑ 投資信託証券ほ果して証券であるか

イギリス︑我国であり︑

織と並行して行われ︵元来︑投資会社本位であったが︑

( 1 )  

に始められていた投資信託制を取入れたのであった︒同国で投資信託が一般にユニット・トラスト

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記の如き投資信託としては︑戦前の昭和十六年十一月︑民法︑信託法︑信託業法等に基き野村証券株式会社が委託

( 2 )  

者となって設立したものが既に存在したが︑戦後は昭和二十六年六月制定の証券投資信託法に基いてのみ設立せら

初め野村︑山一︑日興︑大和の大証券会社が︑後

( 3 )  

には中堅クラスの証券会社も委託者となって次第に設立せられるのに至ったところである︒いま︑指摘しておいて

よいと思うのは︑委託者は凡て既存証券会社である点で︑最近︑夫々固有の証券会社と別な投資信託委託販売会社

を設け︑これが設立を行うに至っているが︑之等も母体の証券会社の分身たるに過ぎないのである︒

昭和一七年七八ー五一

0

野村証券株式会社調査部﹁投資信託の実証的研究﹂

00

野村証券株式会社調査部﹁前掲書﹂五︱一ー五六

0

六六六頁

OI

調

‑ 1 ‑ │

︱ 七

0

さて︑投資信託の組織については上来述べた構造の上に尚述べなければならないことがある︒参加投資の脱退︑

西

アメリカでは振わない︒イギリスでは投資会社組

一九二九年のアメリカの恐慌による打撃で︑当時アメリカ

(8)

投資信託証券は果して証券であるか 新規加入に対する処置これである︒而して投資信託はこの点に於て諸種のやり方をもち︑自らこれが投資信託の種

︱つは︑脱退︑新規加入を認めない所謂るクローズド・ニンド型であり︑他はそれを認める所謂るオープン・ニ

ンド型である︒処で︑このクローズド・ニンド型︑

何なる形式でも認めないと共に脱退も認めないのがクローズド・ニンドであり︑自由に参加を認めると共に脱退も

自由なのがオープン・ニンドであることは明らかであるとして︑中間的なものが生ずる︒

る形式でも認めないが脱退は認めるものと︑新規加入は従来の参加者の脱退と交替して認めるものである︒前者は

セミ・クローズド・ニンドとなしてもよいが︑後者は何と認識すべきか︑

に於て制限オー︒フン・ニンドをみるべきところである︒併しクローズド・ニンド型︑

は今︱つある︒それは投資口数が増減するか︑

ーズド・ニソド型であり︑増加及び減少するのはオープン・エンド型となるがゆえ︑前の見方によるクローズド・

︵ 今

西 ︶

︱つの見方は専ら脱退︑加入の行動に着眼するものである︒この見方では︑新規加入を如

ォープン・ニンド型はこれでも同じとなる︒而してかの新規加入は認めず脱退のみ認めるところからセ

ミ・クローズド・ニンド型となしたものは︑ とを知らねばならない︒ 類として取上げられるところとなっている︒

オープン・エソド型の種別は︑見方によって幾分異ってくるこ

しないかである︒この見方からは︑ ォープン・ニンド型の見方に

ロ数がコンスタントなのはクロ

ロ数の増加はなく減少のみあり得るので︑

つまり新規加入は如何な

セミ・クローズドとなして

よいが︑制限オープン型は口数の増加も減少もないがゆえクローズド・ニンド型となさざるを得ないのである︒

投資信託の構造の問題として最後に述ぶべきは︑その存続期間である︒この点から投資信託の型は有期限のもの

と無期限のものとに分たれる︒前者は三年とか五年︑或は十年というように一定期間存在して解散するものであり︑ 一定範囲に於て加入︑脱退が可能である

(9)

謂る制限管理型

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後者は特に解散を決定しない限り永久に存続するものであることは︑改めて説明する迄もなかろう︒知っておいて

