工部大学校理学研究棟について : 研究ノートに代 えて
著者 植村 正治
雑誌名 同志社商学
巻 63
号 5
ページ 578‑600
発行年 2012‑03‑15
権利 同志社大学商学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012863
工部大学校理学研究棟について
──研究ノートに代えて──
植 村 正 治
Ⅰ はじめに
Ⅱ 工部大学校理学研究棟
Ⅲ 学課並諸規則から見た「理学試験場」
Ⅳ おわりに
Ⅰ は じ め に
日本は,明治以降,急速な経済発展を経験した。その大きな要因は,地下資源もしく は鉱物資源を活用したことがあげられる。収穫逓増や規模経済などの経済学用語は,こ のことを考慮しないと意味をなさないのではなかろうか。江戸時代では,主に利用でき た資源は再生可能資源しかなかったので,いかなる技術発展があろうとも経済発展には 限りがあった。明治以降,地下資源を利用することのできる技術を欧米から導入するこ とにより,江戸時代ばかりでなく,当時の他のアジア諸国に比して急激な経済発展が可 能になった。現在,再生可能資源利用が提唱されているが,江戸時代において高度な再 生可能資源利用技術がありなが
1
ら,支えることのできた人口は3300万人程度にすぎな かった。欧米から近代工業技術を導入し地下資源を利用することにより人口扶養力や国 際競争力を培うことができた。
筆者は,欧米の近代工業技術がどのような経路を経て導入され,伝播していったか を,お雇い外国
2
人や工学博
3
士に関する統計を利用して検証してきたが,工業技術そのも のについては,いわゆるブラック・ボックスとして検討することを避けてきた。前稿に
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1 植村正治『日本製糖技術史1700〜1900』(清文堂出版,1998年)では,江戸時代の讃岐製糖技術が高度 に発達していたことを検証した。
2 植村正治「お雇い外国人の統計的概観」『流通科学大学論集』経済・経営情報編,第12巻第3号,2004 年。「明治前期におけるお雇い外国人の統計観察」『大阪大学経済学』第54巻3号,2004年。「明治前 期お雇い外国人技術者・技能工の統計観察」,安岡重明編『近代日本の企業者と経営組織』同文舘出版,
2005年。
3 植村正治「近代日本における工学博士の統計観察」『流通科学大学論集』経済・経営情報編,第15巻第 1号,2006年。「近代日本における工学博士の出自の統計観察」『流通科学大学論集』経済・経営情報 編,第15巻第2号,2006年。「近代日本における工学博士の経歴の統計観察(1)」『流通科学大学論 集』流通・経営編,第19巻第2号,2006年。「近代日本における工学博士の経歴の統計観察(2)〜
(5)」『流通科学大学論集』経済・経営情報編,第15巻第3号(2007年),第16巻第1号(2007年),
第17巻第1号(2008年),第17巻第2号(2009年)。
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おいて,近代日本最初の本格的工学教育機関である工学寮(工部大学校)の成立過程を 概観した
4
が,本稿では,工学教育の基盤科目である理学教育に焦点をあててこの問題 を,不十分ながら検討することにしたい。
Ⅱ 工部大学校理学研究棟
工学寮大学校の授業は明治6年10月からはじまった。当初武蔵国川越藩・松平大和 守屋敷で行われ,7年1月から新築の小学校校舎に移っ
5
た。明治10年1月,諸寮が廃 されるにともない,工学寮は工部大学校と称され,同校は工部省工作局に属し,大鳥圭 介工作局長が事務を総理し
6
た。同年11月から新築の工部大学校校舎で授業が行われる ことになった。
第1図は,明治10年9月に完成した「工部大学校校舎立体設計図」である。図左下 に「工部大学校学課並諸規則中ヨリ抜萃」とあるように同校学課並諸規則にも掲載され ていたようである。同図は図版が明瞭だったため『旧工部大学校史料・同附
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録』に転載 されていたものを利用したが,この外,「Imperial College of Engineering(KOBU-DAI- GAKKO),Tokei. General Report by the Principal for the period 1873−77.」(以下,同文献
をGeneral Reportと略称する)に収録されている。同文献は,国立国会図書館,東京大
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4 植村正治「明治初期における工学教育機関の設立」『社会科学』(同志社大学人文科学研究所),第40巻 3号,2010年。
5 同論文,37ページ。
6 大蔵省編『工部省沿革報告』,1889年,797ページ,国立国会図書館蔵。
7 旧工部大学校史料編纂会編『旧工部大学校史料・同附録』虎之門会,1931年,巻頭図。
第1図 工部大学校校舎立体設計図
工部大学校理学研究棟について(植村) (579)215
学情報理工学図書館,グラスゴーのCourtesy Mitchell
8
Libraryに収蔵されているが,国
会図書館蔵のものには第1図が見当たらなかった。第2図が,完成段階の工部大学校敷 地全体の平面
9
図で,No.1とNo.1’の個所に第1図の校舎が建設され,未建設の左側校舎 部分は波線で描かれている。
さらに第3図は,国立国会図書館蔵の上記「General Report」に収録されていた「工 部大学校校舎平面明細図」で,上記東京大学情報理工学図書館やCourtesy Mitchell Libra-
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ryに所蔵されているものと同一であった。また第4図は『旧工部大学校史料・同附録』
に収録されていたもので,第2図と同様に,未建設校舎が波線で表示されている。興味 深いのは,W. H. Brock氏が紹介したCourtesy Mitchell Library蔵の校舎平面明細図で,
これには各教室等の名称が記されていた。第1表は,教室名称を見たものである。
明治11年4月,工部大学校の全工事完成式典が開催されるにともなって,工部卿・
伊藤博文,工作局長・大鳥圭介らは「皇族大臣参議勅任奏任官外国公使書記等」を工部 大学校に案内することになっ
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た。伊藤らが案内した個所は「第一図学教場,第二土木学 教場,第三数学及地質学教場,第四鉱山学教場,第五造家及ヒ図学教場,第六造家学教 場,第七理学試験場,第八理学教場,第九生徒館,第十博物場,第十一土木学試験場,
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8 Brock, W. H.,(1981)The Japanese Connexion : Engineering in Tokyo, London, and Glasgow at the End of the Nineteenth Century,British Journal for the History of Science,Vol.14, p.234.
