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『西国巡礼大縁記』について : 解説並びに翻刻文、校訂・解読文

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Academic year: 2021

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【解説】 一 架蔵の『西国順礼大縁記』 (写本)一冊について、 簡単な解説とともに、翻刻文、校訂・解読文を付し て紹介することとする。 まず、書誌を記しておく。 江戸後期の写本一冊。料紙は楮と椏の交ぜ漉 き。縦二 八・九 糎、横二 十・二 糎。表紙・裏表 紙とも本文共紙。袋綴、仮綴。全十二丁、墨付 本文十丁。本文は毎半葉十行。拙い手跡の平仮 名主体の漢字交り文。外題は表紙中央に打ち付 け書きで、 「西國順礼大縁記」と大書する。 本書は西国三十三所観音霊場巡礼の起源とその展 開、及び巡礼の功徳、効験、利益などについて、一 冊本として書き記したものである。その内容の梗概 を記すと次の通りである。 霊 亀 二 年( 七 一 六 ) の 頃、 大 和 国 長 谷 寺 の 開山徳道上人は百万部の法華経を書写し、その 供養の導師を誰にすべきか悩んでいた。すると、 閻魔王から請ぜられ、播磨国書写の開山性空上 人を導師とすべき由告げられる。そこで、徳道 上人は性空上人に頼み、供養を遂げた。 供養の後、性空上人は閻魔王の所へ参る。閻 魔王は、日本国に生身の観音霊場が三十三所あ ること、それを順礼した者は、必ず浄土に迎え

『西国順礼大縁記』について

 

解説並びに翻刻文、校訂・解読文

稲 

垣 

泰 

() -236-

(2)

られると誓願したことを告げる。そして、その 旨を記した日記を性空上人に与える。上人は近 頃の衆生は信じまいと申し上げると、閻魔王は 順礼の者には、極楽浄土へと観音が必ず迎えに やって来ようとの新たな祈請をし、その祈請文 と先の日記を上人に授ける。上人はそれを津の 国中山寺に納めた。 養老二年(七一八)のこと、熊野権現は卑し い凡夫に身を変え、衆生済度のため、中山寺か ら性空上人が納めた日記を取り出し、始めて順 礼を行った。 そ の 後、 花 山 法 皇 は 十 九 歳 の 時、 河 内 国 石 川 郡 磯 長 里 の 上 宮( 聖 徳 ) 太 子 の 御 墓 近 く に 住 む 仏 眼 上 人 を 召 し 出 し、 上 人 を 戒 師 と し て 出 家、 法 名 を 入 覚 と 称 し た。 法 皇 が 仏 眼 上 人 に、 ど の よ う な 布 施 で も 与 え る と 仰 せ ら れ る と、仏眼上人は霊亀二年に性空上人が中山寺に 納めた日記を召し出し、衆生をお助けなさるよ うにと申し上げる。法皇は日記を拝見し、永観 二年(九八四)三月十五日、仏眼上人を先達と して、御供の人々と共に、熊野那智山如意輪堂 より始めて、順礼なさった。仏眼上人は法皇に、 三十三所観音霊場で歌を一首ずつ詠まれるよう にと告げ、仏眼上人は第三十三番の美濃の谷汲 で、三首の歌を詠じる。こうしてこの順礼を結 願する。それは熊野那智山より始めて、美濃の 谷汲まで、国数は十二ヵ国、道程は七百十四里、 日数は七十五日であった。 順礼を終えると、仏眼上人は内裏に一日逗留 し、熊野那智山証誠殿に用があると述べて消え 失せる。法皇は仏眼上人が熊野権現の変化の者 であると察し、熊野に参詣して、七日間参籠す る。 す る と、 熊 野 権 現 が 現 れ、 順 礼 の 輩 に は、 今 生 で は 解 脱 の 種 を 守 り、 来 世 で は 七 世 の 父 母、兄弟、眷属まで成仏させるとの御託宣があ る。法皇は尊く思い、その後、那智に千日籠っ て、下向の時には二度目の順礼を行った。 続けて、順礼には十の徳があること、熊野権 (2) -235-

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現の御託宣、及び富士権現の御託宣を記す。 最後に、この縁起を一度聴聞の者は順礼を一 度したことに当たること、また、これを信仰す る者は寿命が延び、七珍万宝の泉が湧くなどの 御利益があると述べる。そして、この縁起を一 日に一度は読むべきこと、読まない時は、毎朝 頭上高く戴くべきであると説いて結ぶ。 やや長い梗概になってしまったが、要点を整理し て記すと、 ①  長谷寺開山徳道上人が法華経書写供養の導師 として、閻魔王から性空上人を推挙される。 ②  性空上人は閻魔王宮に参り、閻魔王から、日 本国の観音霊場三十三所の所在を示した日記 を授かり、蘇生して、それを津の国中山寺に 納める。 ③  熊野権現が凡夫に変じ、中山寺から日記を取 り出し、順礼を始めて行う。 ④  花山法皇は仏眼上人を戒師として出家し、上 人を先達として、熊野那智山から美濃の谷汲 までの観音霊場三十三所の順礼を行う。 ⑤  仏眼上人は熊野権現の変化である。 ⑥  熊野権現と富士権現の御託宣がある。 ⑦  順礼の功徳、効験、利益を述べ、本書の聴聞、 読み上げ、及び信仰を勧める。 にまとめられよう。 二 ところで、西国三十三所観音霊場の成立とその巡 礼の起源については、歴史的事実としての詳細は不 明であるが、通説では、平安時代末期のことであろ うとされてい る (1) 。 観音霊場巡礼の起源伝承を記す文献資料としては、 次の(ア)~(エ)が挙げられる。 (ア)   十 五 世 紀 前 半 成 立、 『 枝 葉 抄 』( 醍 醐 寺 蔵 ) の「観音卅三所」の記 事 (2) 。 (イ)   文 安 三 年( 一 四 四 六 ) 成 立、 『 壒 囊 抄 』 巻 十二 ― 九、 「卅三所観音事」の記 事 (3) 。 (ウ)   享 徳 元 年( 一 四 五 二 ) 成 立、 『 竹 居 清 事 』 (3) -234-