よいのは︑先のクローズド・ニンド︑オープン・ニンド型の別はこの存続期間と関係を持っていることである︒即

ち有期限の投資信託では︑完全なクローズド・ニンド型︑加入を認めないが脱退を認め口数の減少のみあるセミ・

クローズド・ニンド型が存在し得るが︑交替的な加入︑脱退で口数のコンスクントな型︑完全なオープン・ニンド

型は存在し難い︒これに対し無期限の投資信託では︑完全なクローズド・ニンド型︑

余地がない一方︑交替的な型︑完全なオープン・ニンド型は充分に存在し得るというふうである︒これらのうち︑

有期限の投資信託では完全なオープン・ニンド型や交替的な型が存在し難い理由であるが︑期間が限られていては

新規加入は多くないというよりも余り現れないからである︒新規加入が現れないとすればォープン・ニンドにして

も意味がないこと明らかである︒交替制の場合︑社債や公債と比較し︑公社債は有期限であるが期限に近いときに

も新規購入の現れる事実を眺め︑交替的投資信託は存在し得ると考える者があるかも知れない︒併し公社債は確定

たとえ残り短い期間でも所有して意味があるので新規購入が起るのに対し︑有期限の投資信託は値

上り益が目標とされ︑残り短い期間ではその目的を達し得ること少いとされ︑交替加入は現れないのである︒

投資信託の有期限制︑無期限制の別は︑上の如く︑

つまりクローズド・ニンド型︑ クローズド・ニンド型︑ セミ・クローズド型は存在の

オープン・ニンド型と関係をもっ︑

オープン・ニンド型を規定するが︑その別は︑又︑投資信託の運営︑活動のやり方

に影響︑規定を与える︒例えば︑有期限制では︑投資運用銘柄を初めから終りまで固定さすやり方︵所謂る固定型

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自由に差換え変更するやり方︵自由型︑管理型︶︑その中間たる︑或る範囲に於てのみ変更するやり方︵所

の何れをもとることが可能であるのに対し︑無期限制では自由管理型しか採り得な 投資信託証券は果して証券であるか

西

(10)

に︑極く最近︵昭和三十六年春︶︑

西

は入らないが︑右のことだけを一言しておく︒

いが如く︑叉︑有期限制では︑利益を途中で分配する方策をとることも出来るが︑寧ろ途中の分配は成るべく控え

目にし解散期日に於ける償還額を多くする︵これにより投資参加者に夢をもたす︶方策をとることも出来るのに対

し︑無期限制では解散日というものがないがゆえ︑利益は︵積立てて資産が余り増大すると新規加入がむつかしく

もなり︶専ら途中で分配する方策がとられるというふうである︒今は投資信託の組織論をしているので︑経営論に

以上︑投資信託の組織︑構造について述べ︑種々の型を挙げたが︑投資信託の成立している国に於ても︑それら

のうちの存在し得る型が当初から並列的に現れたのでない︒そこには各型の変遷につき興味ある推移がないでもな

い︒たゞそれらの詳細は投資信託発展の史的研究の範囲に属するので︑丑には触れない︒我国に於ける投資信託の

成立については前に要言し︑戦後︑証券投資信託法に甚き︑大︑中証券会社を委託者として展開したことを述べた

が︑採用された型は︑有期限のセミ・クローズド・エンド型と無期限の完全なオープン・ニンド型である

Q

前者は

一般にユニット型と呼ばれ︑その期限は当初ニカ年であったが︑後︑三カ年とされ︑今日では五ヵ年とせられてい

る︒無期限のオープン・ニンド型︵一部に基金型と呼ぶ人もある︶はユニット型より幾分遅れて採用されたが︑最

近では委託証券会社の努力はこの方に多く注がれ︑同一委託会社のもので一本立から二本立てとなりつ

4

ある︒更

運用証券を公債社債に限るボンド・オープン・ニンド型も始められるに至った

投資信託の型で実際に存在し得るのは︑有期限のセミ・クローズド・ニンド型と無期限のオープン・ニンド型だ

けでなく︑有期限の完全なクローズド・ニンド型と無期限の交替制の型のあることは︑吾々として既に知っている︒

(11)