9 旧工部大学校史料編纂会編,前掲書,巻頭図。
10 Brock前掲論文(p.235)では,出典を「Imperial College Engineering Tokei, Calendar, Session MDCCCLXXVII
−LXXVIII, TOKYO, 1877」としている。
11 大蔵省編,前掲書,800ページ。
第2図 工部大学校敷地全体平面図 同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
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第3図 工部大学校校舎平面明細図
第4図 工部大学校校舎平面明細図(完成時)
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第十二化学試験場,第十三書房,第十四講堂(生徒ヲシテ化学及ヒ理学地質学土木学等 ニ関スル諸技術ノ試験ヲ為サシム)」であった。第1表の「校舎完成式典時案内の各種 教室」欄に案内教室等を書き入れた。「教室等名称」欄とほぼ一致する。未建設のNo.1
〜5(第3図)の教室等は別の建物に配置されたものと考えられる。このうちNo.3, 4 の化学教室は,前掲Brock氏紹介の校舎平面明細図脚注に「Chemistry and Engineering laboratory were housed in separate block to the south-west of unbuilt left
12
wing」とあり,第
2図No.5〜7の建物のいずれかに収容されたものとみられる。ちなみに上記案内建物の
うち第4図以外の建物として,第九生徒館は第2図のNo.3,第十一博物場は同図No.2 である。後者は工学寮大学校校舎内に配置されていたが,第4図の新校舎が完成するに ともなって旧校舎全体が博物場となっ
13
た。第十三書房
14
は,第4図のNo.13の2, 3階部 分を占め,1階部分が第十四講堂にあたる。
第4図の右側校舎のうちNo.2, 7, 17を除く部分が理学研究棟であった。明治6年6 月,「電信及理学教師」として工学寮に着任したエアトン(W. E.
15
Ayrton)は,当初,
第2図No.2の建物で教育研究を行っていたが,工部大学校校舎完成後に新館校舎に移
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12 Brock,op. cit.,p.235.
13 植村,前掲論文,41ページ。
14 同論文,31ページ。
15 エアトンについては,高橋雄三氏の詳細な研究がある(「エアトンとその周辺」『技術と文明』7巻1 号,1991年)。
第1表 理学研究棟教室等名称
No. 教室等名称 教室等邦訳名称 校舎完成式典時案内の各種教室 1
2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19
General Lecture Hall Classrooms Chemistry
〃 Secretary’s office Principal’s room Professors’ rooms Class anteroom General Drawing office Engineering Drawing office Surveying Drawing office
Architectural Drawing office and staircase Library and Common Hall
Boiler house
Mining lecture and demonstration rooms
〃 Printing office
Natural Philosophy instrument room Natural Philosophy laboratory and demonstration room
一般講義室 教室 化学教室
〃 書記室 都検室 教授室 クラス控室 一般製図室 土木製図室 測量図製作室
建築設計室および階段室 図書館および講堂 ボイラー室
鉱山学教室および実習室
〃 印刷室 理学器具室
理学試験室および実習室
第十二化学試験場
第一図学教場 第二土木学教場
第五造家及ヒ図学教場、第六造家学教場 第十三書房、第十四講堂
第四鉱山学教場
第七理学試験場、第八理学教場
〃 同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
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転した。エアトンは,「Imperial College of Engineering, Tokei. Class Reports by the Profes- sors for the period 1873−
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77.」(以下,Class Reportと略称する)の中で,次のように指摘
している。
It may here be mentioned that the Natural Philosophy Department has up to the present time occupied temporary quarters totally unsuited for the purpose both as regards space and light, and decidedly injurious to health from the total absence of ventilation. The new buildings, however, to which it may be hoped that this Department may be shortly trans- ferred are as conspicuous in their abundance of the facilities for good work as the present rooms are in their absence*.
それまで理学部門は仮施設で行われ,スペースや光度が不十分であったばかりでな く,換気が全く行われていなかったので,健康に害を及ぼしたが,新しい校舎は,研究 教育のために十分な設備が整い,旧校舎とは著しい違いである,としている。上記引用 文最後の「*」に対応する脚注文が,当該ページ下段に挿入されている。「This change from the old to the new buildings was effected, in November 1877, after the writing of report.」と あり,エアトンの希望通り,1か月後には新理学研究棟に移転することになった。理学 は専門基礎科目に相当し,その中に電信学科を包含するものの,理学科というような1 つの学科を形成していなかったにもかかわらず,第4図のように,工部大学校校舎全体 に占める理学研究棟の比率は大きい。
エアトンと同門で,多くの共同研究を行ったペリー(John Perry,明治8年9月着任)
は,この理学研究棟に2度言及している。エアトンが61歳の生涯を終えた1908年,彼 の死を悼んで書いた死亡者略歴の中で,次のように指摘し
17
た。
The presence of Maxwell at the Cavendish Laboratory, and the presence of Kelvin at Glasgow, alone prevent our saying that no other laboratory then in existence was worth mentioning in comparison with the Japan laboratory. No wonder that Maxwell jestingly said that the electrical centre of gravity had been shifted to Japan.
日本の研究所と比較して言及に値する研究所は,マクスウェルのキャベンディッシュ 研究所(ケンブリッジ大学),グラスゴー大学のケルビン(W. トムソン)研究所だけ であり,マクスウェルが冗談で,電気学の重心が日本に移ったと指摘したのも当然であ
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16 東京大学情報理工学図書館蔵。国立国会図書館蔵。
17 Perry, J.,(1908)Obituary : William Edward Ayrton, F. R. S.,The Electrician,Vol.62, p.187.
工部大学校理学研究棟について(植村) (583)219
る,としている。電信学科を明治14年に卒業し,翌年に工部大学校教員となった浅野 応輔が「ダブリユー・エルトン先
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生」において「先生の研究の結果は続々として発表せ られ,世界の学界を驚かしたものである。彼の有名なロード,ケルビン卿は之を評して
「電気学界の中心は日本に近づけり」と云はれた」と,エアトンの業績に言及したが,
後段部分は,この死亡者略歴に依拠したのであろう。
次の文章は,1910年,エアトンが勤務していたCentral
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Institutionのジャーナルに投 稿したものであ
20
る。
When I arrived in Japan in 1875, I found a marvellous laboratory, such as the world had not seen elsewhere. At Glasgow, at Cambridge, and at Berlin, there were three great per- sonalities ; the laboratories of Kelvin, and of Maxwell, and of Helmholtz, however, were not to be mentioned in comparison with that of Ayrton. Fine buildings, splendid appara- tus, well-chosen, a never-resting keen-eyed chief of great originality and individuality : these are what I found in Japan.