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の記 事 (4) 。 (エ)   明応八年(一四九九)頃成立、 『天陰語録』 の記 事 (5) 。 ( ア ) は す で に 拙 稿 で 指 摘 し た (6) 文 献 資 料 で あ る。 『 枝 葉 抄 』 は 十 五 世 紀 前 半 に 醍 醐 寺 報 恩 院 十 世、 第 百 二 十 代 東 寺 長 者 の 大 僧 正 隆 源 に よ っ て 著 さ れ た 雑録で、醍醐寺関連の諸記録、聞書などが記されて い る。 醍 醐 寺 蔵 本 に は 隆 源 自 筆 の 十 冊 本 と 五 冊 本 が あ る が、 「 観 音 卅 三 所 」 は 十 冊 本 の 中 の 一 冊 で あ る。そこでは観音霊場三十三所の寺院名、本尊名が 国別に順次掲げられている。注目すべきは、最末尾 に「或云」として、普賢寺僧正覚忠(長谷僧正と号 す)が頓死して閻魔王宮に参り、閻魔王から日本国 の生身の観音の霊場三十三所の在所を示され、蘇生 して後に参詣を開始し、それ以後天下に知られるよ うになったという、巡礼起源伝承が記されているこ とである。 覚 忠( 一 一 一 八 ― 一 一 七 七 ) は 平 安 末 期 の 天 台 宗 寺 門 派 の 僧 で、 関 白 藤 原 忠 通 の 子 息 で あ る。 応 保 二 年( 一 一 六 二 ) 第 五 十 代 天 台 座 主、 長 寛 二 年( 一 一 六 四 ) 大 僧 正、 仁 安 三 年( 一 一 六 八 ) 第 三 十 二 代 園 城 寺 長 吏 に な っ て い る。 ま た、 覚 忠 は 『 寺 門 高 僧 記 』 巻 六「 覚 忠 伝 」 に よ れ ば 、 応 保 元 年(一一六一)正月に三十三所観音霊場巡礼を始め、 日 数 七 十 五 日 で 巡 礼 を 行 っ た 僧 で あ る( 『 寺 門 伝 記 補 録 』 巻 九 で は「 前 大 僧 正 覚 忠 三 十 三 所 巡 礼 記 」) 。 こ の 覚 忠 の 冥 界 訪 問 譚 を 巡 礼 の 起 源 と す る 伝 承 は、 管見では他の文献資料には見出せず、西国三十三観 音霊場巡礼の由来を説く最古のものとして重要であ る。 ( イ ) は 洛 東 観 勝 寺 の 学 僧 行 誉 が、 文 安 三 年 (一四四六)に撰述した雑纂の事典である『 壒 囊抄』 巻十二 ― 九の「卅三所観音事」に見られる記事であ る。 そ こ で は 那 智 山 如 意 輪 堂 か ら 始 ま り、 寺 院 名、 本尊名、所在地、願主または建立者名を掲げ、最後 は御室戸寺で終える。末尾には順番には諸説あると し、この記は久安六年(一一五〇)長谷僧正(覚忠 のこと)が参詣した次第であるとする。また、ある (4) -233-

(5)

夜、長谷僧正が夢で閻魔王宮に参り、日本の生身の 観音三十三所を註した記録を見るが、それがこの日 記であるとする。これは(ア)の『枝葉抄』の起源 伝承と類似したもので、その異伝ともいうべき起源 伝承といえよう。 ( ウ ) は 享 徳 元 年( 一 四 五 二 ) に、 五 山 僧 慧 鳳 が 記した語録である『竹居清事』の「搏桑西州三十三 拝巡礼観音堂図記」の項に記されているものである。 そ れ は 次 の よ う な 内 容 で あ る。 永 観 年 中( 九 八 三 ― 九 八 五 )、 花 山 上 皇 が 仏 眼 上 人 を 戒 師 と し て 出 家 する。すると、仏眼上人は、昔、養老年間(七一七 ― 七 二 四 ) に 長 谷 寺 の 得( 徳 ) 道 上 人 が 頓 死 し て 冥府に至り、閻魔王から観音霊場三十三所の名の印 文を授かる。得道上人は蘇生して後、それを中山寺 に納めたと告げる。これを知った花山上皇は、中山 寺から印文を召し出し、仏眼上人を伴って観音霊場 三十三所の巡礼を行った。 この起源伝承は、近世期に敷衍、増幅されて展開 する起源伝承の根源ともいうべき内容で、その最も 古い記録といえる。   ( エ ) は 明 応 八 年( 一 四 九 九 ) 頃、 十 五 世 紀 後 半 に 著 さ れ た 五 山 僧 竜 沢 の 語 録、 『 天 陰 語 録 』 の「 越 前河合荘岩坂三十三所巡礼観音安座点眼法語」の項 の記事である。それは次のような内容である。養老 年 中、 大 和 国 長 谷 寺 の 威 光 上 人 が 頓 死 し て、 冥 府 に至る。閻魔王から観音の霊場三十三所を教えられ、 その宝印を賜る。上人は蘇生後、それを中山寺に納 める。その後、寛和二年(九八六)夏、花山上皇は 十九歳で出家、入覚と称した。そして観音霊場巡礼 を始めた。それは南紀那智に始まり、東濃谷汲に終 るものであった。 これは(ウ)の得(徳)道上人の巡礼起源伝承を 威光上人に変えた、変奏ともいうべき起源伝承であ る。 右 に 掲 げ た よ う な 三 十 三 所 観 音 霊 場 巡 礼 の 起 源 伝 承 は、 近 世 期 に 至 る と 西 国 三 十 三 所 観 音 霊 場 記、または西国三十三所観音霊場記図会などの冒頭 に、その由来を示す形で記述される。例え ば 、松誉 (5) -232-

