カ ル ナ ー ダ ー サ 井 威 訳 Y , 玉
経験的存在についての初期仏教 の見解
1. 緒言 経験的存在についての初期仏教の見解については, 仏教の注釈文献において のみな らず, 現代の学者の側にあって も, 種 々さ ま ざまな解釈を生んで きた。 これら の解釈は素朴な実 在論から純然た る観念論 までの, 絶対的な一元論か ら始 ま っ て極端な多元論に至 る まで の 広が りを も っ てい る。 こ の当該の研究は, 無我 ( anatta) と い う 仏教独 白の 教義 と , 縁 起 ( paticcasamuppada) と い う仏教の最 も中心的な, 従 っ て最 も代表的な教義一 両教義 と も, ア ビ ダソ マにおいては, bheda と sa佃 aha の名で呼ばれてい る分析 と総合 と
い う二重の方法に基づいて, そ の立証が試み られてい る もので あるが, - と を考慮に入 れて, こ の問題を再検討し よ う と す る一つの試みで ある。 一 八 六 我 々が先に 「分析的方法」 と し て提起し た ものは, 外的世界に関連し て, 経験的な個人 存在の分析において見 られる。 そのよ う な分析は, 仏陀の教説中に五種類ある こ とが知ら れて いる。 まず第一は, 名 ( nama) と 色 ( rapa) 1 と に分析す る もので , それは経験的 個人存在の二つの主要な構成部分, すなわち 精神面 と 肉体面 と を表わす と い う 意 味 に お いて, 最 も基本的な もので あ る。 第二は, 五菖 ( khandha) す なわち色 ( rnpa) , 受
( vedana) , 想 ( safina) , 行 ( saflkhara) , 識 ( v弛砲 卵 ) に分析する もの2 で ある。 第 三は, 六界 ( dhatu) す なわち地 ( pathavi) , 水 ( apo) , 火 ( tejo) , 風 ( vayo) , 空
( akasa) , 識に分析す る もす る も の3で ある。 第四は, 十二処 ( ayatana) す なわち眼
(cakkhu) , 耳 ( sota) , 鼻 ( ghana) , 舌 ( jivha) , 身 ( kaya) , 意 ( mano) , 色 ( rUpa) , 声 ( sadda) , 香 ( gandha) , 味 ( rasa) , 触 ( photthabba) , 法 ( dhamma) に分析す る
もの4で ある。 第五は, 十八界 ( dhatu) に分析す る もので あ る。 これは十二処を更に詳
細にし た もので, 六根 とそ のそれぞれに対応する六境 と の接触の結果と し て生 じ る六識が 更に加わ って で き た も ので ある。 従 っ て その加わ っ た六識 と い う のは, 眼識 と耳識 と鼻識 と舌識 と 身識 と意識 と で あ る 5。
3。 総合に よ る アプ ローチ と こ ろ で, これ らの分析の意図はさ ま ざまであって一様ではない。 例えば, 蕊分析の主 要な 目的は, いわゆる経験的な個人存在を形づ く っている 諸總 の内外いずれにも, 自体 存在 ( self-entity) がない と い う こ と , つ ま り 「諸菖のいずれもが私のものではない」 ( netam mama) , 「それ らは私で はな い」 ( neso ham asmi) , 「それ ら は私の我では な い」 ( neso meatta) 6 と い う こ と を 示す こ と で ある。 こ の よ う にし て, こ の分析は。 「私のも の」 とか 「私」 とか 「私の我」 と い う観念が, 我のない心的物質的現象の集ま り にす ぎな い も のに, 入 り込むいかな る可能性を も除 く こ と を主た る 目的 と し てい る。 一方, 十八界に分析す る ものは, いわゆる意識が霊魂 とか実体的な 自我 と いった ものではな く て, あ る諸条件が集 ま る と そ の結果生 まれ, その全 く 同一の諸条件がな く な る と 滅す る と こ ろ の一つ の心的な現象で あ る と い う こ と を 示す ために, し ばし ば用い られ る。 つ ま り, それ 自体で存在す る よ う な独立の意識は存在 し な いのだ 7. 同様に, 各 々の分析は, 経験的存 在 の特性 と 関係す る一定の事実を説明す るために利用される。 実際, 仏教がその根本的な 教義を 説明す る のは, こ れ ら五種の分析 と の関連か らで あ る。 ( 少 く と も) 五種の分析が ある と い う ま さ にその事実が, それ らのいずれ もが, 決定的な ものと し て, つ ま り絶対的 な意味におい て受け と られ る も ので はな い と い う こ と を示 し て い る。 それ らには実践上の 価値があるにす ぎない。 それはそれ ら と の関連から説明が求め られ る個 々の教義に従って 決定 さ れ る価値だか らで あ る。 こ こ で強調し ておかな く てはな らな い も う一つ の事実は, これ ら の分析の各 々が経験的個人存在を全体 と し て表わし てい る と い う こ と で ある。 それ ら が表わす も のは, それ ら の根底に ある本体 の現象的な顕現で はな いので あ る。 それらは それらだけで感覚上の経験世界の全体を論じ尽 く すのであって, それの背後に背景と し て ある よ う な, いかな る実体 もない。 一 八 五 経験的存在 に対す る仏教の見解は, た だ分析にのみ基づいているので はない。 分析 とい っ て も, 総合 に よ っ て補足 さ れる こ とがなければ, それは, 感覚的な経験世界が, 相互に 依存し合 う こ と もな く 関係す る こ と もな い離れ離れの要素の連続へ と解消で き る ものであ る, と い う 間違 った印象を与え る こ とにな る。 こ のよ う な立場は, いわゆる極端な多元論 に行 きつ く 。 一方, 総合 も, 分析に よ っ て補足さ れ る こ と がなければ, 一元論に, つ ま り, 感覚的な経験世界が一つの共通の原因へ と還元で き る ものであ る と い う見解に立ち至るこ と にな る。 仏教においては, こ の二つの方法は, お互いを 補足 し あ う も ので あ り, またそ れ ら 自体, お互いに等し く 重要な役 目を 担 う もので もある。 そ し て, これら二つの方法を 併用す る こ と に よ って, 仏教は, 一元論 と多元論 と の弁証法的な対立を超越す る こ とがで