工部大学校新校舎が完成したのが1877年なので,ペリーが来日した1875年には工学 寮旧校舎しかなかったはずである。ペリーの勘違い,もしくは早くから存在していたこ とを誇張するための脚色であろう。この時,彼は世界のどこにもないすばらしい研究所 に遭遇し,その研究所と比較すると,グラスゴー,ケンブリッジ,ベルリンの研究所は 語るに足るものではなかった,とまで賞賛している。その建築物,備え付けられた装置 ばかりでなく,エアトンの独創性・個性にも高い評価を与えた。
工部大学校理学研究棟に関する詳細な報告が残されている。1つは,「A Visit to Profes- sor Ayrton’s
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Laboratory」と題するThe Japan Weekly mail紙の記事(1878年10月26日。
以下,Weekly記事とする)である。もう1つは,学校建築設計家のE. C. ロビンズが エアトンからもらった詳細資料に基づいて報告したものであ
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る(ロビンズ報告とする)。
エアトンは1878年に帰国し,翌年ロンドン市同業組合協会が設立したフィンズベリー 技術学校(Finsbury Technical College)の応用物理学教授に就任し
23
た。この時,ロビン ズは同校執行委員会のメンバーであった関係から,エアトンから詳細資料を入手するこ
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18 浅野応輔「ダブリユー・エルトン先生」『明治文化発祥記念誌』大日本文明協会,1924年,41ページ。
19 Central Institutionについては,高橋前掲論文(26ページ),広瀬信「イギリス技術教育機関における工
学教育の発展(2)」(『富山大学研究論集』No.8, 2005年,7ページ)に詳しい。
20 Perry, J.,(1910)W. E. Ayrton,The central[journal of the City and Guilds of London Institute, Central Institu- tion, South Kensington], 7, 70.(Brock,op. cit.,p.227)
21 The Japan Weekly Mail, Oct. 26, 1878.国立国会図書館蔵。
22 Robins, E. C.,(1880)Buildings for Secondary Educational Purposes Part II,The Builder, Vol.38, April 17, p.484.
23 高橋,前掲論文,26ページ。John Perry,op. cit.,p.187.
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
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とができたのである。同報告書は,ロビンズ著「Technical School and
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Building」(1887 年)にも若干の変更を加えて収録されている。
ロビンズ報告には詳細な複数図面が掲載されているので,これら図面と,両文献を並 行させながら,理学研究棟の構造や実験・実習器具室の配置などを検討していこう。
第5図は,理学研究棟1階平面
25
図である。建物の方向が90度異なるが,前掲第3・4 図と同一であることがわかる。後者では多くの部屋がNo.19の理学試験室および実習 室となっていたが,第5図ではより詳細である。a室は実習室(Demonstration Room)
で,以下,b一般試験室(General Laboratory),c乾燥室(Artificially Drying Room),d 洗面所(Lavatory),e教授室(Professors Private Room),f器具室(Instrument Room),
g・h電気実験室(Electrical Experiments)である。
両文献ともに,実習室(Weekly 記事では講義室としている)からはじまる。実習室 は50フィート平方で,2階部分も利用する階段教室となっており,天井から振り子な どの各種実験器具が吊り下げられている。第6図は,階段教室断面図や生徒用作業テー ブル平面図などを一括掲載したものであ
26
る。第6図−aが階段教室断面図で,第5図と 方向は逆向きになっていて,第6図では右方向に教壇が位置している。生徒用作業台は 4列に配置され,第6図−e・fの平面図から明らかなように各作業台に4〜5個のシン クが設置され,それぞれに「water」とあることから水道蛇口が設置されていたであろ う。eの真ん中3つのシンク間に,「・」が付され,その下に「gas」とある。明らかに
「・」はガス栓の位置を示している。f図では「・」が5個所確認できるので,eでも4, 5個のガス栓が配置されていたと見ていいであろう。
第6図−aのように,各作業台は煉瓦を積み上げた支柱で支えられ,全体のフローリ ングから切り離されているため,歩行などによる振動が作業台に伝わらないような仕組
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24 Robins, E. C.,(1887)Technical School and Building,Whittaker and Co.
25 Ibid.,Plate 45, p.299.
26 Robins,op. cit.,p.474.(註22)
第5図 理学研究棟1階平面図
工部大学校理学研究棟について(植村) (585)221
みになっている。それぞれの作業台で,生徒達は教壇で行われる教師の実験を繰り返す ことができた。教壇は第5図−a左端に配置されている。教壇も生徒作業台と同様,全 体のフローリングから切り離された基礎の上に据え付けられているが,コンクリート基 礎であった。別の平面図による
27
と,教壇の図5−アの個所には,ガス採集用水槽が据え 付けられている。第5図では細長い1つの水槽のようになっているが,実際には2つに 別れ,水道蛇口が3個所見いだせる。イ・エは作業台で,それぞれに1つずつガス栓が 配備され,ウは「stone pillar for very delicate experiment」とあった。
この外,実習室の壁に添っていくつかのテーブルが据え付けられている。これらは,
実験中に生徒がその場を離れた時,据え付けのガラスドアを引き下げることにより,実 験中の諸器具への埃の混入や,他生徒からの干渉をシャットアウトすることができるよ うになっている。また階段教室の床下は戸棚になっていた。
Weekly記事によると,b部屋(第5図)の一般試験室は小使達(kotskais)が実習器
具の準備をするための部屋であったが,そこには石製支柱のテーブル2台が設置され,
それぞれのテーブルでは電信学科の生徒と思われる数名が碍子やバッテリーを検査し,
トムソンの検流計を使用していた。この部屋にある工具棚は常に使用され,注意が払わ れていることがわかり,無数の引き出しにはアルファベット順にラベルが貼られてい た。Weeklyの記者が試しに引き出しを開けると,ラベル通りに銅,亜鉛,封蝋などが 入っていた。
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27 Robins, E. C.,(1880)Buildings for Secondary Educational Purposes,The Builder,Vol.38. April 10, p.449.
