ハンス・フライヤーの政治教育論におけるナチズム受容の論理
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(2) . ハン ス・フライヤーの政治教育 論における. ナチズム受容の論理. 新. 井. 保. 幸. 1 92 0年代から30年代にかけての ドイ ツでは, ことにいわゆるヴァイ マール時代の末期 30年前 , 後には, 共和国の崩壊の危機とナチスの台頭を契機として, 政治と教育 の関係をめぐるさま ざまな 論議がまきおこっ た. これらの論議でつねに問題になっ たのは 政治が教育に介入することは許さ , れるか, 許されるとしたら どの程度までなのか, ということである この観点からさ ま ざまな政治 . 教育論を分類すると, 大きく三つの立場に分かれるだろうと思う たとえばクリーク Erns tl官ieck . は, 政治が教育や学問のあり方にま で介入することを, 少しも ちゅうちょ することなく肯定した . それと対照的にリ ッ ト Theodor Li t t は, 政治の側からの要求に対して大学と学問の自律性を主張 して 一 歩 も 譲 ら な か っ た, そ して ま た シ ュ プ ラ ン ガー EduardSpranger は 両 者 の 中 間 に あ っ て , ,. 政治の側からの要求に譲歩しつつ, 不徹底ではあるけれ ども学問や教育の自律性を擁護しようとし た.. さて, 上の三人はいずれも教育学者であるが, 政治教育論を展開 したのは教育学者だけ ではない .. こ こ に 紹 介 す る ハ ン ス ・ フ ライ ヤ ー Hans Freyer も そ の 一 人 で あ る ,. ハンス・フライ ヤーは1 887年に生れ, ライ ブツィ ヒ大学を卒業した後, 母校の哲学講師 キール , 大学哲学教授を経て, 19 25年ライ ブツィ ヒ大学にもどり社会学教授 となっ た 第二次大戦中 ブタ . , ペスト大学に交換教授として赴任したこともあるが 戦後は ヴィ ース バーデンに隠棲した , , . 以上の ような経歴の持ち主であるフライ ヤーは, 一般には二つのことで知られているようにみえる 第一 . に, 形式社会学を批判 し, それに代る 「現実科学としての社会学」 を提唱した ドイツの代表的社会 学者として. 第二に, ナチスに協力した人物 (彼には 『右からの革命』 という著書がある) として . 第二点は小論と重要な関係があるので, 補足しておこう 私の参照した記述は平凡社『哲学事典』 . の「 ノ・ンス・フライヤー」 の項目と阿閉吉男訳 『社会学入門』 の訳者による 「あとがき」 の二つで ある, 前者によると, 「現実科学としての社会学」を唱えたフライヤーには もともと現実重視の傾 , きがあり, ナチスの台頭ともに民族を重視した結果, ナチズムあるいは国家社会主義に傾斜したと いう. 後者はナチスへの協力を, 彼のいう 「社会学的構造概念」 と関連づけて説明する すなわち . 「彼の社会学的構造概念は, 歴史的段階性を示しながらも, その基礎に成層性」 をもち 最下層に , 位置する共同社会, ことに民族を重視する, しかるに共同社会や民族は「静的社会構造」 であって , それらが「社会学的構造概念」の基礎をなすことになるので, 「彼の歴史主義は破綻せ ざるをえなく なるし,また,彼は保守的たらざるをえなくなる ここから国家社会主義 への道も切りひらかれる」 , ( ) . と..
(3) . 新 井 保 幸. 二つの説明はややちがっていて, 私自身はどちらかといえば前者を採るが, ここではそのちがい を穿饗することは控えたい. どちらも, ナチ ズムへの傾斜が彼の学問的立場と関係がある, と指摘 していることに注意すれば充分だからである. フライヤーがナ チズムへの傾斜を強めていくのはある時期 以降のことである. その時期がいつ頃 なのかは, フライヤーのことをくわしく調べていない私には確定でき ない. 1933年の『ポリティ ツ シェ.ゼメスター』(直訳すれば政治的学期)という論文には, ナチ ズムに同調する立場がかなりはっ l i t u onvon Rechts) が 出 さ れ た の きりと表明されている. けれども前述の 『右からの革命』 (Revo である. しかしここ で注意 0年代初頭と考えてよさそう 931年のことであるか ら, その時期は3 は1 して お き た い の は, フ ライ ヤ ー は, た と え ば ク リ ー ク が そ う だ っ た の と は ち が っ て, 当 初 か ら の 国. 40代に達 してか 家社会主義者では なかっ たということ である. つまりフ ライ ヤーは比較 的遅く ( 化を, ら) , みずからの決 断によ っ て, ナチ ズムに信仰告 白したと考えられる.この立場上の顕著な変 転向と呼ぶことは 適切 ではないかもしれないが,転回あるいは転換と呼ぶことは許されるであろう. 私は, フライ ヤーにおいて, この転回がどのようにして起ったのか, という問題に強い興味をおぼ え る.. ところでそれを説明するのに 役立つと思われる資料 がわずかながらある. あまり知られていない ことだが, フライ ヤーは教育に関する論文を少くとも三篇ほど書いている. すなわち 「現代の陶冶 危機について」「国家の hoheSchule しての大学」 そして前述の 「ポリティ ツ シェ・ゼメスター -- 大学改革に関する提言 --」 2 ( )である.それらは,ことに後の 二篇は政治教育論といっ てよいもので ある. 三篇における議論は, 時代に適合する陶冶理想, 大学と国家の関係, 学問論, 職業とその陶 冶, 政治的陶冶との関連における大学改革の問題等, 多岐にわたる. いいかえればそこでは, 30年 代 ドイツの大学知識人が直面 したほとん どす べての問題が, 時代状況とかかわっ てのべられていた の であ る.. ところで 「ポリティ ツ シェ ・ゼメスター」 とそれに先立つ二篇との間には, その論旨にあきらか な断絶が認められる(その詳細は後述する) , というのは, 先にものべた通り, そこに到ってはじめ て, ナチズムに同調する態 度が表明されるからである. フライヤーの転回は, 三篇に即 してみるか ぎり, 劇的になされたのである. さて転回が宗教的回心のような性質のものだっ たとすれば, その前後での議論に論理的一貫性を 求めることはできないかもしれない. しかし転回が自覚的で合理的な判断によるものだったとすれ ば, 転回後の議論は, 少くともある程度ま で, 転回前の議論の論理的帰結として理解することがで きるはずである. 