4。 縁起の教義の主た る先決条件 経験的存在について の初期仏教の見解 きるのだ。 総合 に よる ア プ ローチは, 縁起 ( causality) と い う 仏教教義に見 られる。 こ れに よ っ て こそ, 縁起 ( causal genesis) と , 経験的存在が分析 さ れてで き る と こ ろ の 諸要素の相互依存 と が説明さ れ るか らで ある。 何故に, 『相応部』 ( Samyuttanikaya) において, 「一切は単一で あ る」 ( sabbam ekattam) と 「一切は別異で ある」 ( sabbam puthuttam) と い う二つの言い回し に表わさ れて いる よ うな存在の一元論的及び多元論的 見解が, と もに支持で きない ものと し て退け られている 8 のかが, これによ ってはっ き り す る。 さ て, 総合に よ る ア プ ローチを表わす縁起 と い う 仏教の基本的な考え方は, 次のよ う に定義さ れて い る。 即ち, 「これある と き, こ れあ り。 これ生ず る と き, これ生ず。 こ れな き と き, これな し 。 これ滅する と き, これ滅す9. 」 つま り, これは, 結局のと こ ろ, 次のよ う にな る。 A がある と き, Bがあ る。 Aが生ずるに従 っ て, Bが生ず る。 Aがない と き, Bはない。 A が滅す るに従 っ て, B も滅す る。 以上の定義から 明らかな よ うに, 二 つの事象の一方 の在 ・ 不在が他方の在 ・ 不在を決定す る とす るな らば, その二つ は縁起的 に連関し ているわけで ある。 原因が 自ら展開し た り形を 変えた り し て結果 と な る ので もな ければ, 結果が原因の中か ら現われて く るので も ない。 そのよ う な因果の進化論的 ・ 創発 論的見解は, 根底にある一つの実体を予想し , 本体とそ の個有の性質 と を 区別す るこ と と なる。 仏教の因果律と い う のは, あらゆる実体論者の前提とは一切結びつ く こ と はな く て, 経験的に実証し う る用語で語られるので ある。 一 八 四 縁起 と い う仏教教義の主たる先決条件は, 次のよ う に述べる こ とがで き よ う。 (i)いかな る物事 も適当な諸条件な く し ては, 生起し な いと い う こ と 。 これは一般に認め られて い る因果律の妥当性を承認す る もので ある。 そ う い う ものと し て, 精神的な もので あれ, 物質的な もので あれ, すべて の現象は, 他の現象に依存 し て生起する。 要するに, それは, 「一切は無因 ・ 無縁で ある」 lo と い う成句において表わ されて い る よ う な無因性 ( adhiccasamuppanna) 11 の考え を 拒否する こ と で ある。 (ii)いかな る物事 も単一の原因から は生起し ない とい う こ と。 言い換えればこれは単一的 な因果論の考え一 仏教の註釈において, 一因論 ( eka-karaりa-vada) と言われ るもの12 - を 拒否する こ とで ある。 そ の意味する と こ ろ ものは, 経験的存在についての仏教の見 解とい う コ ンテ クス トにあっては, 大そ う暗示的である。 と い う のは, こ の見解に従えば, 感覚的な経験の世界を, 単一の原理に, つ ま り経験世界の存在理由と し て役立つ よ う なあ る種の自立 自存の形而上学的な基体に還元し よ う とする, そ うい う一元論的な形而上学の いかな る形態 と も, 仏教は無縁で あ るから で あ る。 つ ま りそれはまた, 感覚的な経験世界
5。 我説 ( iitmavi da) の否定 を , 超経験的な実在の顕現であ る と し て, あ るいは神の創造物 と し て説明し よ う とす るあ らゆ る見解を も拒否す る こ と と な るので あ る。 圃いかな る物事 も単一の結果 と し ては生起し ない と い う こ と。 従っ て, 物質の領域であ れ精神の領域で あれ, いずれにおいて も単一の現象と い う も のはない。 精神的な現象 も物 質的な現象も, と もに複合体 と し て, 群集の形で生起す る。 圖始源的な第一原因は考え られない と い う こ と 。 と い うのは, 因果律についての仏教教 義, す なわち縁起 ( paticcasamuppada) が明らかにし よ う と し てい る こ と は, 輪廻のプ l=xセ スがいかに し て発生す るか と い う こ と で はな く て, それがいかに持続し つづけ るか と い う こ と で あ るか らで あ る。 こ の こ と は, 仏陀の 「比丘 ら よ, 輪廻は無始で あ る。 前際は 知 られな い」 ( Anamataggayam bhikkhave
sam saro; pubbakoti na
paiiiiayati) 13 と い う言説の意味する と こ ろ を 明らかにする。 それはまた, 何故に仏陀が世界が時間的に 永遠であ るのか ( sassata) , それ と も永遠で ないのか ( asassata) 14 と い う問題に対し て 沈黙を守 っ たかの説明と な る。 哲学的な見地から言えば, 世 界の始源に関す る こ のよ うな 質問は形而上学的であ り, それ 自体, 答え られない ものであ る。 また宗教的な見地から言 えば, こ のよ う な質問の解答- それ らの質問が解答し う る ものであるか ど うかは別問題 であ るが, - は, 宗教的生活の実践 と は, いさ さかも関連 しな い も ので ある。 それだか ら こそ, 「マ ールソ クヤプ ッ タ よ, 梵行住 ( 宗教的生活) は, 「世界は永遠である」 と い う 見解に よる こ と もなければ, 『世界は非永遠である』 とい う見解による こ と もない。 『世界 は永遠で あ る』 と い う見解が広 く 一般に承認せられる と こ ろ とな ろ う と, 『世界は非永遠 で あ る』 と い う見解が広 く 一般に承認せ られ る と こ ろ と なろ う と , 依然 と し て, 生 ・ 老 ・ 死 ・ 愁 ・ 悲 ・ 苦悩はある。 私は, こ の現世のそ う い った ものの終息のために, 処方を与え て い る の だ 」15. 経験的存在を 多 く の要素に分析す る こ と と, 縁起の教義に よるそれ られの総合は, 無我 ( anatta) と い う 仏教独 自の教義へ と焦点が集ま る。 と い う のは, も し , 分析が, 複合さ れた も のは多 く の要素に還元す る こ とがで き る と い う こ とを 示す も の とすれば, 総合は, これらの要素がそれ自体で存在するばらばらの存在物で はな く て, 因果関係を通じ て相互 に依存 し合 う も ので ある とい う こ とを示すからで ある。 と こ ろで, 仏教が興起し た頃に, 我 ( atman) 説つま り自体存在の信仰には, 二つの主な見解があった。 一つは霊的な信仰 ( sassatavada 常住論) に よっ て主張せられた もので, 他の一つは唯物 論 者 の 哲 学 ( ucchedavada 断滅論) に よ っ て主張せ られた も ので あ っ た15. 前者に よれば, 自我 と 一 八 三