然らば後の二つの型が何故我国に存在しないのか︑これは少し考えてみてもよいことである︒先ず有期限の完全な

クローズド・ニンド型が存在し得るのは︑期限を短くし︑加入者の脱退を認めないという性格を克服する場合に限

るのであるが︑更にその社会に加入者の脱退を認めるセミ・クローズド・ニンド型が並行して存在していないこと

が条件となる︒然るに︑我国には︑既に知れる如く︑セミ・クローズド・ニンド型が多くつくられているのであり︑

自ら完全なクローズド・ニンド型は存在し得なくなっているのである︒次に無期限の交替制の型が我国に存在しな

い事情であるが︑この種投資信託が適切に運営されるには夫々専任の投資エキス︒^ートを擁しなくてはならないの

に︑我国では︵証券会社の少数の投資ェキス︒ハートが会社の設立した多数の投資信託の運営に兼ねて当っている有

様である︶投資ニキス︒ハートが少いこと︑更に我国投資信託の設立者委託者たる証券会社が社会の大衆投資者より︐

出来るだけ資金を吸収し自己の支配下に置かんとしているのに︑交替制投資信託はオープン・ニンド型などに比べ

その目的に副わないことが︑何より挙げられるところである︒

投資信託に於ては投資に参加したという参加証が発行され︑加入者は出資叉は購入により設定者即ち委託者から

受取る︒之が投資信託受益証券

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で、これらは証券という名称を使用しているが、果たして証券経済上でいう証券'~資本証券であるであろうか。

識者である以上︑一応疑問を起す筈だと思うのである︒その疑問を起す事情は︑矢張り︑資本証券の代表的なもの

としての株式や公債社債と可成り特異であるところにある︒ 投資信託証券は果して証券であるか

︵ 今

西 ︶

C e r t

i f i c

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と呼ばれていること︑周知のところと思う︒処

1 0

 

(12)

投資信託証券は果して証券であるか︵今西︶

改めて云う迄もなく︑証券は擬制資本の証券化せられたものである︒擬制資本であっても証券化せられていない

ものほ証券でないと共に︑擬制資本でないものが証券の外形を装うてもそれは証券でないわけである︒今︑投資信

託受益証券が真に証券であるか否かの吟味は︑勿論︑この後の方の吟味にかかる︒

( 1 )  

私としては既に別の機会に述べたところであるが︑擬制資本は譲渡移転し得る投資分である︒先ず︑投資分とは

つまり価値増殖即ち営利活動をする現実資本があり︑それに対する権利ー元本に対する分け前や利益

分配に預る甚礎である︒従って︑投資分は実体資本を前提とし︑実体資本なくして投資分は成立しないのである︒

拙著﹁証券価値論﹂

昭和三四年五月

ニ四ーニ八頁

而して投資信託の場合︑この投資分の前提たる実体資本は存在し︑延いて投資分は常に成立していると云ってよ

い︒投資信託に於て実体資本に該当するものは多数者の共同出資によってつくられる投資財産である︒この投資財

産は殆ど株式︑公債の如き証券類から成立つ︒従って︑それは︑株式や公債に於ける実体資本が所謂る企業体であ

り︑何等かの生産的経済活動を営んでいるのとコソトラストをなす︒

く生産活動を営まないが︑その財産を構成する株式︑公債は企業活動を前提としているがゆえ︑間接的︑二次的な

がら実体資本につながっているというふうに認識せんとする︒併し強いてそのように認識する必要はないと思うの

である︒何故なら︑実体資本は直接生産的活動を営まねばならないものと限らないからである︒利益を挙げる活動

であれば!純然たる消費活動では駄目だが

l

事が足るからである︒

投資分は実体資本を前提とし︑それが多数者の共同投資たるに伴うそれに対する分け前の基礎であるとしても︑

擬制資本として大切なのはそれが移転し得るものでなければならないことである︒投資分が成立しても移転出来な

( 1 )  

一部の人は︑投資財産そのものほ企業体でな

(13)

託会社が何時でも資産価値で売渡し叉買入れする︶︑そこには投資分の第三者への譲渡移転の必要はなく︑又それ ければ擬制資本とは云えないのである︒投資分が生む利益は実体資本の挙げた利益の分配たるものであり︑従って利益を生み出す母体としての真の資本でないという意味で︑投資分イクオール擬制資本と呼んでも差支えないようである︒併し吾々の知るところでは︑資本︵この場合実体資本︶なるものは利益を挙げるために貨幣形態から固定設備や原料に︑更に製品︑手形というように運動するのが常態であり︑運動ー資本運動1こそ資本の属性とな