第6図 階段教室断面図・立面図,生徒用作業テーブル平面図・立面図 同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
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b部屋オの両側のテーブルは,a実習室壁沿いのテーブルと同じ機能を持っていた。
第7図
28
は,これらの平面図と正面図で,正面図には作業テーブルがガラスのサッシ窓で 閉鎖されている状態が示されているが,作業中はサッシ窓が開放状態となる。テーブル 基礎はコンクリートであるが,サッシ窓のフレームは部屋の床が支えている。エアトン の研究室にも同じ作業テーブル(e−オ)が据え付けられている。彼の研究室には書き 物机や本箱などがあった。
ロビンズ報告では,第5図−f・g・hについてはほとんど触れていないが,Weekly 記事によると,fを「large apparatus room」とし,部屋の周囲にガラスケースが設置さ れ,中央部には大型棚一式があった。第5図f平面図に一致する。記者はgを通り過 ぎ,hの部屋に入る。この部屋は「The Dark Chamber」と呼ばれ,そこには6つの石柱 が設置されていた,としている。第5図−h平面図に6つの四角形が描かれていること が確認できる。
これらのうち2つの石柱にはトムソンの電位計とその縮尺が置かれ,電位計について は日本に持ち込まれて以降6回分解されたが,正常に作動している。他の2つには検流 計が設置されていた。記者が訪問したあと,エアトンはこれらを使用して磁気速度を計 測し,最新で最良の光速計測結果に一致したことを発見し,電信を通して英国学術協会 に報告した。最後の2つの石柱のうち1つは,撚線の性質を研究するために使用され,
もう1つには,地震の磁石に対する影響に関する,日本人の考えを検証するための機器 が設置されていた。
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28 Robins,op. cit.,p.479.(註22)
第7図 サッシ窓付作業テーブル(上段,正面図。下段,平面図)
工部大学校理学研究棟について(植村) (587)223
Weekly記事は,諸設備の設置に関連して「During the construction of all this wood and glass work and indeed from the first conception of the building, we may imagine the heart- breaking difficulty experienced by Mr. Ayrton in getting his own ideas and not those of the officials, carried out by Japanese workmen」と,木製品やガラス製品については製作中,29 建物については初期構想段階からエアトンのアイディアを日本人職人に実行させるのに 多大の困難に遭遇したであろうと指摘した。工部大学校校舎の建築設計は,フランス人 ボアンヴィル(Chastel de
30
Boinville)が行ったが,少なくとも理学研究棟については,
上記のように様々な基礎工事が行われているので,設計段階から彼とエアトンとの間に 綿密な意見交換が行われたと考えられる。
理学研究棟2階にも,様々な部屋が配置されていた。ロビンズ報告は1階の平面図し か紹介していなかったが,「虎ノ門内三年町旧工部大学校左翼新築略仕様」という史
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料 に2階部分の平面図(第8図)が示されている。第5図と対照すればわかるように,上 段の平面図が1階部分で,下段が2階にあたる。史料タイトルに左翼とあるが,第2図 の新工部大学校本館(No.1)から見て,理学研究棟(No.1’)が左側に位置しているこ とを示している。
両文献ともに,5個の部屋を紹介しているが,必ずしも名称もしくは用途が一致しな い。ロビンズ報告では,(1)「rooms for experiments on light」,(2)「a small class-room」,
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29 The Japan Weekly Mail,op. cit.,p.1130.
30 ボアンヴィルについては,藤森照信『日本の近代建築』(上,岩波新書,1993年),泉田英雄「アルフ レッド・チャールズ・シャストール・デ・ボアンヴィルの家系について」(『建築史学』第52号,2009 年)に詳しい紹介がなされている。
31 大熊喜邦「明治建築史料」其四,『建築世界』17巻4号,1923年,42ページ。
第8図 「旧工部大学校左翼新築略仕様」の理学研究棟平面図 同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
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(3)「rooms for special experiments」,(4)「store-closets」,(5)「the battery-room」として いる。(1),(2),(5)についてはWeekly記事と一致するが,(3),(4)については,
ロビンズ報告では説明がない。Weekly記事で言及した作業場(workshop)と製図室(draw- ing office)がロビンズ報告の(3)と(4)に対応しているようであるが,前者では旋盤 や大工作業台などがあり,そこには2人の職人がいて,その1人が生徒から型板の説明 を受けていたとしている。製図室では,何人かの生徒は諸器具の施工図を作成していた が,大多数は実測の縮尺を行ったり,方眼紙にカーブを描いたりしていた。
ロビンズ報告では(1)についても詳しい説明をしていないが,Weekly記事による と,部屋として大きく,窓にはヘリオスタットが据え付けられ,太陽光の分析が行える ようになっていた。(2)は応用物理学の教室で,Weekly記事では,教授を補佐するた めに上級生による授業が行われたとしている。
ロビンズ報告によると,(5)には,200個のグローブ電
32
池と300個のダニエル電池が 保管され,これら電池は工部大学校内の一般的な電気作業や電信学科生徒用の電気的実 験に使用された。電池すべては,ガラス製のカバーで覆うことにより埃の混入を防ぐこ とができ,カバーには排気管が通じており,有害ガスを排出する仕組みになっていた。
同報告ではグローブ電池使用後,これを分解して亜鉛を鉛製のシンクに投入し,素焼瓶 も鉛製のシンクに浸し乾燥させることにより再製できることを記し,Weekly 記事では,
ダニエル電池に関する再製法を簡単に記すとともに,エアトン談として,容器が竹製で ある数千の小ダニエル電池を安価に製作したが,細菌が発生して性能が落ちることを紹 介した。
Weekly記事には理学研究棟以外の見聞が記されているので,付記しておきたい。記
者は前述の博物場(第2図−2)にも赴き,そこにはあらゆる種類の電信機器,たとえ ば電柱,碍子,送信機,受信器などが配備されていたとしている。いずれも実際に使用 できるような状態で,試みに送受信機の作動実験が行われた。また,「Mr. Ayrton printed my name on a slip of paper on the other side of the room」と記している。これはアーリン コート(D’Arlincourt)のファクシミリによる写真伝送実験であろう。明治10年,三條 太政大臣一行が同校を見学した際,博物場に陳列していた同機器の実演が行われた。こ の作業を担当した当時電信学科4年生の岩田武夫は,「公(三條公)に乞ふて文字の筆 記を願ひ,直に其の場に於て之を電送して実物其の侭のものを受信機より取外して観覧 に供し,一行を驚倒せしめ,大いに公の感賞を得た
33
り」と述懐している。ちなみに,こ
────────────
32 明治11年3月25日,中央電気局開局祝宴を工部大学校本館講堂(本文第3図−13)で開催することに なった。伊藤博文はアーク灯で席上を照明すること命じ,エアトンがこれを担当した(岩田武夫「旧工 部大学校史料参考記事」(旧工部大学校史料編纂会編,前掲書,29ページ)。この時,電源として2階 の書房に設置された50個のグローブ電池は,理学研究棟バッテリー室に保管されていたものであろう。
33 同書,25ページ。
工部大学校理学研究棟について(植村) (589)225
の装置は,「The Imperial College of Engineering, Tokei. Preliminary Catalogue of the Appara- tus in the Telegraph Museum, by W. E. Ayrton.