経験的存在についての初期仏教の見解
は形而上学的な もので ある。 それは人の最 も内奥の本質を表わすからで, 恒常的 ・ 不変的 な何 ものかである。 それ自体は, 死に際し ての肉体の崩壊のあと も存続する。 こ の場合, 常な る自我と無常なる肉体 との相違 ( Aniiam
jivam
a而 a耶 sariram) 16に力点があ る。
そ し て束縛さ れた状態 にあ るのが, こ の自我な のであ る。 それ故に, 宗教生活の理想 と し て前方にかかげ られた のは, こ の自我の救済であ った。 自我が肉体の影響( 感覚上の喜び) 下にあるわけだか ら, 自我の救済のためには肉体を苦行禁欲によ って制する こ と ( attak・ ilamathanuyoga) が必要 と な る17. こ のこ と は, 仏教興起の頃, 救済への一手段 と し て, 何故に過剰な まで の苦行があったのかの説明 とな る。 後者 ( 断滅論) に よれば, 人の自我 はそ の人自身の肉体にほかな らず, それは物質の 四大元素か らな っている ( Ayam atta rapi catummahabhntiko) 18. こ の場合, 強調すべ き点は, 自我 と 身体の二元性にあ る ので はな く て, そ の両者の同一性にあ るので ある ( Tarp jival!l talp sarirarp) 19. そ の 自我が身体と同一であ るわけだから, 死んで 肉体が崩壊するにつれて 自我そ のものも壊滅 する とい う結果にな る。 それ故に, 人生の目的は名状し がたい至福を切望す る こ とではな く て, 直ちにこ の場で感覚的な喜びを享受す るこ と ( kamasukhamkanuyoga) 20なので ある。 仏教に関し て最 も根本的な こ とは, 自我についてのこ の二つの見解を, と もに支持で き ない も のと し て否定す る こ とで ある。 仏教に よれば, 自我についての形而上学的な見解に も唯物的な見解にも, と もに心理的な原因がある。 前者は, 永遠に個体を存続さ せたい と い う人の法外は欲望 ( bhava-taりha) が動機 とな っ てい るし , 後者は, こ の世で の一時 的な滞在 の間に, 感覚的な楽し みを享受し たい と い う 同じ く 人の 法外な欲望 ( kama-ta・ りha) 21が動機 と な っ ているわけである。 唯心的な 自体存在 と唯物的な 自体存在 と を と もに 否定す る と き, 仏教は, イ ン ド思想におけ る こ の主要な二つの流れか らそれて, ひ とつの 新し い道に自ら入っていったのであ る。 要す るに仏教の無我 ( anatta) の教義は, こ うい う こ と にな る。即ち, 経験的個体の内に も外にも心理的・精神的な もので あれ, 或は物質的な も のであれ, 自己自身の自我 と し て同 一視し う る よ うな, いかな る恒常的・不変的な実体 も存在 しな い, とい う こ とで ある。 それ 故に, 無我は, 有情 ( sentient existance) の三つの 徴表の一つに加 え られてい るのだ。 残 りの二つは, 無常 ( anicca) と苦 ( dukkha) である。 それ ら の中, 無常はあ らゆる現 象が普ね く 非恒常的で あ り流動的である とい う事実を指し て言い, それは, し ばし ば繰 り 返 さ れ る 「一切の行 ( 造られた もの) は無常で あ る」 ( Sabbe sa印khara anicca) 22 と い う所説の中に典型的に言いあらわされてい る。 とい う のは, いかな る もので あれ生ずる とい う性質を持っ た も のはまた, 滅する とい う性質を持 った ものであるか らで ある ( Yalp kifici
samudayadhamma単 sabbam ta耳l
nirodhadhammaTp) 23. こ の普遍的な在 り
一
八
五菖 ( khandha) のいずれ もが我 とは倣し えな い とい う仏教側からの否定は, 五菰を超 越す る我が存在す るかど うか とい う考察を生んだ27. そのよ うな考察は, し ばし ば, 初期 の仏教が仏教に先立つ ウパニ シ ャ ド思想の再説で ある, と い う見解 と結びついて い る。 し かし なが ら, こ のよ うな判断が擁護で きない ものである こ と は, 原典上の証拠 とい う状況 か ら, ます ます明白にな って き てい る。 まず第一に, 仏教のどの教え も, そのよ うな仮説 を立 てた と こ ろで, よ り意味深い ものにはな らな い とい う こ とで ある。 更に, 初期仏教の 認識論的な観点か ら し て も, そ のよ うな結論が導かれ る可能性はな い。 なぜな ら, も し そ のよ う な我がある と し て も, それが感覚によ って も, 高度な心的修養を通じ て実現せられ る超感覚的知覚 ( abhiaiia神通) に よっ て も全 く 立証さ れる ものではないからで ある28. 仏教の認識論に よれば, 超感覚的知覚の対象 とな るものは, 感覚的経験世界の背景 と し て の役 目を果たす よ うな形而上学的な存在ではな く て, 感覚的経験世界そのもので ある。 そ し て こ の場合, 大事な点は, 先験的な存在を 認識す る こ とで はな く て, 事物を あるが まま (yathabhata如実) に認識するこ とな ので ある。 禅定体験に関する仏教の教えで さ え も, 自体存在の体験の形跡は示す こ とはないのだ。 と い う のは, 仏教に よれば, 禅定 ( jhana) - そ こで は意識は高度に純化さ れた段階に到達するー の体験は, 自己自身の我を実現 6。 経験的個人存在を超越する我は存在するか よ うを 洞察する こ とを, 真理の眼 ( dhammacakkhu 法眼) の始ま り と言っ ているほど24, それは重要なので ある。 