私はフライヤーの転回を, 合理的な理由だけ で説明がつくものとは 必ずしも思わ ない. また, 転回の合理的に説明がつく 部分がすべて転回前の彼の 議論で尽されるとも考えない. しかし転回の論理の 基本的な部分は, それ以前に彼がおこなっていた議論 で説明 できると考えるの である. そのことを私は, 私が現在利用 できる資料の範囲 内で論じてみたい.. 1 1 「現代の陶冶危機について」 (以下これを便宜上, 第一論文とよぶ)の検討からはじめたい. この 論文の要旨をごく大雑把にいえば次のようなことである. ①古典的陶冶理 念は現代 -- と いう の は2 0世紀の 意味である 一一 にはもはや適合しない. ②それは古典的陶冶理 念の立脚していた諸前 提が, 現代には存在しないからである. ③しかし今日, それに代る新たな陶冶理念はみいだされて.
(4) . ハンス・フライヤーの政治教育論. いない. (だから, 陶冶の危機だと いうわけである ) ④現代が「転換期」 に属するという認識から . , それにふさわしい陶 冶理念は定立されうる. ここで古典的陶冶理念といっ ているのは, 1 8世紀末から19世紀初頭にか けての ドイ ツ で新人文 主義者たちによ って唱えられた陶冶観をさす 外なる世界 -- 自然の世界も人間の世界も含めて . -- との緊張にみちた交渉 を 通じて,内なる世界,自己 の精神を一箇の小宇宙として完成すること , l he lm von H1mnbo l dt に代表さ れる新人文主義 者は陶冶とよんだ この陶冶 それをフムボルト Wi . 観がその後も長く影響力を及ぼし, 今日なお一定の根強い支持を集めているのは周知の 通りだが , その今日における妥当性をフライヤーははっきりと否定する 誤解のないように註釈をつけ加える . ならば, 彼は古典的陶冶理念そのものがよ いとかわるいとかと いっ たわけ ではない そう ではなく , , それが現代にはもはや適合しないといったの である そしてそう であるにもかかわらず それをも っ . , てなお現代における陶冶の範型とみなす見解を批判 したのである . 古典的陶冶理念 が現代には妥当しないというのはなぜか その根拠は簡単にいえばこういうこと , である. 古典的陶冶理念はあ る特定の前提 -- 思想的な いしは世界観的なそれと社会学的なそれ -- のもとで成立したもの である. 社会学的な前提という のは 政治権力に関与することからしめ , だされた知識人になしうることは, 自己の内面世界をみつめることでしかなく しかも身分制 が解 , 体しつつあり新たな政治的統合の形式 (国民) がいまだ存在しなかった当時の社会 では かれらに , は個人としての自己完成をはかることしかなかっ た ということ である 世界観的前提 というのは , . , われわれが生 活しているこの地上の世界を超えたところに 固有の法則性をもち 一箇の全体を形 , , 成している価値の世界, 理念の世界が存在するというものである その前提は 実証諸科学と史的 . , 唯物論によって打ち破られた. 要するに, 古典的陶冶理念を支えていた前提は 二つとも潰えさっ , てしまっ た. したがっ てわれわれにとって, 古典的陶冶理念はもはや妥当せず われわれにふさわ , しい陶冶の形式は別に求められなければならない, というのである . 現代にふさわしい陶冶の形式は, ではどうやっ て知られるのだろうか そのためには現代がどう . いう時代 であるかを考えなけ ればならないとする フライヤーは歴史を安定期 po i i t s veEpoche と . ive od k i i h 転 換期 negat t E h r s c e o c eの継起交代としてとらえ 現代 が転換期に属するも p . のとす , る. 安定期というのは「確固たる秩序のある時代, 社会的諸力が国 家という形式のなかに統合され , 規範と価値に確信がもたれている時代」 3 ( ) であり, 転換期はその反対である. そこで問題は, 転換期に適合する陶冶の形式は何か, というふうに置き換えられる 転換期は流 . 動している, そこで, そこに生きる人間にまず求められるのは 時代を動か している諸力を 「幻想 , をもたずにみわたす」 ことである. そして次に必要なのは 時代がどこへ向っ て動いているかを知 , ること, 「進行中の運動 の法則を……把握すること」 ( 4 }であり, 最後にそのような状況認識にもとづ いて 「われわれの存在をそこ (時代の動向 -- 新井) に方向づけること」 5 ( )である. つまり, 時代 の状況を広くみわたして その赴くところを察知し, 運動に加わることによって安定期の到来に寄与 する, ということにこそ, 転換期における陶冶の意味はあると いうのである フライヤーの定式で . い え ば, 「歴 史 的状 況 意 識 geschi l i ionsbewuss tuat in を も っ て 時 代 の 運 動 の な か に t cht ches Si se , ,. 主体的に立つこと」 6 ( } であ る. しかし 「立つ」 ためには足場が必要である. そして足場は結局 のところ 各人の特殊的 で個別的 , な生活環境のなかに築かれるほかはない 足場を高くす る (普遍化する) 努力はもとより必要であ . る, しかしそれでも、 足場が一 つになるということはありえないのである ということはいいかえ . れば, 時代の動向把握について意見の相違 が生ずることは避けられないということ である そのこ . とについてフライヤーはどう考えていたのだろうか 意見の相違 が生ずるのは当然のこと であると ..