34
1877」に「D’Arlincourt’s Fac-simile Instru- ments」として掲載され,それには簡単な取扱い説明書が添えられていた。
工部大学校理学研究棟と比較するために,ケルビン研究所の内部をうかがってみよ う。ケルビンの後任,A. グレイ(Gray)は,「Nature」(March 25, 1897)に掲載された
「Lord Kelvin’s Laboratory in the University of
35
Glasgow」と題する報告の中で,ケルビン の研究所を紹介した。当初,ケルビン研究所はワイン貯蔵室などを転用した粗末な建物 であったが,1870年,ギルモアヒルにグラスゴー大学新キャンパスが完成するにとも なって,オックスフォード大学やケンブリッジ大学に倣ったゴシック様式の建物に移っ た。グレイはまず,一般作業試験室(general working laboratory)を写真付きで紹介し た(第9図)。写真一番手前にある机がケルビンの利用する机で,ケルビンはこの机で 研究員が得た研究結果を考察し,秘書に彼の文書を口述筆記させていたとしている。写 真の少し右側に基礎が独立した石製構造物があり,その中には,地球表面にある物体へ
────────────
34 電子ジャーナル・プラットフォーム JSTOR の19th Century British Pamphletsのうち,Bristol Selected
Pamphletsに収録されていたものである。この外,このPamphletsには,Class Report(本文参)のうち
のエアトン報告(Ⅳ. Natural Philosophy.Ⅴ. Telegraphic Engineering.),「The Imperial College of Engineering at Tokio」と題する「The Japan Weekly Mail」(1878年2月9日,16日版)に掲載された記事が収録さ れていた。1876年に創設されたブリストル・ユニバーシティー・カレッジ(Bristol University College)
の後身にあたるブリストル大学に残るパンフレットの中に工部大学校関係の史料が含まれたのは,同大 学で物理学を担当し,技術教育に熱心であったS. P. トンプソンが,フィンズベリーのエアトンやペリ ーと懇意で,互いに情報交換を行っていた結果(Thompson, J. S. and Thompson, H. G.,(1920)Silvanus Phillips Thompson,T. Fisher Unwin, Ltd. Adelphi Terrace),上記史料がエアトンからトンプソンに提供さ れたからであろう。1885年,トンプソンはフィンズベリー校長・物理学教授として迎えられた(Ibid., p.131)。
35 Gray, A.,(1897)Lord Kelvin’s Laboratory in the University of Glasgow,Nature,March 25.
第9図 一般作業試験室内部写真 同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
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の月の引力の影響を調べるための振り子が納められていた。
その机の後ろにもう1つの机があり,さらにその奥に2つの大きな石柱が写ってい る。これは上階の仕切り壁を支える柱で,この柱には,写真右奥の階段下に置かれたダ ニエル電池棚から電線が引かれ,発電機が導入される前まで様々な実験に必要な電気が 供給された。左石柱の左側には個室があり,特別な実験や結果の考察がじゃまされず実 施できたとしている。
右奥の階段を上がっていくと,階段教室座席下にある小部屋にたどり着き,まっすぐ 行くと階段教室,後ろに行くと器具室に入る。グレイは2枚の階段教室内部写真を掲 げ,いずれも教壇が写るように左右両方から内部を撮影している。特に説明はないが,
細長い教卓は生徒座席に向かって円形にせり出し,生徒机はやはり細長く教卓と同心円 を描いているような配置である。写真の1枚には(第10図),黒板に向かって左端の教 卓に立てかけられたガスボンベが写っており,工部大学校のようにガス栓が常設されて いなかったことをうかがわせる。一方生徒の机には,ガス栓や水道蛇口は配備されてお らず,通常の大学階段教室机と異なるところは見いだせない。
階段教室内には,進行中の様々な実験器具が設置されていた。物質の特性を明らかに するための装置,板と靴用ワックスを利用した氷河モデル,砂糖溶液・硫酸銅溶液・ア ルコール溶液に関する浸透圧実験を行うための巨大な実験管があった。また教卓上には ジャイロスタットの動きや歳差運動を説明するための器具が置かれていた(第11図。
第10図とは別の日時に撮影されたものとみられる)。特に前者について詳しい説明がな され,黒板にはジャイロスタットの構造やその安定性に関する図解が掲げられている。
また階段教室屋根の梁からは,振り子,ロープ,ジャイロスタットなど物理学の実習に
第10図 ケルビン研究所講義室内部写真Ⅰ
工部大学校理学研究棟について(植村) (591)227
とって重要な器具がぶら下がっていた。
反対方向にある器具室は広く,高さは18〜20フィートあった。部屋内部には,部屋 のほとんどを占める2つの大型収納ケースと,壁添いに設置した2つの収納ケースがあ った。収納ケースには多数の古めかしい器具ばかりでなく,より近代的で歴史的に興味 深い器具があった。その例としてケルビンが海底ケーブルを通して送られてくる信号の 受信機として使用した最初の反照検流計,ジュールの熱の仕事等量測定器,気体の臨界 状態を検査するためのアンドリュースの装置をあげている。
2階の他の部屋は,電位計や他の電気器具を納める完璧な展示室となっていた。ケル ビンが電気科学に大きな貢献した電位計については,初期の粗雑なものから完成度の高 いものまで様々な種類が収納されており,その発展過程がわかる。
器具室から離れた個所に理学教授室があり,当初,ケルビンが精力的に仕事をこなし ていたが,現在は彼の甥のJ. T. ボトムリー(Bottomley)が使用している。これに隣接 する部屋には,ボトムリーが専門とする高真空研究のための作業台や水銀ポンプなどが 装備されていた。
前掲の一般作業試験室(general working laboratory)と同じ部屋ではないかと思われ る1階のgeneral physical laboratoryに隣接する部屋には,ガス機関を動力とする発電機 が設置され,物理学部と学部教授室に照明用電力を送電した。またエンジン室の上の部 屋には2次電池が用意され,ここに蓄電された電気は,研究用や白熱灯用に供給され た。
最後に,様々な材質の線材に対する引張応力の長期的影響を実験するための天井の高 い部屋について言及している。部屋に設置した縦長のケースに,金,プラチナ,パラジ ウムの線材が2組ずつ吊され,それぞれに破壊荷重の4分の3と10分の1の荷重をか け,カセトメーターでそれぞれの線材の長さの変化を観察するようになっていた。また
第11図 ケルビン研究所講義室内部写真Ⅱ 同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
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同じ部屋に設置されていた巨大な水銀圧力計にも言及した。
以上が,グレイが紹介したケルビン研究所の内部と諸実験装置の重立ったものであ る。図面も測定値も記載されていないので,工部大学校理学研究棟との比較は困難だ が,いくつかの点が指摘できる。まず,同研究所は文字通り,ケルビンを中心とした研 究所であったことが指摘できよう。最初に紹介された一般作業試験室には彼の作業机が 置かれ,その奥には彼専用のものと思われる個室があり,2階にはもう1つの個人研究 室を持っていた。また彼の主な専門分野の電磁気学に関連する実験器具が完備されてい た。講義室には,工部大学校理学研究棟のように水道・ガスが常備されておらず,生徒 に対する実習教育は効果的でなかったであろう。ケルビン研究所には発電機が導入され ていたが,おそらく,工部大学校校舎が完成したころにはまだ整備されておらず,電気 実験などにはダニエル電池などが使用されたものと見ていいであろう。
前述のように一般作業試験室の中には上階の壁を支えるための大きな石柱が2本そび え立っている。グレイは,新グラスゴー大学建物は大学の基本設計に制約され,教室な どの利用には便利にできているが,「for a university, in which provision must be made for great experimental departments, such as physics, chemistry, physiology, zoology, and anat- omy, it is far from being well
36
adapted」と,物理学や化学などのように大規模な実験学部 に備えなければならない大学にとって不適当であるとしている。
少なくともケルビン研究所と比較すると,前述のペリーの工部大学校理学研究棟に対 する評価が身びいきのものではなかったことがかわる。
Ⅲ 学課並諸規則から見た「理学試験場」
工部大学校(工学寮)学課並諸規則(以下,諸規則とする)には,英文(「Imperial Col- lege of Engineering, Tokei. Calendar」もしくは「The Calendar of Imperial College of Engi-
neering, Tokio」,以下,Calendarとする)をともなっていた。いずれも,明治年6, 7年
から明治18年にかけて公にされているが,各年すべてについて現存していないようで ある。本稿では,国立国会図書館(法令全書を含む),東京大学情報理工学図書館,お よび国立公文書館所蔵のものを利用したが,以下では,一々利用史料所蔵先を示さな い。