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巌 的 著『 西 国 三 十 三 所 観 音 霊 験 記 真 鈔 』( 宝 永 二 年 〈 一 七 〇 五 〉 刊 ) の 冒 頭 の「 西 国 三 十 三 所 之 権 輿 」 は本書とほぼ同一内容である。本書の要点の①~⑥ 全てを順次含んでおり(ただし、②で閻魔王宮に参 る の は 徳 道 上 人 )、 ま た、 語 句、 筋 の 展 開、 表 記 も 一致するところが多く、本書の原拠というべきもの である。ただし、本書とは小異もある。本書では要 点⑦を付加するなど、敷衍、増幅している部分もあ るので、本書の直接の典拠とはいえない。 次に、厚誉春鶯述・辻本基定図『西国三十三所霊 場 記 図 会 』( 弘 化 三 年〈 一 八 四 六 〉 刊 ) の 冒 頭「 西 国三十三所順礼の由来」では、徳道上人の冥界訪問 譚、花山天皇の出家、仏眼上人との巡礼譚などを画 図を挿入して詳述する。近世期の順礼起源伝承とし て、完成された様相を示している。 更 に 、 暁 鐘 成 編『 西 国 三 十 三 所 名 所 図 会 』( 嘉 永 六 年〈 一 八 五 三 〉 刊 ) の 冒 頭「 観 音 霊 地 順 拝 之 権 輿」では、これまで見てきた巡礼起源伝承の諸説を、 典拠を掲げて詳述している。その意味で、諸伝承の 総集編ともいうべき内容になっている。 三 以上述べてきたような、西国三十三所観音霊場巡 礼の起源伝承とその展開について、あらためて一冊 本としてまとめて書き記されたものが本書なのであ る。 同 類 の 一 冊 本 と し て は、 架 蔵 本 に 『 西 国 三 拾 三所由来』 (元治元年〈一八六四〉四月写)があ る (7) 。 全四十一丁で詳しい内容である。また。長谷寺本願 院蔵刊『西国順礼縁起』が翻刻、紹介されてい る (8) 。 最 近、 恋 田 知 子 氏 は「 『 西 国 巡 礼 縁 起 』 の 構 造 と 展 開 (9) 」で、このような一冊本の諸本と二系統の冥界 譚(徳道上人・威光上人の冥界譚)について、詳し く調査、検討している。また、西国巡礼縁起説話の 諸相、構造、意義などを考察する。関連文献年譜を 付しているので有益である。 最後に、本書の校訂・解読文の注( )以下(要 点⑦に相当)に、本書の内容を聴聞したり、読み上 げたりする功徳、効験、利益などを記述している部 (6) -23-

(7)

分 に つ い て 考 え て み る。 こ の よ う な 記 述 は、 か つ て 拙 稿 で も 触 れ た 通 り )(( ( 、『 冨 士 人 穴 双 紙 』 に も 見 ら れるものである。即ち、このような記述は、霊場参 詣、巡礼のいわゆる〈講〉組織の仲間うちで鼓吹さ れ、書き記されたり、読み上げられたりしたものと 考えられるのである。それは、本書が平仮名主体の 本文になっていること、音読をそのまま表記した形 跡(仮名遣い、当て字など)を残していることから も証されよう。 (注) ( 1 )  西 国 三 十 三 所 観 音 霊 場 の 成 立、 巡 礼 の 起 源、 展 開、 意 義 な ど に つ い て の 研 究 は 数 多 く あ る が、 特 に 、 速 水 侑 著『 観 音 信 仰 』( 塙 選書、昭和五十七年〈一九八二〉 )が手堅く、 詳 細 で あ る。 ま た、 真 野 俊 和 編『 本 尊 巡 礼 』 ( 講 座 日 本 の 巡 礼 第 一 巻、 雄 山 閣、 平 成 八 年 〈一九九六〉 )も参考になる。 ( 2 )  総 本 山 醍 醐 寺 編『 枝 葉 抄、 影 印・ 翻 刻・ 註 解 』( 醍 醐 寺 叢 書、 研 究 篇、 勉 誠 出 版、 平 成 二 十 二 年〈 二 〇 一 〇 〉) 所 収。 初 出 は、 醍 醐 寺文化財研究所「研究紀要」第二十号(平成 十七年〈二〇〇五〉六月) 。 ( 3 )  日本古典全集(昭和十一年〈一九三六〉刊) 。 濱 田 敦・ 佐 竹 昭 広 共 編『 塵 添 壒 囊 鈔・ 壒 囊 鈔』 (臨川書店、昭和四十三年〈一九六八〉 )。 ( 4 )  続群類従第十二輯上所収。 ( 5 )  続群類従第十三輯上所収。 ( 6 )  注( 2 ) に 同 じ。 ま た、 拙 著『 と な り の 神 様 仏 様 』( 小 学 館、 平 成 十 六 年〈 二 〇 〇 四 〉) 一六一頁。 ( 7 )  別稿で翻刻・紹介を予定している。 ( 8 )  略 縁 起 研 究 会 編『 略 縁 起  資 料 と 研 究 2 』 (勉誠出版、平成十一年〈一九九九〉 )。 ( 9 )  恋 田 知 子 著『 仏 と 女 の 室 町  物 語 草 子 論 』 (笠間書院、平成二十年〈二〇〇八〉 )第八章。 初 出 は、 「 巡 礼 記 研 究 」 第 三 集( 平 成 十 八 年 〈二〇〇六〉九月) 。 () -230-

(8)

( 0)  拙 稿「 『 冨 士 人 穴 双 紙 』( 嘉 永 元 年 写 本 ) 翻 刻 並 び に 解 説 」( 金 城 学 院 大 学 論 集、 国 文 学 編 第 二 十 七 号、 通 巻 一 一 二 号、 昭 和 六 十 年〈 一 九 八 五 〉 三 月 )。 な お、 こ の 書 の 諸 本 と 研 究 は 小 山 一 成 著『 富 士 の 人 穴 草 子、 研 究 と 資 料 』( 文 化 書 房 博 文 社、 昭 和 五 十 八 年 〈一九八三〉 )が詳しい。 〔付記〕   本稿作成に当たり、言語文化研究所準研究 員、名嘉友子氏の協力を得たことを付記し ておく。 () -229-

(9)

表紙(一オ) 本文冒頭(二オ) 本文(二ウ) 本文末尾(十一ウ) (9) -22-

(10)

【翻刻文】 一、丁替わり、表・裏は(   )内に丁数、オ・ウの 順で示した。 一、行数は上部に算用数字で示した。 一、本文はすべて原文通りとした。 一、不審な部分は(ママ)とした。 一、旧漢字はそのままとした。 一、傍書はそのまま示した。 一、 「  」は「より」 、「  」「ゝ」は「候」とした。