(5) . 新 井 保 幸. する. すなわち相対主義の立場をとるの である. しかしそう である以上, 時代の動向把握に関して は多様な見解が成り 立ち, そのどの見解もその正しさを決定的に証明することはできないというこ とになる. 多様な見解のうちのどれを採ればよいのか. そこでフライヤ ーは最後に 「決断」 につい て語ることに なる. 自分が正しいと信 ずる見解を採るほかはなかろうというのだ. けれどもその ように自分の信ずるところに したがっ て各人が見解 をたたかわせてゆく過程において, 一致への途 はひらかれうるとする楽観的な態度が, 彼にはあっ たように思われる. 根底にこうした楽観主義も あって, 彼は対立する立場に対 してさえも努めて寛容であろうとした. しかしその彼が徹底 して激 しく論難したものが一つ だけある. それは自由浮動的インテリ ゲンチャ 一である. この非難はいわ ば倫理的な性質の ものであっ た. というのも, 彼らだけが立場への決断を しないということが, 非 難の理由 だったからである. さて, 第二論文の検討に進む前に, ここまでのフライヤーの議論について私の感じる問題 点を二 つ指摘しておこう. 第一に, 時代がどこに向っ て動いてゆくかを見定めることと, われわれがその方向をとるべきか どうかということとを, 奇妙なことに, 彼は区別しては考 えなかっ た. 彼にとって時代の動向の観 察は, 動向に従うことを前提にしておこなわれるに す ぎないのである. 時代の動向を無視 すること はもちろんでき ない. しかしそれをみきわめた上で, それに対して独 自の態度決定をおこなうこと こそが, 「時代のなかに立つ」ということ であろう. フライ ヤーほ どの人物にそのことがわからない とも思えないの だが, 事実彼のおこなっ た議論では, その可能性がは じめから閉 ざされていた, と いわざるをえない. 動向に批判的にかかわろうとする態度がない以上, 動向は受容の対象とならざ るをえない. どう してフライヤーは動向に沿う し方 でしか 「決断」 を考えなかっ たのだろうか. 察するに, 一 つは, 時代の動向は 「われわれの意思を超えて」 いるという 思いである. 個人は転換期という 奔流 のなかのひとしずくにすぎない, と 皮はつぶやく. いま一つは, 歴史に対する信頼である. それに ついては後 述するが, その信頼 感が崩れたとき, 彼は隠棲することを選んだといえるかもしれない. 第二に, 「決断」のし方がそういうものであるとすると, その正否は 現実に生じた結果に よって裁 かれるということに なるであろう. そしてそのことは決 断をしようとする者の 心理にある種の影響 を及ぼさずにはいないと考 えられる. すなわち一方において個人は, その時々の支配的現実に引き ずられるかっこう で決断をく だすことになりやすい. しかし同時に他方, 決断が現実と一致するか にみえるところでは決断を正しいものと信 じるが, そう でない場合には現実を現実とみなしたがら ない, という傾きを, いいかえれば現実が懇意的に解釈される傾きを生ずるであろう.. 1 1 1. l eとしての 大学」 の要旨は次のようなこと である. 大学と国家は, 第二論文 「国家の hoheSchu それぞれ精神と権力を代表する対立物である, というのが近代自由 主義の考え方であっ た. 大学は 純粋に学問の場であり, 国家は大学に干渉してはならないものと考えられた. しかしそれはまちが いで, 大学は学問の場であると同時に職業教育の場でもある. その意味で大学は 「社会と国家の器 官」 である. 加えて現代 では, 国家が肥大化する一方 で社会諸力へと分極化 した結果, 国家と社会 という対立図式はもはや成り立たなく なっ た. いまや国家は社会そのもの である..