明治7年2月布達の諸規則が最初のもので,以降,ほぼ同じ形式を取っている。この 時すでに理学試験局(明治10年以降,理学試験場となる)ばかりでなく,化学試験局,
工作場,博物局が存在し,それぞれの研究室において実験・実習が行われた。理学試験 局に関する規則は(第66〜71條),次のように記されている。
────────────
36 Ibid.,p.487.
工部大学校理学研究棟について(植村) (593)229
第六十六條 理学試験局ハ生徒ヲシテ理学ノ要理ヲ習熟セシメ、以テ工業ニ従事ス ルノ要術ヲ知ラシムル所ナリ
第六十七條 初学ノ生徒ハ究理ノ法並経験ヲ受学スヘシ、其他例外ノ課ハ生徒志願 ノ工業学課ニ準シテ一定ナルヲ得ス
第六十八條 「シビルインジヱニール」ヲ学フノ生徒ハ実地ニ万有ノ性質物品ノ強 弱ヲ究明ス
第六十九條 「メカニカルインジヱニール」ヲ学フ生徒ハ蒸気瓦斯ノ性熱ノ法物品 ノ強弱ヲ究明ス
マクネチスム
第七十條 電信生徒ハ電気流電気ノ法及之ヲ実地電信ニ用ユルノ法ヲ究明シ、且夏 季間実地ニ就キ電信線電信台ヲ試験スルコトヲ研究シ電信器ノ作用ヲ学フ 第七十一條 化学鎔鋳学ノ生徒ハ専ラ化学ニ関係スル理学ニ注意スヘシ
以下,Calendarと照らし合わせながら,諸規則の中で理解しにくい個所については,
Calendarに依拠した。第2表は,筆者が入手できた諸規則・Calendarの年代・月を掲げ
たものである。明治7年2月と12月の諸規則は明治6年Calendarに依拠して翻訳され たものである。第66條では,理学理論を習熟させ,理論の工業技術への応用を学ばせ る所としている。Calendarでは後者文を「the applications of the principles of Physics to En-
gineering」と表現している。第67條によると,初学生徒については一般的な理学理論
や実験(experiments)を学ばせ,専門分野に進んだ生徒には,それぞれの専門に応じた 学習内容が用意されている。まず「シビルインジヱニール」の生徒は,実地に物質の特 性(the properties of matter)や材料力学を究明し(第68條),「メカニカルインジヱニ ール」の生徒は蒸気やガスに関する特性,熱力学,材料力学を学ぶ(第69條)。電信学 科(電気工学科となるのは明治17年から)生徒は,電磁気学理論を学び,これを実際 の電信に応用することを学ぶが,夏季(4〜6月)には現場に赴き電信線や電池(batter-
ies)を試験する方法や,電信機の使用法を学ぶ(第70條)。ちなみに,前述の浅野と
同期の藤岡市助は,明治13年6月26日から8月22日にかけて北海道開拓使管下の電 信線建築工事に従事したことを報告している
37
し,浅野伝によると,電信学科における授 業は「実習期に入ると,単に電柱の建設にすぎなかっ
38
た」としており,電信線工事が電 信学科生徒の大きな負担であったことがわかる。
第71條では,化学鎔鋳学科生徒を対象にして化学に関連する理学分野を取り扱うと している。諸規則では,明治10年まで学科として実地化学科と鎔鋳学科とは分離され ていたが(第2表のように明治7・8年の Calendarが見いだせなかったが,9年のそれ
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37 瀬川秀雄編『工学博士藤岡市助伝』第二編遺稿,電気日報社,1933年,1〜8ページ。
38 堀岡正家編『工学博士浅野応輔先生伝』電気日本社,1944年,8ページ。
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
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では「Practical Chemistry and Metallurgy」と,1つの学科となっていた),金属精錬が化 学反応を利用する湿式で行われることが多かったので,実質的には両学科は合同されて いたようである(Calendarでは明治13年から再分離)。
明治7年12月の諸規則も明治6年Calendarに依拠しているので同内容であるが,若 干日本語訳が変更された。「シビルインジヱニール」が土木学,「メカニカルインジヱニ ール」が機械学,第70條の「電気流電気」が「電気磁気」と改訂された。
明治8年6月の諸規則から章節立てとなり,「第十四章 理学試験局」と表記され,
内容にも若干の変更が見られる。それまでの諸規則およびCalendarでは,入学後の4 年間は夏季に校内学習,冬季に実地研修を行う,いわゆるサンドイッチと称される学習 方法を義務づけていたが,明治8年では入学後2年間はすべて校内学習(予科学)とな り,次の2年間(専門学)にサンドイッチを行うことになった。諸規則変更の背景には このようなカリキュラム上の変更があったことにもよろう。この時の諸規則から10年 3月の諸規則まで記述内容の変化がなかったので,9年Calendarは,8年Calendarと同 内容であると見なせよう。9年Calendarと対応させながら変更個所を検討していく。
第66條にあたる個所は「理学試験局ハ生徒ヲシテ究理ノ手術ト理学ノ要理ヲ習熟シ,
以テ工業ニ活用スルヲ熟知セシムル所ナリ」となった。「究理ノ手術」はphysical manipu- lationで,実験器具の操作法のことを示していよう。また「the experimental verification of the fundamental laws of Natural Philosophy」ともあることから,実験を通して「理学 ノ要理」を学ぶということであろう。すでに6年Calendarでpracticallyという言葉が 使用されていたので,9年Calendarでは実験・実習を一層強調しようとしたと考えら れる。「工業ニ活用スル」となったのは日本語表現の変更による。
第2表 閲覧諸規則・Calendar年月
年代 諸規則 Calendar
明治6年(1873)
明治7年(1874)
明治8年(1875)
明治9年(1876)
明治10年(1877)
明治11年(1878)
明治12年(1879)
明治13年(1880)
明治14年(1881)
明治15年(1882)
明治16年(1883)
明治17年(1884)
明治18年(1885)
2・12月 6月 3月 3月 12月
2月
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○ 注:何月と書き込まれているのは,当該月の諸規則が存在していることを