っている︒つまり吾々は資本というものは必ず運動するという信念を持っているのである︒従って︑流通移転しな

い投資分まで凡て資本︵この場合は勿論擬制資本︶と認識することは︑吾々の通念に反する︒要言すれば︑擬制資

本は譲渡移転の可能な投資分に限られるのである︒薮で念のため一寸断っておくが︑擬制資本と単なる投資分とは︑

たゞ移転流通が可能であるか否かというだけでなく︑諸種の重要な経済上の性質において相違を来たすものである︒

併しこれらは後の問題であり︑今は認識の問題として単なる投資分と擬制資本の区分を取上げるのに止める次第で

さて︑擬制資本の本体が上記の如くなるに於て︑現在我国に行われている投資信託のうちの所謂るユニット型︑

即ち有期限のセミ・クローズド・エンド型には擬制資本は存立しないと云わねばならない︒蓋しそこでは加入者の

脱退が認められているのみで︵通常︑委託会社が一応投資財産の時価による資産価値で買取って所有し︑必要に応

じ投資財産を処分して消却する︶︑

迄もなく︑脱退はその分の投資分が解消することであり︑投資分の存在を前提とする移転とは別である︒次に︑所

謂るオープン・ニンド型︑即ち無期限のオープン・ニンド型も新規参加が自由であると共に脱退も自由であり︵委

投資分の譲渡︑即ち第三者への横の移転は認められていないからである︒云う

投資信託証券は果して証券であるか︵今西︶

(14)

投資信託証券は果して証券であるか

︵ 今

西 ︶

は行われていないところである︒何れにしても現在の我国の投資信託には投資分があるのみで擬制資本は存在しな

今更云う迄もないことながら︑経済上︑証券制とは︑財物又は財産権的なものを紙上に表現し︑紙の移転が表現

されているものの移転を齋すとされた工夫であるが︑重要なことはそれによって流通移転を促進さす機能を発揮さ

すものであるという点である︒これにより証券制とよく結付くのは擬制資本であり︑否︑擬制資本は証券制と結付

くによって︵これを証券化と呼ぶこと註釈する迄もない︶益々その本領が発揮されるのであり︑斯くて出来上るも

のが証券である︒これに対し︑擬制資本でないものは証券制とは結び付かないのであり︑今投資信託の投資分もそ

うでなければならない︒即ち投資分は紙上に表現せられても︑たゞそれを証明するに過ぎず︑

あって証券ではないのである︒法律的には流通移転を促進するという性能を重視せず︑単に証書の行使が表現せる

財物︑権利に対する行使に止まっても︑有価証券と称しているが︑経済学的には通用しないのである︵証券という

概念に対する経済上と法律上の根本的な開き︶︒

以上の吟味により︑投資信託の受益証券は証券という名称を使っているが実質は証券でないということになった︒

併しこの結論に対し︑それは我国現行の投資信託を眺めてのことで︑投資信託全体としては我国に行われていない

が理論上存在する型をも取上げねばならないと云われよう︒既に述べた如く︑投資信託の型として︑我国現行のも

の以外に︑有期限の完全なクローズド・ニンド型と無期限の交替制型とがあり得る︒このうちクローズド・ニンド

型の問題にならないことは最早明らかであるが︑無期限の交替制型は大いに問題になるというよりも︑そこには擬

制資本は明らかに存立する︒これにありては無制限な加入︑脱退は認めず︑加入は従来の投資証券を譲受け脱退は いと云わざるを得ないのだ︒

つまりそれは証書で

(15)