(6) . ハンス・フライヤーの政治教育 論. 以上,大学が国家と和解しうるということを強調したところに一篇の主旨があるといっ てよいが, その主張の背後には独自の状況認識があった. 3 0年代初めの危機的な状況のもと では, 大学に対して政治的目的のためには学問の自律性を犠牲 にすべき であるという要求も出さ れるに到った, フライ ヤーのことばを借りていえば 「政治は, 無 前提的な学問や自由な大学を欲しない, と公然と」 ( 7 ) 語っていた. そういう政治の側からの要求に対して, 大学人の一部からは当然のことながら学問の自由を護ろ うとする動きがおこった. たとえばリ ッ トはこう語っ た. 大学には二者択一があるのみ である. す なわち, 何らの与えられた決定にも服さない学問的大学であるか, それとも決定を拘束として受け いれて学問的大学でなくなるか, そのどちらかしかない, と. 8 ( )学問の自律性という原理に拠りなが ら, 大学を政治化しようとする動きに抗して, このように政治や国家からの大学の自由が叫ばれた の であ る,. ところで大学をめ ぐるこうした状況を, フライヤー自身は大学と国家の双方にとっ て不幸な事態 と感じていた, 彼の考えるところによれば, 大学は本来, 国家と対立関係にあるものではない. 大 学には国家に奉仕する義務もあり, 国家が大学に出す要求のなかには正当なものがある. そこ で彼 は, 少くともこの時点では, 大学を政治化しようとする動きに対しては警戒しつつも, 大学を国家 から切り離して純粋に学問の場とする見解にも賛成しないのである. 逆に彼は 「大学の原理のなか に政治的内容を発見すること」 ( 9 }をめ ざす. そういう 企てが, 大学の政治化要求と誤っ て受けとられ る危険のあることを, 充分承知 した上で. 大学の政治化要求への迎合ともとられかねない危険をあえて冒してま で, 彼をそうさせたものは 何だったのだろうか. 大学と国家の関係を好転させたいとする意図が, 強い動機としてはたらいた ことは疑いえない. また, 少々穿っ たみ方ではあるが, そもそも「大学の原理のなかに政治的内容」 があると指摘することによ って, 政治化要求をかわそうとしたのだ, という説も成り立つかもしれ ない. しかし第三に, 戦術的効果を無視してまでも現実を直視しようとする学者として の パトスが, フライ ヤーには一貫してあっ た. おそらくこうした動機がくみあわさっ て, 彼は大学の 「政治的内 容」 について語ったのであろう. そのために彼は大学と学問を区別する, なるほど大学は自律的な学問研究の場である. だがその 一方で大学は職業教育機関 でもあり, そのかぎりでは大学は自律的でなく, 国家社会の規制を受け る. 大学は二つの課題のどちらも放棄するわけにはいかない. 二つの課題は矛盾しない. けれども 大学は, その核心においては自律的な学問の場なの であり, 「本来の高次の性質(学問研究機関) が 他の性質 (職業教育機関) を貫いて」 , 。 ( ) いるという. すなわち大学は, 直接的には学問研究にたず さわり, そうすることで間接的に職業教育をおこなうというのである. さて大学の二つの課題を論じたあとでフライヤーはいう, 大学は二つの課題を果たすことによ っ て国家と民族に奉仕するのだ, と, これは一見あたりまえのことをのべているにす ぎないようにみ える. しかし学問研究による国家, 民族への奉仕という表現で, 実は彼は大変意味深長なことを考 えて い た の で あ る.. IV. 大学の果たすべき二つの課題を論じたのに続いて, フライヤーは一種の学問論を展開する. それ は学問の前提論とでもいうべきものである, なぜ彼はそういう議論をおこなっ たか. それについて.
(7) . 新 井 保 幸. 彼自身は何も明言してはいない. けれども, 先述の 「政治は無前提的な学問……を欲しないと公然 と」 語っ ているというく だりと照しあわせてみると, 彼の意図ははっきりと読みとれる. 学問研究 というものは決して無前提的なものではないのだ,そう彼は反論しようとしたのにちがいあるまい. シュ プランガーの「精神科学における無前提性の意味」という論文を援用 しながら, 学問的認識, ことに精神科学的認識には前提がある, というところから議論は出発する. 前提には, 認識者個人 の条件に帰因するもの (先入見, 幻想, 世界観等) と, 個人的条件を超えたもの, 認識者をとりま く時代的条件に帰因するものとがある.フライ ヤーが問題にしようとするのはもちろん後者である. (学問が客観性を売り物にするもの である以上, 前者は払拭さ れねばならぬ -- それができるか どうかは別として -- というわけ であろう.) 同時代人に共有される問題意識, 価値観, 思考の枠 i l i tdesGe tes」 s rk cheGestal 組等がそれにあたり, フライヤー自身はそれを 「精神の現実的形姿 wi 「時代の精神構造」「時代の精神的内容」などと好んでよぶ. 彼自身は一度も使 っ ていないけれども, われわれにはもう少しなじみのある「時代精神」ということばを, そこにあてはめてもよいだろう, さてフライヤーによれば, 学問はそのような前提はこ れを払拭できない, というよりも,,学問は そのような前提をぬきに しては存在しえないのだ. しかしその前提を意識することはできる. そし て, ひとたびその前提性を意識したならば, そのうちのどれが妥当であり どれがそう でないかとい う問題を, 学問は立てないわけにはいかない, というのである. ここのところまでの議論をきいてきて, 私には次のような疑問が浮んでくる. まず奇妙なことに, フライ ヤーにおいて学問の課題は, 学問対象の認識もさることながら, それ以上に学問自体の拠っ て立つ前提の認識に求められてゆくということ.