こ こで強調し てお きたい こ と は, こ の無常の普遍性が, 先験的な ( a priori) 推論 ( takka-vim覗lsa) に基づ く 形而上学的な言説で もなければ, 聖典 の権威そかれ と も神の啓示 ( anussava) に基づ く 真理 と し て提示 される もので もない25, と い う こ と であ る。 それ と は反対に, それは精査 と帰納的推理に基づ く 経験上の言説で, 何ら形而上学的仮説を含まない, そ のよ うな もの と し て, 確かめ う る命題なので ある。 次 の徴表で ある苦 ( dukkha) のそれ ( 普遍性) は, 普遍的は無常性の事実か ら生じ る。 と い う のは, 聖典の言葉にある よ うに, 無常な るも のはいかな る ものも, まさ にそ の本性に よ っ て , 苦 で あ るか ら で あ る ( Y ad aniccam tar!l dukkham) 26. こ のこ と は, 移 りゆ く ものに執す る こ とが苦し みに, 帰着する とい う事実に注意を向けさ せる。 われわれの愛着 す る も のは絶えず移 りゆ く 状態にあ っ て, われわれが こ う あ っ て欲 し い と望む よ う には応 じ な いか ら で あ る。 こ う し た様態か ら導 き出され う る必然的な結論は無常な る も の ( ani・ cca) , 従 っ て苦な る もの ( dukkha) は, いかな る も ので あれ, それは, 自ら の我, つ ま り 自ら と 同一視 し う る よ う な何 も のか と はみな し えな い と い う こ と ( anatta無我) で ある。 有情の三つの徴表のーつ と し て, 無我には, このよ う に, 経験的根拠があるので ある。 一 八 一
経験的存在につい ての初期仏教の見解 する ものである とか, ある種の先験的な存在 との結合である とかい う よ う に解釈されるも ので はないからで ある。 実のと こ ろ, 仏教は, 禅定体験の中身を, 事実に よっ ては正当と 認め られない よ う な仕方で解釈す る こ と の可能性 に気づいてい る。 こ のこ と は, 何故に禅 定者が, 禅定の内容を , 条件づけ られた存在 ( 有為法) の三つ の徴表すなわち無常・苦 ・無 我の光の下で見直す よ う に勧め られ るかの理 由と な っ て いる よ う で あ る29. こ のよ う にし て実践す るこ とには, 形而上学的な仮説に基づいた禅定の解釈の可能性を除 く とい う よい 効果がある。 それな ら ば, 次には涅槃一 仏教の最高善 ( summum bonum) - が, 人 の真の我が実現せ られ る場を表 し ているのか ど う か, と い う こ とが問われ るで あろ う。 こ の場合 も また, 答えは否定的な も ので あるべ きで ある。 と い う のは, 涅槃は, 初期仏教の 教説の中で定義さ れている よ う に, 我の永続化で もなければ, 宇宙我 ( universal self) と の同化で も ない。 「一切の法は無我で ある」( Sabbe dham ma anatta) 30と い う経典の言
葉- そ こで の法 ( dhamma) い う語には, 有為法 ( saflkhata) も無為法 ( asalikhata)
も と もに含まれるー は, 涅槃 も また, 自己 自身であ る と し て把握さ れ う る よ う な 自体存 在を 欠い てい る と い う こ と を示 し て い るので ある。 これまで見て き た と こ ろ からすれば, 仏教は五菖 ( khandha) と い う ペ ソ タ ッ ド ( pentad) を超越す る我を 認めない, と い う こ とが明らかにな っ たで あろ う 。 歴史的観 点か らすれば, こ のこ とは, 仏教が仏教に先だつ ウパニシ ャ ド思想の発展の上にはない, と い う こ とを 意味し て いる。 な るほ ど, 初期仏教 と ウパニシ ャ ドが, 業 とか再生 とか洞察力 によ る解脱と かい った多 く の教義を共有 し て いる こ と は事実で あ る。 し かし なが ら, これ ら の考えが, 初期仏教 と同時代に属す る多 く の思想体系に共通であ ったか ら, どち らが ど ち ら に影響を与えたかを言 う こ と は不可能で ある。 そ の上, 仏陀の教説の中で, われわれ は個 ( 小宇宙) 我 と普遍 ( 大宇宙) 我 と の一致に関する ウパニシ ャ ドの教義を批判し ている 文に出会 う。 中部 ( Majjhimanikaya) のア ラガ ッ ド ゥ ーパマ経 ( AlagaddUpamasutta) において, こ の批判さ れた見解が, 次のよ う な形で 出て く る。 即ち, 「世界 と我 とは同一で あ る。 こ の私は死後, 不滅, 常恒 永劫な る も のと な るだろ う」 31 と 。 これが ウパニシ ャ ド の解脱の教義に言及し てい るも のである こ と は疑いな い。 それ故に, 仏教 と関連し た この ウパ ニシ ャ ド思想 の歴史的先行例は, 仏教が ウパ ニシ ャ ド思想を 一層改善 し た も ので あ る, とい う こ とを 必ず し も意味す るわけで はない。 と い う のは, 宗教的 ・ 知的思想の歴史にお いては, 新し い考えが出現する際に, ただ先行思想に従 うばか りではな く , 先行思想 と弁 証法的に対立す る場合 もあ ったか らで ある。 初期仏教の場合, そ の出現は, ウパニシ ャ ド 思想の直接的な展開と し て あ るのではな く て, イ ン ド思想の精神的宗教 ( sassatavada常 住論) と唯物論的哲学 ( ucchedavada断滅論) への分極化 と の弁証法的な対立において あ る の七あ る。 一 八 〇
