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Kyushu University Institutional Repository
筑前国怡土庄故地現地調査速報
服部, 英雄
九州大学大学院比較社会文化研究院 : 教授
https://doi.org/10.15017/1520164
出版情報:1999-12-31. 服部英雄研究室 バージョン:
権利関係:
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学部4年 学部3年 学部3年 平成8年7月19日調査
林寄人氏(61歳)前原市森林組合長より聞き取り
〔しこ名、番地について〕
・しこ名について、林氏の話によるとひとつひとつの田を指す名前というものはなく、ある田のことに ついて話すときには、小字と所有者の名前を用いたそうである。
・番地については巽の方角から1番地というふうに付けていったそうである。
〔水利について〕
・雷山川から水を引いていて、「水とり」(取水口)を字高野・片峰に数カ所設けているということであ る。また、筒原(不動)池からの取水も行っている。この水は大字飯原と共用しているO 現在は三坂 池の水をポンプアップもしているとのことであるO
・水路は畦に沿った形で巡らせているとのことであったO
・取水口に近いところの田のことを「水口」と呼んでいることがわかったO
・三坂の下の方にある字藤九郎・堀ケ回は三坂池ができる前までは水不足のため、畑作に使われていて、
堀ケ田(ほりけだ)に至っては、しょうけ(ざる)にちなんで、すぐに水がもれるという意味で「しょ うけ田」と呼んだ、いたそうである。
・水番の費用や溝さらいは田を持つ家が負担する。
〔過去の区画整理について〕
・林邸には昔の字ごとの地図と土地台帳が残っていて、地図には土地利用と田の等級がひとつの土地区 画ごとに書き込まれていたO おそらくは今回調査用としてわれわれに配付された地図の基となったも のであろうと思う。
・時期は不詳だが(おそらく明治時代)、字七尾付近を区画整備したそうである。地図をみると七尾付 近の区画は正確な正方形であり、近い時代の整備があったことを想像させる。また区画整備を記念し た碑も残っているそうである。さらに三坂神社に奉納された絵には区画整備のため測量する図があり、
年号が「明治二十三年」とあったようである。この整備によって一枚の田がl段なかったものが1段 5畝と広くなったそうである。
〔区有林について〕
・もともと入会地だったものが、明治になって国有林化され、戦後の農地改革によって個人所有となり、
現在は三坂自治会という法人所有になっている。
・三坂の区有林は三坂神社周辺と大字雷山字金原( 9町)にあり、昭和28年にそこに植えていた杉を売 却し、その翌年に杉・ひのきを植林したという。
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・区有林の管理は村全体で行い、かつて入会地だったことがわかる0
・香力の区有林は字割石にあり。
〔土地利用について〕
・雷山大池の南側は昭和25年ごろ開拓しみかん畑にしたが、今はゴルフ場になっている0
・字後藤・鬼木の田はあまり整備されてないそうである。
・水不足であった字藤九郎は桑畑として利用されていたらしく、字七麦の耕地は芋畑として利用されて いた。
〔|日跡について〕
・正蓮寺跡:場所については地図を参照。林氏の話では崇りがあるという。
・山伏若狭墓(サンボンマツ):地元では「山伏松」(ヤンブシマツ)と呼んでいて、巨大な松の切り株
〔三坂と飯原の境界〕 があったそうである。今はない。由来は昔ここで山伏が首をくくったと いう伝説によるらしい。やはり崇りがあるという話である。
・普賢寺:詳しいことはわからないそうだが、この寺の檀家の2割が三坂にある。 7割は波多江にある0
・薬師堂:「おやくし様」と呼ばれ、三坂神社の入口付近を「薬師堂」といったO
・古屋敷:「屋敷田」という小字は残っていないが、林氏の話によると字チャンチャンに昔、屋敷があっ たそうであり、恐らくそのことではないだ、ろうか。実際に現地に行ってみると、『筑前国続 風土記』の記述に「初は此村田の中にありしか、永禄の末原田氏と竜造寺戦有て、原田領分 を肥前より侵し掠し故、其侵伐をさけんとて、川の南の高き所山きわに添て村をたて、要害 にせしと也。其所の岸に、今も石壁残りて長くつらなれり。」とあるように石が積まれてあっ た。字東ケ浦付近を元屋敷という。