示し,○印は月が明示されていない諸規則・Calendarを示している。
工部大学校理学研究棟について(植村) (595)231
学習内容に関し,7年では,「初学ノ生徒」向けと専門生徒向けの2種類があったが
(第67條),8年では3種に分類されている。第1は「初学ノ生徒」向けにあたる内容 で「其一教師講義ニ於テ行フ所ノ試術ヲ生徒ヲシテ反復温習セシム」としている。2年 間の校内学習を充実しようとするエアトンの意図がうかがわれる。第2は専門生徒向け のもので,明治7年の内容とほぼ同じであったが,第70條の但し書きが削除されてい た。エアトンは,電信学科生徒にとってあまりにも実地にすぎて3, 4年段階での学習 として不適当と考えたのかも知れない。
第3については「生徒ノ物理ヲ推究スルニ新規工夫ノ特才アル者ハ慫!奨励益々之ヲ 推究セシメ,而シテ其実地ニ試験スルニ於テハ則教師ノ助ケテ之ヲ行ハシム」とある。
オリジナルな研究を行いたい生徒に対してはこれを奨励し,彼らが実際にこれを実行に 移す場合,教員が支援するとしている。
明治11年12月から内容が次のように変化した。
此場ヲ設クルノ主旨二様アリ
其一 予科生徒ヲシテ理学諸器具ノ用法ヲ習熟シ、以テ平生学フ所ノ理学ニ関スル 顕象ヲ実験シ、且ツ其顕象ノ因テ生スル所以ノ理ヲ明晰セシムルニ在リ 其二 専門科生徒ヲシテ書籍或ハ教師ニ就テ学フ所ヲ試験考究シ、其方術ヲ習熟シ
テ他日各自専門ノ事業ニ実用セシムルニ在リ
「其一」は最初2年間の予科生徒向けの学習内容で,明治11年のCalendarとも照ら し合わせながら検討すると,理学実験器具とその使用方法を学び,これに基づいて授業 で教えた理学的現象を実験し,その現象の原因となる諸法則を明らかにする。「其二」
は専門科生徒向けで,Calendarでは,「to carry out original and other investigations suggested by their studies or pointed out to them by their teachers.」とあった。諸規則にはオリジナ ルという意味が含まれていないし,英文に含まれていない「書籍」という語が使用され ている。翻訳側に何らかの意図があったのであろうか。また学科別の理学実験・実習に 関する項目が省かれており,全体にそれ以前に比して簡略化されている。エアトンは明 治11年6月に任期を終え,理学の授業は,それまで数学担当であったD. H. マーシャ ル(Marshall)が行うことになったことによろう。Calendarによると,彼はエジンバラ 大学卒業のMaster of Artsであった。前掲『旧工部大学校史料・同附録』に含まれる卒 業生の回想記に,理学教師としてエアトンの名前は頻繁に現れているが,マーシャルの 名前は数学教師として以外,全く語られていない。
エアトンは,Class Reportの中で,授業については5年生の志田林三郎と川口武一郎
(在学中に死亡)とが理学授業を補助し,理学試験場では川口と荒尾邦雄とが助手とし
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
232(596)
て尽力したことを記している。荒尾は『官員
39
録』(10年6月)に工作局5等技手補とあ り,明治10年諸規則および Calendarでは理学助手となっていた。その後,明治15年
(同年諸規則)まで「理学場」を担当し,16年からは「学生課生徒取締」に就任した。
マーシャルは,工部大学校を辞める明治14年3月まで,荒尾や,明治13年5月にイギ リス留学するまでの志田,志田の2年後輩でエアトンの指導を受け,明治15年5月に 工部大学校に理学教授補として着任した,浅野応輔,藤岡市助,中野初子らの支援を受 けながら理学試験場の運営を行わざるを得なかったのではなかろうか。このような事情 が諸規則変更の背景にあったのであろう。理学試験場に関する明治11年と明治12, 13
年のCalendar(第2表)は同一文章であるし,明治11年と明治15年の諸規則も同一文
章であった。
明治16年以降の諸規則・Calendarは,前述の志田林三郎の影響の下に規定されたも のであろう。志田は,16年4月にイギリスから帰国し,同年6月には工部省電信局御 用掛とな
40
り,8月に電信局権少技長および工部大学校教授に就任し
41
た。また,すでにダ イアーが15年6月に退職していたことも,自由に諸規則を変更できた要因であったろ う。
15年以前の諸規則は外国人教師が書いたCalendarに即したものであったが,16年か らは逆に日本語の諸規則を英訳してCalendarとしたと考えていいであろう。また,そ
れまでのCalendarの場合,講義についてはすべて「Natural Philosophy」という表記で
あったのに対して試験場については「Physical Laboratory」となっていたが,16年と18 年のCalendarでは,試験場も「Natural Philosophy Laboratory」と表記され,講義表記に 統一された。日本語の理学試験場に近い表現になった。次の史料は,16年の理学試験 場に関する諸規則で,17, 18年の諸規則もほぼ同一であった。
第十二章 理学試験場
第一節 理学試験場ハ室内ノ区処能ク其目的ニ適シ、事業用ノ机及台ノ如キハ能ク 整備シテ、器械ヲ排置スル台ノ如キハ石基上ニ設置スルモノアリ、玻璃箱ヲ以 テ外囲ヲ掩へ以テ風塵ノ侵スヲ防クモノアリ、而シテ場内ノ台ニハ都テ水及ヒ 瓦斯ヲ供給スルノ装置アリトス、又タ大ヒナル火竈台アリ、風室アリ、又タ烟 筒アリ、以テ有害ナル瓦斯ノ通路トナス
第二節 又タ場内ニハ夥多ノ器械ヲ備へ以テ教官ノ講義ヲ授クルニ説明ノ用ニ供 シ、且ツ生徒実験ノ用ニ供ス
────────────
39 日暮忠誠編『官員録』拡隆舎,1877年,国立国会図書館蔵。
40 彦根正三編『改正官員録』博公書院,1880−1884,国立国会図書館蔵。
41 逓信省電務局編『帝国大日本電信史沿革史』,1892年,72ページ。
工部大学校理学研究棟について(植村) (597)233
第三節 器械ハ場内ノ器械室ニ陳列ス、之ヲ借用スルノ手続ハ他ノ物品陳列室ト同 様タルヘシ
第四節 理学科助教授ハ器械陳列室ヲ管理シ之ヲ保管スルノ責任アリトス 第五節 生徒事業ヲ執ルハ助教授ノ指揮ニ従ヒ、其面前ニ於テスヘシ
第六節 生徒課業ノ際机上ニ於テ使用スル為メ細小ノ器具機械ヲ借用スルニハ、定 式ノ如ク借用証ニ記名調印スヘシ、而シテ返納ノ際ハ当初ノ如ク能ク整頓ナル ヘキヲ要ス