次に学問がその前提を認識すべき であるとしても, そのことは どうして できるのかという問題がある. そして第三に, 「妥当な前提」とそうでない前提 の判別は どう してなされるのか, という問題がでてくるはずだろう. そもそも 「妥当な前提」 とは何か. フライヤーののべるところを私なりに整理していえば, それ は時代の精神生活全体の基礎をなすものであり, したがって学問的認識をも規定しているものであ り, 時代の本質あるいは実体的な内容とよばれるものである. そしてそれは, 同じ前提ではあっ て も, 「浅薄な時流」からは区別されるものであるという. そういうものが, 何かしら存在するはずだ とフライヤーは想定するの である. そういうものがあると仮定して, では どうや ってみいだされるのか. この問いに彼は, それは文 学や芸術の作品のなかに, もちろん学問的認識のなかにも, 要するに 「精神のあらゆる言語で表現 されている」 と答える. だから, それらを観察することによっ て把握できるはずだというわけであ る.. そうはいっ ても, それは方法的認識としては把握されえず, 直観的に把握されるほかないもので ある. そして直観的把握は, つまるところ個々の主体によ ってなされるもの であるから, 主体間に 見解の相違が生 じうるだろう. 要するに, 何が妥当な前提であるかについては, 見解が分かれるだ ろうということである. しかしフライヤーは多様な見解の列挙で終ってはならないという, そこ で, 一つの答えを出そうとすれば, それは再び「決断」という形をとらざるえない. 個人は決断しうる. しかしフライ ヤーが決断することを求めたのは, 学問に対してなの である.「判断を停止するのでは なく, 妥当なものは何かについて決断することが, 学問を学問たらしめるのである.」 ・ ・ )そういっ た { 無論 彼自身はそうは思わず ときフライ ヤーは学問に, それができないことを求めたのである. , , 学問は妥当な前提が何 であるかをいえるは ずであり, それをいうことこそ 「国家と民族の理論的器 官」 としての大学の責務 である, と信 じていたのだけれども..
(8) . ハンス・フライヤーの政治教育論. V. 以上のような学問の前提論を彼が展開したとき, 学問のモデルとして彼が思い描いていたのは, l i 彼のいう現実科学としての社会学だっ たのではないか, と私は推測する.「現実科学 Wi i ts rk chke h f i ens ws s c at」 とは社会的現実を対象とする科学というほどの意味であり, 社会的現実はさらに現 代といいかえてよい. 「現実科学としての社会学」とは, 社会学は現代を対 象とする学問(ないし科 学) であるべきだという主張なのである. 「現実科学としての社会学」 において彼が意図したのは, 「初期の社会学」 -- ということばで 彼が考えているのは, コント, 空想的社会主義者, マルクスなどの社会学である -- の理念を復 活させることである. すなわち, 社会学は, 現代が直面する実践的な問題に答えようとする志向を もって, 現代を診断する学問である, という理念を. 現代が直面する実践的な問題とは, われわれ が 「いま, ここ」 で何をなすべ きかということであろう. 「現実科学としての社会学」 は -- そし てひいては学問一般は, 現代の実践的問題に答えるべきであり, またおそらく答えられるはずであ る. そのことを彼は確信,していた. 彼がそういう確信をもてたのは, 彼目身のうちに, 現代の実践 的問題に答えたいとする強い熱望があっ たからであろう. けれども, 学問がつねにそうした実践的志向から発しているとしても, その直接の任務が実践的 問題に答えることだと考える 必要はない, というよりも, それには答えられないとするのが, M, ヴェー バー以来の学問観なの である. この点ではフライヤーは, シュ プランガーとともに, 反ヴェ ー バーの陣営にあった. ただ, そのような学問観を, 彼は学問の前提論では正面切 って展開はしなかっ た. そこで学問に 答えることが求められていた問いは, われわれが立脚している 「時代の精神的内容」 は何かという ことであって, われわれが何をなすべ きかということ ではなかっ た. それどころか第 一論文では, 次のようにさえいっていたのである. 「現実科学は 『現実の世界』 と 『現実の人間』 を, ことに社会 の法則性と現代の動きを,できるかぎり正確に先入見をまじえずに研究すること以外なしえないし, ま た なす べ き では な い」 , 2 ( ) と.. こうしてみると, あきらかに矛盾する二つの学問観がフライ ヤーのなかにはあった, ということ ができる. この事実はどうやっ て説明されるのだろうか. 学問観の一方から他方への転換がおこな われたのか. そうではないだろうと私は思う. 私の解釈するところ では, 学問が実践的な問題に答えるべきであるとして, それがどうして可能 なのかという問いに, フライヤーは学問の前提論をもって答えようとしたの である. いいかえれば 学問の前提論は, 一方において実践的たるべしとし, 他方において価値自由的たるべしとする, 相 矛盾する要請を調停する論理なのである. 学問は 「妥当な前提」 をあきらかにする, とフライヤー はいっ た. そして 「妥当な前提」 とは, 時代の精神生活全体の基礎をなす本質的内容であっ た. そ i l l ende であ れは あ る べ き も の dasSe nso endeではなくて, 現にある (と考えられる) もの dasSei る. しかしもしそれが価値あるものであるとすれば, われわれは自らをそこへ方向づけるべきだ, ということになるであろう. そしておそらくフライ ヤーはそう考えたのである. このようなわけ で, 「妥当な前提」 をあきらかにするということがそのまま, われわれが何をなすべきかについて語る こ と に な る の であ る. ある い は こう い い か え て も よ い か も し れ な い. フ ライ ヤ ー の 学 問 観 の な か に は 二 つ の 極. -- 規. 範定立と事実認識という -- があっ て, 両者は明瞭に分離されずにからみ合っているの である. 7.