それを譲渡する形にて行われ︑投資分は充分に流通移転する擬制資本となっているのである︒勿論その受益証券は

ほんとうの証券である︒こうみて来ると︑投資信託受益証券は証券なりやの答として︑或る型では証券でないが或

る型では証券であると云わればならないことになる︒確かにそうであろう︒たゞこれを︑我国の現状について云え

ば明らかに証券でないのであり︑この意味において投資信託受益証券の証券性を一応否定しても間違いではないと

前の証券共同投資組織の二形態の所で述べた︑投資会社の定義的説明を繰返すと次のようである︒投資会社は投

資大衆が出資して株式会社をつくり︑会社事業として証券投資を行う組織である︒投資信託では組合組織内に運営

の責任者がいないので︑設立者が代わって委託者となり運営をェキスパートに委託するの外なかったが︑投資会社

は会社であるがゆえ︑法人格をもっと共に執行機関をもち︑つまり会社事業運営の責任者が組織の内部にあり︑自

ら投資運営を外部に委託する必要はない︒尤も生産会社が工場や技術者を擁する如く︑投資会社でも取締役会の下

に調査機関をもつことあるのは勿論︑時には会社外部の専門の投資=キス︒^ートと契約しその助言を仰ぐことがな

いでもない︒更に投資財産も︑投資信託では投資運営者以外の信用大なる機関に管理を委託しなければならないの

に対し︑投資会社︒では取締役会は充分信用され叉自ら管理する責任をもつのであるが︑保管と計算の面俄さを避け

るため専門の銀行機関に事務を代行さすことは何等差支えなしとされる︒

右の説明は投資会社制の骨賂だけであり︑それも投資信託組織との基本的相違をはっきりさすことに重点を置い

投資信託証券は果して証券であるか︵今西︶

(16)

( 1 )  

投資信託証券は果して証券であるか

西

証券ハンド・ブック

六七五ー六七七頁

たものであった︒以下︑投資会社そのものを中心とし︑もう少し詳しくその組織を明らかにしょう︒

投資会社も株式会社である以上︑その設立のいきさつは一般事業会社のそれと等しい点が少くない︒企画発起人

達が一応会社をつくりその株式を投資大衆に売却する発起設立と︑先ず株式を募集し資本を集めてのち会社を正式

に発足さす募集設立のあること︑大衆が株式を購入し応募するのは︱つにはそれら発起人の人物の如何をみての事

であり︑発起人としても企画に道義的責任を持つ意味で出来た会社の執行機関に選ばれて就任することあるなどは︑

投資会社も一般事業会社と殆ど変わるところがない︒たゞ︑それら発起人たる人は︑事業会社の場合事業家を多し

とするのに対し︑投資会社では投資銀行家︑証券業者︑投資ニキス︒^ートの如き人々たらざるを得ず︑こ

4

に先ず

趣の相違が現れる︒而して投資会社に於てその執行機関が発起人であった之等投資銀行家︑証券業者︑投資ニキス

︒^ートのみから成るとすれば︑投資会社の組織︑運営はそれらの人々の属する投資銀行︑証券会社等の傘下に置か

れてしまう恐れが生じないでもない︒繰返す迄もなく︑投資会社運営の基礎はその取締役会にあり︑之が投資会社

本位に行動してのみ投資大衆の利益はよく保持されるのである︒斯くて︑投資会社に於ては取締役会の独立性を保

持するためにそういう機関の関係者で牛耳られないようにすることが大切とされ︑法律でそのことが定められんと

( 1 )  

する︵一九四0

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三木純吉氏﹁ミューチュアル・ファンド﹂

昭和三四年

投資会社に於ては取締役会が投資運営の責任者であるがその運営上投資ニキス︒^ートの助言を利用し︑又投資財

産の保管︑記帳等を銀行機関に代行さすことは︑既に触れたが︑之等の投資ニキス︒^ートとしては︑個人に限らず︑

(17)

団体︑会社組織のものもあってよいわけである︒アメリカの実際をみるに︑投資会社の設立を行う投資銀行や証券

会社がそれに当る例が多い︒

つまり之等のものは投資会社の投資顧問となって管理報酬を得︑又会社株式の販売を 引受けて︵後述する如くォープン・エンド型の投資会社では始終新株を発行する︶報酬を稼ぐ目的で会社を設立す るとみられる場合が少くないのである︒勿論︑投資顧問となるものは充分その能力をもつものでなければならず︑

一定の法律上の資格あることが望まれ︵アメリカでは投資顧問法

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が設けられ

叉投資会社が投資顧問を利用し︑証券業者に株式を売却さすのにあいまいな約束だけでは駄目で︑法律 上定められた契約方式をとることが大切とされるところである︵アメリカの投資会社法はこの点も規定している︶︒