・鞍掛石:現在も祭ってあり、現地にいってみると、確かに鞍が掛けてあったような形をした石だった。
石は現在の地表より lmぐらい下にあり、埋まらないように石垣で囲っていた。またその近 くに「牛馬神様」が祭ってあり、何らかの関係がありそうであるO また鞍掛石は丑か午の日 に祭る。
・フウシャウ(天神社) :場所については不明だ、が、三坂の東方に宮ノ前という小字があり、その辺り にあったのではないだ、ろうか。
・サヤキ(幸ノ森) :昔、木賃宿があり、それは「さぎの森」という所にあった。サヤキはその辺りを 指すのではなかろうか。
・村の入口(東西南北)に庚申様が祭つである。
・字コクツパルには「ここから
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中津領 口は福岡領」と刻んだ石碑が3、 4個あったそうだが今は行 方不明とのことであったO〔共同体について〕
・三坂には葬式組合というのがあって2〜3軒で1組をなし、葬式をだしたり、風呂を沸かしたり、餅 っきの仕事をしたりするのを順番で受け持っていたO
・三坂神社の祭りについては、その中には博多山笠と同じような行事もいくつかあった。
正月:元旦祭 4月22日:春大祭 7月14日:千土汐祭(=夏祭)
9月22日:秋大祭 10月30日:神渡し 11月31日:神待ち
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・夏祭のとき、村の四隅で御被いをするが、その位置は地図を参照。
〔現地調査後の検討〕
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条里の比定・鞍掛石は『筑前国続風土記拾遺』に「里人神功皇后の御馬の鞍を掛し石とし、ふ。」とあり、また先述 のように地表より深いところにあることから、かなり以前から存在し、おそらく古代からあるものと思 われる。よって実際の条里を敷くにあたって基準になったであろう。またこの石は雷山川の北岸にあり、
その対岸は現在は山林となっていて、耕地には適さない地形である。条里の残存からみても古代に条里 制に従って開発はこの石が南限を示したであろう。また『筑前国続風土記拾遺』には「御坂村清賀開発 田地といへるは、今雷山の麓高野村辺の団地を指せるなるへし。立石より北今の三坂村の地は所謂恰土 庄内に属せしならん。」とあり、大野郷が恰土庄に含まれていったので、大野郷の南限もこの石になるO
この石を3図と 2図の境界線と18里と19里の境界線が交差するところとすると、日野尚志氏の復元され た図のその交差するところは鞍掛石の 1町上になっている。つまり、実際と 1町のずれがあることにな る。さらに日野説に従って復元すると、 4図18里26坪字棄は現在の夏目から離れたところにあるだけで はなくとても耕作には適さない場所で 9段も田を確保できない。そこで仮に雷山地区は大野郷のみ別個 に開発され、恰土地区と関連性がないとして、 3図を 2図、 4図を 3図としてし、く。この根拠は雷山地 区の開発の限界が鞍掛石の後方に 1図分もなく、班田図を作る時に存在しない 1図を設けるのではなく、
実際に存在しうる限界の地を1図としたものと考えるO そうすると 4図18里26坪字棄は現在の字夏目に 近づく。その場所は池の中であるが、この池は昭和になって造られたものであり、それ以前は収穫の多 い水田だった。また 3図20里 6坪・ 7坪字曾禰田も現在の大字曽根に近づく。
しかし、雷山・恰土地区は中世、恰土庄として一括され、そして雷山地区も大字有田以北では恰土地 区と合流するので両地区を別個に考えることはできない。この地区は左下から千鳥式坪並になっている。
よって条里を敷くときの最初の基準も最も左下であろうと思う。それが鞍掛石である。これに従って条 里を敷いていくと今度は恰土地区で史料の坪・字と現在の字が合致しない。条里の復元については雷山・
恰土地区全体をみて検討しなければならない。
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