(9) . 新 井 保 幸. 「妥当な前提」 というのはその象徴的な表現である. われわれは本当は どうあるのか, といういい 方で, われわれがどうあるべきなのかが語られるのである, 彼はなぜそういう誤った論じ方をしたのだろうか. 私の臆測をいえば, それは彼が現実そのもの のなかに理念の内在することを信 じていたためであろう. 歴史を貫いてそれを導いてゆくもの --. -- が何かしら実在する,. という信仰が, たしかに彼 の場合にもあっ た. そしてその信仰はおそらくは, 歴史に意味を みいだしたいとする強い欲求に由 来するものだっ た, と私には思われる. その欲求は, 彼に, 歴史を精神 の発展過程として理解しよ うとする態度をとらせる. す でに彼は学問の前提が 「精神の一 定の現実的形姿」 であると語っ てい それを理念と呼ぶにせよ精神と呼ぶにせよ. た. だからこそ彼は, 現実を 「できるか ぎり正確に先入見をまじえずに研究する」 ことによ って, 実践的問題に答えられると考えたの である. 第二論文の検討の結果として, とくに学問の前提論と関連して, 私は以下の三つの問題点を指摘 して お き た い.. 第一に, 決定的な誤ちは, 現実に対していかなる態度決定をおこなうべきかという問題に, 学問 が答えられるとしたところにある. それは 一面 では, 本来個人的信念にすぎないものを学問的認識 と思いこむ錯誤を生 じることであり, 他面 ではしかし, 個人の態度決定の妥当性を学問が裁くこと を意味する. 第二に, 政治との関連でいえば, 何が妥当な政治的現実であるのかを判定する 基準には触れぬま ま, それについての 「決断」 が求められた. その結果, 論者にとっ て都合のよい現実だけが妥当な ものとみなされる危険が, 生じがちである. 現にフライ ヤーは, 学問は現存国家を妥当な政治的現 実として肯定することもあれば, 生成しつつある国家のなかにそれをみることもある, という趣旨 のことをのべている. , 3 ( ) 論者は, そのイ デオロギーにみあう国家形態を, 妥当な政治的現実として 合理化しうるのである. 第三に, 何らかの超越的価値 (キリスト教における神, マルクス 主義における歴史, 人間性の理 念など) を拠り どころとして, 現実に批判的に対崎する姿勢は, フライ ヤーに乏しい, むしろ現実 そのものを基本的に精神の現れとして肯定的に受容する態度の方が強い. したがって彼は, 支配的 な現実を妥当な現実とみなすことになりやすいのである. そして以上の条件がくみあわさると, 支配的な政治的現実が妥当な政治的現実であると窓意的に 解釈され, しかもそのことが学問的認識として主張される, という事態がおこるのである.. VI. 小論のそもそもの課題は, フライ ヤーの政治教育論における転回の, すなわちナチズム受容の論 理を転回前の議論のなかにさ ぐり, そうすることで転回を論理必然的なものとして説明 しようとす るところにあった, これまでの論述で私はそれについて, 私の考えるおおよそのところはのべたつ もり である. 二つの論文を検討してみた結果, フライ ヤーがナチ ズムを受容するに到るのは必然的 であっ た, といえば, それはいいす ぎになるであろう. しかし, 彼がナチズムを受容するに到っ た としても不思議ではない, ということはできると思う. さて, 私は以下 で第三論文 「ポリティ ツ シェ ・ゼメスター」 にいくらか言及するが, それは転回 後の議論である. だからそれをとりあげるのは, 転回の論理についてさらに新たなことをつけ加え.
(10) . ハンス,フライヤーの政治教育論. るため ではなく, 転回の事実を証拠をあげて示すため である それ以上の 論文の内容についての . , 立ち入っ た紹介は控えたいと思う, というよりも正 直なところ 私にはこの論文がま っ たく つまら , ないものに しか思えないので, 論旨を紹介するだけの必要も感じなければ そうする気にもなれな , いのである. 先の二篇 -- はとにもかくにも, フライヤーが傑出した学者 であること をうかがわ せるに足るものである -- を知る者には, この論文を書いたのが同一 人物だとは信 じがたいはず である. 私自身読み終えて, 困惑と苦痛と失望 の念を禁じえなかっ た . 第三論文は大学改革論 である. その冒頭で彼は, 大学は本来陶 冶の場である という意味のこと , をのべる. 何をわかりきったことをと思っ て, つい読みすごしてしまいがちな箇所だが 注意して , みるとこの表現の意味するところが意外に重いことに気づかされる この簡単な表現が 大学の性 . , 格規定に関する彼の考えが根本的に変化したことを告げるのである . 第二論文 では, 大学は学問研究機関 であると同時に職業教育機関 であると規定されていた しか , しその関係はといえば, 両者の軽重を問題にするのはナンセンスだとフライ ヤーはいっているけれ ども,それにもかかわらず,中心になるのは学問研究なのである 彼自身 大学は 「その核心におい . , ては自律的な学問の場 である」 と言明していた. ところが第三論文になると, 大学は陶冶の場 であるといういい方をして (自律的な)学問の場と , いう規定についてはまっ たくのべられていない 職業教育機関としての性格の方はひき つづき 強調 . されているのと比べてみれば, このちがいは歴然としている しかも特徴的なのは 大学は陶冶の . , 場でもあるといっているの ではなく, 大学は本来陶冶の場であるといいき っていることである 大 . 学が陶冶の場だというのはも っ ともなことで, ことさら問題とするにはあたらないとも思われよう が, しかしそう ではないのである, 大学のこの性格規定が次の議論の伏線となっているからである . 大学が陶冶の場であるというとき, 彼はその陶冶を どう理解していたのか ところ で陶冶といえ . ば, 彼は第一論文 でそれの今日にふさわしい形式 を定式化していた すなわち 「歴史的状況意識を . も って時代の運動のなかに立つ」 ということが, 今日求められている陶冶 であるといっ ていたの で ある. この陶冶観は第三論文でも堅持されているだろうか あきらかに否 である ではそれに代っ . . てどういう陶冶観が提出されているか. それはきわめてはっきりとしていて 要するに政治的陶冶 , l i i i l t dungということ である 「われわれに 妥当する陶冶理念は政治的人間の理念 であ sche B Po . る.」 , 4 ( )「……私の信ずるところでは, 『政治的人間 の陶冶』以外に普遍妥当性を有する定式は見出せ ない,」 ( , 5 )陶冶についての彼の基本的な考え方は, わずか2, 3年の間にこれだけ大きく変っ たので ある. 基本的なところ での考えが短期間にこうも変転すること自体 あまり感心しないことだが , , フライ ヤーがそれについて釈明らしいことを一言ものべていないのもおかしい それとも彼は 「歴 . 史的状況意識をもって時代の運動のなかに立」ってみたところ, 「政治的人間の陶冶」 でゆくのがよ さそうだという結論になっ た, とでもいうのだろうか. ここ で再 び大学の性格規定の問題にもどってみよう. 以上のことからわかる通りフライヤーは , 大学がただ単に一般的な意味 で陶冶の場だといっているわけではなくて 実は政治的陶冶の場だと , いっ ていることになるの である. いまや 「自己自身とその精神的活動を新 しい捉のもとに服させ る」 , ( 6 )のは大学の義務であるというのだ. 「新しい捷」とは無論政治的陶冶 である. このようにみて くれば, 大学の性格規定が第二論文の場合といかにちがってきているかは明白 であろう . さて, 政治的陶冶が大学の目標であるということになれば, 自律的学問研究は 完全に否定され , はしないまでも, 政治的陶冶に従属するものでなければならない いいかえれば 自律的学問研究 . , ということば自体が空念仏となるのである, 第三論文の著者は, 大学が第一義的には自律的な学問.
(11) . 新 井 保 幸. の場であるという, かっての彼の考え方を放 棄したといわなければならない. しかもそれにとどま らず, 政治的陶冶が大学の目標 であるという主張は, かっ ての彼が反対した 「大学を政治化 しよう とする要求」 への妥協 であり屈 伏 である, といわなければならないのである. ところで政治的陶冶ということを彼はどう理解していたか. 一言でいって, 彼はその語を,「陶冶」 に力点をおいて理解した, ということは, 特定の政治的信 条をもたせることを ではなく, 政治的問 題について知的な判断ができることを重んじたということ である. 愛国心を鼓吹する 説教をくり返 せばそれで政治 的陶冶になる, とはさすがに彼は考えなかったのである. もちろん政治的陶冶とい う以上それは, 特定の政治的態度を肯定し, それを前提と した上での陶冶である, とされてはいる. l i i t i ldung (政治的陶冶) は Po i i scheErz t ehung (政 治 的 訓 練) に も と づ く。の と 彼 が い う scheBi Pol のは, そういう 意味である. そして特定の 政治的態度が国家と民族への自発的な奉仕をさすのは, . 彼の場合も例外では なかった. しかし政治的陶冶の課題はあくまでも, 政治について広く深く考え る力の育成におかれていたのであり, 偏狭な愛国心教育からは遠いものだっ たの である. 政治的陶冶について彼が語っ たことは, 今日なお傾 聴に値する. しかし, 政治的陶冶が唯一妥当 する陶冶の 形式であるとか, 大学が政治的陶冶の場であるという 発言にとりあう者は, 今日いない だろう. 彼がそういう発言 をおこなっ たのは, 「時局」 にひきずられたため である. 「時局」 の急迫 がなかっ たら, 彼はそういう発言をおこなわなかったの ではあるまいか. 実際, 古典的陶冶理 念が 妥当しない根拠についてあれほど説得的な議論を展開した人物が, 政治的陶冶が妥当する根拠につ いては, それに匹敵するだけの議論を展開しなかったの である, 政治的陶冶とは, 要するに, 政治について合理的に判 断する能力を育てる仕事である, とフライ ヤーはいっ た. そのかぎりにおいて, 私は 皮の議論に賛成する. しかしそれは, およそすべてのも ののなかに 政治的意味をみい だそうとしたり, すべてのものを政治的に解釈しようと したりするこ ととは, 似て非なるもの である. そしてフライ ヤーほどの人にそのへ んの区別がつか なかったはず はないと 思われるのだが, 事実はわれわれの期待を裏切る. たとえばフライヤーは, 青年の労働奉仕の なかに 「国民社会 主義の道徳的基礎」 や 「労働の政治 的本質」 をみいだそうとした. また, 職業にたずさ わることも, 国家と民族への奉仕 であるとされ た. 職業にそういう 面 がないとはいえないであろう. しかし問題なのは, 職業がその面か らしか論 , 8 ) ( じられないということである. 「鍛冶屋は民族のために鍛え, 手品師において民族が手品をする」 フ 情は同様 である と書いたとき, おそらくフライ ヤーは真剣だっ たのである. 学問においても事 . 政治学との連結を図る試み それと をみいだし 」 内在する政治的内容 ライ ヤーは 「当該知識領域に , が大事 であるという, そのような試みは, その知 識領域を政治化することには役立つ. しかしそれ は断じて政治的陶冶ではない. その試みがゆ ぎつく先は 次のような主張であ った.「大学における医 師の研究は政治的医学に極まり, 教師の研究は 政治的教育学に極まり, 法律家の研究は政治的法律 と が, ほ 学 に 極 ま る べ き で あ る.」 . ) 私 に は こ う い う こ と を ほ か な ら ぬ フ ライ ヤ ー が い っ た と いう こ 9 (. とん ど信 じられない. だがそれがたしかに 事実だっ たのである. フライヤ ーはなぜナチ ズムを受容するに到 ったのか. 私の結論は次の通りである. 第 一に, フライ ヤーには一貫して, 現実の状況に積 極的にかかわろうとする強い志向があった. 第二に, 歴史に意味をみいだしたいという激しい欲求は, 彼にそれを精神の自己展開過程と して 理解する世 界観をとらせた. そしてその世界観は彼に, 歴史的現実を精神の発現形態として肯定的 に受容させ たのである. 第三に, 状況に超越的な価値は, 状況を批判的に解釈するための拠りどころとなりうるが, その 10.