西國順礼大縁記

(中央)         」 (一オ) (白)          」 (一ウ) 1  抑れいき二ねんのころ大和国はせでらのかいさ ん 2  徳道上人百万ぶのほけ経をかきたて御く 3  やうには一万人の御僧をしやうじくやうあるべ き 4  ふうぶんなりたゞしのふけにしやうじ申べき人 5  なしとおぼしめすおりふし徳道上人をゑん 6  ま王へしやうじ申されてのたまわくこれへ 7  しやうじ申ことべちのしさいに あらず百万ぶの 8  ほけきやうくやうあるべきよし承候へはめでた 9  きことかぎりなし然は御 道 (ママ) 師にははりま 0  のくにしよしやのかいさんしやうくう上人を   」 (二オ) 1  御申有て御くやうあるべしとゑんま王の 2  たまへは其時徳道上人かきりなく御よろ 3  こびありて 頓 や が て 而 はりまのくにへ下向したまいて 4  此よしをしやうくう上人へ仰られけれはしさい な 5  く頓而御同道有 大 やまとの 和 国にて御くやう有す 6  てにけちぐわんのち上人えんま王へ参げかう有 7  てのたもふやうは百万ぶの 法 ほ け 花 きやうくやうの 8  だうしのくりきによつてつみのふかきものとも 9  ざいしやうをめつしてとそつてんにむまれん其 外 (0) -22-

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0  ご う か の う ろ く ず さ ん や の け だ も の に い た る ま 」 (二ウ) 1  てつみめつして浄土に生れんいわくかえす

も 2  有がたく候末世のしゆじやう成仏すべきために 3  御ふせを参らすべく候なり大日本こく中 4  にしやうじんのくわんぜをん三十三所まします な 5  りこのくわんをん の (ママ) 一たび順礼を申たらんも 6  のはかならす浄土にむかへ候べしとゑんわうか たく御 7  せいぐわん有此よしあまねく御すゝめ有て順礼 8  せられ候へとにつきをしるし上人に奉りたまへ ば 9  かやうにくはしく承候て有がたく存候へ共いま ほどの 0  し ゆ じ や う 是 を も ふ し ん 申 べ く 候 間 誠 御 こ ゝ ろ 」 (三オ) 1  ざしましまさ ば しやうもん一筆給り候へと申さ せた 2  まへはゑんま王さら ば とて御身よりちをいだし て 3  あらたにきしやうあそ ば しける抑順礼の輩 4  においては十あく五ぎやくのつみをむりやうか う 5  が間つくりたる人成共つみをめつし地ごくに 6  おとすべからずすみやかに極楽浄土くわんをん 7  の御みづかられんだいをさゝげしゆじやうむか 8  いにらいかういんじやうしたもふことうたがい なし 9  このこと も ( マ マ ) ふ ごうなら ば 十王共に ぢごくに おつ べき 0  ときしやうと日記をしやうくう上人に 奉りたま へは          」 (三ウ) 1  上人かぎりなく御よろこび有て頓而つのくに 2  なか山てらにをさめたまふ去程にやうらうぐわ ん () -226-

(12)

3  ねんのことなるに熊野ごんげんはいやしきぼん 4  ふにげんじしゆしやう御たすけあるべき御ぐわ ん有 5  なか山寺よりしやうくう上人のおさめたまふ日 6  記を申いだしてはじめて順礼をしたまふその 7  年のすゑに くわさんの法皇御とし十九と申に 8  御出家有てけんきの人をたつねたもふに有 9  時かわちのくに石かわこうりいそなか 里 さと 浄 (ママ) くう 0  太子の御はか所へちよくしをつかわされし     」 (四オ) 1  にいつかた共しらずこつじきひじり壱人来り 2  たもふちよくしすかたを御らんじて有所に御 3  まなこよりこんじきのひかりさしたもふ も (ママ) 4  召くだしちよくし上洛ありて 御 み かどのせんじ 5  に は御まなこよりこんじきのひかりさしたもふ 6  人なれはすなわち御名を仏げん上人とせんじ 7  をなしくだされたまいて御かいしの御ほうに 8  たのみて御年十九と申に御しゆつけにて御 法 ほう 9  名を ばにうかくとぞ申ける其時 法 ほう 皇上人に 0  むかいたまひてのたまわく御ふせは七ちんまん ぼう          」 (四ウ) 1  くにしよりやうのぞみにまかせてまいらすべき と 2  仰けれは仏けん上人こたへていわくわれこつじ 3  きの身なれ ば 七ちんまんほうもむやくなりく 4  にもしよりやうもなにかせんすてにてんかの 5  大わうに てましませ共ひとりむまれてひとり 6  しすとをもふめいどのみちには王もなしと申せ 7  は我等がやうなるこつじきしやもんひとり 8  むまれてひとりしすべしげに御心ざしあら ば 9  あくごうふうきしゆ生成仏し候はんふせをたひ 候へ 0  と仰けれは法皇仰有やうは我末世のくらい     」 (五オ) 1  をうけすでに天下の王とそなわり候へとも 2  末世のしゆじやう成仏し候はん為ふせをはいか 3  にもして参らせたきと仰けれは上人こたへ (2) -225-

(13)