7。 仏教の我論批判 一 七 九 仏教に よる 自体存在信仰の否認はまた, こ の信仰の隆盛の原因の探求を伴な う こ と とな る。 原因の一つは, われわれがすで に言及 し た よ う に, 心理的 な も ので あ る。 つ ま り, 我 の形而上学的見解が, 自我の存続に対す る人間の欲望 ( bhava-tavha 有愛) を , そ の主 た る動機 と し て持つ一方で , 我 の唯物論的見解は, 感覚的な欲望に耽溺す る こ と に対す る 人間の欲望 ( kama-taりha欲愛) を , そ の主た る動機 と し て持つか らで あ る。 この信仰は また, 心理的体験の中身に対す る間違 った解釈から生ず る。 と い う のは, 仏教に従えば, 人の物理的心理的活動の総計は, 心理的な も の と考え られ よ う と, 物質的な も のと考え ら れ よ う と , 我 も し く は霊魂の名で呼ばれ る立証不可能な形而上学的存在を 想定す る こ と な し に, 五菰 と の関連か ら説明す る こ と がで き るから で あ る。 従 っ て, それは, 仏教の心理分 析が プシ ュ ケ ( psyche) の想定に基づかない もので あるな らば, 仏教の物質分析も物質的 な実体の想定に基づかない ものだ, と い う こ と であ る。 仏教認識論において も, われわれ, 次のよ う な認識手段の無効性に関す る多 く の議論に 出会 う 。 つ ま り先験的推論 ( takka-vimamsa) とか, 聖典の権威 と か, 神の啓示 ( anussava) と か, さ らには全知性 ( sabb-aiifiuta) の主張32と い っ た認識手段に基づいて この 自体存在信仰の正当化の試みがな さ れ るのであ る。 そ の上, 仏教の見解か らすれば, われわれの言語習性で さ え も, そのよ うな 存在が実在 し な く て も, 実体的な存在がある と い う 間違 った解釈の仕方を生む こ と だ って あるのだ。 と い う のは, 多かれ少なかれ, あ らゆる言語表現に対応する存在論的な実在物 を 想定す る こ と が, 人間の心の性向の う ち にあ るか らで あ る。 従 っ て, 例 えば, われわれ が lt rains ( 雨が降る) と 言 う と き, われわれぱ lt と い う語を使用す る こ と に よっ て, 一つ の単一 な プ ロセ スを二分化す る。 同様に l think ( 私が考え る) と い う言語表現 に応 じ て, われわれには考え る と い う プ ロセスに加えて, さ らに I と い う も のの実在を 信 じ る傾向があ る。 こ う い う事態は, 相応部 ( Samyuttanikaya) に記 さ れている仏陀 と 比丘 と の対話の中で 明か さ れてい る。 「し かし , 尊者 よ, 感じ るのは誰な ので し ょ うか」, 仏陀が こ のよ う に尋ね られた と き, 仏陀の答えは次のよ うで あ っ た 。 「こ の質問は適切で はない。 私は感ず る者がい る と は教えて はいな い。 し か し なが ら, も し 質問が 『いかな る も のに条件づけ られて ( いかな る も のを条件 と し て) 感覚 ( 受) は生ず る のか』, と このよ う に尋ね られ る のな らば, それに対す る正し い解答は, 『感覚 ( 受) は接触 ( 触) に条件 づけ られ て存在す る』 と い う こ と にな るだろ う」33 と。 再び仏陀力; 「し か し , 老 と 死 と は 何か, そ し てそれ らは誰に属す るか」 と尋ね られる と, 仏陀は 「老 とか死 と い う一つのも のがあ る と か, それ らが, 属す る よ う な誰かあ る人 がい るな どと は, 私は説い てはい ない」
8。 人と い う 概念 経験的存在につい ての初期仏教の見解 と返答し てい る33. こ こでは っき り と 含意さ れている こ と は, 言語 とい う ものは, 存在の 属性を伝達す るのに必要で はあ るけれ ど も, 言語構造が必ず し も存在の属性を あ りのまま に表わす と は限ら ない と い う こ と で ある。 こ れ と 同じ 考え方は次のよ う な仏陀のよ く 知 ら れた言葉の中で暗黙の うち に語 られてい る。 すなわち , 「チ ッ ク よ, これらは名称, 表現, 言い 回し , 世間で一般に用い られる呼称であ る。 如来 ( Tathagata) は実際 これ ら を用 いて はい るが, こ れ ら に惑わ さ れて いな い」35と。 一 七 八 さ て, こ こ で強調し てお く べ き こ と は仏教が自体存在を否認す る こ と が, 人( puggala) と い う概念を 無意味な もの と し てい るわけで はない と い う こ と で あ る。 それはただ, 人と い う 概念が一つ の新し い次元を 仮定す る こ と を意味す るにす ぎない。 こ の新 し い次元 によ るな らば, も し 人が, 人 によ っ て, 五菰 とは別個の存在 とか, 時間的に永続する実体 とか, 五菖の中にある行為主体が想定 さ れる な ら ば, それは存在 し ない。 これに反し て, 人は, 縁起的に結びつ き絶えず変化する五菖 の総体で ある。 こ のよ うに理解すれば, 否認 せられるものは, 人と い う概念ではな く て, 変化する こ と を許さ ない独立の自体存在 とい う概念なのだ。 こ うい う見解に従えば, 人格神で あれ非人格神であれ, こ のよ う に受け取 られるある種の超越的な存在 と関係する よ う な, いかなる霊的実体 も, 人間の内部にはな い。 大宇宙我から発し , 最終的にはそれに吸収 さ れ る よ う な, いかな る小宇宙我 も, 人間 の内部にはない。 この立場は, 仏教によ る常住論 ( sassatavada) 批判 と相応する。 唯物 論が主張 し ている よ う に, 人は土か ら の純然 たる産物で も ない し , 死ぬ時に完全に破壊さ れる こ と を待つ偶然発生の環境の産物で もな い。 と い うのは, 仏教は霊的宗教に よっ て唱 道せ られた よ う な, 自我を 形而上学的にみる見方に同意し てい るわけで はないが, 唯物論 とは違 っ て, 仏教は持続性 ( punabbhava再生) と倫理上の責任性 ( kammavada業論) とを 否定 し はし ない。 この立場は, 仏教に よ る断滅論 ( ucchedavada) 批判 と 相応す る。 こ う い うわけで, 人間存在に対する仏教の見解は, 死後に も存続する変わる こ と のない霊 魂に基づいた り, 死ぬ と きに壊滅し てし ま う束の間の霊魂に基づいた り し ては説明さ れえ ない も のであ る し , また純然た る観念的な言辞も っ て し て も説明さ れえ な い も のであ る。 と い う のは, 縁起 と い う仏教教義におい て明 らかにさ れる よ う に, 識 ( vi而 的 a) と 名色 ( nama-rapa 人間の精神物理学的な面) と は相互に依存 し合 うか らである。 それ故に, 「識に よ っ て名色があ る」 ( vifi脂 りa-paccaya nama-rapam) と 説かれる だけではな く , 「名色に よ っ て識があ る」 ( nama-rupa-paccaya vififi呻 al!1) 36 と も説かれ て い るのだ。 それ らの関係は, 共生 ( sahajata) であ り, 相互依存 ( paticca-samuppanna) の一つ