今日︑共同投資組織として我国に行われているのは︑投資信託のみで︑この投資会社は未だ存在しない︒投資会

社の盛んなのはイギリス︑

本事実を物語る実例となっているものが少くないわけである︒

さて投資信託の場合︑

アメリカ︑特にアメリカである︒従って︑これらの国の状態で投資会社組織の一般的根 クローズド・エソド型とオープン・ニンド型の構造別のあることを述べたが︑投資会社に

於てもこの構造種類はある︒投資信託のその構造の区別を加入︑脱退の制限︑自由に求めることは必ずしも徹底的で なかったが︑この事は投資会社に於ては一層あてはまる︒蓋し投資会社が株式会社の組織である以上︑如何なる会社 にてもその株式を自由に売却し得る一方︑それを購入して加入することが可能となっているからである︒併し投資 信託に於ける投資口数の確定︑増減による構造別に該当するものが投資会社にもあるのである︒即ち︱つは会社資 本を確定的となし︑脱退せんとする者は相手方を求めて所有株式を売却し︑加入せんとする者はその購入をなすも

のである︒これがクローズド・エンド型と呼ばれること云う迄もない︒今︱つは会社資本を自由に増減せしめるも

西

一 六

(18)

西

と優先株︵時にほ更に社債︶から成る

一 七

つまりオープン・エンド型に於ては普通株 ので︑加入せんとする者は何時にても会社から新株式を購入し︑脱退せんとする者は持株を会社に買取って貰うのである︒この場合︑株式である以上︑脱退せんとする者と加入せんとする者との間に直接売買してもよいわけであるが︑会社がいくらでも相手方となるという立前の下ではそれを行う必要はないとなるのだ︒これがオープン・ニ

投資信託は存続期間の上から有期限の型と無期限の型に分たれ︑この分類は可成り重要となっていたが︑投資会

社に於てはこの期限のことは取上げる必要はない︒蓋し株式会社組織として特に解散を決議しない以上は永久に存

在するのが立前となっているからである︒つまり投資会社制の共同投資組織は一応凡て無期限となしてよいのであ

る︵投資信託の場合︑無期限の型に交替制型とオープン・ニンド型の二つがあることを述べたが︑投資会社にも恰

投資会社に於ては存続期間による種類はない代わりに︑資本構成の点につき単純なのと複合的なのとの種類が存

在する︒単純なのとは株式が普通株一本の資本構成

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ズド・ニンド型︑

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オープン・ニンド型の種別と関係をもっところで︑

本の構成がとられ︑クローズド・ニンド型に於ては普通株一本の構成と普通株︑優先株複合のものとが存し得るの

である︒云う迄もなく︑オープン・ニンド型は参加が広く解放されており︑会社資本に普通株のほか優先株が存在

するときは︑新規参加による利害関係が複雑となるからである︒

投資会社は未だ我国にはなく︑

もこの二つがあるわけである︶︒ ソド型と呼ばれること叉明らかである︒

を云い︑複合的なのとは普通株

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を云う︒而してこの資本構成の如何はそのクロー

アメリカに盛んであることは前に触れたが︑イギリスとアメリカとで

(19)

( 2

)  

( 1 )  

は矢張り趣の相違がないでもない︒イギリスでは専らクローズド・ニンド型が採用されインベストメント・トラス

( 1 )  

トの名称の下に行われている︒これに対しアメリカではクローズド・ニンド型と並んでオープン・ニンド型がミュ

ーチャル・ファンド

M u t u a l

F u n d

の名称の下に行われているが︑一九二九年の株式恐慌後はオープン・ニンド

( 2 )  

型の方が会社数に於て︑叉投資財産額に於て愈々優勢となりつ

4

ある︒元来︑証券共同投資組織としての投資会社

制はイギリスに於て生まれ︑

アメリカはそれを輸入したのであるが︑土壌が良かったのでよく成育したのだという 見方もなされる︒併しォープン・エンド型の工夫などからみて︑

アメリカとしてもやがては自然に生まれるべき組 織であったかも知れない︒それは兎も角︑投資会社組織がアメリカに盛大となった事情としては︑第一次世界大戦 後同国の経済が飛躍し︑世界の資本国となり︑証券界が大発展を遂げたという根本背景︑更に︑景気変動の波が必 ずしも穏かでなく株式投資がむつかしくなったことの挙げられるのは勿論として︑直接には︑投資調査機関︑投資 銀行などで投資会社設立の仕事を行う者︵アメリカではスボンサー

S p o n s o r

と総称している︶や投資会社の経営 者となる投資実業家が次第に充実されて来たことが指摘されるところである︒

H .  