4  ていわくれいき二ねんにはりまのくにしよしや 5  のかいさんせうくう上人に ゑん王より大日 6  本国中にしやうじんの観世音三十三所まし 7  ます此そじやうをに つきに しるしせうくう上人 8  に奉りたもふを津のくになか山寺におさめ 9  たもふ是を召出してしゆしやう に (ママ) 御たすけ候へ と 0  申させたまへはやすき 間 (ママ) ことゝて頓而なか山   」 (五ウ) 1  てらへちよくしをたてゝかのにつき出してはい 2  けん有永 寛 (ママ) 二ねん甲申年三月十五日法 3  皇 大 ( マ マ ) 里 を御たち有て御 共 (ママ) の人々にはそう 4  つ へ ( 以 下 マ マ ) んのんけんはん 其外くきやうの人々ほつ 5  しんして御供なり仏けん上人御さきだち 6  にて熊野なち山に う ( マ マ ) いおう たうよりはじめて 7  順礼をしたもふ其時上人のたもふ三十三所くわ ん 8  おんの御まへにて御うた一しゆつゝあそ ば され 候へ 9  と有仏けん上人の御うたに三十三 ば んみのゝ 0  たにくみにてあそ ば し候けさまてはをやとた   」 (六オ) 1  のみしをいするをときやおさむるみのゝたにく 2  み世をてらす仏しるしありけれはまたとも 3  しひもきゑぬなりけりよろつよのねかいは 4  こゝにをさめをく水はこけよりいするたに 5  くみかくのことくけちくわん有て熊野 6  なち山よりみのゝたにくみまて国かす十二ヶこ く 7  みちのつもりは七百十四りまた日のかすは七十 8  五日なりされは順礼三月十五日よりはしめ 9  て六月朔日迄七十五日なりこれをほんとし 0  て順礼有へく候なり去程に 仏けん上人だいり   」 (六ウ) 1  に参りて一日とうりう成法皇に た (ママ) もふし ば 2  らくこれに有べく候へとも熊野なち山しやう 3 

に用有法印にて候間いとま申候べし 4  なをもつてしゆじやうに御すゝめ有て順礼 (3) -224-

(14)

5  かうぎやうあるべしいかなるつみふかきもの 6  なりともざいしやうをめつして成仏うたが 7  い有べからすと仰有て其まゝかきけすやう 8  に仏けん上人うせたもふ其のち法皇せん 9  じにはさて此あいだの仏けん上人は熊野ごん 0  けんのへんけにてましますなりかゝるたつ     」 (七オ) 1  とき御ことはよにもあるへく候いま一度熊野 2  にさんけい申べしとて御用い有てくまの山 3  しやう

でんにつきたもふ法皇御きねん 4  有やうはあをぎねがわくは今一度仏けん 5  上人に たいめんさせてたびたまへたいめん 6  申さずは二度みやこへかへらじと御きねん 7  有て一七日参ろうある所に まんずる夜はん 8  にくまのゝこんけんたまのすたれを御あけ 9  有てあらたにげんじいてさせたま へ (ママ) 法皇に 0  をかまれさせたもふ御たくせん有て抑順礼の   」 (七ウ) 1  輩 ともがら にをいてはこん生にてかいとくげだつのたね を 2  あんのんにまもるべしまたらいせにては七世の 3  ぶもきやうだいけんぞくに至迄成仏せさせんこ 4  とうたがい有べからすたとへ六親のうちに一人 5  もれあくだうへおつることあら ば われ其く 6  るしみをたすけ順礼の一もんもらさす成 7  仏せさせんことうたがいなしとこんけん御た 8  くせん有順礼の人々まゆの間とあしのう 9  らとにこんじきのぼんじすわるなり一 ば ん 0  に あびらうんけん二はんに 南無阿弥陀仏三     」 (八オ) 1  はんになむ大じ大ひ観せをんととのふへし 2  とのたくせんなり法皇も弥々たつとくを 3  ぼしめし其後なちにせんにち御こもり有 4  て御げかうの時はかさねて御じゆんれい法 5  皇も二度御順礼熊のゝこんけんも一度は 6  いやしきぼんぶにへんじ一度は仏けん上人に成 7  て二度御しゆんれいありいかに いわんやたか 8  きいやしきおしなめて順礼申さぬ人はたゝ (4) -223-

(15)

9  みをおもはぬこゝろ成べし又順礼に十のとく 0  のこと一にはほとけの三十二そうをぐそくし六 くわん           」 (八ウ) 1  おんのぼんじ眞のてにすわるなり二つに 2  はしやうじんあいぜんのまねき六道りんゑの 3  くをはなれじきに成仏うたがいなし三つに 4  は七なんそくめつ七ふくそくしやうなるべし 5  四つに はぐちのつみめつしてちへさいかくをか うむり 6  ひんせんのものはふつきあたへぶつほうをさ 7  づけたもふなり五つに はげんぜあんのんむ 8  ひやうゑんめいしそんはんじやうす六つには三 あ 9  くたうにまよわずあくじさいなんのがし 0  たもふなり七つに は一生の間せんそうを      」 (九オ) 1  くやうするにあたるなり八つには仏神のかい 2  ご有てなにごともしよぐわんじやう ぢ ( マ マ ) う 九つに 3  はすなわち浄土にむまるゝ十にはふだらく 4  せかいにいたりてくわんをんとだうざするな 5  り又こんけんの御たくせんに 我まへにむち 6  をうち馬にのりて三十三度参らんよりこつ 7  じきをして成共一度順礼をして我まへ 8  に参るなら ば 三つのきさはしをおりて 9  三とらいはいをしてかへすべしとの御たく 0  せんなりたとへは順礼のそみなれ共て       」 (九ウ) 1  あしのかなわぬ人は三十三まいのふだをしよも ふ 2  していゑのうちにをすべし一どしゆんれいに 3  むかふへし一度しゆん礼の人にやとかし 4  一かのなかれをくむ人はかならす成仏う 5  たかい有へからす又札をうちに たる其いへに 6  は忝なくも天照大神熊野のこんけん三 7  十三所くわんおん毎日御やうこうあるへき 8  と御ちかいなりまたふじこんけんの御たく 9  せんに有順礼のくどくかうだいなるゆへ (5) -222-

(16)

0  たにくみにてふだを打をさめそれより       」 (十オ) 1  ふじぜんじやういたし候はゝ一夜こりにて 2  ぜんじやうはたすへしとの御ちかいなり 3  きやうにいわくたかさも四十里ひろさも 4  四十里四方石をてんにんのあまのはこ 5  ろものみてに て三ねん一どつゝなてゝな 6  てつくすことあるともちゝはゝのをんほう 7  じがたし去ながらさいこく三十三所 8  しゆんれい一といたしたるともがらは 9  かならすちゝはゝのをんはうずるな 0  り此ゑんぎ一度ちやうもんの人はしゆん      」 (十ウ) 1  れい一度したるにあたるべしこのゑんぎ 2  と申は忝もゑんまおうさんたんに 3  してしやうじんの御毫にて自筆か 4  きをくりたもふものなり是しんかう 5  の人はじゆみやう長をんに して七ちん 6  まんほうのいつみわき又これをうた 7  がふ人のまへに てはかたることなかれ 8  これをうたがふ人は其身はかりにて 9  あるへからす六しんけんそく共にあく 0  たうへおつへきものなりみぎ此ゑんぎ       」 (十一オ) 1  一日に一度よむべし若よますはあし 2  たことにいたゝくへし其日のつみを 3  めつしみらい佛くわにいたるなりしん 4 