一 七 七 で あ る37. 人間存在の霊的, 唯物的, 観念的解釈を超え て, 仏教は人間存在 を因縁関係に よっ て相互に連関し た心理物理学的現象の一 プ ロセスであ る と 説明する。 換言すれば, そ れは四種の滋養物, 即ち物質的食物 ( kabalinkarahara 段食) と感覚上の接触 ( phassa 触) と意思 ( mano-sancetana) と識( vin 呻 a) とを摂 っ て 自らを養 う扶養作用 ( ahara・ tthitika食住) の一 プ ロセ スで ある38. し かし ながら, 人間存在に対す る こ のよ うな説明 の仕方を し たか ら と言 って, 人間存在の完成への可能性を 奪 う わけではない。 と い う のは, こ の理 想が仏教聖者の生活を実際経験す る こ と に移さ れて ある のを 知 る限 り, 人間存在の 内には, 最高 レ ヴェ ルの完成へ到達す るに必要な潜在力と資質があるからで ある。 も し 無我 の教義が, 人 と い う 概念に一つの新 し い次元を 提供す るな らば, 四聖諦は無我 と相応 し て, まず人の今の苦な る境遇を述べ ( 病理学的) , 次にそれの原因を述べ ( 診断 的) , 次にそれか らの解脱を述べ ( 理念的) , そ し て最後に解脱に至 る道を述べて いる こ と にな る ( 処方的) 。 人が現在, 苦境にあ る一仏教はそ う解 し て いるのだが, - のは, 原 初にはあ っ た完全な状態か ら人が堕落し たせいではない。 また, 人が真の自我な るも のを 考え よ う と し な いも のだか ら真の自我から遠 ざかっ ているせいで もないし , 真の自我なら ざる も のを 自分 の真の自我である と し ているせいで もない。 そ う い う 自我を考え る こ と 自 体, 不必要な前提だか らで ある。 そ うではな く て, 仏教の見解では, 苦 ( dukkha) によ って特徴づけ られている人の現在の境遇は, 直接的には架空の自我の存在を信じ る こ とに 起因す る。 なぜ な ら, その よ う な信仰は同じ く 架空のものである 自我 と非 自我 との二元性, お よびその信仰が前提 と し , かつ必然的に伴な うあ らゆる ものへと帰着す る こ とにな るか らで あ る。 それ故に, 仏教の自我への関心は, 自我を発展 さ せた り, い っ そ う健全な もの とす る ためで はな く て, それを こ と ご と除去す るためであ る。 こ の場合, 強調 し てお く べ き こ と は, 自我の解放ではな く て, 自我観念からの解放なのだ。 も し 自我が想定さ れない な ら ば, 人の向上への可能性 と解脱はいかに し に可能 とな るか, とい う 問いは, これまで し ばし ば発せられて きた。 それに対す る仏教側の答えは, 精神的な もので あれ物質的な も のであれ, 自我の想定そのものこそが, 向上への可能性と解脱とを不可能にする, とい う もので あ る。 つ ま り, 「も し , 自我が身体 と同一で ある と の見解を懐けば, そ の場合, 聖 な る生活 ( 梵行住) はあ りえない。 また, 自我 と身体は別々である と の見解を懐けば, モ の場合 も また, 聖な る生活はあ りえない。 二つの極端を離れて, 如来は中によ っ て法を説 く 。」39 こ こで言及さ れてい る 「中」 の教え とは, それは心的現象 も物質的現象 も共に, 一 方のも のを 他方のも のに還元する こ と な く , 相互に依存し合 う こ とに よっ て生 じ る, とい う仏教の縁起の教え のこ と で あ る。
9。 経験的存在の属性 経験的存在についての初期仏教の見解 一 七 六 これまで見て き た と こ ろ か らす る と , 初期仏教に よ って考え らだ限 りで の経験的存在の もつ属性は, 一元論多元論のいずれの観点か ら し て も , 記述す る こ とが不可能である こ と が明らか と な ろ う 。 分析 と総合の両方を結合 し た使用法は, そ れがいずれか一方のあ り方 を もつ もの と し て記述 さ れ る こ と を妨げるか らで ある。 また, 経験的存在の属性は, 唯物 論, 観念論のいずれの観点から も, 記述されえな い。 仏教は経験的個人存在を , 物質的実 体または心的実体に還元す る こ とを し ないか らで ある。 確かに, 仏陀の教説の中には, 世 界を観念的に解釈す る こ と に好意的な よ う に思われる, あ る一定の傾向があ る こ と は本当 だ。 そ のよ う な こ とを 述べた も のの一つに, 世間が心によ っ て導かれ, 心に よ っ て動かさ れる ( Cittena niyati Iok0, cittena parikissati) , と言 っ て い る も のがあ る 。 こ の場合, 見落 し てはいけな い こ と は, 仏教が一つの宗教で あ り, 従 って , そ こ にあ っ ては精神修養 が極めて重要な役を担 っ てい る, と い う 明白な事実で ある。 そ れ故に, 心が突出し た地位 をあてがわれていた と し て も驚 く にはあた ら ない。 だが, こ う い う事情から し て, 物質は 心に よって存在す る, とい う結論が導かれる とは限らない。 色 ( rUpa) すなわち物質は, 心から成る もの ( manomaya 意所成) ではな く て, 心を喜ばす もの, 心を刺激する もの ( manorama) で ある40。 識 ( vi而 助 a) は, 人がむさ ぼる よ う な欲望 と欲情を も って感覚 の対象を求め る と き, 「外に動揺 さ せ られ離散 さ せ られた」 ( bahiddha vikkhittam vis-atalp) 41と言われ る。 し か し なが ら, 物事を実際にあ るが まま に, 即ち無常, 苦, 無我な るも のと し て知る と き, 人は物事に動揺 さ せ られた り, そ こに逃げ込 も う とす るのを やめ る。 人の物事に対する反応は, 物事に対する理解力にかかっている。 ち ょ う ど, 物事に対 する愛着が物事に束縛せられる こ と であるよ うに, それに対し て愛着し ない こ とが, そ こ から 自由にな る こ と と な る。 か く し て病弊 も治療 も と もに内部にあ るのだ。 こ のよ う な コ ンテ クス トにおい て, 心に重要な地位を 与え てい る先の所説の趣 旨を われわれは理解すべ きで あ る。 存在につい ての幻想論者の見解を それ と な く 言 って いる よ う に思われる所説 も, 言い方 が不足 し てい るわけで はない。 色 ( rapa) 即ち物質的現象は, 空 ( sunna) , 空虚 ( tucc-ha) , 空無 ( ritta) , 不定 ( asara) な る ものと し て取 り扱われ るべ きで あ る と言われる。 他の菖 ( khandha) に対し て も , 同様の記述がな され てい る42. 例 えば相応部 ( Samyu-ttanikaya) においては, 色 ( rupa) は泡団 ( pheQa-piQ(;la) に, 受 ( vedana) は水泡