B u l l o c k ,   T h e   s t o r y   o f   I n v e s t m e n t   c o m p a n i e s ,   1 9 6 0 .   p . 1 7 7  

三木純吉氏﹁前掲論文﹂

氏﹁クローズド・ニンド投資会社﹂前掲書

10

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0

︱ ︱

1

0

﹇ ︱

‑ 三 七 頁

アメリカに於ける投資会社の具体的な発展数字は

A v t h u r W i e s e n b e r g e r

 

C o m p a n y から出版される年鑑

I n v e s t m e n t C o m p a n i e s

に 詳 し い ︒

野村証券株式会社調査部﹁成長経済下の投資信託﹂前掲 江口行雄氏著﹁前掲書﹂

江口行雄氏著﹁前掲書﹂

投資信託証券は果して証券であるか︵今西︶

六七八 I 六八四頁

一 八

(20)

投資信託証券は果して証券であるか︵今西︶

前に︑投資信託の受益証券は証券という名称をもっているが真に証券であろうかという疑問は︑識者である以上︑

起す筈だと云ったが︑今︑投資会社の出資証券たる株式が証券であるかと疑う人は︑識者と雖もまずなさそうであ

る︒これは株式が証券の代表的なものであり︑投資会社の出資証券がその株式となっているからであること︑註釈

前の投資信託受益証券が証券でないとされたのは︑投資財産が自ら生産的活動をする実体資本でないからでなく︑

それにも投資分は立派に成立するのであるが︑無期限の交替制型の投資信託の場合を除き︑その投資分が横に流通 する迄もなかろう︒

とはむつかしいと云わねばならない︒

一 九

投資会社組織論の最後に当然一言なかるぺからざることは︑その我国に存在しない事情である︒投資信託制で充

分間に合うているからというような説明は答えにならない9私のみるところでは︑その根本的な事情は︑矢張り︑

我国には事業実業家は多いが投資実業家が少い︑否皆無に近い点にある︒投資会社の設立をやるものも多くないが︑

この方は証券会社︑投資信託委託阪売会社等もそれとなればなれないことはない︒たゞ︑今日︑彼等は︑投資信託

組織の方が︑共同投資組織の設立者たると共にその実質的な経営者たる地位を保持するに都合がよいので︑進んで

投資会社組織を手がけないであろうのみである︒が︑我国に投資会社の経営者︑取締役となる投賓実業家の少いこ

とは︑仮令設立者が現れても︑投資会社制の展開は殆ど期待し得られないのである

3

我国に投資会社組織がよいか

投資信託組織がよいかは大きい研究課題であるが︑今のところ︑投資会社組織がよいとしても︑それを実現さすこ

(21)