すべしかへす

も今生はかり 5  のやと一大事といわんは是後生ぼ 6  だいなるべしゆだんあるべからさる 7  ものなりしかりといゑともふしん 8 

の人は是を聞てむやくなるへ じ (ママ)        」 (十一ウ) (白)          」 (十二オ) (白)          」 (十二ウ) (6) -22-

(17)

【校訂・解読文】 一、段落を適宜施した。 一、丁替わり、表・裏は省略した。 一、句読点、濁点を適宜施した。 一、平仮名を漢字に、漢字を平仮名に適宜改めた。 一、仮名遣いは歴史的仮名遣いに改めた。 一、 「有」 「其」 「此」 「是」 「成」 「去」は、それぞれ 「 あ り 」「 そ の 」「 こ の 」「 こ れ 」「 な り 」「 さ る 」 とした。 一、旧漢字は新字体に改めた。 一、要検討部分は〈   〉内に原文を入れて傍書した。 一、語を補った部分は(   )内に入れて示した。 一、原文通りの部分は(ママ)と傍書した。 一、 (注)を適宜施した。

西国順礼大縁記

抑、 霊 亀 二 年 (1) の 頃、 大 和( の ) 国 長 谷 寺 の 開 山 徳 道 (2) 上 人 百 万 部 の 法 華 経 を 書 き た て、 御 供 養 に は、 一万人の御僧を請じ、供養あるべき風聞なり。ただ し、 「 能 化 に 請 じ 申( す ) べ き 人 無 し 」 と お ぼ し め す折節、徳道上人を閻魔へ請じ申されてのたまはく、 「 こ れ へ 請 じ 申( す ) こ と 別 の 子 細 に あ ら ず。 百 万 部の法華経供養あるべき由承(り)候へ ば 、めでた きことかぎりなし。然(れ) ば 、御導師には、播磨 の国書写の開山性 空 (3) 上人を御申(し)ありて、御供 養あるべし」と閻魔王のたまへ ば 、その時、徳道上 人かぎりなく御喜びありて、やがて播磨の国へ下向 し給ひて、この由を性空上人へ仰(せ)られけれ ば 、 子細なく、やがて御同道あり、大和の国にて御供養 あり。 す で に 結 願。 後、 上 人 閻 魔 王 へ 参( る )。 下 向 あ り て の た ま ふ や う は、 「 百 万 部 の 法 花 経 供 養 の 導 師 の功力によつて、罪障深き者ども罪障を滅して、兜 率天に生まれん。その外、業果の鱗、山野の獣に至 るまで、罪滅して浄土に生(ま)れん」 。曰く、 「か へ す が へ す も あ り が た く 候( ふ )。 末 世 の 衆 生 成 仏 す べ き た め に 、 御 布 施 を 参 ら す べ く 候( ふ ) な り。 () -220-

(18)

大 日 本 国 中 に、 生 身 の 観 世 音 三 十 三 所 ま し ま す な り。この観音 の (ママ) 一度順礼を申(し)たらん者は、必 ず浄土に迎へ候(ふ)べし」と閻王かたく御誓願あ り。 「 こ の 由 あ ま ね く 御 勧 め あ り て、 順 礼 せ ら れ 候 へ 」 と 日 記 を 記 し、 上 人 に 奉 り 給 へ ば 、「 か や う に 詳しく承(り)候(ひ)て、ありがたく存(じ)候 へ ど も、 今 ほ ど の 衆 生、 こ れ を 不 信 申( す ) べ く 候(ふ)間、誠(に)御志ましまさ ば 、証文一筆給 ( は ) り 候 へ 」 と 申 さ せ 給 へ ば 、 閻 魔 王「 さ ら ば 」 とて、御身より血を出だして新たに祈請あそ ば しけ る。 「 抑、 順 礼 の 輩 に お い て は、 十 悪 五 逆 の 罪 を 無 量劫が間作りたる人なりとも、罪を滅し地獄に堕と す べ か ら ず。 速 や か に 極 楽 浄 土( に )、 観 音 の 御 自 ら蓮台を捧げ、衆生迎ひに来迎、引摂し給ふこと候 ひなし。この事も(し)不合なら ば 、十王ともに地 獄に堕つべき」と、祈請と日記を性空上人に奉り給 へ ば 、上人かぎりなく御喜びありて、やがて津の国 中山寺に納め給ふ。 さる程に、養老元 年 (4) のことなるに、熊野権現は卑 しき凡夫に現じ、衆生御助けあるべき御願あり。中 山寺より性空上人の納め給ふ日記を申(し)出だし て、始めて順礼をし給ふ。その年の末に花 山 (5) の法皇 御年十九と申(す)に、御出家ありて、験気の人を 尋ね給ふに、ある時、河内の国石川郡磯長里、 上 〈浄くう〉 宮 太子の御墓 所 (6) へ勅使を遣はされしに、何方とも知ら ず乞食聖壱人来(た)り給ふ。勅使姿をご覧じてあ るところに、御眼より金色の光差し給ふも(の)召 (し)下し、勅使上洛ありて、帝の宣旨には、 「御眼 より金色の光差し給ふ人なれ ば 、すなはち御名を仏 眼 (7) 上人」と宣旨をなし下され給ひて、御戒師の御房 に頼みて、御年十九と申(す)に 、御出家に て、御 法 名 を ば 入 覚 と ぞ 申( し ) け る。 そ の 時、 法 皇 上 人に向かひ給ひてのたまはく、 「御布施は七珍万宝、 国、所領、望みに任せて参らすべき」と仰(せ)け れ ば 、仏眼上人答へて曰く、 「我れ乞食の身なれ ば 、 七珍万宝も無益なり。国も所領もなにかせん。すで に天下の大王にてましませども、ひとり生まれてひ と り 死 す と 思 ふ。 冥 土 の 道 に は 王 も な し と 申 せ ば 、 () -29-