( bubbula) に, 想 ( sa而 a) は蜃気楼 ( marici) に, 行 ( saflkhara) は芭蕉 ( kadali) に, 識 ( via 助 a) は幻 ( maya) に讐え られてい る43. ス ッ タ ニパータ ( Suttanipata)
一 七 五 では, モ ーガ ラ ージ ャが世界を空( suiifia) な り と観ぜ よ ( Suniiato lokam avekkhassu) , と命ぜられている44. 更にまた, 「内に も外に も 『何ものも存在 し ない』 と観ずる者」 「A」」・ hattafi ca bahiddha ca natthi k臨 ci ti passato) とか45, 「『何 ものも存在 し ない』 と思 う こ と に よっ て, 輪廻の暴流を渡れ」 ( Natthi ti
nissayatarassuoghalp) と説か
れ る46. こ のよ う な所説は, 初期仏教が色 ( rapa) 等 の諸菖の実在 を信 じず, ニヒ リステ ィ ッ クで ある, 或は少 く と も ニヒ リステ ィ ッ クな傾向にある, とい う 印象を与えている よ う で あ る。 実際, Kern 教授は, W adde1教授の示唆, つ ま り初期仏教が観念的 ニヒ リズ ムで ある こ とを追認し て, 上述の最後の二つの所説を , ニヒ リズムが簡潔に表現された例 と し て引いてい る47。 これ ら の所説は, われわれには深い宗教的な コ ンテ キス トにおい て, な さ れてい る よ う に思われ る。 そ し て, それ らが, そ のよ う な コ ン テキ ス トにおいて理解 さ れさ えす るな ら ば, そ のよ う な解釈に陥る こ とはない。 空性 ( su而 ata) は, 初期仏教テキス トにおいて説 明さ れている よ う に, 空無を意味するのではな く て, 欠如すなわち我( attan 自我, 実体) の欠如または我に属する ( attaniya我所) ものの欠如を意味す る48. 空無 ( ritta) , 空虚 ( uccha) , 不実 ( asara) も, 多かれ少なかれ, 同じ よ うな意味合いを もつ。 持続的つま り永続的な, 精神的または物質的実体を否定するこ とは, 必ず し も経験世界が非現実的な も ので あ る と い う こ と を意味す るわけで はない, つ ま り, それはた だ, 世界の一つの違 っ た解釈 と言 う に等し いだけのこ と で ある。 別の言い方をすれば, ニ ヒ リ ステ ィ ッ クな形而 上学を示唆し ている よ うに思われた例の引用文は, 実際は, 有情 ( sentient existence) の三徴表を , すなわち無常, 苦, 無我を表示す るも ので ある。 その上, も し 輪廻の生存が, そ の非現実性を示唆する よ う な仕方で記述せられる こ とがある とすれば, それは, 特に宗 教的な コ ン テキス トにおいて理解で き る も ので ある。 換言すれば, 宗教上の啓発のために, 輪廻の生存が, 涅槃の至福 に較べれば, 何た る取るに足 らな い もので あるか, と い う こ と を示す こ とが必要であった。 こ の場合, 必然的に伴 う こ とは, 価値の問題である。 涅槃は 宗教生活の上で の最高 目標を表わし て い るか ら , そ の点からす る と , 輪廻は, ある意味で は, 非存在 とい う こ とにな る。 と い う のは, 輪廻は, 永遠の幸福が確立さ れ う るだけの永 遠 の基盤を供与で きないか らで あ る。 感覚的経験世界が非現実的な もので ある とい う のは, こ の宗教的意味合いにおいてで ある。 それ故に, 非現実的な言葉遣いで世界を描写す るこ と は, 現実的な コ ン テキス ト内にあ っ て さ え も , 意味のない こ とで はない。 存在についての初期仏教の見解が, 中観派 ( Madhyamika) の解釈に照ら し た方がよ り よ く 理解で き るか ど うかは, こ こ で検討を要す る別の問題で ある。 こ のよ う に見 る 傾
向にあ る M urti教授は, 次のよ う に述べてい る。 「諸要素 ( khandha 蔽 ・ dhatu 界 ・ ayatana処) の教義は, われわれが解釈を するにあた っ て準備的な段階 と し て必要であっ
経験的存在についての初期仏教の見解 だ。 も し視野にある ものが実体説 ( atmavada) だけであったな ら, 仏陀は弁証法的な意 識にまで導かれる こ とはなか ったで あろ う 。 様態説も必要であ った。 弁証法的な意識が現 われるに先だ っ て, 定立は反定立に よ っ て対置 さ れねばな らな い。 そ の場合だけ, 道理上 の対立があ り, それを越え る試みがあ り う るのだ。 弁証法的必然の問題 と し て, そ の時, 仏陀は要素説を系統的に説いたか, 或は少 く と も , そ の考えを持ち 出し た ので ある49. 」 初 期仏教の教説の中には, そ のよ う な推断を 支持す る と 思われる あ る傾向がある。 し かし な がら, 仏教が離貧 ( viraga) とい う教義を 唱道する際のその強調ぷ りを考慮に入れるな ら ば, われわれはそ の傾向を また違 った風に理解す る こ とがで き よ う 。 こ の場合, 仏教の存 在分析 と仏教の実践的教義お よび修習 と の間に区別を設けなければな らない。 経験的存在 は, 菰 ・処 ・ 界 と い った多 く の要素に還元 され るけれ ども, こ のこ と は, 人がそれ ら要素 に寄 りかかってい る とか, それらに付着し てい る とい う こ と を意味し てい るわけではない。 それら要素も また, それ らが産み出す合成物 と 同様, 無常な る も ので あ り, 輪廻を まぬが れない ものな ので ある。 それ故に, それら要素に対す るいかな る形の欲望から も人は自由 で な く てはな ら ない とい う意味において, それ ら も また超越 さ れ るべ き も のな ので ある。 