(12) . ハンス・フライヤーの政治教育論. ようなものが彼の議論の体系にはなかった. 超越的価値の不在は, 第二点と併せて 現実を肯定的 , に受容しがちな態度を助長したといえる. 第四に, フライヤーの議論は現実を妥当 (有価値) なものとそう でないものとに区別 し 妥当な , 現実への, 決断によるコミッ トメントを求める. しかし妥当な現実についての基準を示すことには ついに成功しなかったから, その判断は懇意的になされうるものであっ た. 加えて彼は, 決断の正 否は現実に生起した結果によ って決裁されるとしたから, その時々の支配的な現実を妥当な現実 と みなすことにならざるをえなかっ たのである. 最後に彼は, 学問が妥当な現実について決断をくだしうると信 じていた そのことは, 彼が知識 . と信条, 事実と価値を混同していたことを示すとともに, 学問が彼の個人的信条を強化 し合理化す る役割を果たしたことを意味する. したがっ て, ナチズムが支配的な現実として姿を現したとき, それを妥当な現実として受けいれ る用意が, フライヤーにはすでに十分にあったのである. フライヤーの場合は, 状況へ積極的にか かわろうとする志向が, 結果的には状況に組みこまれることとなっ た例 である しかしその志向が . 純粋なものであったと考えられるだけに, 私は一つの悲劇という印象を禁じえないのである .. 註 ( 1 ) フライヤー著 阿閉吉男訳 『社会学入門』 昭和37年 (角i - 2 8頁 -文庫)2 ( 2 ) 三篇の原題, 発表年, 掲載誌は次の通りである.. Zur Bi l i dungskr i t seder Gegenwar e Erz ehung ,in:Di . ,1931 Di i i l tatal i e Un vers shohe Schu edesStaates e Erz ehung g ,in:Di .WI ,J Daspol i i t lagt ter--- Ein Vors ber Un iver i i sche Semes tat ch reform,1933 s s .. 第二論文については二つのことをのべておく必要がある. 一つは発表年が確定できなかったことである しか . し, 註( 8 )のリットの論文 ( 1 9 32年発表) に言及していることからいって, それ以後で1 9 33年より前の年 (すな わち1 l 93 2年)と推定される. いま一つはhoheSchu eの訳である, その語に対応する適当な表現が日本語にはみ あたらない. 高等学校hbhe l r eSchu eでないことはたしかである. しいて意訳すれば高等教育機関ということに なるのであろうが, それも適訳とは思えないので, やむなく原語をそのままつかうこととした . l dungskr i t 609 ( 3 ) Zu seder Gegenwar rBi . . ,S ( 4 ) 5 )a .a . ○. .618 . ,( ,S ○ S 6 2 3 a a .. . ,. . Di i l l t葱ta 534 e Uni vers shoheSchu edesStaates . . ,S 1 Vg H h h l t t d P l i i k i Di i t o c s u c eu n o n: e Erz ehung .TheodorLi . , , ,1932 i l tata Di 537 shoheSchul es edesStaat e Univers . . ,S. ( 6 ) ( ) 7 ( 8 ) ( 9 ). 529 l o ( ) a .a .○. . . ,S ○ S 677 ( n ) a a .. . . ,. ldungskr i ( 1 2 ) Zur Bi t 619 s eder Gegenwar . . ,S 1 D i U i i l ( 1 め Vg h h S h l t a t desStaa 689 tes e n e r s v a s o e c u e ・ . , ,S l i i 1 S ter 8 ( 4 ) Daspo t s cheSemes . . , 1 9 ( め a ,a . oり S . . 16 ( 1 6 ) a .a . ○. . . ,S O S 18 1 ( の a a ., . . , . 30 ( 1 8 ) a .a . ○. . . ,S S 33 0 9 ) a .a . ○. . ,,. (本学講師・函館分校). 11.
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