(19)

我等がやうなる乞食沙門もひとり生まれてひとり死 すべし。げに御 志 〈心ざし〉 あら ば 、悪業、富貴、衆生成仏し 候はん布施を賜び候へ」と仰(せ)けれ ば 、法皇仰 ( せ ) あ る や う は、 「 我 れ 末 世 の 位 を 受 け、 す で に 天下の王とそなはり候へども、末世の衆生成仏し候 はんため、布施を ば いかにもして参らせたき」と仰 (せ)けれ ば 、上人答へて曰く、 「霊亀二年に、播磨 の国書写の開山性空上人に、閻魔王より大日本国中 に生身の観世音三十三所まします、この訴状を日記 に記し、性空上人に奉り給ふを、津の国中山寺に納 め給ふ。これを召(し)出(だ)して衆生 に (ママ) 御助け 候へ」と申させ給へ ば 、やすき 間 (ママ) こととて、やがて 中山寺へ勅使を立てて、彼の日記出(だ)して拝見 あり。 永 寛 (ママ) 二 年 (8) 甲申年三月十五日、法皇 内 〈 大 里 〉 裏 を御発ちあ り て、 御 供 の 人 々 に は、 僧 都 (9) へ ( 以 下 マ マ ) ん の ん、 け ん は ん 、 その外、公卿の人々発心して御供なり。仏眼上人御 先達にて、熊野那智山 如 〈 に う い お う 〉 意輪堂 よ り )(( ( 始めて、順礼を し給ふ。その時、上人のたまふ「三十三所観音の御 前にて御歌一首づつあそ ば され候へ」とあり。仏眼 上人の御歌に、三十三番美濃の谷汲にてあそ ば し候 (ふ) 。 今 朝 ま で は 親 と 頼 み し 笈 摺 を 解 き や 納 む る 美 濃の谷汲 世 を 照 ら す 仏 し る し あ り け れ ば ま だ 灯 も 消 え ぬなりけり 万 代 の 願 ひ は こ こ に 納 め 置 く 水 は 苔 よ り 出 づ る谷汲 かくのごとく結願ありて、熊野那智山より美濃の谷 汲 ま で、 国 数 十 二 ヶ 国、 道 の 積 も り は 七 百 十 四 里、 ま た、 日 の 数 は 七 十 五 日 な り。 さ れ ば 、 順 礼 三 月 十五日より始めて、六月朔日まで七十五日なり。こ れを本として、順礼あるべく候(ふ)なり。 さる程に、仏眼上人内裏に参りて一日逗留なり、法 皇 に( の ) た ま ふ。 「 し ば ら く こ れ に あ る べ く 候 へ ど も、 熊 野 那 智 山 証 誠 殿 に 用 あ り。 法 印 に て 候 ( ふ ) 間、 い と ま 申( し ) 候( ふ ) べ し。 な ほ も つ て衆生に御勧めありて、順礼興行あるべし。いかな (9) -2-

(20)

る罪深き者なりとも、罪障を滅して成仏疑ひあるべ か ら ず 」 と 仰( せ ) あ り て、 そ の ま ま 掻 き 消 す や う に 、 仏 眼 上 人 失 せ 給 ふ。 そ の 後、 法 皇 宣 旨 に は、 「 さ て こ の 間 の 仏 眼 上 人 は、 熊 野 権 現 の 変 化 に て ま しますなり。かかるたつとき御事は世にもあるべく 候( ふ )。 い ま 一 度、 熊 野 に 参 詣 申( す ) べ し 」 と て、御用意ありて、熊野山証誠殿に着き給ふ。法皇 御 祈 念 あ る や う は、 「 仰 ぎ 願 は く は、 今 一 度 仏 眼 上 人に対面せさせて賜び給へ。対面申さずは、二度都 へ帰らじ」と御祈念ありて、一七日参籠あるところ に、満ずる夜半に、熊野の権現玉の簾を御開けあり て、新たに現じ出でさせ給 へ (ママ) 、法皇に拝まれさせ給 ふ。 御 託 宣 あ り て、 「 抑、 順 礼 の 輩 に お い て は、 今 生にて戒徳、解脱の種を安穏に守るべし。また、来 世にては七世の父母、兄弟、眷属に至るまで、成仏 せさせんこと疑ひあるべからず。たとへ六親のうち に一人漏れ、悪道に堕つることあら ば 、我れその苦 しみを助け、順礼の一門漏らさず成仏せさせんこと 疑 ひ な し 」 と、 権 現 御 託 宣 あ り。 「 順 礼 の 人 々、 眉 の間と足の裏とに、金色の梵字座るなり。一番にあ びらうんけん、二番に南無阿弥陀仏、三番に南無大 慈 大 悲 観 世 音 と 称 ふ べ し 」 と の 託 宣 な り。 法 皇 も 弥々たつとく思しめし、その後、那智に千日御籠り ありて、御下向の時は、重ねて御順礼。法皇も二度 御順礼、熊野の権現も一度は卑しき凡夫に変じ、一 度は仏眼上人になりて、二度御順礼あり。何に況ん や高き卑しきおし並めて、順礼申さぬ人はただ身を 思はぬ心なるべし。 又、 順 礼 に 十 の 徳 の こ と。 一( つ ) に は、 仏 の 三 十 二 相 を 具 足 し、 六 観 音 の 梵 字 真 の 手 に 座 る な り。二つには、生身愛染の招き、六道輪廻の苦を離 れ、直に成仏疑ひなし。三つには、七難即滅、七福 即 生 な る べ し。 四 つ に は、 愚 痴 の 罪 滅 し て、 智 恵、 才覚を蒙り、貧賤の者は富貴与へ、仏法を授け給ふ なり。五つには、現世安穏、無病延命、子孫繁生す。 六つには、三悪道に迷はず、悪事、災難逃し給ふな り。七つには、一生の間千僧を供養するに当たるな り。八つには、仏神の介護ありて、何事も所願成就。 (20) -2-

(21)