第七節 生徒借用ノ器具機械ヲ破損シタルトキハ返納ノ際其事由ヲ弁明スヘシ、若 シ其破損生徒ノ不注意ニ起因スルトキハ、其損害ノ多少ニ依リ保証人ヲシテ修 理或ハ代品ヲ以テ弁償セシム
まず,第1節では理学試験場に設置された設備などが詳細に記されている。興味深い ことに,前掲のロビンズ報告やWeekly記事と同内容のことが記されている。「器械ヲ 排置スル台ノ如キハ石基上ニ設置スルモノアリ」とは,器械設置台は試験場建物フロア ーと切り離された石製基礎の上に置かれているということである。Calendarでは「de- tached from the floors of the building」と丁寧な説明が付け加えられている。瑠璃箱(glass case)で器械が覆われ,風塵の進入を防いだこと,水道,瓦斯が配備されていること,
風室(draught chambers)や烟筒が据え付けられ,有害ガスを室外に排気できることな どが記されている。火竈台(table-furnace)については,前掲の2文献には記されてい なかったので,後に追加されたのかも知れない。
第2節では,試験場の目的が簡単に記されている。第3節の器械室は前掲第5図−f の器具室(Instrument Room)とした部屋であろう。「物品陳列室」は博物場のことで,
これら2つの部屋に納められた実験器具の貸出方法は同じであるとしている。第4節以 降は,実験器具等の管理責任は「理学科」助教授にあり,生徒への指導は助教授が行う こと,などなど細かな規定が記されている。
明治17年に電信学科が電気工学科に変わるに応じて,電気工学試験場が設置され,
次のように規定された。
第十三章 電気工学試験場
第一節 現今別ニ此場ノ設ケナシ故ニ理学試験場ヲ以テ其用ニ充ツ、而シテ電気工 学ニ係ル事業ハ電気工学科教授助教授ノ指揮ニ従フモノトス
第二節 場内験電器室アリ、数基ノ石台ヲ設ケ之ニ「トムソン」氏ノ試験器等ヲ備 へ其他必要ノ装置ヲナセリ、又タ一大室中ニ各種ノ電槽数百ヲ備へ此二室ヨリ 電線ヲ通シ場内ノ器械室及ヒ其他ノ各室ヲ連接ス
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
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第1節では理学試験場と共用とすること,電気工学科教授・助教授の指揮に従うこと が指摘されている。第2節は,理学試験場と同様,試験場内の諸設備について触れてい る。「電器室」は前掲第5図−hのことであろう。トムソン氏の試験器とは前述のトム ソン電位計,「数基ノ石台」は同部屋内部に設置された6つの石柱のことである。前掲
のWeekly記事とロビンソン報告には示されていなかったが,これらの石柱は18年Cal-
endarに「with detached stone pillars」とあることから,建物フロアーとは別の基礎を持 っていたようである。「一大室」は,ロビンズ報告にある研究棟2階の「the battery- room」のことで,この部屋には多数の様々な電池が設置されていた。ロビンズ報告で は200個のグローブ電池と300個のダニエル電池とがあげられていたが,18年Calendar ではガルバニ電池だけが具体例としてあげられていた。電線を通じて「電器室」と「一 大室」すなわち「the battery-room」の2室と,各施設とが繋がれていた。
Ⅳ お わ り に
工学教育に必要な資財として,(1)実物器具などを利用して実験・実習を行う試験・
実習室,(2)図面・模型・実物器具,およびこれらを収納・展示する博物館,(3)図書 および図書館があげられる。これらの資材を利用しながら教師という人間によって理学 教育が行われたのである。本講では,工学教育のうち,基盤科目である理学教育に関し て,(1)に焦点を当てながら工部大学校理学研究棟全体についても,不十分ながら検討 を加えてきた。
工学寮段階では,小規模な建物で実験・実習が行われていたが,工部大学校となった 年の11月には新築の理学研究棟に移った。The Japan Weekly Mailの1878年10月26 日の記事と,イギリスの学校建築設計家ロビンズの報告書(1880年4月)に基づいて,
この研究棟の構造,設備,試験室配置,器具室などを検討した。さらにイギリス・グラ スゴー大学ケルビン研究所に関する報告書から同研究所の内部構造などをうかがうこと ができた。全く異なる種類の報告書から,工部大学校理学研究棟とケルビン研究所とを 単純に比較することは難しいが,ペリーが工部大学校理学研究棟の素晴らしさを絶賛し たことは間違っていなかったと考えていいのではなかろうか。
さらに諸規則,およびCalendarから理学研究棟(理学試験場)に関する規則内容と その変化を検討することができた。基本方針として,理学を工業技術発展に応用するこ とをあげる。教育対象を予科生徒と専門科生徒に分け,専門科については学科ごとに各 専門分野習得に必要な理学実験・実習を行うとしている。明治8年6月諸規則および9
年Calendarから,2つの変化が見いだせる。それ以前に比して,より一層実験と実習
を強調したこと,教育対象を先の2つから1つ増やし,オリジナルな研究を行う生徒を
工部大学校理学研究棟について(植村) (599)235
加えたことである。この背景は,1年から4年までの4年間のサンドイッチ教育を改正 し,1, 2年は校内教育,3, 4年をサンドイッチ教育としたことが考えられる。
明治11年12月諸規則から内容が乏しくなる。オリジナル研究という項目や学科別実 験・実習内容の記載がなくなる。これは数学担当のマーシャルがエアトンに代わって理 学教育を行うことになったことによろう。彼が理学研究棟責任者であったとしても,実 質的には志田林三郎などの在校生,助手のポストにあった技術官僚らが運営に携わった と考えられる。
都検ダイアーが離日したあとの明治16年以降の諸規則も大きく変わる。同年に志田 らが工部大学校教員として着任し,諸規則は彼ら日本人の手によって作成された。内容 的には細かなものとなっており,自明のこととしてなのか,初期の教育方針などの記載 はなくなった。理学研究棟設備や試験室配置などに関してWeekly記事やロビンズ報告 で指摘されていたことが試験場規則の中に記されていた。また研究棟器具室や博物場に 収納された諸器具の貸出方法にまで及んでいる。
本稿では,上記の(1)とともに理学研究棟全体についても検証してきたが,今後,
(2),(3)を検討し,さらに理学教育内容にも触れてみたい。
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