界善巧性 ( dhatukusalata) , 即ち, 様々な要素に経験的存在を分析する能力は, それ自 体では不十分な もので, 実践的な教義および修習 とい う文脈においては, それは, 作意善 巧性 ( manasikarakusalata) , 即ち, 有情の三つの徴表に照ら し て, それら諸要素の本 性を熟思す る能力への準備的な一歩にす ぎ ない。 その時はじ めて, 喩伽行者は諸要素から 目を転 じ て, それ らに執す る こ と を やめる ので あ る。 か く し て, 仏教の倫理的修習 と い う 文脈においては, 界善巧性は作意善巧性への準備的な一歩にす ぎず, 両者には と もに究極 目標と し て涅槃の実現 と い う こ とがあるのだ。 従 って, 経験的存在の基本的な要素に対す る不執着を唱道す る こ とは, 必ず し も, 基本的な要素 ( 羅 ・ 処 ・ 界) の教義が弁証法上の 必然性からのみ, つ ま り実体論 ( atmavada) に対す るアンチ ・ テーゼ と し てのみ述べら れた と い う こ と を意味す る も ので はな い。 パー リ ・ ニカ ーヤに基づいて言えば, 経験的存在に対す る仏教の見解は, 分析 と総合 と とい う 二重の方法論に基づ く 批判的実在論の一形態のよ う に見え る。 外的世界のどれを も 明白な形で否定 し てい る と こ ろがない し , 世界は心に よっ て作 られてた も ので ある と か, 主観的思考の投影で ある と示唆す る よ うな積極的な証拠も何 もない。 パー リ教説を通じ て 見られ るのは, 実在論の言葉づかいな のだ。 涅槃の達成を最終的な 目標とす る仏教の実践 的教義および修習は, 物質世界と そ し てそ こに住む知覚を有す る生 き物, とい う精神的存 在の範囲を超えた ものの存在の承認に基づいている。 しかし ながら, 仏教は, 感覚的経験 世界の背後にある ものと し て働 く よ うな, 形而上学的実在, ある種の実体といった ものを 認めるわけではない。 このこ とは注意すべき重要な事実である。 それ故に, もし経験的存 一 七 四
在の構成要素を現象 と し て解釈す る こ とがで き る とするな らば, そ の現象は対応す る実体 を 持たな い も ので あ る と い う条件を つけねばな らない。 註 1 この場合の名色は総称と し て言われ る ものであ る。 その個別的な意味では, 名色は次のよ うな 精神 ・ 物理的ア スペ ク トを意味す る。 「受, 想, 思, 触, 作意, こ れが名 と 呼ばれ る。 四大およ び四大所造色, これが色と呼ばれる。J Sarpyuttanikiiya ( = S.) , PTS, I , 3・ 2 例 え ばS. I I I , pp. 47, 86; Majjhimanikaya( = M.) , PTS, II I , 16 を参照せよ。 3 例 え ば S. I I , 248; I I I , 231 を 参照せ よ。 4 例えば, Dighanikiiya ( = D.) , PTS, I I , 302; I I I , 102 を 参照せよ。 5 例 え ば, S. I I , 140; D. I , 79 を参照せ よ。 6 S. I I I , 49. 7 A fifiatra paccaya nattai
vififUiQassa sam chavo (M. I II, 281) 。 8 S. I I , 77. 9 S. I I I , 66. 10 D . I , 23. 11 S. I I I , 51. 12
D ham m asaflgani A tthakatha ( = DhsA.) , PTS, 32・ 13 S. I I I , 54. 14 M . I , 430. 15 1bid. 431. 16 S. I V , 375; M . I , 246. 17 D . I I I , 113; S. I V , 330. 18 M . I I , 56. 19 M . I , 246; S. I V , 375. 20 S. I V , 330; D. I I I , 113. 21 D . I I I , 216; V in. I , 10. 22 passim 23 V in. I , 22. 24
1bid. I oc. cit. 25
K . N. JayatiHeka, EarlyB uddhist T heoryof
K now ledge, London, 1963, 169ff. 参照。 26
S. I , 52, 67; I I ,
59.
27
例え ば, GeorgeGrimm , T heD octrineof
the
Buddha, Berlin, 1958; E dmond H olm es・ T he Creed of B uddha, London, 1957 を 参照せよ。 28 Jayatilleka, 0p. cit, 291 ff. 29 M . 1, 350; A . I I , 43. 30 1bid, I I , 61. 31 M. ( Sutta22) 参照。 32 Jayatilleka, 0p. cit. 262ff. 参照。 33 S. I I I , 12. 34 1bid, 13. 35 D . I , 162. 36 S. I I I , 52; D . I I , 63. 一 七 三
37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 D . I I I , 63; S. I V , 56. M . 1. 48; S. I I , 11. SjI I , 61. M . I I , 56. M . I I I , 225. M h. Nd. I I , 277. S. 111, 142. Sn. 217. 1bid, 215. 1bid, 205.
K ern, M anual of l ndian Buddhism, p. 50, n . 6 参照。
S. I V, 54.
M urti, Central Philosophy of B uddhism , p. 54. A . I , 83.
1bid, loc. cit.
経験的存在についての初期仏教の見解 一 七 二 付記 本稿は去る昭和62年12月 8 日, 名古屋の国際サ ロソ で行なわれたパー リ学仏教文化学会 主催に よる ス リ ラ ン カ ・ ケラ ニヤ大学 ( University of Kelaniya) Y. K arunadasa 教授の特別講演会において, 事前に聴衆者に配布されたペ ーパー ( 英文) からの和訳で ある。 なお今回, こ こに和訳発表するにあた って, Karunadasa教授の快諾と懲憑を得 た こ と を付記し , 教授に甚深の謝意を表 し たい。