九つには、すなはち浄土に生まるる。十には、補陀 落世界に至りて、観音と同座するなり。 又、 権 現 の 御 託 宣 に 、「 我( が ) 前 に 鞭 を 打 ち、 馬に乗りて三十三度参らんより、乞食をしてなりと も、一度順礼をして、我(が)前に参るなら ば 、三 つの階を降りて、三度礼拝をして返すべし」との御 託宣なり。たとへ ば 、順礼望みなれども、手足の適 はぬ人は、三十三枚の札を所望して、家の内に押す べし。一度順礼に向かふべし。一度順礼の人に宿貸 し、一家の流れを汲む人は必ず成仏疑ひあるべから ず。又、札を打ちたるその家には、忝くも天照大神、 熊野の権現三十三所観音毎日御影向あるべき」と御 誓ひなり。 ま た、 富 士 権 現 の 御 託 宣 に あ り。 「 順 礼 の 功 徳 広 大なる故、谷汲にて札を納め、それより富士禅定致 し候は ば 、一夜垢離にて禅定果たすべし」との御誓 ひなり。 経 に 曰 く、 「 高 さ も 四 十 里、 広 さ も 四 十 里、 四 万 石を天人の天の羽衣の御手にて、三年一度づつ撫で て撫で尽くすことあるとも、父、母の恩報じ難し」 。 さ り な が ら、 西 国 三 十 三 所 順 礼 一 度 致 し た る 輩 は、 必ず、父、母の恩報ずるなり。 こ の )(( ( 縁起一度聴聞の人は、順礼一度したるに当た るべし。この縁起と申(す)は、忝くも閻魔王賛嘆 にして、生身の御毫にて、自筆書き送り給ふものな り。これ信仰の人は寿命長遠にして、七珍万宝の泉 湧き、又、これを疑ふ人の前にては、語ること勿れ。 これを疑ふ人はその身 ば かりにてあるべからず、六 親、眷属ともに悪道へ堕つべきものなり。 右、この縁起一日に一度読むべし。若(し)読ま ずは、朝ごとに載くべし。その日の罪を滅し、未来 仏果に至るなり。信心すべし。かへすがへすも、今 生 ば かりの宿、一大事といはんは、これ後生菩提な るべし。油断あるべからざるものなり。しかりとい へども、不信心の人は、これを聞く無益なるべし。 (注) ( 1 )  七一六年。 (2) -26-

(22)

( 2 )  斉 明 天 皇 二 年( 六 五 六 ) ― ?。 奈 良 時 代 の 僧。播磨国の人。俗姓は矢田部造。天武四年 ( 六 七 五 ) 二 十 歳 で 出 家 し て、 私 度 の 沙 弥 に なる。大和国長谷寺の十一面観音を造立、神 亀四年(七二八)長谷寺を建立したとされる。 ( 3 )  ? ― 寛 弘 四 年( 一 〇 〇 七 )。 平 安 時 代 中 期 の 僧。俗姓は橘氏。橘善根の子、書写上人、書 写聖とも。天台宗の僧で、 康保三年(九六六) 書写山円教寺を創建。花山法皇、源信、和泉 式部、藤原道長等が尊崇して帰依する。なお、 性空上人は平安時代中期の僧で、徳道上人と は 時 代 的 に 合 わ な い。 『 西 国 三 十 三 所 観 音 霊 験 記 真 鈔 』( 宝 永 二 年 刊 ) で は、 法 華 経 供 養 の後、徳道上人が閻魔王宮に参っている。近 世期の伝承では、徳道が頓死して冥界に至り、 閻魔王より観音霊場三十三所を示され、巡礼 するよう告げられるのが一般的。 ( 4 )  七一七年。 ( 5 )  安和元年(九六八) ― 寛弘五年(一〇〇八) 。 第 六 十 五 代 天 皇。 在 位 は 永 観 二 年( 九 八 四 ) ― 寛和二年(九八六) 。冷泉天皇の第一皇子。 藤原兼家の謀略により、花山寺(元慶寺)で 出家、法名入覚。その後、書写山に参り性空 に結縁、比叡山、熊野山などを巡って修行し た。 ( 6 )  大 阪 府 南 河 内 郡 太 子 町 に あ る 聖 徳 太 子 御 廟。 磯 し な が 長 の 墓。 聖 徳 太 子 追 福 の た め に 建 立 さ れ、 俗に上の太子と呼 ば れる叡福寺境内の奥にあ る。 ( 7 )  石川寺(叡福寺の別称)の僧というが、未詳。 熊野権現の変化とされる。なお、叡福寺の南 には、花山法皇が建立したという仏眼寺の寺 址がある。 ( 8 )  永観の誤り。九八四年。 ( 9 )  この部分、 『西国霊場縁起』 (天文五年写、松 尾寺蔵)では「中山寺の了長僧都、弁光法印、 能 範 法 印 両 三 人 を 召 具 し て 」、 『 西 国 順 礼 縁 起 』( 至 徳 五 年 刊、 長 谷 寺 本 願 院 蔵 刊 ) で は (22) -25-

(23)

「 弁 光 僧 正、 良 重、 祐 懐 と 共 に 」 と す る。 ま た、 『 西 国 三 十 三 所 名 所 図 会 』( 嘉 永 六 年 刊 ) で は、 「 冥 応 集 云 … 弁 光 僧 正、 良 重、 祐 懐 と 共に」とある。 ( 0)  『 西 国 三 十 三 所 観 音 霊 験 記 真 鈔 』 で は「 先 熊 野那智山如意輪堂より」とする。注( 9 )の 前二本も同じ。 ( )  以下の二段落、この縁起聴聞の功徳と利益を 説き、不信者の無益を述べる。 (23) -24-

(24)

(24) -23-

―解説並びに翻刻文、校訂・解読文―

稲 垣 泰 一

Saigoku Junrei Daiengi

of the Late Edo Period

Taiichi Inagaki

This paper explores the Saigoku Junrei Daiengi. A simple description of background is accompanied by explanation of the details of reprint and revision.

Main points are addressed first with an outline of bibliographical data and content. The discussion then probes

the historical origins of the pilgrimage to Saigoku’s Thirty-

three Sacred Kannons and the various aspects of its narrative. Finally, the special characteristics of this narrative’s transmission are discussed with a view to its status, establishment and background.

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