前段に述べた如く︑オープン・ニンド型投資会社では増資︑減資が自由に行われるのであり︑

でいくらでも会社は自己の株式を売却︑購入するのである︒従って新規に加入せんとするものは︑既存投資者︑即

ち株主が会社の売渡価格より低い価格で譲渡を申し入れるならばそれを購入するでもあろうが︑そういう売物は殆

ど存しないのである︒蓋し既存株主としてそのような低い価格で横に移転する馬鹿気たことはせず︑会社に売却す

るからである︒結局︑投資分は会社との間に動くのみで︑移転性を発揮しないのだ︒会社との間の動きは︑投資分

の設定︑乃至は投資分の解消であり︑現存する投資分が移転するものでないことは︑既に知れるところと思う︒素

より︑この場合︑無理に第三者に移転せんとすれば絶対に出来ないこともなく︑その意味で投資分の移転性が全く

奪われているとまでは云えないが︑そうしてもその移転性は常に恰も不発弾の如きものであるわけである︒斯くて︑

世人︑更に識者でも意外に思うであろうが︑オープン・ニンド型の投資会社株式は形式的には株式であるが実質的

には株式│ー延いて証券ではないのであり︑百歩譲っても不完全な株式'││不完全な証券と云わなければならない

投資会社組織にはオープン・ニンド型のほかにクローズド・ニンド型があり︑投資会社株式が真に証券なりやの

吟味には●勿論この型の株式をも取上げなければならないが︑この方が充分に証券であることは最早明らかなりと云

ってよい︒無期限の交替制型の投資信託受益証券でも証券性をもっていたのであるから︑同じ性格の然も株式形態 オープン・ニンド型の場合の投資分がそれである︒ する︑移転し得る投資分でないからであった︒この事は︑今投資会社の場合にも当てはまらざるを得ない︒而して投資会社の場合︑投資分は凡て移転し得るものとなっているやというに︑必ずしもそうと限らないのである︒その 投資信託証券は果して証券であるか︵今西︶0

つまり一定の時価

(22)

投資信託証券は果して証券であるか となっているクローズド・ニンド型投資会社株式が完全な証券であることは︑い︒それは投資会社に於てはその株式に対し事業会社の如く配当が行われるとして︑事業会社の︑元本と利益を区別し利益から配当が行われるのと異り︑会社資産額の一部の分配を行う方法がとられ︑このため株式価値︑延いて価格のきまり方が事業会社株式と少し異ることである︒併しこれを以て投資会社株式が完全な株式たる性格を喪うものではなく︑たゞ特殊な株式として扱い得るに止まる︒

以上の吟味から投資会社株式は果して証券なりやに対し如何に答えたらよいであろうか︒クローズド・ニンド型

の会社の株式ならば完全な証券であるが︑オープン・ニンド型の会社の株式は証券ではなく︑精々不完全証券たる

に止まると答えるのが勿論真相である︒投資信託の場合︑無期限の交替制型の受益証券は完全な証券であるが︑そ

れは現実に行われておらず︑現行の型のものを中心とし一応証券でないと総称することが出来た︒これに対し︑投

資会社の場合は︑理論的にも現存的にも︑半ばの証券は証券性をもち︑半ばの証券は証券性を欠くのであるがゆえ︑

総称することはむつかしい︒強いて云えば︑世間一般は株式は凡て証券と考えるが︑投資会社株式は必ずしもそう

と限らぬというような云い方が可能となるに止まるところである︒

純理的に云って︑証券価値論並びに証券市場論に於ては飽く迄証券を対象とすべきであり︑

は必ず取上げると共に真の証券でないものは︑名称は兎も角︑これを取上げるに及ばず︑否取上げない方がよいの

西

クローズド・ニンド型投資会社の株式は完全な株式であるが︑

つまり証券たるもの 一般の事業会社の株式と趣の異る点がないではな 一層然りと云ってよいところである︒

(23)

る ︒ 経済論なる学問に纏め取入れるのが︑許されるというよりも寧ろ合理的な学問研究方法とならざるを得ないのであ の価値問題︑流通問題も︑半分だけ証券価値論︑証券市場論で取上げるという不体裁な態度はやめ︑証券共同投資 地位を占めており︑立派に独立学問の研究対象たるに値するところとなっている︒そうだとすれば︑それらの証券 一性を喪うものとなる︒既に知れるであろう如く︑今日︑証券共同投資組織に関する経済現象は国民経済上重要な 証券であり又投資会社株式でありながら︑半ばは取上げ半ばは捨てるということは︑共同投資組織の立場からは統 上記の学問で取上げると共に︑そうでないものは取上げない方がよいとなるわけである︒併し等しく投資信託受益 ンド型のものは真の証券でないという結果であった︒従って学問的約束から云えば︑そのうちの証券たるものだけ が我国現行のものは真の証券でなく︑又投資会社株式もクローズド・ニソド型のものは証券であるがオープン・エ である︒而して証券共同投資組織の証券は︑前段の吟味により︑投資信託受益証券ほ型によっては真の証券となる 投資信託証券は果して証券であるか

西

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